山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

2016年初詣 熊野街道で住吉大社へ (その 4)

2016年03月12日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 天王寺公園と阿倍野界隈  


四天王寺、堀越神社から阿倍野の繁華街はすぐ。JR天王寺駅、近鉄・阿部野橋駅、近鉄百貨店が入るアベノハルカスが集中する。その足元に大阪市の天王寺公園があります。公園周囲が私の日課のウォーキングコース。歩いていると、4時半過ぎ「公園内におられますお客様にお知らせいたします。当公園はまもなく閉園いたすますので・・・」とアナウンスが聞こえてくる。都心にありながら5時閉園。とりたてて見所も無いのに有料。桜シーズンの1週間を除いてほとんど利用する人はいなかった。都心の一等地に広い敷地を占め、大阪を代表する公園というのに、公園外の歩道を歩いている人のほうが多いという惨状だった。そうした状態が数十年間放置されてきたのです。役所の怠慢・無気力・無能でしかない。
ところがやっと無能に気づいたのか、指摘されたのか、民間活力の導入によって活性化させようと目覚めたのです。管理運営事業者に近鉄が選定され、昨年(2015)10月にリニューアルオープンした。
天王寺公園全体が、年中無休・入園無料となり、一歩市民に近づいてきた。さらに公園の半分ほどが芝生広場に改造された。愛称“てんしば”と呼ばれ、子供たちが飛んだり、走ったりしている。今のところ、成功しているよです。しかし収益がでるように見えないので、近鉄さんがその維持管理にどこまで粘れるかでしょうか。
昼12時、アベノハルカス前の交差点に架かる立体歩道橋からの眺め。ここからは「あべの筋」と呼ばれ、車の通行量の多い道に入ります。この道もかっての熊野街道とされている。現在は、大阪唯一の路面電車・阪堺電軌鉄道が、ゴットンゴットンとのどかに動いている。日本一の高層ビルと下町情緒が微妙なバランスで共存しています。チンチン電車はいつまでもつんでしょうか?

あべの歩道橋からあべの筋を南下、阪神高速の高架と交わる所が阿部野交差点。ここには道標「八軒家から6.0キロメートル」の石柱が建ち、「熊野かいどう」の説明版も置かれている。
さらにあべの筋を南下すると、繁華街から離れ下町風情が強くなる。チンチン電車がとってもよくマッチしてきます。

 松虫塚(まつむしづか)  


やがてあべの筋は阪堺電車「まつむし」駅へ。車とチンチン電車の混在した騒々しい下町です。この周辺は、町名も、通りの名も、駅名も「まつむし」となっている。
「まつむし」のいわれとなった松虫塚が近くにあるということなので訪ねてみる。樹齢800年とも云われる榎の大樹の傍らに、歩道を塞ぐように石柵で囲まれた塚がある。傍の説明版「松虫塚の伝説」を見ると、松虫(いまの鈴虫)の名所だったこの地には数々の物語が伝わっているようです。能「松虫」の題材にもなっている。

 安倍晴明神社と葛の葉(くずのは)伝説  


阿倍野筋の一筋西の南に延びる道に入り、しばらく行くと平安中期に活躍した、陰陽師安倍晴明の生誕地とされる安倍晴明神社がある。祭神はもちろん安倍晴明。境内には、「安倍晴明誕生地」の石碑、「安倍晴明公 産湯井の跡」や「鎮石(孕み石)」が置かれている。
安倍晴明はあまりに有名なので、他に生誕地説が全国に数箇所あります。奈良県桜井市にある安部氏一族の氏寺となる安部文殊院(安部寺)で出生したとするのが信憑性が高く、後世この地より安部一族が大阪阿倍野に移った経緯から、阿倍野に建立されたものであるというのが有力なようです。
白狐や逆立ちしている狐の像が目に付く。狐は、安倍晴明の母についての有名な「葛の葉(くずのは)伝説」からくるものです。「葛の葉伝説」は、現代でも『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ、 通称「葛の葉」)として人形浄瑠璃文楽や歌舞伎、あるいは舞踊で広く演じられています。

約千年余りも前、摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区)の里に住んでいた安倍保名(晴明の父)は、父の代に没落した家の再興を願い、信太森葛葉稲荷に日参していた。ある日稲荷の境内で、数人の狩人に追われていた一匹の傷ついた白狐を助けてやります。その時の争いで、保名は数箇所に手傷を負ってその場に倒れてしまった。狩人たちが立ち去った後、御神木楠ノ樹の下から1人の女(葛の葉)が走り出て保名を介抱して家まで送りとどけてくれました。葛の葉が保名を見舞っているうち、いつしか二人は恋仲となり、夫婦になり童子丸(後の安倍晴明)という子供をもうけるのでした。ところが葛の葉(母親)の正体が白狐であることを5歳の童子丸に見られてしまう。その夜、葛の葉はいよいよこの家を去る時だと決心し、我が子の寝顔を打ちまもり
「コレ童子丸、今この母が申すことをしかと聞き覚えよ、我はもと人間ならず、六年前 信太の森にて、父保名どのに助けられし狐ぞや。・・・・」
と打ち明ける。そしてせめて夫への形見に一筆書き残さんと傍らの障子に、口にくわえた筆で
「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」
の一首を残して、白狐の姿と変じて信太の森へと帰ってゆくのでした。

 阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)  



安倍晴明神社から南へ50m位に阿倍王子神社がある。東側のあべの筋沿いにも鳥居が建つが、こちらの熊野街道側が正面になります。入口傍には「八軒家から7.1キロ」の道標が立つ。

境内にはいると参道両側に、柵で囲われた4本の楠の樹があり、このうち3本は神木とされている。それぞれの神木には、注連縄が張られ、神名が付けられているようです。こうした巨樹があるかどうかで、神社の雰囲気がガラッと変わってきますネ。

熊野街道九十九王子の一つで、地名から「阿倍王子(あべのおうじ)」と呼ばれ、熊野神社の分霊社である。熊野街道から入る参道中央に「安倍王子旧跡」と刻まれた石柱が立つ。八軒家浜の第一王子「窪津王子」から数えて五番目の王子だが、戦国時代の戦乱により途中の坂口、郡戸、上野の各王子が焼失し、安土桃山時代には二番目の王子となっていた。そのためか鳥居脇に「第二王子社」の石柱も建っています。大阪市内の熊野街道沿いには6つの王子社があったが、旧地に現存しているのはこの阿倍王子だけ。

 阪堺電車(チンチン電車)と宝泉寺(ほうせんじ)  


アベノハルカスから始まる阿倍野筋は、住吉大社までほぼ阪堺電車(チンチン電車)が併走している。そしてこの道筋はかっての熊野街道とほぼ同じです。
各地で邪魔者扱いされ廃止れることの多い路面電車ですが、大阪市内で唯一残る路面電車。南大阪の下町をゴトゴトガッタンと走っている、その路線名は「阪堺電車・上町線」。運営は「阪堺電気軌道株式会社(はんかいでんききどう)」だが、南海電気鉄道の完全な子会社。南大阪と堺市内をのどかに走っている。地元の人は「チン電」と呼んでいるそうです。運賃は全線210円均一。

地下鉄や私鉄の発達した現代、やはり路面電車は不利。特に堺市内は利用者が減り、廃止の動きまででた。そこでなんとか活性化させようとして考えられたのが新型車両。堺市と国の補助により導入され、2013年8月より運行開始された。愛称募集から「堺トラム」と名付けられた。「トラム」とは路面電車のこと。超低床式車両で、停留場の乗り場からの段差がほとんどない。車いすやベビーカーでも乗降しやすい仕様で、高齢者や障害者・妊婦等の交通弱者の外出支援、誰もが利用しやすい車両となっています。また、窓が大きいため、車内からの眺望が非常に優れている。庶民的な下町を走る路面電車らしくない新型車両です。

帝塚山4丁目の駅舎の東側裏筋に入り、電車通りから離れる。ここから住吉大社初詣の交通規制がなされ、車は入れません。しばらく行くと右側に「十三石仏」で有名な宝泉寺があります。正門の左側に小さな門を構えた小堂があり、覗くと丸彫りの十三石仏がお雛さんのように並んでいる。

不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勤菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・阿弥陀如来・阿門如来・大日如来・虚空蔵菩薩の十三仏で、仏さんの有名どころが勢ぞろいしています。やや窮屈そうですが。

 住吉大社(すみよしたいしゃ)  


やっと住吉大社に到着。外ののんびりした正月風景とはうって変わって、境内の中は大混雑。参道の両側には露店がひしめき、参拝者であふれかえっている。広い参道だが、その半分以上を露店が占めているので、人はその狭い隙間を往来させられている。露店が無ければ、もっとゆったりお参りできるのにと思う。神社も露天も持ちつ持たれつなので仕方ないのでしょうか。
まず、住吉大社の名物になっている反橋(太鼓橋)を渡ってお参りしようと、橋を目指すのですが、そこまで行くのが大変でした。

ようやくたどり着いた太鼓橋周辺は大混雑、なんとか横から割り込みました。
半円形の橋は半径20m、高さ3.6m、幅5.5m。思った以上に傾斜はきつく、下駄履きでは怖いでしょう。
この太鼓橋は、秀吉の側室、淀君が慶長年間(1596~1615)に寄進したもの。地上の人の国と天上の神の国とをつなぐ虹の掛け橋だそうです。夜は21時までライトアップされ、関西夜景100選にも選ばれています。
住吉大社の創建については、「日本書紀」は次のように伝えている。第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后の新羅征討時に、筒男三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)の力により征討が成功し、また叛乱、海難を無事に切り抜け大和に帰還できたという。そこで神功皇后は、皇后摂政11年に三神をこの住吉の地に祀られた。筒男三神は「住吉三神」とも呼ばれる。
記紀の神話では、伊邪那岐命 (いざなぎのみこと) が身の穢れを清めるため海に入って禊祓いした時に筒男三神が生まれたという。だから海の神様で、国家鎮護・航海安全の守り神なのです。
その後、雄略天皇の時に神功皇后自身も祀られ、四祭神となった。

