山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都御所を訪ねて 2(京都御苑)

2023年10月23日 | 名所巡り

これから京都御所を取り巻く京都御苑を歩きます。南側の堺町御門から入り、九条邸跡、閑院宮邸跡とその周辺を見学。さらに北上し、京都御所の南域から西、北、東へと時計回りに見てゆきます。

 京都御苑 1(堺町御門・九条邸跡)  




丸太町通りを石垣に沿って西に歩けば堺町御門(さかいまちごもん)が現れる。京都御苑のちょうど南側中央に位置する。
傍の説明版に「1863(文久3)年8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊皇攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に終結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました」とある。この周辺で長州藩兵と、薩摩・会津の藩兵とがにらみあい、一色触発の状態だったという。また翌年の「禁門の変」でも長州藩兵はこの辺りで戦っている。

堺町御門を入ると正面に、広い砂利道とその奥に繁みがみえる。ここはかって鷹司家(たかつかさけ)の邸があった場所です。今では説明版が1枚立つだけで何もない。説明版は文字が擦れ読みにくいので、デジタル拡大して読むと「鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。1864(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、邸に放たれた火は、長州藩邸の火などとともに「どんどん焼け」と称する京都大火につながりました」とあります。
藤原氏北家嫡流で、鎌倉中期の近衛家実の四男兼平を祖とする。家名は、兼平の邸が京都鷹司室町にあったことによる。以降代々、摂政・関白を務め、近衛・九条・二条・一条の四家とともに五摂家のなかでは最後の成立である。
禁門の変(蛤御門の変)の時、長州の久坂玄瑞の一隊は鷹司邸跡を占拠したが、まもなく包囲され総崩れとなり、久坂玄瑞は邸内で寺嶋忠三郎と刺し違えて自刀している。鷹司邸跡や長州藩邸から上がった炎は、北風にあおられ「どんどん焼け」と呼ばれる大火となり、町屋3万戸近くが焼けたという。

堺町御門のすぐ西側が九条邸跡。これは閑院宮邸跡の展示室に置かれていた九条邸跡の模型。池の形から「勾玉池(まがたまのいけ)」とも呼ばれる九条池の中央に高倉橋が架かる。池の西端が捨翠亭で、北側の出島に厳島神社がある。桃色鮮やかな樹木はサルスベリです。

(高倉橋から池の東側を撮る)九条家は、藤原北家の流れを汲み、平安末期から鎌倉初期に活躍した九条兼実を祖とし、京都の南東部の九条陶化坊に邸があったのが家名となる。豊臣秀吉は公家を御所周辺に集め公家町を形成した。その時に九条家も御所の南の現在地に移った。九条家は、平安時代から江戸時代までの数百年間に掛けて多くの摂政・関白を輩出し、近世末まで宮廷政治の重鎮であった。幕末期の関白・九条尚忠(ひさただ)は開国か攘夷かで揺れる京都朝廷で関白として大きな力をもち天皇を補佐してきた。尚忠の娘夙子は孝明天皇の女御となり、また大正天皇の皇后・貞明皇后は九条家出身で昭和天皇を産んでいる。このため、現在の皇室にも九条家の血筋が引き継がれている。

九条池の中央に架かる高倉橋は、天皇行幸のため明治15年(1882)に架けられたもの。橋の先には広い大通りがつらぬき、御所正門の建礼門につながっている。

橋の西側。捨翠亭と水面に映るサルスベリが印象的です。
明治天皇が東京へ移ると公家たちも東京へ移転していった。明治10年(1877)に政府によって九条家の敷地は買い上げられた。九条邸は取り壊され、広大な屋敷も捨翠亭と九条邸の鎮守だった厳島神社が残るばかりに。

北側の出島に佇む厳島神社。この社は平清盛が摂津の兵庫築島に、安芸の厳島神社の神を勧請し、同時に母の祇園女御を合祀して祀ったもの。経緯は分からないが、後にここ九条邸内に移され、九条家の鎮守とされた。家業繁栄、家内安全にご利益があるとされ、一般からも拝まれている。
石鳥居は、上部が唐破風形をした珍しい鳥居で、京都三珍鳥居の一つとして知られ、昭和13年に文部省より重要美術品に指定された。

厳島神社から眺めた池と捨翠亭。サルスベリはよく見かけるが、これほどピンポイントで映えるサルスベリは初めてだ。

これから捨翠亭(しゅうすいてい)の中に入ります。入口は西側にある。一般公開日は年末、年始を除く毎週木・金・土曜日と葵祭(5/15)、時代祭(10/22)の日。
中学生以下は無料です。内部の撮影はOKです(業者や機材使用はNG)。

