山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

醍醐寺の桜見、そして醍醐山(上醍醐)へ (その 2)

2016年06月17日 | 飛鳥(明日香)の里

■2016/4月/9日 (土)、京都の桜の名所として知られる醍醐寺を訪れる。今回は下醍醐の紹介です。

 西大門(仁王門)  


桜の馬場から西大門(仁王門)へ向かう。右手の白壁越しに何本もの見事な枝垂桜が眺められたのですが、残念ながら遅きに失しました。
この西大門は、豊臣秀頼が金堂の再建の後、慶長10年(1605)に再建したもの。幅:12.4m、高さ:18.9m。門の両側には重要文化財に指定されている金剛力士像が睨みをきかす。平安後期の長承3年(1134)に仏師勢増・仁増による造立。
この西大門(仁王門)が下醍醐への入口になり、共通券を持っていない場合ここで拝観料:600円を支払う。

門を潜ると桜・・・、いや目の覚めるような新緑の青葉が清々しい。景観で、ここが一番印象的な場所でした。参道の両側には幔幕が張られ、豊臣家の桐の紋が描かれている。醍醐寺と豊臣家との縁は、ことのほか深いようです。
左右の樹木は、まさか桐ではないでしょう。カエデのようですので、秋の紅葉時期はすごい景観になることでしょう。


 清瀧宮と五重塔 (国宝)  



新緑の参道を進み、最初に目にするのが清瀧宮本殿・拝殿という社。ここはお寺ですが、その中に神殿もあり、チョッとややこしい。祀られているのは、醍醐寺の総鎮守神・清瀧権現(せいりゅうごんげん)だそうです。
上醍醐の清瀧宮本殿に祀られていた清瀧権現の分身を、永長2年(1097)に下醍醐に移し祀ったもの。兵火により焼失していたが、現在の本殿は永正14年(1517)に再建されたもので、重要文化財に指定されている。
広場を挟み、清瀧宮本殿・拝殿と対面するように建つのが五重塔。
醍醐寺パンフに「醍醐天皇の菩提を弔うため、第一皇子・朱雀天皇が承平6年(936)に着工し、第二皇子・村上天皇の天暦5年(951)に完成した。初層の内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれている。高さは約38メートルで屋根の上の相輪は約13メートルあり、相輪が塔の三分の一を占め、安定感を与えている。」と書かれている。高さは東寺、興福寺の五重塔についで日本3番目。

五重塔の中には仏像は安置されていないが、日本密教絵画の源流をなすものといわれている平安中期の貴重な彩色壁画(両界曼荼羅や真言八祖)が初層内部に残されている。建物とは別に絵画として、国宝に指定されています。ただし非公開。

下醍醐の伽藍は、応仁の乱(1467-1477)でほとんどが焼失してしまったが、幸い五重塔だけは難を逃れ、創建当時の姿を現在に残している。京都府下では最古の木造建造物なのだそうです。

 金堂(国宝)  


延長4年(926)、醍醐天皇がに勅願寺として建立。当初は釈迦像を本尊としていたことから「釈迦堂」と呼ばれていたが、鎌倉期に入って金堂となった。応仁の乱などで焼失していたが,豊臣秀吉の命によって紀州湯浅(和歌山県湯浅町)にあった同じ真言宗の寺院・満願寺の本堂を移建し、秀頼の時代の慶長5年(1600)に完成したものが現在の金堂。桁行七間、梁間五間、入母屋造りの屋根を持つ。
満願寺の本堂は平安時代に建てられたので、醍醐寺の金堂も平安時代の建築として国宝に指定されています。しかし移築時などにかなり改造が加えられているという。高い入母屋の大屋根は平安時代には無い建築様式だといわれ、また元は檜皮葺であったのが本瓦葺に改められている。
金堂内の須弥壇中央には、重要文化財の薬師三尊像が安置されている。中央が醍醐寺の本尊の薬師如来坐像で、左右に脇侍の日光菩薩立像、月光菩薩立像。鎌倉時代初期の作品であり、これらもまた本堂と同じく満願寺から移されてきたものだ。中には入れないが、扉が開放され、近くで拝することができます。

金堂前の広場には、仮設舞台の骨組みがみえます。これは明日の「豊太閤花見行列」で催される雅楽・狂言の舞台と思われる。金堂脇の名物・大山桜が見頃ならば、いっそう派手やかな舞台となることでしょうが、今は緑色に染まった大山桜でした。

 不動堂・真如三昧耶堂(さんまやどう)・祖師堂  


金堂の右側に並んで建つのが、不動堂と真如三昧耶堂(さんまやどう)。
不動堂には不動明王を中心に五体の明王像が安置されている。また、堂前の石柱で囲まれた広場(護摩道場とか)では、当山派修験道の柴燈護摩(さいとうごま)が焚かれ、種々な祈願が行われるそうです。

不動堂右横には、朱雀天皇の御願により法華三昧堂が天暦3年(949)に創建されていたが、文明2年(1470)に焼失。その跡地に平成9年(1997)、醍醐寺で出家得度した真如苑の開祖伊藤真乗が創始した真言小野流の一派が醍醐寺により顕揚されたことから真如三昧耶堂として再建された。

