山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 3(哲学の道1)

2024年04月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 南禅寺を出て、哲学の道へ向かいます。

 哲学の道 1(熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ))  


南禅寺を出て、これから哲学の道へ向かいます。南禅寺境内を北側に抜けると、一車線の車道が通っている。「鹿ケ谷通(ししがだにどおり)」と呼ばれ、哲学の道に沿って銀閣寺まで続いています。珍しく車道に山門がかかっている。南禅寺境内図を見れば、この辺りも境内になっているので、南禅寺の門でしょうね。
奥に見える白い建物は、明治元年創立で浄土宗系の私立男子校「東山中学校・高等学校」。スポーツで有名で、岡島秀樹(プロ野球:巨人)、鎌田大地(サッカー)、髙橋藍(バレーボール)など著名スポーツ選手を輩出する。甲子園で雄姿を見たい。

しばらく行くと右手に「もみじの永観堂」と賞賛される堂宇が見えてくる。正式寺名は「禅林寺」だが、中興の祖とされる第七世永観律師(1033-1111)の時に大きく発展したので、現在でも「永観堂」と呼ばれています。ここの紅葉は文句なしに京都一だ(ココを参照)

永観堂から少し行くと、右へ入る道の角に一本の樹木と標識があり、哲学の道へはここを入って行く。目印や標識が無くても、人の流れに身を任せて行けばよい。ほとんどの人が哲学の道へ行く人、来る人なのだから。300mほどの緩やかな坂道で、両側には洒落たお店が並ぶ。


坂を登りきると、哲学の道の最初の橋「若王子橋(にゃくおうじばし)」があり、ここが哲学の道の南側のスタート地点になる。橋を渡った先が熊野若王子神社なので寄ってみます。



熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)は、熊野信仰に厚く、生涯34回も熊野詣をした後白河法皇が、永暦元年(1160)に熊野権現を勧請し禅林寺(永観堂)の鎮守社としたことに始まる。
京都には「京都三熊野」といわれる神社があり、それぞれ新熊野神社は熊野本宮大社、熊野神社は熊野速玉大社、熊野若王子神社は熊野那智大社というように熊野三山に対応している。上皇をはじめ修験者は熊野詣に出かける際、若王子神社に寄り背後にある滝(那智の滝を表している)で身を清めてから熊野へ出発したのです。
応仁の乱で荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、江戸時代には修験道の本山で門跡寺院の聖護院に属した。明治時代になり神仏分離令より聖護院より離れ現在にいたる。



境内入口の階段脇に、樹齢400年で京都府で最も古い御神木の梛(ナギ)の木がある。倒木の恐れがあったため、平成29年(2017)に見てのとおりの姿にされてしまった。梛の木は、縦方向に多くの平行脈をもち、強靭で光沢がある。そのため、熊野詣などで苦難から守ってくれる縁起のよい植物とされた。神木として神社に植えられることがおく、熊野地方では神木とされていた。




右が、国常立神、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照皇大神の四神を祀る本殿。社名「若王子神社」は、天照皇大神の別名「若一王子(にゃくいちおうじ)」にちなむものです。もともと本殿は、本宮、新宮、那智、若宮の四棟で構成されていたが、昭和54年(1979)に一社相殿の形にまとめられた。左は恵比須社。





社務所に八咫烏の絵馬が販売されている。八咫烏(やたがらす)が梛の葉をくわえるマークはこの神社のシンボルだそうです。



境内の横に階段が設けられ、10分ほどかけて裏山へ登ると広場「桜花苑(おうかえん)」に出る。赤色に近い濃いピンク色の桜が咲き、数十本の桜木が乱立する。地面には絨毯のように花弁が敷き詰められている。もう満開を過ぎてしまったのでしょうか。
「陽光桜(ヨウコウザクラ)」の説明版が立っています。「戦前、愛媛県下で青年学校の教員となり、教え子たちを出征させた高岡正明さん(1909-2001)が、戦病死した教え子らの鎮魂と平和を願って作出した桜です。落命の地となったアジアなどの寒暖差の多様な気候に適応し、海外でも人目につく濃いピンクの一重咲き桜が三十年がかりで誕生。陽光の花には「美しい桜を見れば、人類は争う気にならない」との期待・・・」と書かれています。

階段の横をさらに奥へ行くと、熊野御幸の際に身を浄めたとされる「千手の滝」があるのだが、時間と体力を考えパス。さらに同志社創立者の新島襄と八重のお墓もあるという。

 哲学の道 2(大豊神社)  



熊野若王子神社前の若王子橋を哲学の道の南側のスタート地点とし、ここから北へ伸び、銀閣寺のある銀閣寺橋までの約1.5kmの遊歩道を「哲学の道」と呼んでいます。遊歩道に沿って約450本の桜が植えられ、もはや死語となりつつあるお堅い「哲学」の語とは対照的に、華やいだ雰囲気を醸し出している。

明治23年(1890)に琵琶湖疎水工事が完成した。その時、疎水は蹴上から分流され、南禅寺水路閣を通って北へ向かって流された。高野川をくぐり、さらには賀茂川へ続いているのです。この道は、疎水分線のの流れに沿って続く管理用道路として設置されたもので、芝生が植えられている程度の小径だったという。

明治時代、この近辺に多くの文人が移り住んでいたため「文人の道」と呼ばれていた。また京都大学にも近く、西田幾太郎(きたろう、1870-1945)、田辺元、河上肇などの学者が、思索を巡らせながら散策していたことから、「散策の道」「思索の道」「哲学の小径」とも呼ばれるようになっていった。
戦後、地元の方たちによって保存運動が進められた。そうした中で京都市により散策路として整備され、昭和47年(1972)に「哲学の道」が正式名称とされたのです。