玄関を上がると控えの間があり、その奥に十畳の広間がある。広間は茶室だが、池に面して板敷の広い縁が設けられている。お茶を楽しみながら美しい庭園を鑑賞したのでしょう。

広間から庭園を眺める。
拾翠亭は九條家の現存する唯一の建物で、今から約二百年前の江戸時代後期に数寄屋風書院造りで建てられたもので、10畳と3畳の二つの茶室が残されている。九条家の別邸として、主に茶会や歌会などの社交の場として利用されました。「捨翠」とは、緑の草花を拾い集めるという意味が込められているという。

二階にも上がれます。北、東、南の三方に高欄付きの縁がめぐらされ、九条池を中心とした庭園全体を眼下に見晴らせる。ただし、危険防止のため縁側には出れないようです。

二階から高倉橋を眺める。この時期、サルスベリが色取りをそえてくれる。
九條池は東山の山なみを借景とし、拾翠亭からの眺めを第一につくられたといわれています。今は木立が大きくなり東山は見えない。

こちらは厳島神社方向。

今度は捨翠亭から外に出てみます。これは南側から捨翠亭を見たもの。入母屋造りの屋根は、瓦葺と一部柿葺きが組み合わされているという。
女将さん(?)の話では、夏のサルスベリ、秋の紅葉、冬の雪景色がお勧めとおっしゃる。春が欠けているので尋ねると、ワビ、サビの茶室には派手な桜は似合わないそうです。

これな北側から見た捨翠亭。手前に小さな小間が広間に隣接している。三畳中板の茶室で、パンフに「当時公家方がこの二つの茶室を行き来しながらお茶を楽しまれたもので、貴族の茶事の習わしを知る上で貴重なものである」とあります。

池に小舟が浮かんでいる。舟遊びを楽しんだのでしょう。現在でも、なにか催事に使われるのだろうか。
京都御苑内には多くの公家邸の跡が残されているが、跡形もなく消え去り高札だけが立っている。唯一この九条邸跡だけが、当時の高級公家の優雅な暮らしぶりを偲ばせてくれる場所となっている。

 京都御苑 2(閑院宮邸跡とその周辺)  


九条邸跡から丸太町通りに出る「間ノ町口」を超えて西へ行くと閑院宮邸跡がある。堂々とした門が構える。ここが閑院宮(かんいんのみや)邸跡への入口になる「東門」です。

万世一系とされる皇統が継続されるかどうかが、皇室にとって最大の懸念である。そこで天皇に直系男子の継嗣がない時、天皇継承ができる家を創った。皇族の中で、天皇・太上天皇の養子縁組・猶子となって親王と認められ(親王宣下)て天皇継承ができる親王家(宮家)となったのです。江戸前期には伏見宮家・桂宮(八条宮)家・有栖川宮家があった。
儒学者・新井白石(1657-1725)は、皇統の備えとして幕府が費用を出して新しい親王家の創設を六代将軍徳川家宣に提言する。その結果、幕府の援助のもとに宝永7年(1710)に東山天皇の皇子・直仁親王を始祖とし新たな宮家として四番目の閑院宮家 (かんいんのみやけ)が創設されました。皇統の断絶の恐れはまもなくやってきた。安永8年(1779)、後桃園天皇が後嗣ないまま崩御、そこで当時9歳だった閑院宮家二代目の第六王子祐宮が光格天皇(1771-1840)として皇位を継承したのです。光格天皇以降は直系の皇太子が次代天皇に即位し、現在の令和天皇まで続いている。そうしたことから光格天皇は「現皇室の祖」と呼ばれることもある。
一方、閑院宮家は7代目が戦後の昭和22年(1947)に皇籍離脱し、昭和63年(1988)に跡取りが無いままに亡くなったことにより、閑院宮家は断絶しました。

閑院宮家の邸宅は正徳6年(1716)に造営された。しかし天明の大火(1788年)で焼失しその後再建され,閑院宮家が東京に移る明治10年(1877)まで屋敷として使用されました。その後は華族会館や裁判所として一時使用されたが、明治16(1883)年に宮内省京都支庁となり建て替えられたのが現在の建物です。一部に旧閑院宮邸の資材が利用されている。現在は環境省と所管となり、平成15年(2003) から3カ年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われました。バリアフリーのスロープが設けられているのが印象的。

