山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「葛城古道」北から南へ (その 1)

2014年10月28日 | 街道歩き

歴史の道「葛城古道」は、奈良盆地の西南端に位置する奈良県御所市にあり、葛城・金剛山系の麓を南北に結ぶ全長約15kmの道。天孫降臨の高天原、葛城王朝など、ミステリアスな古代史に包まれた場所。葛城氏・鴨氏・尾張氏・巨勢氏などの豪族の本拠地でもあり、道の周辺には、数々の神話が残り、古社・遺跡も多い。

大和盆地東の「山の辺の道」に対抗して,近年「葛城古道」として地元でもアピールに力を入れている。2014/9/14(日)、近鉄・御所駅から風の森峠まで、「葛城古道」のほぼ全コースを北から南へ歩くことにした。

 崇道神社  


御所駅から西方の葛城山の麓を目指して緩やかな坂道を歩く。葛城山ロープウェイ駅への車のコースとなっているので、時々車に出会う。道路脇に崇道神社への矢印が見えるので寄ってみることに。民家の間の細い道を50mほど入ると、大きな楠の木に覆われ、小さな古ぼけた神社が鎮座していました。神社より楠の巨木のほうが印象的でした。
入口の案内板によれば、光仁天皇(四十九代)の子で桓武天皇(五十代)の弟の早良親王は不遇の死を遂げる。その後、京の都に種々不幸や悪疫も流行すると、早良親王の祟りだと恐れられた。その怨霊を鎮めるため、即位もしていないのに「崇道天皇」の称号が与えられ、各地に崇道神社が建てられたようです。ここもその一つ。

 鴨山口神社(かもやまぐちじんじゃ)  


次に出会うのが鴨山口神社。
鳥居をくぐった正面は社務所です。社務所前の右手に二の鳥居があり、それをくぐると瓦葺きの拝殿がひかえる。拝殿奥に一間社春日造の本殿が覗き見える。
大和の各地に(畝傍山、耳成山など)山口神社が存在するが、ここが本社だと神社は自讃される。「山口」とは“山の登り口”を意味し、山口神とは、皇居舎殿造営のための用材を切り出す山に坐す神をいうそうだ。さらに山は水の源なので、雨乞いの神即ち水の神・農の神でもある。

 六地蔵(ろくじぞう)石仏から「葛城の道」へ  


鴨山口神社から葛城山へ向かってなだらかな坂道を歩き、県道30号線(葛城山の東斜面を南北に走る県道30号線は、別名を御所香芝線という。)を横断し上っていくと「六地蔵石仏」の巨石が鎮座する。
道路のほぼ中央にどっしりと腰を据える巨大な花崗岩は高さ 約2m、幅 約3mもある。伝承によれば、室町時代に葛城山が崩れ土石流が発生し、岩石がここまで流されたといわれる。こんな巨石がここまで流されてくるので、大災害だったんでしょう。人々は仏様にすがろうとし、六体の地蔵様を彫り込みお祈りした。
六体の地蔵様は仏教の六道を表し、向かって右から天上道(日光菩薩)人間道(除蓋障菩薩)修羅道(持地菩薩)畜生道(宝印菩薩)餓鬼道(宝珠菩薩)地獄道(壇蛇菩薩)だそうです。

「葛城の道」はこの石仏から左に折れる。真っ直ぐ進む道は、葛城山ロープウェイ駅への徒歩での近道になっている。
六地蔵の角には、「至 駒形大重神社 九品寺」「至 鴨山口神社」の標識が。また「近畿自然歩道」の標識も見える。ここから本格的な古道「葛城の道」が始まる。車道から別れ、葛城山の山裾を田畑の香りを浴びながらのんびり歩く。
山裾の道は、左に行ったり右に分岐したり、かなりややこしい。一本道ではないのです。要所には標識が設けられているとはいえ、かなり惑わされました。「葛城の道は 迷い道」です。ただ見晴らしは良いので、それなりの見当をつけながら歩く。

 九品寺(くほんじ)  



