山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

竹内街道ひとり歩き (その 3)

2014年08月27日 | 街道歩き

 二上山登山口と鹿谷寺跡  



竹内峠を過ぎ、国道166号線を車に注意しながら下っていくと「二上山登山口」の道路標識が見えてくる。車道から少し入った所に登山口があった。
ここ「二上山登山口」はマイカー用の登山口です。近くに広い駐車場があり、喫茶や軽食もできる建物もあります。調べると「二上山登山口」はその昔、河内方面から二上山の岩屋峠を超え當麻寺へお参りする近道だったようです。そのためか案内標識や石仏があり、他の登山口よりしっかりしたものになっている。
私は二年前(2014)の九月、近鉄南大阪線の二上神社口駅から二上山に登ったのですが、當麻寺へ下山するはずが、どこでどう道を間違えたのか竹内街道側へ下山しそうになった。途中で気づき引き返したのですが、もし竹内街道側へ降りていたら、ひどい目に会っていた。帰る交通手段が無いのです。バスも、タクシーも見かけず、太子町の近鉄の駅までかなりの距離を歩かなければならなかった。
私が登った時は、雌岳の頂上はかなりの家族連れで賑わっていました。標高500m位の手ごろな高さで、大阪平野を見渡せる羨望もよい。大阪からも近く、休日のハイキングには生駒山とともに丁度良いのかもしれない。
登山口を少しばかり登ると国史跡「鹿谷寺跡(ろくたんじあと)」があるので、寄ってみることにした。丸太で区切られた階段状の坂道を登っていくと、岩がむき出しになり歩きにくい道になってくる。そして平坦な場所に出る。ここが鹿谷寺跡らしい。中国には敦煌や龍門石窟など、数多くの石窟寺院が残されているが、ここはそれを模して山尾根の一部を削り開き寺院建設をもくろんだものと思われる。

柵に囲われた十三重の石塔が建っている。高さ5.7mで、岩盤を削り取り十三重塔に造り上げたらしく、地盤と一体となっている。近くには、岩窟内に岩壁を削り、三尊仏坐像をを彫り込んだ跡も残されている。奈良時代の建造とされ、この周辺からは日本最古の貨幣といわれる和同開珎も出土しているそうです。日本では他に例をみない貴重な石窟寺院跡として、1948年(昭和23)に国の史跡に指定されている。

 太子町へ  


再び国道166号線に戻り、うっとうしい車を気にしながらただひたすら太子町の町並みを目指して下っていく。ガードレールで守られた専用歩道が現れる。人ひとりやっと通れるぐらいの狭さだが、安心して歩けます。やがて五人くらい並んで歩ける幅になる。こんな所に、これほど整備された広い歩道なんて無駄ではないだろうかと、ご疑問が湧くが、歩くものにとっては大変助かります。俺以外誰も歩いていない。太子町からハイキングで二上山目指したり、峠越えする人がどれだけいるんだろうか?。
山間を抜け、前方に大阪平野が開けてくる。飛鳥川に架かる「風鼻橋」というカゼを引きそうな名前の小橋を渡るとすぐ「道の駅 近つ飛鳥の里・太子」です。大阪では二番目にできた道の駅とか。品揃えではコンビニには適わないが、地元で獲れた野菜や果物、特産品などが並べられている。