建物内部の一般公開は午前9時~午後4時30分、休館日は月曜日(祝日を除く)と年末年始、入場料は無料です。東門は常時開けられ、庭園など建物の外は何時でも自由に見学できます。


建物は木造平屋建てで、中庭を囲む四つの棟で構成されている。




令和4年(2022)4月にリニューアルした収納展示館は、京都御苑の樹木・花・野鳥等の自然を、さらに御所周辺の公家町や公家の暮らしぶりを紹介している。VR映像シアターでは公家町の映像を流しながら解説していました。




次に建物南側の庭園を散歩してみます。庭園は何時でも自由に散策できる。まず池が現れる。やや素っ気なく感じられるが、現在の池は平成15~17年度の整備で復原されたもの。18世紀中頃に作庭された当時の池は、保存のために埋め戻し、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現したという。州浜を設ける手法は、京都御所、仙洞御所、桂離宮などの宮廷庭園に見られるものだそうです。



庭園の奥へ行くと建物の基礎が残されている。これは明治25年(1892)に建てられた宮内省京都支庁の所長官舎の跡です。その南側に小さな
池泉回遊式庭園がある。遣水が流れ、園池のほとりに置かれた雪見型燈籠(左写真中央)をはじめ、いろいろな形の5基の燈籠が配されている。
官舎の座敷から緑に包まれた曲水の流れを眺める、何とも贅沢な官舎だ。この所長は誰だろうかと調べると、宇田栗園(又は淵)(1827-1901)という勤皇の志士で、怪物公家・岩倉具視の腹心の部下だそうです。


閑院宮邸跡のすぐ東側に宗像神社(むなかた)があります。
社伝によれば、延暦14年(795)、後の太政大臣藤原冬嗣が桓武天皇の命により、皇居鎮護の神として筑前の宗像神社の宗像三女神を勧請し、自邸に祀ったのが始まりと伝わる。その後、花山院家に引き継がれ明治に至るまで、同家の者が別当として奉祀してきた。明治維新後の東京奠都によって花山院家が東京に転居すると、邸宅は取り壊されたが社殿は残され、現在は神社本庁に属している。

西側の烏丸通に面して4つの御門があるが、一番南に位置するのが「下立売御門(しもだちうりごもん)」。幕末の禁門の変(1864年7月)では「蛤御門の戦い」が有名だが、この下立売御門でも守衛の仙台藩と外から攻撃する長州藩との間で戦われた。今はクスノキに覆われ、静かなたたずまいをみせている。

下立売御門から東へ歩くと小さなせせらぎが流れ、「出水(でみず)の小川」の標識が立つ。
かっては琵琶湖疏水から専用水路で御所に水が引かれていた。それを利用して昭和56年(1981)にこの「出水の小川」が造られた。平成4年(1992)に御所水道が閉鎖されたことから、現在では井戸から地下水を汲み上げ循環濾過して流れを維持しているそうです。
長さ約110m、深さ10cm~20cm位で、子供の水遊びにちょうど良い。春には八重桜の名所になるという。春から夏にかけて、子供たちのはしゃぎ遊ぶ姿が浮かんできます。

「賀陽宮(かやのみや)邸跡」の説明版と「貽範碑(いはんひ)」の石碑が建つ。この辺りから烏丸通りにかけて朝彦親王の邸があった。幕末の動乱期に策動した公家・朝彦親王は賀陽宮、久邇宮など多くの呼び方があるが中川宮が一般的。

朝彦親王(1824-1891)は、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれ、13歳の時仁孝天皇の養子となり、親王宣下を受ける。その後、興福寺一乗院の門主、青蓮院門主、天台座主を務めた。幕府が結んだ日米修好通商条約に反対したため、安政6年(1859、35歳)井伊直弼の安政の大獄で隠居永蟄居となる。井伊直弼暗殺後、赦免され国事御用掛となり朝政に参画し孝明天皇を補佐しました。翌文久3年(1863)に還俗して中川宮の宮号を名乗る。当時京都では、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州藩や朝廷内の公卿の活動が活発化していた。危機感を抱いた公武合体派の領袖であった中川宮朝彦親王は、京都守護職を務める会津藩主松平容保やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、攘夷派公卿、長州藩を京都から排斥することを画策する。それが文久3年(1863)の「八月十八日の政変」です。追放された攘夷派志士たちは、朝彦親王を「陰謀の宮」などと呼び敵視した。この年、邸宅の庭にあった榧(かや)の巨木にちなみ中川宮から「賀陽宮(かやのみや)」に改めた。その後、幕府は二度にわたる長州征討を行ったが目的を果たせず、それに伴い尊攘派がしだいに復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」で追放されていた討幕派・尊攘派公卿が復権し、翌年朝彦親王は幕府を擁護した罪で安芸国(広島)へ幽閉される。親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった明治5年(1872)、謹慎を解かれ、伏見宮家の一員として京都に復帰する。明治8年(1875)久邇宮(くにのみや)家を創設、伊勢神宮の祭主となる。孫娘が香淳皇后(昭和天皇后)、そこから明仁上皇(平成天皇)の曽祖父、令和天皇の高祖父にあたる。
昭和6年(1931)、朝彦親王没後40年にあたりその遺徳を偲び子孫が合い寄って建てた碑です。「貽(い)」は遺と同じ「のこす」という意味を持ち、模範となるものを後世に残すということを表す。