右には葛城山の山肌が迫り、左を見渡せば御所の街並みから、その先には大和三山・三輪山を含む大和の地が展開する。その昔、こちらの山裾には豪族・葛城氏が、向こうの山裾には天皇家の祖先が対峙し睨み合った時代もあったことでしょう。
駒形大重神社を過ぎ、山裾の道をヤマトの地を見渡しながら南へ歩くとすぐ九品寺です。9時35分。
小さいが趣のある山門をくぐると、参道の両側に「十徳園」という庭園があります。左側は中央に池を配した池泉回遊式の庭園となっている。右側の庭には多くの石仏が配置されている。これは西国三十三ケ所霊場の御本尊を模した石仏観音さんだそうです。
庭園に挟まれた短い参道の正面に石段があり、それを登ると本堂が控える。どの堂宇も新しい。平成に入ってから改築されたようです。正式名は「戒那山九品寺」と呼ばれ、戒那山(かいなやま)とは葛城山の別名です。
浄土宗の教えで”品”というのは人間の品格のことで、「上品・中品・下品」がある。またそれぞれに、「上生・中生・下生」の三段階に区別され、全部で九つの品があるとされる。人は現世の所業によって、来世の浄土の世界で九品のどれかに分けられる。そして九品それぞれに阿弥陀仏がおられるという。宇治の平等院には9体の阿弥陀が祀られているが、ここは「上品上生」の1体だけが祀られている。本堂に祀られている御本尊の木造阿弥陀如来坐像です。

九品寺が有名なのは「千体石仏」。境内や本堂の裏山に石仏群が並べられ、その数1600~1700体といわれる。本堂裏手から緩やかな細い坂道をツヅラ折れ状に登っていく。その坂道の片側にリリーフ状に浅く彫りこまれた小さな石仏群がぎっしり並び、参拝者をお迎えしてくれる。
石仏の並ぶ折れ曲がった坂道を登りつめると、樹木に覆われ薄暗くなった平地に出る。正面を見ると驚かされる。小さな石仏が何層にも階段状に積み上げられ、まるでピラミッドのようです。中央には階段が設えられ登ってゆける。その上の平地にもたくさんの石仏がお迎えしてくれます。墓場のようなおどおどしさは無いが、さりとて平常心でもいられない。石仏一つ一つの表情を見て回りたいという気持ちと、さっさとこんな場所から逃げ出したいという気持ちが錯綜する不思議な世界が展開します。周辺を覆っているのは楓でしょうか?。紅葉に覆われたこの世界は、またどんな気持ちにさせてくれるんでしょうか?。

千体石仏を背にして東方を眺めれば、本堂の瓦屋根越しに見える風景がなかなか良い。大和三山を含め古のヤマトの原風景が浮かんでくるようです。

次に目指すのは九品寺と葛城坐一言主神社の間にある綏靖天皇高丘宮跡。葛城山の山裾を、遠く大和三山、音羽山、高取山などを眺めながら南に向かって歩く。「この地は、大和三山が最も美しく見える」と看板が立っている。また「この一帯は、秋になるとコスモスの花が一面に咲き乱れます」とも書かれている。彼岸花(満珠沙華)でしょうか?、ヤマトの地に鮮やかな色合いを添えています。

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竹内街道ひとり歩き (その 6)

2014年10月12日 | 街道歩き

 堺市(長曽根町・黒土町)  


5/11(日)に葛城市長尾神社から歩き始めて、堺市金岡神社までたどり着いた。夕方六時を過ぎており、時間的にも体力的にも限界でした。しかし竹内街道は大小路交差点までとされている。心残りだったので、日を改め9月7日(日)、残りの部分を歩くことに。地下鉄御堂筋線「なかもづ駅」を出て、前回の終了地点・御旅所近くまで来た。朝9時半です。