「大豊橋」です。名前のとおり大豊神社へ通じている。

大豊神社(おおとよじんじゃ)の創建は、仁和3年(887)、宇多天皇の病気平癒のために尚侍藤原淑子が東山三十六峰の第十五峰目にある椿ヶ峰に、医薬の神である少彦名命を祀ったのが始まりである。また、宇多天皇の信任の厚かった菅原道真公も合祀されました。寛仁年間(1017 - 1021)に椿ヶ峰から現在地の鹿ケ谷へと遷され、後一条天皇から大豊大明神の神号を賜わり、以来この地域一帯の産土神として祀られている。南北朝の戦いや応仁の乱で焼失するが、その都度再建されました。

大豊神社公式サイト「京都哲学の道の「狛ねずみの社」として全国より多くの参拝者を迎える今日となりました。」

写真に見えている範囲が、神社境内のほぼ全て。正面が拝殿で、その後ろに本殿がある。背後の山が「椿ヶ峰」で、その名の通り、古くから椿の木が多く自生していた。神社も椿の名所として知られ、境内各所に椿が咲き誇っています。
写真右の椿の大木は、「大豊八重神楽」と命名された樹齢400年の銘木。本殿に覆いかぶさるように咲く枝垂れ桜は、円山公園の桜の3代目だそうです。



少彦名命、応神天皇、菅原道真を祀る本殿。医薬の祖とされている少彦名命にちなみ、社殿前には治病健康長寿・若返り・金運の象徴である「狛巳」が鎮座しています。私はヘビが大嫌いだが、紅白の椿で着飾ったこの巳は愛くるしくていい。





本殿右には、五穀豊穣、商売繁盛の稲荷社があります。稲荷神の使いがきつねなので、社の両脇に「狛きつね」が建つ。このキツネさんは額に椿を載せているが、右のキツネは咥えている。








さらに右手に大国社。大国主命がネズミに助けられたという神話から、椿の髪飾りをした「狛ねずみ」が置かれている。右の狛ねずみは巻物を抱え、学問に御利益があり、左は水玉を抱え、子授け・安産に御利益があるという。「狛ねずみ」は全国でここしかなく、ねずみ年の正月にはメディアに取り上げられ、初詣客で長蛇の列になるそうです。


本殿左側には愛宕社と日吉社が一つ屋根の下に並ぶ。愛宕社は火伏せ(防火)の守護神を祀り「狛鳶(とび)」が、日吉社は本殿の北側鬼門除けで「狛猿」を置く。

大豊神社は動物に優しい神社です。

大豊神社から哲学の道に戻り、さらに北へ歩きます。

小径に、そして小川に覆いかぶさるように約400本の桜が並びます。ほとんどがソメイヨシノですが、八重桜、ヤマザクラも一部あるようです。右手には、雪柳も彩りをそえてくれている。

哲学の道の桜は「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれています。これはこの道に桜が植えられるきっかけになったことからくる。
近くに居を構えていた神戸市生まれの日本画家・橋本関雪(1883-1945)は、長年活動の場を与えてくれた京都市に報いたいと妻・よねに相談した。よね夫人は桜を植えてはどうかと発案、その結果大正10年(1921)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのです。それがこの小径沿いに植えられ、桜並木となった。当初の木が老い果てると順次植え替えられ、現在の景観となっていったのです。

哲学の道に沿って流れる川には、大小30ほどの橋が架けられています。幅が狭く、テスリもない簡素な橋が多く、川向うのお店、住居へのために設けられたもののようです。名前の付いたしっかりとした橋は3分の1くらいでしょうか。これら大小の橋は哲学の道の良いアクセントになっている。歩を止め橋で一服し、桜を見上げ、そして川面を見下ろすと、そこにもまた桜が咲いています。橋は、桜と小川を撮る格好の場所となっているのです。




ホームページもどうぞ

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 2(南禅寺)

2024年04月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
金地院のすぐ傍が南禅寺。三門、法堂、水路閣、方丈を巡る。南禅院は修理中のため拝観停止でした。

 三門  



金地院から南禅寺の参道に戻ると、目の前に南禅寺の勅使門(重要文化財)と中門が見えている。
南禅寺公式サイトに「勅使門は、寛永18年(1641)明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。古くは天皇や勅使の来山の折に限って開かれる門でした。現代では住持の晋山に限って開かれています。その勅使門の南にある中門は、慶長6年(1601)松井康之より、伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたものです。日の御門の拝領に伴い現地に移建され、幕末までは脇門と呼ばれていました。」とあります。

秋を思わせる情景ですね。南禅寺は春よりも秋の紅葉の方が映えます。

(境内図は公式サイトより)中門を潜り境内に入る。真っすぐのびる参道の突き当りが方丈で、その参道の右手に水路閣、左手に三門、法堂があります。

★★~ 南禅寺の歴史 ~★★
鎌倉時代、この地には亀山天皇が文永元年(1264)に造営した離宮の「禅林寺殿」があった。名前は近くにあった禅林寺(永観堂)に由来する。出家して亀山法皇となり禅林寺殿を、正応4年(1291)に開山を無関普門(大明国師)として寺に改め、「龍安山禅林禅寺」と名付けた。これが南禅寺の創建です。さらに正安年間(1299 - 1302)に「太平興国南禅禅寺」(たいへいこうこくなんぜんぜんじ))という寺号に改めた。これが現在まで南禅寺の正式名称です。南禅寺は、京都・鎌倉の禅刹「五山」の最上位に位置づけられ、別格として「五山之上」とされた。