太鼓橋を渡り四角の柱の鳥居を潜ると、住吉さんの社殿が鎮座するメインエリアです。奥(東側)から第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)、第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)、第三本宮:表筒男命(うはつつのおのみこと)と縦一列に並んでいる。そして第三本宮の右横に神功皇后を祀る第四本宮が配置されている。
第一本宮前で参拝を、と思ったが大混雑で社殿前まで進めない。参拝を諦め混雑から脱出する。結局、住吉大社での初詣はかなわず、人波にもまれながら境内を歩いただけで帰ることに。

太鼓橋を渡り、四つの本宮をチョコと眺めただけの住吉さんでした。あとは人に押され、人波に流され出口へ出されました。やっと人波から解放されジャンパーの前を見ると、大判焼きのアンコがベットリと付いている。首からぶら下げていたカメラの液晶、ボタンなどにもベットリ。駅のトイレに駆け込みふき取りました。
やはり初詣は、近くの閑散とした大江神社(タイガース神社)に限るようです。

詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年初詣 熊野街道で住吉大社へ (その 3)

2016年02月08日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 四天王寺(してんのうじ)  


大江神社から谷町筋を東に越えると、そこは四天王寺さんです。人通りも多くなって、やっと正月の賑わいを感じることができました。
国の重要文化財に指定されている石鳥居を潜って境内に入ります。お寺に鳥居とは珍しい組み合わせだが、これも神仏習合の名残だろうか?。その先に、「極楽浄土への入口」と信じられてきた西大門(極楽門)が見えます。
四天王寺の正式な正門は南大門ですが、交通の便などから西側の鳥居を潜り西大門(極楽門)からお参りするのが普通になっている。

甲子園球場の三倍もある広大な四天王寺さんは説明しきれないので、今回は五重塔の歴史についてだけ紹介します。
現在、五重塔は耐震改修工事中のため覆いが被され、その姿を見ることができない。その代わり、五重塔の歴史を説明したパネルが掲示されています。このパネルを借用し掲載することにしました。これによって、五重塔のみならず、四天王寺そのものの歴史を知ることができます。
現在の五重塔は、実に八代目だそうです。四天王寺の苦難の歴史とともに、そのつどよく再建され続けてきたものだと感じ入られます。








四天王寺は聖徳太子が建立した寺で(593年に造立が開始)、蘇我馬子の飛鳥寺と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものです。回廊に囲まれた内部は、南から中門(仁王門)、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれている。あの法隆寺より古いのです。ところが五重塔の歴史でもわかるように何度も火災、戦禍、災害で焼失・崩壊、そして再建を繰り返してきた。そして最終的に、先般の戦争による大阪大空襲(昭和20年、1945)でほとんど焼けてしまった。現在の伽藍の大部分が、戦後に再建されたもので、鉄筋コンクリート製となっている。伽藍は皆新しく、建造物で国宝となっているものは無いのです。

南大門を入った直ぐの正面に、平べったい大きな石が石柵で囲まれ置かれている。長さ約2m、幅約1m、地上部分の高さ約15cmだそうです。「熊野権現礼拝石(くまのごんげんらいはいせき)」と刻まれた石碑が建っています。
熊野街道沿いにある四天王寺に、熊野詣の人は必ず立ち寄った。「人々はまず当山に詣でた後、ここで熊野の方向に礼拝し、熊野までの道中安全を祈ったといわれる」。この石の上に立ち、門のはるか南方に位置している熊野に向かって手を合わせたそうです。

 竹本義太夫の墓と庚申堂  


南大門を南に出ると、広い通りを挟み南へ道が通っている。これが庚申堂参りの道「庚申街道(こうしんかいどう)」です。その角っこに超願寺という小さなお寺がある。ここの墓地の一角に竹本義太夫の墓があります。
世界遺産となっている現在の文楽(人形浄瑠璃)の元を築いたのは、節の竹本義太夫、筋の近松門左衛門といって過言ではない。そのため浄瑠璃節は義太夫節とも呼ばれています。
竹本義太夫の墓は、お堂とまではいかないが、屋根付の板囲いの中に納められ、風雨から護られている。今でも根強い文楽ファンの心遣いでしょうか。
なお、堀越神社から南に約100m位の路上に、昭和25年(1950)「財団法人人形浄瑠璃因協会」によって建立された『竹本義太夫生誕碑』が建てられています。ここ超願寺からも近くです。

超願寺を南へ数十m行けば四天王寺庚申堂(こうしんどう)です。日本の庚申信仰発祥の地といわれ、日本最古の庚申堂です。京都八坂、東京浅草と並ぶ日本三庚申堂の一つ。以前は四天王寺の末寺だったが、今は独立して『総本山四天王寺庚申堂』と称している。ここも四天王寺同様に、昭和20年(1945)の大阪大空襲により焼失している。建物は戦後の再建です。
現在のの本堂は、戦災で焼失して仮堂だったところへ千里万博の休憩所を移築したものだそうです。
本尊・青面金剛童子像が祀られているが、秘仏として厳封され、公開されていない。ご開帳は60年毎(庚申年毎、直近は昭和55年(1980))とか。
今日は閑散としているが、新年最初の初庚申日の縁日には多くの参詣者で賑わうそうです。コンニャクの炊き出しが名物。この日、北を向いてコンニャクを食べると、病気が治り願い事が叶うという。

 堀越神社  


竹本義太夫の墓や庚申堂から谷町筋を西へ越えると、熊野第一王子が祀られているという堀越神社があります。
聖徳太子が四天王寺建立と同時期に、その外護として近辺に造営したのが四天王寺七宮。大江神社や堀越神社はその一つ。堀越神社は、聖徳太子が叔父の崇峻天皇を偲んで四天王寺の南西に創建したもの。だからご祭神は、第三十二代崇峻(すしゅん)天皇。

聖徳太子の叔父・第三十二代崇峻天皇は、白昼堂々と暗殺されたのです。日本史上、はっきりと暗殺が諸文献に記録され、後世に伝えられている唯一の天皇さんです。この暗殺から古代史は大きく展開していく。暗殺の首班・蘇我氏を倒した乙巳の変・大化改新から壬申の乱へと繋がる、激動の時代の引き金ともなった。

第31代用明天皇は在位2年という短期間で崩御する(587年)。長子である聖徳太子が有力候補だったが10代の幼少だった。そこで欽明天皇の皇子で、蘇我稲目の娘を母にもつ泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が、蘇我馬子らに擁立され、第32代・崇峻天皇として皇位についた。
しかし物部氏を滅ぼし権勢を得た蘇我馬子の操り人形のような存在。邪魔になればすぐに消されてしまいます。崇峻5年(592)11月3日、蘇我馬子は東国の調を進めると偽って天皇を儀式の庭に臨席させ、東漢直駒に命じ崇峻天皇を弑殺し、その日のうちに倉梯岡陵に葬った、と記録されている。
天皇家の歴史書『日本書紀』には「馬子宿禰、群臣を詐めて曰はく、『今日、東国の調を進る。』という。乃ち東漢直駒をして、天皇を弑せまつらしむ。是の日に、天皇を倉梯岡陵に葬りまつる。」と記されている。
通常は儀式を数日行った後で葬るのだが、崩御したその日に葬ったとある。別の記録によれば、「陵地・陵戸なし」とも記されている。まさに前例のない仕打ちなのです。
若い聖徳太子は、この推移をどのように見ていたのでしょうか。その後推古天皇の摂政として、大臣の馬子と両輪となって政治を司ってきたとはいえ、複雑な気持ちだったことでしょう。大和からかけ離れた難波の地に、叔父を弔う神社を建てたのもうなずける。

崇峻天皇の皇后と皇子は、大和を脱出し東北に遁れます。その後の経過は堀越神社公式HP「崇峻天皇と皇后・皇子の物語」をどうぞ。

これは堀越神社の一角にある「熊野第一王子之宮」。八軒家浜近くの熊野街道入口にあった、熊野九十九王子の一番目の王子「窪津王子(くぼつおうじ)」は、豊臣秀吉の大坂城築城の際に移転を強いられ、四天王寺西門近くの熊野権現の分霊を祀った熊野神社に移された。さらに大正4年(1915)、窪津王子は現在地の堀越神社に合祀され「熊野第一王子之宮」として現在に至るとされています。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年初詣 熊野街道で住吉大社へ (その 2)

2016年01月25日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 郡戸王子(こうとおうじ)を探して上汐筋へ  



榎木大明神の石段を降り、長堀通りを東へ進み、広い谷町筋を越える。ここが谷六の交差点になる。この谷六の交差点の南東隅の東へ一筋目が熊野街道の続きとなっている。熊野街道は長堀通り周辺で大きく路線変更されている。実際の熊野街道はこんなことなかったでしょうが、秀吉の大阪城築城や、この前の戦争によって焼け野原になった影響でしょうか。

