山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 5(銀閣寺)

2024年05月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 哲学の道を終え、銀閣寺へ入る

 銀閣寺 1(総門、銀閣寺垣、中門、宝処関)  



銀閣寺橋を東に渡る。銀閣寺橋から総門まで続く200mほどの銀閣寺参道は賑わっています。お土産屋、お食事処が並び、普段でも観光客が多いのに、桜シーズンはさらに混雑します。

参道の突き当りが総門(寛政12年:1800年の再建)です。総門前にはベンチが用意され、休憩所にもなっている。


★・・・ 銀閣寺の歴史 ・・・★
室町幕府八代将軍足利義政(1436-1490:在職1449-1473)の時、義政の後継者争い、さらに細川勝元と山名宗全の対立による勢力争いもからまり、「応仁の乱(1467-1477)」が起こる。将軍・義政は責任感も政治力も乏しく収拾困難となり、各地の守護大名も、宗全率いる西軍と勝元率いる東軍に二分され争い、大混乱に陥る。長い戦乱は京都の大半を焦土と化し、多くの寺院が焼失した。文明5年(1473)、勝元と宗全が相次いで死去、また義政は将軍職を子の義尚に譲り隠居する。東西両軍の戦いは膠着状態に陥いり、厭戦ムードも漂うなか、文明9年(1477)に勝敗のつかないまま終結を迎えた。
文明14年(1482)、義政は東山山麓にある応仁の乱で焼亡した浄土寺跡に、祖父・義満の鹿苑寺(金閣寺)にならいかねてからの願望であった隠居所として東山山荘(東山殿)の造営を始めた。そして翌年にここに移り住んで、「東山殿」と呼ばれた。「常御所」(つねのごしょ)を住まいとし、禅室として「西指庵」(せいしあん)が完成すると落髪し出家する。文明18年(1486)には仏像や位牌を安置する東求堂が建てられ、西芳寺の庭園に習って造られた上下二段構造の庭園もこの頃に造営されたと思われる。
「当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。」という(Wikipediaより)
「義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった」(Wikipediaより)

長享3年(延徳元年、1489)、東山殿内で最後の建物として、金閣寺の舎利殿(金閣)と西芳寺の瑠璃殿を手本として観音殿(銀閣)の造営に着手。しかし翌年の延徳2年(1490)1月、義政は病に倒れ、観音殿(銀閣)の完成を見ることなく56年の生涯を閉じる。義政の菩提を弔うため、東山殿を禅寺に改め相国寺の末寺とし、義政の法号から「慈照院」と称した。翌年「慈照寺」に改められ、現在の正式名は「東山慈照禪寺(とうざんじしょうぜんじ)」。「銀閣寺」は正式名でなく、単なる呼び名にすぎない。
開山を夢窓疎石(1275-1351)とした。疎石は1世紀以上過去の人だが、崇拝する高僧として寺の創始者として位置づけた。金閣寺も同様で、これを「勧請開山(かんじょうかいさん)」という。

その後「室町幕府の末期、天文十九年(1550)三好長慶と十五代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失しました。また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなど、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していったのです。」(公式サイトより)

江戸時代に入ると徳川家康より35石の寺領を与えられ、宮城丹波守豊盛が普請奉行となり大改修がなされた。観音殿(銀閣)・東求堂の修理、庫裏・方丈の建設、荒廃していた庭園の修築が行われるなど復興が進み、現在目にするような寺観が整えられていった。「今の銀閣寺の現況はこの慶長の改修によるところが大きいのです。銀閣寺は将軍の山荘として造営されたのですが、改修に当たって、庭園や建築は、禅寺として、禅宗風の趣を取り入れ修復がなされたと思われます。」(公式サイトより)

1900年(明治33年)4月7日 観音殿(銀閣)が国の重要文化財に指定
1951年(昭和26年)6月9日 観音殿(銀閣)が国宝に指定
1952年(昭和27年)3月29日 庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定
1994年(平成6年)12月17日 「古都京都の文化財」として銀閣寺が世界遺産登録

慈照寺(銀閣寺)は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、相国寺の境外塔頭。金閣寺も同じ。

総門前の境内図。左側が北になる。

総門を潜り、角を曲がると壮大な垣根が両側にそそり立ち、これから始まる銀閣寺の世界を暗示させてくれます。約50m続く白砂利と大垣根の参道は「銀閣寺垣参道」と呼ばれ、銀閣寺のウリの一つです。左右の垣根の造りが異なっている。右側は石垣の上に椿をメインとした丈の高い常緑樹の生垣をのせている。左は、石垣の上に竹垣をのせ、その上に常緑樹の生垣を見せている。この石垣、竹垣、生垣のセットを「銀閣寺垣」と呼ぶそうです。

これだけ圧倒的な垣根は見たことがない。公式サイトは申します「銀閣寺垣と呼ばれる竹垣で囲まれた細長い空間は、これから始まる壮大なドラマの序章です。本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと思われますが、その厳粛で人工的な空間は我々の雑念を消し去ってくれます。それは喧噪の現代に生きる我々と、東山殿に現出しようとした浄土世界をつなぐプロローグでもあります」。確かにこれから始まる異空間への誘いでもあります。

銀閣寺垣参道を過ぎると、寛永年間(1624年 - 1644年)再建の中門がある。この中門の手前が拝観受付で、拝観料500円払うと、拝観チケットとパンフレットを頂ける。拝観チケットは金閣寺同様に、「銀閣観音殿御守護」と書かれた御札となっています。またパンフレットは、国際的な観光寺院らしく日本語、英語、中国語、ハングルで説明されている。その分内容は乏しい。

・拝観時間(3月~11月):8時30分~17時00分(下山:17時20分)
・拝観料 - 大人・高校生500円、中学・小学生300円。
・春秋限定の特別公開(令和6年3月20日(水)~ 5月6日(月))・・・東求堂・方丈・弄清亭を公開。特別拝観料:2,000円(ご希望の方のみ本堂前にて要申込)



中門を潜ると、左に庫裏と大玄関が建つ。正面に花頭窓が見えます。そこは「宝処関(ほうしょかん)」と呼ばれる唐門で方丈の玄関にあたる。創建時に初代住持として迎えられた相国寺の宝処周財にちなむ名称です。

花頭窓を額縁にみたてて銀沙灘を撮る撮影ポイントとなっています。







 銀閣寺 2(観音殿(通称「銀閣」))  



(写真右端が宝処関)寺を象徴するのが錦鏡池に面して建つ「観音殿」(かんのんでん、通称「銀閣」)。この銀閣が寺の中心なので、寺全体を「銀閣寺」と呼びますが、正式には「慈照寺(じしょうじ)」です。金閣寺の舎利殿(金閣)や西芳寺の瑠璃殿を模して造られた木造二層構造。現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物で、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京都三名閣とされる。
長享3年(1489)の上棟であるが、正確にいつ完成したのかは不明。銀閣寺内の建物は16世紀中頃の戦火で大半が焼失したため、この観音堂(銀閣)と東求堂だけが創建当時から残る貴重な建造物です。1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定される。内部は常時非公開

屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)の柿葺(こけらぶき)で、屋根上には東を向いた青銅の鳳凰が飾られています。ただし当初は宝珠だったようで、江戸時代中期の改修で鳳凰に換えられたようです。

北東から眺めた銀閣。一階部分は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれ書院造の様式が取り入れられている。東側だけ縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)となっているので、東側が正面であることを示している。北側の半分は白い土壁となっているほかは腰壁入りの障子窓で四周を囲い、住宅風の造りとなっています。

南西から眺めた銀閣。二階は「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、禅宗様の仏殿です。黒漆を塗った板敷の一間のみで観音菩薩坐像を東向きに安置している。観音像の背後に自然木を組み合わせて洞窟風になっていることから「洞中観音」「岩屋観音」とも呼ばれているそうです。

二階の四周には縁と高欄がめぐらされている。東西面には出入口はなく花頭窓だけ。南北面は中央に桟唐戸が設けられ開閉できるが、北面は両脇が窓がなく板壁であるのに対して、南面は桟唐戸の両脇に花頭窓が設けられている。以上のことからWikipediaによると「上層では南面と北面のみに戸があり、正面にあたる東面には出入口がない。以上のような上層の状況をみれば、上層は桟唐戸のある南面が正面とみなされ、当初は銀閣の南側に池があり、池を挟んで南側から観音像を拝する形であったと推定されている。銀閣はこのような変則的な形式をもつことに加え、部材にみる改造の痕跡から、かつて別の場所に建てられていたものが移築改造されたものである、とする説もある。ただし、平成21年(2009年)に行われた発掘調査によって、現・銀閣の下で室町時代の整地層と石列が確認され、銀閣は創建時の位置から移動していない可能性があるとの調査結果が公表された」。
一階は東向きだが、二階は南向きという謎の残る銀閣だ。

南から眺めた銀閣。一階の縁の南半分は四畳大の吹き放しの広縁となっており、その奥(左側)は板敷の仏間で千体地蔵像を安置しているという。

黒ずんだ色なのに何故「銀閣」と呼ばれるのだろうか?。2007年の科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが判明している。「銀閣」と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってから。義満の創った鹿苑寺と義政の慈照寺は、同じ禅宗の臨済宗相国寺派に属し相国寺の寺外塔頭寺院という全く同じ性格をもつ。そこから鹿苑寺の舎利殿が「金閣」と呼ばれるのに対応して、同じような楼閣造りの観音殿を「銀閣」と呼ぶようになったようです。

 銀閣寺 3(東求堂(とうぐどう))  



庭園北側に、方丈(左)と東求堂(右)が並んで建つ。本堂にあたる方丈は寛永元年(1624)の再建で、釈迦牟尼仏を祀り、足利義政・妻日野富子の位牌を安置している。正面に額「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」が掲げられています。東に連なる山々が、川の水の上を流れていくという、という意味だそうです。室内には与謝蕪村や池大雅の襖絵がある。現在は精巧な複製品に入れ替えられ、現物は相国寺承天閣美術館で保存されている。


方丈と東求堂は短い廊下で結ばれているが、その廊下の前に僧侶の袈裟(けさ)の文様に似ていることからから「袈裟型手水鉢」と言われる手水鉢が置かれている。四方の側面に市松模様が彫られた独特の意匠をもち、傍に「銀閣寺形手水鉢」という名札が立つ。




東求堂(とうぐどう)は文明18年(1486)の建立で、東山殿造営当時の遺構として現在残っているのはこの東求堂と観音殿(銀閣)だけです。両方とも国宝指定。「東求堂」の名称は、法語の「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」から由来する。相国寺住職が撰した候補の中から足利義政が選んだという。南面に掲げられている扁額「東求堂」は義政の筆による。
重入母屋造、檜皮葺の建物は正方形で、庭園に面した南が正面になる。内部は襖で仕切られた四室から成り、阿弥陀如来立像、足利義政像が安置されている。

四部屋あるうち「北面東側の四畳半は、義政公の書斎「同仁斎(どうじんさい)」とよばれ東山文化を生み出す舞台となった」(パンフより)。机である一間の付書院と物を収納する半間の違棚が設けられている。「この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるものである」(Wikipediaより)。この様式がその後の日本の和室の原点となったといわれる。

また室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる。それまでの茶接待は、別室で点茶し座敷に運び込む方法だったが、室内に炉を切り茶を立て客にふるまう形式が見て取れ、後に茶室などで一般化する四畳半茶室の始まりともいわれる。またその後の日本の生活空間に広く浸透した四畳半間取りの源流でした。
なお、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁(出身や身分や敵味方に関わらず、どんな人であっても平等に接すること。)」(出典:韓愈)からくる。

「四畳半」は、「ワビしい」「サビしい」わが青春の思い出・・・

室町時代初期の、足利義満の金閣寺に代表される優美で華やかなの文化を、その地の名から「北山文化」と呼ぶ。その後、11年もの長い戦乱が続き京都を焦土と化した応仁の乱(1467-1477)が終わると、信仰をよりどころとする人々が増え、質素で堅実な文化様式が受け入れられるようになった。隠居した八代将軍義政は、現実政治よりも美に関心を寄せ東山山荘(東山殿)を造り、東求堂で公家や武士、禅僧や文人たちと交流し、茶の湯、華道、絵画などに親しむ風雅で文化的な生活を満喫した。そうしたなかから中国文化や禅宗の影響を受け、簡素で洗練された様式をもつ茶の湯、生け花、枯山水の庭園、水墨画などが盛んになっていった。そこから「侘び・寂び」といった日本人の精神文化の根幹となる「東山文化」が生み出されていったのです。
金ピカの金閣よりは、東山文化を代表する黒ずんで地味な銀閣の方が日本人の精神性に合致するのではないでしょうか。

東側から眺めた方丈と東求堂。方丈・東求堂・弄清亭の内部は通常非公開だが、現在春の特別公開中です。国宝とはいえ、特別拝観料:2,000円とはチト高いのでは。近年流行りの富裕層向けプランなのか。内部には誰も人の姿が見受けられない。もちろん私もパス。

 銀閣寺 4(銀沙灘・向月台)  



方丈前に広がる銀沙灘と銀閣前の向月台。右端の花頭窓が宝処関です。

「銀沙灘(ぎんしゃだん)」は帯状に砂を盛り上げ波紋を描いたもの。月の光を反射させるためのものと言われていますが・・・。材料は京都・北白川の特産品「白川砂」が使用されている。

「向月台(こうげつだい)」は白砂を高さ約1.8メートルに円錐台形に盛り上げたもの。この上に坐って東山に昇る月を待ったもの、と云われるが、公式サイトは「俗説」だとおっしゃる。
銀沙灘と向月台が初めて記録に登場するのは、安永9年(1780)の都名所図絵で、今のような形になったのは江戸時代後期とされる。「これら二つの砂盛りも室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと思われます。」(公式サイト)。現代アートならいざ知ら、何のために造形したのでしょうか。「わび・さび」の東山文化に反するように思えるのだが。

 銀閣寺 5(錦鏡池(きんきょうち))  



義政は洛西の西芳寺を好み二十回以上訪れたという。慈照寺に庭園を造るにあたり、西芳寺の庭を模し自ら指図しながら造園した。そのため西芳寺と同じように上下二段構成をとり、下段は池泉回遊式庭園を、それより高まった所に枯山水式の庭園を造った(枯山水庭園は江戸時代の山崩れで埋没していたが、昭和になってから発掘された)。

写真左が「仙人洲(せんにんす)」と呼ばれる島で、向月台の横から架かる石橋が「迎仙橋(げいせんきょう)」

池泉回遊式庭園の中心は、銀閣から東求堂前に広がる錦鏡池(きんきょうち)で、橋で東西に分けられた瓢箪型をしている。錦鏡池には、7つの石橋と4つの名石があります。写真右端が仙人洲で、その島から南へ少し離れて「浮石(うきいし)」が見える。湖面に映る月を眺めていると、石がまるで浮いているかのように動いていったことから「浮石」と呼ばれた。
観音殿に向かって架かっている石橋は「分界橋(ぶんかいきょう)」で、その横に「北斗石(ほくとせき)」の名札が見えるが、この石の由来は?。

銀閣の対岸から撮る「逆さ銀閣」がビュースポットだそうだが、うまく撮れないナ。

これは東求堂前に広がる錦鏡池。左端が「龍背橋(りゅうはいきょう)」と呼ばれ、錦鏡池を東西に二分する橋で、庭園奥へ入って行くメインの観光通路になっている。

松、石、橋、苔と大変美しい庭園だが、江戸時代に大改修され創建当時の面影はかなり失われているという。慶長20年(1615)、宮城豊盛が銀閣寺の再建を任され、方丈を建て、東求堂や観音殿(銀閣)を修理し、また庭園の大改造を行ったのです。

東求堂正前に「白鶴島(はっかくとう)」があり、島の左右に石橋が架かる。左(西側)が「仙袖橋(せんしゅうきょう)」で、右(東側)が「仙桂橋(せんかきょう)」で、7つある石橋で室町時代から伝わる唯一の橋。左右の橋は白鶴が羽を広げたように見え、今にも飛び立とうとする白鳥を表しているという。

白鶴島の手前に「大内石」と名札の付いた石が見えます。これは銀閣寺の作庭に協力した守護大名・大内政弘が寄進したもの。細川石・畠山石・山名石などの記録があるが、現在は見あたらない。織田信長が永禄12年(1569)二条城建設に際し、ここから名石「九山八海石」「藤戸石」を持ち去り、二条城の庭に据えたという。

右が白鶴島。島の左に、浮いているように見える平らな石があり、「夢窓疎石座禅石」と呼ばれています。夢窓疎石は1世紀以上過去の人だが、慈照寺(銀閣寺)の「勧請開山」とされているので、この高僧の名を使わせていただいた、というくらいのことでしょう。

錦鏡池の南側は苔の庭が広がる。現在「苔寺」として名高い西芳寺を真似たのでしょうか?。西芳寺が苔寺と呼ばれるようになるのは江戸時代末になってからなのだが。

昭和26年(1951)、この池泉回遊式庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されました。

 銀閣寺 6(洗月泉、お茶の井、漱蘚亭跡、展望所)  



展望台へ向かう途中、錦鏡池南東端に小さな滝「洗月泉(せんげつせん)」がある。山肌から湧き出る水を錦鏡地に流し入れています。ただしこの滝は後世に作られたもので、本来の滝は右手にある石組で、山崩れによって埋もれてしまっていた。それが昭和4年(1929)に発見され、発掘されたのです。
名前の由来は、泉に映った月がさざ波で揺れ、まるで月が洗われているように見えることからくる。池の左端に投げ銭が見られます。

洗月泉から坂道を登って行くと、「お茶の井」と「漱蘚亭跡(そせんてい)」に出会う。義政は慈照寺に庭園を造るにあたり西芳寺の庭園を模し上下二段の庭園とした。ここはその上段にあたり、西芳寺の竜淵水石組を模倣し作庭された枯山水式の庭園だった。江戸時代の山崩れで埋没してしまっていたが、昭和6年(1931)に発掘・修復されたものです。現在は、山肌に今にも崩れそうな石組、「お茶の井」の泉、水流の跡が見学できる。

高台にある展望所までよく整備された石段を登る。距離は短いのだが、年寄りには堪えます。ここまで来る人は少ないので、多くの人は銀閣と池を堪能してお帰りになるのでしょうか?




展望所からは銀閣寺全体が俯瞰でき、その先には京都市街、吉田山(中央)が見えます。

展望所からの下り道。小川と苔、喧騒から解放された安らぎを覚えます。この苔の一番美しい時期はいつ頃なのだろうか?。
いきなり秋が訪れたかのような銀閣です。


    * 「桜の道:南禅寺から銀閣寺へ」・・・・・(完)


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桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 4(哲学の道2)

2024年05月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 冷泉天皇陵・霊鑑寺・安楽寺・法然院に立ち寄りながら哲学の道を歩く

 冷泉天皇陵櫻本陵(さくらもとのみささぎ) 



哲学の道の中ほどにある「桜橋」です。渡った正面に見えているのは「冷泉天皇陵櫻本陵(さくらもとのみささぎ)」。さすが天皇陵への参道だけあって、哲学の道にある多くの橋の中では一番幅が広く、しっかりしています。東山の麓の景勝地に眠っている冷泉天皇は幸せな天皇です。しかし哲学の道の騒々しさからすると、安静にはおられないと思うのだが、橋を渡って天皇陵にお参りする人などだれもいません。

空中写真を見れば陵墓全体は方形だが、宮内庁発表の陵形は円丘となっている。
古い記録によれば、冷泉天皇は桜本寺前野で火葬され、その山傍に遺骨を埋葬したとある。中世以降、陵墓の所在地は不明となっていたが、明治2年(1889)に桜本寺跡として現在地が陵に確定された。また哲学の道を挟んで西側の繁みの中に冷泉天皇火葬塚が設けられている。

68代後一条天皇皇后の藤原威子(1000-1036、いし/たけこ)は、長元9年(1036)に亡くなると、ここで火葬され宇治陵(京都府宇治市木幡)に埋葬された。摂政藤原道長は娘を次々と天皇に嫁がせ権勢を得ていった。威子もその一人。

第63代冷泉天皇(れいぜいてんのう、950年- 1011年、在位:967年- 969年)。諱は憲平(のりひら)。村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔の娘・中宮安子。円融天皇の同母兄。

時の権力者だった藤原実頼・師輔の兄弟は、村上天皇の第一皇子をさしおいて第二皇子・憲平親王を生後間もなく立太子させ、康保4年(967)に村上天皇が崩御すると即位させた。これが第63代冷泉天皇で、18歳の時だった。冷泉天皇は精神に病みがあったといわれ、補佐として藤原実頼が関白につく。しかし安和2年(969)、同母弟の円融天皇に譲位し太上天皇(上皇)となる。天皇としての在位は二年間にすぎず、62歳で崩御されるまで人生の半分以上の42年間上皇として余生を過ごされ、表舞台に立つことはなかった。弟の64代円融天皇、息子の65代花山天皇、甥の66代一条天皇のほうが先に亡くなっている。
冷泉天皇は、皇太子時代から精神の病から奇行が目立ったという話が残っている。異常行動の多くは、皇太子時代から天皇在位時に多く、上皇となってからは静かに余生を過ごされたという。権謀うずまく政治の世界から開放され、精神的に落ち着かれたのでしょう。

 霊鑑寺 (れいかんじ)  



冷泉天皇陵櫻本陵を南側に周り、南東角に出ると霊鑑寺の階段と山門が見えてくる。正式名を「円成山霊鑑寺(えんじょうさんれいかんじ)」といい、臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。
通常非公開の寺だが、春の椿と秋の紅葉シーズンに特別公開が行われる。今年(2024年)は3月20日(水・祝)~4月7日(日)。山門を入って左に受付があり、大人:800円  小学生:400円 幼児:無料

山門を潜ると、左に大玄関が見える。江戸時代初期に京都御所にあった後西天皇の御番所を移築したものという。上り口に椿の花が綺麗に飾り付けされています。この寺も「椿の寺」で、境内いたる所に椿の木が植えられています。

この場所は元々、後陽成天皇の典侍であった持明院基子の隠居所だったが、後水尾上皇が皇女・多利宮(たりのみや)を入寺させ寺院化をすすめた。承応3年(1654)、後水尾上皇は「円成山霊鑑寺」の寺名勅許し、多利宮は出家して「宗澄(そうちょう)尼」と名のった。これが霊鑑寺の創建です。それ以降明治維新まで5人の皇女皇孫が入寺し住職をつとめたので、そこから、「霊鑑寺尼門跡」、お寺の場所が鹿ケ谷(ししがたに)ということで「鹿ケ谷比丘尼(びくに)御所」または「谷の御所」などと呼ばれている。

大玄関先の中門を潜ると、椿の銘木が出迎え、奥に書院が建つ。右側の椿には「日光椿(じっこうつばき)」の名札が架かり、後水尾天皇遺愛の椿で、京都市指定天然記念物です。左側には「唐獅子」などの札が付く銘木が並ぶ。

貞享3年(1686)に後西天皇の皇女が二世住職として入られた際に、御所にあった後西天皇の御休息所を賜り移築したのがこの書院。狩野派による「四季花鳥図」などの華麗な障壁で飾られている。また、香炉、御所人形、貝あわせなど皇室ゆかりの貴重な寺宝が数多く収蔵されています。
右の写真は、表の立て看板に載っていた上段の間。これで休息所なのだ。

書院前に広がる池泉鑑賞式庭園。中央に石灯籠を置き、周りに立石を使った石組みを配置、周辺を椿の木で囲っている。石組に散る椿は、大豊神社とはまた違った味わいを見せてくれる。

小高い位置に本堂が建ち、書院と渡り廊下でつながっている。椿を鑑賞しながら階段を登る。本堂前も椿が盛んで、本堂前に黒椿があります、という寺側の説明でした。
この本堂は、寛政6年(1795)に11代将軍徳川家斉により寄進されたもので、本尊の如意輪観音像を祀っている。

本堂からさらに斜面を登り、書院の裏に降りてゆく小径が設けられ、その周辺には多くの椿が植えられています。寺を創建された後水尾天皇が椿を好まれたことから、回遊式庭園には約70種類150本以上の椿が植えられており、「椿の寺」の名にふさわしい景観を呈している。椿の花の盛期は過ぎたようだが、散椿の花びらが地面に広がる様子もまた美しい。

 安楽寺(あんらくじ)  



霊鑑寺を出て北に進み、ちょうど冷泉天皇陵の真裏に安楽寺(あんらくじ)がある。安楽寺の由緒は階段前の駒札に記されているが、より詳しく安楽寺公式サイトから紹介すると
「両上人(法然上人の弟子、住蓮<じゅうれん>と安楽<あんらく>)が称える礼讃は誠にすばらしく、両上人の前で出家を希望する人もありました。その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がおられました。両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴し感銘され、いつしか仏門に入りたいと願うようになりました。建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝の留守中、夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を乞います。最初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫のお詠に感銘されます。
「哀れ憂き この世の中にすたり身と 知りつつ捨つる 人ぞつれなき」
19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け「妙智法尼」と法名を授かります。また17歳の鈴虫姫は、安楽上人から剃髪を受け「妙貞法尼」と法名を授かります。
この事を知った上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てます。翌建永2年(1207)2月9日、住蓮上人は近江国馬淵(まぶち)(現在の滋賀県近江八幡市)で、同日安楽上人は京都六条河原(東本願寺近く)で斬首されました。この迫害はこれに止まらず、法然上人を讃岐国(香川県高松市)に流罪、親鸞聖人を越後国(新潟県上越市)に流罪に処します。いわゆる建永(承元)の法難です。その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられています。
また、両上人の亡き後、「鹿ヶ谷草庵」は荒廃しましたが、流罪地から帰京された法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けられました。その後、天文年間(1532-55)に現在地に本堂が再建され、今日にいたっています。」

浄土宗の寺で、「松虫鈴虫寺(まつむしすずむしでら)」とも呼ばれている。階段下に「浄土礼讃根元地」と刻まれた石柱が建つ。公式サイトに「開山両上人は、唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山(天台宗)の礼讃声明(らいさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました」とある。浄土念仏のお経に独特の節回しを付け、唄うように唱えることです。

瓦葺の山門を見慣れたせいか、こうした茅葺きの山門には風情を感じます。山門は明治25年(1892)再建なので、まだ新しい。黒石を敷き詰めたなだらかな階段と茅葺きの山門のこの場所は、紅葉の名所だそうです。想像しただけで、その絶景ぶりがうかがえます。

安楽寺は、山門から内は通常非公開。ただし春の桜・つつじ・さつきの時期と、秋の紅葉の時期、7月25日のカボチャ供養日には一般公開が行われます。今年(2024年)の春の特別公開は3月29日(金)~4月7日(日)10:00~16:00、拝観料500円。

山門を潜ると庭園が広がる。庭いっぱいにサツキの刈込が演出され、中央にある一本のしだれ桜が春らしさを感じさせてくれます。

江戸時代後期に移築された本堂は、方形裳階造りの建物。内部は、本尊・阿弥陀如来像を中央に、左に法然上人張子の像を、右に住蓮上人像、安楽上人像、松虫姫像、鈴虫姫像が配置されている。
一般公開日には30分おきに約10分間、住職さんによって寺の由来や木像の説明が行われています。

毎年7月25日は中風除けを祈願するカボチャ供養の日で、参拝者には先着者限定でかぼちゃの煮付けがふるまわれます。浄土宗とカボチャ、どんなご縁があるんだろうか?。ことの起こりは、1790年頃の住職が修行中に「夏の土用の頃に、当地の鹿ヶ谷カボチャを振る舞えば中風(脳卒中の後遺症など)にならない」という霊告を受けたことに由来するそうです。瓢箪型の鹿ヶ谷カボチャは、江戸時代中頃に津軽より種子を持ち帰り栽培し、連作しているうち瓢箪型になったという。今では絶滅危惧の京野菜。
お堂の「くさの地蔵菩薩」は、古くから皮膚病や腫瘍平癒にご利益があると信仰されてきた。お堂前左右には、狛犬ならぬ「狛かぼちゃ」が愛らしく建つ。しかしこれは水掛不動らしく「右のカボチャ地蔵は中風まじない、左側のカボチャ地蔵は祈願成就としてお水をお架け下さい」と説明されています。

庭園の片隅に住蓮上人と安楽上人の墓がある。



山側へ少し階段を上がった先に松虫・鈴虫両姫の供養塔があります。

安楽寺を後にし、天皇陵の北側を回って哲学の道に戻る。この橋は「法然院橋」となっている。午後になってまた人出が増えたようです。

哲学の道の川沿いでは、夏前になるとゲンジボタルが沢山飛び交うという。あの小さなホタルがこんな貝をエサにしているとは驚きです。

残雪かと思わせるようなユキヤナギ(雪柳)が川端で垂れています。この時期、柳のように垂れさがる枝に、小さな白い花をびっしりと咲かせます。花言葉は「愛嬌(あいきょう)」とか。

少し行くと、西田幾多郎が詠んだ歌
  「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり  寸心」
と刻まれた石碑があります(昭和56年(1981)設置)。傍らに設置された石板には
「コノ歌ハ 西田幾太郎先生ノ晩年ノ作デ  書ハ 昭和十四年ノ自筆ニヨッタ  人生ノ指針ヲ 示シタ碩学ノ教エトシテ 哲学ノ道ヲ散策スル人々ニ  愛唱シテホシイチナミニ  寸心トハ  先生ノ居士号デアル  昭和五十六年 五月」  と記されている。

哲学者・西田幾多郎先生は、静寂な小径を「ゼンとは、ゼンとは・・・」と思索問答しながら歩いたのでしょう(禅でも、ゼニでもないよ、善です)。今日では観光名所となり、思索などできる道ではなくなった。

 法然院  



西田幾多郎の石碑のすぐ先に「法然院第3号橋」がある。この橋を渡り、山の方へ進むと法然院(ほうねんいん)の参道です。

法然院の由緒について法然院公式サイトから紹介すると
「鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。1206年(建永元)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の1680年(延宝8)、知恩院第三十八世萬無(ばんぶ)和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂(にんちょう)和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。
浄土宗内の独立した一本山であったが、1953年(昭和28)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。」

参道に入ると、さっきまでの哲学の道とは違った空気感が漂う。鬱蒼とした樹木に覆われ、やや薄暗く静寂な雰囲気は、お寺だということを強く感じさせてくれます。

(境内図は公式サイトより)法然院の正式名は、「善気山 法然院 萬無教寺(ぜんきさん ほうねんいん ばんぶきょうじ)」。「善気山」は法然院の背後にある山で、東山三十六峰のひとつ。「萬無」は江戸時代初期に法然院を再興した和尚。

茅葺きの山門が現れる。樹木の陰影をうけ、階段上に佇む山門は絵になります。受付パンフに「古来の門は1887(明治20)年に焼失し、その後、旧来通り再建された。昭和時代初期、倒木のため倒壊、再建されて現在に至る」とあります。
石柱「不許葷辛酒肉入山門」が建つ。臭みが強い野菜や、お酒・肉を山門内に持ち込んではならない、という意味です。

山門の上に立つと、「白砂壇(びゃくさだん)」と呼ばれる白い盛り砂が現れる。真ん中は通路となっており、そのまま本堂へ通じています。「砂壇は水を表していて砂壇の間を通ることにより心身を清めて浄域に入ることを意味している」(パンフより)。砂壇の上には、水を表す砂紋と季節ごとの文様が描かれている。この季節は桜の花びらです。

左上の白壁の建物は経蔵で、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置し、また五百七十巻余りの経典の版木が所蔵されている。

中から見ると、山門の茅葺屋根はコケ蒸して、風情を感じさせる。

白砂壇と本堂の間は、中央の石畳の参道を挟んで左右に放生池(ほうじょういけ)があり、その周辺は椿などの樹木と刈込で庭園化されている。江戸初期の中興時は、池はなく3個の白砂壇があったそうです。椿花でお化粧された手水鉢が置かれている。境内に椿が多く、法然院もまた椿の寺だそうです。

庭園の右に講堂がある。元々は元禄7年(1694)建立の大浴室だったが、昭和52年(1977)に講堂として改装された。現在、講演会・個展・コンサートなどに利用されている。
放生池をまたいで大木が講堂へさし架けられている。何かの演出だろう、と思ったら、平成30年(2018)9月4日に関西を襲った台風21号による倒木でした。そのまま放置されているので、やっぱり演出?