その後、二度の火災(1393年、1447年)、さらに応仁元年(1467)に始まった応仁の乱により伽藍をことごとく焼失し、衰退していった。南禅寺の復興は、第270世住職となった以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)によって行われた。鷹ケ峯にあった金地院を南禅寺境内に移して居住し、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努め、三門、法堂や大方丈、小方丈、庭園などが造られていった。
明治時代になると、上知により境内は3分の1ほどに減らされ、塔頭も半分以下に減ってしまった。それでも主要伽藍は残され、現在では京都でも有数の観光名所となっている。平成17年(2005)、南禅寺境内全体が国の史跡に指定されました。

三門は永仁3年(1295)に西園寺実兼の寄進によって創建されたが、文安4年(1447)の南禅寺大火で焼失。現在の門は、以心崇伝による南禅寺復興時の寛永5年(1628)に、津藩主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進再建したもので、別名「天下竜門」と呼ばれる。
公式サイトに「三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです」とあります。

構造は「五間三戸二階二重門」(?)、入母屋造、本瓦葺で高さ約22メートル。両側に山廊をもつ。知恩院・久遠寺(山梨県)とともに「日本三大門」、知恩院・仁和寺とともに「京都三大門」とされる。国の重要文化財。

太く、重量感のある円柱に圧倒される。何本あるんだろう。高くてデッカイ敷居は、おばあちゃんが跨ぐのは大変だ。腰掛けて美しい境内を眺めるのにはちょうど良いが。


三門の斜め前に大きな石灯籠が置かれています。寛永5年(1628)の三門落慶の際に佐久間勝之が供養のために奉納した石灯籠で、俗に佐久間玄藩の片灯籠と呼ばれている。高さは6メートルあり、三門があまりにデカイので目立たないが、東洋一の大きさです。

南側の山廊に階段が設けられており、二階に上がることができる。山廊内に受付(拝観料600円)があり、履物はビニール袋に入れ持って上がる。傾斜45度の急階段で、両側のロープを頼りに、這うようにして登ります。

「五鳳楼(ごほうろう)」と呼ばれる楼上は四周が廊下で囲まれ、東西南北全方向を眺めることができます。しかし楼上内陣は塞がれ見ることは出来ない。ただ正面に一過所だけぞき窓が開けられ内陣を見ることができる。撮影禁止なので、公式サイトから紹介すると「山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。」とあり、内陣写真も掲載されています。

絶景かな、と叫びたいのだが、樹木に遮られ京都市内が少ししか見えないのが残念。大泥棒・石川五右衛門がこの三門上で見得を切り「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは小せえ、小せえ」といったセリフが有名です。しかし五右衛門は三門が建てられる30年前の文禄3年(1594)に捕らえられ、京都三条河原で子とともに釜ゆでの極刑に処せられている。歌舞伎「楼門五三桐」の芝居上の演出にすぎません。

反対の山側に周ると、春と秋が同時に訪れたようで、絶景かな、絶景かな。正面に見えるのは法堂です。

 法堂(はっとう)  



三門を降り、法堂へ向かう。三門と法堂を真っすぐ結ぶこの道が、私にとって南禅寺で一番お気に入りの場所です。春の桜、夏の新緑、秋の紅葉と四季ごとに彩りを変え、派手さは無いが何か落ち着きを与えてくれる参道です。後ろに三門がそびえ、緩やかな坂道を歩きながら振り返るごとにその表情を変えてみせてくれる。

南禅寺の中心となる法堂(はっとう)は法式行事や公式の法要が行われる場所。創建当時のものは、応仁、文明の乱で焼失したが、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建された。しかしこれも明治28年(1895)にこたつの火の不始末で焼失した。現在の建物は、明治42年(1909)に再建されたもの。

堂内には入れず、また外から見ることもできない。ただ径10センチほどの丸穴が開けられ、そこから覗き見れるようになっている。カメラを突っ込み撮ってみました。床は一面の敷瓦で、正面須弥壇上には中央に本尊の釈迦如来坐像、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置している。天井には明治から大正にかけて活躍した画家・今尾景年による幡龍が描かれている。


 水路閣(すいろかく)  



左が法堂、正面の白壁は方丈への入口になる庫裏、右の小橋を渡れば水路閣へ。
禅宗様式の伽藍配置は、勅使門、三門(山門)、法堂、方丈が一直線になっている。勅使門と三門の間に池が置かれることも多い。

初めて見た時、お寺にコレはなんだ!、と非常な違和感を覚えたものです。しかし何度か訪れて見ているうちに、古さび渋くなったレンガ構造物が周囲の環境にとけ込み違和感は感じなくなった。ピカピカのレンガでないのが良い、周りが庭園化されてないのが良い。木立越しに佇む水路閣のある一帯は、南禅寺境内だということを忘れさせてくれる異空間となっている。

「水路閣(すいろかく)」の名称で、今では有名な観光スポットとなっている。南禅寺を訪れて、三門を見上げこの水路閣で写真を撮っただけで帰る人が多い。特に古さびたレンガ造りのアーチ橋を背景に、着物姿で撮った写真が映えるそうです。
平成8年(1996)に日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。
琵琶湖疏水の分水を北へ流すため「当初は塔頭南禅院の南側にトンネルを掘って水路にする予定であったが、それでは南禅院にある亀山法皇廟所の裏を通ることになり、南禅寺が反対した。そのために現在の形を取ることになった。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声も上がった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。」(Wikipediaより)。
設計・デザインしたのは琵琶湖疎水工事の主任技師だった田邉朔郎で、明治23年(1890)に完成した。全長93.2メートル、高さ約9メートル。
当時景観論争がわき起こり、苦悩した田邉朔郎がだした結論が、古代ローマの水道橋を思わせるレンガ造りのアーチ橋だったのです。