判りにくい場所だが、入口にはファミリーマートがあり、その脇に例の熊野街道道標が建っているので、それが目印になる。

谷町筋から一本東の筋で「上汐筋」と呼ばれている。一応この道が熊野街道の続きと推定されて、熊野街道道標がいくつも建っています。真っ直ぐ南へ歩いていると、T字路の突き当たりに。
このT字路の西が空堀商店街です。”空堀”というのは、豊臣秀吉が徳川方の攻撃を防御するため、深さ10m近くの空の外堀を掘ったことからくる。結局、家康の策略にはまり、空堀を埋めたため大阪城は攻め落とされるはめに。その名残りから、この界隈は起伏に富み小さな坂道や階段が多く、独特の雰囲気をみせている。アーケードのある空堀商店街もほとんどが坂道となっています。

突き当たりの左角に熊野街道道標「2.1km」が。ここを左に曲がり、すぐ右側に南下する緩やかな坂道があるので、その道に入る。

やがて上町中学校の校舎が見え、「2.2km」の道標がある。
緩やかな坂を上がると「楠通り」が横切っている。その角に「2.3km」の道標があります。
その楠通りの右方を見ると、道のど真ん中に楠の木が繁り、白い鳥居と小さな祠が置かれています。「楠大明神」というそうだ。やたら”大明神”が多いいですネ。交通の妨げになりそうだが、撤去できないのは何か訳がありそうです。この辺りにあったが、今は跡形もなくなった「郡戸王子(こうとおうじ)」跡では・・・?。

 近松門左衛門の墓・井原西鶴の墓  


この近辺に近松門左衛門のお墓があるという。楠大明神の向こう側は広い谷町筋です。谷町筋に出て50mほどの所のビルの谷間に挟まっていました。
細い路地の、さらに奥まった狭い場所にある。本当に窮屈そうです。直木三十五よりは、はるかに格が上だと思うんですが・・・。ただし墓所は国の指定史跡になり、面目は保っている。
もともとこの場所は法妙寺というお寺で、近松もこのお寺に葬られていた。ところが、法妙寺はこの前の戦争による大空襲で焼失してしまう。その後、法妙寺は別の場所(大東市)に再建されたが、近松の墓だけが元の場所に戻された、という事情があるようです。まるで”戦争孤児”のようですネ。
調べてみると、尼崎・広済寺にも近松門左衛門の墓があるという。どちらが本当か、争いもあったとか。そのため広済寺では墓を掘り返すことまでしたそうです。墓だけでなく、生誕地についても多くの説が入り乱れ確定していないようです。

私の持っている熊野街道図には井原西鶴(1642-1693)の墓所も載っている。熊野街道とはやや外れるが、こちらも訪れてみることに。谷町筋とは一つ東の大通り「上町筋」に面した誓願寺というお寺の墓地にありました。墓地の入口を入った突き当たり正面が井原西鶴の墓です。それほど大きくない墓石で、「仙皓西鶴」と刻まれている。戒名は「仙皓西鶴信士」。横の黒っぽい石碑には西鶴の句「鯛(たい)は花は見ぬ人もあり今日の月」が刻まれている。

 高津宮(こうづぐう、高津神社)  



熊野街道九十九王子の三番目の王子「郡戸王子(こうとおうじ)」はどこだろう?。一説には楠大明神や近松門左衛門のお墓があった近辺だというが、ハッキリしない。
Wikipediaには「現在消滅。高津宮神社(大阪市中央区高津1-1-29)が跡地とされているが確証はない。「摂津志」には高津宮の地に鎮座していた比売許曽神社が郡戸王子とされていたとの記述がある」と書かれています。
高津神社は、谷町筋をさらに西に越え、上町台地から西に台地を降りきった辺りに高津宮はあります。主祭神は仁徳天皇。
本殿西奥に比売古曽(ひめこそ)神社の社があり、その前に「郡戸王子推定地」の碑が建てられている。それ以上の説明はありません。ひときわ目立つのが「五代目桂文枝乃碑」と、植えられている梛(なぎ)の苗木。五代目桂文枝が、紀州熊野三社の神木「梛(なぎ)の葉」に熊野権現のお告げが現れる、という創作落語を演じた。またここ高津宮は文枝師匠の最後の高座となった所でもあるという。

 上野王子(うえのおうじ)はどこだ!  


次は熊野街道九十九王子の四番目の王子「上野王子(うえのおうじ)」です。上汐筋へ戻り、南へ歩く。
広い大通りが見え、遠くにアベノハルカスがはっきり見えてきました。アベノハルカスの手前に四天王寺さんがあります。かってこの熊野街道を歩く人は、四天王寺の五重塔を目印に歩を進めたことと思われます。
大通りは「千日前通り」で、東を見れば、近鉄上本町駅・近鉄百貨店・都ホテルと初代の”近鉄村”が展開する。足元には熊野街道道標「2.9km」が。西方向は、坂を下っていけば「ナンバ」の繁華街です。
上汐公園を東へ入り、上之宮台ハイツ(大阪市天王寺区上之宮町4-40)にたどり着く。この場所が、かって上野王子があった所だとされています。一段下がったマンションの入口脇に「上宮之址」と刻まれた石碑が置かれている。ただそれだけで、説明もありません。
以前ここに、四天王寺を守る「四天王寺七宮」の一つ「上之宮神社」(聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇社)が鎮座していた。そして現在は、大江神社(大阪市天王寺区夕陽丘町5-40)に合祀されているという。
九十九王子の四番目の「上野王子」はここが跡地とされているが、確かなことは判っていない。熊野街道からやや東にズレているような気がするが・・・。大江神社へ行ってみよう。

 大江神社  


大江神社は、谷町筋を西に越え、星光学院高校と「アイゼンさん」で親しまれている愛染堂の間の細路を入ればすぐ。四天王寺の鎮守である四天王寺七宮のひとつで、聖徳太子により四天王寺創建の際に建立された。かってこの坂の下まで海で、大きな入り江があったので大江神社となったそうです。
上之宮神社はこの大江神社に合祀されたという。広くない境内をいくら探してもその痕跡は見つかりません。ただ境内に掲げられた御由緒書きに、以下のようなことが書かれている。「明治40年神仏分離により本社へ合祀せられた・・・・元村社 上之宮の祭神 欽明天皇 大己貴命 少彦名命の何れをも祭神とする」
上之宮神社の御神体がここに合祀されたのは間違いないようだが、上野王子はどうなったのでしょう・・・?。不明のままです。

これは犬でも猫でもありません。虎です。本殿前は狛犬ですが、本殿西横には一対の狛虎(こまとら)が置かれている。左に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、右に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。虎は毘沙門天を護るとされ、この奥に毘沙門天を祀る堂があったようですが、現在はなくなっている(ここに縦ジマの入った虎堂が建つとか・・・初夢)。
ここは隠れた猛虎タイガースのメッカ。メガホンなど応援グッズが献上され、虎の足元には猛虎雑誌が差し込まれ、熱き思いを記した多くの願文や木札が貼り付けられている。一部虎党から「タイガース神社」とも呼ばれているらしい。
神社には狛虎のお守りも用意されているそうです。勝運、財運さらに虎威運(=恋)もあるという。
2003年、星野タイガースを優勝に導いた狛虎伝承については、現地の説明をどうぞ。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016年初詣  熊野街道で住吉大社へ (その 1)

2016年01月14日 | 街道歩き

2016年1月3日(日)、2016年初詣・初歩きは熊野街道(大阪市内)を歩いて住吉大社へ

 熊野街道(大阪市内)と九十九王子(つくも?、くじゅうく?)  


2016年初詣は二日の日に近くの大江神社で済ませた。大阪市内には初詣で有名な住吉大社がある。一度も行ったことがなかったので、今年のお出かけ第一号として翌三日(日曜日)に住吉大社へ行ってみることに。ただ行くだけではゲイがないので、いろいろ思案した結果、熊野街道を歩いて住吉大社詣でをしてみることに。その熊野街道の出発点が大阪・天満橋なのです。そこから住吉大社まで10kmほど。一日歩くのに丁度良い距離です。半曇の日曜日、年が明けてまだ三日目なので街はまだ眠っています。車が少なく歩きやすかった。

大阪・天満橋から熊野本宮大社までの「中辺路」と呼ばれる長い熊野街道の要所には、「王子」と呼ばれる遙拝所が設けられた。王子とは、熊野権現の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社のこと。人々は王子に立ち寄り、熊野権現の御子神に祈り、旅の無事を祈念しながら旅を続けたのです。同時に、参詣道中の道しるべ、休憩所としての役割も担っていた。

熊野街道の始まりとなる大阪市内の街道沿いには6ケ所の王子があったようです。
かっての熊野街道と思われる道は、現在ではビルが建ち並ぶ大阪市内の中心地です。かっての街道の形跡やその面影はほとんど残っていない。豊臣秀吉の大阪城築城とその町造りのため大きく改変され、さらに先般の大阪大空襲によって焼け野原になった大阪市内。再現はほぼ不可能と思われます。
大阪府は、古書や古絵図、町名、僅かに残る痕跡などを頼りに再現に努力されたようです。大阪府都市整備部のホームページ「歴史街道ウォーキングマップ」の中の熊野街道(天満橋駅から住吉東駅まで [PDFファイル/2.62MB])にその成果が表れています。各所に設置された熊野街道道標はこの部署が設置したものと思われる。

さらにお勧めが、京阪電車発行の「京阪沿線ウォーキングまっぷ 大阪市内編熊野街道コース」が大変役立った。八軒家船着場から住吉大社までの熊野街道の道順や、その周辺の見所が詳しく載っている。全ての熊野街道道標の位置と距離が書き込まれている優れものです。熊野街道の大阪市内の道筋は、大阪府都市整備部のものと全く同じ。府が調査した道筋をそのまま利用したものと思われます。詳細さでは京阪のマップがはるかに優れます。