 京都御苑 3(京都御所の南から西へ)  



京都御所の南側と西側の図面

九条邸跡前から撮った大通り。京都御苑の真ん中を南北にはしり御所の建礼門まで続くメインストリート。

信長、秀吉の時代に公家達は、御所周辺に集められ徐々に公家町を形成し、江戸時代には約200の公家邸が軒を並べていた。ところが明治維新となり、明治2年(1869)天皇が東京へ移ると、公家さんたちもこぞって後を追うように東京へ移転してしまう。御所周辺の公家町の建物は取り壊され、空き地が目立つようになり荒廃していった。「明治10年(1877)、京都に遷幸された天皇は、その荒れ果てた様を深く哀しまれ、御所保存・旧観維持の御沙汰を下されました。この御沙汰を受けて「大内保存事業」が進められ、皇室苑地として整備されたのが現在の京都御苑の始まりです」(御苑内の案内板より)

建礼門前から南方向を撮る。突き当りが九条邸跡。建礼門前のこの広い通りは、大正天皇の即位大礼に備えて拡張や石積土塁上にウバメガシ植栽などが行われたそうです。

天皇のお嘆きをうけ京都府では、直ちに土地を買い上げ建物を撤去、石積土塁を築いて外周を整え、内側には苑路を整備して樹木植栽等をおこなう「大内保存事業」を開始し、明治16年(1883)に完了した。管理は京都府から宮内省に引き継がれ、現在は環境省が管理している。広さは東西約700m、南北約1,300m、総面積は約65ヘクタール、甲子園球場の16倍もの広さをもつ。昭和24年(1949)、京都御苑は365日24時間出入り自由な国民公園として開放されました。
京都は寺社が多く緑も豊かだが、それとは全く異質の雰囲気をもった緑地で、街の中のオアシス、京都市民の散策の場として親しまれています。ともかく広い・・・、広すぎて閑散と感じる。

(2017/5/15 葵祭を撮影)京都三大祭りのうち5月には葵祭、10月には時代祭の行列が建礼門から出発し、ここを通って堺町御門から市中に出て行きます。

クソ暑い祇園祭、やや品格の落ちる時代祭り、京都観光には5月15日の葵祭が一番のお勧めです。そして観覧場所は通りの中ほど両脇の土盛上が良い。数メートル間隔で高さ30cm位の石柱が並び、この上に立って見る・撮る、腰掛けて休憩するのに利用できる。石柱には数に限りがあるので先陣争いが必要ですが。また、市中でなく御苑内で観覧するメリットは、「次に見えてきました斎王代は・・・」などとマイク放送で解説してくれることです。今年(2023年)の葵祭は、上皇(平成天皇)ご夫妻が御観覧の予定であったが、あいにく雨で順延されてしまった。

大通りの中ほど東側にこんもりした土盛が見られる。土盛上には松が植えられ、すぐ近くには大銀杏の木が突っ立ています。傍に「凝華洞跡(ぎょうかどうあと)の説明版が立つ。説明版は文字が擦れ読めないので、後でデジタル拡大して判読した内容は「江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています」

凝華洞跡の西方には、禁門の変の激戦地だった蛤御門がある。長州藩兵は宿敵・会津藩をねらって攻め込んだのでしょうか。またこの辺りは「御花畑」と呼ばれていたようですが、その由来はよく分からない。