この通し穴が絶好の撮影スポットだが、邪魔が入るのでなかなか難しい。橋を潜った先に階段が見え、登ると水路閣の上面が見られ、また蹴上インクラインへの近道ともなっている。

階段を登った正面が、南禅寺発祥の地・南禅院です。現在、改修工事のため塀で塞がれ拝観できない(令和7年(2025)3月まで)。

水路閣の上。この疎水の分流は北へ流れ、哲学の道に沿って流れる小川となり、爽やかな風景を演出してくれている。
「近代化遺産」とされたが、現在でも琵琶湖からの水を流し続ける現役なのです。





 方丈とその庭園  



水路閣のすぐ東側が方丈です。これから方丈とその庭園を見学するのだが、やや複雑な構造をしているので、自分の居場所が分からなくなってくる(数年前に経験)。そこで方丈の図面を入手したので掲載しておきます。この図面は南禅寺の庭園を手がけられた植彌加藤造園(株)の公式サイトからお借りしました。庭園も素晴らしいが、この図面も素晴らしい、ありがとうございます。

方丈の入口の横に唐破風の大玄関が見える。特別な行事の時にのみ使用され、通常は通れない。真っすぐ伸びた石畳の両側に、玉砂利を敷き詰め、樹木と植栽、景石を配置した美しい庭園で、植彌加藤造園さんによるもの。この石畳の敷石は京都市市電伏見線が廃止になった時に軌道敷の板石を払い下げられたものだそうです。

禅宗寺院特有の姿を見せる庫裏。ここが方丈への入口で、拝観受付があります(方丈庭園600円)。履き物を脱ぎ、置かれているビニール袋に入れて持ち歩く。使用済みの袋は(お土産に?、記念に?)「お持ち帰り下さい」とのこと。
南禅寺の正式名は「瑞龍山 太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)」。禅宗は、インドから中国へ渡った達磨大師を初祖とし、6代目の時に南宗(なんしゅう)禅と北宗禅に分裂した。「南宗禅の法を伝える寺の意から南禅寺の寺名になりました。南宗禅とは達磨大師より6代目の大鑑慧能禅師の法系をいいます」(公式サイトより)

玄関を上がったすぐ右手が「滝の間」で、抹茶(有料)を味わいながら滝を眺められる。滝水は琵琶湖疏水より取り込んでいる。板戸が開放されているので、抹茶を頂かなくても十分滝を鑑賞できるよ。
滝に覆いかぶさるように枝を広げるのはモミジ。滝に遠近感をつけるための仕掛けのようです。紅葉時期には、赤毛氈に座り抹茶を頂くべきです。



板張りの廊下が方丈へと続いている。右手の書院の部屋では、「南禅寺 歴史と美」と題した約10分の映像を流していました。








書院の北側に、「還源庭」(げんげんてい)と札の立つ小さく簡素な庭があります。左が大方丈で白壁は蔵。涵


書院の西側に、大方丈の建物とその庭園が見える。

大方丈は内陣と六部屋からなる。仏間を除く各部屋には桃山前期の狩野派絵師筆により障壁画計124面(重要文化財)が描かれていた。「描画により400年が経過して、彩色の剥落などの傷みがみられるため、平成23年(2011)12月に124 面中の84面を収蔵庫に保管しました。現在は、デジタル撮影した画像を元に、江戸初期から中期の色合いで描画復元した、84面のあらたな障壁画を補完して公開しております」(公式サイト)

大方丈の建物は、豊臣秀吉が天正年間(1573年 - 1593年)に建てた女院御所の対面御殿を慶長16年(1611)に下賜されたもの。昭和28年(1953)国宝に指定されました。

大方丈庭園は、江戸時代初期の以心崇伝による南禅寺復興の際に、小堀遠州によって作庭されたと伝わる。東西に細長く、全体を最高格式の五筋塀で囲い白砂を敷き詰め、左奥に石を並べサツキの刈り込みを中心に松とモミジを配置している。通常、石組みを立てて須弥山・蓬莱山などを表現し仏教観を示すのだが、ここではそれがなく、大小の石を寝かして並べているだけです。観念的意味を持たせず、ただ調和美だけを意識した庭園のように思えます。私はこうした庭園の方が好きです。
ところが明治以降、「虎の子渡しの庭」と意味づけされるようになる。左の大きな石が母虎で、小さな石の子虎を従え川(白砂)を渡っているそうです。私には、そんな風には見えないのですが・・・。

江戸時代初期の代表的な枯山水庭園として、昭和26年(1951)に国の名勝に指定された。

大方丈の廊下を進み角を曲がると、さらに廊下が続いている。この廊下の一番奥が、大方丈に接続して伏見城の小書院が移設され、「小方丈」と呼ばれている。

(庫裏前に掲載されていた写真より)小方丈の部屋は「虎の間」と呼ばれ、狩野探幽筆の「群虎図」40面がある。中でも「水呑の虎」の図(上の写真)は、猛々しい虎が生き生きと描かれていて有名です。Wikipediaは「小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている」といっています。

小方丈前の庭園は「如心庭」と呼ばれている。「小方丈庭園は別名「如心庭(にょしんてい)」と呼ばれます。昭和41年(1966)に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導されて植彌加藤造園に作庭されました。その名のごとく、「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭で、解脱した心の如く、落ち着いた雰囲気の禅庭園となっています」(公式サイトより)