京阪のマップを片手に歩くことにしました。上町台地と呼ばれるこの丘陵は、かっては何もない野原だったと思われる。その先に四天王寺の五重塔が見え、それを目印に歩いたにちがいありません。現在、熊野街道とされる御祓筋・上汐筋を歩いていると、その道筋の正面にはビルの谷間からアベノハルカスが道しるべのように覗いています。迷ったらアベノハルカスに向かって歩けばよい。

 八軒家船着場(八軒家浜、はちけんやはま)  


早朝7時50分八軒家船着場に着く。ここから住吉神社を目指して歩き始めます。写真は、現在の八軒家船着場の様子。2008年(平成20年)京阪・天満橋駅の淀川河岸に、水都大阪の再生の目玉として大阪市によって八軒家浜船着場が開設された。船着場の傍には、観光船案内所、情報発信スペース、レストランからなる「『川の駅』はちけんや」も開業し、川沿いには遊歩道も設けられている。

現在は観光船・水上バスが発着し、大阪城、中乃島、淀屋橋など大阪市内の中心部を水上から観光できるのでお勧め。特に桜の季節は、造幣局や桜之宮公園の花見も水上から満喫でき最高です。

熊野詣のため京から船で川下りし、上陸した場所が「八軒家浜(はちけんやはま)」です。江戸時代、船宿などが八軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれ、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船の船着場で、淀川舟運の要衝として栄えた場所です。江戸時代前は「渡辺津(わたなべのつ)」「窪津(くぼつ)」などと呼ばれていた。
現在、その場所に「八軒家船着場跡」の跡碑が置かれている。京阪電車天満橋の駅ビルから土佐堀通を挟んだ向かいにある永田屋昆布店の軒先です。往時はこの辺までが浜だったのでしょう。このころの八軒家浜の様子は多くの文芸・美術作品に描かれています。

 熊野街道入口と窪津王子(くぼつおうじ)  



「八軒家船着場跡」の跡碑から100mほど西へ行くと、南へ伸びる真っ直ぐな筋が見える。これが「御祓筋(おはらいすじ)」と呼ばれ、熊野街道の出発点です。土佐堀通との角に碑が建てられ「熊野かいどう」というプレートがはめ込まれている。

熊野街道入口から一筋西側の筋を入ったビルの谷間に小さな社が建ち、熊野九十九王子の一番目の王子「窪津王子(くぼつおうじ)」(「渡辺王子」とも呼ばれた)があった場所だとされている。「御祓筋」とは熊野詣の人々が窪津王子でお祓いを受け出発したことから付けられた名称のようです。その位置には現在は「坐摩(いかすり)神社行宮」が建っている。この地にあった坐摩神社は、豊臣秀吉による大阪城築城の際、別の場所(大阪市中央区久太郎町四丁目)に移転したので、現在は小さな「行宮(あんぐう、仮の宮)」だけが建っている。
それでは窪津王子の御神体はどこへ行ってしまったのでしょうか?。そこ行き先は、四天王寺近くの堀越神社だそうです。この後、立ち寄ってみます。

 釣鐘屋敷跡  



御祓筋に戻り、少し行くと北大江公園。公園から南へ一筋目を右に入ると、道路脇に大きな鐘が吊り下げられているのが目に入る。これが釣鐘屋敷の名残り。「ご自由にお取りください」と傍に置かれていたパンフを要約します。

1634年(寛永11年)7月、3代将軍徳川家光が大坂城へ入った。この時、三郷惣年寄などが厚くおもてなしを行うと、家光は深く感激し”税を永代赦免しよう”と伝えた。惣年寄、郷民らは「一同歓喜し、鬨を作って感涙したといふ」。そして惣年寄達は協議し、後世子孫まで永くこの御恩を忘れないため釣鐘をつくり町中に時刻を知らせることとしたという。
高さ:1.9m、直径:1.1m、重さ:3トン。この釣鐘屋敷の鐘は2時間おき1日12回撞かれ、市中に隅々まで響き渡ったという。近松門左衛門『曽根崎心中』最後のお初・徳兵衛の道行きの場面でも響く。”あれ数ふれば暁の七つの時が六つなりて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり”。「哀れを誘う鐘の音」として一番盛り上がる場面です。
現在はコンピュータ制御により、朝8時、12時、日没時の日3回自動的に時を知らせているそうです。ここの町名も「釣鐘町」です。

御祓筋を南へ歩く。年が明けて三日目、日曜日、街も人もまだお休み中。朝9時前、車の姿どころか人影さえ見られない。気持ちよく車道をスイスイと歩ける。デコボコした歩道に比べ、アスファルトの車道の歩き易さは格別です。

やがて中大江公園が見えてきました。公園入口には「熊野街道 大坂天満八軒家から0.5km」と刻まれた石の道標が建つ。大阪市内の熊野街道沿いには、各所にこれと同じ石の道標が建てられているので、歩く目印になります。できることなら現在地周辺の熊野街道の地図も・・・欲張りでしょうか?。

 坂口王子(さかぐちおうじ)と榎木大明神  


御祓筋ををさらに南へ行くと、右手に南大江公園が見えてくる。公園の南西奥に小さな紅い鳥居が見えます。小さな祠が置かれ、鳥居には「狸坂大明神」と書かれている。
その横に「朝日神明社跡(坂口王子伝承地)」の説明版が建てられている。ここには明治40年まで朝日神明宮という神社があっったが、現在は此花区春日出中に移っているという。

この辺りが「坂口王子の伝承地』とされています。坂口王子(さかぐちおうじ)は、熊野街道九十九王子の二番目の王子。現在は消滅し、跡地だけが印されている。御神体はどこへいったのでしょう?
公園脇には「大坂天満八軒家から1.3km」の熊野街道道標がある。「熊野かいどう」のプレートは、熊野街道入口にあったものと同じ内容でした。
南大江公園から100mほど行けば、道幅が細くなり階段の坂道になる。車はここで行き止まりになっています。御祓筋はここで終りなのでしょうか?。
石段坂道の脇には大樹が繁り、下に「榎木大明神」の紅い祠が建っている。ご神体は白蛇(通称辰巳さん)という。ここが坂口王子跡だという説もあるが。
樹木は大明神の名前にも使われているように榎木だと思われてきた。ところが昭和63年(1988)の検診で、中国から伝わった樹齢約650年の槐木(えんじゅ)だということが判った。それでも地元では「エノキさん」として親しまれているそうです。パワースポットとして人気を呼び、映画「プリンセストヨトミ」やNHK連続テレビ小説「てっぱん」のロケ地にもなったそうです。

石段を下れば長堀通りです。熊野街道は長堀通りを左に曲がるのですが、長堀通り越えた一筋目を左に入った所に直木三十五記念館があります。ちょっと寄り道してみます。


公園(桃園公園)の横に、白壁のしゃれた建物が建ち、黒地に白で「直木三十五記念館」と書き込まれた看板が見える。入口には案内も何もないので、入っていいのか戸惑う。階段を二階へ上がるが、狭くすぐ行き止まり。どこが記念館なのか戸惑っていると、若人が顔をだし教えてくれた。直ぐ横の、喫茶店か居酒屋風の小さなドアでした。なお200円請求されます。
内部は薄暗い10畳位の一室で、数多くの写真や書籍、直筆の手紙などの資料が展示されている。それほど直木三十五に興味がある訳ではないので、そこそこで退散しました。出口上部に掲げられていた”・・・ 貧乏は長し”だけが印象に残った記念館でした。

直木三十五(1891-1934)は大阪市南区内安堂寺町に生まれ、この記念館の隣にあった桃園小学校(中央小学校に統合され、現在は桃園公園に)通っていた。本名は「植村宗一」。直木は「植」を分割したもの。「三十五」は、まさか”さんじゅうご”とは読まないだろう、と思っていたらまさかでした。かなりの奇人・変人だったらしく、病気や借金を抱え、無頼で破天荒な人生を走り続け、そして四三歳という若さでその生涯を閉じている。翌年、友人の菊池寛が「直木三十五賞」を設け、現在までその名が伝わっている。この直木賞がなかったら、とっくに忘れられた小説家で終わっていたのかも。

詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 6)

2015年09月26日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 ヒシアゲ古墳(第16代仁徳天皇皇后の磐之媛陵)  



市庭古墳(平城天皇陵)から東へ進むと大きな水上池に出会う。水上池の周囲には遊歩道やサイクリングロードなどが整備され、快適なレクレーション・憩いの場となっています。この時期、赤いツツジが咲き並び、出迎えてくれているようです。穏やかな池面越しに美しく眺められる緑の丘は、お墓だとは想像もできない。これから目指すヒシアゲ古墳(磐之媛陵)やコナベ古墳の遠景です。
全長219m、後円部径124m、後円部高さ16.2m、前方部幅145m、前方部高さ13.6m、前方部を南向きにした三段築成の前方後円墳で、全国第23位の規模。築造時期は5世紀中葉~後半と思われる。

宮内庁により「平城坂上陵(ならのさかのえのみささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命陵(いわのひめのみことのみささぎ)に治定されている。
磐之媛は、5世紀に活躍した葛城襲津彦の娘で、天皇家との連携を強めるために仁徳天皇に嫁がされた。皇族以外から皇后となった初めての女性です。磐之媛が生んだ子供は、長男が父の跡をついだ第17代履中天皇、三男が第18代反正天皇、四男が第19代允恭天皇となる。三人もの天皇の母というのは他に例をみない。こうして葛城氏は天皇の外戚として権勢をもつようになった。