金岡神社御旅所前の広い通りから西側に入る道は何本かある。さてどの入口から西に向かっていいものやら。竹内街道の入口を探しウロウロするが、見つからない。周辺の喫茶店、ガソリンスタンドで尋ねるが知らない様子。かなりご年配のお婆さんがやってきたので尋ねると、「そこの道よ、竹内公園がすぐ出てくるワ」と教えてくれた。「SEKISUI HOUSE」の看板のある白い建物の角を西に入る。道標も案内も何もなければ、街道らしき雰囲気もない。「竹内街道1400年プロジェクト」と何なんでしょうか?。10時をまわっていました。
入口から200mほど行けば「長曽根竹之内公園」があった。「歴史の道」という案内板がおかれ、竹内街道が紹介されている。周辺は新興住宅街で、一軒家が建ち並ぶ。この道が竹内街道だと知らないで暮らしている人も多いのではないでしょうか。日曜日だというのに、街道ウォーカーもいなけれだ、散歩する人も見かけない。カメラを持って歩いている俺が異様に感じられてしまう。


地図を見れば、街道から北に少し外れた住宅地の中に長曽根神社があります。ここは長曽根町なので、町内の氏神を祀っているのだろうか。立ち寄ってみることに。
神社の詳しい由来などは不明ですが、明治末に神社合祀策により金岡神社に合祀されたが、戦後に地元に戻されたそうです。社務所はなく、地域の人達が管理しており、そういう意味でこれが本当の「氏神」さんでしょう。

この神社の境内にも何本かの楠の巨木が覆いかぶさっている。鳥居を入って左側の楠の木には「堺市保存樹木指定、樹高25m、幹周り4.12m」の石柱が建つ。

 堺市(向陵町)  


黒土町から向陵町に入る。住宅地の狭い車道を歩く。ほとんど車も人も見かけない。街道の雰囲気などないが、のんびり歩ける。やがて正面にマンションらしきビルが立ち塞がる。左側の道を覗けば「35号線、向陵東町」の道路標識が見え、車の往来が激しく、歩けるような道ではない。右側は35号線の裏通りっぽく、車も通っていない狭い一般道。頼るはカンのみ、こちらを選ぶ。こういう場所にこそ案内標識を設置して欲しいものです。

この道でいいのかナ?、と疑心暗鬼で歩いていると、やがて正面に広い大通りが見えてきた。「大坂中央環状線」です。竹内街道はここで大通りに合流し、合流地点には「竹内街道」の道標識と案内板が設置されている。

向陵中町の広い横断歩道を渡り、中央環状線沿いに進むと「ほそいけばし」と刻まれた橋が現れる。橋下を覗き込むと、電車が見える。そこはJR阪和線の「三国ヶ丘駅」でした。次の目的地・堺市役所目指して中央環状線沿いを歩く。交通量の多い騒々しい幹線道路だが、広く整備された歩道が設けられているので、歩きやすい。

やがて中央環状線は広い向陵西町交差点にでる。道路が縦横に枝分かれしているので”どっちへ行ったらええネン!”と困惑する。手持ちのマップも茫漠とした書き方なので、ハッキリしない。右斜め前方に堺市役所の高いビルが見える。あっちの方向へ行けば間違いないだろうと、広い横断歩道を横切ると、交差する道路の間に整備された遊歩道のような道が見える。その入口に「歴史のみち 竹内街道」の標識が設けられていました。道の奥には堺市役所が手招きしている。なお、この交差点のすぐ南側には、日本一の大きさを誇る前方後円墳「仁徳天皇稜」があるが、ビルに遮られて見えなかった。

 堺市(榎元町)  


竹内街道入口から榎元町の横筋に入れば、やっと大通りから解放され、街道らしくなってきた。太子町ほどではないが、カラー舗装され標識も設置されている。一本道なので迷うこともない。迷ったら堺市役所の高いビルを目指して歩くだけ。

天平15年(743)聖武天皇発願で行基によって創建されたと伝えられる向泉寺の史跡「向泉寺閼伽井跡」を過ぎると、竹内街道と西高野街道の分岐点で、道標が建てられている。写真は振り返って撮ったもの。左が今歩いてきた竹内街道、右が西高野街道で高野山へ向かっている。二つの街道を写真を見比べると、自治体の力の入れようが歴然としている。やはり「1400年プロジェクト」ですネ。