小方丈の北へ周ると「六道庭(ろくどうてい)」です。天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界をさまようという六道輪廻の観念を表したという。バラバラに置かれた石は、煩悩に迷い彷徨う姿を表したものでしょうか。
白壁の左脇に少しだけ見えるのが「大筒垣(おおづつがき)」と呼ばれ、南禅院の竹藪から孟宗竹を切ってきて太めの鉄砲垣を創作したもの。

大方丈の北、小方丈の東、中庭のような小さな庭がある。大方丈の「鳴滝の間」に接しているので「鳴滝庭」と呼ばれる。北西隅に、岐阜県で採取された大変貴重な紅縞(めのう)で作られたという大硯石が置かれている。

渡り廊下を挟んで六道庭の東側に、昭和59年(1984)に作庭された「華厳庭(けごんてい)」がある。白砂で見立てた大海に浮かんでいるのは、島か舟か?。囲いは「南禅寺垣」というそうです。南禅寺垣の奥に見えるのが、昭和43年(1968)に寄進された茶室「窮心亭(きゅうしんてい)」。修学院離宮にある後水尾天皇命名の「窮邃軒(きゅうすいけん)」の趣を慕って名付けられたという。

渡り廊下の北の端は、昭和59年(1984)に造られた「龍吟庭(りゅうぎんてい)」。中央に「涵龍池(かんりゅういけ)」を置き、周辺に白砂、巨石を配する。この辺り、春よりは秋が見頃か。池の奥に見えるのが昭和29年(1954)の寄進された茶室「不識庵(ふしきあん)」。

中央が三門、左は法堂。こちらの通りは人が少ない。皆、水路閣のほうへ引き寄せられて行きます。
国の史跡に指定されている境内は24時間無料開放されている。拝観料が必要なのは、(大人個人)方丈庭園600円、三門600円、南禅院400円。拝観時間は午前8時40分~午後5時(年末12月28日~31日は休みだが、年始は休まない)
南禅寺公式サイト



ホームページもどうぞ

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 1(蹴上インクライン・金地院)

2024年04月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
今年も桜の季節がやって来た。やや寒い日が続き、例年に比べ開花が送れていたようだが(例年通り?)、関西もやっと満開を迎えたようです。今年は京都を代表する桜の名所「哲学の道」を歩こうと予定していたので、チャンスを窺っていた。混雑する土日は避け、天気予報を判断した結果、5日の金曜日とした。
南禅寺・哲学の道界隈は何度か訪れているが、ブラ歩きするだけだった。今回は、周辺を含め少し詳しく見てみようと目論んでいます。地下鉄東西線の蹴上駅を出て、蹴上インクライン→金地院→南禅寺→哲学の道→銀閣寺へと、南から北へ向かうコース。哲学の道の脇には、熊野若王子神社,大豊神社,霊鑑寺,安楽寺,法然院といったユニークな社寺が存在するので寄ってみます。

上はGooglEarthの空中写真。哲学の道をピンク〇で示した。哲学の道を超拡大して見ると、通りは満開の桜で埋まっている。ところが写真取得日が「2022/3/10」と記載されている。写真は嘘をつかないので、日付が??。

 蹴上(けあげ)インクライン 1  



大阪からは、JR京都駅→地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」乗換→地下鉄東西線「蹴上駅」下車。京都駅から約20分くらい。車道「三条通」下に蹴上駅があり、インクラインの土手下の出口から地上に出る(写真)。土手の桜は、ちょうど満開の見頃となっているようだ。

土手の真ん中あたりに、レトロな雰囲気を漂わせた赤レンガ造りのトンネルがあり、「ねじりまんぽ」というなんとも奇妙は名前が付けられている。高さ約3m、長さ約18mで、蹴上駅からインクラインの土手下を通って南禅寺へ行く近道となっています。

上のインクラインを行き交う船を乗せた台車の重さに耐えられるようにするため、レンガを斜めに螺旋状に積み上げ強度を高める工法が採られている。これが「ねじり」です。またトンネル自体も、土手と直角にならないよう斜め掘られているようです。古い鉄道のトンネル構築に主に使われた工法だが、技術革新により現在では見られなくなった。

Wikipediaには「ねじりまんぽの「まんぽ」は近畿地方でトンネルのことを指す方言で、マンボ、マンプウ、マンボウなどとも言われる」とある。

インクラインの最上部に上がってみます。石ころの坂道に4本のレールがはしり、その上を満開の桜が覆いっているという、華やかで、それでいで奇妙を風景が展開する。これを理解するには、明治の琵琶湖疎水事業を知らなければなりません。

明治維新で徳川幕府は倒れ、新政府は都を江戸(東京に改名)に移し、天皇と取り巻きの公卿たちは東京へ移って行った。平安京以来,首都として栄えてきた京都の人々は、これでは京都は寂れ衰退してしまうと危機感を抱いたのです。

第3代京都府知事となった北垣国道は京都を復興させ活力を呼び戻すため、水路を造り琵琶湖の水を京都に通すということを構想した。市の年間予算の十数倍という膨大な費用を投入して、疎水開削工事は明治18年(1885)に着工、5年後の明治23年(1890)に完成した。これによって灌漑用水によって田畑が潤い、市民生活のインフラとなる上水道や防火用水が整備され、また水力発電によって新しい産業を興し、電気鉄道も市内を走るようになった。明治45年(1912)には第2疎水も完成している。