これから玄関で履物を脱ぎ、建物の中へ入ります。ここで拝観料を支払う。
法然院の境内は、何時でも無料で自由に入れ見学できる。ただし伽藍内には入れない。伽藍内が特別公開されるのは春と秋だけ。今年(2024)の春は4/1~4/7、拝観料(入山料という):大人800円・大学生400円・高校生以下無料。
法然院公式サイト

堂内に入ったが、かなり複雑な構造をしている。図面が無く、案内もないので、現在自分がどこに居るのか、どこを撮っているのか分からなくなってくる。後で空中写真を見たが、かなりの建物が廊下で結ばれ入り組んでいる。中庭も多い。本堂の上が方丈でしょうネ?。方丈庭園は方丈の右か左か?、ワカリマセン。
堂内は撮影禁止なので、庭園のみの紹介になります。

これはどこでしょう?。とりあえずパチリ。

これは間違いなく方丈庭園だ。池は「心」の文字の形から「心字池」と呼ばれ、中央に中島があり石橋が架けられている。中島に阿弥陀三尊像に見立てた三尊石を配した浄土庭園です。
パンフに「心字池の奥には当山中興第二世忍澂和尚が錫杖で感知されたと伝わる善気水(錫杖水)が三百四十年余り絶えることなく湧き出している」とあるのだが、どこだろう?。京の名水として名高く、茶の湯に利用したり、飲むこともできるそうです。名前は法然院の裏山「善気山(ぜんきさん)」からくる。
庭園奥の石段の上には法然院の鎮守として弁才天が祀られている。

法然院も椿の名所で、多くの椿が見られます。写真は、パンフに「三銘椿(さんめいちん)の庭」と題され「本堂北側の中庭には三銘椿(花笠椿・貴<あて>椿・五色散り椿)が並ぶ」とあります。写真奥から手前に、花笠椿・貴椿・五色散り椿が、白砂の上に浮き立つように並ぶ。五色散り椿は「白色・桃色など数種類の色の花を咲かせ、花弁が一枚一枚散り落ちるのでこの名がある。花期は三月中旬から四月上旬である」そうです。

場所は分からないが、椿がメインの庭園です。手水鉢に椿の花が全面に浮かべられ、右側で獅子が眺めいっている。

堂内から表に出、本堂の東側に回る。本堂には恵心僧都源信作と伝わる本尊・阿弥陀如来坐像が祀られている。その他、観音・勢至両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像が安置されている。本堂内には入れなかったが、この場所で格子越しに拝観できます。

右側の石段上には、元禄3年(1690)忍澂和尚46歳の時に、自身の等身大の地蔵菩薩像を鋳造させ安置した「祠の地蔵」がある。

山門を出て南へ進み墓地へ向かいます。法然院の墓地は広いので谷崎潤一郎の墓などうまく探せるのか心配だったので、拝観受付で尋ねると、「谷崎潤一郎」の墓名は刻まれていないが、枝垂れ桜が目印です、と教えられた。また受付前に墓地見取り図が置かれていました。

山門から100mほどの所に墓地の入口がある。階段上の正面に見える大きな塔が「阿育王搭」です。アショーカ(阿育王は漢訳音写)は釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説王様で、古代インドにあって仏教を保護宣布したことで知られる。石塔寺(滋賀県東近江市)に伝わる阿育王塔を、江戸時代に模造したものとされています。石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大で高さは7.6mあり、国の重要文化財に指定されている。

阿育王搭のすぐ横に河上肇の墓があります。墓には「河上肇 夫人秀 墓」と刻まれている。河上肇(1879~1946)は京大教授の経済学者。マルクス経済学の研究・啓蒙に専心し、「貧乏物語」などの著作がある。

写真左の阿育王搭の先に一本の枝垂れ桜が見えている。その桜の木をはさみ左右に簡素な墓石がかれています。右の石には「空」が、左の石には「寂」という文字が刻まれている。そしてよく見ると左下に「潤一郎書」とあります。左にだけ卒塔婆が立てられているので、こちらが谷崎潤一郎の墓でしょうか。桜、目立たない小さな墓石、これは生前の谷崎の遺志だったのでしょうか。

谷崎潤一郎の墓から一段下がった所に5基の墓が並びます。中央左奥に枝垂れ桜が薄っすらと見えるので、それを元に位置関係を把握してください。一番手前が内藤湖南(1866-1934、京大教授、東洋史学者)の墓で、墓石は「湖南内藤」となっている。手前から二番目が濱田青陵(1881-1938、考古学者・京都帝国大学総長・名誉教授)の墓か?。墓名は別名だが、脇の石板に「濱田家先祖代々之霊位」とあります。奥から二つ目が九鬼周造(1888-1941、京都帝国大学教授・哲学者)の墓。

 さらに哲学の道を  



法然院からまた哲学の道に戻る。これは「洗心橋」です。
疏水分線「哲学の道」の桜並木の保全管理は京都市水道局の疏水事務所が行っている。害虫の駆除,桜の木の根の養生,立ち枯れや倒木のおそれのあるものの植え替えなど行い景観保存に努めているそうです。

哲学の道は川の右岸(山側)にも散策路が設けられているが、左岸のようにつながっているわけではない。川向こうの右岸には、独創的な建物や、おしゃれで雰囲気の良いカフェ、食事処、お土産物屋などが点在し、気分転換にちょっと立ち寄ってみるのもよい。要所要所に小橋が架けられているので、簡単に川向こうに渡れます。

今日は平日のせいか、あまり日本語は耳に入ってこない。半分以上は海外からの人のようです。コロナ期にも歩いたが、当時と雰囲気が一変しています。外国人のいない京都は京都ではありません。

川向こうに紅い幟のはためく小さなお堂の「弥勒院」が見えてきました。幟には「幸せ地蔵尊」と染め抜かれている。子どもを抱いた木造のお地蔵さんで、「今では幸せ地蔵尊として近所の方から観光に来られた方まで多くの方にお参り頂き、「幸せになった」との嬉しいお便りをたくさん頂いております」(公式サイトより)そうです。
修験道山伏のお寺・聖護院の末寺で、戦後まもなく現地に引っ越してきたようです。

銀閣寺参道へ続く「銀閣寺橋」が見えてきました。大変な人混みのようです。

銀閣寺橋上から南側を撮る。実は、哲学の道はこの銀閣寺橋が北の終点と思っていました。ところがまだ続きがあるようです。
疏水の流れは、この橋の下で西方向へ大きくカーブし、それに沿って桜並木も続いている。

東西に走る今出川通り。疏水の水はこの通りに沿って西へ流れてゆく。

疏水の流れに沿って桜が植えられ散策路が設けられている。桜のトンネルを堪能できます。地図をみれば「白川疎水通り」となっており、この橋は「銀閣寺西橋」。

銀閣寺西橋を超えたこの辺りの、今出川通りを挟んだ反対側に「白沙村荘橋本関雪記念館」が建つ。哲学の道に桜の苗木を寄贈した日本画家で、ここに住居を構えていました。そのため哲学の道の桜は「関雪桜」と呼ばれています。

写真左側に柵が見える。ここには京都市水道局疏水事務所により、哲学の道で「関雪桜」として親しまれているソメイヨシノの小枝を採取し,まったく同じ遺伝子を持つ後継クローン苗木を増殖させ、その三本の苗木が柵の中に植樹されているのです。近年,樹木が弱っていることから、関雪桜を後世に残そうとした試みです。またその先に「関雪桜」の石碑が建つ。

散策路は左右両岸ともよく整備されている。廃止された市電の軌道敷石を転用し、整然とした石畳となっており歩きやすい。

西田橋の脇へやってきた。桜のスポットとして注目される場所です。川を見ると、上流から流れてきた花びらが堰き止められピンク色の帯となっています。現在はまだゴミが溜まっている程度にしか感じられませんが、満開期を過ぎ、散り桜が盛んな頃には、何十メートルにも連なり「花筏(はないかだ)」という現象を造り出すという。川面が桜の花びらで何十メートルにもわたり覆いつくされる圧巻の光景は人々の目をクギづけにするそうです。ここは儚くも散った花ビラを見下ろす桜の名所です。咲いてよし、散ってよし、桜はやはり日本人の心だ。

ここは今出川通りと白川通りが交差する「浄土寺橋」。ここに「哲学の道」の道しるべが置かれている。哲学の道はここから始まるのだろうか。疏水の流れはさらに北西に流れ、高野川、鴨川へと流れてゆく。


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桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 3(哲学の道1)

2024年04月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 南禅寺を出て、哲学の道へ向かいます。

 哲学の道 1(熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ))  


南禅寺を出て、これから哲学の道へ向かいます。南禅寺境内を北側に抜けると、一車線の車道が通っている。「鹿ケ谷通(ししがだにどおり)」と呼ばれ、哲学の道に沿って銀閣寺まで続いています。珍しく車道に山門がかかっている。南禅寺境内図を見れば、この辺りも境内になっているので、南禅寺の門でしょうね。
奥に見える白い建物は、明治元年創立で浄土宗系の私立男子校「東山中学校・高等学校」。スポーツで有名で、岡島秀樹(プロ野球:巨人)、鎌田大地(サッカー)、髙橋藍(バレーボール)など著名スポーツ選手を輩出する。甲子園で雄姿を見たい。

しばらく行くと右手に「もみじの永観堂」と賞賛される堂宇が見えてくる。正式寺名は「禅林寺」だが、中興の祖とされる第七世永観律師(1033-1111)の時に大きく発展したので、現在でも「永観堂」と呼ばれています。ここの紅葉は文句なしに京都一だ(ココを参照)

永観堂から少し行くと、右へ入る道の角に一本の樹木と標識があり、哲学の道へはここを入って行く。目印や標識が無くても、人の流れに身を任せて行けばよい。ほとんどの人が哲学の道へ行く人、来る人なのだから。300mほどの緩やかな坂道で、両側には洒落たお店が並ぶ。


坂を登りきると、哲学の道の最初の橋「若王子橋(にゃくおうじばし)」があり、ここが哲学の道の南側のスタート地点になる。橋を渡った先が熊野若王子神社なので寄ってみます。



熊野若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)は、熊野信仰に厚く、生涯34回も熊野詣をした後白河法皇が、永暦元年(1160)に熊野権現を勧請し禅林寺(永観堂)の鎮守社としたことに始まる。
京都には「京都三熊野」といわれる神社があり、それぞれ新熊野神社は熊野本宮大社、熊野神社は熊野速玉大社、熊野若王子神社は熊野那智大社というように熊野三山に対応している。上皇をはじめ修験者は熊野詣に出かける際、若王子神社に寄り背後にある滝(那智の滝を表している)で身を清めてから熊野へ出発したのです。
応仁の乱で荒廃したが、豊臣秀吉により再興され、江戸時代には修験道の本山で門跡寺院の聖護院に属した。明治時代になり神仏分離令より聖護院より離れ現在にいたる。



境内入口の階段脇に、樹齢400年で京都府で最も古い御神木の梛(ナギ)の木がある。倒木の恐れがあったため、平成29年(2017)に見てのとおりの姿にされてしまった。梛の木は、縦方向に多くの平行脈をもち、強靭で光沢がある。そのため、熊野詣などで苦難から守ってくれる縁起のよい植物とされた。神木として神社に植えられることがおく、熊野地方では神木とされていた。




右が、国常立神、伊佐那岐神、伊佐那美神、天照皇大神の四神を祀る本殿。社名「若王子神社」は、天照皇大神の別名「若一王子(にゃくいちおうじ)」にちなむものです。もともと本殿は、本宮、新宮、那智、若宮の四棟で構成されていたが、昭和54年(1979)に一社相殿の形にまとめられた。左は恵比須社。





社務所に八咫烏の絵馬が販売されている。八咫烏(やたがらす)が梛の葉をくわえるマークはこの神社のシンボルだそうです。



境内の横に階段が設けられ、10分ほどかけて裏山へ登ると広場「桜花苑(おうかえん)」に出る。赤色に近い濃いピンク色の桜が咲き、数十本の桜木が乱立する。地面には絨毯のように花弁が敷き詰められている。もう満開を過ぎてしまったのでしょうか。
「陽光桜(ヨウコウザクラ)」の説明版が立っています。「戦前、愛媛県下で青年学校の教員となり、教え子たちを出征させた高岡正明さん(1909-2001)が、戦病死した教え子らの鎮魂と平和を願って作出した桜です。落命の地となったアジアなどの寒暖差の多様な気候に適応し、海外でも人目につく濃いピンクの一重咲き桜が三十年がかりで誕生。陽光の花には「美しい桜を見れば、人類は争う気にならない」との期待・・・」と書かれています。

階段の横をさらに奥へ行くと、熊野御幸の際に身を浄めたとされる「千手の滝」があるのだが、時間と体力を考えパス。さらに同志社創立者の新島襄と八重のお墓もあるという。

 哲学の道 2(大豊神社)  



熊野若王子神社前の若王子橋を哲学の道の南側のスタート地点とし、ここから北へ伸び、銀閣寺のある銀閣寺橋までの約1.5kmの遊歩道を「哲学の道」と呼んでいます。遊歩道に沿って約450本の桜が植えられ、もはや死語となりつつあるお堅い「哲学」の語とは対照的に、華やいだ雰囲気を醸し出している。

明治23年(1890)に琵琶湖疎水工事が完成した。その時、疎水は蹴上から分流され、南禅寺水路閣を通って北へ向かって流された。高野川をくぐり、さらには賀茂川へ続いているのです。この道は、疎水分線のの流れに沿って続く管理用道路として設置されたもので、芝生が植えられている程度の小径だったという。

明治時代、この近辺に多くの文人が移り住んでいたため「文人の道」と呼ばれていた。また京都大学にも近く、西田幾太郎(きたろう、1870-1945)、田辺元、河上肇などの学者が、思索を巡らせながら散策していたことから、「散策の道」「思索の道」「哲学の小径」とも呼ばれるようになっていった。
戦後、地元の方たちによって保存運動が進められた。そうした中で京都市により散策路として整備され、昭和47年(1972)に「哲学の道」が正式名称とされたのです。

「大豊橋」です。名前のとおり大豊神社へ通じている。

大豊神社(おおとよじんじゃ)の創建は、仁和3年(887)、宇多天皇の病気平癒のために尚侍藤原淑子が東山三十六峰の第十五峰目にある椿ヶ峰に、医薬の神である少彦名命を祀ったのが始まりである。また、宇多天皇の信任の厚かった菅原道真公も合祀されました。寛仁年間(1017 - 1021)に椿ヶ峰から現在地の鹿ケ谷へと遷され、後一条天皇から大豊大明神の神号を賜わり、以来この地域一帯の産土神として祀られている。南北朝の戦いや応仁の乱で焼失するが、その都度再建されました。

大豊神社公式サイト「京都哲学の道の「狛ねずみの社」として全国より多くの参拝者を迎える今日となりました。」

写真に見えている範囲が、神社境内のほぼ全て。正面が拝殿で、その後ろに本殿がある。背後の山が「椿ヶ峰」で、その名の通り、古くから椿の木が多く自生していた。神社も椿の名所として知られ、境内各所に椿が咲き誇っています。
写真右の椿の大木は、「大豊八重神楽」と命名された樹齢400年の銘木。本殿に覆いかぶさるように咲く枝垂れ桜は、円山公園の桜の3代目だそうです。



少彦名命、応神天皇、菅原道真を祀る本殿。医薬の祖とされている少彦名命にちなみ、社殿前には治病健康長寿・若返り・金運の象徴である「狛巳」が鎮座しています。私はヘビが大嫌いだが、紅白の椿で着飾ったこの巳は愛くるしくていい。





本殿右には、五穀豊穣、商売繁盛の稲荷社があります。稲荷神の使いがきつねなので、社の両脇に「狛きつね」が建つ。このキツネさんは額に椿を載せているが、右のキツネは咥えている。








さらに右手に大国社。大国主命がネズミに助けられたという神話から、椿の髪飾りをした「狛ねずみ」が置かれている。右の狛ねずみは巻物を抱え、学問に御利益があり、左は水玉を抱え、子授け・安産に御利益があるという。「狛ねずみ」は全国でここしかなく、ねずみ年の正月にはメディアに取り上げられ、初詣客で長蛇の列になるそうです。


本殿左側には愛宕社と日吉社が一つ屋根の下に並ぶ。愛宕社は火伏せ(防火)の守護神を祀り「狛鳶(とび)」が、日吉社は本殿の北側鬼門除けで「狛猿」を置く。

大豊神社は動物に優しい神社です。

大豊神社から哲学の道に戻り、さらに北へ歩きます。

小径に、そして小川に覆いかぶさるように約400本の桜が並びます。ほとんどがソメイヨシノですが、八重桜、ヤマザクラも一部あるようです。右手には、雪柳も彩りをそえてくれている。

哲学の道の桜は「関雪桜(かんせつざくら)」と呼ばれています。これはこの道に桜が植えられるきっかけになったことからくる。
近くに居を構えていた神戸市生まれの日本画家・橋本関雪(1883-1945)は、長年活動の場を与えてくれた京都市に報いたいと妻・よねに相談した。よね夫人は桜を植えてはどうかと発案、その結果大正10年(1921)に京都市に300本の桜の苗木を寄贈したのです。それがこの小径沿いに植えられ、桜並木となった。当初の木が老い果てると順次植え替えられ、現在の景観となっていったのです。

哲学の道に沿って流れる川には、大小30ほどの橋が架けられています。幅が狭く、テスリもない簡素な橋が多く、川向うのお店、住居へのために設けられたもののようです。名前の付いたしっかりとした橋は3分の1くらいでしょうか。これら大小の橋は哲学の道の良いアクセントになっている。歩を止め橋で一服し、桜を見上げ、そして川面を見下ろすと、そこにもまた桜が咲いています。橋は、桜と小川を撮る格好の場所となっているのです。




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桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 2(南禅寺)

2024年04月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
金地院のすぐ傍が南禅寺。三門、法堂、水路閣、方丈を巡る。南禅院は修理中のため拝観停止でした。

 三門  



金地院から南禅寺の参道に戻ると、目の前に南禅寺の勅使門(重要文化財)と中門が見えている。
南禅寺公式サイトに「勅使門は、寛永18年(1641)明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。古くは天皇や勅使の来山の折に限って開かれる門でした。現代では住持の晋山に限って開かれています。その勅使門の南にある中門は、慶長6年(1601)松井康之より、伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたものです。日の御門の拝領に伴い現地に移建され、幕末までは脇門と呼ばれていました。」とあります。

秋を思わせる情景ですね。南禅寺は春よりも秋の紅葉の方が映えます。

(境内図は公式サイトより)中門を潜り境内に入る。真っすぐのびる参道の突き当りが方丈で、その参道の右手に水路閣、左手に三門、法堂があります。

★★~ 南禅寺の歴史 ~★★
鎌倉時代、この地には亀山天皇が文永元年(1264)に造営した離宮の「禅林寺殿」があった。名前は近くにあった禅林寺(永観堂)に由来する。出家して亀山法皇となり禅林寺殿を、正応4年(1291)に開山を無関普門(大明国師)として寺に改め、「龍安山禅林禅寺」と名付けた。これが南禅寺の創建です。さらに正安年間(1299 - 1302)に「太平興国南禅禅寺」(たいへいこうこくなんぜんぜんじ))という寺号に改めた。これが現在まで南禅寺の正式名称です。南禅寺は、京都・鎌倉の禅刹「五山」の最上位に位置づけられ、別格として「五山之上」とされた。

その後、二度の火災(1393年、1447年)、さらに応仁元年(1467)に始まった応仁の乱により伽藍をことごとく焼失し、衰退していった。南禅寺の復興は、第270世住職となった以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)によって行われた。鷹ケ峯にあった金地院を南禅寺境内に移して居住し、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努め、三門、法堂や大方丈、小方丈、庭園などが造られていった。
明治時代になると、上知により境内は3分の1ほどに減らされ、塔頭も半分以下に減ってしまった。それでも主要伽藍は残され、現在では京都でも有数の観光名所となっている。平成17年(2005)、南禅寺境内全体が国の史跡に指定されました。

三門は永仁3年(1295)に西園寺実兼の寄進によって創建されたが、文安4年(1447)の南禅寺大火で焼失。現在の門は、以心崇伝による南禅寺復興時の寛永5年(1628)に、津藩主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進再建したもので、別名「天下竜門」と呼ばれる。
公式サイトに「三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです」とあります。

構造は「五間三戸二階二重門」(?)、入母屋造、本瓦葺で高さ約22メートル。両側に山廊をもつ。知恩院・久遠寺(山梨県)とともに「日本三大門」、知恩院・仁和寺とともに「京都三大門」とされる。国の重要文化財。

太く、重量感のある円柱に圧倒される。何本あるんだろう。高くてデッカイ敷居は、おばあちゃんが跨ぐのは大変だ。腰掛けて美しい境内を眺めるのにはちょうど良いが。


三門の斜め前に大きな石灯籠が置かれています。寛永5年(1628)の三門落慶の際に佐久間勝之が供養のために奉納した石灯籠で、俗に佐久間玄藩の片灯籠と呼ばれている。高さは6メートルあり、三門があまりにデカイので目立たないが、東洋一の大きさです。

南側の山廊に階段が設けられており、二階に上がることができる。山廊内に受付(拝観料600円)があり、履物はビニール袋に入れ持って上がる。傾斜45度の急階段で、両側のロープを頼りに、這うようにして登ります。

「五鳳楼(ごほうろう)」と呼ばれる楼上は四周が廊下で囲まれ、東西南北全方向を眺めることができます。しかし楼上内陣は塞がれ見ることは出来ない。ただ正面に一過所だけぞき窓が開けられ内陣を見ることができる。撮影禁止なので、公式サイトから紹介すると「山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。」とあり、内陣写真も掲載されています。

絶景かな、と叫びたいのだが、樹木に遮られ京都市内が少ししか見えないのが残念。大泥棒・石川五右衛門がこの三門上で見得を切り「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは小せえ、小せえ」といったセリフが有名です。しかし五右衛門は三門が建てられる30年前の文禄3年(1594)に捕らえられ、京都三条河原で子とともに釜ゆでの極刑に処せられている。歌舞伎「楼門五三桐」の芝居上の演出にすぎません。

反対の山側に周ると、春と秋が同時に訪れたようで、絶景かな、絶景かな。正面に見えるのは法堂です。

 法堂(はっとう)  



三門を降り、法堂へ向かう。三門と法堂を真っすぐ結ぶこの道が、私にとって南禅寺で一番お気に入りの場所です。春の桜、夏の新緑、秋の紅葉と四季ごとに彩りを変え、派手さは無いが何か落ち着きを与えてくれる参道です。後ろに三門がそびえ、緩やかな坂道を歩きながら振り返るごとにその表情を変えてみせてくれる。

南禅寺の中心となる法堂(はっとう)は法式行事や公式の法要が行われる場所。創建当時のものは、応仁、文明の乱で焼失したが、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建された。しかしこれも明治28年(1895)にこたつの火の不始末で焼失した。現在の建物は、明治42年(1909)に再建されたもの。

堂内には入れず、また外から見ることもできない。ただ径10センチほどの丸穴が開けられ、そこから覗き見れるようになっている。カメラを突っ込み撮ってみました。床は一面の敷瓦で、正面須弥壇上には中央に本尊の釈迦如来坐像、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置している。天井には明治から大正にかけて活躍した画家・今尾景年による幡龍が描かれている。


 水路閣(すいろかく)  



左が法堂、正面の白壁は方丈への入口になる庫裏、右の小橋を渡れば水路閣へ。
禅宗様式の伽藍配置は、勅使門、三門(山門)、法堂、方丈が一直線になっている。勅使門と三門の間に池が置かれることも多い。

初めて見た時、お寺にコレはなんだ!、と非常な違和感を覚えたものです。しかし何度か訪れて見ているうちに、古さび渋くなったレンガ構造物が周囲の環境にとけ込み違和感は感じなくなった。ピカピカのレンガでないのが良い、周りが庭園化されてないのが良い。木立越しに佇む水路閣のある一帯は、南禅寺境内だということを忘れさせてくれる異空間となっている。

「水路閣(すいろかく)」の名称で、今では有名な観光スポットとなっている。南禅寺を訪れて、三門を見上げこの水路閣で写真を撮っただけで帰る人が多い。特に古さびたレンガ造りのアーチ橋を背景に、着物姿で撮った写真が映えるそうです。
平成8年(1996)に日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。
琵琶湖疏水の分水を北へ流すため「当初は塔頭南禅院の南側にトンネルを掘って水路にする予定であったが、それでは南禅院にある亀山法皇廟所の裏を通ることになり、南禅寺が反対した。そのために現在の形を取ることになった。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声も上がった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。」(Wikipediaより)。
設計・デザインしたのは琵琶湖疎水工事の主任技師だった田邉朔郎で、明治23年(1890)に完成した。全長93.2メートル、高さ約9メートル。
当時景観論争がわき起こり、苦悩した田邉朔郎がだした結論が、古代ローマの水道橋を思わせるレンガ造りのアーチ橋だったのです。

この通し穴が絶好の撮影スポットだが、邪魔が入るのでなかなか難しい。橋を潜った先に階段が見え、登ると水路閣の上面が見られ、また蹴上インクラインへの近道ともなっている。

階段を登った正面が、南禅寺発祥の地・南禅院です。現在、改修工事のため塀で塞がれ拝観できない(令和7年(2025)3月まで)。

水路閣の上。この疎水の分流は北へ流れ、哲学の道に沿って流れる小川となり、爽やかな風景を演出してくれている。
「近代化遺産」とされたが、現在でも琵琶湖からの水を流し続ける現役なのです。





 方丈とその庭園  



水路閣のすぐ東側が方丈です。これから方丈とその庭園を見学するのだが、やや複雑な構造をしているので、自分の居場所が分からなくなってくる(数年前に経験)。そこで方丈の図面を入手したので掲載しておきます。この図面は南禅寺の庭園を手がけられた植彌加藤造園(株)の公式サイトからお借りしました。庭園も素晴らしいが、この図面も素晴らしい、ありがとうございます。

方丈の入口の横に唐破風の大玄関が見える。特別な行事の時にのみ使用され、通常は通れない。真っすぐ伸びた石畳の両側に、玉砂利を敷き詰め、樹木と植栽、景石を配置した美しい庭園で、植彌加藤造園さんによるもの。この石畳の敷石は京都市市電伏見線が廃止になった時に軌道敷の板石を払い下げられたものだそうです。

禅宗寺院特有の姿を見せる庫裏。ここが方丈への入口で、拝観受付があります(方丈庭園600円)。履き物を脱ぎ、置かれているビニール袋に入れて持ち歩く。使用済みの袋は(お土産に?、記念に?)「お持ち帰り下さい」とのこと。
南禅寺の正式名は「瑞龍山 太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)」。禅宗は、インドから中国へ渡った達磨大師を初祖とし、6代目の時に南宗(なんしゅう)禅と北宗禅に分裂した。「南宗禅の法を伝える寺の意から南禅寺の寺名になりました。南宗禅とは達磨大師より6代目の大鑑慧能禅師の法系をいいます」(公式サイトより)

玄関を上がったすぐ右手が「滝の間」で、抹茶(有料)を味わいながら滝を眺められる。滝水は琵琶湖疏水より取り込んでいる。板戸が開放されているので、抹茶を頂かなくても十分滝を鑑賞できるよ。
滝に覆いかぶさるように枝を広げるのはモミジ。滝に遠近感をつけるための仕掛けのようです。紅葉時期には、赤毛氈に座り抹茶を頂くべきです。



板張りの廊下が方丈へと続いている。右手の書院の部屋では、「南禅寺 歴史と美」と題した約10分の映像を流していました。








書院の北側に、「還源庭」(げんげんてい)と札の立つ小さく簡素な庭があります。左が大方丈で白壁は蔵。涵


書院の西側に、大方丈の建物とその庭園が見える。

大方丈は内陣と六部屋からなる。仏間を除く各部屋には桃山前期の狩野派絵師筆により障壁画計124面(重要文化財)が描かれていた。「描画により400年が経過して、彩色の剥落などの傷みがみられるため、平成23年(2011)12月に124 面中の84面を収蔵庫に保管しました。現在は、デジタル撮影した画像を元に、江戸初期から中期の色合いで描画復元した、84面のあらたな障壁画を補完して公開しております」(公式サイト)

大方丈の建物は、豊臣秀吉が天正年間(1573年 - 1593年)に建てた女院御所の対面御殿を慶長16年(1611)に下賜されたもの。昭和28年(1953)国宝に指定されました。

大方丈庭園は、江戸時代初期の以心崇伝による南禅寺復興の際に、小堀遠州によって作庭されたと伝わる。東西に細長く、全体を最高格式の五筋塀で囲い白砂を敷き詰め、左奥に石を並べサツキの刈り込みを中心に松とモミジを配置している。通常、石組みを立てて須弥山・蓬莱山などを表現し仏教観を示すのだが、ここではそれがなく、大小の石を寝かして並べているだけです。観念的意味を持たせず、ただ調和美だけを意識した庭園のように思えます。私はこうした庭園の方が好きです。
ところが明治以降、「虎の子渡しの庭」と意味づけされるようになる。左の大きな石が母虎で、小さな石の子虎を従え川(白砂)を渡っているそうです。私には、そんな風には見えないのですが・・・。

江戸時代初期の代表的な枯山水庭園として、昭和26年(1951)に国の名勝に指定された。

大方丈の廊下を進み角を曲がると、さらに廊下が続いている。この廊下の一番奥が、大方丈に接続して伏見城の小書院が移設され、「小方丈」と呼ばれている。

(庫裏前に掲載されていた写真より)小方丈の部屋は「虎の間」と呼ばれ、狩野探幽筆の「群虎図」40面がある。中でも「水呑の虎」の図(上の写真)は、猛々しい虎が生き生きと描かれていて有名です。Wikipediaは「小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている」といっています。

小方丈前の庭園は「如心庭」と呼ばれている。「小方丈庭園は別名「如心庭(にょしんてい)」と呼ばれます。昭和41年(1966)に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導されて植彌加藤造園に作庭されました。その名のごとく、「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭で、解脱した心の如く、落ち着いた雰囲気の禅庭園となっています」(公式サイトより)

小方丈の北へ周ると「六道庭(ろくどうてい)」です。天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界をさまようという六道輪廻の観念を表したという。バラバラに置かれた石は、煩悩に迷い彷徨う姿を表したものでしょうか。
白壁の左脇に少しだけ見えるのが「大筒垣(おおづつがき)」と呼ばれ、南禅院の竹藪から孟宗竹を切ってきて太めの鉄砲垣を創作したもの。

大方丈の北、小方丈の東、中庭のような小さな庭がある。大方丈の「鳴滝の間」に接しているので「鳴滝庭」と呼ばれる。北西隅に、岐阜県で採取された大変貴重な紅縞(めのう)で作られたという大硯石が置かれている。

渡り廊下を挟んで六道庭の東側に、昭和59年(1984)に作庭された「華厳庭(けごんてい)」がある。白砂で見立てた大海に浮かんでいるのは、島か舟か?。囲いは「南禅寺垣」というそうです。南禅寺垣の奥に見えるのが、昭和43年(1968)に寄進された茶室「窮心亭(きゅうしんてい)」。修学院離宮にある後水尾天皇命名の「窮邃軒(きゅうすいけん)」の趣を慕って名付けられたという。

渡り廊下の北の端は、昭和59年(1984)に造られた「龍吟庭(りゅうぎんてい)」。中央に「涵龍池(かんりゅういけ)」を置き、周辺に白砂、巨石を配する。この辺り、春よりは秋が見頃か。池の奥に見えるのが昭和29年(1954)の寄進された茶室「不識庵(ふしきあん)」。

中央が三門、左は法堂。こちらの通りは人が少ない。皆、水路閣のほうへ引き寄せられて行きます。
国の史跡に指定されている境内は24時間無料開放されている。拝観料が必要なのは、(大人個人)方丈庭園600円、三門600円、南禅院400円。拝観時間は午前8時40分~午後5時(年末12月28日~31日は休みだが、年始は休まない)
南禅寺公式サイト



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桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 1(蹴上インクライン・金地院)

2024年04月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
今年も桜の季節がやって来た。やや寒い日が続き、例年に比べ開花が送れていたようだが(例年通り?)、関西もやっと満開を迎えたようです。今年は京都を代表する桜の名所「哲学の道」を歩こうと予定していたので、チャンスを窺っていた。混雑する土日は避け、天気予報を判断した結果、5日の金曜日とした。
南禅寺・哲学の道界隈は何度か訪れているが、ブラ歩きするだけだった。今回は、周辺を含め少し詳しく見てみようと目論んでいます。地下鉄東西線の蹴上駅を出て、蹴上インクライン→金地院→南禅寺→哲学の道→銀閣寺へと、南から北へ向かうコース。哲学の道の脇には、熊野若王子神社,大豊神社,霊鑑寺,安楽寺,法然院といったユニークな社寺が存在するので寄ってみます。

上はGooglEarthの空中写真。哲学の道をピンク〇で示した。哲学の道を超拡大して見ると、通りは満開の桜で埋まっている。ところが写真取得日が「2022/3/10」と記載されている。写真は嘘をつかないので、日付が??。

 蹴上(けあげ)インクライン 1  



大阪からは、JR京都駅→地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」乗換→地下鉄東西線「蹴上駅」下車。京都駅から約20分くらい。車道「三条通」下に蹴上駅があり、インクラインの土手下の出口から地上に出る(写真)。土手の桜は、ちょうど満開の見頃となっているようだ。

土手の真ん中あたりに、レトロな雰囲気を漂わせた赤レンガ造りのトンネルがあり、「ねじりまんぽ」というなんとも奇妙は名前が付けられている。高さ約3m、長さ約18mで、蹴上駅からインクラインの土手下を通って南禅寺へ行く近道となっています。

上のインクラインを行き交う船を乗せた台車の重さに耐えられるようにするため、レンガを斜めに螺旋状に積み上げ強度を高める工法が採られている。これが「ねじり」です。またトンネル自体も、土手と直角にならないよう斜め掘られているようです。古い鉄道のトンネル構築に主に使われた工法だが、技術革新により現在では見られなくなった。

Wikipediaには「ねじりまんぽの「まんぽ」は近畿地方でトンネルのことを指す方言で、マンボ、マンプウ、マンボウなどとも言われる」とある。

インクラインの最上部に上がってみます。石ころの坂道に4本のレールがはしり、その上を満開の桜が覆いっているという、華やかで、それでいで奇妙を風景が展開する。これを理解するには、明治の琵琶湖疎水事業を知らなければなりません。

明治維新で徳川幕府は倒れ、新政府は都を江戸(東京に改名)に移し、天皇と取り巻きの公卿たちは東京へ移って行った。平安京以来,首都として栄えてきた京都の人々は、これでは京都は寂れ衰退してしまうと危機感を抱いたのです。

第3代京都府知事となった北垣国道は京都を復興させ活力を呼び戻すため、水路を造り琵琶湖の水を京都に通すということを構想した。市の年間予算の十数倍という膨大な費用を投入して、疎水開削工事は明治18年(1885)に着工、5年後の明治23年(1890)に完成した。これによって灌漑用水によって田畑が潤い、市民生活のインフラとなる上水道や防火用水が整備され、また水力発電によって新しい産業を興し、電気鉄道も市内を走るようになった。明治45年(1912)には第2疎水も完成している。

写真中央に見えるのが第三トンネルで、疎水の京都への流入口。この辺りに第1疎水、第2疎水の合流点もある。赤レンガの建物は「旧御所水道ポンプ室」。これは京都御所に防火用水を送水する仕組み。ポンプで背後にある山上の貯水池に揚水し、御所で火災が発生した場合には,山上の貯水池から水を高圧で送水するのです。鴨川の水では頼りなかったようです。この建物を設計したのは京都国立博物館や赤坂離宮(現在の迎賓館)を設計した片山東熊で、国登録有形文化財に登録された(2020年4月)。

現在、琵琶湖の大津からここ蹴上まで観光船「びわ湖疎水船」が運行され、ここが乗下船場となっています。

それまで人馬に頼っていた京都と大津の間の荷物輸送が、疎水路を使った舟運により大変便利になった。ところが問題は、蹴上区間の高低差約36mという落差をどう克服すかです。そこで採用されたのがインクライン方式(傾斜鉄道)だった。傾斜部にレールを敷き、舟を台車に載せてロープで引っ張り坂道を上下させるというもの。

写真の場所は「蹴上船溜(けあげふなだまり)」といい、舟を台車に載せる、又は台車から降ろす場所。現在、当時利用された台車と舟が復原展示されています。
二本のレールが水中まで引き込まれている。これは台車を水中まで引き入れ舟の下に入れ、そのまま引き上げると、荷物の積み下ろしをすることなく舟を台車に載せることができる。ロープを引っ張るのに、水力発電による電力モーターが使われた。明治24年(1891)に営業開始され、下の「南禅寺船溜」までの約580mを10~15分くらいで移動させた。
蹴上船溜の傍に小さな祠があり、一体の石仏が祀られています。傍に「義経地蔵」と書かれた説明版が立てられれている。義経は鞍馬山から奥州へ向かう途中、東海道のこの辺りで馬に乗った平家の武士9人とすれ違った。その時、馬が泥水を蹴り上げ義経の服を汚してしまった。怒った義経は9人を斬り殺したという。切り殺された9人の菩提を弔うために村人が九体石仏を安置した。ここの祀られているのはその内の一体だという。「蹴上(けあげ)」の地名は、この義経伝説に由来しているそうです。

インクライン上部の東側は蹴上疎水公園で、ここも桜が見られる。しかし人は皆レールの方へ行ってしまい、公園は人が少なく静かだ。公園の中央に田辺朔郎の銅像が建てられている。
田辺朔郎(たなべ-さくろう、1861-1944)は、工部大学校土木科(東京大学工学部の前身)卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」が北垣京都府知事の目に留まり、弱冠21歳で疏水工事の土木技術者として採用された。琵琶湖疏水工事の設計・施工の総責任者となり、工事を完成させた。インクラインを造り、蹴上に日本最初の水力発電所を造ったのも彼です。
「蹴上疎水公園」を抜けて奥へ行き、鉄柵で防御された細い通路を渡る。左側には関西電力の巨大な水圧鉄管が蹴上発電所へ水を落としている。
さらに進むと平坦な小路が疎水分線に沿って続き、南禅寺の「水路閣」にでる。南禅寺への近道というか、抜け道となっている。水路閣からやってくる人ともすれ違う。

 蹴上(けあげ)インクライン 2  



インクラインに戻り、下方向へ歩いてみます。まだ早朝8時なのにかなりの人出だ。

インクラインのその後の歴史を見てみよう。インクラインの舟運は明治末頃に最盛期を迎える。しかし大正から昭和にかけて、鉄道輸送、国道の整備などの交通網が発達してくるとインクラインの利用は大きく減少してきた。そして戦後の昭和23年(1948)11月に休止されたのです。レールも撤去され、跡地は荒廃していった。こうした現状に、地元の人々は復元を願い、京都市に働きかけていった。その結果、昭和52年(1977)4月に復元工事が終わる。廃止された市電の敷石が敷かれ、以前と同じように四本のレールが敷設され、周辺環境も整備された。この時に桜も植えられたのです。
昭和58年(1983)、京都市の文化財に指定され、産業遺産として保存。平成8年(1996)、蹴上インクライン、水路閣など琵琶湖疏水に関する12カ所が、近代遺産として国の史跡に指定されたのです。現在では、桜並木の観光スポットになっている。