京都御苑の図には、凝華洞跡の北側に「有栖川宮邸跡」とある。その辺りを探したが、それを示す碑も立札も見つからなかった。ただ、恐竜のようにくねる一本のアカマツが印象的でした。
有栖川家(ありすがわ)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。第2代親王は皇位を継ぎ後西天皇(在位:1654-1663)となっている。
以下はWikipediaによる「江戸時代を通し、京都御所の北東部分にあたる猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷が存在した。慶応元年(1865年)に、御所の拡張用地として召し上げられた。代わりに下賜されたのが、現在の京都御苑内で「有栖川宮邸跡」の碑が建つ、御所建礼門前の凝華洞(御花畑)跡であった(この地は直前まで松平容保が宿舎として利用していた)。この場所に明治2年(1869年)に新御殿が落成したが、わずか3年後の明治5年(1872年)、すでに奠都によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより幟仁親王も東京へ転住することになったため、宮邸の土地家屋は京都府を経て司法省に引き継がれ、裁判所として使用された。現在上京区烏丸通下立売角に建つ平安女学院大学の学舎の一つ「有栖館」は、この建物の一部を移築したものと伝えられている。」

9代・熾仁(たるひと)親王(1835-1895)は、公武合体策として徳川将軍家茂に嫁いだ皇女・和宮(孝明天皇の妹)の前の婚約者だった人として知られる。また慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」により新政府が誕生した時、総裁(今の首相)となる。戊辰戦争では東征大総督を務め、西南戦争では征討総督となった。大正2年(1913)に後継ぎが途絶えたため旧皇室典範の規定に基づきお家断絶が確定した。

今度は、大通りの西側へ行きます。凝華洞跡の反対側にあるのが白雲神社(しらくも)。この辺りは西園寺家の邸宅があった所で、白雲神社は西園寺家の鎮守社だった。御祭神は琵琶をもつ音楽神・妙音弁財天で、音楽や芸能の上達を願う人たちに人気のある音楽の神様です。絵馬には琵琶が描かれている。
西園寺家は藤原北家の流れを汲む公家で、琵琶の家として知られ歴代天皇に琵琶の教授を行っていた。鎌倉時代の公卿西園寺公経(1171-1244)が、今の金閣寺の地に別荘北山第を造営し、家名を西園寺と称しました。敷地内に妙音弁財天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てた。
江戸時代中頃の明和6年(1769)に西園寺邸がここ御苑内に移ると、妙音堂も邸内に再建されました。明治2年(1869)、明治天皇の東京行幸にともない西園寺家も東京に移り、屋敷は取り壊されましたが妙音堂は残された。明治11年(1878)、廃仏毀釈の荒らしの中、以前の神仏混淆の作法を神式に改め、地名の白雲(しらくも)村に因み、社号を白雲神社に改められました。
この場所は「立命館発祥の地」と云われる。西園寺公望が邸内に私塾「立命館」を創設したが、府によって1年足らずで閉鎖されてしまう。その後、塾生によって別の場所に創設されたのが現在の立命館大学です。

白雲神社から道をへだてた西側に梅林が、その北に桃林がある。約130本の梅、約70本の桃が植えられている。現在は閑散としているが、赤、白、ピンクに開花する2月中旬から4月にかけて甘酸っぱい香りが漂い、多くの人々で賑わうそうです。

梅林の近くに「枇杷殿跡」(びわどのあと)の説明版が建つ。内容は「このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経の三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002(長保4)年以降、藤原道長と二女妍子の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、1009(寛弘6)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。1014(長和3)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます」

桃林の北側の道を西へ行けば「蛤御門(はまぐりごもん)」。京都御苑への出入り口として9御門あるが、一番名が知られているのがこの蛤御門です。幕末の動乱期に、長州藩兵が御所に向かって攻撃を仕掛けた「禁門の変」または「蛤御門の変」(1864年7月19日)があったからです。

「8月十八日の政変」(文久3年(1863))で京都を追放された尊王攘夷の過激派・長州藩は失地回復・名誉回復を目指して京都へ進軍。烏丸通りに面した全ての御門で戦われたが、一番激しかったのが中央に位置する蛤御門だった。午前7時頃、侵入しようとする長州藩兵と、守衛していた会津・桑名藩兵との激戦になった。守衛側は押され気味だったが、烏丸通りの北方から応援に駈けつけた薩摩の精鋭部隊に側面から攻撃を受け、長州側は持ちこたえることができず、退却せざるをえなかった。その後、堺町御門でも激戦になったが長州軍は敗戦となり、21日には長州軍は総崩れとなる。長州藩邸に放った火は、町屋に燃え広がり、翌日には強い北風にあおられ拡大。京都の市民は、落ち武者のなかを、荷車に家財道具をくくりつけて逃げまどった。「鉄砲焼け」「どんどん焼け」と呼ばれるこの大火で、上京では御所の南の町屋が2割あまり(5425建)焼失、下京では、ほとんど全域が罹災した(22095軒焼失)。
「御所に向かって発砲した」として「朝敵」とされた長州藩への二度にわたる長州征伐戦争がおこり、政局は混迷を深めてゆく。
左は「江戸時代の御所付近図」(苑内の案内板より)
図を見れば、各門の位置が現在の位置より微妙に異なっています。これは明治10年(1877)~明治16年(1883)の京都御苑整備事業で現在位置に移設されたものと思われる。蛤御門は、現在より30メートルほど東側に位置し、南北に向いて建っていたようだ。