角に置かれた説明版には「西高野街道は堺から紀州の霊場・高野山に向かう信仰の道です。高野詣でが盛んだった平安末期から鎌倉初期にかけては船で堺に上陸した西国の人たちで賑わい、物資輸送にも盛んに利用されました。基点は堺の大小路で、河内長野で中、東の両高野街道と合流します」とある。また近くには地蔵堂があり、その横に「高野山女人堂十三」と刻まれた石柱が建っている。女人堂まで十三里を表します。
ここから西の大小路までは竹内街道も西高野街道も同じ道のようです。この辺り、高野山へ向かう人、長谷寺・伊勢詣での人々で賑わったのでしょうね。

 堺市役所から大小路へ  



竹内街道の目印の一つ「榎宝篋印塔(えのきのほうきょういんとう)」を過ぎ、数分歩くと堺市役所と手前の踏切が現れる。堺市内で街道らしく整備された道は、ここまでです。踏み切りを渡ると南海電車・堺東駅のある堺市一番の繁華街。その駅前にそびえ立つ堺一のノッポビル(と思う・・・)堺市役所がそびえる。

今日は日曜日なので役所はお休みだが、21階展望ロビーは無休で開放されている(9:00~21:00)。360度パノラマ展望ができます。日本で最大の前方後円墳・大仙陵古墳(仁徳天皇陵)、三番目の上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)、八番目の土師ニサンザイ古墳(陵墓参考地)を含む「百舌鳥(もず)古墳群」が眼下に一望できる。
ボランティアらしき年配ガイドさんが二人いて、展望しながら案内しておられました。軽い食事や喫茶もあり、休憩するのに格好の場所です。その割りには閑散としていた。



12時10分堺市役所を出て、市役所前の大通りを大小路交差点目指して西へ歩く。街道を意識してか、やたら広い遊歩道が設けられている。「大小路シンボルロード」または「大小路筋(おおしょうじすじ)」と呼ばれる大通りで、毎年10月の「堺まつり」では大パレード会場として賑わう場所です。

大通りから南側(左)に入った所に、住吉大社ともゆかりが深い開口神社(あぐちじんじゃ)があります。すぐ傍なので寄ってみることに。
神社近くの路上には、白法被姿の若者達がたむろしている。聞けば、毎年9月中旬に行われる秋の例祭「八朔祭(はっさくまつり)」の最中らしい。今日は名物「ふとん太鼓」宮出しの最終日らしい。
布団太鼓(ふとんだいこ)とは大阪府河内・泉州地方や、兵庫県播磨・淡路その周辺の各神社の祭礼で担がれていた大型の太鼓台。ふとん太鼓の五枚の座布団は神様が座るところといわれ、厚みが下から上に順に厚く大きくなっている。
元々堺の祭礼は「だんじり」の練り回しが中心だったようですが、明治二十九年のだんじり騒動(道を譲れ!、譲らぬ!のだんじり同士の大喧嘩で死傷者がでる)が原因で、これ以後の堺市での練物曳行は一切禁止となったという。その後、布団太鼓の練り回しとして復活したようです。座布団ならぶつかり合っても危険は少ないからでしょうか?。
「ふとん太鼓」宮出しは午後三時から行われるというが、それまで待っていられない。12時半、開口神社を後にする。
開口神社から大通りに出て、西に少し歩けばそこが大小路の交差点です。広い道路が縦横に交差している。さっきまで堺市役所から歩いてきた道が「大小路シンボルロード」または「大小路筋(おおしょうじすじ)」と呼ばれる大通りで、大小路交差点からさらに西に伸び、南海本線堺駅までつづいている。この道がかっての竹内街道や西高野街道といわれ、ここ大小路交差点が街道の起点とされる。