正装のカップル記念写真。京都ではよく見かける光景です。ほとんどが東南アジア系で、邦人は恥ずかしくてできません。いつもなら和服姿で写真撮る人を多く見かけるのだが、まだ早朝なのでレンタル着物店が開いていないようです。

約90本のソメイヨシノがレールに覆いかぶさるように花を開く。ピンクのトンネルを潜って蒸気機関車が出てきそうな雰囲気。夏に新緑、秋には紅葉も楽しめるようだが、やはり春の桜が一番の人気。最盛期は多くの人で溢れ、レールが見えなくなるそうです。違和感のあるようなレールだが、真っすぐ奥へ伸びて風景に筋を通し引き締めてくれています。

幅約22m、総延長約580m、勾配15分ノ1の路面が緩やかな傾斜を保ち下っている。ここは元々切り立った崖だったが、疏水工事の際のトンネル掘削で掘り出された土砂を積み上げて路盤を整備したものです。

インクライン中ほどを過ぎたあたりにも、舟と台車が展示され、積まれている樽には「伏見の清酒」とある。説明版に「明治27年(1894)には伏見区堀詰町までの延長約20kmの運河が完成し、この舟運により琵琶湖と淀川が疎水を通じて結ばれ、北陸や近江、あるいは大阪からの人々や物資往来で大層にぎわい、明治44年(1911)には渡航客13万人を記録しました」と書かれている。

そろそろインクラインも終わりに近づいてきた。見えてる橋は南禅寺参道へ続く「南禅寺橋」。ここでもやっています。幸せそうなお二人さん。

インクラインの下端が「南禅寺船溜」。ここで舟を台車からおろす、又は載せるという作業を行っていた。正面は岡崎動物園で、現在動物園の休憩室となっている白い建物の下に旧ドラム室があった。インクラインの台車を動かすためのワイヤーロープを巻き上げるウインチの運転台と機械室です。現在、見学できるようです。

船溜の中央の大きな噴水は、疎水の高低差を利用して水圧だけで噴き上がっているという。写真右側には、琵琶湖疎水に関する資料やアーカイブ映像などを展示している琵琶湖疎水記念館(入館無料、9:00~17:00、定休日は月曜日と年末年始)があります。



疎水はこの南禅寺船溜を経由してさらに西へ向かってのびており、ここから鴨川に合流するまでの流れを「鴨東運河(おうとううんが)」、または「岡崎疎水」と呼ぶ。全長約2kmの疎水沿いには公園、美術館、動物園、平安神宮があり、春には桜一色となり多くの人々で賑わいます。春限定の遊覧船「岡崎さくら回廊十石舟めぐり」で、桜と水を満喫できます。午後になると、乗船待ちの長い列ができ、すぐに乗船できません。






 金地院(こんちいん)  



南禅寺橋の上です。右側橋下にインクラインがとおり、左奥へ進んでゆけば南禅寺への参道。春よりは秋の紅葉時のほうが鮮やかかな。

南禅寺中門へさしかかる手前右側に「金地院」と書かれた門があります。また「東照宮下乗門」の札も掛かるので、参拝者はここで下馬しなければならなかった。門を潜った右手に南禅寺塔頭で以心崇伝(金地院崇伝)ゆかりの金地院がある。

門の奥に見える道は、蹴上インクラインにあったトンネル「ねじりまんぽ」とつながり、南禅寺への近道となっています。

金地院の入口になる「総門」。金地院は「応永年間(1394年 - 1428年)に、室町幕府第4代将軍足利義持が大業徳基(だいごうとっき、南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯(現・京都市北区)に創建したと伝えるが、明らかではない。」(Wikipediaより)
江戸初期の慶長10年(1605年)、徳川家康の信任が篤かった以心崇伝により臨済宗南禅寺の塔頭として現在地に移建された。崇伝は南禅寺の第270世住職となり、自らの住坊として再興したのです。崇伝は元和5年(1619)に幕府より僧録(僧侶の人事を統括する役職)に任ぜられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって幕末まで続いた。そして金地院は、10万石の格式を与えられ、「寺大名」とも呼ばれる権勢を誇ったという。(以心崇伝については最後の開山堂を参照)

(境内図は受け付けに置かれていたもの)門を潜ると右手に拝観受付がある。【拝観時間】8:30~17:00 ※12月~2月は16:30【拝観料】500円(八窓席は別途700円)
正面は庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を表にみせ、大きな三角形の白壁と黒茶色の木組が際立つ禅宗寺院に特有の建物。多くは拝観入口となるのですが、ここでは入れません。

受付からすぐのところに、唐門の明智門(あけちもん)と方丈の屋根が見える。

京都国立博物館の北にある豊国神社に総欅(けやき)作りの豪華絢爛な唐門が建ち、現在桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されています。その唐門は、秀吉の造った伏見城の城門だったが,二条城へ移され、さらに崇伝が幕府から賜り、この位置に建っていたのです。ところが、明治維新を経て秀吉は復権、豊国神社が造営され、豊国大明神として祀られた。そして唐門を豊国神社に譲ずらざるをえなくなった。そこで金地院は明治19年(1887)、大徳寺から門を買得し、現在地に移築したのが現在の門。この門は、明智光秀が母の菩提のため黄金千枚を寄進し大徳寺方丈に建立したもので「明智門」と呼ばれている。
家康を祀る神社に秀吉の門があり、秀吉の門の後に光秀の門がくる。不思議な巡り合わせですね。(豊国神社の唐門はココを参照。両者を比べるとスケールが違う)

明智門を潜るとすぐ右手が方丈(本堂、重要文化財)。一重、入母屋造、書院造、柿葺(こけらぶき)。
Wikipediaに「この大方丈(本堂)は寺伝では慶長16年(1611年)に、崇伝が伏見城の一部を江戸幕府3代将軍徳川家光から賜り、移築したものといわれるが、話の時代が合っていないうえ、建物に移築の痕跡は確認できない。実際は寛永4年(1627年)に崇伝によって建立されたものとみられる」とあります。
細長い縁先があり、障子の奥が広い板敷の廊下となっている。廊下の奥には六間あり、中央の仏間に本尊の地蔵菩薩像が安置されています。各部屋の襖や障子腰板には狩野派(狩野探幽、尚信)により金地に松、梅、菊、鶴などの障壁画が描かれている。
廊下正面に掲げられている額「布金道場(ふきんどうじょう)」は山岡鉄舟(1836-1888)の筆によるもの。明治初めの廃仏毀釈の嵐を防ぐため、仏教寺院ではなく道場だと主張しています。

開山堂前から見た方丈
方丈の裏には、大徳寺孤篷庵、曼殊院の八窓軒と共に京都三名席の1つに数えられている茶室「八窓席」(はっそうせき、重要文化財)があります。現在、春の特別拝観で公開されているのだが、別途拝観料700円かかるのでパス。掲げられている写真を写真し紹介します。

「創建当時は名称通り8つの窓があったが,明治時代の修築で6つとなったという。なお、建物修理の際の調査で、この茶室は遠州が創建したものではなく、既存の前身建物を遠州が改造したものであることが判明している」そうです(Wikipediaより)。八窓席に付随した小書院の襖絵は長谷川等伯筆「猿猴捉月図」

方丈の前に大きな庭園が広がる。崇伝の依頼により小堀遠州が寛永9年(1632)に作庭したもの。遠州作庭とされる庭園は多いいがその根拠があるものは少ない。この庭園は、当時の設計図や日記、書状などが残されているので、確実に小堀遠州が作庭したことがわかる貴重な庭園です。
大海を表す白砂の奥中央に蓬莱連山を表わす石組を置き、その両側に鶴島、亀島を配する蓬莱式枯山水庭園で、「鶴亀の庭」と呼ばれています。国の特別名勝に指定されている。奥に見える屋根は東照宮。

左側が海に浮かぶ亀島です。右端が「亀頭石」、左端が「亀尾石」、中央の盛り上がりが「亀甲石」で、樹齢700年の老木・柏槇(ビャクシン、イブキ)を背負う。
「鶴亀の庭」には多くの石が組まれているが、これは家康から厚遇されていた崇伝のために、全国各地の大名がきそって名石を寄進したことによる。

方丈内から撮った庭園中央。左側の茶色ぽく見える平べったい巨石は「遥拝石」と呼ばれ、背後にある家康の廟・東照宮を拝むために置かれたもの。遥拝石の後ろが蓬莱連山を表わす三尊石組。さらにその後ろの大刈り込みと常緑樹が、不老不死の仙人が住むという蓬莱山の深山幽谷をイメージさせてくれます。

右側の石組みは鶴島です。亀島の亀と向かい合う形で鶴が表現されている。遥拝石のすぐ右に突き出た平らな巨石は「鶴首石」。安芸城主・浅野家より贈られた石で、淀川を遡り伏見港より陸路で牛45頭により牽かれてきたという。土盛りの胴の部分には立石が重ねられ羽を表し、枝を広げた樹木が羽ばたいているようで、躍動感を与えています。

開山堂前から見た「鶴亀の庭」。こちらから眺めると、白砂の大海に浮かぶ島の様子が伝わってきます。開山堂前から白砂の飛び石に出るための、池をまたぐ二枚の大きな石板は阿波・蜂須賀家より贈られたもの。

「鶴亀の庭」の東側、明智門の前に弁天池を囲むように庭園がある。こちらは池泉回遊式庭園です。弁財天を祀る中島に石橋(写真右端)が架かるが、その二枚の橋石は岡山藩主・池田忠雄の寄進によるもの。

弁天池の脇の小路を通り「鶴亀の庭」の背後に周ると、東照宮の建物が見えてくる。まず「御透門」と呼ばれる門があります。名前のとおり、両脇は菱格子の透かし塀となっており、中を見通せます。

御透門を潜ると、すぐ東照宮の社殿(重要文化財)で、正面に見えているのは拝殿です。
家康は「日光と久能山と京都に東照宮を設置するように」との遺言を残した。東照宮とは、東照大権現である徳川家康を祀る神社のこと。崇伝は小堀遠州に設計させ、寛永5年(1628)に創建された。家康の遺髪と念持仏を祀っています。日光東照宮の方向を向いて東面し、創建当初は日光東照宮と比するほどの規模があったという。

拝殿は近づいて内部を覗いて見ることができる。天井には狩野探幽の筆による「鳴龍(なきりゅう)」が描かれており、さらにその欄間には土佐光起画・青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。

建物を横から見ると社殿の構造がよくわかる。写真左が拝殿、右奥が本殿で徳川家康を祀る。拝殿と本殿の間を「石の間」と呼ばれる建物が結んでいる。この様式を「権現造り」と呼び、受け付けのパンフには「京都に遺る唯一の権現造り様式である」と記されている。菅原道真を祀る北野天満宮も権現造りのはずだが・・・?

東照宮から方丈へ戻る途中に、以心崇伝の塔所である開山堂が建つ。内部を覗けば、正面に以心崇伝像が、左右両側には十六羅漢像が安置されている。掛かっている勅額は後水尾天皇の筆によるものだそうです。

以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)は臨済宗の僧で、「以心」は字(あざな、別称)、法名が「崇伝」、南禅寺金地院に住んでいたので「金地院崇伝」とも呼ばれた。
室町幕府幕臣の一色家に生まれたが、天正1年(1573)足利氏滅亡のとき父と死別,南禅寺に入って出家した。慶長10年(1605)、南禅寺第270世住職となり、鷹ケ峯にあった金地院を塔頭として南禅寺境内に移し再建する。金地院に住み、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努めた。
慶長13年(1608)、徳川家康に招かれ駿府に赴き幕政に参加するようになった。駿府城内に建てた金地院に住み、外交文書の起草や朱印状の事務取扱を行った。さらに諸法度の起草に参画し、キリスト教の禁止(宣教師追放令)や、寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷や公家の活動を制限する禁中並公家諸法度の制定に関わった。
元和2年(1616)家康が死ぬと、江戸に移り江戸城北の丸に金地院を建てた。元和5年(1619)には禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任じられた。以後、僧録は金地院住持が兼務する慣例となって金地僧録と称されるようになる。崇伝は京都と江戸の金地院を往還しながら宗教、政治の面で大いに活躍し、僧侶でありながら幕政を左右したことから「黒衣の宰相(こくいのさいしょう)」、また10万石の格式を与えられ「寺大名」といった異名で呼ばれた。また南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力し、古書の収集や刊行などの文芸事業も行う。
寛永3年(1626)には後水尾天皇から「本光国師」号を賜る。しかし寛永4年(1627)に崇伝もからんだ「紫衣(しえ)事件」がおこり、後水尾天皇は退位に追い込まれ幕府の権威をより高めることになった。法整備をし徳川幕府の繁栄の礎を築いた人物といえる。寛永10年1月20日(1633年)江戸城内の金地院で死去。享年65歳。墓はここ開山堂にあります。


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京都御所を訪ねて 3(京都御所)

2023年10月27日 | 名所巡り

これから入口の清所門から入り、抜けガラとなった京都御所内を定められた順路に従い見ていきます。

 京都御所 1(清所門から承明門へ)  



御所とは現在の皇居にあたり、天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿のことで,「内裏・禁中・禁裏」とも呼ばれる。
京都御所の西側です。手前の門が「宜秋門」で、その先に小さく見えるのが「清所門」。御所全体が五筋入りの築地塀で囲まれ、南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万平方メートル。京都御所は宮内庁管理の皇室財産なので、どんなに貴重な歴史的遺産であっても特別名勝・特別史跡・国宝のような文化庁による評価の外に位置している。文化的評価を超越した存在です。天皇陵も同じ(天皇陵が文化財的評価を得て世界遺産に登録されたのが不思議です)。京都御苑は環境庁管理の国民公園。

(パンフレットの参観順路図)

★・・・現在の京都御所の歴史・・・★
平安遷都時の元の平安宮内裏は、現在の場所より1.7キロほど西方にあった。その平安宮内裏は何度も焼失・再建を繰り返し、その都度天皇は、一条院・枇杷殿・京極殿・藤原氏など公家や貴族の邸宅に移り住み一時的な仮の内裏として使ってきた。これを「里内裏(さとだいり)」と呼びます。天皇の居所は内裏、里内裏と転々とし、平安後期以降になると本来の内裏は次第に使用されなくなり、建物も廃絶するものが増え「内野(うちの)」と呼ばれる荒れ野になっていった。

南北朝時代の建武4年(1337)、北朝2代光明天皇が里内裏のひとつであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの、公家・藤原邦綱の邸宅)に居住すると、これ以降他所へ移ることなくここが恒常的な内裏として定着した。これが現在の京都御所の場所で、明治2年(1869)に明治天皇が東京奠都するまで約530年間にわたって天皇の居所として使用され続けられた。(京都御所内に掲示されていた年表には「元弘元年(1331)光厳天皇が現在地の里内裏で践祚。以降この地が約500年間内裏として使用される」とあるのだが・・・)

応仁の乱(1467-1477)で内裏は荒廃するが、天下を取った織田信長が改修に着手、そして秀吉(天正19年/1591)、家康(慶長18年/1613)、家光(寛永19年/1642)が権力誇示するために内裏の整備改築を行ない、しだいに規模が大きくなる。これ以降6度の火災にあい、その都度徳川幕府による再建が繰り返されてきた。
特に天明8年(1788)1月の大火で内裏や仙堂御所が全焼。寛政2年(1790)幕府老中松平定信は、有職故実家の裏松固禅(1736-1804)の「大内裏図考証」を参考に平安時代の復古様式にのっとった紫宸殿や清涼殿、その他の御殿を造営した。しかしこれも安政元年(1854)4月に炎上したが、翌安政2年(1855)に従来のほぼそのままの形で再建された。これが現在目にする京都御所で、かっての平安京内裏の姿に近い形で再現されているという。

北側の「清所門(せいじょもん)」が入口です。ここで検温、簡単な手荷物検査を受ける。そして番号の入った「京都御所入門証」を受け取り、首にかけて歩く。大宮御所・仙洞御所ほどピリピリした雰囲気は感じませんでした。空っぽになり、見せるだけの遺産になった空間と、現在でも皇室が時々使用する空間の違いでしょうか。
清所門は、本柱2本で支えられた切妻屋根、瓦葺。大台所の前にあったことから「台所門」ともいわれる。

清所門から入ると南へ向かって歩く。道の両側にはロープが張られ、その範囲内でしか行動できない。要所々には警備員が配置されているが、威圧感がないので気軽に話しかけてガイドを受けることもできます。


「宜秋門(ぎしゅうもん)」が見えてきた。上の写真は外から撮ったもの。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門で、御所に参内する公家が使用したことから「公家門」とも呼ばれる。

「御車寄(おくるまよせ)」です。儀式や天皇と対面するために参内した公卿や殿上人などの限られた者だけが使用した玄関。牛車を横づけしたことからくる名称でしょうね。廊下を通って、諸大夫の間・清涼殿・小御所とつながっている。唐破風の屋根や金飾りに威厳を感じます。



御車寄と棟続きで「諸大夫の間(しょだいふのま)」と呼ばれる建物があります。玄関から入った者の控えの間で、三間からなり、身分の高い順に東側の清涼殿に近いほうから、襖絵にちなんで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる各部屋に控える。部屋により畳縁の柄や色も違っている。御車寄から入りここで控えるのだが、「桜の間」に控える者だけは建物手前の沓脱石から上がらなければならない。
三間の襖絵は写真が掲示されているが、ガラス越し見ることもできます。

諸大夫の間のすぐ南に「新御車寄(しんみくるまよせ)」が建つ。説明版「大正4年(1915)、大正天皇の即位の礼が紫宸殿で行われる際し、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものである。天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえて南向きに建てられている」
自動車にも対応できるようにするためか、でっぱりがやや長く、側面の壁が無い。建物にはガラス窓が使われ、中は絨毯敷きで天井にはシャンデリアが使用されているそうです。

御所の南側に回り込むと、黒い建礼門と紅い承明門が対面しながら建っています。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門の「建礼門(けんれいもん)」は京都御所の南面中央にあり、天皇皇后及び外国元首などの国賓のみが通ることのできる格式高い門。また葵祭(5/15)、時代祭り(10/22)のスタート地点となります。

建礼門の東側に、潜り戸のような小さな門があり、「道喜門」と呼ばれています。

外から見た御所の南側。手前が穴門の「道喜門」で、中央に建礼門(左の写真)。
16世紀初頭創業の「御ちまき司 川端道喜(かわばたどうき)」という代々続く主人の名を店名とした粽(ちまき)や餅を商う店があった。応仁の乱後の混乱で、皇室も困窮し天皇の食事の確保もままならない状況に陥っていた。そうしたなか、創業間もない川端道喜は、天皇に毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上するようになった。京都御苑西隣にある店から蛤御門を通り、正門である建礼門の東隣の門を潜って御所に入り毎日天皇の朝食を届けていた。明治2年(1869)明治天皇が東京に移る日の朝まで350年以上にわたって続けられたという。やがてこの門は「道喜門」と呼ばれるようになった。

京都御所には6つの大きな門以外に、こうした屋根のない小さな9つの門があり、「穴門(あなもん)」と呼ばれ商人などが出入りするのに使った。

建礼門の向かいに建つのが「承明門(じょうめいもん)」。庭を挟んで正面奥に紫宸殿が見える。瓦葺き切妻屋根の十二脚の門で、天皇行幸や上皇御即位後の出入りに使われるという門で、下々の者は通れないようにロープが張られている。

 京都御所 2(紫宸殿)  



東側に周ると回廊の扉が開いていて、ここから庭に少しだけ入ることができます。右奥に見える屋根付きの門は「日華門」。

紫宸殿の前に、廻廊で囲まれた白砂の庭が広がる。「南庭」で、「だんてい」と読むそうです(皇室用語は難しい)。紫宸殿正面に18段の階段が設けられ、紫宸殿と南庭が一体となった、儀式のための空間となっている。

昭和3年11月10日の昭和天皇の即位の礼を書籍により再現してみます。
・午後2時頃、天皇は御学問所で、皇后は御三間で着替えをする。
・午後2時50分、天皇は紫宸殿に入り高御座にお座りになる。
・午後3時、高御座前の紫の帳が静かに上げられる。鉦の音が「カーン」という音が鳴り渡り、庭に参列していた人々は直立、最敬礼を行う。
・午後3時10分、天皇は立ち上がり「神器を奉じて万世一系の皇統を継ぎ即位の礼を行った」と大礼の勅語を述べられる。
・午後3時13分、田中義一首相は十八階段の下に立ち、高御座でお立ちになっている天皇に向かい「天皇陛下万歳」を三唱、庭の参列者全員も万歳三唱する。御所外に待つ参列者も一斉に万歳の声を上げる。
・午後3時30分、天皇・皇后両陛下は御学問所、御常御殿に戻られた。
・市内もお祝い一色となり、万歳行列、ちょうちん行列で賑わったという。

「紫宸殿(ししんでん)」は、即位式などの重要な儀式を行う最も格式の高い京都御所の正殿です。現在の建物は安政2年(1855)に再建されたもの。なお、慶長18年(1613)に建立された最初の紫宸殿は仁和寺の金堂として移築され現存している(国宝指定)。
入母屋造、檜皮葺きの屋根、正面9間、奥行3間で、周囲に高欄付きの簀子縁(すのこえん)をめぐらす。内部は、間仕切りを設けず広い一室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らず垂木をみせた化粧屋根裏だそうです。柱間には、白板に黒漆塗りの桟で格子を組んだ蔀戸(しとみど)がはめられ、開けるときは内側に金物で釣り上げる。
建物前の庭には、東側に「左近の桜」、西側に「右近の橘」が植えられています。

(写真は回廊に掲示されていたもの)
紫宸殿内の中央に天皇の御座「高御座(たかみくら)」、その東側に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。現在の高御座と御帳台は、大正4年(1915)の大正天皇の即位礼に際し、古制に則って造られたもの。平成天皇、令和天皇の即位礼の際には、解体され京都御所から空輸で東京の皇居に運ばれて使用された。その後京都御所に戻され、現在も紫宸殿に常設されている。

天皇が東京へ移られた後でも、明治・大正・昭和の三代の天皇の即位礼がここ京都の紫宸殿で行われた。何故だろうか?。Wikipediaによれば「1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東京行幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。その翌年にも明治天皇は京都御所を巡覧し、保存の方策として『将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん』との叡慮を示して、1883年(明治16年)には京都を即位式・大嘗会の地と定める勅令を発している。旧皇室典範第11条の規定はこれを承けて制定に至った」。そして明治22年(1889)制定の旧皇室典範に「日本国天皇の即位の礼及び大嘗祭は京都にて行う」と定められた。
明治天皇は、幼少期を過ごされた京都をとても愛された。東京から京都へ行幸されると、帰るのを嫌がり理由をつけて一日でも長く滞在しようとされたという。そして自分の墓は「京都の伏見へ」と言い残されている。
戦後制定された現在の皇室典範では、場所の規定は無くなり、皇居のある東京で行われるようになったのです。

回廊東側に広い土地が広がる。その奥に見えるのが「建春門(けんしゅんもん)」。切妻屋根、四脚門で、他の門と違い唐破風が付き威厳を示す。儀式の時に大臣や公家が出入りしたという。

広い土地の北側に建つのが「春興殿(しゅんこうでん)」。説明版「大正4(1915)年、大正天皇の即位礼に際し、皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられたもので、昭和天皇の即位礼でも使用された。内部は板敷で、外陣・内陣・神鏡を奉安する内々陣に分かれている」
紫宸殿内に小部屋を造り、鏡を置くだけでよいと思うのだが(納税者としては)。

 京都御所 3(清涼殿から御学問所へ)  



指定された見学コースは紫宸殿の背後に回り込む。左の建物が紫宸殿で、「撞木(しゅもく)廊下」と呼ばれる渡り廊下で小御所へつながっている。渡り廊下の下を潜り、清涼殿の東庭に入ってゆきます。

清涼殿の東庭が広がる。「東庭」、どう読むんだろう?。南庭が「だんてい」だったので、「どんてい」かな。
一面に白砂を敷いただけの広い空き地です。目につくものとしては、清涼殿前の二か所の竹の植込み。左側(南)が漢竹(かわたけ、皮竹が転化したとも)、右側(北)に呉竹(くれたけ、真竹の異称)が植えられている。左側の建物は紫宸殿です。

この清涼殿も安政2年(1855)に、平安朝の古い様式にならって再建された建物。入母屋造り、檜皮葺屋根の寝殿造り、正面9間、奥行き2間、内部は板敷で、間仕切りで小さな部屋に区切られている。紫宸殿と同様に、格子状の蔀戸がはめられ、内側に跳ね上げて開く。
清涼殿は、元々は天皇が日常生活を過ごされる御殿だったが、天正18年(1590)に生活の場として御常御殿ができてからは、清涼殿は儀礼の間に変わっていった。

蔀戸が跳ね上げられ、内部が公開されている。高欄奥に厚畳が置かれている。これは「昼御座(ひのおまし)」といい、天皇がお座りになる所。その奥に白絹の帳(とばり)で囲まれた御帳台がある。この中で天皇はご休息なされた。天皇が日常生活の場として使われていた時の様子を再現したものでしょうか。

清涼殿の東側に、「御溝水(みかわみず)」といわれる南北に流れる石敷きの水流があり、その北寄りに高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」と呼ぶ。この滝口近くにある渡り廊にかって内裏警護の武士が詰所として宿直していた。そこから清涼殿の警護をする者を「滝口の武士」と称した。またこの詰め所は「滝口陣(たきぐちのじん)」などと呼ばれた。

「滝口の武士」で有名なのは「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋物語。高山樗牛が1894年に書いた小説『滝口入道』で一躍有名になる。京都小倉山にあるこれに関連した「滝口寺」を、私も5年ほど前に訪れたことがあります(ココを参照)。

清涼殿東庭の北側に見える建物は、御車寄・諸大夫の間・清涼殿から小御所や御学問所につながる長い廊下です。表からは見えないが、二つの廊下が並走している。手前が天皇がお通りになる「御拝道(ごはいみち)廊下」、その脇には六位以下の臣下用の「非蔵人廊下」が並ぶ。

清涼殿をでて、さらに奥へ行くと小御所(手前)と御学問所(奥)が、池に面して並んで建つ。
「小御所(こごしょ)」は鎌倉時代以降に建てられ、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された。内部は畳敷きで、床の高さを変えて北側から「上段の間」「中段の間」「下段の間」と並ぶ。
昭和29年(1954)8月、鴨川の河川敷で開催された花火大会で打ち上げられた花火の残火が小御所の檜皮葺の屋根に落下し全焼する。現在の建物は4年後(1958年)に再建されたものです。

高欄付き板張りの縁が廻り、半蔀格子(はじとみごうし)がはめてある。これは上半分の戸を外側に吊り上げて白障子をみせ、下ははめ込み式になったもの。
正面中央は、白桟障子が開けられ、ガラス越しに室内の障壁画を見れるようにしている。しかしガラスの反射光のためよく見えない。

小御所と御学問所との間の広場は「蹴鞠(けまり)の庭」と呼ばれる。ここで公家さん達の優雅なお遊びが繰り広げられた。後ろには天皇が通る御拝道廊下があり、天皇は廊下から覗いてにっこり微笑んだかナ・・・

御学問所(おがくもんじょ)は「家康による慶長度(慶長18年、1613)の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。江戸末期頃になると御学問所は年中行事の場や仮常御殿としても用いられた他に孝明天皇が徳川将軍である徳川家茂公や徳川慶喜公と対面を行った場になった」(Wikipediaより)
舞良子という細い桟を格子状に打ちつけた「舞良戸(まいらど)」と呼ばれる引き戸が開けられている。内部は畳敷きで、上段・中段・下段を含む6室からなる。

小御所、御学問所は明治維新の舞台ともなった。慶応3年(1867)12月9日、大久保利通、岩倉具視ら倒幕急進派は、軍事力で御所の各門を封鎖し親幕派公家の参内を禁止する。そして御学問所にて、まだ16歳だった明治天皇に勅令「王政復古の大号令」を発せさせた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、幕府の廃止、朝廷の摂政・関白の廃止、新たに三職(総裁・議定・参与)を置く、という政治体制の根本的変革を実行したのです。まさにクーデターだった。
その夜、小御所で新政府の基本方針を策定するため最初の三職会議が開かれた。そこで徳川家の辞官納地(官位を失し、領地を返上さす)について大激論になった。山内容堂(前土佐藩主)は「この会議に、今までの功績がある慶喜公を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い帝を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と反対し、松平春嶽(前越前藩主)も同調した。深夜に及ぶ激論の末、最後は西郷隆盛の「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」の脅しで大久保利通、岩倉具視の主張する辞官納地が決定した。これが「小御所会議」です。

小御所、御学問所の東側に前庭として「御池庭(おいけにわ)」が造園されている。江戸時代初期に作られ、池を中心とした池泉回遊式庭園。ただし仙洞御所のように回遊させてくれません。右奥に見えるのが中島(蓬莱島)にかかる欅橋(けやきばし)

澄みきったエメラルドグリーンの池、対岸に多彩な樹木を見せ、その前に中島を配し橋を渡す。池の中には3つの中島があり、2つの木橋と3つの石橋が架かる。派手過ぎず、地味すぎず、落ち着いた安心感に浸れる池です。

手前の岸には、栗石が敷き詰められ州浜を表現している。州浜真ん中あたりに飛び石が置かれ、池の中まで出ている。ここから舟遊びに出たのでしょうか。

 京都御所 4(御常御殿から出口へ)  



御学問所前を通り、御池庭の北へ行くと、潜り門があります。ここまでが公の空間で、この先は天皇の私的な生活の場になる。「ここから先は明治維新期まで奥向きの御殿とされ男子は稚児と老侍以外は男子禁制とされお付きの女官や女御など女性や女子のみしか立ち入りを許されなかった」(Wikipediaより)

元々、清涼殿が天皇の日常生活の場だったが、秀吉の天正度造営時(1590年)に、天皇の生活の場として「御常御殿(おつねごてん)」が独立した建物として造営された。明治天皇も明治2年(1869)に東京へ遷るまでこの御殿に住んでおられました。
京都御所の中で最も大きな建物で、檜皮葺き、入母屋造り、書院造り。内部は総畳敷きで、天皇の寝室「御寝の間」、三種の神器のうちの剣璽を奉安した「剣璽(けんじ)の間」、儀式や対面用の「上段の間、中段の間、下段の間」など15部屋がある。

縁側の板戸が開けられており、杉戸絵を見ることができます。

御常御殿の東側にある庭は「御内庭(ごないてい)」と呼ばれる。「流れの庭」とも呼ばれるように遣り水が曲がり流れ、中島をはさみ土橋、石橋、八つ橋が架かる。御内庭の南東隅の築山の上には小さな茶室「錦台(きんたい)」<空中写真の(1)>が建ち、庭を眺めながらお茶を嗜むようになっている。
また北東隅には「地震殿(じしんでん、泉殿)」<空中写真の(2)>と呼ばれる建物がある。これは、床を低くし天井を張らず屋根も軽くし、地震などの時の避難場所として造られたもの。

御常御殿の北側までが許可された見学コースです。あとは空中写真をみて想像するしかない。

写真中央は、孝明天皇の希望を受けて書見の間として安政5現(1858)に造られた「迎春(こうしゅん)」<空中写真の(3)>と呼ばれる建物。御常御殿の縁座敷から渡り廊下で結ばれ、十畳と五畳半の二間だけの簡素な建物。その右の檜皮葺き屋根だけが見える建物は「御涼所(おすずみしょ)」<空中写真の(4)>と呼ばれ、暑い京都の夏をしのぐために、窓を多くし風通しを良くした建物。
<空中写真の(5)>は壁のない「吹抜廊下(ふきぬきろうか)」で、途中でゆるやかに折れ曲がり下を池からの遣り水が流れ、この流れの周辺には、飛び石が配置され、美しい植栽と苔で埋められている。廊下の先は「聴雪(ちょうせつ)」<空中写真の(6)>で、安政4年(1857)に孝明天皇の好みで増築された数寄屋建築の茶室。

上の写真の右端が「龍泉門」<空中写真の(7)>で、これを潜ると「龍泉(りゅうせん)の庭」<空中写真の(8)>となる。池の中央に中島があり、三方向から石橋が架けられている。聴雪の奥が「蝸牛(かたつむり、かぎゅう)の庭」<空中写真の(9)>。明治期の作庭で、水を全く使わない枯山水庭園。白砂を敷いて池を表し、中央に苔の島を築かれている。

御常御殿南側の出口を出ると、「御三間(おみま)」と呼ばれる建物がある。ここでも杉戸絵を見ることができます。
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもの。三間からなり、涅槃会、七夕、盂蘭盆会など内向きの年中行事に使われた。明治天皇が祐宮(さちのみや)の幼少時に、「御手習い始め」「御読書始め」をされた場所ともいわれる。

御三間を最後に見学コースは終了です。出口には白テントが設置され、暑いなかご苦労さま、と休憩所が用意されていました。今日は特に暑かったのでありがたかった。

江戸時代、天皇はじめ公家たちは幕府から政治に手を出すなと、と抑えられていた。そして彼らは貧しいながら優雅な宮廷生活を送っていたのです。ところが、1853年ペリーの黒船来航から状況が一変する。開国・通商を求められた幕府はうろたえ狼狽し、何事も決められない。そうだ、日本には天皇という偉いお方がいらっしゃる、相談してみようと京都の御所まで特使を出したのです。天皇と取り巻きの公家達は、俺たちにも力があるんだと目覚めた。こうして朝廷の政治的権威が急浮上し、それにあやかろうとする諸藩の藩士や志士気取りの浪人まで京都に集まってくる。こうして京都は政治の舞台となり、朝廷のある京都御所は幕末政治史の焦点に躍り出た。現在は抜け殻となった空虚な京都御所ですが・・・。


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京都御所を訪ねて 2(京都御苑)

2023年10月23日 | 名所巡り

これから京都御所を取り巻く京都御苑を歩きます。南側の堺町御門から入り、九条邸跡、閑院宮邸跡とその周辺を見学。さらに北上し、京都御所の南域から西、北、東へと時計回りに見てゆきます。

 京都御苑 1(堺町御門・九条邸跡)  




丸太町通りを石垣に沿って西に歩けば堺町御門(さかいまちごもん)が現れる。京都御苑のちょうど南側中央に位置する。
傍の説明版に「1863(文久3)年8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊皇攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に終結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました」とある。この周辺で長州藩兵と、薩摩・会津の藩兵とがにらみあい、一色触発の状態だったという。また翌年の「禁門の変」でも長州藩兵はこの辺りで戦っている。

堺町御門を入ると正面に、広い砂利道とその奥に繁みがみえる。ここはかって鷹司家(たかつかさけ)の邸があった場所です。今では説明版が1枚立つだけで何もない。説明版は文字が擦れ読みにくいので、デジタル拡大して読むと「鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。1864(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、邸に放たれた火は、長州藩邸の火などとともに「どんどん焼け」と称する京都大火につながりました」とあります。
藤原氏北家嫡流で、鎌倉中期の近衛家実の四男兼平を祖とする。家名は、兼平の邸が京都鷹司室町にあったことによる。以降代々、摂政・関白を務め、近衛・九条・二条・一条の四家とともに五摂家のなかでは最後の成立である。
禁門の変(蛤御門の変)の時、長州の久坂玄瑞の一隊は鷹司邸跡を占拠したが、まもなく包囲され総崩れとなり、久坂玄瑞は邸内で寺嶋忠三郎と刺し違えて自刀している。鷹司邸跡や長州藩邸から上がった炎は、北風にあおられ「どんどん焼け」と呼ばれる大火となり、町屋3万戸近くが焼けたという。