蛤御門は、本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」と呼ばれ、固く閉ざされ滅多に開くことがない門だった。ところが宝永5年(1708)の大火で御所が炎上した際に、まるで火に炙られた蛤のように門が開かれたことから、以後「蛤御門」と呼ばれるようになったという。
烏丸通り側から見れば、門柱の各所に銃弾痕が今でも残っています。

烏丸通り側から撮った蛤御門。

蛤御門から通りを東へ進むと京都御所の南面が見えてくる。その南西隅に突っかい棒で支えられた巨木が見える。説明版によれば、樹齢約300年のこの椋(ムク)の大木は、この辺りに清水谷家という公家邸があたので「清水谷家の椋」と呼ばれている。また、禁門の変の際に長州側の陣頭指揮をとっていた来島又兵衛が銃弾に倒れ、自刃した場所だそうです。長州兵はここまで攻め込んでいたのだ。

これから京都御所の塀に沿って北へ歩いてゆきます。ここは御苑の真ん中あたりで、ともかく広い。

しばらく歩くと、西方に中立売御門(なかだちうりごもん)が見える。禁門の変では、筑前藩が守護しており、長州藩兵と戦っている。
御門の手前が中立売北休憩所。室内は広く、左側がレストラン、右が売店と休憩所、トイレ。入口には「無料休憩所につき、どなたでもご利用ください」と案内されている。京都御苑内で食事できる所はここしかなく、昼時なのかレストランは大変混んでいました。私は注文品が出てくるまで30分以上待たされた。

宮内庁京都事務所の建物を右手に見ながら、さらに北へ歩くと「縣井(あがたい)」が現れる。「染井」、「祐井(さちのい)」と共に、御所三名水の一つに数えられています。
説明版に「昔この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中に登ったといいます。この付近は一条家の屋敷地内となっており、井戸水は、明治天皇の皇后となった一条美子のうぶ湯に用いられたとも言われています」

宮内庁京都事務所(写真中央)周辺は一条邸跡とされるが、何の目印も無かった。一条家は藤原北家嫡流九条家の庶流にあたる公家・華族。鎌倉時代前期の摂関九条道家の四男実経(1223~1284)が一条室町にあった屋敷を父から譲られたことが家名の由来となりました。摂政・関白を輩出し、五摂家の一つになる。幕末期の当主の三女・美子は明治天皇の皇后(昭憲皇太后)となった。

西方を見ると乾御門が構えます。「乾」とは、十二支の方位で戌と亥の間を表し北西の方角を示す。即ち、御所の北西隅に位置する門です。

 京都御苑 4(京都御所の北から東へ)  




御所北面の松の繁みの奥に入ると、枝垂れ桜の立ち並ぶ広地がある。ここはかっての名門公家近衛邸(このえてい)のあった場所。代々摂政・関白を務めた五摂家の筆頭格だった。御所炎上の際には仮の皇居ともなったそうです。平安京の近衛大路(現在の出水通)室町付近に邸宅を築いたことから「近衛殿」と称された。
近代では、戦前の昭和期に3度も内閣総理大臣を務めた近衛文麿がいる。「天皇の前で足を組んで話をすることが許されている唯一の存在だったといわれる」(wikipedia)近衛文麿だったが、戦後GHQにより戦犯指定されたため服毒自殺している。
傍にあるのが近衛池。近衛邸の庭園の遺構だが、現在は水は涸れて荒れ地のようになっている。茶室・又新邸は仙洞御所に移され保存されている。この辺りは京の早春を告げる糸桜の名所で、桜シーズンには多くの人が押し寄せるそうです。