写真中央に見えるのが第三トンネルで、疎水の京都への流入口。この辺りに第1疎水、第2疎水の合流点もある。赤レンガの建物は「旧御所水道ポンプ室」。これは京都御所に防火用水を送水する仕組み。ポンプで背後にある山上の貯水池に揚水し、御所で火災が発生した場合には,山上の貯水池から水を高圧で送水するのです。鴨川の水では頼りなかったようです。この建物を設計したのは京都国立博物館や赤坂離宮(現在の迎賓館)を設計した片山東熊で、国登録有形文化財に登録された(2020年4月)。

現在、琵琶湖の大津からここ蹴上まで観光船「びわ湖疎水船」が運行され、ここが乗下船場となっています。

それまで人馬に頼っていた京都と大津の間の荷物輸送が、疎水路を使った舟運により大変便利になった。ところが問題は、蹴上区間の高低差約36mという落差をどう克服すかです。そこで採用されたのがインクライン方式(傾斜鉄道)だった。傾斜部にレールを敷き、舟を台車に載せてロープで引っ張り坂道を上下させるというもの。

写真の場所は「蹴上船溜(けあげふなだまり)」といい、舟を台車に載せる、又は台車から降ろす場所。現在、当時利用された台車と舟が復原展示されています。
二本のレールが水中まで引き込まれている。これは台車を水中まで引き入れ舟の下に入れ、そのまま引き上げると、荷物の積み下ろしをすることなく舟を台車に載せることができる。ロープを引っ張るのに、水力発電による電力モーターが使われた。明治24年(1891)に営業開始され、下の「南禅寺船溜」までの約580mを10~15分くらいで移動させた。
蹴上船溜の傍に小さな祠があり、一体の石仏が祀られています。傍に「義経地蔵」と書かれた説明版が立てられれている。義経は鞍馬山から奥州へ向かう途中、東海道のこの辺りで馬に乗った平家の武士9人とすれ違った。その時、馬が泥水を蹴り上げ義経の服を汚してしまった。怒った義経は9人を斬り殺したという。切り殺された9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置した。ここの祀られているのはその内の一体だという。「蹴上(けあげ)」の地名は、この義経伝説に由来しているそうです。

インクライン上部の東側は蹴上疎水公園で、ここも桜が見られる。しかし人は皆レールの方へ行ってしまい、公園は人が少なく静かだ。公園の中央に田辺朔郎の銅像が建てられている。
田辺朔郎(たなべ-さくろう、1861-1944)は、工部大学校土木科(東京大学工学部の前身)卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」が北垣京都府知事の目に留まり、弱冠21歳で疏水工事の土木技術者として採用された。琵琶湖疏水工事の設計・施工の総責任者となり、工事を完成させた。インクラインを造り、蹴上に日本最初の水力発電所を造ったのも彼です。
「蹴上疎水公園」を抜けて奥へ行き、鉄柵で防御された細い通路を渡る。左側には関西電力の巨大な水圧鉄管が蹴上発電所へ水を落としている。
さらに進むと平坦な小路が疎水分線に沿って続き、南禅寺の「水路閣」にでる。南禅寺への近道というか、抜け道となっている。水路閣からやってくる人ともすれ違う。

 蹴上(けあげ)インクライン 2  



インクラインに戻り、下方向へ歩いてみます。まだ早朝8時なのにかなりの人出だ。

インクラインのその後の歴史を見てみよう。インクラインの舟運は明治末頃に最盛期を迎える。しかし大正から昭和にかけて、鉄道輸送、国道の整備などの交通網が発達してくるとインクラインの利用は大きく減少してきた。そして戦後の昭和23年(1948)11月に休止されたのです。レールも撤去され、跡地は荒廃していった。こうした現状に、地元の人々は復元を願い、京都市に働きかけていった。その結果、昭和52年(1977)4月に復元工事が終わる。廃止された市電の敷石が敷かれ、以前と同じように四本のレールが敷設され、周辺環境も整備された。この時に桜も植えられたのです。
昭和58年(1983)、京都市の文化財に指定され、産業遺産として保存。平成8年(1996)、蹴上インクライン、水路閣など琵琶湖疏水に関する12カ所が、近代遺産として国の史跡に指定されたのです。現在では、桜並木の観光スポットになっている。

正装のカップル記念写真。京都ではよく見かける光景です。ほとんどが東南アジア系で、邦人は恥ずかしくてできません。いつもなら和服姿で写真撮る人を多く見かけるのだが、まだ早朝なのでレンタル着物店が開いていないようです。

約90本のソメイヨシノがレールに覆いかぶさるように花を開く。ピンクのトンネルを潜って蒸気機関車が出てきそうな雰囲気。夏に新緑、秋には紅葉も楽しめるようだが、やはり春の桜が一番の人気。最盛期は多くの人で溢れ、レールが見えなくなるそうです。違和感のあるようなレールだが、真っすぐ奥へ伸びて風景に筋を通し引き締めてくれています。

幅約22m、総延長約580m、勾配15分ノ1の路面が緩やかな傾斜を保ち下っている。ここは元々切り立った崖だったが、疏水工事の際のトンネル掘削で掘り出された土砂を積み上げて路盤を整備したものです。

インクライン中ほどを過ぎたあたりにも、舟と台車が展示され、積まれている樽には「伏見の清酒」とある。説明版に「明治27年(1894)には伏見区堀詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客13万人を記録しました」と書かれている。

そろそろインクラインも終わりに近づいてきた。見えてる橋は南禅寺参道へ続く「南禅寺橋」。ここでもやっています。幸せそうなお二人さん。

インクラインの下端が「南禅寺船溜」。ここで舟を台車からおろす、又は載せるという作業を行っていた。正面は岡崎動物園で、現在動物園の休憩室となっている白い建物の下に旧ドラム室があった。インクラインの台車を動かすためのワイヤーロープを巻き上げるウインチの運転台と機械室です。現在、見学できるようです。