堺町御門のすぐ西側が九条邸跡。これは閑院宮邸跡の展示室に置かれていた九条邸跡の模型。池の形から「勾玉池(まがたまのいけ)」とも呼ばれる九条池の中央に高倉橋が架かる。池の西端が捨翠亭で、北側の出島に厳島神社がある。桃色鮮やかな樹木はサルスベリです。

(高倉橋から池の東側を撮る)九条家は、藤原北家の流れを汲み、平安末期から鎌倉初期に活躍した九条兼実を祖とし、京都の南東部の九条陶化坊に邸があったのが家名となる。豊臣秀吉は公家を御所周辺に集め公家町を形成した。その時に九条家も御所の南の現在地に移った。九条家は、平安時代から江戸時代までの数百年間に掛けて多くの摂政・関白を輩出し、近世末まで宮廷政治の重鎮であった。幕末期の関白・九条尚忠(ひさただ)は開国か攘夷かで揺れる京都朝廷で関白として大きな力をもち天皇を補佐してきた。尚忠の娘夙子は孝明天皇の女御となり、また大正天皇の皇后・貞明皇后は九条家出身で昭和天皇を産んでいる。このため、現在の皇室にも九条家の血筋が引き継がれている。

九条池の中央に架かる高倉橋は、天皇行幸のため明治15年(1882)に架けられたもの。橋の先には広い大通りがつらぬき、御所正門の建礼門につながっている。

橋の西側。捨翠亭と水面に映るサルスベリが印象的です。
明治天皇が東京へ移ると公家たちも東京へ移転していった。明治10年(1877)に政府によって九条家の敷地は買い上げられた。九条邸は取り壊され、広大な屋敷も捨翠亭と九条邸の鎮守だった厳島神社が残るばかりに。

北側の出島に佇む厳島神社。この社は平清盛が摂津の兵庫築島に、安芸の厳島神社の神を勧請し、同時に母の祇園女御を合祀して祀ったもの。経緯は分からないが、後にここ九条邸内に移され、九条家の鎮守とされた。家業繁栄、家内安全にご利益があるとされ、一般からも拝まれている。
石鳥居は、上部が唐破風形をした珍しい鳥居で、京都三珍鳥居の一つとして知られ、昭和13年に文部省より重要美術品に指定された。

厳島神社から眺めた池と捨翠亭。サルスベリはよく見かけるが、これほどピンポイントで映えるサルスベリは初めてだ。

これから捨翠亭(しゅうすいてい)の中に入ります。入口は西側にある。一般公開日は年末、年始を除く毎週木・金・土曜日と葵祭(5/15)、時代祭(10/22)の日。
中学生以下は無料です。内部の撮影はOKです(業者や機材使用はNG)。

玄関を上がると控えの間があり、その奥に十畳の広間がある。広間は茶室だが、池に面して板敷の広い縁が設けられている。お茶を楽しみながら美しい庭園を鑑賞したのでしょう。

広間から庭園を眺める。
拾翠亭は九條家の現存する唯一の建物で、今から約二百年前の江戸時代後期に数寄屋風書院造りで建てられたもので、10畳と3畳の二つの茶室が残されている。九条家の別邸として、主に茶会や歌会などの社交の場として利用されました。「捨翠」とは、緑の草花を拾い集めるという意味が込められているという。

二階にも上がれます。北、東、南の三方に高欄付きの縁がめぐらされ、九条池を中心とした庭園全体を眼下に見晴らせる。ただし、危険防止のため縁側には出れないようです。

二階から高倉橋を眺める。この時期、サルスベリが色取りをそえてくれる。
九條池は東山の山なみを借景とし、拾翠亭からの眺めを第一につくられたといわれています。今は木立が大きくなり東山は見えない。

こちらは厳島神社方向。

今度は捨翠亭から外に出てみます。これは南側から捨翠亭を見たもの。入母屋造りの屋根は、瓦葺と一部柿葺きが組み合わされているという。
女将さん(?)の話では、夏のサルスベリ、秋の紅葉、冬の雪景色がお勧めとおっしゃる。春が欠けているので尋ねると、ワビ、サビの茶室には派手な桜は似合わないそうです。

これな北側から見た捨翠亭。手前に小さな小間が広間に隣接している。三畳中板の茶室で、パンフに「当時公家方がこの二つの茶室を行き来しながらお茶を楽しまれたもので、貴族の茶事の習わしを知る上で貴重なものである」とあります。

池に小舟が浮かんでいる。舟遊びを楽しんだのでしょう。現在でも、なにか催事に使われるのだろうか。
京都御苑内には多くの公家邸の跡が残されているが、跡形もなく消え去り高札だけが立っている。唯一この九条邸跡だけが、当時の高級公家の優雅な暮らしぶりを偲ばせてくれる場所となっている。

 京都御苑 2(閑院宮邸跡とその周辺)  


九条邸跡から丸太町通りに出る「間ノ町口」を超えて西へ行くと閑院宮邸跡がある。堂々とした門が構える。ここが閑院宮(かんいんのみや)邸跡への入口になる「東門」です。

万世一系とされる皇統が継続されるかどうかが、皇室にとって最大の懸念である。そこで天皇に直系男子の継嗣がない時、天皇継承ができる家を創った。皇族の中で、天皇・太上天皇の養子縁組・猶子となって親王と認められ(親王宣下)て天皇継承ができる親王家(宮家)となったのです。江戸前期には伏見宮家・桂宮(八条宮)家・有栖川宮家があった。
儒学者・新井白石(1657-1725)は、皇統の備えとして幕府が費用を出して新しい親王家の創設を六代将軍徳川家宣に提言する。その結果、幕府の援助のもとに宝永7年(1710)に東山天皇の皇子・直仁親王を始祖とし新たな宮家として四番目の閑院宮家 (かんいんのみやけ)が創設されました。皇統の断絶の恐れはまもなくやってきた。安永8年(1779)、後桃園天皇が後嗣ないまま崩御、そこで当時9歳だった閑院宮家二代目の第六王子祐宮が光格天皇(1771-1840)として皇位を継承したのです。光格天皇以降は直系の皇太子が次代天皇に即位し、現在の令和天皇まで続いている。そうしたことから光格天皇は「現皇室の祖」と呼ばれることもある。
一方、閑院宮家は7代目が戦後の昭和22年(1947)に皇籍離脱し、昭和63年(1988)に跡取りが無いままに亡くなったことにより、閑院宮家は断絶しました。

閑院宮家の邸宅は正徳6年(1716)に造営された。しかし天明の大火(1788年)で焼失しその後再建され,閑院宮家が東京に移る明治10年(1877)まで屋敷として使用されました。その後は華族会館や裁判所として一時使用されたが、明治16(1883)年に宮内省京都支庁となり建て替えられたのが現在の建物です。一部に旧閑院宮邸の資材が利用されている。現在は環境省と所管となり、平成15年(2003) から3カ年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われました。バリアフリーのスロープが設けられているのが印象的。

建物内部の一般公開は午前9時~午後4時30分、休館日は月曜日(祝日を除く)と年末年始、入場料は無料です。東門は常時開けられ、庭園など建物の外は何時でも自由に見学できます。


建物は木造平屋建てで、中庭を囲む四つの棟で構成されている。




令和4年(2022)4月にリニューアルした収納展示館は、京都御苑の樹木・花・野鳥等の自然を、さらに御所周辺の公家町や公家の暮らしぶりを紹介している。VR映像シアターでは公家町の映像を流しながら解説していました。




次に建物南側の庭園を散歩してみます。庭園は何時でも自由に散策できる。まず池が現れる。やや素っ気なく感じられるが、現在の池は平成15~17年度の整備で復原されたもの。18世紀中頃に作庭された当時の池は、保存のために埋め戻し、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現したという。州浜を設ける手法は、京都御所、仙洞御所、桂離宮などの宮廷庭園に見られるものだそうです。



庭園の奥へ行くと建物の基礎が残されている。これは明治25年(1892)に建てられた宮内省京都支庁の所長官舎の跡です。その南側に小さな
池泉回遊式庭園がある。遣水が流れ、園池のほとりに置かれた雪見型燈籠(左写真中央)をはじめ、いろいろな形の5基の燈籠が配されている。
官舎の座敷から緑に包まれた曲水の流れを眺める、何とも贅沢な官舎だ。この所長は誰だろうかと調べると、宇田栗園(又は淵)(1827-1901)という勤皇の志士で、怪物公家・岩倉具視の腹心の部下だそうです。


閑院宮邸跡のすぐ東側に宗像神社(むなかた)があります。
社伝によれば、延暦14年(795)、後の太政大臣藤原冬嗣が桓武天皇の命により、皇居鎮護の神として筑前の宗像神社の宗像三女神を勧請し、自邸に祀ったのが始まりと伝わる。その後、花山院家に引き継がれ明治に至るまで、同家の者が別当として奉祀してきた。明治維新後の東京奠都によって花山院家が東京に転居すると、邸宅は取り壊されたが社殿は残され、現在は神社本庁に属している。

西側の烏丸通に面して4つの御門があるが、一番南に位置するのが「下立売御門(しもだちうりごもん)」。幕末の禁門の変(1864年7月)では「蛤御門の戦い」が有名だが、この下立売御門でも守衛の仙台藩と外から攻撃する長州藩との間で戦われた。今はクスノキに覆われ、静かなたたずまいをみせている。

下立売御門から東へ歩くと小さなせせらぎが流れ、「出水(でみず)の小川」の標識が立つ。
かっては琵琶湖疏水から専用水路で御所に水が引かれていた。それを利用して昭和56年(1981)にこの「出水の小川」が造られた。平成4年(1992)に御所水道が閉鎖されたことから、現在では井戸から地下水を汲み上げ循環濾過して流れを維持しているそうです。
長さ約110m、深さ10cm~20cm位で、子供の水遊びにちょうど良い。春には八重桜の名所になるという。春から夏にかけて、子供たちのはしゃぎ遊ぶ姿が浮かんできます。

「賀陽宮(かやのみや)邸跡」の説明版と「貽範碑(いはんひ)」の石碑が建つ。この辺りから烏丸通りにかけて朝彦親王の邸があった。幕末の動乱期に策動した公家・朝彦親王は賀陽宮、久邇宮など多くの呼び方があるが中川宮が一般的。

朝彦親王(1824-1891)は、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれ、13歳の時仁孝天皇の養子となり、親王宣下を受ける。その後、興福寺一乗院の門主、青蓮院門主、天台座主を務めた。幕府が結んだ日米修好通商条約に反対したため、安政6年(1859、35歳)井伊直弼の安政の大獄で隠居永蟄居となる。井伊直弼暗殺後、赦免され国事御用掛となり朝政に参画し孝明天皇を補佐しました。翌文久3年(1863)に還俗して中川宮の宮号を名乗る。当時京都では、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州藩や朝廷内の公卿の活動が活発化していた。危機感を抱いた公武合体派の領袖であった中川宮朝彦親王は、京都守護職を務める会津藩主松平容保やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、攘夷派公卿、長州藩を京都から排斥することを画策する。それが文久3年(1863)の「八月十八日の政変」です。追放された攘夷派志士たちは、朝彦親王を「陰謀の宮」などと呼び敵視した。この年、邸宅の庭にあった榧(かや)の巨木にちなみ中川宮から「賀陽宮(かやのみや)」に改めた。その後、幕府は二度にわたる長州征討を行ったが目的を果たせず、それに伴い尊攘派がしだいに復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」で追放されていた討幕派・尊攘派公卿が復権し、翌年朝彦親王は幕府を擁護した罪で安芸国(広島)へ幽閉される。親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった明治5年(1872)、謹慎を解かれ、伏見宮家の一員として京都に復帰する。明治8年(1875)久邇宮(くにのみや)家を創設、伊勢神宮の祭主となる。孫娘が香淳皇后(昭和天皇后)、そこから明仁上皇(平成天皇)の曽祖父、令和天皇の高祖父にあたる。
昭和6年(1931)、朝彦親王没後40年にあたりその遺徳を偲び子孫が合い寄って建てた碑です。「貽(い)」は遺と同じ「のこす」という意味を持ち、模範となるものを後世に残すということを表す。

 京都御苑 3(京都御所の南から西へ)  



京都御所の南側と西側の図面

九条邸跡前から撮った大通り。京都御苑の真ん中を南北にはしり御所の建礼門まで続くメインストリート。

信長、秀吉の時代に公家達は、御所周辺に集められ徐々に公家町を形成し、江戸時代には約200の公家邸が軒を並べていた。ところが明治維新となり、明治2年(1869)天皇が東京へ移ると、公家さんたちもこぞって後を追うように東京へ移転してしまう。御所周辺の公家町の建物は取り壊され、空き地が目立つようになり荒廃していった。「明治10年(1877)、京都に遷幸された天皇は、その荒れ果てた様を深く哀しまれ、御所保存・旧観維持の御沙汰を下されました。この御沙汰を受けて「大内保存事業」が進められ、皇室苑地として整備されたのが現在の京都御苑の始まりです」(御苑内の案内板より)

建礼門前から南方向を撮る。突き当りが九条邸跡。建礼門前のこの広い通りは、大正天皇の即位大礼に備えて拡張や石積土塁上にウバメガシ植栽などが行われたそうです。

天皇のお嘆きをうけ京都府では、直ちに土地を買い上げ建物を撤去、石積土塁を築いて外周を整え、内側には苑路を整備して樹木植栽等をおこなう「大内保存事業」を開始し、明治16年(1883)に完了した。管理は京都府から宮内省に引き継がれ、現在は環境省が管理している。広さは東西約700m、南北約1,300m、総面積は約65ヘクタール、甲子園球場の16倍もの広さをもつ。昭和24年(1949)、京都御苑は365日24時間出入り自由な国民公園として開放されました。
京都は寺社が多く緑も豊かだが、それとは全く異質の雰囲気をもった緑地で、街の中のオアシス、京都市民の散策の場として親しまれています。ともかく広い・・・、広すぎて閑散と感じる。

(2017/5/15 葵祭を撮影)京都三大祭りのうち5月には葵祭、10月には時代祭の行列が建礼門から出発し、ここを通って堺町御門から市中に出て行きます。

クソ暑い祇園祭、やや品格の落ちる時代祭り、京都観光には5月15日の葵祭が一番のお勧めです。そして観覧場所は通りの中ほど両脇の土盛上が良い。数メートル間隔で高さ30cm位の石柱が並び、この上に立って見る・撮る、腰掛けて休憩するのに利用できる。石柱には数に限りがあるので先陣争いが必要ですが。また、市中でなく御苑内で観覧するメリットは、「次に見えてきました斎王代は・・・」などとマイク放送で解説してくれることです。今年(2023年)の葵祭は、上皇(平成天皇)ご夫妻が御観覧の予定であったが、あいにく雨で順延されてしまった。

大通りの中ほど東側にこんもりした土盛が見られる。土盛上には松が植えられ、すぐ近くには大銀杏の木が突っ立ています。傍に「凝華洞跡(ぎょうかどうあと)の説明版が立つ。説明版は文字が擦れ読めないので、後でデジタル拡大して判読した内容は「江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています」

凝華洞跡の西方には、禁門の変の激戦地だった蛤御門がある。長州藩兵は宿敵・会津藩をねらって攻め込んだのでしょうか。またこの辺りは「御花畑」と呼ばれていたようですが、その由来はよく分からない。

京都御苑の図には、凝華洞跡の北側に「有栖川宮邸跡」とある。その辺りを探したが、それを示す碑も立札も見つからなかった。ただ、恐竜のようにくねる一本のアカマツが印象的でした。
有栖川家(ありすがわ)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。第2代親王は皇位を継ぎ後西天皇(在位:1654-1663)となっている。
以下はWikipediaによる「江戸時代を通し、京都御所の北東部分にあたる猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷が存在した。慶応元年(1865年)に、御所の拡張用地として召し上げられた。代わりに下賜されたのが、現在の京都御苑内で「有栖川宮邸跡」の碑が建つ、御所建礼門前の凝華洞(御花畑)跡であった(この地は直前まで松平容保が宿舎として利用していた)。この場所に明治2年(1869年)に新御殿が落成したが、わずか3年後の明治5年(1872年)、すでに奠都によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより幟仁親王も東京へ転住することになったため、宮邸の土地家屋は京都府を経て司法省に引き継がれ、裁判所として使用された。現在上京区烏丸通下立売角に建つ平安女学院大学の学舎の一つ「有栖館」は、この建物の一部を移築したものと伝えられている。」

9代・熾仁(たるひと)親王(1835-1895)は、公武合体策として徳川将軍家茂に嫁いだ皇女・和宮(孝明天皇の妹)の前の婚約者だった人として知られる。また慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」により新政府が誕生した時、総裁(今の首相)となる。戊辰戦争では東征大総督を務め、西南戦争では征討総督となった。大正2年(1913)に後継ぎが途絶えたため旧皇室典範の規定に基づきお家断絶が確定した。

今度は、大通りの西側へ行きます。凝華洞跡の反対側にあるのが白雲神社(しらくも)。この辺りは西園寺家の邸宅があった所で、白雲神社は西園寺家の鎮守社だった。御祭神は琵琶をもつ音楽神・妙音弁財天で、音楽や芸能の上達を願う人たちに人気のある音楽の神様です。絵馬には琵琶が描かれている。
西園寺家は藤原北家の流れを汲む公家で、琵琶の家として知られ歴代天皇に琵琶の教授を行っていた。鎌倉時代の公卿西園寺公経(1171-1244)が、今の金閣寺の地に別荘北山第を造営し、家名を西園寺と称しました。敷地内に妙音弁財天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てた。
江戸時代中頃の明和6年(1769)に西園寺邸がここ御苑内に移ると、妙音堂も邸内に再建されました。明治2年(1869)、明治天皇の東京行幸にともない西園寺家も東京に移り、屋敷は取り壊されましたが妙音堂は残された。明治11年(1878)、廃仏毀釈の荒らしの中、以前の神仏混淆の作法を神式に改め、地名の白雲(しらくも)村に因み、社号を白雲神社に改められました。
この場所は「立命館発祥の地」と云われる。西園寺公望が邸内に私塾「立命館」を創設したが、府によって1年足らずで閉鎖されてしまう。その後、塾生によって別の場所に創設されたのが現在の立命館大学です。

白雲神社から道をへだてた西側に梅林が、その北に桃林がある。約130本の梅、約70本の桃が植えられている。現在は閑散としているが、赤、白、ピンクに開花する2月中旬から4月にかけて甘酸っぱい香りが漂い、多くの人々で賑わうそうです。

梅林の近くに「枇杷殿跡」(びわどのあと)の説明版が建つ。内容は「このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経の三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002(長保4)年以降、藤原道長と二女妍子の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、1009(寛弘6)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。1014(長和3)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます」

桃林の北側の道を西へ行けば「蛤御門(はまぐりごもん)」。京都御苑への出入り口として9御門あるが、一番名が知られているのがこの蛤御門です。幕末の動乱期に、長州藩兵が御所に向かって攻撃を仕掛けた「禁門の変」または「蛤御門の変」(1864年7月19日)があったからです。

「8月十八日の政変」(文久3年(1863))で京都を追放された尊王攘夷の過激派・長州藩は失地回復・名誉回復を目指して京都へ進軍。烏丸通りに面した全ての御門で戦われたが、一番激しかったのが中央に位置する蛤御門だった。午前7時頃、侵入しようとする長州藩兵と、守衛していた会津・桑名藩兵との激戦になった。守衛側は押され気味だったが、烏丸通りの北方から応援に駈けつけた薩摩の精鋭部隊に側面から攻撃を受け、長州側は持ちこたえることができず、退却せざるをえなかった。その後、堺町御門でも激戦になったが長州軍は敗戦となり、21日には長州軍は総崩れとなる。長州藩邸に放った火は、町屋に燃え広がり、翌日には強い北風にあおられ拡大。京都の市民は、落ち武者のなかを、荷車に家財道具をくくりつけて逃げまどった。「鉄砲焼け」「どんどん焼け」と呼ばれるこの大火で、上京では御所の南の町屋が2割あまり(5425建)焼失、下京では、ほとんど全域が罹災した(22095軒焼失)。
「御所に向かって発砲した」として「朝敵」とされた長州藩への二度にわたる長州征伐戦争がおこり、政局は混迷を深めてゆく。
左は「江戸時代の御所付近図」(苑内の案内板より)
図を見れば、各門の位置が現在の位置より微妙に異なっています。これは明治10年(1877)~明治16年(1883)の京都御苑整備事業で現在位置に移設されたものと思われる。蛤御門は、現在より30メートルほど東側に位置し、南北に向いて建っていたようだ。

蛤御門は、本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」と呼ばれ、固く閉ざされ滅多に開くことがない門だった。ところが宝永5年(1708)の大火で御所が炎上した際に、まるで火に炙られた蛤のように門が開かれたことから、以後「蛤御門」と呼ばれるようになったという。
烏丸通り側から見れば、門柱の各所に銃弾痕が今でも残っています。

烏丸通り側から撮った蛤御門。

蛤御門から通りを東へ進むと京都御所の南面が見えてくる。その南西隅に突っかい棒で支えられた巨木が見える。説明版によれば、樹齢約300年のこの椋(ムク)の大木は、この辺りに清水谷家という公家邸があたので「清水谷家の椋」と呼ばれている。また、禁門の変の際に長州側の陣頭指揮をとっていた来島又兵衛が銃弾に倒れ、自刃した場所だそうです。長州兵はここまで攻め込んでいたのだ。

これから京都御所の塀に沿って北へ歩いてゆきます。ここは御苑の真ん中あたりで、ともかく広い。

しばらく歩くと、西方に中立売御門(なかだちうりごもん)が見える。禁門の変では、筑前藩が守護しており、長州藩兵と戦っている。
御門の手前が中立売北休憩所。室内は広く、左側がレストラン、右が売店と休憩所、トイレ。入口には「無料休憩所につき、どなたでもご利用ください」と案内されている。京都御苑内で食事できる所はここしかなく、昼時なのかレストランは大変混んでいました。私は注文品が出てくるまで30分以上待たされた。

宮内庁京都事務所の建物を右手に見ながら、さらに北へ歩くと「縣井(あがたい)」が現れる。「染井」、「祐井(さちのい)」と共に、御所三名水の一つに数えられています。
説明版に「昔この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中に登ったといいます。この付近は一条家の屋敷地内となっており、井戸水は、明治天皇の皇后となった一条美子のうぶ湯に用いられたとも言われています」

宮内庁京都事務所(写真中央)周辺は一条邸跡とされるが、何の目印も無かった。一条家は藤原北家嫡流九条家の庶流にあたる公家・華族。鎌倉時代前期の摂関九条道家の四男実経(1223~1284)が一条室町にあった屋敷を父から譲られたことが家名の由来となりました。摂政・関白を輩出し、五摂家の一つになる。幕末期の当主の三女・美子は明治天皇の皇后(昭憲皇太后)となった。

西方を見ると乾御門が構えます。「乾」とは、十二支の方位で戌と亥の間を表し北西の方角を示す。即ち、御所の北西隅に位置する門です。

 京都御苑 4(京都御所の北から東へ)  




御所北面の松の繁みの奥に入ると、枝垂れ桜の立ち並ぶ広地がある。ここはかっての名門公家近衛邸(このえてい)のあった場所。代々摂政・関白を務めた五摂家の筆頭格だった。御所炎上の際には仮の皇居ともなったそうです。平安京の近衛大路(現在の出水通)室町付近に邸宅を築いたことから「近衛殿」と称された。
近代では、戦前の昭和期に3度も内閣総理大臣を務めた近衛文麿がいる。「天皇の前で足を組んで話をすることが許されている唯一の存在だったといわれる」(wikipedia)近衛文麿だったが、戦後GHQにより戦犯指定されたため服毒自殺している。
傍にあるのが近衛池。近衛邸の庭園の遺構だが、現在は水は涸れて荒れ地のようになっている。茶室・又新邸は仙洞御所に移され保存されている。この辺りは京の早春を告げる糸桜の名所で、桜シーズンには多くの人が押し寄せるそうです。


近衛邸跡を東側に抜けると今出川御門。門の先は同志社大学で、さらのその北に相国寺があります。


今出川御門の東側に五筋塀と門が見えます。閉じられた門前に「桂宮邸跡」の木柱が立つ。
桂宮家は、天正17年(1589年)に智仁親王(1579~1629、正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六王子)を初代として創設された親王家。、元和6年(1620)に別邸として桂離宮を造営したことから後に「桂宮」と称されるようになった。幕末に京都御所が焼失した際に桂宮邸を孝明天皇の仮皇居とした。その時、天皇の異母妹である皇女・和宮親子内親王は、公武合体策の犠牲になりここから江戸の将軍家茂のもとへ降嫁しました。
桂宮家は明治14年(1881)に断絶。現在敷地を囲む築地塀と御門のほか、園池の遺構だけが残されている。本来あった建物は二条城の本丸として移築されて保存されているようです。

桂宮邸跡から御所の背後にまわり、御所塀の北東隅を見ると塀が奇妙に凹んでいて、この場所は「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ばれている。陰陽道によると北東は鬼門方位にあたる。そこで鬼門を「避けている」「除けている」ということから角を欠いて造っているのです。蟇股には、鳥帽子をかぶり御幣を担いでいる猿が木彫りされている。この猿は、日吉大社で神の使いとして大切にされている猿だそうです。日吉大社は平安京の北東に位置することから、表鬼門を守る神社として崇敬されてきました。その日吉大社は猿を神の使いとし、「神猿」と書いて「まさる」と読み、そこから「魔が去る」に通じるとして、猿は魔よけの象徴とされてきたのです(神猿→真猿→まさる→「魔が去る」)。ただこの猿は、夜になるとこの付近をうろつき、いたずらをするので金網に閉じ込められています。

またこの場所は、文久3年(1863)5月20日におこった「猿ヶ辻の変」でも知られる。朝廷内の尊皇攘夷派の急先鋒の一人だった姉小路公知が、朝議からの帰途中にこの付近で刺客に襲われ暗殺された事件です。

桂宮邸跡の東側が幕末の公家・権大納言中山忠能の邸宅跡。明治天皇の実母の実家であり、明治天皇の誕生の地です。
中山家は平安時代末期に、中山忠親により創設された公家で、江戸時代には大名家の家格に準ぜられ、最高官位は大納言まで進むことが出来る家柄でした。第24代の権大納言・中山忠能(1809- 1888、ただやす)の次女・慶子(よしこ)は宮中の高級女官「典侍(ないしのすけ/てんじ)」となり、孝明天皇の身の回りの世話をしていた。
「孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。」(Wikipediaより)
孝明天皇が崩御され(1866年12月)、翌年1月に明治天皇が即位する。今や天皇の祖父となった中山忠能は幕末維新期に倒幕に貢献。岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ(1867年12月9日)、小御所会議では司会を務めた。王政復古後三職制が創設されると議定に就任した。

敷地内の左奥に、祐宮(のちの明治天皇)が4歳まで過ごしたという産屋(6畳2間)が残っており、塀越しに見ることができます。

塀前に「祐井」の木柱が立ち、塀の格子間から奥の井戸を覗くことができる。祐宮が2歳の時、日照り続きで邸内の井戸が枯れたため、新たに井戸を掘ると清らかな水が湧きだした。孝明天皇は祐宮の一字をとって「祐井(さちのい)」と名付けた。「京都御苑の三名水」の一つです。

中山邸跡から東へ行くと、倒れそうな老木が支えによってかろうじて立っている。「公家町の時代から残る名木・五松(ごまつ)」と紹介されています。崩れ行く公家の象徴なのでしょうか。五松の角を北へ行くと今出川口が開いている。

五松の場所から東へ直進した所に「石薬師御門」が建つ。かってこの門の前にあった真如堂に石薬師が祀られていたことからくる。門前には石薬師通り、真如堂前道などの地名が残っています。

石薬師御門前から南に広がる鬱蒼とした繁みの中へ入って行く。ここは昭和61年に環境庁が提唱した「母と子が自然とふれあう機会を増やそう」というコンセプトのもとに森作りが行われ「母と子の森」と名付けられています。「おじいちゃんとおばあちゃんの憩いの森」のほうが相応しいような印象を受けました。死に絶えた老木が横たわっている。展示されているのか、放置されているのか?。
「森の文庫」と呼ばれる四面からなる本棚があり、植物や鳥についての図鑑や書物が置かれ自由に閲覧できるようになっている。ここだけは親子で楽しめそう。

「母と子の森」の南側は「京都迎賓館」の建物です。その裏手に「「染殿井(そめどのい)」が残されている。その傍らに「染殿第(そめどのだい)」の邸宅についての説明版が立っている。内容は「染殿第跡 この付近一帯は、平安京当時の北東端(左京北辺四坊)にあたり、平安時代前期に臣下として最初の摂政に任じられ、その後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸「染殿第」があった場所とされています。染殿第はまた、良房の娘・明子(文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所であり、清和天皇は譲位後ここに移られて「清和院」と称されました。(現在の「清和院御門」の名の由来となっています)ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれているのも、かつての染殿第にちなんだものでしょう。」

藤原良房(804-872)は藤原北家・藤原冬嗣の二男で、その子孫達も相次いで摂関となったことから、藤原北家全盛の礎を築いた人物とされている。また染殿井は「御所三名水」の一つに数えられ、清和天皇の産湯井にも使用されたという。

京都迎賓館の南、仙洞・大宮御所の北側に広い空き地が広がり、立札「土御門第跡」だけがぽつんと立っている。
ここは藤原道長(966-1027)が栄華を極めた邸宅の場所で、土御門大路に面していたことから「土御門第(つちみかどだい)」と呼ばれた。元々は源雅信(920-993)が造った邸だったが、雅信の死後、娘の倫子と結婚した藤原道長が継承した。多くの邸を持っていたが、ここが道長の本邸であり、一族栄華の舞台になった所です。。道長の姉である詮子(一条天皇の母)や、長女の彰子(一条天皇の中宮、後一条天皇と後朱雀天皇の母)の御所となる。彰子の妹・嬉子もここで後冷泉天皇を出産、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏(仮御所)ともなった。道長の栄華を示す和歌「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」はこの屋敷で詠われた。また道長に召し出されて彰子に仕えた紫式部は、その宮仕えの様子を「紫式部日記」に描写している。
こうして華やかな歴史を刻んだ土御門第だったが、鎌倉時代の吉田兼好「徒然草」には廃墟になり荒廃したようすが記されているという。
(説明書きの駒札がかすれて読めない、デジタル拡大しても判読しがたい。環境省さん、松の手入れも大切だが駒札も読みやすくしてくれ)

土御門第跡の前を仙洞・大宮御所の塀に沿って東へ行くと「清和院御門」がある。清和天皇が譲位後に「清和院」と称し、近くに住んだことからの名称です。門を出てすぐに左に、紫式部が住んでいた蘆山寺があります。紫式部は蘆山寺から清和院御門を通って土御門第へ宮仕えしていたのです(当時門はあったのかな?)