縦(即ち、南北に)に走る大通りが府道197号線で、「大道筋」とも呼ばれ、かっての「紀州街道」にあたる。幅50mの中央には、大阪で唯一残る路面電車、チンチン電車で親しまれている阪堺電車が走っています。
この大道筋を大小路交差点から南に100mほど行けば、歌集「みだれ髪」などで知られる女流歌人・与謝野晶子(1878~1942年)生家跡がある。生家跡といっても実際の生家は、現在のこの大通りの中央にあったようです。第二次大戦で焼け野原になり、戦後の道路拡張で跡形もなく消え去っている。傍の大道筋沿いに歌碑と案内板が設置されているだけです。紀州街道に面した裕福な老舗菓子屋・駿河屋の三女として誕生し、明治33年(1899)与謝野寛(鉄幹)と出会い結婚し上京する翌年までの23間、ここで過ごしていた。
歌碑には晶子26歳の時の歌
「海恋し潮の遠鳴り数えつつ
   少女となりし父母の家」
と刻まれている。当時はここまで潮騒の音が聞こえたのでしょうか。現在は、海岸線まで1キロ以上ありますが。
ここからさらに南に100mほど行けば堺が生んだもう一人の偉人・千利休の屋敷跡があるが、今回は堺の名所巡りではないので別の機会に。

1時8分、与謝野晶子生家跡を踏み越えてやって来たチンチン電車に乗って帰ります。

詳しくはホームページ

竹内街道ひとり歩き (その 5)

2014年10月02日 | 街道歩き

 野中寺(やちゅうじ)  



竹内街道から北に100mほど外れるが、府道31号線に面して野中寺が建っている。

聖徳太子建立48寺院の一つとされ、「上之太子」叡福寺(太子町)、「下之太子」勝軍寺(八尾市)とともに「河内三太子」の一つで、「中之太子」と呼ばれ有名です。寺の伝承では、蘇我・物部の戦いで蘇我側につき参戦していた厩戸皇子(後の聖徳太子)が、休息をとったこの地に、その後太子が蘇我馬子に命じて建立させたとされている。ちなみに勝軍寺は決戦の行われた場所、叡福寺は太子が眠っている場所です。
寺伝の蘇我馬子創建説に対して、渡来系氏族の船氏の氏寺として建てられたという説が有力になっている。中世以降に盛んになる太子信仰のなかで、聖徳太子と結びつけられるようになったのではないかといわれている。
 
朱塗り鮮やかな山門をくぐると、境内が広がる。飛鳥時代~奈良時代前半には、現在よりは大規模な伽藍が存在したようだ。南から南大門、中門があり、それに続いて西側に塔、東側に金堂が並び、正面北側に本堂・講堂を配置するという法隆寺式伽藍配置だったようです。ただし法隆寺と違い塔と金堂が向かいあっており「野中寺式伽藍配置」とも呼ばれ、国の史跡に指定されている。その後、戦火などにより多くを失い、創建当時の広い伽藍も、現在は境内参道の右手に金堂跡、左手に塔跡の礎石が残されているのみ。
境内の正面には本堂が佇む。この本堂の位置は、創建当時の旧講堂が建っていた場所だそうです。本堂はそれほど大きくないが、桁行五間、本瓦葺の落ち着いた構え。本堂正面には幔幕が張られ、人だかりがしている。聞けば、15分後の4時から餅まきが行われるそうです。グッドタイミングで訪れたものです。それまで境内を散策することに。

境内奥に、広い野中寺霊園がある。この霊園の中には,心中事件で歌舞伎・浄瑠璃にもなった「お染久松」のお墓があります。墓名石が立っていなければ分からないほどの、慎ましやかなお墓です。それでも墓参する人が絶えないせいか、新しいお花がたくさん供されていた。