さらに奥へ進むと、参道傍に祖師堂が現れる。慶長10年(1605)座主・義演が、真言宗を開いた弘法大師・空海と、その孫弟子で醍醐寺を開創した理源大師・聖宝とを祀るために建立した堂。右の像が弘法大師。弘法大師の誕生日である6月15日には、降誕会が行われます。

祖師堂の先に「日月門」と呼ばれる山門が見えます。この門の先は、観音堂、鐘楼堂や弁天堂からなる「大伝法院」と呼ばれる領域で、醍醐天皇一千年御忌を記念し昭和5年(1930)山口玄洞居士の寄進により造築されたものだそうです。

この辺り新緑の青葉が美しい。桜目的で醍醐寺にやって来たのですが、その目的は叶わず、代わりに青葉の清々しさに浸りました。この周辺、秋の紅葉シーズンには華やか景色になるんでしょうネ。

 観音堂・弁天池と弁天堂  



山門を潜ると、まず大きな釣鐘とその奥に観音堂を目にする。
観音堂は、もともと大講堂の建物だった。平成20年(2008)8月24日、西国三十三所観音霊場第十一番札所だった上醍醐の准胝堂が落雷のため炎上し、祀られていた本尊の准胝観音も焼失してしまう。たまたま准胝観音の分身像がドイツの「醍醐寺展」に出陳されていたため無事であった。そこで上醍醐の准胝堂が再建されるまでの間、この大講堂を観音堂と改称して分身像を安置し、西国三十三所第十一番札所の御朱印、納経等が行われることになったのです。巡礼者にとって、山登りをしなくてすむので助かっているのかも・・・。

観音堂の奥には紅葉の名所・弁天池と弁天堂がある。昭和になってから新しく築造されたので、庭園風の趣ある景観となっている。池の奥に朱塗りの弁天堂が配置され、そこへ渡る朱塗りの太鼓橋が水面に写り綺麗です。弁天堂の周りにヤマザクラが点在して見えるが、桜は多くない。それより紅葉の名所として有名な場所で、青葉を眺めただけでその美しさが想像できます。
弁天堂には、音楽などの学芸や知識の女神で七福神の一つである弁才天が祀られているそうです。

傍にお茶屋さんがあり、池やお堂を眺めながら一服できます。また池の周辺には腰掛け石が置かれている。醍醐寺の中では休息、お食事に最適の所です。私もさっそく霊宝館前で仕入れたお弁当を。

弁天池前の茶屋から20mほど行くと、行き止まりで下醍醐の終端です。正確には一方通行の回転扉があり、出ると入れません。ここを出て真っ直ぐ進むと成身院(女人堂)があり、上醍醐入山の受付所となっている。醍醐山(上醍醐)へ登る人以外は、ここで引き返す。私は回転扉を回して出ました。



詳しくはホームページ

飛鳥(明日香)の古寺・遺跡を訪ねて

2013年11月25日 | 飛鳥(明日香)の里

2013年9月21日(土)、奈良・飛鳥(明日香)の古寺・史跡・遺跡を巡ってきました。
今はのどかな田園風景が広がる真神原。「入鹿の首塚」から南方を見渡した風景です。西側には飛鳥川を挟み「甘樫丘」が。東側には飛鳥寺、前方には伝飛鳥板葺宮(飛鳥浄御原宮)・橘寺・川原寺があります。
その昔、狼の徘徊する湿原野と恐れられたここ真神原も、半島からの渡来人や蘇我氏などの力によって古代ヤマトの都の中心地として拓かれていった。この原には、宮殿はもとより、庭園・苑池・来客をもてなす饗宴施設、そして朝廷に仕える多くの宮廷人達の住居が立ち並んだという。日本の原初を切り開き、数々の歴史ドラマを繰り広げた舞台です。
この真神原南東の丘陵地に石舞台古墳がある。
お墓の主、蘇我馬子が安らかに眠っているようです。多くの古墳は、宮内庁殿によって「天皇家の安眠と静穏を妨げない」という大義名分のもと近寄ることさえ許されない。その天皇家さえ差配したという馬子は、見世物として見物料(250円)を徴収する観光のシンボルとされている。

そうした天皇陵の一つに植山古墳があります。近鉄岡寺駅と甘樫丘との中間に位置する。その昔、推古天皇が夭折した嫡子・竹田皇子のために造ったお墓。そして自分も「息子の竹田皇子と合葬してほしい」と遺言されたそうです。この古墳の中には、大きな横穴式石室が二つ寄り添うように並んでいるという。そして石棺には阿蘇山大噴火の時、火砕流が冷え固まってできたピンク色の石が使われていた。
その後、二人とも河内(大阪府太子町)磯長の山田高塚古墳に移葬されたと思われる。もはや「安眠と静穏を妨げなくなった」という訳か、巨大なビニールシートで覆い発掘調査中のようだ。これが我が国で唯一発掘調査された天皇陵だそうです。
宮内庁さま、歴史に光を!!

詳しい内容をホームページに掲載しました。