磐之媛は気性が激しく嫉妬深かった、として知られている。夫・仁徳帝が磐之媛の留守中に別の皇女を宮中に入れたことに激怒し、難波宮に帰らず山城の筒城宮(つづきのみや、現在の京都府京田辺市)に籠もってしまい、それきり夫の元に戻らなかったったという。天皇のいさめも聞き入れずに、その地で余生を送り、仁徳天皇35年夏6月に亡くなった。『日本書紀』に、二年後に奈良山に葬ったと、と記されている。
”奈良山”というだけで、この古墳を磐之媛命陵とするには無理がある。磐之媛命陵に比定されたのは明治に入ってからだが、それまでは若草山の上にある鶯陵が磐之媛命陵とされていたそうです。
それにしても夫・仁徳天皇や、天皇(履中・反正・允恭)となった三人の子供は、河内の堺や藤井寺に陵墓が治定されているのに、磐之媛だけが遠く離れた奈良の佐紀丘陵にひっそりと葬られているとは。夫のいる難波京に戻らなかった仕打ちか、それともこの丘陵なら、磐之媛が生まれ育った故郷・葛城の地がよく見通せるからとの温情からか。

神功皇后(仲哀天皇妃)、日葉酢媛(垂仁天皇妃)、そして磐之媛、夫の陵墓とは遠く離れた佐紀丘陵にそろって眠っているのには、何か意味があるんでしょうか?。

正面遥拝所の前は外濠で、紫色の美しい杜若(カキツバタ)が咲き乱れていました。その外濠に沿って東西に真っ直ぐ伸びる松並木の道が通っています。佐保・佐紀路で一番印象に残る道でした。

 コナベ古墳(小奈辺古墳)  


ヒシアゲ古墳(磐之媛陵)南側の美しい松並木の道を東に進み、突き当りを南へ歩く。この辺りは民家も少なく緑に覆われ、癒しの空間になっている。この周辺は歴史的風土特別保存地区に指定され、生産や住環境の変更などに許可が必要で罰則もある。たまにやって来るよそ者にとっては快適な環境だが、そこに住んでおられる地元の人はどんな気持ちなのでしょうか。

周濠に囲まれたコナベ古墳(小奈辺古墳)が見えてきました。全長204m、後円部径125m、後円部高さ20m、前方部幅129m、前方部高さ17.5m、前方部を南方向に向けた三段築成の前方後円墳で、全国31番目の規模。築造は5世紀前半とされる。宮内庁は「小奈辺陵墓参考地」として管理しいます。まだハッキリしないが、皇族関係の人が葬られているらしい、とのことだろう。元正天皇とか、仁徳天皇の先の皇后イワノとかが推定されるそうです。

 ウワナベ古墳(宇和奈辺古墳)  


緑豊かな歴史の道を東へ歩いていると、癒しの空間に突如現れた異様な風景。守衛兵が立ち、物々しい警護の雰囲気。ここは航空自衛隊奈良基地で、この門は「航空自衛隊幹部候補生学校」の入口だった。説明版があり、1957年(昭和32年)山口県の防府基地から、ここ旧法華寺領内に移転されてきたという。

よりによって古都・奈良の風光明媚な丘陵の、それもあの名刹・法華寺領内に移って来なくてもよいのに。この周辺は歴史的風土特別保存地区なのです。保存地区指定の地図をよく見ると、基地の部分だけポッカリと穴が開いたように外されている。神功皇后(仲哀天皇妃)、日葉酢媛(垂仁天皇妃)、磐之媛(仁徳天皇妃)の御霊を御守りするためなのでしょうか・・・。
自衛隊基地を越えると、また歴史的風土特別保存地区になり癒される景観が戻ってくる。目の前に満々と水をたたえた大きな周濠が広がる。周濠としては今まで見てきた中では最大です。池の奥には、緑に覆われこんもりとした島が浮かぶ。これがウワナベ古墳(宇和奈辺古墳)で、主全長256m、後円部径129m、後円部高さ20m、前方部幅127m、前方部高さ20mの前方後円墳。全国でも13番めの大きさを誇る。多数の埴輪が見つかり、それから5世紀中頃~後半の築造とされている。

現在は、宮内庁の「宇和奈辺陵墓参考地」として抱き込み管理され、立ち入り調査さえできない。だから誰が眠っているのかさえ判らない。不確かなものに税金が・・・。
「コナベ・ウワナベ」は、現在地区名になっているが、古語でそれぞれ前妻・後妻の意味だそうで、大王の配偶者の可能性を示しているという。規模の大きさから仁徳天皇の皇后あるいはその皇子ではないかとの見方もある。

 元正天皇 奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)  


佐紀盾列古墳群はウワナベ古墳で終りですが、さらに東の佐保丘陵にも奈良時代の天皇陵が有ります。ついでなので訪ねて見ることにした。
県道44号線を北上すると「奈良ドリームランド」跡地への入口が見えます。佐保丘陵一角の広大な敷地に、かって「ディズニーランド」があったのです。新宿歌舞伎座・大阪新歌舞伎座を経営していた興行師・松尾國三が、アメリカのディズニーランドを見て感激し、ディズニーの技術協力を得ながらそっくりな遊園地をここに作った(1961年)。東京ディズニーランド開園の20年前です。しかしディズニー側とこじれ、”ディズニーランド”の名称をもらえず「奈良ドリームランド」となった。その後、東京ディズニーランド(1983年)、USJ(2001年)の開園などで入場者激減し、2006年廃園に追い込まれる。現在跡地の再開発もままならず、ディズニーランドそっくりな遊戯施設を残したまま廃墟となっているそうです。2004年には同じ奈良市にあった近鉄あやめ池遊園地も閉鎖となっている。戦後復興期の夢の夢跡・・・、当時のキャッチコピーが”奈良の夢の国”だったとか。やはり奈良は「古都」にかけるべきでしょう。
廃墟入口を越えると、県道は下り道になる。地図によれば元明・元正の天皇陵は下った辺りだ。周辺にはそれらしき小山が幾つか見える。探しても標識も案内も無いのです。ウロウロしていると、左側(西側)に陵墓の垣根の一部がチラッと見えた。左側の道を入ると元正天皇陵はすぐだった。宮内庁の公式陵名は「元正天皇 奈保山西陵(なほやまのにしのみささぎ)」。
元正天皇(680~748、在位715~724)は、草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)と阿閇皇女(元明天皇)の長女として生まれ、「氷高皇女(ひたかのみこ)」と呼ばれた。何故か結婚暦は無く、生涯独身だった。霊亀元年(715年)36歳の時、母・元明天皇から「次の天皇はあなたよ」と指名され、第44代元正天皇として即位する。5人目の女帝ですが、独身のまま即位した初めての女性天皇です。9年間の在任期間を大過なく務め、神亀元年(724年)皇太子・首皇子(兄・文武天皇の子)に譲位し、第45代聖武天皇として即位さす。退位後も後見人としての立場で病気がちな聖武天皇を補佐した。
天平20年(748年)4月平城宮寝殿で69歳の生涯を終えた。佐保山陵で火葬され、奈保山西陵に改葬されたという。永井路子さんの小説『美貌の女帝』の主人公。生涯独身で過ごされた女性天皇、その美しさが災いしたのでしょうか?。

 元明天皇 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)  


県道44号線を挟んだ元正天皇陵と反対側の山が元明天皇陵のはず。入口を探すが見つからない。県道の東側に一風変わった道が奥へ真っ直ぐ伸びている。幅の広さといい、雑草が生え直進しているこたから、生活路とか山道とは考えられない。100mほど直進し石垣で行き止まり。右側へ回り込む道を造ろうとした形跡がみられる。天皇陵への道を造ろうとしたのでしょうか?、不思議な道です。何も無いので引き返す。それでは元明天皇陵は一体どこだ!。
不思議な道の数十m南側にコンクリート道が山側に回りこんでいる。なにか手がかりがないかと、200mほど進んでみると拝所が見えてきました。宮内庁の公式陵名は「元明天皇 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)」。
第43代元明天皇(661~721 ,在位707~715)は、天智天皇の第四皇女で「阿閇皇女(あへのひめみこ)」と呼ばれた。母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。19才(679年)の時、壬申の乱に勝利した天武・持統両天皇の子息である草壁皇子(甥であり従兄弟でもある)に嫁ぎ、軽皇子(かるのみこ、後の文武天皇)や氷高皇女(ひたかのみこ,後の元正天皇)をもうける。
持統11年(697年)、持統天皇の後を受け、息子・軽皇子が文武天皇として即位する。しかし慶雲4年(707年)、文武天皇は病に倒れ、25才という若さで崩御。文武天皇には後継ぎとして首皇子(後の聖武天皇)がいたが、まだ7才と幼かったため、中継ぎとして文武天皇の母が第43代元明天皇として即位することになった。息子の後を47歳の母親が継ぐという異例さで、皇后を経ないで即位した初めての女帝です。女性ながら平城京(奈良時代)の初代天皇さんです。
霊亀元年(715年)、55歳になった元明天皇は自身の老いを理由に譲位することとなり、孫の首皇子はまだ14歳と若かったため、娘の氷高皇女を第44代元正天皇として即位さす。息子(文武天皇)から受け継いだ母が、今度は自分の娘へ譲位する、という日本の歴史上例を見ない継承劇が行われた。養老5年(721年)61歳で崩御する。