豪商油屋の一人娘お染と丁稚久松が道ならぬ恋のはてに心中するという悲しい物語は歌舞伎・文楽浄瑠璃で演じ続けられ、お馴染みです。お染の父親天王寺屋権右衛門が十三回忌にあたる、享保7年(1722年)に二人のために建てたお墓。古色蒼然とした墓碑の表面には戒名「宗味信武士 妙法信女」が、裏面には「享保七年十月七日 俗名 お染 久松 大坂東掘 天王寺屋権右衛門」と刻まれている。なお、お染久松の供養塚は野崎観音(慈眼寺、大阪府大東市野崎2丁目)にもあります。
一通り境内を散策し、餅まきが始まる時刻なので本堂前に戻る。かなりの人が集まっているが、四時だというのに始まらない。地元風のおじさんに尋ねると「例年に比べ人の集まりが悪いので様子を見てるんでしょう」とのこと。ビニール袋を片手に、ご近所の人が集まってくる。四時十五分、いよいよ開始。壇上から一斉に、白紙に包まれた餅が投げ上げられる。うわ~という歓声とともに、背伸びして空を飛ぶ餅をキャッチしようとする人、ひたする地面を拾いまくる人など、騒然としてきた。私は冷ややかな目線で、この争奪戦の様子を写真に撮ること専念。横の「ヒチンジョ池西古墳の石棺」の台上で眺めていたが、やがて冷ややかではいられなくなった。ヨッし俺もと争奪戦の中へ参戦していった。飛んでくる餅を、誰よりも早くキャッチしようとジャンプするが、空をつかむばかり。それではと地面の拾いに専念する。ヨッし取れたと思ったら、横から素早く手が伸びかっさらわれる。地元の方は慣れているせいか素早く、まるでカルタ取りダッシュで引ったくり、ビニール袋の中に放り込んでいく。それでも辛うじて四個拾いカバンの中へ入れました。
例年は、取り合いが激しいので男女を分けて行っていたそうです。今回は集まりが少ないので、まとめてやったんでしょう。この餅まきって一体何の行事なんでしょう?。帰宅後ネットで調べたがよく分からない。聖徳太子のお墓がある叡福寺では、毎月11日にお太子さま月並法要が行われるという。これと関係あるんでしょうか?。

 羽曳野市西部から松原市へ  


野中寺を出て、羽曳野市西部を松原市目指して歩く。この辺りの街道沿いには古跡は無く、ただ住宅地が続く。竹内街道の面影は全くありません。高い金網フェンスが廻らされた「落ケ池」の横を進み、下町の込み入った市街路を歩く。ウォーカーが好んで歩くような場所ではない。学童もかわいそうです。しかしこれも竹内街道の一部なのです。

東除川に架かる伊勢橋を渡ると、10分ほどで「羽曳野市立 丹比コミュニティセンター丹治はやプラザ」です。地域の憩いと交流のための施設で、傍にはものものしく「官道第一号竹内街道」の真新しい道標が建つ。どこもかしこも世界遺産登録ブームのようです。大阪府と関係自治体は世界文化遺産登録をめざした運動を進めたが、平成25年8月に開催された国の文化審議会世界文化遺産特別委員会では推薦は見送られた。当然である。宮内庁の頑な態度により、内部が解明されていない遺産が、世界遺産に登録されるはずがない。「古墳の一つ一つがかつての日本の姿を今に伝える貴重な歴史遺産であり、日本の歴史の1ページを語る世界的な遺産でもあります」(堺市の公式HP)、「古墳は、日本史上において重要であるだけでなく、人類の歴史や社会を考える上でも極めて高い意義をもつ歴史遺産であり」(大阪府HP)。世界文化遺産登録よりもまず、内部の発掘調査により日本の歴史の1ページを解明し、高い意義をもつ歴史遺産にしてほしいものだ。

新ケ池を過ぎると、下町の工場地帯に突入する。今にも作業車が横から出てきそうです。できることなら避けて通りたい地域。工場地帯を抜けると今度は交通量の激しい府道31号線が待ち構え、その先では関西産業の大動脈である幹線道路「近畿自動車道」を越えなければならない。越えた先が松原市になる。この辺りは竹内街道で最悪の場所です。街道でなくてもよいから、迂回路でもあれば避けて通りたいが、それも無いようです。

近畿自動車道を抜けると、ようやく工場と車から解放され、住宅路になる。所々に、あの太子町でよく見かけた「竹内街道」と書かれた花壇が置かれている。しかしあの太子町ほどの熱意は感じられず、街道の雰囲気は無い。
しばらく行くと松原南図書館に出会う。その前が十字路になっており、古い石の道標が置かれている。

  右 ひらの 大坂 道
  左 さやま 三日市 かうや 道
 (逆の面には)
  左 さかい道
  寛政九年丁巳五月 いせこう中

傍の説明版には
「竹内街道・中高野街道の寛政九年道標
岡四丁目の現在地は、江戸時代、丹北郡松原村岡で、堺と大和とを結ぶ竹内街道と、京・大坂から狭山を経て高野山(和歌山県)へ向かう中高野街道(なかこうやかいどう)の分岐する所でした」とある。