大宮御所の北側、京都御所の建春門東側の広地に「学習院跡」の立札が置かれている。江戸時代末期に、公家をはじめ御所に務める役人のための教育機関として開設されたもの。一時、諸藩の陳情や建白を受け付ける窓口としたことから、尊皇攘夷派の公家や志士の活動拠点とされたが、八月十八日の政変以降、本来の教育機関に戻る。天皇や公家が東京に移るとともに京都の学習院は廃止されたが、東京に再設立されている。


学習院跡には珍しい「桜松」が生育している。
左上の写真を見れば、松の樹上に桜が咲いている。これ自体が驚きだ。桜は、松の空洞を通り土に根を張っていたのです。育ての親松は倒れても、子桜は元気に成長し、春には美しい花を見せてくれます。

学習院跡北側の広地は、公家の橋本家の邸宅跡のようです。探したが立札など見つけられなかった。
橋本家は藤原北家の流れをくみ、鎌倉時代末期に西園寺実俊を祖として創設された公家。この橋本家で有名なのが、幕末の時代の波に翻弄された和宮(かずのみや、1846-1877)。
和宮の母・橋本経子は仁孝天皇の側室だった。和宮は仁孝天皇の第八皇女として生まれ、孝明天皇の異母妹にあたる。ここ橋本家で14年間養育され、嘉永4年(1851)には、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約している。和宮は6歳、有栖川宮は17歳だった。
嘉永6年(1853)6月ペリーの浦賀来航から政局は激しく動く。開国をめぐって幕府と朝廷は対立し緊張関係になります。この緊張関係を収拾させようとして考え出されたのが公武合体策。具体的には、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に降嫁させようというもの。紆余曲折を経て、嫌がる和宮を説得し、万延元年(1860))にようやく内諾を得る。
文久元年(1861)10月、和宮(15歳)は内親王の宣下を受け、江戸の14代将軍・徳川家茂のもとに正室として降嫁していく。翌2月、和宮と家茂の婚儀が行われた。慶応2年(1866)7月、家茂没後、落飾して「静寛院」と称す。
慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると、かっての婚約者だった熾仁親王が東征大総督になり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城攻撃の中止を懇願し、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。32歳で亡くなり、芝・増上寺に夫ともに葬られています。


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京都御所を訪ねて 1(大宮御所・仙洞御所)

2023年10月05日 | 名所巡り

★2023年9月29日(金曜日)
猛暑の夏もようやく過ぎ、出かけたくなる季節がやってきました。最近、明治維新関連の本を読んでいるせいか、京都御所に大変興味が湧いてきた。京都御苑には葵祭、時代祭りで何度か訪れたことがあるのだが、宮内庁管理の京都御所(内裏)は桂離宮、修学院離宮などと同様に面倒な事前予約が必要だと思い敬遠してきたのです。ところがネットを見ていると、京都御所は事前予約なしに見学できるようになった、とあります。こうなったら出かけざるをえない。ついでなので仙洞御所も、と思ったらこちらはまだ事前予約制だった。やむなく4日前にネット予約する。
広い京都御苑内をどういった順路で周るか悩みます。まず午前9時30分予約の仙洞御所を見学する。次に京都御苑の南の門「堺町御門」からスタートし、京都御所を取り巻く京都御苑内を時計回りに一周し、最後に京都御所に入る。こういうコースで歩くことにした。

なお、京都御苑や仙洞御所などを含めた全体を「京都御所」と呼ぶのが一般的なようです。私もそうでした。しかし正しくは天皇の住まいだった「御所」(内裏、禁中、禁裏とも)とそれを取り巻く公家たちの邸があった「御苑」は区別されるようです。管轄も違い、御所は宮内庁が、御苑は環境省が管理している。

 大宮御所・仙洞御所の見学順路図 



1)北門、2)休憩待合所、3)御車寄、4)御常御殿、5)六枚橋、6)阿古瀬淵、7)紀貫之邸宅碑、8)鎮守社、9)土橋、10)石橋、11)雌滝、12)紅葉橋、13)八つ橋、14)雄滝、15)草紙洗石、16)反り橋、17)醒花亭、18)悠然台、19)氷室、20)柿本社、21)又新亭

見学ツアー進路を赤点で示しましたが、少々分かりにくい。番号順に見学、撮影していったので参考にしてください。

 大宮御所  



仙洞御所の外側を、南から北方を眺める。中央に正門が構えるが、閉まっています。

「仙洞(せんとう)」とは、仙人が住む俗世間を離れた清らかな土地という意味から、天皇を退いた上皇が住む場所をさします。仙洞御所は「後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7年(1630)に完成した。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏にように一定の場所にあったわけでもなく、また必ず置かれたわけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東南に定まった」(受付でのパンフより)。その後、何度か焼失するが、その都度再建されてきた。ところが嘉永7元年(1854)の大火で京都御所とともに焼失すると、その時たまたま上皇がいなかったので再建されないまま現在に至る。今は二つの茶室と、庭園のみが残されています。仙洞御所を取り囲む五筋の紋の入った築地塀は、安政2年(1855)に京都御所とともに再現されたもの。

北側に回ると北門があり、出発時間の30分前に開けられ、ここから入る。門脇に二人の皇宮警察官が立ち、ハガキやメールなどの見学確認書をチェックする。荷物検査は特にありませんでした。門をくぐると三人目の皇宮警察官が見張っており、少し緊張感が湧いてきた。白テントは受付でなく、案内用のものかと思われます。

右側にある建物が、受付と待合場所になっている。

京都仙洞御所(大宮御所も含む)は、京都御所のような自由な一般公開はされていない。事前予約制の無料見学ツアーに申し込みする必要がある。無料見学ツアーは1日に4回(午前 9時30分、11時00分、午後 1時30分、3時30分)で、しかも定員(20名?)がある。予約は往復はがき、インターネット、当日予約の3つの方法があります。当日予約は午後のみで、当日の参観を希望される方は午前11時から仙洞御所北入り口前に並んで、先着順で10名まで入ることができます。
私は4日前にインターネットで申し込みました。カレンダーが表示され、予約可能日が示され、予約時間を選択します。29日は<午前:9時30分>しか空きがありませんでした。・氏名・住所・電話番号・メールアドレス・参加人数などを入力します。2日後に見学許可のメールが届いた。このメールを印刷して当日に受付に提出する。印刷できない人はメールに記載されている許可番号を知らせます。返信はがき、確認メールの着信などを考えると、最低4日程前までに予約する必要があるようです。

待合場所です。自動販売機あり、また見学ツアーは1時間ほどかかるので、ここでトイレをすましておくこと。ここ以外にトイレはありません。
ツアーコースにそったビデオ映像が流されているので、事前知識を持っておくのもよい。20分ほどの映像が終わり、9時半になると、ガイドさんが現れ「それでは参りましょう」となる。

総勢15名ほどがガイドさんに先導され、大宮御所へ入って行く。最後尾には、皇宮警察官が目立たないようについてくる。コースからはみ出さないように、グループから外れないように見張っているようです。現在でも、天皇、皇后の京都府への行幸の際の宿泊に使用されているようなので、監視が厳しいのでしょう。

日英二ケ国語で案内されるガイドさんは小型スピーカーを腰に付けておられるので、少し離れていてもよく聴こえます。

大宮御所の玄関になる「御車寄(みくるまよせ)」で、奥の御常御殿と棟続きになっている。銅板葺の屋根が三層重なっており、雁が飛んでいるようでカッコいい。
「大宮」とは皇太后、太皇太后の敬称で、現在の「大宮御所」は慶応3年(1867)に、孝明天皇の女御・英照皇太后の御所として女院御所の跡に造営された。明治5年(1872)に英照皇太后が東京に移ったことから多くの建物は撤去され、常御殿、御車寄、付属舎だけが残る。

潜り戸を抜け、大宮御所の御常御殿の南庭に入る。白砂が敷かれた南庭には、御殿前の右に白梅、左に紅梅が、背後に竹が、周辺に松が配され、「松竹梅の庭」と呼ばれています。

慶応3年(1867)に造営された御常御殿(おつねごてん)は大正年間に洋風に改められた。周りはかつて遣戸だったがガラス戸に代わり、内部は絨毯が敷かれ、ソファ、テーブルなどの洋風調度品が置かれているそうです。これは現在でも天皇、皇后、皇太子、および皇太子妃の行幸の際の宿泊に使用されているからでしょう。
上皇(平成天皇)ご夫妻が今年(2023年)の5月15日の葵祭を御観覧の予定だったが、あいにく雨天順延となってしまった。そこでここ御常御殿で過ごされたそうです。

 仙洞御所 1(北池周辺)  



土塀の潜り門を抜けると、池を中心とした雄大な仙洞御所の庭園が開けてくる。広大な庭園ですが、ガイドさんがベストなコースを選択して案内してくださいます。かってにコースやグループから外れ、単独行動はできません。後ろには皇宮警察官が見張っていますよ。
以下の紹介はコース順に記述していますので、空中写真の地名、番号を参考にイメージしてください。

目の前に広がるのは「北池」と呼ばれている。もともとは大宮御所の庭園として造られたが、延享4年(1747)に掘割で南池とつなげられ仙洞御所の庭園となった。
仙洞御所の庭園は、幕府の作事奉行・小堀遠州が寛永13年(1636)に作庭した池泉回遊式庭園です。遠くにかすかに東山がのぞく。かって東山の峰が借景にして採られていたが、現在は樹木が大きくなり目立たなくなっている。

北池に沿って左(北側)へ歩くと六枚の切り石二列の「六枚橋」が架かる。橋の左手の入江は「阿古瀬淵(あこせがふち)」と呼ばれています。
橋を渡った先に、明治8年(1875)に建立された紀貫之の邸宅跡を示す石碑が建っている。この辺りに「古今和歌集」を編纂した平安時代初期の歌人・紀貫之の邸があったと伝わっています。入江の名の「阿古瀬」とは、紀貫之の幼名「阿古久曾(あこくそ)」にちなんだものだたいわれている。

北池の北側の散策路。京都の寺院などの多くは、回遊式庭園といっても建物内から眺めるだけのものが多い。仙洞御所の庭園は、建物が無いこともあるが、広い園内を回遊して楽しめる庭園です。しかもガイドさんの案内付きで、しかも無料で(税金?)。

左手の土堤上に紅い鎮守社が見える。伊勢神宮、下賀茂神社、上賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社を祀っているそうです。

北池の南側を眺めると、中央に掘割があり、南池とつなげられている。掘割の右が紅葉山、左が鷺の森です。

北池の東側に回り込と、やや反り気味でテスリ付きの土橋がある。かって長さ5mの橋を1本の橋脚で支えていたが、危険なので現在は2本になっている。さらに行くと石橋がある。幅が狭くテスリも無いので、写真に夢中になっていると落っこちそうになる。

この辺り、北池の南東隅で入江が入り組んでいる。樹木と池を見ながら曲路を気持ちよく散策できます。「雌滝(めたき)」と呼ばれている小さな滝があります。ガイドさんに紹介されなければ、ただの水の流れだと見逃してしまいそうです。

鷺の森に入り、北池を眺める。

反対側の南方向を眺めると、これから周回する南池が広がる。中央に見えるのが藤棚に覆われた「八つ橋」。

鷺の森の先に「紅葉橋」が架かる。土橋で、丸竹のテスリが付く。これは北池と南池をつなぐため間を割って造られた掘割にかけらてた橋。舟遊びで両池を往来するために運河を造ったのでしょう。

紅葉橋の遠景。橋の右が鷺の森で、左が紅葉山。名前から想像すると、紅葉シーズンには素晴らしい景観となることでしょう。ついガイドさんに「紅葉時期も無料ですか?」と尋ねてしまった。「仙洞御所はいつでも無料ですヨ」とのご返事(宮内庁管理の皇室財産なので税金?)

 仙洞御所 2(南池周辺)  



南池西岸を少し下ると、藤棚に覆われた橋がある。南池を横断し、池の中央にある中島へつながる。元は木造橋だったが、明治時代中頃に八枚の御影石を稲妻形につないだ石橋に架け替えられた。そのため「八つ橋」と呼ぶ。4本の藤もその時植えられ、西半分は下り藤、東半分が上がり藤だそうです。

八つ橋から池の北東を見ると、自然石と切り石を組んだ護岸をもつ出島がある。左の写真は、出島の左端を拡大したもの。高さ2mほどの滝から水が落下している。北池の雌滝に対して「雄滝(おだき)」と呼ぶ。滝の右前方にある大きい平石は「草紙洗(そうしあらい)の石」と呼ばれ,六歌仙の小野小町と大友黒主が、歌合わせで対峙した逸話を題材にした謡曲「草紙洗小町」にちなんだ石だそうです。

八つ橋から南を見ればさらに南池が広がっている。西岸は小石を敷き詰めた州浜がのび、左には中島が見えます。
中島にはかって釣り殿があったが、今は礎石だけが残されている。丸く平たい笠で三本足の雪見燈籠は、黄門さんこと水戸光圀の献上によるものだそうです。





中島から反り橋を渡り対岸へ。周辺の景観に見とれていると、この橋でも落っこちそう。


南池の南端には小さな「葭島(よしじま)」が浮かぶ。かって島の周囲に葦(葭)が生えていたことからくる名称。
池に沿った散策路にはカエデの木が多く、紅葉に彩られた絶景が眼に浮かんできます。

南池の南にでると西岸一帯に、平べったくて丸い小石をびっしりと敷き詰めた「州浜」が広がる。池の中にまで敷き詰められ、石の数はなんと約12万個。小田原藩主・大久保忠真が領民に集めさせ光格天皇に献上した。石1個につき米1升と交換したことから「一升石」と呼ばれている。一個一個真綿で包み、船で大阪から京都に運んだという。

州浜に沿った道は「桜の馬場」と呼ばれ、桜並木となっていた。ガイドさんによると、台風で倒され、今は6本しか残っていないそうです。

 仙洞御所 3(醒花亭・又新亭)  



南池の南端に、池を一望できるように北面して茶室「醒花亭(せいかてい)」が建つ。数度の火災にあい、現在のものは江戸時代後期、1808年に後桜町天皇により再建されたもの。仙洞御所内でもっとも古い建物になる。柿葺き平屋の数奇屋造の建物で、腰高障子がはまる。醒花亭の「醒花」は李白の詩から取られたもので,室内東側の鴨居の上に拓本の額として掲げられている。額の字は中国明の時代の郭子章の筆である。
また茶室東側の小高い丘の上に「悠然台(ゆうぜんだい)」という物見台が置かれていた。仙洞御所で最も高い場所で、観月や祇園祭の山鉾巡行を眺めたそうです。


茶室の前には手水鉢と加藤清正の献上品と言われている朝鮮灯籠がある。手水鉢にはひび割れを防ぐため小石が敷き詰められているが、天皇行幸のおりには除かれ、清水が満たされるそうです。



醒花亭斜め前の小高い土盛は、殻を伏せたサザエに似ていることから「さざえ山」と呼ばれている。頂上には石垣で囲われた遺構が残され、7世紀の古墳跡のようです。




さざえ山とは道を挟んだ西側に緑の植え込みが見られる。これは深さ4m、長さ7m、幅4mの地下構造物で、「お冷やし」と呼ばれる氷室です。洛北の氷室より運び込まれた氷を夏場に貯蔵し、氷水、食物の冷蔵などに使っていた。
ガイドさんの案内が無いので尋ねると、覗き込んで落っこちる方がいるので紹介していないそうです。



真っすぐ北へ進むと赤垣で囲まれた小さな社がある。万葉の歌人・柿本人麻呂を祀っている「柿本社(かきのもとのやしろ)」です。火災が頻発したことから、零元上皇(1654-1732)が「人麻呂(ひとまろ)」は「火止まる」につうじるとして勧請したという。



州浜沿いの苑路に戻り、北へ向かう。手前の小石が原、エメラルドグリーンの南池、奥の緑の森、葭島が浮かび左には中島が見える。紅葉に彩られたらどんな風景になるんだろう。池は、紅葉の映りがよくなるように浅くしているそうです。

北方を眺めれば、藤に覆われた八つ橋を手前に、奥に紅葉橋と左の紅葉山、さらにその左が蘇鉄が植えられ燈籠が立てられている蘇鉄山です。

この写真の左には樹木が茂る広々とした林がある。このなかにかって仙洞御所の殿舎が池に面して建ち並んでいとという。それらの殿舎は整理され、現在は1棟も残されていない。

仙洞御所への入口近くまで戻ってきました。そこには四つ目垣で囲まれ茶室「又新亭(ゆうしんてい)」が佇んでいる。明治17年(1884年)、近衛家(今出川御門)の寄進により、その邸宅より移されたもの。茅葺と柿葺の屋根をもち、大きな丸窓に半切れの竹桟が特色です。名は裏千家宗旦の「又隠(ゆういん)の席」に因る。
茶室の南離れには「待合御腰掛」があり、ここから蘇鉄山、紅葉山を観覧できるようになっている。

茶室真ん前の池岸には船着き場が設けられている。ここから舟遊びにでかけ北池から南池へと優雅なひと時を過ごしたのでしょう。中島に釣殿があったことからすると、釣りも楽しまれたことと思う。


約1時間の見学でした。緑と池に囲まれ清々しい広い庭園を案内付きで回遊できるなんて素晴らしい。しかも無料で。紅葉シーズンならなお感動が得られることでしょう。


お疲れさま、と皇宮警察官が北門を開けてくれます。



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いざ天王山へ 2(古戦場碑・光秀本陣跡・勝龍寺城)

2023年07月24日 | 山登り

★2023年7月2日(日曜日)
天王山から下山後、山崎の戦いに関連した東黒門跡、古戦場石碑、明智光秀の本陣跡、勝龍寺城へ向かいます。

 東黒門跡と古戦場石碑 



天王山から下山し、これから光秀の本陣跡と勝龍寺城へ向かいます。
大山崎町歴史資料館で食事と休息した後、西国街道を東へ20分くらい歩くと、左側の道端に石碑が置かれている。この場所が「大山崎の東黒門」が建っていた所ろです。西国街道(現在、府道67号線)に沿って細長く続く大山崎の集落は、集落の東西の端に東黒門、西黒門を設け、治安の維持をはかっていたという。
歴史資料館のガイドさんの話では、秀吉方の高山右近がこの東黒門を突破し突撃したことから「山崎の戦い」の戦端が開かれたそうです。

現在、東黒門の痕跡は残されていないが、石柱と石碑が建っている。
手前の石柱には「石敢当」(いしがんとう、せっかんとう)と刻まれている。これは集落や境内の出入口などに置かれた魔除けの石板のこと。石碑には「高瀬川清兵衛」と刻まれている。この人は江戸時代後期に活躍した大山崎出身の相撲力士で、引退後は相撲の興行主として地元におおい貢献したことから、明治前期に建立されたと説明されています。

さらに歩くこと10数分、高架が見えてきた。東名高速道路が天王山トンネルを出て大山崎JCTに入る手前です。地図で見ると、この周辺は高速道路の高架が縦横に走り、とても気持ちよく歩ける環境ではない。昼過ぎの一番暑い時間帯、熱中症を心配しながらこまめに水分補給する。
右の立派な建物は大山崎町役場。どこへ行っても役所が地域で一番大きく豪華だ(大阪府庁は例外)。

高架をくぐり、100mほど先で右折し進むと橋が見えてくる。小泉川(かっての円明寺川)が流れ、川に沿って京都縦貫道が通っている。右側の大山崎中学校のグランドと川に挟まれた高架の下が「天王山夢ほたる公園」です。南北に細長い公園で、古戦場碑は一番北端に建っています。

13日午後4時頃、円明寺川(現小泉川)を挟んで西側に羽柴軍3万6千、東側に光秀軍1万5千の軍勢が対峙した。そして午後4時30分頃合戦の火蓋が切って落とされる。しかし秀吉軍はわずか3時間余り(ここの説明版では1時間)で勝利を収めたという。

公園の北側に建てられた「山崎合戦古戦場」の石碑。ここが山崎合戦の一番の撮影スポットとか。戦場に撮影スポットがあるとは・・・。確かに天王山を借景に、戦場の碑が浮き立つ。ここ以外に戦場の跡を表すものがないのです。
しかし横に目をやると、巨大な橋げたに碑などかすんでしまう。

コンクリート額縁に収まった天王山。この眺めは光秀側から見た視点です。山崎駅から眺めた天王山は横に水平だったが、こうして東側から眺めても水平でなだらかな山です。

(現地説明版の戦場図。4枚目の陶板絵図と同じ)
光秀の敗因は幾つかあげられているが、その一つに戦場に選んだ場所の問題があります。天王山と桂川に挟まれた一番狭い場所、即ち大山崎の町ではなく、その外れの小泉川(円明寺川)の周辺の広い湿地帯を戦場に選んだ。光秀の軍勢は1万人から1万5千人、対する羽柴軍は3万6千人といわれている。狭い場所なら大軍を動かしにくく、逆に少ない軍勢でも十分に対抗できる。ところが光秀は大山崎の町での戦闘、つまり「町合戦」を避けたのです。
光秀は本能寺の変後すぐ5通の禁制を出している。「禁制」とは、寺社や民衆に対しての約束事です。本能寺の変の翌日、光秀は経済力に富む大山崎油座と、献金と引き換えに町を戦火にさらさぬという禁制を結んでいた。実直な光秀は約束を守り、そして負けたのです。

 光秀の本陣跡  



次に目指すのは明智光秀の本陣跡。古戦場碑の場所から北東へ500m程の所に、古墳時代前期後半の境野(さかいの)一号墳という古墳があります。サントリー京都ビール工場のすぐ東側になる。ここが「太閤記」などにでてくる「御坊塚」と呼ばれる光秀の本陣跡だとするのが今までの定説になっていた。その場所には大山崎町が設置した「明智光秀本陣跡」という石柱と案内板が建てられている。説明版に「当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられます。古墳のある場所は標高二五・二mを測り、周辺と比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に視界がひらけます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってるけの場所が本古墳であったと言えるでしょう」と推定しています。
ところが最近になって御坊塚は長岡京市の恵解山古墳ではないか、という説が浮上してきた。次にその恵解山古墳へ行ってみます。

境野一号墳から北へ500mほど行けば恵解山古墳が現れる。墳丘全体が前方後円墳らしく公園として整備され、周りに埴輪列が並べられているのですぐわかる。

恵解山古墳(いげのやまこふん)は古墳時代中期、5世紀前半頃の前方後円墳。全長:128m、後円部の直径:78.6m、後円部の高さ:10.4m、前方部の幅:78.6m、前方部の先端の高さ:7.6mの規模をもち、乙訓地域最大の前方後円墳で、5世紀前半頃に桂川以西を支配した首長の墓と考えられています。

三段形状の墳丘は、小泉川から採集した河原石を葺石として全体が覆われていた。「葺石に覆われた古墳は、白く輝く石の山として、強烈な印象を与えたことでしょう」(説明版)。また墳丘の周囲には幅30mの広く浅い周濠が巡っていた。副葬品埋納施設からは、木箱の中に収められた約700点もの鉄製武器類(刀、剣、槍、短刀、矢)が見つかっている。

昭和56年(1981)に国史跡に指定され、現在は史跡公園として整備され市民に公開されています。広い周濠は芝生が植えられ、市民の憩いの場となっている。墳丘上にも自由に登れ、埴輪列が並べられ復原された前方後円墳の姿を見学することができる。写真右は、後円墳部分。

平成23年(2011)長岡京市埋蔵文化財センターが、恵解山古墳周辺から大規模な堀跡、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡が見つかり、これは光秀の本陣跡とされる「御坊塚」ではないかと発表した。

どこを探しても光秀の本陣跡という碑も案内も見つからない。ただ一ケ所、古墳を囲う鉄柵に写真のような横断幕が掲げられていました。長岡京市はまだ確信がもてないのでしょうか?。
「現在、光秀の本陣跡とされる御坊塚について、大山崎町と長岡京市とが競い合っている。しかし最近はウチの方が分が悪くなっています」と語るのは大山崎町歴史資料館のボランティアガイドさん。

 勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)  



山崎の戦いで負けた明智光秀は勝龍寺城に逃げ込み、ここで最後の夜を過ごした。

勝龍寺城は、光秀の本陣跡とされる恵解山古墳からさらに北へ500mほどの所。現在公園として整備され、長岡京市の観光スポットとなっている。光秀よりは、その娘・玉(ガラシャ)が新婚生活を過ごした場所として有名です。公園東側の府道211号線は「ガラシャ通り」と呼ばれています。右の写真は公園の東側です。北東隅に、外を監視・攻撃するための隅櫓が建つが、これは公園化するときに再建されたもの。

(案内板の「勝龍寺城縄張推定復元図」)
勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、京都盆地の南西部に位置し、京都から西宮を経て中国、九州へと続く「西国街道」と、桂川右岸の低地を直進する「久我畷」の結節点を抑え、淀川水系にもほど近い交通の要衝に立地する。「文明2年(1470)西軍畠山義就が勝龍寺城を陣城としたように、応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が、たびたび臨時的な砦として利用されるようになり、次第に恒常的な城郭として整備されたようです」(案内板より)。戦国時代末期には三好三人衆が陣地にしていたが、永禄11年(1568)に織田信長が攻撃し勝龍寺城を手に入れる。信長は勝龍寺城を細川藤孝(1534-1610)に与え、大改修を命じ、ここを山城支配の拠点とした。
「勝龍寺城は、元亀2(1571)年に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を、当時最先端の城郭に大きく造り替えたものです。土を切り盛りして造った、それまでの中世城郭とは一線を画し、「瓦葺き」「石垣」「天主」といった、その後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられています。信長の安土城築城よりも5年早く、近世城郭の先駆けとも言えるものです」(パンフより)

本丸は、東西120メートル×南北80メートルで、周囲は高さ4~5mの土塁で囲まれ、外側には幅10~15m、深さ約3mの堀を巡らせていた。本丸の南西側には沼田丸という台形の曲輪があり、本丸の南側には勝龍寺や築山屋敷、西側には沼田屋敷、東側には中村屋敷、北側には米田屋敷や松井屋敷、神足屋敷があった。城名は南側の古刹・勝龍寺に由来する。
細川藤孝・忠興親子が、天正9年(1581)に丹後宮津城に移るまで10年間居城し、後の肥後熊本藩細川家の礎を築いた。

城跡は本丸と沼田丸の部分だけ残され、平成4年(1992)に「勝竜寺城公園」として整備され市民に開放されました(9時~17時(4月~10月は~18時))。公園整備に先立つ昭和63年(1988)の発掘調査によって、数々の遺構・遺物が発見されている。また北方の神足屋敷の土塁跡も保存されています。入口に「明智光秀公三女玉お輿入れの城」の石柱が建つ。

天正6(1578)年、信長のすすめにより明智光秀の三女・玉(1563~1600)は細川藤孝の嫡男・忠興(ただおき)にここ勝龍寺城で輿入れした。忠興・玉ともに16歳で、ここで2年間の新婚生活を過ごし、二人の子供をもうけている。天正9年(1581)に丹後宮津城に移るが、翌年(1582年)に「本能寺の変」「山崎の戦い」となり、玉の人生は暗転する。
本能寺の変の後、光秀は盟友でもあり縁戚でもある細川藤孝・忠興親子に加勢を呼びかけた。しかし親子は信長への弔意を表し応じなかった。藤孝は「喪に服す」といって剃髪し、雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし丹後田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。謀反人の娘となった玉は離縁され、味土野(京丹後市)に幽閉されます。2年後、秀吉の取り成しで復縁し、忠興は玉を大坂玉造の細川家屋敷に呼び戻す。キリシタン大名高山右近の影響で洗礼を受け、玉はガラシャという洗礼名を授かりました。
関ヶ原の戦いに先立つ慶長5年(1600)7月、石田三成の軍勢は徳川方についた忠興の妻・玉を人質にするため細川屋敷を包囲します。ガラシャは人質になるのを拒んで死を決意、キリスト教は自殺が認められていないので、家臣の介錯により最後を遂げた。辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。38歳でした。
細川忠興は関ヶ原の戦いで軍功をあげ、丹後国宮津城主から豊前国小倉藩39万石初代藩主、息子の忠利は中津城主となります。忠利は、寛永9年(1632)に肥後熊本城に54万石の大名として入城します。元総理大臣の細川護熙(もりひろ)氏は、熊本城主細川家18代当主です。

毎年11月第2日曜日に「長岡京ガラシャ祭」が開催される。細川忠興に輿入れする様子を再現した「お輿入れ行列」や古墳時代から江戸時代までの有名な歴史の人物が登場する「歴史文化行列」、「町衆祝いの行列」など様々な人が勝竜寺城公園に向けて約3kmの街中を練り歩く。公園内で多くの来場者が見守るなか、玉と忠興の婚礼の儀が執り行われるという。

公園北側にある北門。山崎の戦いに敗れた光秀は勝龍寺城へ逃げ込み最期の夜を過ごした。しかしこの城では追撃する秀吉軍を防ぐことはできないため、その夜中に20人ほどの兵を連れてこの北門から脱出し、本拠の坂本城を目指した。しかしその途中の小栗栖の藪(現明智藪)で落ち武者狩りに遭い殺される。享年55歳だった。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒されたという。
「三日天下」と言われるが、本能寺の変が6月2日、山崎の戦いが13日なので「十二日天下」だった。

戦いの翌日14日には秀吉が勝竜寺城に入城している。秀吉は勝竜寺城をあまり重視せず、城は荒廃してゆく。寛永10年(1633)、旗本の永井直清が入府し、荒廃していた勝龍寺城の修築を行う。しかし慶安2年(1649)に直清が摂津高槻藩に転封されると、勝龍寺城は完全に廃城となった。

北門の近くに石垣跡が残されている。その傍に小屋があり、石垣の一部として用いられた石仏、五輪塔、宝篋印塔など集められている。こうした転用石はどの城でもよく見られ、古墳の石棺などを転用した例もあります。お城は沢山の石を必要とするので、石材を集めるのに苦労したのでしょう。

管理棟の建物の西側に、「光秀出陣テラス」よばれる段丘がある。7mほど高くなっており、天王山、男山、淀川などを一望できるという。城に攻め込む敵兵を側面から射撃する「横矢掛かり」としての機能をもっていた。「ここに天主が建てられ、周囲の街道などににらみをきかせていた可能性がある」(パンフより)

お城の形をした公園内の唯一の建物は管理棟です。1階は休憩室(右写真)、2階が展示室(撮影禁止)になっている。展示室では、勝龍寺城跡の発掘の様子や瓦や一石五輪塔などの出土品が展示され、また勝龍寺城の各種資料を見ることが出来ます。私以外誰もいないはずの室内で声が聞こえてきます。ビデオ映像が流れていました。勝龍寺城にゆかりの明智光秀・玉(ガラシャ)・細川藤孝(幽斎)・忠興(三斎)4人の人物に焦点を当てた映像と、「お城博士」として知られ城郭考古学の第一人者の千田先生が丁寧に解説される勝龍寺城についての二本の映像が繰り返し流れていました。
トイレもあり、涼しい冷気のの中で一服できる管理棟です。

勝龍寺城から北へ200mほど行くと神足(こうたり)神社があります。入口から入ってすぐ右側に、勝竜寺城の土塁・空堀跡が復元され、周囲を一周して見学できるようになっています。堀の底から土塁の頂部までの高さが6mを超えるという。細川藤孝の修復時に築かれたと考えられている。

神足神社から北へ数分歩けばJR長岡京駅です。さらば天王山。



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いざ天王山へ 1(天王山山頂まで)

2023年07月16日 | 山登り

★2023年7月2日(日曜日)
久しぶりに登山に出かけることにした。その山は「天下分け目の戦い」として歴史に名を刻む「天王山」。高さ約270メートルで、”登山”などというと笑われるかもしれない。しかし、今の私にとってかなりハードな登山なのです。
天王山の戦い(山崎の戦い)は天正10年6月13日とされる。これは旧暦です。新暦に直すといつだろうか?。調べても適格な情報が見つからなかったが、Wikipediaに「天正10年6月13日(1582年7月2日)」と記されていた。7月2日だともうすぐだ。念のために地元の大山崎町歴史資料館に電話してみた。7月2日は新暦でもユリウス暦で、現在使われているグレゴリオ暦はそれから10日ほどズレる、と説明されました。じゃ12日だ、と決めるがこの時期、梅雨時で曇りや雨が多く、天気予報も良くない。悩んでいると、前後の悪天候に挟まれた状態で、7月2日だけが晴となっている。これは出かけるよりしかない。いざ天王山へ!(登山中に見た4枚目の陶板絵図に「新暦では7月12日」と書かれていました)
下山後、体力に余力があったら、古戦場石碑、明智光秀の本陣跡、勝龍寺城へ向かいます。

大山崎の地は京都と大阪の境に位置し、空中写真を見ればわかるように、天王山と男山に挟まれた狭い地域となっている。ここに桂川・宇治川・木津川が流れ込み、合流して淀川となって大阪湾に流れ込む。そのため、古来水運・陸運の要地となっていたと同時に軍事上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきた。「天下分け目の戦い」と言われる「山崎の戦い」があり、幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府方として大山崎に布陣していた津藩・藤堂軍が、いきなり対岸の男山方面に布陣する幕府軍を砲撃した。薩長側に寝返ったのです。これで幕府軍は総崩れとなり戦いの趨勢が決まり、薩長を中心とした明治維新が実現した。

 大山崎町歴史資料館  



阪急・大山崎駅のホームから天王山を眺める。この駅と天王山との間にJR山崎駅があります。山は高さ約270メートル、お散歩に丁度良い位の高さ。西側の山腹を、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎり、天王山は京都府に属します。古くは「山崎山」と呼ばれていたようですが、山頂近くに牛頭天王を祀る天神八王子社があったので室町時代の頃より「天王山」と呼ばれるようになった。

阪急・大山崎駅。この道路はかって「西国街道」と呼ばれ、西国と京を結ぶ歴史ある街道で、秀吉も「中国大返し」で軍馬を走らせた道です。
京都 - 西宮間は「山崎街道」とも呼ばれている。
駅から100mほど手前(東側)に大山崎町歴史資料館が、200mほど向こう側(西側)へ行けば離宮八幡宮があります。

大山崎ふるさとセンターの建物。一階は広々とした休憩コーナー、二階が歴史資料館(入館料200円)となっている。歴史資料館は全て撮影禁止です。妙喜庵の茶室・待庵(国宝)の複製が展示されていたが、撮影できず残念でした。その他、私が望んでいた情報もパンフも無かったが、ボランティアのおじさんが寄ってきて色々話をしてくださったのが有益だった。
月曜休館 tel: 075-952-6288(総合案内)


 離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)  



駅から西へ数分歩けば離宮八幡宮の東門です。写真のように西国街道が門の前で左に湾曲している。これは江戸幕府三代将軍・徳川家光の時、境内が南側に拡張されたためです。

離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)の創建は「社伝によると、貞観元年(859年)、清和天皇は神託により国家鎮護のために宇佐八幡宮から八幡神を勧請し、平安京の守護神として奉安しようと考えた。そして大安寺の僧行教が豊前国に使わされ、八幡神とともに山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)に戻ってくると、同年8月23日に行教は神降山に霊光を見、その麓にある西国街道に面している当地に行くと岩の間から清水が湧いているのを見た。帰京後に清和天皇にその出来事を奏上したところ、勅命によりその地(現在当宮がある地)に社が建立され、「石清水八幡宮」と名付けられた、という。しかし、翌貞観2年(860年)2月9日にその社から淀川の対岸にある男山に向かって一筋の光が放たれると、4月3日には男山に八幡神を遷宮させて新たに「石清水八幡宮」を建立した。だが、最初に八幡神が降り立ったのは山崎であるとして残された当地の社に再び八幡神を勧請して「石清水八幡宮」を存続させた、という。」(Wikipediaより)

境内に入ると石鳥居、その先に中門(国登録有形文化財)が建つ。
Wikipediaによると「当社は修理の要請を幕府に行う際、社名である「石清水八幡宮」と「源家の宗廟」という立場を強調していたが、遂に男山の石清水八幡宮と「石清水八幡宮」の社号を巡っての争いが起きて当社は敗北し、元禄10年(1697年)9月18日の裁許状で「石清水八幡宮」の名称の使用を禁止された。以降、当社は離宮八幡宮を正式の名称とした。」
かつてこの地に嵯峨天皇の「河陽(かや)離宮」があったことによる。公式サイトに「「河陽宮」の名前の由来は、淀の大河の北、即ち陽に当たる処にあったことから「河陽」の宮と称せられました。山崎の津(港)は古来より淀川流域における一要津として重んぜられていました。奈良朝より平安朝にかけて天皇が遊猟する風習が盛んになり、天皇はその遊猟地である交野、栗前、水生野、大原野、葛野、山階野等に行幸される度にその要路である山崎の駅に泊られました。弘仁4年(813)、嵯峨天皇が交野に行幸された際、山崎駅を行宮に定められ、後に山崎行宮が「河陽宮」と称せられるようになりました」とあります。
中門前の右側に「河陽宮故址」の碑が建つ。中門前左右の石灯篭には「石清水八幡宮」と刻まれ、裏面に「元禄」の文字が見える。改名する前に造られた石灯篭でしょうか。

中門右前に碑「本邦製油発祥地」と「油祖像」(ゆそぞう)が建つ。黄色の円形標識は「全国油脂販売店標識」で、昭和32年に制定された全国油脂販売業者共通の店頭標識です。

「貞観年間(859- 877)に当宮の神官が「長木」という搾油器を発明し荏胡麻(えごま)油の製油を始めました。当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていたが、この製法はやがて全国に広まると、朝廷より「油祖」の名を賜ります。鎌倉時代に油座の制度ができると離宮八幡宮は座の会所となり、全国の荏胡麻油の販売権を独占し、諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした。また山崎は幕府から自治権を認められ自治都市として独自の発展を遂げました。「室町幕府三代将軍・足利義満は円明寺から水無瀬川の間を当宮神人の在所であることから「守護(役人)不入地」とし、大山崎の自治を認めました。以来、明治維新までの長きにわたって、離宮八幡宮の神領として特別に自治を認められる地域でありました」(境内の説明版より)
山崎の油商人は関所通行料免除などの特権も与えられ、「山崎長者」として大いに栄えた。ところが戦国時代になって織田信長などがとった楽市・楽座の政策で、油座の持っていた特権は無くなってしまう。さらに菜種油が主流となっていき、荏胡麻油生産は衰退していった。
「荏胡麻(えごま)」とは、シソ科の一年草で、「え」「しろじそ」「じゅうねん」とも呼ばれている。その種子は35~40%の油を含んでおり、これを搾りとったのが荏胡麻油。

拝殿と、その奥の本殿(国登録有形文化財)。本殿に応神天皇、左殿に酒解大神(別称大山祇神)、右殿に比売三神が祀られている。
社殿は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による「寛永の造営」によって再建された。境内も拡張され、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構えていたという。ところが幕末の元治元年(1864年)「禁門の変(蛤御門の変)」の時、離宮八幡宮は長州藩の屯所となったので、会津藩や新撰組などの幕府軍の攻撃を受け、多くの民家とともに離宮八幡宮は惣門(南門)と東門を残してほとんど焼失してしまう。明治時代になると、神仏分離によって神宮寺が廃寺となり、境内の西側が大阪府に割譲された。明治9年(1876)には東海道本線の敷設のため、境内の北側を収公され、境内はさらに縮小してしまう。そうしたなか、明治12年(1879)に大阪油商山崎講と地元の崇敬者の寄進により社殿が再建された。さらに昭和4年(1929)、東海道本線の複々線化の工事に合わせ、かつて拝殿が建てられていた場所に移して本殿、幣殿、拝殿を繋げる様式に改築され現在に至る。
本殿内の両脇には、各メーカーの油の一斗缶が沢山奉納されています。

境内西側に十数個の巨石が並んでいる。これはかって存在した多宝塔の礎石だそうです。その奥に見えるのが「菅原道真腰掛け石」。延喜元年(901)右大臣菅原道真(845-903)が大宰府に左遷される道中、西国街道脇にあったこの石に腰を下ろし休息したと伝わる。