風鼻橋手前の右手にこぢんまりとした雑木林があり、その中に遊歩道のような道がある。ここが太子町の綺麗に整備された歴史歩道「竹内街道」の出発地点らしい。目立った案内標識が無いので気づかないままだったら、あのうっとおしい国道166号線を歩くところだった。
「道に駅」裏から太子町の整備された竹内街道に入っていきます。
石の道標や古い民家が並び、旧街道の雰囲気を漂わす。「大道町」の町名も見られ、古道をしのばせてくれます。日本書紀に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された日本最古の官道だからです。ここから同じ太子町の「春日西」交差点まで2キロほどがよく整備された「竹内街道」です。平成7年(1995)、「春日西」から葛城市當麻町の長尾神社までの約7.4kmの区間が、国によって歴史国道に選定された。その関係か、太子町内の「竹内街道」は”綺麗過ぎる”ほどよく整備されている。街道筋にはノボリが立てられ、花壇が並び、「竹内街道」と書かれた短冊が家々の塀、扉、植込みなどに吊るされ、風に揺らめく。歩きやすいように舗装された路面にはゴミひとつ落っこちていない。太子町の竹内街道を歩いていると、街道沿線自治体と住民の方々の”街おこし”へかける気概が痛いほど伝わってきます。古道にしては”美しすぎる”ような気がしますが・・・。
「道に駅」から5分ほど歩けば、街道から右に少し入ったところに太子町立竹内街道歴史資料館がある。
平成元年からのふるさとづくり事業の一環として竹内街道の整備とともに建設された建物で、平成5年3月3日にオープンしたもの(開館時間:9:30~17:00/休館日:毎週月・火曜日、祝日の翌日/入館料:一般は200円、高大学生は100円)。入ってみると、ひっそりとしていてあまり訪れる人もいないようです。歴史資料があまりに太子町内のものに偏り、竹内街道の全体像が浮かんでこない。太子町立なので仕方がないのでしょうか。お金をかけた立派な施設なのに、もったいない気がします。
私が印象に残ったものは、前庭に展示されているサヌカイト石と、館内に展示されていた聖徳太子御廟の石室模型。横穴式石室には3基の棺が安置されていたという。中央奥の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、手前左に膳部大郎女(妻)、右が太子と推定される棺。この三棺合葬の形を阿弥陀三尊に結びつけ,とくに「三骨一廟」と呼び信仰の対象にされたという。しかし近世まで誰でも中に入れたことから、太子信仰の高まりとともに後世に母と后の棺を追加し、無理やり「三骨一廟」としたのだ、という見解もあるが・・・。
明治12年(1889年)宮内庁の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまった。それ以後、内部を見ることができない。見られてはマズイい何かが・・・、とも勘ぐりたくもなる。

 「竹内街道・横大路ウォーキングマップ」  



しかし歴史資料館での最大の収穫は「竹内街道・横大路ウォーキングマップ」が入手できたことです。竹内街道・横大路の全コースがA4版14ページにわたり連続して載っている冊子です。館内を探しても見つかりません。案内の方に申し込めば奥から出してくれる。無料ですが、有料でも持参しておく価値がある。こんな有意義なパンフをどうして誰でも手にすることのできる位置に置いておかないのでしょうか?,不思議です。カンぐれば太子町立の館内に他自治体の紹介までしたくない,ということでしょうか。ちなみにこの冊子の発行主体は「竹内街道・横大路 1400年活性化実行委員会」で,構成団体は大阪市・堺市・松原市・羽曳野市・太子町・葛城市・大和高田市・橿原市・桜井市・明日香村となっている。


詳しくはホームページ

竹内街道ひとり歩き (その 2)

2014年08月22日 | 街道歩き

 旧街道  



車を気にしながら国道を四、五百メートル歩くと、左手前方にフェンスが巡らされた「上池」という池があり、その横が分岐点になっている。併走しているので国道を歩いても同じだが、左側の山道に入っていく(8時35分)。これが本来の旧街道・竹内街道なのでしょう。これでうっとうしい車ともお別れだ。




旧道といっても路面は広く舗装され平坦なので、山道を歩くという感じはしない。周辺は雑木林や杉林に囲まれ、直ぐ横を小川が流れ気持ちよく歩けます。小川のせせらぎと、山間から盛んに聞こえる「ホー、ホケキョー」の鳴き声が清々しい。私以外誰一人見かけない。好天気の日曜日なのだが、竹内街道といえこんな所まで踏み込むハイカーはいないようです。近くを国道が平行して走っているので、時々車の音が聞こえてくる。