平成22年(2010)「平城京遷都1300年祭」で天皇皇后両陛下が奈良に来られた時、平城遷都した奈良時代最初の天皇という事でこの元明天皇陵に御参拝されたそうです。
県道44号線から真横に真っ直ぐに造られているあの不思議な道は、もしかしたら天皇皇后両陛下の参拝用に造られたのかも?。正面拝所の道を挟んだ反対側は、一段と高くなった丘で多くの民家が建ち並んでいる。ちょうど拝所を見下ろす位置になる。両陛下を見下ろされたら困るということで、横からの道を・・・。これも宮内庁の細やかな御配慮なのでしょうか?
県道を挟み東西に、母娘は仲良く並んで眠っています。それにしても何故、案内標識ぐらいは設けないのだろうか?。

 第45代聖武天皇・光明皇后 御陵  



次は聖武天皇ご夫婦の陵墓を訪ねます。
東大寺の転害門から一条通りを約400mほど歩けば、佐保川と斜めに交差した「法蓮橋」が架かっている。法蓮橋を西に渡りきると、山側に玉砂利を敷き詰めた真っ直ぐな参道が伸びている。この奥に聖武天皇ご夫婦の陵墓があります。真っ直ぐ進めば聖武天皇の南陵に突き当たる。宮内庁の公式陵名は「聖武天皇 佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)」。考古学名は「法蓮北畑古墳」。

聖武天皇陵へ直進する参道の中ほどで、右へ折れる道が分かれている。この道が光明皇后の東陵へ至る参道となっています。距離にして200mほど。民家裏の山際の、今にも崩れかけそうな斜面に拝所が設けられている。
陵墓入口にある宮内庁の建てた制札板には「聖武天皇皇后 天平応真仁正皇太后 佐保山東陵」と書かれている。これが正式な尊号のようです。「光明皇后」というのは後世に名付けられた名称で、当時は「安宿媛(あすかべひめ)」、740年頃からは「光明子(こうみょうし)」と名のるようになったという。
安宿媛は藤原不比等の第三女として生まれ,16歳で首皇子(おびとのみこ、文武天皇の第一皇子、後の聖武天皇)の妃となった。第45代聖武天皇の時代は自然災害・疫病・反乱といった社会不安に見舞われ、天皇はしだいに仏教に依拠しようとします。諸国に国分寺・国分尼寺を建てたり、東大寺盧舎那大仏像の建立もすすめた。光明皇后もそうした夫を励まし、自らも仏教の慈愛の精神から慈善事業に取り組む。貧困者や孤児などを収容する悲田院(ひでんいん)や、薬草を集め貧しい病人に薬を与える療養所・施薬院(せやくいん)といった施設を建てた。天平勝宝8年(756)、夫の聖武太上天皇が崩ずると、天皇の遺品を「身近にあると思い出して悲しいから」と東大寺に献納した。これが正倉院の始まりといわれる。

天平宝字4年(760年)、病を得て崩御。夫・聖武天皇陵の脇の佐保山東陵に葬られた。情熱を傾けた東大寺も真近で良く見える場所です。しかし、中世にこの佐保丘陵に多聞城という城が築かれ、陵墓は破壊され城郭の一部に利用されたようです。そのため正確な陵墓の位置はわからなくなった、といわれる。確かに佐保山南陵を見れば、とりあえずこの山際に造ったという感じがします。

 5月3日、聖武天皇・山陵祭(さんりょうさい)  


東大寺や盧舎那大仏像の生みの親は第45代聖武天皇です。その聖武天皇は天平勝宝8年(756)5月2日、56歳で崩御された。同19日、佐保山陵に葬られたとされる。
毎年5月2日、命日法要「聖武天皇祭」が東大寺で行われる。毎年ゴールデンウィークと重なり、多くの観光客や参拝者で賑わいます。日ごろは公開されていない天皇殿を見学できたり、式衆・稚児などによる練り行列などが行われる。
翌3日は「山陵祭(さんりょうさい)」が行われる。山陵祭とは、東大寺の住職(別当)・僧侶さん達が、聖武天皇が眠っておられる佐保山御陵へお参りし、陵前で追善法要を行うことです。
午前8時半、大仏殿廻廊の西側にある一番北側の門から出発し、行列をつくり徒歩で佐保山御陵へ向かわれます。白の法衣をまとった僧侶さん達が一列に整然と並び、厳かに無言で歩いてゆかれます。宮内庁の衛士に先導され、大仏池の横を通り正倉院前から広い参道を転害門(てがいもん)へ向かう。転害門は、通常は柵止めされ通り抜けできないが、この日だけは柵が取り払われる。一般人もこの日だけは通り抜け御免と思い通ろうとしたら、厳しい顔で制止されました。東大寺の僧侶と関係者しか通れないようです。お寺に注連縄とは不思議ですが、これは境内にある手向山八幡宮の祭礼(転害会)のためのもので、4年に1回新調されるそうです。
転害門を出た一行は、真っ直ぐ西に伸びた「一条通り」を300mほど進み、法蓮橋から佐保山御陵へ入っていかれる。宮内庁先導のもと、住職、僧侶、関係者一同が一列になって黙々と陵前の階段を登って行かれる。

聖武天皇(しょうむてんのう、701~756、在位 724~749)は文武天皇の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子。「首皇子(おびとのみこ)」と呼ばれた。霊亀2年(716)16歳の時、藤原不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ,後の光明皇后)と結婚。母と妻が共に藤原不比等の娘であるという奇妙な関係になる。こうして藤原氏は天皇家に食い込んでいった。神亀元年(724)元正天皇より譲位され24歳で即位し、第45代聖武天皇に。
翌年(725年)平城京のある奈良周辺で大地震が発生。聖武天皇の治世中に地震・干ばつ・飢饉などの自然災害が相次ぎ、または疫病の流行で高級貴族や高官など多数が死亡する。待望の長子が誕生するが生後1年で夭折してしまう。その上、長屋王の変や藤原広嗣の乱などの政変が起こる。
天災や世情の混乱は天皇に人徳が無いからだとみなされた。精神的に追い詰められた天皇は、「呪われた都」から遁れるように、伊勢や美濃、近江などへ行幸を繰り返す。ついには奈良の平城京から恭仁京(現・京都府加茂町)→紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市)→難波宮、さらに紫香楽宮へと遷都を繰り返した。その間も、天災は容赦なく各地で頻発していた。
最後は仏の慈悲にすがるしかなかったようです。鎮護国家のため、諸国に国分寺・国分尼寺の建立を勧め(741年)、天平15年(743年)には東大寺盧舎那大仏像の建立の詔を出している。
天平17年(745年)再び平城京へ戻り、盧舎那大仏像の鋳造を始める。天平21年(749年)、娘の阿倍内親王へ譲位し第46代孝謙天皇とし、自らは東大寺造立に専念するようになる。そして、天平勝宝4年(752年)4月9日に盧舎那大仏像が完成し、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明皇太后らは東大寺へ行幸して、開眼供養を盛大に催した。その4年後の天平勝宝8年(756年)56歳の生涯を閉じ、東大寺に近いここ佐保山南陵に葬られました。

厳粛な雰囲気の中、陵前では長い読経が続いています。もう少しお参りや見物の人達がいるのかと思っていたが、それ程でもない。毎年の年中行事なので、もう珍しくもないのでしょうネ。この後一行は、すぐ右側の佐保山東陵に移動し、光明皇后さまの冥福もお祈りする法要が行われるそうです。

ここ佐保山御陵での法要が終わると、一行は再び東大寺に戻って午前11時より裏千家による献茶式が大仏殿内正面宝前で行われるそうです。その時、大仏殿東回廊で一般の人に抹茶がふるまわれるとか。
30分ほど見学していたが、終わりそうもないので、次の予定地・平城宮跡へ向かいました。



詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 5)

2015年09月15日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)  



平城宮跡の北側、佐紀丘陵と呼ばれる低い丘陵地帯の南斜面に全長200m級の巨大古墳が並んでいる。西の神功皇后陵から東のウワナベ古墳まで、17基(全長200m超8基を含む)の前方後円墳、方墳19基、円墳25基から成る日本でも有数の古墳群で「佐紀盾列古墳群」と名付けられている。各古墳の周濠の形が盾(楯)の形をしており、ずらっとたくさん並んでいることから「盾列」と呼ばれるようになったという。

ところで「盾列」をどう読むか?。”たてなみ”が一般的なようで、Wikipediaでも「佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)」とある。ところが宮内庁HPの「「狹城盾列池後陵」では”たたなみ”となっている。日本書紀に、成務天皇を「倭の狭城盾列陵に葬った」とし、注に「盾列は多多那美と読む」と記されているそうです。ネットを見れば、両方が入り乱れてようで、結局どっちでも良いのでしょう。なお、奈良県立橿原考古学研究所では、古代由来の地名だけの「佐紀古墳群」としているようだ。しかし、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館のページには「奈良盆地北部に展開する佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群(佐紀古墳群)」と記されています。

 神功皇后陵(狭城楯列池上陵、五社神古墳)  


近鉄・奈良線の大和西大寺駅で近鉄・京都線に乗り換えると、最初の駅が「平城駅」です。平城駅で電車を降り踏み切りを渡り、坂道を北へ上る。やがて車道脇に陵募の表示板と石段が現れる。石段から石畳に変わり、だんだんと神聖な陵墓の雰囲気に変わってくる。
考古学的には「五社神古墳(ごさしこふん)」と呼ばれる。丘陵先端を切断して造られた南向きの前方後円墳で、全長約275m・後円部径約195m、後円部高さ23m、前方部幅155m、前方部高さ27m、後円部4段、前方部3段の築成。佐紀盾列古墳群の中では最大の古墳で、全国でも12番目の大きさを誇る。後円部背後を除いて、満々と水をたたえた周濠で囲われています。
築造時期は古墳時代前期後半(4世紀後半~5世紀初頭)を想定。2003年の宮内庁の調査で、壺形埴輪、円筒埴輪が見つかっている。埋葬施設は不明だが、幕末の盗掘事件捜査記録から、石棺があったという。