近衛邸跡を東側に抜けると今出川御門。門の先は同志社大学で、さらのその北に相国寺があります。


今出川御門の東側に五筋塀と門が見えます。閉じられた門前に「桂宮邸跡」の木柱が立つ。
桂宮家は、天正17年(1589年)に智仁親王(1579~1629、正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六王子)を初代として創設された親王家。、元和6年(1620)に別邸として桂離宮を造営したことから後に「桂宮」と称されるようになった。幕末に京都御所が焼失した際に桂宮邸を孝明天皇の仮皇居とした。その時、天皇の異母妹である皇女・和宮親子内親王は、公武合体策の犠牲になりここから江戸の将軍家茂のもとへ降嫁しました。
桂宮家は明治14年(1881)に断絶。現在敷地を囲む築地塀と御門のほか、園池の遺構だけが残されている。本来あった建物は二条城の本丸として移築されて保存されているようです。

桂宮邸跡から御所の背後にまわり、御所塀の北東隅を見ると塀が奇妙に凹んでいて、この場所は「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ばれている。陰陽道によると北東は鬼門方位にあたる。そこで鬼門を「避けている」「除けている」ということから角を欠いて造っているのです。蟇股には、鳥帽子をかぶり御幣を担いでいる猿が木彫りされている。この猿は、日吉大社で神の使いとして大切にされている猿だそうです。日吉大社は平安京の北東に位置することから、表鬼門を守る神社として崇敬されてきました。その日吉大社は猿を神の使いとし、「神猿」と書いて「まさる」と読み、そこから「魔が去る」に通じるとして、猿は魔よけの象徴とされてきたのです(神猿→真猿→まさる→「魔が去る」)。ただこの猿は、夜になるとこの付近をうろつき、いたずらをするので金網に閉じ込められています。

またこの場所は、文久3年(1863)5月20日におこった「猿ヶ辻の変」でも知られる。朝廷内の尊皇攘夷派の急先鋒の一人だった姉小路公知が、朝議からの帰途中にこの付近で刺客に襲われ暗殺された事件です。

桂宮邸跡の東側が幕末の公家・権大納言中山忠能の邸宅跡。明治天皇の実母の実家であり、明治天皇の誕生の地です。
中山家は平安時代末期に、中山忠親により創設された公家で、江戸時代には大名家の家格に準ぜられ、最高官位は大納言まで進むことが出来る家柄でした。第24代の権大納言・中山忠能(1809- 1888、ただやす)の次女・慶子(よしこ)は宮中の高級女官「典侍(ないしのすけ/てんじ)」となり、孝明天皇の身の回りの世話をしていた。
「孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。」(Wikipediaより)
孝明天皇が崩御され(1866年12月)、翌年1月に明治天皇が即位する。今や天皇の祖父となった中山忠能は幕末維新期に倒幕に貢献。岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ(1867年12月9日)、小御所会議では司会を務めた。王政復古後三職制が創設されると議定に就任した。

敷地内の左奥に、祐宮(のちの明治天皇)が4歳まで過ごしたという産屋(6畳2間)が残っており、塀越しに見ることができます。

塀前に「祐井」の木柱が立ち、塀の格子間から奥の井戸を覗くことができる。祐宮が2歳の時、日照り続きで邸内の井戸が枯れたため、新たに井戸を掘ると清らかな水が湧きだした。孝明天皇は祐宮の一字をとって「祐井(さちのい)」と名付けた。「京都御苑の三名水」の一つです。

中山邸跡から東へ行くと、倒れそうな老木が支えによってかろうじて立っている。「公家町の時代から残る名木・五松(ごまつ)」と紹介されています。崩れ行く公家の象徴なのでしょうか。五松の角を北へ行くと今出川口が開いている。

五松の場所から東へ直進した所に「石薬師御門」が建つ。かってこの門の前にあった真如堂に石薬師が祀られていたことからくる。門前には石薬師通り、真如堂前道などの地名が残っています。

石薬師御門前から南に広がる鬱蒼とした繁みの中へ入って行く。ここは昭和61年に環境庁が提唱した「母と子が自然とふれあう機会を増やそう」というコンセプトのもとに森作りが行われ「母と子の森」と名付けられています。「おじいちゃんとおばあちゃんの憩いの森」のほうが相応しいような印象を受けました。死に絶えた老木が横たわっている。展示されているのか、放置されているのか?。
「森の文庫」と呼ばれる四面からなる本棚があり、植物や鳥についての図鑑や書物が置かれ自由に閲覧できるようになっている。ここだけは親子で楽しめそう。

「母と子の森」の南側は「京都迎賓館」の建物です。その裏手に「「染殿井(そめどのい)」が残されている。その傍らに「染殿第(そめどのだい)」の邸宅についての説明版が立っている。内容は「染殿第跡 この付近一帯は、平安京当時の北東端(左京北辺四坊)にあたり、平安時代前期に臣下として最初の摂政に任じられ、その後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸「染殿第」があった場所とされています。染殿第はまた、良房の娘・明子(文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所であり、清和天皇は譲位後ここに移られて「清和院」と称されました。(現在の「清和院御門」の名の由来となっています)ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれているのも、かつての染殿第にちなんだものでしょう。」