正面に階段とトンネルが見えてきた。標識を見ると、どちらも行き先は同じようです。左の階段を登れば近道のようだが、右側のトンネルをくぐりスロープを進んでみた。





短いスロープを抜けると、再び国道166号に出会う。この国道を横切った正面に小さな公園があり、一休みできるようになっている。花が植えられ、休息するベンチも用意されている。山越えするハイカーにとって丁度良い休憩場所になるようです。ただしトイレはありません。
公園の奥に細い道があり、右下の国道を歩かなくてもよいようになっている。ここは竹内街道を残し、右側を掘り下げて国道を建設したらしい。ところでこの公園が竹内峠なのだろうか?。なんかよく分からない、周辺図面でも掲げてほしいものだ、奈良県様!、大阪府様かナ?。

 竹内峠  


右下に国道を見下ろしながら少し進むと、道の傍らに三つの碑が並んでいる。手前の石碑には「鶯の関跡」とあり、
”我思ふ 心もつきぬ 行く春を 越さでもとめよ 鶯の関”
の歌が刻まれている。判読しづらいその文章内に「ここ竹内峠ほど歴史の余韻が漂う峠は少ない・・・」と書かれているので、ここが竹内峠らしい。古くは「鶯の関」とも呼ばれ、昔からウグイスの名所だったという。文によればこの峠を、古代には大陸の文物が、中世では大和武士たちが、近世では伊勢・長谷参詣の旅人が、そして松尾芭蕉が、吉田松陰が、天誅組が越えていったという。

真ん中の石柱には「従是東 奈良県管轄」とあるので、大阪府と奈良県の境のようだ。よってここで奈良県葛城市から大阪府の太子町に入ることになる。三番目の碑は全く判読できません。しかしこの後訪れた竹内街道歴史資料館に説明図があり、明治19年に建てられた「竹内嶺開鑿碑」のようです。「明治十年から十五年にかけて峠道は拡幅改修され昭和五十年県道から国道一六六号線に昇格・・・」とある。
竹内峠は二上山南麓にあり、標高289m。国道を跨いだ右側が二上山で、この峠を挟んで南側は平石峠、岩橋山を経て大和葛城山がそびえる。ここ竹内峠はこれらの山々を縦断する「ダイヤモンドトレイル」コースと交差する場所でもあります。


正面の道を下っていくと、旧道は消え、また国道166号線と合流する。「左 大和国 右 河内国」の新しい街道標識が建つ。ここから太子町の「道の駅」まで1キロ半ほどは、車の往来の激しい車道の路側帯を歩かされることになる(9時20分)。



詳しくはホームページ

竹内街道ひとり歩き(その1)

2014年08月11日 | 街道歩き

 長尾神社から出発  


三月に太子町内の竹内街道を歩いたが、いつか全道を制覇したいと考えていた。日頃も良いので決行。通常は、大阪府堺市をスタートし、山越えから奈良県の葛城市を目指すのだが、逆コースをとることにした。全約30km、街道筋の名所旧跡を巡りながらだから体力的に、時間的にどこまで歩けるか見通しがたたない。堺市内よりは奈良県側を確実に歩きたい。堺市内は行ける所まででイイや、という理由で奈良県側の出発地・長尾神社より歩き始める。竹内街道の西の終点は紀州街道と交わる堺市大小路だが、さてどこまで行けるか・・・・。7時30分、ここ長尾神社をスタート、ひたすら西へ向かって歩きます。

近鉄南大阪線・磐城駅を出て少し南へ歩くと、住宅街の中に森が見える。ここが竹内街道の東の基点になる長尾神社です。
長尾神社の森の北側から西方の二上山へ向かって、綺麗に整備された道が伸びている。ここが竹内街道の東の基点になる。平成7年(1995)、ここ長尾神社から大阪府太子町の春日までの約7.4kmの区間が、国によって「竹内街道竹内峠」として歴史国道に選定された。この区間には「竹内街道」を示すノボリがはためき、道標が立てられている。