五社神古墳は現在、宮内庁により神功皇后の「狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)」に治定されています。かって神功皇后の陵墓は、現在の成務天皇陵やその横の佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)と混同されてきたが、文久3年(1863年)に五社神古墳が治定され現在にいたっている。
この神功皇后陵は、日本考古学協会などの長年の要請に応じ、宮内庁が初めて陵墓立ち入り観察を特例として認めた陵墓です。2008年2月22日代表16人が入り、墳丘すそ部の1段目だけを目視調査させてもらったのです。こんなので何の成果も得られるはずはない。宮内庁が立ち入りを認めた、というだけでビッグニュースになるほど。宮内庁は陵墓について「御霊(みたま)の安寧と静謐(せいひつ)を守るため」などとして学術調査を、いや立ち入ることさえ認めていない。調査できないので誰の御霊か、9割の陵墓がはっきりしないという。これでは、どこかの古墳群のように世界遺産登録を目指すなど、もってのほかではないでしょうか。

神功皇后は急死した夫・第十四代仲哀天皇に代わり、大和の磐余に若桜の宮を営み69年間摂政として政務を執り、101歳で亡くなったという。記紀にその伝記が詳しく記されているが、非常に伝説的な人物で、現在は実在説と非実在説が並存しているそうです。記紀によれば、自ら男装して軍船を整え、筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国に遠征した。その時、身籠って(後の応神天皇)いたが、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
こうした事跡から、江戸時代までは第15代天皇として数えられていたが、大正15年(1926)の詔書により、歴代天皇から外された。

ところで、夫(仲哀天皇)は岡ミサンザイ古墳(大阪府・藤井寺市)に、息子(応神天皇)は誉田御廟山古墳(大阪府・羽曳野市)に葬られているとされているが、何故、神功皇后だけが奈良盆地なのでしょうか?。しかも夫の天皇より大きな墳墓に。

 称徳(孝謙)天皇陵古墳(佐紀高塚古墳(さきたかつか))  


五社神古墳(神功皇后陵)から近鉄京都線を越え、さらに南下すると3つの巨大古墳が寄り添っている。佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)、佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)です。

車道を南へ歩いていると、左側(東方向)に見えてくるのが佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)。車道から100mほど離れているが畑越しに天皇陵の拝所を現す鳥居・玉垣・番小屋・制札がはっきりと見えます。

考古学的には「佐紀高塚古墳(さきたかつか)」と呼ばれる3段築成の前方後円墳。全長127m、後円部径84m、後円部高さ18m、前方部幅70m、前方部高さ14.8mで、前方部が南向きの多い佐紀盾列古墳群の中で珍しく西向きに築造されている。
この古墳は現在、公式陵名「称徳天皇 高野陵(たかののみささぎ)」と呼ばれ宮内庁が管理しています。
この天皇は聖武天皇の第2皇女で、母は光明皇后。32歳の時、聖武天皇から譲位され,第43代孝謙天皇として即位。一度退位し淳仁天皇に譲るが、再び復権し第45代称徳天皇として重祚する。
二度も天皇になった女帝で、生涯独身を貫き、お坊さん弓削道鏡との色恋を噂され、後世に「淫乱な女帝」として小説の好材料を残してくれた。そういう意味では稀有な天皇さんで親しみをもてるが、その年譜の流れをみると波乱に満ちた人生(718~770)だったようです。

佐紀高塚古墳は、埴輪の存在が確認され、それから考古学的に4世紀後半~5世紀前半の築造とされている。それなのに何故奈良時代の天皇の陵墓とされているのでしょうか?。すでにあった昔の墓に埋葬したのでしょうか?。天皇ですから、そんなことはあり得ないと思うが。
幕末の文久3年(1868)に、それまで高塚と呼ばれていたこの古墳を修復して、称徳天皇陵に治定したという。それを現在の宮内庁も意固地に守っている。現在では、西大寺の西方にある「高塚」の地を称徳(孝謙)陵とすべきだ、という説が有力なようですが。宮内庁管理の天皇陵なんて、実際に誰が眠っているのか不確かなものがほとんどだそうです。不確かなものを確かなものにしようとする努力さえしない・・・。

 佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん、成務天皇陵)  


佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)から車道を北へ少し戻ると、右側(東方)に階段が見えます。標識も、案内板も何も立っていないので、地元の人に尋ねなけれこの奥に天皇陵があるなどわかりようがない。
「佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)」と呼ばれ、全長218.5メートル、後円部の径132メートル、高さ19メートル、前方部は幅121メートル、高さ16のメートル規模をもち、全国で25番目の大きさの前方後円墳です。墳丘は三段築成で、葺石が多用されているために石塚山古墳の名がある。築造年代は4世紀後半~5世紀前半と推定される。
数度の盗掘の記録から、後円部に竪穴式石室があり、その中に長持形石棺が納められ、副葬品として剣・玉・鏡があったことがわかっている。また1995年には柵形埴輪、 楕円筒埴輪、 小形円筒埴輪、 家形埴輪が出土している。
宮内庁は「狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)」の名称で第13代成務天皇の陵墓に治定している。しかし成務天皇が実在したかどうかさえ疑問が生じている。あの有名な日本武尊(やまとたける)は異母兄だが、こちらも非常に伝説的な人物です。

 佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん、日葉酢媛陵)  


佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)から東側へ遊歩道が設けられ、美しい池に出会う。これは佐紀陵山古墳の周濠で、穏やかな水面と周囲の緑の木々が映え、一服するのに良い場所です。周辺は快適に散策できるように歴史の道として整備されている。
この古墳は、全長207メートル、前方部幅約87メートル、後円部径131メートル、前方部高さ12.3メートル、後円部高さ約20メートルの規模の三段に築成された前方後円墳で、全国31位の規模。古墳時代・前期4世紀後半~5世紀前半の築造とされる。
後円部墳頂には、平たく割った石を小口積みにした石垣を矩形状に囲み、その内側に土を詰めた壇が造られていた。そこからは高さ1.5m、幅2mの大型の衣笠形埴輪、盾形埴輪、家型埴輪が見つかっている。土壇の下には長さ8m、幅1.1m、高さ1.5mの大きな竪穴式石室が設けられ、内行花文鏡などの大型方製銅鏡、腕輪型石製品などが出土している。
佐紀陵山古墳は宮内庁により「狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の陵墓に治定されている。
地元では、幕末まで神功皇后陵と考えられていた。神功皇后の神話から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していたという。後円部の墳頂に安産祈願の神社が設けられ、そこへの参道や妊婦の腰に当てたという白い石も置かれていたそうです。しかし明治の初め(1875年)日葉酢媛命陵に治定替えされ、現在にいたっている。

日葉酢媛については有名な埴輪起源伝説が残る。
垂仁天皇の叔父・倭彦命が亡くなった時、従来の習慣に従い近習の者たちを生きたまま墓の周りに埋めた。しかし、数日経っても地中から彼らの泣き声が聞こえ、死んで腐っていくと犬や鳥が集まってその肉を食べた。そうした様子に心を痛めた天皇は、殉死に代わる方法を群臣に問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴土(はにつち)で人や馬などいろいろな物を形造って陵墓に立てたらどうかと進言。垂仁天皇はその進言を取り入れ、日葉酢媛が亡くなった時、野見宿禰に埴輪を造るように命じる。宿禰は出身地の出雲(島根県)から百人の土師器(はじき)職人を呼び寄せ、埴土で造った人・馬などを埋めたという。これが埴輪に起源とされる。この功により、野見宿禰は土師連を賜り、以後土師連が天皇の喪葬を司るようになったという。
佐紀陵山古墳から大型埴輪が出土しているが、考古学的には最古のものではないようです。

 佐紀瓢箪山古墳・塩塚古墳  


佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵)から東へ溜池風の池を越え、住宅と雑木林の混在した細道を北へ少し登っていくと佐紀瓢箪山古墳(さきひょうたんやまこふん)に出会う。史跡を示す石柱と案内板が立てられているのですぐ判ります。
この古墳は、全長96m、後円部径60m、高さ10m、前方部幅45m、高さ7mの南向き前方後円墳。4世紀末~5世紀初頭の古墳でないかと推定されています。

昭和46年(1971)に国の史跡に指定された。県によって環境整備され、周辺は緑豊かで住民の散策路、ウォーキング道となっている。佐紀盾列古墳群では、ほとんどの古墳が墳丘内に立ち入れないが、ここだけは例外です。墳丘周囲を一周する散策路を歩きながら、途中で墳丘上に登ってみる。それほど高くないのですぐ登れます。墳丘頂上は切り開かれ、きれいに刈り込まれた広場になっており、古墳を示すものは何もありませんでした。

瓢箪山古墳から北へ400mほど進むと、開けた田畑の中にこんもりとした森が見える。これが「塩塚古墳(しおづかこふん)」です。後円部に向かう細道があるので、進むと行き止まりになっている。古墳周囲には金網柵が設けられ入れない。柵内に標識と案内板が立てられていた。
全長105mの中形の前方後円墳。周濠は前方部にはなく、後円部の周りにのみ見られる。 後円部中央に主軸にそい長さ6.3m、幅0.65mの木棺を収めた粘土槨があり、棺内には剣・刀子・斧・鎌などの鉄製品が残されていた。5世紀前半から中頃の築造と思われる。
何度か古墳を削平する開発計画があったが、国の史跡に指定され(1975年)、その後奈良県により買い上げられて環境整備が行なわれたそうです。