藤原良房(804-872)は藤原北家・藤原冬嗣の二男で、その子孫達も相次いで摂関となったことから、藤原北家全盛の礎を築いた人物とされている。また染殿井は「御所三名水」の一つに数えられ、清和天皇の産湯井にも使用されたという。

京都迎賓館の南、仙洞・大宮御所の北側に広い空き地が広がり、立札「土御門第跡」だけがぽつんと立っている。
ここは藤原道長(966-1027)が栄華を極めた邸宅の場所で、土御門大路に面していたことから「土御門第(つちみかどだい)」と呼ばれた。元々は源雅信(920-993)が造った邸だったが、雅信の死後、娘の倫子と結婚した藤原道長が継承した。多くの邸を持っていたが、ここが道長の本邸であり、一族栄華の舞台になった所です。。道長の姉である詮子(一条天皇の母)や、長女の彰子(一条天皇の中宮、後一条天皇と後朱雀天皇の母)の御所となる。彰子の妹・嬉子もここで後冷泉天皇を出産、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏(仮御所)ともなった。道長の栄華を示す和歌「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」はこの屋敷で詠われた。また道長に召し出されて彰子に仕えた紫式部は、その宮仕えの様子を「紫式部日記」に描写している。
こうして華やかな歴史を刻んだ土御門第だったが、鎌倉時代の吉田兼好「徒然草」には廃墟になり荒廃したようすが記されているという。
(説明書きの駒札がかすれて読めない、デジタル拡大しても判読しがたい。環境省さん、松の手入れも大切だが駒札も読みやすくしてくれ)

土御門第跡の前を仙洞・大宮御所の塀に沿って東へ行くと「清和院御門」がある。清和天皇が譲位後に「清和院」と称し、近くに住んだことからの名称です。門を出てすぐに左に、紫式部が住んでいた蘆山寺があります。紫式部は蘆山寺から清和院御門を通って土御門第へ宮仕えしていたのです(当時門はあったのかな?)

大宮御所の北側、京都御所の建春門東側の広地に「学習院跡」の立札が置かれている。江戸時代末期に、公家をはじめ御所に務める役人のための教育機関として開設されたもの。一時、諸藩の陳情や建白を受け付ける窓口としたことから、尊皇攘夷派の公家や志士の活動拠点とされたが、八月十八日の政変以降、本来の教育機関に戻る。天皇や公家が東京に移るとともに京都の学習院は廃止されたが、東京に再設立されている。


学習院跡には珍しい「桜松」が生育している。
左上の写真を見れば、松の樹上に桜が咲いている。これ自体が驚きだ。桜は、松の空洞を通り土に根を張っていたのです。育ての親松は倒れても、子桜は元気に成長し、春には美しい花を見せてくれます。

学習院跡北側の広地は、公家の橋本家の邸宅跡のようです。探したが立札など見つけられなかった。
橋本家は藤原北家の流れをくみ、鎌倉時代末期に西園寺実俊を祖として創設された公家。この橋本家で有名なのが、幕末の時代の波に翻弄された和宮(かずのみや、1846-1877)。
和宮の母・橋本経子は仁孝天皇の側室だった。和宮は仁孝天皇の第八皇女として生まれ、孝明天皇の異母妹にあたる。ここ橋本家で14年間養育され、嘉永4年(1851)には、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約している。和宮は6歳、有栖川宮は17歳だった。
嘉永6年(1853)6月ペリーの浦賀来航から政局は激しく動く。開国をめぐって幕府と朝廷は対立し緊張関係になります。この緊張関係を収拾させようとして考え出されたのが公武合体策。具体的には、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に降嫁させようというもの。紆余曲折を経て、嫌がる和宮を説得し、万延元年(1860))にようやく内諾を得る。
文久元年(1861)10月、和宮(15歳)は内親王の宣下を受け、江戸の14代将軍・徳川家茂のもとに正室として降嫁していく。翌2月、和宮と家茂の婚儀が行われた。慶応2年(1866)7月、家茂没後、落飾して「静寛院」と称す。
慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると、かっての婚約者だった熾仁親王が東征大総督になり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城攻撃の中止を懇願し、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。32歳で亡くなり、芝・増上寺に夫ともに葬られています。


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