この辺りは、古き時代には竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝でした。大和盆地を横切る古代の大道「横大路」の西の基点。そしてここからさらに西へ竹内街道が伸び、海への出口難波津(大阪)へ続いている。長尾街道は、この交差点から南に行けば壺坂から吉野へ、逆方向の北へ行けば下田・王子を経て堺に通じている。交通の要衝であることから、長尾神社はこの街道を行き交う人々の守護神、いわゆる交通安全の神様としても信仰されてきた。


長尾神社から真っ直ぐ西へ、二上山に向かって街道が伸びている。道幅も広く綺麗に舗装整備され、旧街道という風情は感じられない。新興住宅と田園の入り混じったのどかな散歩道です。すがすがしい気分でスタートしました。

正面には二上山が、左に眼を向けると葛城・金剛の山々が連なっている。ここ大和盆地からあの山々の峠を越え、河内の国へ一人歩き。どこまで歩けるか?


 竹内集落へ  


緩やかな坂道を進んでゆくと、古風な民家が建ち並ぶ筋になる。この辺りが竹内集落でしょうか。かって伊勢詣で、長谷寺詣での街道筋として賑わい、茶屋・旅籠が軒を連ねていたという。
ここ竹内に母の実家があったという司馬遼太郎(1923~96)が幼少年期を過ごした所。名著『街道をゆく』は、その頃の幼児体験がもたらしたものでしょうか。「竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである」と書いています。

竹内集落の街道筋に「綿弓塚」と看板のかかった旧家風の家がある。造り酒屋だった旧家を改造した民家は資料館兼休憩所になっている。資料といっても、竹内集落の旧家の写真や説明、周辺の遺跡の紹介、そして芭蕉の説明など。それほど多くない。それより、歩き疲れた体を休めるのに丁度良い休憩所になっている。囲炉裏風のテーブル脇には木製の腰掛がおかれ、もちろんトイレもあります。時間に関係なく常に開放されているらしく、戸も無くオープンな施設のようです。係員もおらず、もちろん無料で出入りできます。
この休憩所の奥に広くない庭園があり、芭蕉の句碑が建てられている。松尾芭蕉がここ竹内に10日ほど滞在し、その時よんだ句が「野ざらし紀行」に収められている。
  ”綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥”
芭蕉没後150年を経た文化6年(1809)、大和高田の俳人・西嶋紅園と脇屋愚口が、この句を記念して句碑を建てたものが「綿弓塚」として現在に残っている。
「綿弓」って何だろう?。ネットで調べると「繰り綿(=種をとっただけで精製していない綿)をはじき打って打ち綿にする道具。竹を曲げて弓形にし、弦として古くは牛の筋、のちには鯨の筋を張ったもの。弦をはじいて綿を打ち、不純物を除いた柔らかな打ち綿にするためのもの。唐弓(とうゆみ)。わたうちゆみ。」とあるが、ピンとこない。昔、農家で綿から糸にする作業で必要な道具なんでしょう。

芭蕉がひっそりとした竹林の奥に宿っている時、どこからともなく綿弓を弾く音が聞こえてくる。それが琵琶の音のようで、慰められたというのでしょう。
できることならば、休憩所の民家でその雰囲気を作り出して欲しい・・・。

綿弓塚を出、古い家並みの続く坂道を200mほどゆくと国道166号線に出会います。この国道166号線も竹内街道の一部です。この国道166号線が、竹内街道と併走し、あるいは街道をつぶして合体して建設され、大阪まで続いている。これが我が国最古の官道とされる「竹内街道」を解りづらくややこしくし、歩きにくくしている原因なのです。しかし車社会の現代で、古い街道筋をそのまま残すなんてできっこなかったのでしょう。ここからはしばらくアスファルト道を、車に注意しながらひたすら西へ向かって歩きます。


詳しくはホームページ