 妙喜庵(みょうきあん)・登山口  



離宮八幡宮のすぐ北側にJR山崎駅がある。その駅前広場の一角に妙喜庵(みょうきあん)がある。外観は民家風なので、案内板が無かったら気づかないでしまう。この中に国宝の茶室「待庵(たいあん)」がある。「待庵」は千利休が唯一残した茶室であるといわれる。

妙喜庵内部を見学するには、希望日の1ヶ月前までに往復はがきで予約が必要。



JR山崎駅から線路沿いに100mほど歩けば踏切です。京都ー大阪間なので頻繁に列車が通り、タイミング悪ければかなり待たされることもある。踏切を渡れば「天王山登り口」の標識が建つが、山への登山口というより、お寺の参道といった雰囲気です。







 陶板絵図「秀吉の道」(全6枚)  


天王山山頂までの途中途中に、「本能寺の変」から「山崎の合戦」までの経緯を時系列に並べた陶板絵図「秀吉の道」が6枚設置されています。解説文は堺屋太一さん、陶板絵は日本画家・岩井弘さんによる。ここに頂上までの全6枚を一括取り上げ、全文を掲載しておきます。前もって「山崎の戦い(天王山の戦い)」の概要を知っておくと、大山崎の町と天王山を歩くのに大いに役立ちます。

なお「天王山の戦い」とも云われるが、これは正確ではないようです。天王山が戦いの場になったのではなく、また天王山の争奪戦があったわけでもない。戦闘の場所は天王山の東山麓の湿地帯だった。そこから「山崎の戦い(山崎合戦)」と呼ぶのが正しいようです。

1枚目は、分岐点からアサヒビール山崎山荘美術館に向かう道に入り200mほど進んだ所に設置されている。屏風画は本能寺の変直前の、各武将たちの勢力図が描かれています。(これだけは下山時に撮ったもの)

「本能寺の変 「鬼」信長を討った「人」光秀
天正十年(一五八二年)、織田信長の天下統一は、まさに成らんとしていた。その信長が、旧暦六月二日(新暦では七月一日)未明、京都本能寺で家臣の明智光秀に襲われ殺害された。史上に名高い「本能寺の変」である。三十一年前、十八歳で尾張(愛知県西部)の小さな大名の地位を継いだ織田信長は、銭で傭う兵を設け、誰でも商いのできる楽市楽座を進め、自分一人の判断で政治を行うようにした。兵農分離、貨幣経済、独裁政治の三つを柱とする新しい仕組みである。古くからの習慣や身分を大切に思う人々は、これに反対、信長の敵になった。だが、信長は挫けず、新しい仕組みの利点を活かして鉄砲や築城の技術を取り入れて強力な軍隊をつくり上げた。このため、天正十年初夏には、織田信長の領地が天下の半分を占めるまでになっていた。天下統一を急ぐ信長は、有能な人材を抜擢して各方面の大将とし、その下に大小の大名を付ける組織をつくった。北陸は柴田勝家、関東は滝川一益、中国は羽柴(豊臣)秀吉、新しくはじめる四国攻めには丹羽長秀、といった具合だ。図は「本能寺の変」直前の織田信長とその相手方を描いたものである。
そんな中で、明智光秀だけは持ち場がない。手柄を立てたい光秀は、不満だった。古い伝統や人脈を尊ぶ常識的な「人」光秀には、合理性に徹した改革を進める信長が「鬼」のような独裁者に見えた。天正十年五月、中国攻め総大将の羽柴秀吉は、備中(岡山県)高松城を攻めた。毛利方も高松城を助けようと総力を挙げて出陣してきた。それを知った織田信長は、自ら出陣すべく安土から京都に入り、僅かな供廻りだけを連れて本能寺に宿泊した。一方、信長出陣の先駆けを命じられた明知光秀は、丹波亀山(京都府)で一万六千人の軍勢を揃え、中国に向かうと称して出発したが、途中で方向を変えて本能寺を急襲、あっという間に織田信長を討ち取った。世界の歴史にも珍しい劇的な事件である。」

2枚目は「青木葉谷展望台」にあります。

「秀吉の中国大返し 勝負を決めた判断と行動
天正十年六月二日(新暦一五八二年七月一日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、近くの二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。その頃、織田家の有力武将は、遠く離れたそれぞれの持場で強力な敵と相対していた。羽柴(豊臣)秀吉は、はるか西の備中(岡山県)にいた。秀吉は雑用人として織田信長に仕えて以来二十数年、機転と勇気で様々な手柄をたてて出世。五年前に強敵毛利家と戦う中国攻めの総大将に任じられてからは、才気とねばりで大きな戦果を挙げた。天正十年五月、秀吉は、いよいよ毛利家に止めを刺すべく山陽の要衝、備中高松城を攻め、水攻めの奇策によって陥落寸前にまで追い詰めた。毛利方も高松城を見殺しにできず、全力を挙げて救援にきた。それを知った信長は、自ら出陣、一気に毛利勢を撃滅することにした。秀吉は、主君信長の天下統一が間もなく完成すると信じていた。
ところが、六月三日の夜、その信長が京都本能寺において明智光秀に殺害されたことを知らされた。光秀の使者が闇夜で道を誤り、毛利方に届ける書状を持って秀吉の陣に迷い込んだのだ。秀吉は主君の死を悼んで大声を上げて泣いた。だが、すぐ次には直ちに上方に駆け戻り明智光秀と天下を賭けて戦うことを決断、夜明けまでに毛利方との和睦を成り立たせた。翌五日を和睦の儀式や兵糧の撤収に費やした秀吉は、六月六日、中国街道を駆けぬけ、二日後には約七十キロ東の姫路城に戻った。世にいう「秀吉の中国大返し」である。季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、六月十日には早くも摂津の尼崎に到着した。羽柴秀吉が瞬時にして下した的確な判断と迅速な行動、それによって天下争覇の勝負は決した、といえるだろう。」

3枚目と4枚目は旗立松展望台のところに並べて設置されている。

「頼みの諸将来らず 明智光秀の誤算
本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将はみな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。ところが、羽柴(豊臣)秀吉が毛利と和睦、十日目の六月十日(新暦七月九日)には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江(滋賀県)から京都に戻り、翌十一日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ。明智光秀は、恐ろしい「鬼」の信長さえ討ち果たせば、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。だが、そうはならず、あてにしていた組下大名たちも離れていった。親類の細川藤孝や筒井順慶も来なかった。光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済と技術を発展させた織田信長は、豪商から庶民にまでに人気があった。このため「主君の仇討ち」を旗印とした羽柴秀吉の方に多くの将兵が集まった。
六月十二日、空しく洞ガ峠を降りた明智光秀は、一万六千人の直属軍を天王山の東側に扇形に布陣させた。当時は淀川の川幅が広く、天王山との間はごく狭い。兵力に劣る明智方は、ここを出て来る羽柴方の部隊を各個撃破する作戦だった。同じ日、羽柴秀吉は摂津の富田に到着、花隈城主の池田恒興、光秀の組下だった茨木城主の中川清秀や高槻城主の高山右近らも参陣した。四国攻めのために和泉にいた信長の三男の信孝や丹羽長秀も加わった。総勢三万数千人、明智勢の二倍以上だ。
翌十三日、羽柴方の先手の中川清秀と高山右近が天王山と淀川の間を越えて東側に陣を敷き、秀吉の弟の羽柴(豊臣)秀長もこれに続いた。明智方はじっとしていられない。申ノ刻(この季節なら午後四時半頃)、天下分け目の決戦ははじまった。この日、空は雨雲に覆われて暗く、地は長雨を吸って黒かったという。本図は、決戦直前の両軍の北側から見下ろした構図。画面右側に羽柴方が、左側に明智方である。」

「天下分け目の天王山 勝負は川沿いで決まった
「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっている。しかし、実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった。天正十年六月十三日(新暦では一五八二年七月十二日)申ノ刻(午後四時半頃)、天王山の東側に展開した明智勢が、羽柴(豊臣)秀吉方の先手、中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊に攻めかかった。天王山と淀川の間の狭い道を出て来る羽柴方を各個撃破する作戦である。だが、戦いは明智光秀の思い通りには進まなかった。天王山の東側には油座で知られる山崎の町があり、その東側には広い沼地が広がっていた。この地形が双方の行動を制約、斎藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智方の猛攻でも、羽柴方の先手を崩すことができなかった(画面右下)。
その間に、淀川沿いでは羽柴方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が進攻、円明寺川の東側にも上陸した。川沿いの明智方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った(画面上方)。羽柴秀吉が本陣の大部隊と共に天王山の東に出たのは、合戦がはじまって半刻(約一時間)ほど経った頃だ。この図はその直後の戦場を、北から南向きに描いている。画面左側の水色桔梗の幔幕に囲われた光秀の本陣では、後退する味方の様子に不安な気分が現れている。右側の秀吉の本陣では勝利の確信が拡がり、貝を吹く足軽まで自信と勇気に溢れている。画面右上では、参陣の遅れた丹羽長秀が山崎の木戸を通り過ぎようとしている。天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わった。破れた明智光秀は勝龍寺城(画面左側)に逃げ込んだ。その頃、秀吉は天王山に登って戦場を見下ろしたかも知れない。闇に包まれた戦場跡には、負傷者を援ける松明が無数に揺れ動いていたことであろう。」
(ここに新暦では7月12日と書かれている)

5枚目は酒解神社の三社宮横にあります。絵は、竹薮で光秀にむかって竹槍を突き出す落ち武者狩りを描く。

「明智光秀の最期 古い常識人の敗北
天下分け目の合戦は、一刻半(約三時間)ほどで終わった。明智勢は総崩れとなり、総大将の明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。だが、ここは小さな平城、到底、羽柴(豊臣)秀吉の大軍を支えることはできない。明智光秀は、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。坂本城は明智家の本拠で光秀の妻子もいた。しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。当時は、普通の村人でも落ち武者狩りに出ることが珍しくなかった。光秀を刺したのも、そんな落ち武者狩りの一人だった。享年五十五歳、当時としては初老というべき年齢である。
これより十五年前、足利義昭の使者として織田信長と相まみえた明智光秀は、詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われて織田家の禄を食むことになった。それからの出世は早く、僅か四年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて織田家屈指の有力武将にのし上がった。織田信長と将軍になった足利義昭とが不和になった際には、いち早く信長方に加担、細川藤孝らの幕臣を口説いて信長方に転向させた功績が信長に高く評価されたのだ。だが、光秀は、信長の改革の過激さに反発を感じ出した。古い常識にこだわる知識人の弱さ、というものだろう。
一方、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、時を移さず明智光秀の領地を占領、丹羽長秀や池田興恒ら織田家の重臣たちを配下に加え、「次の天下人」への道を駆け登る。この間、織田家の他の重臣たちは容易に動けなかった。みな前面には強敵がいたし、背後では土一揆が蜂起した。信長の死と共に、織田領全体に混乱が生じていたのだ。世はいまだに乱世、将も民も、野心と危険の間で生きていたのである。」

最後は山頂の本丸跡にあります。絵には秀吉と大阪城、茶の大家の千利休が描かれている。

「秀吉の「天下への道」はここからはじまった
山崎の合戦で明智光秀を破った羽柴(豊臣)秀吉には、織田信長に代わる「次の天下人」との期待が集まり、織田家の家臣の大多数も、秀吉の命令に服するようになった。これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。しかし、丹羽長秀や池田恒興らと結んで次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず、翌天正十一年(一五八三年)四月の賤ケ岳(滋賀県)の合戦は、秀吉の圧勝に終わった。柴田勝家らに勝利した秀吉は、天下統一の象徴として、大坂の地に巨城を築いた。天正十一年に着工したこの城は、天下の政治を行う天下城、つまり首都機能の所在地だった。秀吉は城の縄張りを黒田官兵衛孝高に、襖絵を狩野永徳一門に、接遇演出は茶頭の千宗易(利休)に委ねた。信長は美意識の面でも独裁者だったが、秀吉は専門家の意見を尊重した。
秀吉は、過激な改革を目指した信長とは異なり、有力大名には元からの領地を残しつつ自分の政権に編入する方針を採り、毛利輝元や上杉景勝らとも和睦して天下統一を急いだ。信長が絶対王制を目指したのに対して、秀吉は中央集権と地方分権を組み合わせた封建社会を築こうとしたのである。やがて朝廷から豊臣と姓を頂いた秀吉は、関白、太政大臣になり、天正十八年(一五九〇年)の小田原の役によって天下統一を完成する。秀吉は、政治的に天下を支配しただけではなく、経済の面でも大坂を中心とした物資と金銭の流通を把握した。文化の面でも茶道や囲碁将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせた。これらは徳川幕府に引き継がれ、日本独特の「型の文化」を創り出すことになる。秀吉のきらびやかな天下。――それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」

 宝積寺は(ほうしゃくじ)  



登山口から少し入ると、右に入る道が見える。右に入れば、1枚目の陶板絵図、アサヒビール大山崎山荘美術館前を通り、宝積寺の先で合流する。美術館に寄る予定はないので直進します。下山時に右のコースに入り、陶板絵図を撮るつもり。

この道は宝積寺への参道なのでしょうか?。登山道にしては、広くてよく整備されている。

やがて右側に仁王門(京都府登録有形文化財)が現れる。阿形、吽形二体の木造金剛力士立像が出迎えてくれます。

★歴史
寺伝では神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。しばらくして本尊・大黒天神を天竺(インド)から招いて祀ったという。行基(ぎょうき、668-749)は奈良時代の僧で諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置、架橋などの社会事業を行い、行基菩薩と称された。東大寺の大仏造営にも関わった人。平安時代の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995~99)、寂照が衰退していた当寺を中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛り上がった。さらに嘉慶3年(1389)には定額寺にも列し、多くの子院をもつに至る。
天正10年(1582)、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いでは宝積寺に秀吉の本陣が置かれた。戦いの後、秀吉は天王山にあった城跡を大改築して山崎城を築城し、宝積寺をも城内に取り込んだ。このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。宝積寺は別名「宝寺」とも呼ばれていたからです。しかし大坂城が完成すると、秀吉は本拠をそちらに移し山崎城は廃城となる。
幕末の元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の陣地が置かれたために幕府軍の攻撃で戦禍を蒙り境内が荒廃した

仁王門をくぐると、左手に鐘楼「待宵の鐘」が、右手に三重塔(国指定重要文化財、総高約20m)が見えてくる。三重塔には「豊臣秀吉 一夜之塔」の札が立つ。秀吉が山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したと伝わっている。ただWikipediaには「慶長9年(1604年)建立。本瓦葺、総円柱、大日如来坐像が祀られている。豊臣秀吉が一夜で建てたという伝説があるが、この時代秀吉はすでに故人である。」と書かれているのだが・・・。
三重塔の脇に「殉国十七士墓」と刻まれた石碑が建っている。現在、真木和泉を中心とした尊皇攘夷派の十七士の墓は天王山山頂近くにあるのだが、当初はこの三重塔前に埋葬された。ところが参拝者が多く香華が絶えなかったという。そこで幕府は近くの竹藪にうち捨てるように埋め直した。4年後、時代は大きく転回します。幕府を倒した明治新政府は、山頂近くに手厚く葬り直し、ここ三重塔横に石碑を建てたのです。

階段を登ると、正面に本堂が、右手に閻魔堂がたたずむ。本堂の内陣には本尊の木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財、像高160.9cm)が祀られている。「当寺は、木津川・宇治川・桂川の三川合流を望む天王山中腹にあり、延暦三年洪水にて橋が流出したとき、一人の翁が現れ水上を歩くと神通自在の下、見事橋が復元されました。一条の光明と共に当寺厨子内に至られました。以来、当寺の本尊十一面観世音菩薩が翁に化身されて、橋を掛けられたとの評判がたち、橋架観音と呼ばれるようになりました。」(公式サイトより)
閻魔堂には閻魔王坐像(重要文化財)とその眷属像が配置され、地獄の法廷が再現されているそうです。閻魔堂拝観は有料(400円)です。

本堂前に柵で囲われた「出世石」が置かれている。山崎の戦いの時、秀吉がこの石に腰を下ろして采配を振るったという。奥に見える九重石塔は、鎌倉時代に建立された聖武天皇の供養塔です。

本堂左横にあるお堂の扁額には「小槌宮」とある。聖武天皇は即位前、夢に出現した龍神に「打出」と「小槌」を授かり、それへ祈願すると天皇に即位できた。宝積寺が建立されると打出と小槌を奉納し、大黒天神を印度より招き祀ったという。打出の小槌は、七福神の一神とされる福の神大黒天が所持している宝物で、振れば出世、福徳、財徳を授けてくれると言われています。ここから宝積寺は別名「宝寺」「大黒天宝寺」とも呼ばれ、また秀吉が山頂に築いた山崎城は「宝寺城」とも称された。お堂正面上部の庇の下に、宝船が彫刻されています。

 青木葉谷(あおきばだに)展望台  



宝積寺本堂の右手奥に天王山山頂への案内があります。傍に、ご自由にお使いください、と竹の杖が置かれている。こんなの必要ないだろうと強がったが、後で後悔した。片手だけでも杖の支えがあれば、少しは楽だったのですが。この杖は、宝寺口(ここ)、小倉神社口、観音寺口のどれかに返せばよいようです。

ここから本格的な山登りが始まります。傾斜はそれほどきつくないのだが、でこぼこ道に石がごろごろ、久しぶりの山登りなので体に堪えます。丸太で階段状に整地されているのだが、これを踏み越えて登るのはかえって辛く感じた。

登山道に沿って一本のレールが敷かれている。上へ用材、機材を運ぶものかと思ったが、後で調べるとタケノコ搬出用のレールでした。大山崎町はタケノコの産地として知られるようです。

この近辺、竹林が多く見られる。散策マップには「竹林のこみち」というスポットも載っています。京都南部は竹の名産地として有名のようだ。以前、天王山の向かいにある男山石清水八幡宮に初詣したとき、境内にエジソンの大きな顕彰碑が設置されていたので驚いたものです。1879年に炭素白熱電球を発明したエジソンは、さらに長時間輝き続ける材料を世界中から探し続けたという。紙や糸、植物の繊維など数々の材料からフィラメントを作り電球の試作を試行錯誤しながら繰り返した。その結果、たどり着いたのが京都南部の真竹だったそうです。

ようやく「青木葉谷(あおきばだに)展望広場」にたどり着きました。この広場には2枚目の陶板絵図「秀吉の中国大返し~勝負を決めた判断と行動~」が設置されている。
ここは六合目付近にあたるようで、休憩するのにちょうど良い。これくらいで休憩する必要などないと、先へ進む人もいるが。

桂川、宇治川、木津川が合流し淀川となって大阪平野を流れてゆく様子が一望できる。やや曇っているので大阪市内までははっきり確認できないが、天気が良ければ、あべのハルカスや大阪城まで見えるそうです。

 旗立松展望台(はたたてまつてんぼうだい)  



青木葉谷展望台を出て、また山登りです。かなり疲れてきました。
酒解神社の鳥居が見えてきました。旗立松(はたたてまつ)展望台に到着です。鳥居手前に「山崎合戦之地」の石碑が建ち、戦いの概要が説明されている。しかし実際の戦闘の地は山裾の湿地帯で、天王山そのものは戦いの場にはなっていません。



鳥居と石碑との間に「旗立松」があります。合戦の時、秀吉がここの松の上に千成瓢箪の旗印を掲げ、山麓を進軍する秀吉軍を鼓舞したと伝えられている。その旗立の松はどれだろう?。
傍の説明版は「この逸話は、同時代史料に残っておらず、伝承の域を出ません」とそっけない。






鳥居右手に、展望のための台場が組まれ、青木葉谷展望台とは別の方向の景観になる。秀吉軍と光秀軍が対峙した古戦場の地が一望できるが、高速道路が縦横に走り、新幹線、工場群などでかっての様相を想像することさえできません。

桂川(写真右側で見えない)西側。かって湿地帯で、小泉川(画面下部を左右に流れているが、写真では樹木で隠れ見えない)を挟んで両軍がにらみ合ったという。現在は全く様相が変わってしまっている。画面中央に名神大山崎ICTが入り組み、上下に通るのが名神高速道路、中央を左右に通るのが京都縦貫自動車道。「山崎合戦古戦場」の石碑が建つ天王山夢ほたる公園は写真左下で、樹木で隠れ見えない。

鳥居の奥に、3枚目と4枚目の陶板絵図が並んで設置されている。左側には休憩所が設けられ、大きな写真が掲示されています。桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流するのがよく分かり、対岸の石清水八幡宮のある男山も良く見えている。ところが現在樹木が生い茂り、写真の景観は全く見えません。何故見えなくしたのでしょうか?。向かいの男山と肖像権でケンカでもしたのでしょうか?。天王山は三川合流点がウリのはずなのですが・・・。

 十七烈士の墓  



旗立松展望台で一休みした後、また山登りです。かなり足が重くなってきて、なぜか17年ほど前の富士山登山が思い出されてきました。3歩登って3分休憩、の繰り返しだった。その時よりも体重は増え、年の数も増えてきた。山はこれが最後だろうな・・・。

分岐道の標識が建っている。左の階段を登ると十七烈士の墓を通り、天王山山頂への近道らしい。この真下には、名神高速の天王山トンネルが通っています。

27段の階段を登ると広場で、奥に十七烈士の墓地が、左が休憩所となっている。

幕末の京都、長州藩を中心とした尊皇攘夷運動が激化する。手を焼いた幕府、朝廷の公武合体派は会津や薩摩の藩兵を使い、長州藩とそれにつながる公家を京都から追放する(文久3年(1863)の八月十八日の政変)。
翌年、長州藩は天皇に直訴し失地回復をはかろうと京都に出兵します。元治元年(1864)7月19日、御所の蛤御門で会津藩兵と激突する。これが「蛤御門の変(禁門の変)」です。薩摩藩兵の加勢によって長州藩は総崩れになり退却を余儀なくされます。国元へ撤退する長州軍の最後尾を務める真木和泉以下17名は、追撃する新選組と戦った。「真木は最後まで付き従った十六名と天王山中で郡山藩兵、新選組と一戦を交えた後、山中の小屋で火薬に火を放って爆死を遂げたと言う」(現地説明版より)

17名の「遺体は宝積寺三重塔前の地に埋められたが、遠近よりの参拝者が多く、香華常に絶えず、之を見た幕府方は、その屍を竹林中に移埋した。」(休憩所の説明版より)
4年後、時代は大きく転回します。幕府は倒され、長州藩、薩摩藩を中心とした明治新政府が成立する。賊徒、朝敵と呼ばれた17名は一転、維新の功労者、殉国烈士となり、贈正四位となった。打ち捨てるように埋められた竹藪から、天王山山頂近くの現在地に手厚く改葬され、立派な墓が建てられた。毎年10月21日には十七烈士のご子孫、地元有志らにより慰霊祭が行われています。

中心の墓碑には「烈士墓表」と刻まれ、その下に殉死した17名の姓名が刻まれています。裏には「明治元年戊辰九月建」とある。この墓碑を囲むように三方に17名の墓が並ぶ。真木和泉の墓は裏側の列の真ん中に立っている。

十七烈士の出身藩をみると長州藩士は一人もおらず、土佐藩、久留米藩、筑前藩、肥後藩、宇都宮藩となっている。リーダーの真木和泉(1813-1864)は久留米藩水天宮の神官だった。早くから江戸、水戸に遊学し尊王攘夷運動に共鳴すると、脱藩し長州藩に身を寄せていたのです。他の烈士も自藩を去り長州藩に共鳴し加勢していた者たちです。最後に、世話になった長州藩の退却を助け、自ら命を断っていった。

 酒解神社(さかとけじんじゃ)  



十七烈士の墓から酒解神社にかけては平坦な道が続く。歩いていると左手に酒解神社の末社・三社宮が見えてくる。祭神は、天照大神・月讀大神・蛭子神と書かれている。三社宮の横に5枚目の陶板絵図が設置されています。

登山道を跨ぐように酒解神社の社殿が現れる。階段上の左右に一間高くらいの石柱が建つが、これは鳥居の残滓でしょうか?。

奈良時代には既にあったと伝わり、大山崎周辺で最古の神社とされているが、その歴史はよく分からないのでWikipediaの説明をそのまま載せておきます。
「創建の由緒は不詳であるが、養老元年(717年)建立の棟札があることから奈良時代の創建とみられている。旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、官幣名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預ると記されている。
その後、自玉手祭來酒解神社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていた。現在の自玉手祭来酒解神社は、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」であった。天王山は元は山崎山と呼んでいたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになった。明治10年6月、山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称した。現在の祭神・大山祇神はそのときに定められたものである。」

登山道に覆いかぶさるのは拝殿らしい。正面が本殿です。拝殿内部を見ていると、人が住み手入れをしている様子がなく、見捨てられた神社のように感じられる。

拝殿に比べ、本殿は銅板葺き屋根のかなりしっかりした構えをしている。欄間や蟇股の彫刻も立派で、国の登録有形文化財に指定されています。旧本殿は文化10年(1813)に火災で焼失したため、文政3年(1820)に再建された。大山祇神を主祭神とし、素盞嗚尊を相殿に祀っている。素盞嗚尊は、旧天神八王子社の祭神・牛頭天王と同一とされる。「天王山」の名の由来となった神様です。
なお正式名称は「自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)」。

社殿前の左側、一段高くなった所に国の重要文化財に指定されている神輿庫が建つ。フェンスで囲われ近づけない。
「一般によく用いられる三角形の木を積み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。この板倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新しく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である」(傍の説明板より)
鎌倉時代中期の建立で、文化10年(1813)の火災でも難を逃れた。庫内には室町時代以前作という神輿2基が納められています。

 天王山山頂(山崎城跡)  



酒解神社の拝殿をくぐり抜けて、また山道を登ります。丸太の階段、ゴロ石などあるが、中腹辺りに比べそれほどきつくありません。頂上が近いと思うと元気が出てきます。

分岐道です。標識に従い天王山山頂へは左へ登る。右の道は「小倉神社・柳谷方面」となっています。

荒れた道を少し登ると、ようやく山頂の広場に到着。ちょうど昼過ぎ、数組のハイカーがいて食事中でした。

天王山は、西国、大阪と京都を結ぶ交通の要所を見下ろす戦略上の重要な場所。そのため古来より、山上一帯には度々砦や小規模な城が築かれてきた。ここに本格的な城を築いたのは秀吉です。天正10年(1582)6月、光秀との戦いに勝利し、清州会議をへて織田信長の後継者となる。しかし信長の筆頭家老だった柴田勝家が反対の動きをします。それに対抗するため天王山に「山崎城」を築き、備えた。城域は山麓まで広がり宝積寺まで取り込まれ、宝積寺の別名「宝寺」から「宝寺城」とも呼ばれた。
天正11年(1583)4月、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破り確実に天下を取ると、天下人に相応しい本格的な城郭「大阪城」を築き、本拠地とした。そうなるとここ山崎城は不要となり、天正12年(1584)に廃城となり取り壊されました。

説明版に載っていた山崎城跡の図面。山頂の広場は、図面の「主郭」にあたる。虎口bを経て虎口aから山頂広場へ入ってきたようだ。

広場の北側は一段盛り上がり、石垣に使われたような石が転がっています。ここは天守台の築かれていた場所で、「天王山山頂 標高二七0・四メートル」の標識が建っている。「天下分け目の 天王山」と書かれた旗が一本だけ風にはためいている。


天守台跡から眺めた広場の南側。広場は樹木に囲まれ視界が遮られ見晴らしはできない。ただ一ケ所、この南側だけは木立の間から遠くが見通せるようですが、実際にはそれほどの眺望ではありません。。
一本の季節外れの紅葉の木が殺風景なこの広場に風趣をそえています。

天守前の広場から、さらに西側へ一段降りるとそこも広場になっている。西の丸でもあったのでしょうか。この広場の南方に、山崎城の井戸跡が柵で囲われ残されています。説明版に「本来は地上部に木製の井桁が組まれ、水を汲み上げるための釣瓶もあったと思われますが、城の廃城とともに失われたと考えられます。完成当時の深さは不明ですが、三十年程前(1980)には五メートル程度の深さでした。山頂に掘られた井戸であることから地下水が湧き出るとは考えられず、雨水を溜めて利用していたのではないかと思われます」とある。

西の広場からさらに西側の斜面を降りてみると、わずかな石垣の残骸と土塁らしき形状が見られます。この石垣を見る限り、本格的な城というより、急ごしらえな城郭だったように感じる。
その他、土塁、空堀、食い違い虎口、石垣などの残滓が残っているかもしれないが、急斜面で道もなく探すのは容易ではありません。

12時半、下山します。登山口から2時間ほど経過。ゆっくり、のんびり、こんなものでしょう。


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六波羅から建仁寺へ 3(建仁寺:庭園)

2023年06月26日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の庭園(大雄苑、〇△□乃庭、潮音庭)を鑑賞し、最後に京都ゑびす神社へ。

 建仁寺 4: 庭園(大雄苑)  



方丈南側の前庭「大雄苑(だいおうえん)」 。方丈の広い縁側に座りじっくり鑑賞できる(寝そべり禁止)。「方丈前の枯山水庭園。創建当時は不明であるが、現在の作庭は加藤熊吉により昭和初期頃、作庭されたもの。建仁寺は中国百丈山の禅刹を模したといわれ、庭園も百丈山の景色を模して作庭された」(公式サイトより)。方丈は昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、数年後に再建されているので、その時に作庭されたものと考えられる。庭名は百丈山の別名の大雄山に由来します。

庭中央には、両側に五筋塀を構えた唐門が建ち、その背後に法堂が、さらにその後ろに三門、放生池、勅使門と一直線に並んでいる。これが中国百丈山に由来する禅院の伽藍配置。

西端からの眺め。左奥は法堂への渡り廊下。川に、あるいは大海の波に見立てたのでしょうか、くねった砂紋がひかれている。後ろに松、植栽、巨石が配されています。


庭の西端奥に、緑に囲まれて見える七層の石塔は織田信長の供養塔です。弟である織田有楽斎が兄の追善のため建立したもの。徳川時代には、開山堂南の溝の中に隠されていたが、明治になってから現在の場所に戻されたのだそうです。








大雄苑の庭は降りて歩けず、縁側から鑑賞するだけ。ところが方丈の西北にまわると、庭に降りる階段が設けられ、履物まで置かれている。ここを降り、方丈裏の小径を歩けます。








小径を歩くと、最初に出会うのが「田村月樵遺愛の大硯」。
田村月樵(げっしょう、1846 - 1918、宗立ともいう)は明治期の日本画家、洋画家、画僧。幼き頃から南画や仏画を学ぶ。初め写生画に傾倒し、明治初年には、京都洋画壇の先駆者として活躍した。晩年は、油絵から遠ざかり、ただ仏画のみに没頭する。67~69歳の折に建仁寺方丈の襖絵「唐子遊戯図」や、塔頭・霊洞院の「雲龍図」などを描いた。
「この碑は、月樵が生前愛用した長さが三尺の大硯で、大海原に臨んで一疋の蛙がはらばって前進していくようすを彼自身が刻みつけたというものである」と説明版にあります。

次に「安国寺恵瓊首塚」が現れる。少し長いが説明版です。「安国寺恵は天文七(1538)年、安芸国守護武田氏の一族として生まれた。天文十(1541)年、大内氏との戦いで武田家が滅亡し、当時四歳だった恵瓊は安国寺に身を寄せることになる。以後十二年間、当寺で仏道修行に精進し、十六歳のときに生涯の師と仰ぐこととなる笠雲恵心に巡り会う。この直後、恵瓊は京都東福寺に入り、五山禅林の人として修行を重ねた。そして、恵瓊三十五歳の時、正式に安芸安国寺の住持となり、この頃から毛利家の政治にかかわる外交僧として活躍をはじめる。羽柴秀吉が率いる織田軍が中国地方に侵攻してきた際には、毛利氏の使者として秀吉との交渉にあたり、この交渉を通じて秀吉との繋がりが深まったといえる。やがて、天下人となった秀吉は恵瓊を直臣の大名に取り立て、伊予国二万三千石を与えた。また恵瓊は、建仁寺方丈移築をはじめ東福寺の庫裏の再建など、旧来の建築物の修復に関与し多くの功績を残している」。安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は応仁の乱などの戦乱で衰退していた建仁寺を再興した恩人です。

慶長五年(1600)関ヶ原で西軍が敗れると、京都で捕らえられて六条河原で斬首され晒し首にされた。その首を建仁寺の僧が持ち帰り、方丈の裏に手厚く葬った。建仁寺の功労者にしては、やや貧弱なお墓です。これは、徳川幕府のもと、目立った墓は造れず、墓標を刻むこともなく方丈の裏にひっそりと建てられたという。

安国寺恵瓊首塚の背後に見えるのが茶室「東陽坊(とうようぼう)」。天正15年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、千利休の高弟だった真如堂の僧・東陽坊長盛が北野の紙屋川の土手に副席として建てたものと伝えられ、北野大茶会の貴重な遺構です。
明治中頃、建仁寺開山堂の裏手に移され、大正10年(1921)に現在地に移築された。中に入ることはできませんが、内部を覗き見ることはできます。

茶室の西続きに、幅1mほどの竹垣が接している。建仁寺の僧が竹で創案したという独特の垣で、「建仁寺垣」と呼ばれています。太い4つ割り竹を重ねるように並べ隙間をつくらない。反対側も同じように並べ、これに押縁(おしぶち)といわれる横の竹でおさえ、縄で結んだもの。

 建仁寺 5: 庭園(〇△□乃庭、潮音庭)  



方丈裏の小径から堂内に戻る。本坊と小書院(左側の建物)に挟まれて、白砂の敷かれた小さな枯山水庭園があります。「〇△□乃庭」という珍しい庭名が付けられている。そのまんま「まるさんかくしかくのにわ」と読む。平成18年(2006)に北山安夫による作庭で、「単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を、地(□)水(○)火(△)で象徴したものとも言われる」(公式サイトより)



◯□はわかりやすい。○は中央の苔の円地に椿の木が立っている所。□は手前の井戸です。それでは△はどこでしょうか?。


写真の左上をみれば三角形に見える。砂を盛り上げ線状にし、庭園を囲うように枠が造られています。これが△で、西南の廊下で見れば分かりやすく、それ以外の場所では分かりにくい。

小書院の内部です。右に「〇△□乃庭」、左に「潮音庭」を眺められる。江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家・仙厓義梵(せんがい-ぎぼん、1750-1837)が「この世の全ては○△□で表せる」といい、「○△ロ」の掛軸を残した。これを元に作庭されたという。小書院の奥に「○△ロ」の掛軸が掛かっている(これは複製?)