船溜の中央の大きな噴水は、疎水の高低差を利用して水圧だけで噴き上がっているという。写真右側には、琵琶湖疎水に関する資料やアーカイブ映像などを展示している琵琶湖疎水記念館(入館無料、9:00~17:00、定休日は月曜日と年末年始)があります。



疎水はこの南禅寺船溜を経由してさらに西へ向かってのびており、ここから鴨川に合流するまでの流れを「鴨東運河(おうとううんが)」、または「岡崎疎水」と呼ぶ。全長約2kmの疎水沿いには公園、美術館、動物園、平安神宮があり、春には桜一色となり多くの人々で賑わいます。春限定の遊覧船「岡崎さくら回廊十石舟めぐり」で、桜と水を満喫できます。午後になると、乗船待ちの長い列ができ、すぐに乗船できません。






 金地院(こんちいん)  



南禅寺橋の上です。右側橋下にインクラインがとおり、左奥へ進んでゆけば南禅寺への参道。春よりは秋の紅葉時のほうが鮮やかかな。

南禅寺中門へさしかかる手前右側に「金地院」と書かれた門があります。また「東照宮下乗門」の札も掛かるので、参拝者はここで下馬しなければならなかった。門を潜った右手に南禅寺塔頭で以心崇伝(金地院崇伝)ゆかりの金地院がある。

門の奥に見える道は、蹴上インクラインにあったトンネル「ねじりまんぽ」とつながり、南禅寺への近道となっています。

金地院の入口になる「総門」。金地院は「応永年間(1394年 - 1428年)に、室町幕府第4代将軍足利義持が大業徳基(だいごうとっき、南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯(現・京都市北区)に創建したと伝えるが、明らかではない。」(Wikipediaより)
江戸初期の慶長10年(1605年)、徳川家康の信任が篤かった以心崇伝により臨済宗南禅寺の塔頭として現在地に移建された。崇伝は南禅寺の第270世住職となり、自らの住坊として再興したのです。崇伝は元和5年(1619)に幕府より僧録(僧侶の人事を統括する役職)に任ぜられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって幕末まで続いた。そして金地院は、10万石の格式を与えられ、「寺大名」とも呼ばれる権勢を誇ったという。(以心崇伝については最後の開山堂を参照)

(境内図は受け付けに置かれていたもの)門を潜ると右手に拝観受付がある。【拝観時間】8:30~17:00 ※12月~2月は16:30【拝観料】500円(八窓席は別途700円)
正面は庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を表にみせ、大きな三角形の白壁と黒茶色の木組が際立つ禅宗寺院に特有の建物。多くは拝観入口となるのですが、ここでは入れません。

受付からすぐのところに、唐門の明智門(あけちもん)と方丈の屋根が見える。

京都国立博物館の北にある豊国神社に総欅(けやき)作りの豪華絢爛な唐門が建ち、現在桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されています。その唐門は、秀吉の造った伏見城の城門だったが,二条城へ移され、さらに崇伝が幕府から賜り、この位置に建っていたのです。ところが、明治維新を経て秀吉は復権、豊国神社が造営され、豊国大明神として祀られた。そして唐門を豊国神社に譲ずらざるをえなくなった。そこで金地院は明治19年(1887)、大徳寺から門を買得し、現在地に移築したのが現在の門。この門は、明智光秀が母の菩提のため黄金千枚を寄進し大徳寺方丈に建立したもので「明智門」と呼ばれている。
家康を祀る神社に秀吉の門があり、秀吉の門の後に光秀の門がくる。不思議な巡り合わせですね。(豊国神社の唐門はココを参照。両者を比べるとスケールが違う)

明智門を潜るとすぐ右手が方丈(本堂、重要文化財)。一重、入母屋造、書院造、柿葺(こけらぶき)。
Wikipediaに「この大方丈(本堂)は寺伝では慶長16年(1611年)に、崇伝が伏見城の一部を江戸幕府3代将軍徳川家光から賜り、移築したものといわれるが、話の時代が合っていないうえ、建物に移築の痕跡は確認できない。実際は寛永4年(1627年)に崇伝によって建立されたものとみられる」とあります。
細長い縁先があり、障子の奥が広い板敷の廊下となっている。廊下の奥には六間あり、中央の仏間に本尊の地蔵菩薩像が安置されています。各部屋の襖や障子腰板には狩野派(狩野探幽、尚信)により金地に松、梅、菊、鶴などの障壁画が描かれている。
廊下正面に掲げられている額「布金道場(ふきんどうじょう)」は山岡鉄舟(1836-1888)の筆によるもの。明治初めの廃仏毀釈の嵐を防ぐため、仏教寺院ではなく道場だと主張しています。

開山堂前から見た方丈
方丈の裏には、大徳寺孤篷庵、曼殊院の八窓軒と共に京都三名席の1つに数えられている茶室「八窓席」(はっそうせき、重要文化財)があります。現在、春の特別拝観で公開されているのだが、別途拝観料700円かかるのでパス。掲げられている写真を写真し紹介します。

「創建当時は名称通り8つの窓があったが,明治時代の修築で6つとなったという。なお、建物修理の際の調査で、この茶室は遠州が創建したものではなく、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明している」そうです(Wikipediaより)。八窓席に付随した小書院の襖絵は長谷川等伯筆「猿猴捉月図」