 金岡神社(かなおかじんじゃ)  


松原市の岡公園を過ぎるとすぐ西除川に架かる西除橋に出会う。橋を渡るといよいよ最後の堺市です。
町工場や住宅が混在する堺の下町を歩く。この辺り、竹内街道を知らせる道標も案内図も何もありません。頼るのは手持ちの地図とカンだけ。時々、この道でいいのかナ?、と不安になります。時刻も五時半になり、夕陽もさしてくる。
目印の金岡中央病院を過ぎると、大阪府営の広大な大泉緑地が見えてきた。地図をみるとデッカイが、緑地沿いの道を歩けばそれ以上に大きく感じる。歩けど歩けど端にたどり着けない。次の目的地・金岡神社を目指すが、どっちの方向か判らなくなってきた。犬と散歩中の人に尋ねると、方向違いへ歩いていた。緑地沿いの道を直進していたと思っていたが、実際は緩やかなカーブを描いた曲線の道を歩いていたのです。あまりに広大な緑地なので、曲線を直進と錯覚していた。西へ行くところを、北へ向かっていたのです。金岡神社の方向を教えてもらい方向転換。竹内街道から大きく外れてしまった。

六時過ぎ、回り道をしてようやく金岡神社にたどり着く。街道ひとり歩きもここまでです。

案内板より
「当社の起源は、仁和年間(885年頃)と伝えられ、住吉三神、素戔鳴命、大山昨命などの神々に加え、平安時代前期の絵師・巨瀬金岡(こせのかなおか)をお祀りしています。社名の由来でもある巨瀬金岡は、日本画の祖とも言われ、唐風の絵画が主流だった当時に、日本独自の絵(やまと絵)の基礎を築いたとされる人物です。この辺りは、優れた絵や彩色などの技術を持つ河内絵師と呼ばれる人々が住んでおり、金岡はその中でも最高の位を極めました」とある。
この地域は、町名も駅名にも”金岡”が付く。そこにある神社なので「金岡神社」だと思っていた。どうもそうではなく、神社名も地名も平安時代の絵師の名前からきているようです。

両側に狛犬がにらむ紅い鳥居をくぐると、広くはない境内の正面に拝殿が控える。拝殿前左右には、樹齢900年と推定される御神木の楠の巨木が覆い、神社の風格をさらに増している。左側の楠は、高さ18m、幹周り6.1mもあり、堺市指定保存樹木に指定されている。

金岡神社の南側に、カラー舗装され整備された竹内街道が見えました。私は道を間違え、北側を大回りして神社へたどり着いたので、結局大泉緑地から金岡神社までは竹内街道を外れたことになる。距離にして3~4百mだが、歩き直す元気もありません。
この金岡の地は古来重要な地域だったようです。難波宮や四天王寺から真っ直ぐ南下する「難波大道」が、ここで竹内街道と交差し、東へ行けば大和から伊勢へ、さらに南下すれば高野山、紀伊方面へ行けます。

陽も翳ってきた。竹内街道を完歩できなかったが、金岡神社まで歩いたことに満足して、地下鉄御堂筋線の「なかもず駅」へ向う。その途中、またデッカイ楠の巨木に出会う。マンションや建売住宅と幹線道路との間の狭い一角で、「楠塚公園」と表示されている。
帰宅後調べると、この場所は「金岡神社御旅所(おたびしょ)」だったようです。正式名は楠の巨木の傍の石碑に刻まれている「金岡神社 頓宮・西之宮」。頓宮とは、お祭の時、ご神体を乗せた御輿で氏子の家々を廻る時に、一時的に休憩する場所をさす。金岡神社の西にある宮で、ご神体さまが御旅の途中にちょっと休息する所、という意味。

楠の木は、高さ18m、幹周り6.1mで、金岡神社のものと同じくらいの巨大さ。根元は竹柵で囲われている。これは昭和47年(1972)に火災に遭い、大きな空洞が出来たため、それを隠すためらしい。
なかもず駅に着いたのは18時40分でした。

詳しくはホームページ