本坊-小書院-大書院と廊下でつながっている。写真右下隅に「〇△□乃庭」があり、その北側が小書院で、潮音庭を間に挟み突き当りが大書院となっている。



小書院(手前)と大書院に挟まれた中庭「潮音庭(ちょうおんてい)」。「建仁寺本坊中庭にある潮音庭は、中央に三尊石その東には坐禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭であります」(公式サイト)。左右を渡り廊下で囲み、四方正面としてどの角度からでも鑑賞できる。
小堀泰巌の作庭、監修は現代の作庭家・北山安夫という。

西側廊下から見る。

大書院の縁側から鑑賞。秋には紅葉、冬にはヤブツバキが美しく、この時期は緑がさえます。

東側廊下から見る。



堂内から外に出ると、大勢の修学旅行生がいる。また騒々しい以前の京都が復活したようです。

法堂西側の西門から出て、京都ゑびす神社へ向かいます。






 京都ゑびす神社  



建仁寺の西門を出て、南に100mほどで京都ゑびす神社の石鳥居が見えてくる。
建仁2年(1202)、栄西が建仁寺を建立するにあたり、鎮守社として恵美須神を主祭神として建仁寺境内に創建された。栄西が南宋から帰国する際に海上で暴風雨に遭い遭難しそうになったが、恵美須神が現れその加護によって難を逃れたということによる。
応仁の乱(1467-1477)で建仁寺が焼失したさいに、現在地に移転再建された。明治の神仏分離によって建仁寺から分離独立する。

石鳥居をくぐった境内すぐの右手にあるのが「財布塚」と「名刺塚」。両脇に松下幸之助と吉村孫三郎揮毫の石柱が建っている。先代宮司が、古い財布とか名刺とかをそのまま捨ててしまうのは忍びないと、松下幸之助さんと吉村孫三郎(戦前に吉村紡績を設立、現在「ヨシボー(株)」)さんにお願いし賛同を得て寄進されたものです。毎年9月の第四日曜日に名刺感謝祭が行われ、古くなった名刺が焚かれる。

次に、ゑびす神がにこやかにお出迎えしてくれます。右手に竿を持ち、左脇には釣った鯛を抱えています。釣った魚を物々交換でコメに変えるということから、漁業の神様であり、商売繁盛の神様です。

ゑびす(恵比寿)神は「都七福神」の一つで、新年に七福神の社寺をめぐる「都七福神巡り」が行われる。それ以上に有名なのが、親しみを込めて「えべっさん」とも呼ばれる「十日えびす」。西宮神社(西宮市)、今宮戎神社(大阪市)と並んで日本三大えびすで、1月10日がゑびすさんのお誕生日だったことに由来する。9日を宵戎、10日を本戎、11日を残り福といい、この三日間は宝物をかたどった縁起物を枝先に付けた笹をもった人々で周辺は溢れかえります。






次に、二の鳥居が現れる。通常、扁額が掛かる所に笑みを浮かべたゑびすさんの顔が掛けられている。顎の下に「福箕(ふくみ)」と呼ばれる網が取り付けられ、これにお賽銭を投げ入れると願い事が叶うそうです。その下には、キャッチミスないように熊手まで用意されている。さすが商売繁盛の神様だ。一万円札を投げてみたが、届かなかった(ウソです)。






これは拝殿で、奥に本殿があるが見えない。「八重事代主大神(やえことしろぬしのおおかみ)」が祀られている。これはゑびす神の正式な名前。商売繁盛のご縁があったのか、拝殿左右に高島屋と大丸の提灯が奉納されている。
正面でお参りの後、もう一度側面へとあります。

左側面に周ると、「優しくトントンと叩いて」お参りくださいとある。ちょうど本堂の真横で神様とも近い。ゑびすさんは高齢になられ、耳が遠くなられたこともあり、正面の鈴の音では気づかない。真横に回り、優しく肩をトントンとたたいてお参りするのです。ちょっと頼りない神様です。


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六波羅から建仁寺へ 2(建仁寺:境内・堂内)

2023年06月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
建仁寺(けんにんじ)の境内を歩いた後、本坊・方丈・大書院・法堂とお堂の中を見学します。

 建仁寺(けんにんじ):境内 



(境内図は公式サイトよりDL)
★★~建仁寺の歴史~★★
建仁寺の開祖・栄西(えいさい、公式サイトでは「ようさい」となっている)は、備中(岡山県)吉備津宮の社家・賀陽(かや)氏の子として誕生(永治元年(1141))。13歳で比叡山延暦寺に登り、翌年得度(出家)し天台・密教を修学します。 28歳(1168年)で南宋に渡るが半年で帰国。47歳(1187年)に二度目の渡宋を果たします。天台山に登り、万年寺の住持虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで臨済宗黄龍派(おうりょうは)の禅を五年に亘り修行、その法を受け継いで建久2年(1191)に帰国しました。
栄西は建仁2年(1202)、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の援助を得て、六波羅探題に近接する幕府直轄領に建仁寺を創建した。寺名は、朝廷から元号を賜ったもの。当時の京都では真言(密)、天台(止観)の既存宗派の勢力が強大だったため、建仁寺内に真言院・止観院を構え真言・天台・禅の三宗並立の寺とした。栄西は建保3年(1215、75歳)建仁寺で没する。
その後、焼失し荒廃するが、正嘉元年(1258)に東福寺開山の円爾(聖一国師)が当山に第十世住職として入寺し仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259)には宋の禅僧・蘭渓道隆が第十一世として入寺し、禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となった。室町幕府は京都五山を制定し、建仁寺をその第三位として厚く保護した。最盛期に塔頭60余りあり、黄竜派、諸派の僧が集まり「学問づら」と呼ばれた。ところが応仁・文明の乱(1467-1477)などの戦乱により殆どの堂宇を焼失し、衰退する。
現在の大部分の建物は江戸時代以降の再建による。天正年間(1573 - 1592)には、毛利氏の外交僧として活躍し、豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊によって方丈や仏殿が移築され復興が始まった。豊臣秀吉が寺領820石を寄進し(1586年)、徳川家康により寺領が安堵されている(1614年)。徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されていった。

明治に入り、新政府の神仏分離令や廃仏毀釈によって塔頭34院が14院へ統廃合され、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在にいたります。明治9年(1876)、臨済宗の諸派から建仁寺派が独立し、建仁寺は総本山になった。京都最古の禅寺で、正式名は「東山(とうざん)建仁禅寺」

八坂通に面し、南側の正面にあたる勅使門(重要文化財)。「銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ばれています。元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています」(公式サイト)
勅使門は通れないのだが、脇に小門があり、そこから入る。

勅使門から放生池を挟んで三門へとつづく。この三門は大正12年(1923)、静岡県浜松市の安寧寺から譲り受け移築したもの。「三門」とは空門・無相門・無作門の三解脱門のこと。扁額にあるように「望闕楼(ぼうけつろう)」とも呼ばれる。「望闕楼高くして帝城に対す」という詩に由来し、「御所を望む楼閣」という意味だそうです。

三門 の奥が建仁寺の本堂にあたる法堂(はっとう)。明和2年(1765)の再建。
勅使門、池、三門、法堂、方丈が一直線に並び、この伽藍配置は東福寺、嵐山の天龍寺と同じ。この様式は臨済宗(禅宗)の規格なのでしょうか。公式サイトに「栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました」とあるので、中国の禅宗寺院にならったもののようです。なお、天龍寺の三門は焼失して無く、東福寺の三門は国宝となっている。

浴室(京都府指定有形文化財)については、解説版を参照。
祠は楽神廟(らくじんびょう、楽大明神)。傍らの説明版を要約します。栄西禅師の母親が岡山吉備津神社の末社である楽の社にお参りされ、夢に明星を見て禅師を胎内に授けられたという因縁により、楽の社の神を楽大明神としてここに祀った。福徳・知恵・記憶力増進のご利益あるとされ、受験合格の祈願に多くの方がお参りされるそうです。

「宝陀閣」と呼ばれる楼門が建ち、その奥に開山堂がある。開山堂は「旧護国院とも呼ばれる建仁寺開山栄西禅師の塔所。堂内中央には入定塔と呼ばれる石塔があり、その下には栄西禅師がお眠りになっていると伝わる。また、庭園には栄西禅師が宋より持ち帰ったとされる菩提樹が植えられている」(公式サイト)。開山堂は非公開。楼門、開山堂とも明治18年(1885)、京都宇多野鳴滝にある建仁寺派妙光寺から移築されたもの。

開山堂前の洗鉢池の北側に茶碑と平成の茶園がある。茶碑は昭和58年祇園辻利により寄進建立され、茶碑の裏側の「平成の茶苑」は茶の将来八百年を記念し平成3年に植樹されたもので、毎年5月には茶摘みが行われる。
栄西禅師は「日本の茶祖」といわれる。留学していた中国の南宋より茶種を持ち帰って栽培を奨励し、茶を抹茶にして飲む喫茶手法を普及させた。今までごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般社会にまで拡大普及させたのです。茶と桑の効用を説く『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(茶桑経)上下巻を著して日本の茶文化の基礎を築いた。その巻頭語には「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」と書かれている。
6年ほど前に高尾の高山寺を訪れた時、境内に「日本最古の茶園」という茶畑がありました。高山寺の開祖・明恵上人は栄西より茶種を分けてもらい、それを高山寺の境内に植えて茶園を開いた。山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。当初は薬、覚醒用に利用されたが、その後、宇治へ伝わり、そして日本各地へと広まっていったという。

生垣で作業されている方がおられたので、もしかしたら”お茶かな?”とおもい尋ねると、そうでした。境内でお堂などを囲む緑色の低い垣根は全てお茶の木でした。そうと知ったら、記念に一葉、という気持ちになりますが・・・。

白壁の東の鐘楼(大鐘楼、元和8年(1622)再建)は北門を入ってすぐのところにある。西の鐘楼(小鐘楼、寛文12年(1672)建立)は法堂への渡り廊下の脇にある。上の写真では右端に見える。
東の鐘楼は京都で三番目に大きく、「陀羅尼尼(だらに)の鐘」とも呼ばれています。陀羅尼経を読誦しながら鐘を撞いことからくるそうです。次のような記事もあります。「平安時代、源融(822-895)の河原院のものだったという。河原院の荒廃後、鴨川七条の南の渕(釜ヶ淵)に沈んでいた。土中にあったともいう。栄西は官に乞い、鐘を引き上げたともいう。この際に、鐘が容易に引き上げられなかった。栄西は自らの名と弟子・長音座(ちょうしゅざ)の名を掛け声として呼べと命じた。「エイサイ」「チヨーサ」と掛け声があがると、鐘を引き上げることができた。掛け声は、後に「エッサ、エッサ」のもとになったともいう。」

建仁寺の北門。祇園の花見小路通に続いているので、ここから入るのが普通。左の写真は外から撮ったもの。観光客で混雑する花見小路通の突き当りは、静寂な禅の寺・建仁寺です。

北門を出ると、両側に情緒ある花街風の建物が並び、石畳の風情ある祇園花見小路通が四条通まで続いています。京都でも有数の賑やかな通りで、半分以上は外国の方です。運よけば舞妓さんにも出会える。時々ニセ舞妓さんや、花魁姿に変身した黒人さんも見かけます。花見小路通の南の端、即ち北門を出たすぐ傍には祇園甲部歌舞練場がある。総ヒノキ造2階建て、二階席、桟敷席、花道まで備え、京都の登録有形文化財となっている由緒ある劇場。祇園の芸妓・舞妓さんの踊りが見られ、また京舞や狂言、文楽など古典芸能も演じられています。

この警備員の多さは何だ!。外国の方には異様に思われるだろう。実は歌舞練場に接して馬券売場(WINS京都)があるのです。土日になると、新聞片手のおじさんたちが祇園花見小路通を徘徊し、花見小路通だけでなく裏通りにまで警備員が配置される。ここは京都でも有数の景観や風情を大切にしている地域なのに、このミスマッチは何だ!。上洛した文化庁のお役人さん、この現状をよく見ていただきた。
大阪ミナミの観光名所・道頓堀も同様。江戸時代からの道頓堀五座は消えさり、代わりに場外馬券売場が現れた。当時、私も反対署名したものですが、馬業界の馬(金)力に圧倒されてしまう。その後、近くにボート券売り場まで現れ、数年後には大阪に本格的なバクチ場ができようとしている・・・。

 建仁寺 : 本坊・方丈  



北門から入るとすぐ本坊があり、ここが堂内への拝観入口です。本坊といっているが、禅宗寺院に特有の庫裏(台所)で、切妻造りの妻側を正面にし屋根上に煙り出しをもつ。

拝観時間:午前10時~午後4時30分受付終了(午後5時閉門)
拝観料金:一般 600円 中高生 300円 小学生 200円 ※小学生未満のお子様は無料

履物を脱ぎ本坊に上がると、堂内の拝観案内図と注意書きがある。事前の調査では、建仁寺は堂内を含め全て写真撮影OKとなっていた。ところが注意書きには「写真撮影禁止」となっている。一瞬、動揺したが、但し書きに「営利、商業目的」での禁止とあります。受付で確認すると、「撮っていいですよ」と云われたので安心しました。

本坊に入ると、いきなり俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」が展示されている。誰でも教科書などで一度は写真で目にしたことのある風神雷神図。ただしこれは精巧に再現されたデジタル複製品です(だから撮影OK)。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンが一双を168分割して高解像度カメラで撮影、専用の和紙にインクジェットプリンターで12色を使って印刷した後、京都の伝統工芸の職人が金箔をはり、表装を手がけ細部まできめ細かく再現していった。2011年に建仁寺に奉納されたが、近年カメラの性能が進歩したことから、より精細な複製品が2021年11月より展示されるようになった。国宝の原本は京都国立博物館内に寄託保管されている。

「風神雷神図屏風」は江戸時代前期1639年頃、建仁寺末寺・妙光寺(右京区鳴滝)が、寺の再興を記念して俵屋宗達(生没年不詳)に製作を依頼したもの。その後、文政12年(1829)、 妙光寺から建仁寺に寄贈された。琳派の開祖・俵屋宗達の晩年の最高傑作とされています。二曲一双(2枚で構成された屏風が2つでセットになったもの)、各縦154.5cm 横169.8cm。屏風全面に金箔を押し、右隻に風を吹き出す風袋をもった風神、左隻に太鼓を叩いて雷鳴と稲妻をおこす雷神が描かれている。私には芸術価値の評価はできないが、天空を飛び跳ねる躍動感がよく伝わってきます。

入口のある本坊は、すぐ西側の方丈と連結されている。
この方丈は、戦乱により堂宇を焼失し衰退していた建仁寺を再興さすため、慶長4年(1599)安国寺恵瓊が安芸国(広島)安国寺から移築したもの。元の建物は長享元年(1487)の建立。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊したが、昭和15年(1940)に再建されている。単層入母屋造り、こけら葺。周囲に縁をめぐらし、6部屋からなる。

正面中央の間には十一面観音菩薩坐像が祀られ、「十一面観音菩薩坐像は今から約四百年前、徳川二代将軍・徳川秀忠公の娘である東福門院(御水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母)に御寄進を頂いた大切な寺宝であります。」と説明書きされている。平成21年(2009)盗難にあったが、1ケ月後に盗んだ男が逮捕され、仏像は無事に戻ってきた。
この部屋だけ天井は二重折上げ小組格天井、床は黒板張りとなっています。

各部屋には、桃山時代の画壇を代表する海北友松の水墨障壁画が見られる。ただしこれらは高精細の複製品。NPO法人京都文化協会と精密機器大手キヤノンなどが製作し寄贈したもの。実物(重要文化財)は京都国立博物館に寄託されています。
これは「礼の間」の「雲龍図襖」で、海北友松の代表作。天井に描かれる雲龍とは、また違った迫力を感じます。畳の間には少し違和感をおぼえます。お客を迎える間だそうですが、居心地悪そう・・・。

「書院の間」の「花鳥図襖」で、「二本の松を生やす盛り上がった地面から飛び立たんとするように体をよじる孔雀、梅に留まる叭々鳥(ははちょう)のつがいと池に浮遊する三羽の水鳥を連続した構図にて配している」と説明されている。

「檀那の間」の「山水図襖」。「雲龍図」を描いた絵師の作とは思えないほどやわらかい。幅の広さを感じます。
豊臣秀吉により直臣の大名に取り立てられた安国寺恵瓊が、慶長4年(1599年)安芸国安国寺から方丈を建仁寺へ移築する際に、障壁画を頼まれたのが絵師・海北友松だった。

「衣鉢の間」の「琴棋書画図襖」。
海北友松(かいほう-ゆうしょう、1533-1615)は、浅井長政家臣・海北家の5男(一説に3男)として近江国坂田郡(米原市)で生まれる。父の死をきっかけに3歳で東福寺に喝食(有髪の小童)として預けられ、修行した。修禅のかたわら絵を狩野元信(狩野永徳とも)に学び,また中国・宋の画家梁楷に倣った画をもよくした
天正元年(1573)友松41歳の時、浅井氏の小谷城が織田信長に滅ぼされ、兄達も討ち死にし海北家も絶えた。そこで41歳の時、還俗し海北家を継ぎ家の再興を志した。画事のかたわら武芸にも励んだという。その後豊臣秀吉に絵の才能を認められたことから、武士をやめ絵師として後半生を生き、海北派の始祖となる。

本坊、方丈の裏側には廊下でつながった小書院と大書院がある。ここは大書院南側の広い廊下で、潮音庭をゆっくり鑑賞できます。大書院は、方丈が室戸台風で倒壊した後、昭和15年(1940)再建時に同時に新築された。

現在、大書院には細川護熙筆による水墨画「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」が奉納され展示されています。
細川護熙(ほそかわ-もりひろ、1938-)さんは戦国大名・細川忠興の子孫で旧熊本藩主・細川家第18代当主、また第79代内閣総理大臣でもありました。政界を引退され、あまり動静が報じられてこなかったが、こうして活躍されていたのですね。政界引退後は、自邸「不東庵」(神奈川県湯河原)で、陶芸、茶、書、水墨などに励み、悠々自適の生活をなされているようです。

中国湖南省に瀟水、湘水という二つの川があり、これが合流して洞庭湖という大きな湖にそそぐ。その湖周辺は中国有数の風光明媚な景勝地で、中国や日本の多くの画家が画題にし、それぞれ様々な情景を描いてきた。細川さんもそれに倣ったものです。

法堂(はっとう)は方丈と渡り廊下で繋がっており、備えられたスリッパを履き渡ります。
「この法堂は仏殿を兼用し「拈華堂(ねんげどう)」という。拈華というのは「無門関」第六則、「世尊拈華」にもとづく」(説明版より)
明和2年(1765)建立で、本尊を安置する本堂にあたる。入母屋造、本瓦葺、外観は二階建に見えるが、下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)のようなもので実際は一階建になる。禅宗仏殿は裳階を付けるのが正式だそうです。

中央に建仁寺本尊の釈迦如来坐像が祀られている。(公式サイトより)「法堂須弥壇上に安置される釈迦如来坐像である。右手上に定印を結び、結跏趺坐(けっかふざ)する。江戸時代の慈本参頭の『東山雑話』に建仁寺仏殿の本尊はもと越前国(福井県)弘祥寺の像で、永源庵主で細川元常三男の玉蜂永宋(1542~82)が求め安置したとあり、これを信ずれば、この三尊像は十六世紀後半に越前からもたらされたことになる。両脇に安置されるのは、阿難・迦葉像である。共に釈迦十大弟子のひとりで釈迦滅後の教団統率者となった。」

天井いっぱいに描かれた小泉淳作(1924 - 2012)画伯の筆による「双龍図」。大きすぎて全体がカメラに収まりません。東福寺、天龍寺の雲龍図に比べ、大きくハッキリ見えるので迫力が伝わってくる。その分、神秘性は感じられないが。
(説明版より)「大きさは縦11.4m、横15.7m()畳108枚分)あり、麻紙とよばれる丈夫な和紙に、中国明代で最上の墨房といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用して描かれている。製作は北海道河西郡中札内村の廃校になった小学校の体育館を使って行われ、構想から約二年の歳月をかけて平成十三年十月に完成。龍は仏法を守護する存在として禅宗寺院の法堂の天井にしばしば描かれてきた。また「水を司る神」ともいわれ、僧に仏法の雨を降らせると共に、建物を火災から護るという意味がこめられている。しかし、建仁寺の八百年にわたる歴史の中で法堂の天井に龍が描かれた記録はなく、この双龍図は創建以来、初めての天井画となる。」通常は、一匹だけ描かれることが多いが、この双龍図は阿吽の二匹の龍が天井一杯に絡み合う躍動的な構図となっている。


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六波羅から建仁寺へ 1(六波羅蜜寺・六道珍皇寺)

2023年06月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2023年5月27日(土曜日)
5月のゴールデンウィークはどこへも出かけず、巣ごもりしていた。といっても私は年中ゴールデンウィークなのだが・・・。そろそろどこかに行ってみたくなりました。そうだ半年ぶりに京都へ行こう。どこへ?。
中世の歴史に触れると、”六波羅”という語句によくでくわす。調べると、鴨川と清水寺に挟まれた辺り。すぐ傍には禅寺で名高く、俵屋宗達の風神雷神図で知られる建仁寺があります。境内は素通りでよく歩いたが、お堂の中へは入ったことがない。そうだ出かけよう、六波羅から建仁寺へ。

 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)  



京阪電車清水五条駅を下車、五条通りの一つ北側の筋「柿町通り」を東へ400mほど歩けば左側に六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)が見えてくる。東面する正面は鉄柵で塞がれ、二つの門があります。

★六波羅蜜寺の歴史
応和3年(963)醍醐天皇第二皇子光勝空也上人の創建による。
平安時代中期「当時京都に流行した悪疫退散のため、上人自ら十一面観音像を刻み、御仏を車に安置して市中を曵き回り、青竹を八葉の蓮片の如く割り茶を立て、中へ小梅干と結昆布を入れ仏前に献じた茶を病者に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えてついに病魔を鎮められたという。現存する空也上人の祈願文によると、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を請じ、金字大般若経を浄写、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って諸堂の落慶供養を盛大に営んだ。これが当寺の起こりである。」(受付パンフより)
なおWikipediaは、空也上人が造立した十一面観音を本尊とする道場を造立した(当初「西光寺」と称した)天暦5年(951)を創建年としている。

空也没後の貞元2年(977)、比叡山延暦寺の僧・中信が、これまで西光寺と称していたのを「六波羅蜜寺」と改称し、天台宗に属する天台別院として中興した。寺名となった「六波羅蜜」とは仏教の教義に由来し、「この世に生かされたまま、仏様の境涯に到ための六つの修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)をおこないなす。波羅蜜とは彼岸(悟りの世界)に到ること」(公式サイトより)。この辺り、古くから「六原」と呼ばれていたこととも関係あるかも・・・。

平安後半、六波羅蜜寺は、北は四条通、南は七条通、西は鴨川、東は東大路通に囲まれた広大な寺域を誇っていた。ところが平安時代末期、伊勢国を本拠にした伊勢平氏が、東国や伊勢から京都への入口にあたるこの近辺に住みつく。まず平正盛が、現在の六道珍皇寺あたりに邸宅を構え、一族のために供養堂を建立した(天仁3年(1110))。その子の平忠盛が六波羅蜜寺の敷地内に「六波羅館」を設置、ここを拠点として当寺の境内に軍勢を駐屯させた。次の平清盛の代にかけ、六波羅蜜寺の敷地やその近辺には平家一門の人々の屋敷、邸館が立ち並び、最盛期には5200軒余にものぼったという。清盛は「六波羅殿」と呼ばれ権勢を誇った。六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまったのです。しかし1181年に清盛が亡くなると平氏の勢力は急激に衰え、源氏との争いに敗けます。寿永2年(1183)、平氏の都落ちの際に六波羅館は平氏自らの手で火が放たれ、六波羅蜜寺の諸堂は本堂だけを残して焼失してしまった。
その後、鎌倉幕府によって六波羅探題が置かれる。六波羅蜜寺は源頼朝や足利義詮により再興修復が行われたが、度々火災にもあっている。豊臣秀吉、徳川家の加護をうけ寺を維持してきた。
明治維新の廃仏毀釈を受けて大幅に寺域が縮小し、今では本堂、弁財天堂(弁天堂)、宝物収蔵庫のみとなっています。


北側の門は、本堂の正面に位置するので正門でしょうか。お寺といえば木造の山門をイメージするが、それとはほど遠い「鉄柵門」です。この門は通常、閉められておりここから入れない。





南側の門は開いており、ここから境内に入るようです。【開門】8:00 【閉門】17:00 、、定休日無し、とあります。
境内や、本堂内は無料で自由に参拝できます。ただし、空也上人立像がある令和館(宝物館)は有料で、門を入った左側の建物で拝観券を売っている。
令和館 拝観時間【開館】8:30 【閉館】16:45 (受付終了 16:30)
令和館 拝観料《大人》600円《大学生・高校生・中学生》500円《小学生》400円



入口を入って正面の建物が「福寿弁財天堂」。
七福神の中で唯一の女神とされる弁財天が祀られ、都七福神の一つとなっている。金運・財運・芸能・縁結びのご利益があるそうです。

本堂、右奥に銭洗い弁財天堂が見える。
黒っぽい銅像は、本尊の十一面観音菩薩像(国宝、秘仏)を模して作られたもの。銅像の右隣が「一願石」の石柱。石柱上部の円盤を、三回手前に回してお願いすると一つだけ願いが叶うという。

平清盛塚(左)と阿古屋塚(右)。どちらも鎌倉時代に造られた供養塔。「阿古屋(あこや)」は平家とかかわりの深い遊女。歌舞伎、浄瑠璃の演目「壇浦兜軍記:阿古屋の琴責め」が人気となる。屋根、囲い、説明石板など新しいが、「奉納 五代目・坂東玉三郎 平成二十三年」となっている。阿古屋を演じたのでしょう。清盛より阿古屋のほうが羽振りがよさそう。

右方の鉄柵近くに石碑「此附近 平氏六波羅第・六波羅探題府」がある。
平家没落後、六波羅の地は源頼朝に与えられて京都守護が置かれた。承久の乱(1221)後に京都守護を廃し、朝廷の監視のほかに、裁判、京都周辺の治安維持などのため、鎌倉幕府の出先機関として六波羅蜜寺の南北に六波羅探題を設置し、北条氏の一族の中から有望な人材が任命された。周辺には関係する武士の住居が建ち並んだという。
元弘3年(1333)、元弘の乱が起こると後醍醐天皇の命に応じ反幕の挙兵をした足利尊氏らによって六波羅探題府は攻め滅ぼされた。室町幕府は洛中に根拠を置いたために、六波羅は武士の居住は減少し、再び寺院などが建てられて信仰と遊興の地として賑わっていった。東福寺の六波羅門は、六波羅探題府にあったものが移築されたと伝えられています。

本堂(重要文化財)は、無料で自由に入れます。内部は、板敷の外陣と一段低い四半敷き土間の内陣からなっている。内陣中央の厨子には本尊の国宝・十一面観音立像が安置されているのだが、秘仏のため拝観できない。12年に一度辰年にのみ開帳される(次回公開は2024年11月)。
本堂はたびたび焼失し、南北朝時代の貞治2年(1363)に再建された。前に突き出た向拝は、文禄年間(1593 - 1596)に豊臣秀吉によって附設されたもの。重要文化財の本堂だが、見た目、新しく感じられるのは昭和44年(1969)に開創1000年を記念して解体修理が行われたためです。色鮮やかな朱色の柱や扉、虹梁や蟇股などに絢爛豪華な彫刻(絵画?)が見られ、創建当初の極彩色の色合いが復元された。
山号 補陀洛山
院号 普門院
正式名 補陀洛山普門院六波羅蜜寺
別称 六はらさん
宗派 真言宗智山派
本尊 十一面観音(秘仏、国宝)
開山 空也上人
西国三十三所第17番札所
ご詠歌:重くとも五つの罪はよもあらじ 六波羅堂へ参る身なれば
公式サイト<https://rokuhara.or.jp/
所在地 京都府京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町81番地の1

本堂北側に見えるのは、銭洗い弁財天、水掛不動尊が祀られているお堂。右側、松の下に寝そべるのは「なで牛」。「ご自身の痛いところ、辛いところ、撫でて下さい」とあり、各所でよく見かける撫で物です。

蓮の上に座り、琵琶を弾いている銭洗い弁財天。周囲には池をイメージさすように水が貯められている。置かれているザルにお金を入れ、「柄杓一杯の水を三回に分けて掛け、清めたお金は使わず貯めて下さい」。洗ったお金を六波羅蜜寺の金運御守に入れておくとご利益にあやかれるようです。
銭洗い弁財天の向かいには、お金を包むためのテーブルがあり、お金を乾かすためのドライヤーまで用意されている。

銭洗い弁財天のお堂前から左へ、即ち本堂の背後へ周ると令和館(宝物館)です。昨年、二階建ての新しい建物に作り変えられたようです。
ここには重要文化財となっている多くの貴重な彫像・仏像が展示されています。六波羅蜜寺は令和館(宝物館)に尽き、令和館に入らなかったら六波羅蜜寺を訪れた意味はない。

(写真は受付パンフより)令和館(宝物館)の二階に上がってまず目にするのが、並んで展示されている木造・空也上人立像と平清盛坐像。共に重要文化財です。

六波羅蜜寺を創建した空也上人(903-972)は「第60代醍醐天皇の皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家し、空也と称す。再び諸国を遍歴し、名山を訪ね、錬行を重ねると共に一切経をひもとき、教義の奥義を極める。天暦2年(948)叡山座主延勝より大乗戒を授かり光勝の称号を受けた。森羅万象に生命を感じ、ただ南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖(いちのひじり)」と呼び慣わした。」(受付パンフより)
この空也上人立像は、上人没後250年経ったころの鎌倉時代前期に仏師運慶の四男康勝が彫ったものです。病が蔓延していた京の街中を、鉦を打ち鳴らし、念仏を唱えながら、わらじ履きで歩く姿が生々しく表現されています。首から鉦を下げ、右手に鉦を叩くための撞木を、左手に鹿の角のついた杖をもっている。上人が鞍馬山で修行中、可愛がっていた鹿が猟師に射殺されたことを悲しまれ、その皮と角をもらい受け、皮を衣に、角を杖頭につけ生涯身から離さなかったという。口からは、針金でつながった六体の小像が吐き出されている。「空也上人が念仏をとなえると、口から六体の阿弥陀仏が現れた」という伝説を表現したもので、この六体は「南無阿弥陀仏」を表しているそうです。

木造・平清盛坐像も鎌倉時代の作。座して経巻を手にするその姿は、武者のイメージはなく出家した僧のようです。

(写真は受付パンフより)奥の部屋には、日本を代表する仏像彫刻師、運慶・湛慶父子の坐像が並んでいる。鎌倉時代の作で、共に重要文化財。この親子像に一番感銘した。令和館で見る実物は、写真では伝わってこない迫力を感じました。奥深く見つめる眼差し、黒ずんだ全身から執念のようなものが伝わってくる。
令和館にはその他、平安時代・鎌倉時代に造られた薬師如来坐像、地蔵菩薩立像、持国天立像、閻魔大王像など多くの重要文化財が展示されています。

 六道の辻と西福寺(さいふくじ) 



六波羅蜜寺前の道を北へ100mほど行けば三叉路になる。左の白壁が西福寺で、その角に「六道の辻」の碑がたっている。正面突き当りが、現在でも商売されている伝説の飴屋さん。

人口10万人以上いた平安時代の京都では、戦乱も多く遺体の処理が大きな問題だった。お墓を造れるのは高位の人だけで、一般庶民は野山に放置されたのです。風雨に晒さし朽ちるに任せ白骨化さす。「風葬」と呼ばれ古くから行われていた。京には三つの大きな風葬地(葬送地)があった。西の「化野」(あだしの、嵯峨野)、北の「蓮台野」(れんだいの、金閣寺東方の船岡山周辺)、そして東の「鳥辺野(とりべの)」で、清水寺一帯です。(三大葬送地の近くが、現在京都を代表する観光名所(嵐山、金閣寺、清水寺)となっているのは何か因果応報があるのかな?)