方丈の前に大きな庭園が広がる。崇伝の依頼により小堀遠州が寛永9年(1632)に作庭したもの。遠州作庭とされる庭園は多いいがその根拠があるものは少ない。この庭園は、当時の設計図や日記、書状などが残されているので、確実に小堀遠州が作庭したことがわかる貴重な庭園です。
大海を表す白砂の奥中央に蓬莱連山を表わす石組を置き、その両側に鶴島、亀島を配する蓬莱式枯山水庭園で、「鶴亀の庭」と呼ばれています。国の特別名勝に指定されている。奥に見える屋根は東照宮。

左側が海に浮かぶ亀島です。右端が「亀頭石」、左端が「亀尾石」、中央の盛り上がりが「亀甲石」で、樹齢700年の老木・柏槇(ビャクシン、イブキ)を背負う。
「鶴亀の庭」には多くの石が組まれているが、これは家康から厚遇されていた崇伝のために、全国各地の大名がきそって名石を寄進したことによる。

方丈内から撮った庭園中央。左側の茶色ぽく見える平べったい巨石は「遥拝石」と呼ばれ、背後にある家康の廟・東照宮を拝むために置かれたもの。遥拝石の後ろが蓬莱連山を表わす三尊石組。さらにその後ろの大刈り込みと常緑樹が、不老不死の仙人が住むという蓬莱山の深山幽谷をイメージさせてくれます。

右側の石組みは鶴島です。亀島の亀と向かい合う形で鶴が表現されている。遥拝石のすぐ右に突き出た平らな巨石は「鶴首石」。安芸城主・浅野家より贈られた石で、淀川を遡り伏見港より陸路で牛45頭により牽かれてきたという。土盛りの胴の部分には立石が重ねられ羽を表し、枝を広げた樹木が羽ばたいているようで、躍動感を与えています。

開山堂前から見た「鶴亀の庭」。こちらから眺めると、白砂の大海に浮かぶ島の様子が伝わってきます。開山堂前から白砂の飛び石に出るための、池をまたぐ二枚の大きな石板は阿波・蜂須賀家より贈られたもの。

「鶴亀の庭」の東側、明智門の前に弁天池を囲むように庭園がある。こちらは池泉回遊式庭園です。弁財天を祀る中島に石橋(写真右端)が架かるが、その二枚の橋石は岡山藩主・池田忠雄の寄進によるもの。

弁天池の脇の小路を通り「鶴亀の庭」の背後に周ると、東照宮の建物が見えてくる。まず「御透門」と呼ばれる門があります。名前のとおり、両脇は菱格子の透かし塀となっており、中を見通せます。

御透門を潜ると、すぐ東照宮の社殿(重要文化財)で、正面に見えているのは拝殿です。
家康は「日光と久能山と京都に東照宮を設置するように」との遺言を残した。東照宮とは、東照大権現である徳川家康を祀る神社のこと。崇伝は小堀遠州に設計させ、寛永5年(1628)に創建された。家康の遺髪と念持仏を祀っています。日光東照宮の方向を向いて東面し、創建当初は日光東照宮と比するほどの規模があったという。

拝殿は近づいて内部を覗いて見ることができる。天井には狩野探幽の筆による「鳴龍(なきりゅう)」が描かれており、さらにその欄間には土佐光起画・青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。

建物を横から見ると社殿の構造がよくわかる。写真左が拝殿、右奥が本殿で徳川家康を祀る。拝殿と本殿の間を「石の間」と呼ばれる建物が結んでいる。この様式を「権現造り」と呼び、受け付けのパンフには「京都に遺る唯一の権現造り様式である」と記されている。菅原道真を祀る北野天満宮も権現造りのはずだが・・・?

東照宮から方丈へ戻る途中に、以心崇伝の塔所である開山堂が建つ。内部を覗けば、正面に以心崇伝像が、左右両側には十六羅漢像が安置されている。掛かっている勅額は後水尾天皇の筆によるものだそうです。

以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)は臨済宗の僧で、「以心」は字(あざな、別称)、法名が「崇伝」、南禅寺金地院に住んでいたので「金地院崇伝」とも呼ばれた。
室町幕府幕臣の一色家に生まれたが、天正1年(1573)足利氏滅亡のとき父と死別,南禅寺に入って出家した。慶長10年(1605)、南禅寺第270世住職となり、鷹ケ峯にあった金地院を塔頭として南禅寺境内に移し再建する。金地院に住み、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努めた。
慶長13年(1608)、徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参加するようになった。駿府城内に建てた金地院に住み、外交文書の起草や朱印状の事務取扱を行った。さらに諸法度の起草に参画し、キリスト教の禁止(宣教師追放令)や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷や公家の活動を制限する禁中並公家諸法度の制定に関わった。
元和2年(1616)家康が死ぬと、江戸に移り江戸城北の丸に金地院を建てた。元和5年(1619)には禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任じられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって金地僧録と称されるようになる。崇伝は京都と江戸の金地院を往還しながら宗教、政治の面で大いに活躍し、僧侶でありながら幕政を左右したことから「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」、また10万石の格式を与えられ「寺大名」といった異名で呼ばれた。また南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力し、古書の収集や刊行などの文芸事業も行う。
寛永3年(1626)には後水尾天皇から「本光国師」号を賜る。しかし寛永4年(1627)に崇伝もからんだ「紫衣(しえ)事件」がおこり、後水尾天皇は退位に追い込まれ幕府の権威をより高めることになった。法整備をし徳川幕府の繁栄の礎を築いた人物といえる。寛永10年1月20日(1633年)江戸城内の金地院で死去。享年65歳。墓はここ開山堂にあります。


ホームページもどうぞ