西福寺前の松原通り(かっては五条通りだったが、秀吉によって改変されてしまう)は清水寺へ通じています。鴨川を渡り、この松原通りを通って六道珍皇寺あたりで野辺の送りをし、鳥辺野へ死人を運んだ。「冥土への通路」で、この辺りが「鳥辺野」への入口にあたる。即ち、この世とあの世(冥界)との境目なのです。仏教では死後、人は生前の因果応報により六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を生死を繰返しながら流転する(輪廻転生)とされる。そこから、「この世とあの世」の分岐点となるこの辺りを「六道の辻」と呼んだ。

六波羅蜜寺を含め、現在この辺りの町名は「轆轤町」となっている。かっては「髑髏(どくろ)町」だったが、あまりに縁起が悪いと江戸時代寛永年間に京都所司代によって「轆轤(ろくろ)」に改名された。鳥辺野に近いことから、この辺りは人骨がいたるところに転がっていたため「髑髏原(どくろはら)」と呼ばれていたそうです。それが「六原」にも転訛し、「六波羅」にも関係あるかも。

この西福寺(さいふくじ)は、平安時代の貞観年間(859 - 876)に、弘法大師空海が土仏の地蔵尊を自作し、鳥辺野の入口にあたるこの地に地蔵堂を建て祀ったのが始まりとされる。関ヶ原の戦後、毛利家家臣によって地蔵堂の周りに新たに堂宇が建てられ寺院化された。享保12年(1727)に桂光山西福寺に改められた。

山門を入ってすぐ左に地蔵堂があり、空海が自作したという地蔵尊が祀られている。第52代嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(檀林皇后)が、病気がちの正良親王(後の仁明天皇)の病気平癒の祈願をしたことから、「子育地蔵」として信仰されるようになった。子安地蔵、子授地蔵ともいわれています。

本堂は山門を入って右側。浄土宗に属し、本尊の阿弥陀如来坐像が祀られている。西福寺で有名なのは寺宝の「壇林皇后九想図」。美貌で名高かった壇林皇后は「風葬となし、その骸の変相を絵にせよ」という遺言を残された。出来上がったのが「壇林皇后九想図」。人が死に腐敗し、骨が露出し、蠅や蛆が湧き、鳥獣が腐肉をむさぼり、完全に白骨化し最後に土に還る様子がリアルに描かれているそうです。
本堂も「壇林皇后九想図」も通常は非公開だが、盂蘭盆会(八月七~十日)だけ公開され、絵解きされるとか(こんなの見たくないです・・・)。

西福寺の向かいに名物の幽霊子育飴を販売するお店「みなとや」があり、お土産として今でも販売されています。この幽霊子育飴には次のような伝説があります。
一人の女が毎夜飴を買いに来て、鳥辺野の墓場で姿が消える。ある日、赤ん坊の声が聞こえるので掘り起こすと,若い女の死骸の上で水飴をなめながら泣いている赤ん坊がいた。死んでしまって乳の出ない母親は幽霊になって飴を買い、わが子に乳の代わりに与えていたのです。この子は8歳で仏門に入り、立派な僧侶となったとか。(気味が悪いので飴を買う気になれません)

 六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)  



西福寺から松原通りを東へ200mほど行けば左手に六道珍皇寺が見える。

六道珍皇寺の創建は「当寺の開基は、奈良の大安寺の住持で弘法大師の師にあたる慶俊僧都(きょうしゅんそうず)で、平安前期の延暦年間(782年?805年)の開創である。」(公式サイト)。しかし諸説あり、ハッキリしたことは判らないという。鎌倉時代までは真言宗・東寺の末寺として多くの寺領と伽藍を有していたが、中世の兵乱にまきこまれ荒廃する。南北朝期の貞治3年(1364)に建仁寺の住持であった聞溪良聰(もんけいりょうそう)が入寺して再興し臨済宗に改められた。建仁寺の末寺だったが明治43年(1910)に独立する(建仁寺の境外塔頭)。

ここにも「六道の辻」の碑が建っています。「辻」とあるので道の交差路のように考えがちだが、この世とあの世の境目ぐらいの意味だろう。だからこの辺りも鳥辺野への道筋で、冥界への入口にあたる。だから「六道まいり」のお盆の行事や、小野篁が井戸を使って冥土へ通ったというような伝説も生まれる。

山門から境内を見る。境内は見えている範囲がほぼ全て。正面が本堂。参道右側の白壁のお堂は収蔵庫(薬師堂)で、本尊の薬師如来坐像(平安時代、重要文化財)が安置されています。参道左側には「日新電機創業の地」の碑が建っている。

境内は、開門中なら自由に歩けるが、お堂の中には入れなません。

収蔵庫(薬師堂)の先にあるのが閻魔堂(篁堂、たかむらどう)。名前のとおり閻魔大王像、小野篁像が置かれています。
格子戸が閉められ入れません。よく見ると「この格子窓よりおまいり下さい」とある。ほとんどの格子は板で塞がれているのだが、中央辺りに二、三か所透明なシートになっており、内部を覗けます。カメラを近づけ撮ってみました。

等身大の小野篁立像(江戸時代)。小野篁(802-852、おののたかむら)は参議小野岑守の子。遣隋使で知られる小野妹子の子孫であり、孫に小野小町、書家の小野道風がいる。平安初期、嵯峨天皇につかえたの官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られる。承和5 (838) 年遣唐副使となったが、大使の藤原常嗣の理不尽な要求に憤り渡唐を拒否、詩で風刺したため嵯峨上皇の勘気にに触れ隠岐に配流された。許され帰京後(840)、陸奥守、東宮学士、蔵人頭などを経て参議(847)、従三位まで昇進。文武両道に優れた人物であったが、その奔放な性格は「野狂(やきょう)」ともいわれ奇行が多く、多くの逸話を生んだ。当寺に伝わる伝説「冥土通いの井戸」もその一つ。

衣冠束帯姿で鬼を従え、右手に笏(しゃく)を持っっている。人智を越えた神通力をもつともいわ、ふわりと持ち上がった両袖は、その神通力を表しているそうです。

格子戸の左端にも同じように「おまいり下さい」とあり、透明シートの格子がある。こちらは閻魔大王坐像(平安時代、伝・小野篁作)です。

閻魔堂の先に白壁、紅柱の鐘楼がある。鐘楼は四方を白壁で囲まれ、鐘は外から見えません。正面中央、花頭窓下の小さな穴から出ている綱を手前に引いて撞くようになっている。

この鐘は、お盆の「迎え鐘」として有名です。毎年8月15日には、先祖を供養するお墓詣りを行います。ここ六道珍皇寺ではその少し前の8月7日から10日まで、「迎え鐘」をうって精霊(御霊)を迎える「六道まいり(「お精霊(しょらい)さん」とも呼ばれる)の行事が行われ、京の盆の始まりを知らせる夏の風物詩となっている。「迎え鐘」は、遠く十万億土の冥界へも響き渡るといわれ、亡き人の霊がこの響きに応じてこの世に戻ってくるのだと信じられた。参拝者は、迎え鐘を鳴らしあの世からの精霊を迎え、そして線香でお清めした水塔婆をあげて供養する。長い行列ができ大混雑するそうです。逆に五山の送り火(8月16日)は、お迎えしたお精霊さんをあの世へ送る行事です。灯篭流しも同じ。

境内正面が本堂。薬師三尊像(京仏師中西祥雲作)が安置されています。閻魔堂と同じように、障子戸の中央が透明シートになっており、内部の薬師三尊像を拝観できるようになっている。
本堂前には、無色界、色界、欲界という三界すべての精霊に対して供養する「三界萬霊十方至聖供養塔」の碑が建つ。

小野篁が冥土に通ったという伝説の井戸が本堂裏手の庭園の中にあります。近寄れないのだが、本堂右端の格子窓から覗けるようになっているので、履物を脱いで小階段の上へ。
伝説によれば、篁は亡き母の霊に会うためこの井戸から冥土へ初めて足を踏み入れた。母は餓鬼道に堕ちて苦しんでいたので、閻魔大王に直談判して母親を救いだした。これをきっかけに閻魔王宮の役人となる。以来、現世と冥界を行き来して、昼は朝廷に出仕、夜はこの井戸から地獄に向かい、閻魔庁で閻魔大王の補佐として一晩中裁判の助手をつとめ、無実の罪で地獄へ落ちた人を救ったと伝わります。

これが「篁冥土通いの井戸」です。窓から30m位離れている。
朝になると化野の福生寺の井戸、もしくは蓮台野の千本閻魔堂の井戸から地上に戻ってきたとされてきました。ところが平成23年(2011)、六道珍皇寺に隣接する民有地(旧境内)から一つの井戸が発見された。深さ100mもあり、これが冥土よりの帰路に使った「黄泉(よみ)がえりの井戸」だ、とされるのですが・・・?。

 安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)  



東大路通に面し安井金毘羅宮の石鳥居が建ち、看板「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」が吊るされています。
安井金毘羅宮(やすいこんぴらぐう)の歴史について公式サイトに「第38代天智天皇(てんちてんのう)の御代(668~671年)に藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。
第75代崇徳天皇(すとくてんのう) (在位1123~1141年)は特にこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造して、寵妃である阿波内侍(あわのないし)を住まわされました。崇徳上皇が保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(現、香川県)で崩御された時に、阿波内侍は上皇より賜った自筆の御尊影を寺中の観音堂にお祀りされました。治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂にお籠りされた時に、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況をお示しになられました。このことは直ちに後白河法皇(ごしらかわほうおう)に奏上され、法皇のご命令により建立された光明院観勝寺が当宮の起こりといわれています。光明院観勝寺は応仁の乱(1467~1477年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐の金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政公を祀ったことから「安井の金比羅さん」の名で知られるようになりました。明治維新の後、蓮華光院を廃して「安井神社」と改称し、更に「安井金比羅宮」と改め現在に至っています。」とあります。

鳥居から200mほどの参道が続き、「絵馬の道」となっているが絵馬は一つも見かけない。ただし立札が立ち、幾つか絵馬が貼り付けられている。「米朝さんのきも入りでこんなタレントさんの絵馬が集まりました」とあり、桂枝雀、桂朝丸、笑福亭松鶴(「禁酒」とある)、横山やすし、、若井ぼん・はやと、夢路いとし・喜味こいし、キダタロー、イーデスハンソン、越路吹雪、小松左京・・・関西の懐かしい名前が並びます。かなり以前から桂米朝一門がこの神社で勉強会を定期的に開催している縁からのようです。

境内に入るといきなり「縁切り縁結び碑」が置かれている。
「この縁切り縁結び碑は、中央の亀裂をつたって神様のお力が下の穴に注がれています。穴をくぐる抜けてそのお力をお受けいただく事によって、悪縁が切れ良縁が結ばれます。まず、お願いを「形代(かたしろ)」(身代わりのおふだ)にお書きになり、次に願い事を心に思いながら碑の中央の円形の穴から表からくぐり抜け悪縁を切り、続いて裏からくぐり抜けて良縁を結び、最後に形代を碑にお貼り下さい。形代一枚につき百円以上お志を下のお賽銭箱へお納め下さい」と説明されています。
高さ1.5メートル、幅3メートルの絵馬の形をした巨石だが、形代のお札が貼りめぐらされて原型がわからない。

多くの人が順番待ちをしている。一度に一人だけで、窮屈な穴を出入りするので時間かかります。


本殿には祭神の崇徳天皇、大物主神、源頼政が祀られている。











本殿右側にある久志塚(櫛塚(くしづか))。傍らの「由来記」を要約すると、使い古したり傷んだ櫛に感謝を捧げ供養するための塚。昭和36年(1961)、風俗研究家の故吉川観方先生の賛意を得て「櫛まつり」が始められ、翌年に塚が造られた。現在も9月第4月曜日、古墳時代から現代の舞妓さんまでの各時代の装束姿で、かつらを使わず地毛で結い上げた髪型をした女人風俗行列が当宮を出発し祇園界隈を練り歩き、多くの見物人で賑わうという。左は吉川観方の像。

北門を出て真っすぐ100mほど行くと崇徳天皇御廟がある。
「崇徳上皇(第75代)は、平安時代の末、保元の乱(西暦1156年)により讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた。上皇は血書をもって京都への御還幸を願われたが、意の如くならず憤怒の御姿のまま長寛2年(1164年)夏、46歳にて崩御。五色台白峰山の御陵に奉葬された。上皇の寵愛篤かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けてこの場所に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝承されている。
その頃の京都では、上皇の怨念による祟りの異変が相次いで発生したため、御影堂や粟田宮を建てて慰霊に努めたが、永い年月の間に廃絶して、此の所のみが哀史を偲ぶよすがとなっている。なお孝明・明治両天皇の聖慮により、白峯神宮が創建され、元官幣大社として尊崇され今日に至っている。」(傍の解説板より)。
崇徳天皇(1119-1164)の本陵は、香川県坂出市青海町の「白峯陵(しらみねのみささぎ)」だが、阿波内侍が遺髪を譲り受け、この場所に塚を築き霊を慰めたという。管理は、宮内庁でなく白峯神宮(京都市上京区飛鳥井町)が行っています。毎月21日には崇徳天皇の月命日として、白峯神宮から神職が来て、祇園の女将さんらも一緒に月次祭が行われているそうです。

祇園歌舞練場(そして馬券売り場が)のすぐ裏にあたり、表は賑やかで騒がしいが、この裏通りはひっそりして静かです。





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一乗寺から赤山禅院へ 3(曼殊院・赤山禅院)

2023年02月06日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2022年11月16日(水曜日)
門跡寺院の曼殊院、神社のようなお寺・赤山禅院を訪ねる。

 曼殊院(まんしゅいん)  



圓光寺を出て、曼殊院へ向かう。一本道ではないが、要所には道案内が置かれ迷うことはない。30分ほどかかります。
樹木に覆われた参道を進むと、正面に勅使門が現れます。階段上に西向に建ち、これが曼殊院の本来の表入口となるのでしょうか。

勅使門の両側には、寺院の格式の高さを表す五筋塀がのびる。勅使門前のこの辺りが曼殊院で一番の紅葉スポットになる。弁天池周辺を除いて、他に紅葉の見所はありません。

■曼殊院の歴史
「曼殊院は、もと伝教大師最澄の草創に始まり(八世紀)、比叡山西塔北谷にあって東尾坊(とうびぼう)と称した。天暦元年(947)、当時の住持・是算(ぜさん)国師は菅原氏の出であったので、北野神社が造営されるや、勅命により別当職に補せられ、以後歴代、明治の初めまで、これを兼務した「(受付パンフより)。
天仁年間(1108~9、平安後期)忠尋座主が当院の住持だったとき、北野天満宮管理のため近くの北山に別院を設け「曼殊院」と称した。この別院が次第に本院となっていきます。応永4年(1397)、足利義満は荒廃していた西園寺家の北山の土地を譲り受け、ここを改修し自らの住居として「北山殿」(金閣寺)を創建。その影響で曼殊院も移転を余儀なくされ、京都御所の北側に移る。文明年間(1469~87)、後土御門天皇の猶子であった慈運法親王が26代として入寺して以後、曼殊院は門跡寺院となります。青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台宗五門跡の一つとなっている。
明暦2年(1656)、29代門主を継いだ良尚法親王は御所の北から修学院離宮に近い現在地の一乗寺に移し大書院(本堂)、小書院、庫裡などの堂宇を建立した。これが現在の曼殊院です。良尚法親王の父は桂離宮造営を始め、兄が完成させた。そのため曼殊院造営にも桂離宮の影響が色濃く反映されている。江戸時代初期の代表的書院建築で、その様式は桂離宮との関連が深く「小さな桂離宮」ともいわれています。

勅使門の前を左に(北側に)進むと、北通用門があり、拝観受付となっている。
 拝観時間 9:00~17:00(16:30受付終了)
 拝観料 一般600円 高校500円 中小学生 400円

庫裏(重要文化財)から履物を脱ぎ、建物内に入って行く。入口の大妻屋根に「媚竈(びそう)」と書かれた扁額が掲げられている。曼殊院をこの地に造営した良尚法親王の筆によるもので、論語の「その奥に媚びんよりは、むしろ竈(かまど)に媚びよ」(奥にいる権力者に媚びるのではなく、生きていくのに大切な竈(かまど)やそこで働く人々に媚びよ)を引用したもの。

庫裏とは食事を作る台所のことで、屋根の上に煙だしだ見える。。玄関となっている庫裏は「下之台所」として使われ、一般僧侶の食事を作る所だった。庫裏の東隣にさらに大きな台所があります。「上之台所」と呼ばれ、高貴な人や住職などの食事を作っていた。竈が並び、棚にいろいろな食器が並べられている。一見の価値ある台所で、曼殊院で一番印象に残った所です。写真に撮れないのが残念。


大書院(重要文化財)・小書院(重要文化財)や、狩野永徳や狩野探幽の襖絵のある部屋などあるが、写真に撮れないので紹介できません。室外だけ撮ることにしました。


国の名勝指定されている庭園は小書院、大書院の南側に広がる。白砂に松や刈込みを配した島を置いた枯山水式庭園。白砂で表された水は、小書院前から流れ出て川となり、大書院の前で海となり、やがて宸殿前の大海原へと流れてゆく。「この枯山水は、禅的なものと王朝風のものとが結合して、日本的に展開した庭園として定評がある」(受付パンツより)

左の建物は小書院。縁の欄干は屋形船のように見せているという。室内の天井の一部も屋形船の様に造られているとか。此岸から彼岸へ向かう舟の意味でしょうか。
屋根が二重になっている。「新たに葺き替えた小書院の屋根は、桂離宮と同様雁が重なって飛んでいく姿を表わしているといわれます」(公式サイトより)

小書院前に置かれた手水鉢(直径80cm)。下の台石は亀で、手前の丸い部分が頭です。横の組石は鶴を表す。鉢の周りには梟(ふくろう)が刻まれていることから「梟の手水鉢」と飛ばれている。手水鉢は建物側へわずかに傾けられており、部屋内から水に写した月見の趣向があったという。

これは大書院前の庭園。鶴島、亀島、樹齢400年の五葉松、キリシタン灯篭・・・どれだろう??。


ネットの境内図を見ると、大書院の西側には梅林と護摩堂がのっている。護摩堂(左のお堂)はそのままだが、梅林の場所には新しいお堂が造られている。これは最近完成した宸殿です。宸殿は門跡寺院の中心となる建物だが、元あった宸殿は明治政府から供出要請があり献納した。政府はこれを元手に病院を建てたという(現在の京都府立医科大学の前身)。宸殿復活は曼殊院の長年の念願だった。ようやく150年ぶりに再建されたのです。阿弥陀如来座像(重文、平安時代)と慈恵大師良源元三大師像(重文)が祀られている、と案内されていました。


宸殿前庭には、一面に白砂が広がり、大海を表している。「盲亀浮木之庭」と張り紙され、庭の名前の由来が書かれている(写真)。左上の黒い岩が流木だろうか。亀はどこだ?。
右近の橘と左近の桜がみえる。これは現在の上皇(平成天皇)と上皇后が行幸された折に植えられたもの。右に半分見えるのが唐門で、その奥に勅使門があるはずです。



曼殊院に接して西隣に、弁天池があり、弁天島が浮かぶ。ここには弁才天を祀る弁天堂(左)と菅原道真公を祀る天満宮(右)が置かれています。神仏習合の名残で、お寺の中に神社があるのです。この天満宮は室町時代の建物で、曼殊院で一番古い建物。北野天満宮と深い結びつきがあったことから、近くの山中にあったものをここへ移したという。

弁天池周辺も紅葉の綺麗な所。曼殊院内では紅葉らしきものは見られなかったので、弁天島にきて慰められました。



 鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)  




曼殊院を下り、修学院道を北へ歩き赤山禅院を目指す。その途中に鷺森神社があります。ネットに、”紅葉の隠れスポット”とか”紅葉のトンネル”などとあったので寄ってみることにした。
鳥居の扁額「鬚咫天王」(しゅだてんのう)とは主祭神・素盞嗚尊(スサノオノミコト)のことです。

300mほどの参道が続きカエデが色づいていました。”紅葉のトンネル”というには未完の部分が多く、スポットになるにはまだほど遠いようです。

■歴史
鷺森神社の歴史について、境内に由緒板が掲げられている。「当神社創建は貞観年間(859年 - 877年)にして今より壱千百年余り前に比叡山麓の赤山明神の辺に祀られてあったが応仁の乱の兵火に罹り社殿焼失し今の修学院離宮の山中に移し祀られてあった。後水尾上皇この地に離宮を造営されるにあたり此の鷺森に社地を賜わり元禄二年(西暦一六八九年)遷座相成り修学院山端地区の氏神神社として現在に至っている。」

境内中央に拝殿があり、その奥に本殿がひかえる。拝殿では舞楽の奉納が行われるようです。
手前の橋が「御幸橋」で、説明書きに「その昔、修学院離宮正面入口の音羽川に架設され後水尾上皇、霊元法皇も行幸のみぎりに通られた名橋です。昭和42年当社本殿改築の際、請願により下賜され、社宝として宮川に架設しております」とあります。

一間社流造りの本殿で、素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀る。かっては牛頭天王(ごずてんのう)、または鬚咫天王とも呼ばれていた。本殿、拝殿とも安永4年(1775)の造営になる。
幕には「鷺」の絵が、また絵馬でなく絵鷺に願がかけられている。社名にもなった「鷺(さぎ)」は、かってこの辺りに鷺の群れが住みついていたことから神の使いとされたようです。


境内の右隅に、しめ縄のはられた石が置かれている。「縁結びの石 八重垣」と書かれている。この石に触れて祈ると悪縁を絶ち、思う人との良縁が得られ、夫婦和合・円満や家内安全が授かるそうです。「八重垣」とは、稲田姫命と結ばれた素盞嗚尊が詠った和歌よりくるようです。素盞嗚尊が和歌を詠むとは・・・。

鷺森神社をでて北へ少し歩くと音羽川に出会う。音羽川に沿って山へ向かっていくと、比叡山の代表的な登山ルートの一つ「雲母坂(きららざか)」がある。かって法然、親鸞らの名僧や弁慶が延暦寺と洛中を行き来した道、私も10年前に(ココ参照)

 赤山禅院(せきざんぜんいん)  




音羽川を渡り修学院道を進むと、写真の三叉路に出会う。真っすぐ進めばすぐ修学院離宮の入口です。左に曲がれば赤山禅院へ向かう。右に入れば「鷺森神社御旅所」と案内されていました。

鳥居が見えてきました。天台宗のお寺のはずだが・・・。「赤山大明神」の額は、江戸時代の初め後水尾上皇の修学院離宮御幸の時に賜ったもの。

鳥居を抜けると山門が現れる。山門に「天台宗修験道総本山菅領所」の表札が掛かっていました。現在、赤山禅院は天台宗延暦寺別院(塔頭)になっているようです。修験道というのは千日回峰行のことだろうか?。比叡山延暦寺には7年かけて比叡山の峰々を巡る「千日回峰行」と呼ばれる荒修行があります。その最後に、ここ赤山大明神に下って花を添え、再び雲母坂を登って帰る「赤山苦行」と呼ばれる荒行があります。
この辺りから紅葉を楽しむことができます。


参道脇に「我邦尚歯発祥之地」の碑が置かれています。「歯」は年齢を、「尚」は尊ぶの意味で、敬老を意味している。唐の白楽天(772-846)が老人を招き「七叟尚歯会」を催したのに倣い、平安時代の初め(877年)この地で、日本で初めて「尚歯会」が開かれたのを記念したものです。貴族、公家、学者などの年寄りが集まり詩歌管弦を楽しむ敬老会だ。

紅葉の美しい参道が続くが、トンネルとなるにはまだ少し早いようです。

階段を登ると拝観受付のような建物がある。「いくらですか?」と聞くと、「いりません」と。通常、お寺は拝観料をとり、神社は無料となっている。赤山禅院はお寺のはずだが、拝観料に関しては神社格だ。維持費はどうしているんだろうか・・・と余計な心配までしてしまう。

赤山禅院の歴史は「開創は、仁和4年(888年)。「赤山」の名は、入唐僧円仁に由来する。円仁は、登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したが、果たせないままに没した。その遺言により天台座主の安慧(あんね)が、唐の赤山にあった道教の神・泰山府君(赤山大明神)を勧請して建立したのが赤山社(後に赤山禅院に改称)である。しかし、安慧は貞観10年(868年)に没しており、仁和4年(888年)の創建には疑問が残る。
比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。当寺は明治時代の神仏分離令の後も神仏習合の形を残したまま現在に至っている。」(Wikipediaより)

階段を登ると拝殿があり、その奥に本殿がある。ここは神社か?、と錯覚してしまう。神仏習合の名残りですね。
拝殿の瓦葺屋根上に猿がいる。平安時代には鬼門信仰があり、赤山禅院の位置は御所の北東にあたり、鬼門の方角とされてきた。そのため皇城の表鬼門の鎮守として、左手に邪気を祓う神楽鈴を、右手に神の依り代になる御幣を持った陶製の猿を置き、御所をを向いて見守っていのです。
何故、猿なのでしょうか?。平安京の北東に位置する比叡山延暦寺を守るのが日吉大社です。その日吉大社では、大山咋神が猿の姿で天から降りてきたとされ、猿が神のお使いとして祀られている。それと関係あるのでしょう。かって猿が夜な夜な抜け出し、悪さをしたので金網に閉じ込めているそうだ。

拝殿奥の本殿です。「皇城表鬼門」の看板が架けられている。
祭神(本尊)は赤山大明神。中国の五霊山のひとつ東岳泰山の神である「泰山府君(たいざんふくん)」のことで、陰陽道の祖神、道教の神、閻魔大王の側近で閻魔帳をもつ、本地仏が地蔵菩薩だとか云われ、なんかよくわからない。まアいいか、お参りに来たのじゃなく、紅葉を見に来たんだから。


本殿左側にある地蔵堂。赤山大明神の本地仏である地蔵菩薩を祀る。本地堂とも呼ばれる。


福禄寿堂。赤山大明神は七福神の一つ福禄寿(ふくろくじゅ)ともされる。幸福・高禄・長寿の三徳をもつ福禄寿神仙が祀られ、「都七福神めぐり」の一つになっている。

境内右側にある雲母(きらら)不動堂。明治18年(1885)、雲母坂にあった雲母寺(うんもじ)が廃寺になり、そこにあったの本堂と本尊・不動明王が移されたもの。

堂内奥の左右に、大きな数珠の輪が吊り下げられている。これが「正念珠(しょうねんじゅ)」「還念珠(かんねんじゅ)」です。元来、拝観順路の入口に正念珠が、出口に還念珠が設置され、願いごとを唱えながら輪を潜ると願いが叶うとされた。お寺の方に聞くと、珠が傷んだので取り外し、不動堂に飾っているそうです。

絵馬にはお猿と赤山明神(?)が描かれている。

「五十払い(ごとばらい)」「五十日(ごとび)」という言葉があります。毎月5日、10日、15日、20日、25日、月末はいわゆる決済・集金の日とする商慣習がある。給料日は25日とされることが多い。
この慣習の起こりが赤山禅院にあるといわれる。赤山禅院では一年のうちに巡ってくる「申(猿)の日」の五日に五日講が行われており、この日にお詣りし、掛け取りに回ると集金がよくできると評判になり、江戸時代から「五十払い」の風習ができたと伝えられています。私にとって待ち遠しい年金支給日は隔月15日・・・。



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一乗寺から赤山禅院へ 2(圓光寺・金福寺)

2022年12月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2022年11月16日(水曜日)
紅葉の美しい圓光寺と、その末寺・金福寺を訪ねます

 圓光寺(えんこうじ) 1  



圓光寺は詩仙堂から10分ほどの距離にあります。前日に圓光寺の公式サイトを見ると、なんと混雑を避けるためという理由で事前予約制になっているではないか。これはマズイな!と思ったが、最盛期に少し早く、平日でもあるので希望日時に予約できるのではと思い予約してみた。公式サイトで日と時刻を指定し、メールアドレスを記入して送信する。すぐに結果をメールで知らせてくれる。16日11時台で「予約確定のお知らせ」メールが届いていました。11時台というのは、11時から11時59分の間に入ればよいのです。当日入口で、この確定メールを見せればよい(プリントアウトでもよい)。
拝観料:1000円(特別拝観期間のため、通常は500円)
拝観時間:午前8時(特別拝観期間のため、通常は9時)~午後5時閉門
私が圓光寺に着いたのは10時15分。スマホの予約確定メールを見せ、「11時になっていないが、入れませんか?」と頼むと、入れてくれました。予約無しでも、その時間帯に人数に余裕あれば入れるようです。

「瑞巌山(ずいがんざん)圓光寺(えんこうじ)」の歴史は「慶長6年(1601年)に、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校としました。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許しました。その後、圓光寺は相国寺山内に移り、さらに寛文7年(1667年)現在の地に移転しました。」(受付で頂くパンフより)
臨済宗南禅寺派に属し、明治以降は日本で唯一の尼僧専門の修行道場となった。現在は南禅寺派研修道場として坐禅会などが実施されている。

山門から石畳の参道を進むみ階段を登ると目の前に庭園「奔龍庭(ほんりゅうてい)」が広がる。枯山水庭園だが、京都の古寺で多く見られる枯山水とは一味違った庭です。平成25年(2013)に完成した新しい庭園だからです。「渦を巻き、様々な流れを見せる白砂を雲海に見立て、天空を自在に奔る龍を石組で表わした平成の枯山水。荒く切り立った石柱は、龍の周囲に光る稲妻を表現し、庭園全体に躍動感を与えています。通常、庭園の境界を示すために配される留め石は置かず、この庭園はあえて未完のままになっています。眺める方がその余白を埋め、それぞれのお心のなかで完成させていただけたらと思います」(受付パンフより)

見つめれど なにも浮かばず 我悲し

奔龍庭の奥の中門を潜ると、本堂があり、本堂前に庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」が広がる。

中門を潜るとすぐ見えるのが水琴窟(すいきんくつ)。縁が広い盃型の手水鉢を使ったのが珍しく「圓光寺型」と呼ばれている。竹筒に季節毎の草花が添えられるそうだが、この時期はもちろん鮮やかな紅葉が。肝心な音色を聞くのを忘れてた。



本堂内部。祀られているのは、運慶の作と伝えられている千手観世音菩薩坐像。襖絵は富岡鉄斎(1836-1924)の描いた「米點山水図」。明治18年(1885)秋、48歳の時に圓光寺を訪れた折に描いたという。

本堂前に広がる庭園は「「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」と呼ばれています。紅葉の美しさで知られた庭園ですが、最盛期には少し早いでしょうか、まだ完全に色づいていませんでした。軒先の柱を額縁に見立てた額縁庭園にもなるのですが、朝一番にでも来ないと撮れないですね。赤毛氈の敷かれた縁に座り鑑賞する、最近どこでもよく見かけられる風景です。

 圓光寺 2 (庭園「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」)  




池泉回遊式庭園なので、これから履物に履き替え庭園を散策します。

「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」について受付パンフに「牛を追う童子の様子が描かれた「十牛図」を題材にして、近世初期に造られた池泉回遊式庭園です。十牛図に描かれた牛は、人間が生まれながらに持っている仏心をあらわしています。牧童が悟りにいたるまでの道程であり、懸命に探し求めていた悟りは自らの中にあったという物語です」と書かれている。庭には十牛に因み、牛に見える十の石が配されているそうです。

庭園の真ん中に「栖龍池(せいりゅうち)」と呼ばれる池がある。洛北で最も古い池だそうです。この栖龍池周辺が一番の紅葉スポットです。また池に写る逆さ紅葉も鮮やかでした。

広い庭園には池を一周するように遊歩道が設けられ、散策しながら紅葉を楽しむことができる。頭上を覆う紅葉、足元の散り紅葉、池に映える逆さ紅葉、と堪能させてくれます。

散りもみじ・敷きもみじと呼ばれる紅葉の絨毯があちこちで見られます。今でこれですから、最盛期を過ぎた頃にはどんな景色を見せてくれるのでしょうか。

眠っている場合じゃないですヨ。

庭園の奥に行くと苔庭と竹林が現れる。紅と緑のコントラストがいいね。

この竹林は「応挙竹林」と呼ばれている。江戸時代の絵師・円山応挙がよく訪れており、瑞雲閣の展示室にある「雨竹風竹図屏風」はこの竹林を描いたもの。

竹林の奥に階段が見えます。そこから徳川家康の墓などがある裏山へ登れます。

 圓光寺 3 (裏山)  





階段を登ると小さな広場と墓地にでる。ここに案内略図が掲示されているので判りやすい。
家康の歯が納められている東照宮は、さらに登った山中になります。








サイド・オマールの墓。

マレーシア人のサイド・オマールは、南方特別留学生として第二次世界大戦中の昭和18年6月来日し、広島大学に在学した。昭和20年8月の原子爆弾で被爆し、京大病院に運ばれたが9月3日18歳の生涯を閉じた。当時の市営墓地だった南禅寺大日山に埋葬されたが、遺族の許可を得て昭和36年にここにイスラム教式の墓碑が建立された。マレーシア王族の出身だったから・・・?。





舟橋聖一の歴史小説「花の生涯」に登場する村山たか(たか女)の墓があります。墓地の一番奥の方で、やや分かりにくい。村山たか女については金福寺で触れます。

墓地のある広場からさらに坂道を登ります。後ろを振り返ると杉木立の間から京都市街が見えてくる。


やがて、圓光寺の開基である徳川家康を祀った東照宮と、その右側に柵で囲われた徳川家康の墓が現れる。墓には家康の歯が埋葬されているとか。

お墓の前は一種の展望台のようになっています。眼下に圓光寺の伽藍とそれを彩る紅葉が、その先には京都市街が一望でき、遠くには北山や嵐山なども望むことができます。


最後に、奔龍庭の横にある建物「瑞雲閣(ずいうんかく)」に入ってみます。ここは寺宝の展示室と、庭園を鑑賞できる畳の大広間からなっている。





これは円山応挙筆「雨竹風竹図屏風」。紙本墨画の六曲屏風一双で、国の重要文化財です。十牛之庭にある竹林を描いたもの。










伏見版木活字(圓光寺)(重文)。
徳川家康は文治政策の一つとして京都伏見に圓光寺学校を開設した(圓光寺の始まり)。そこで孔子家語・貞観政要・三略など多くの儒学・兵法関連の書籍を印刷刊行した。その時に使った木製の活字5万個が現存している。これら「伏見版木活字(圓光寺)」は、日本最古の木製活版文字として国の重要文化財に指定されています。


瑞雲閣の縁側から紅葉鑑賞。全面真っ赤に燃え上がる様は感動ものだが、緑葉、黄葉の混ざる紅葉風景も風情なものです。

 金福寺(こんぷくじ) 1  


(金福寺へは、朝一番の午前9時に訪れたのだが、”今日は法事が行われるため拝観できません。午後2時頃からなら可能かと思います”とのこと。予定が狂ったが、赤山禅院を訪れた後に引き返し、一番最後に訪れることにした)午後2時半、再訪する。緑の植え込みに囲まれ、真っ赤な紅葉に覆われた小さな山門と石段。俳句の聖地と呼ばれるのに相応しい門前です。

金福寺(こんぷくじ)の由緒は「864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都(あんねそうず)が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置した。 当初天台宗であったが、後に荒廃したために元禄年間(1688年?1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗した。その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行した際に庭園の裏側にある草庵を訪れ、風流を語り合ったとされ後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していた為、彼を敬慕する与謝蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。幕末に入り舟橋聖一著の『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。」(Wikipediaより)

山門の先に受付がある。営業時間 9:00~17:00(受付16:30迄)、大人500円 中高校生300円 小学生以下無料

受付前に真っ赤な敷きもみじが。その鮮やかさに、まるで造形されたかのようにも思ってしまう。金福寺の紅葉は、門前の覆いかぶさるような紅葉と、この敷きもみじに尽きます。

金福寺は本堂があるだけの小さなお寺です。手前で履物を脱ぎ本堂に上がってみる。畳敷の本堂には本尊の聖観音菩薩が祀られ、周囲には寺にゆかりの遺品が展示されています。奥に見える屋根は芭蕉庵。

松尾芭蕉を敬慕していた与謝蕪村は、芭蕉ゆかりの当寺をたびたび訪れ一門たちと芭蕉庵で句会を開いていた。その時に愛用していた文台と重硯箱。
床の間の掛け軸には蕪村筆による「芭蕉翁像」が描かれている。「蕪村が64才安永8年(1780)特に当寺のために描いたもの。彼は芭蕉を俳諧の先師として最も尊敬していた。芭蕉の肖像画として最も勝れたものとの定評がある」と説明書きがある。

(上写真)蕪村筆「江山清遊の図」
(下写真)蕪村筆「奥の細道画巻」(重文)。画家でもあった蕪村は、芭蕉の紀行文「奥の細道」の全文を書き、それぞれ14の場面に俳画を描き入れた。(複製品、池田市逸翁美術館蔵)

「文久秘録」に描かれた「たか女晒し者の図」

村上たか女(1809-1876)について受付のパンフに「作家舟橋聖一の歴史小説『花の生涯』・諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロイン村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇の部屋住み生活をしていた頃の愛人であった。直弼は32歳のとき江戸に下り、44歳で大老職に就任した。その頃アメリカの強硬な要求で開国政策を推進せざるを得なかった。一方たか女は京都に於いて幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩・長州・水戸藩の浪人・公家)の動向を探索し、その情報を永野主膳を通じて幕府(大老)に密報する事で「安政の大獄」に加担した。その為に、たか女は勤皇方から大変恨まれ、大老が万延元年「江戸城桜田門外の変」で暗殺されると、彼女は勤皇の志士に捕らえられ、京都三条河原で生き晒しにされたが、三日後に助けられ文久2年(1862)尼僧となって金福寺に入り、名を「妙寿(みょうじゅ)」と改め、14年間の余生を送り、明治9年(1876)当寺に於いて67歳の波瀾の生涯を閉じた。本墓は当寺に程近い圓光寺にあり、金福寺には彼女の御位牌、筆跡。遺品などが伝わっているとともに詣墓(まいりばか)がある」と書かれています。




59歳の時に作った牡丹の刺繍をした壇引(仏壇の前に垂らすもの)。若い頃、芸妓になっていたので芸事を心得ていたという。

山門脇にさりげない建物がある。よく見ると「村上たか女創建の弁天堂」の札が掛かっています。
村上たか女は巳年生まれだった。九死に一生を得て生き永らえたのは、巳をお使いとする弁財天のご加護と信じ、お堂を建て弁財天と巳を祀ったのです。蛇の像が入った「福巳塔」が祀られている。弁天堂の鬼瓦にも蛇が刻まれています。

 金福寺 2  



本堂前の庭園。元の庭を昭和の初めに、七代目小川治兵衛が改修した枯山水庭園。白砂に置き石・灯篭が配され、それをサツキの築山が囲む、小さいながらよくまとまった庭園です。

庭園の左側に石敷きの小径が奥へ伸びて、芭蕉庵や与謝蕪村の墓がある丘の上へ続いている。

茅葺き屋根の芭蕉庵。
「元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ、当寺の草庵で閑居していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。その後、和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、蕉翁の高風をいつまでも偲んでおられた。その後、85年ほどして与謝蕪村が当寺を訪ねて来た。その頃すでに庵は荒廃していたが、近くの村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永5年(1776)庵を再興した」(受付パンフより)。蕪村は一門たちとこの庵で句会をしばしば催しましたという。


蕪村らによって建立された芭蕉の碑。建立時、蕪村はこの近くに眠りたい、と詠んでいたので、すぐ上の山中に埋葬された。

坂道を少し登って行くと、村山たか女の参り墓がある。金福寺の本寺である圓光寺に埋葬されたが、尼僧として余生を送り波瀾の生涯を終えた当寺にも、本墓の土を埋め参り墓がつくられた。墓石には「祖省塔」と刻まれている。

さらに登って行くと与謝蕪村の墓があります。傍には江森月居など弟子たちの墓もある。

墓の前からは京都市内が一望できます。まさに「京を一目の墓どころ」です。

本堂と庭を見下ろす。


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