 市庭古墳(いちにわこふん、平城天皇・揚梅陵)  


塩塚古墳から平城宮跡に向かって真っ直ぐ南下します。平城宮跡の近くまで来ると、平城宮跡の真裏に、民家に囲まれたこんもりとした森が見えます。これが市庭古墳(いちにわこふん、平城天皇陵)です。

現在は直径100mほどの円墳となっているが、元々は全長250m、後円部径147m,前方部幅100mもある巨大な前方後円墳で、前方部を南に向けていた。全国でも14番目の大きさだった。築造年代は5世紀前半で、出土遺物として円筒埴輪、 ほかに朝顔形・盾形・家形、 囲形埴輪の存在が知られている。
平城宮造営のために濠は埋められ前方部が削りとられ、現在のように後円部だけが残されたことが最近の発掘調査で明らかになった。平城宮建設という国家的事業にとって、巨大だが誰の墓かわからないような墳丘は邪魔になったのでしょう。棺が埋葬されていると想像される後円部だけを残して、前方部は全て取り崩して更地にし、内裏関連施設とされている。発掘調査によると、内裏や第二次大極殿跡の場所にも「神明野(しめの)古墳」が存在したという。全長114mの前方後円墳だったが、墳丘は完全に削られ跡形も無い。
市庭古墳は、宮内庁によって公式陵名「平城天皇 揚梅陵(やまもものみささぎ)」として管理されている。5世紀に築造された前方後円墳が、なぜ前方後円墳など造営されなくなった平安時代の天皇のお墓とされるのでしょうか?、不思議です。
第51代平城天皇(へいぜいてんのう、774-824)は桓武天皇の長子として生まれ、延暦17年(798)藤原家から妃を迎えるが、後見役としてやって来た妃の母親・藤原薬子(ふじわらのくすこ)のほうが気に入り、醜聞を招いてしまう。後に藤原薬子と共に平城京復活を目指すが負け、出家し現在の不退寺に草庵を結んで余生を送ったという。これを「薬子の変(くすこのへん、弘仁元年(810))」と呼ぶ。
平安京(京都)の天皇だが、最後まで平城京に深い愛着を抱き反乱まで起こした。そして遺骸は、平城宮真裏にタンコブのように残されている誰かのお墓を利用して追墓された。そう考えるしかないようです。天皇には惨いようですが、謀反をおこした天皇なのだから止むを得ないのでしょうか・・・(それとも宮内庁の治定そのものが???)。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 4)

2015年08月25日 | 街道歩き

 近鉄電車と平城宮跡  



私は近鉄電車で奈良公園へ時々ウォーキング(遊び?)に行きます。奈良の街に入る手前に、広~い空き地が広がっているのは目にしていたが、これが平城宮跡とは知らなかった。数年前、この空き地の奥に、宮殿らしき建物が現れ、やっとここが平城宮跡だということを知りました。そして2010年平城京天平祭の時に、初めて宮跡内を歩いた。一番の印象は、歩いても歩いても端にたどり着かない”広すぎダァ~”だった。今は、電車の車窓から広場と大極殿の建物が見えてくると、やっと奈良に着いたゾ!という気分にさせてくれます。
ところが、平城宮跡内を私鉄が横切るのに異を唱える人がでてくる。2007年の奈良県知事選で、宮跡内の線路の地下化推進を公約に掲げた知事が当選された。国土交通省も、近鉄奈良線の移設・地下化を検討しているという。平城宮跡の両側の駅(大和西大寺駅、新大宮駅)も地下へ埋めてしまえ、という案もあるそうだ。
2010年奈良県は、平城宮跡内を横切る近鉄奈良線の移設の賛否を問うアンケート調査を実施した。その結果、「車窓から宮跡が見えて奈良らしさが感じられる」など肯定意見が512件(県民219件、県外観光客293件)
「電車が通過するのは見苦しい」など否定的な意見が398件(県民117件、県外観光客281件)
だったそうです。このアンケートだけみれば、それほど違和感はないようです。

大阪の上本町から「大仏さん」の奈良まで、大阪電気軌道(近鉄の前身)の路線が開通したのは大正3年(1914)。その当時、大極殿周辺は宮跡だと知られていたが、現在の近鉄路線の辺りは田畑で、まさか平城宮跡内とは思わなかったに違いない。それから百年、いまさら”見苦しい、消えろ!”と云われても近鉄さんは困ることでしょう。朱雀門へ行くのに踏切りを渡らなければならない、見苦しい、などといった問題はあるが、それらのデメリットをカバーするだけの広大さがここ平城宮跡にはあります。このバカデカイ空間にいれば、そんなの何とチッポケなことか。見方を変えれば、古代と近代がマッチし、一枚の絵にもなる。阪神電車や京都地下鉄の車両も乗り入れているので、電車マニアにはたまらん場所です。

 平城宮跡内の施設  


平城宮のことをより詳しく知ったり、発掘調査の過程や内容を見学できる施設が備えられている。
平城宮跡の西北端に設置されているのが平城宮跡資料館。奈良文化財研究所の約50年にわたる発掘調査をもとに、在りし日の平城京の様子をわかりやすく紹介している。天皇や貴族の暮らしぶり、役人の仕事の様子をジオラマで再現し、また木簡や土器、瓦などの出土品類の模型も展示されています。
2013年4月24日(水)からインターネット上のGoogleストリートビューで内部の展示を全て見て周れます。歩かなくてよいので楽チンですが、パソコンのモニター上で自由に移動できるには、かなりの歩行訓練が必要かも。

平城宮跡の北東隅には遺構展示館があり、掘立柱の柱穴の跡や溝などの遺構を発掘当時の状態で保存し、公開している。
資料館・遺構展示館とも独立行政法人国立文化財機構の運営で、入館は無料で、開館時間<9:00~16:30(入館は16:00まで)>、休館日<月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始休館>となっている。ボランティアガイドさんも常駐し、親切に説明していただけます。

朱雀門の西側、平城宮跡から一歩出たところに平城京歴史館があります。入口横には巨大な遣唐使船の復元模型が置かれている。ここは古代における中国大陸・朝鮮半島との交流を、アニメーションやストーリー仕立ての映像展示などを駆使して解説している。
平城宮跡の見学は全て無料と思っていたら、ここだけは入館料(一般)500円とあり、一瞬ためらった。せっかくだからと入館したが、あまりにもバーチャル過ぎて興ざめし、すぐに出口へ向かいました。同じような意味で、私は某局の「歴史ヒステリア」なる番組が大嫌いなのです。家族連れなら楽しいでしょうが、おじさん一人では・・・。ところでこの歴史館の運営母体は??。

 平城京天平祭(2015/5/3)  



「平城京天平祭」は毎年春・夏・秋に平城宮跡で催される。春は5月3日~5日(子供の日)まで催されるが、メインイベントは3日(祝日)の「平城京天平行列-平城遷都之詔」です。
その行列が行われる大極殿前の広場です。南側の朱雀門方向から第一次大極殿を眺めたもの。天平衣装を身にまとった奈良時代の天皇や貴族、文武百官などは、手前の朝堂院広場の南側に集合し、大極殿目指して真っ直ぐ北上するのです。
行列開始の11時が近づくにつれ人々が集まってくる。ここは大極殿の築地回廊の内側ですが、ここだけでもかなりの広さです。

午前11時、行列が入ってきた。警護の衛士隊を先頭に、伎楽隊、文武百官と続く。大極殿の前には四色幕が張られ、その前には四神を描いた四つの仗旗(四神旗)が立っている。即ち、青龍・白虎・朱雀・玄武です。両側にはお祭りを盛り上げようと大太鼓が、さらにスピーカーが設置されている。

続いて、いよいよ歴代天皇のご登場となる。即位順に行進されるので、先頭は710年に都を藤原京から平城京への遷都を宣言された元明天皇(げんめいてんのう)。
天智天皇の第四皇女で、息子・文武天皇が病に倒れると、母が「第43代元明天皇」として後を継いだ。時に47歳。平成の元明天皇さまは「第26代ミス奈良」さんです。宝冠を被り、白の礼服を着ておられる。

続いてのご登場も女帝さんです。元明天皇の娘で、霊亀元年(715年)36歳の時、母・元明天皇から「次の天皇はあなたよ」と指名され、第44代元正天皇として即位する。5人目の女帝ですが、独身のまま即位した初めての女性天皇です。永井路子さんの小説『美貌の女帝』の主人公。生涯独身で過ごされた女性天皇、その美しさが災いしたのでしょうか?。平成の元正天皇さまも独身なのでしょうか?、気になります・・・。

東大寺大仏像の産みの親:聖武天皇ご登場。
聖武天皇は藤原不比等の娘が生んだ子。そこへまた藤原不比等の娘が嫁ぐ(光明皇后)。母と妻が同じ男の娘という奇妙な関係。これでは藤原家に頭が上がらない。その上、自然災害や反乱などに見舞われ世情が混乱した時代。精神的に追い詰められノイローゼ気味になったこの天皇様は「呪われた都(平城京)」から遁れるように各地へ旅し、ついには平城京を捨てあちこち遷都を繰り返した。最後は仏の慈悲にすがるしかなかったようです。平城京に戻り東大寺を造立し、巨大な仏像を造り上げた。そして名を残した。この行列の聖武天皇は某**ハウスの奈良支店長さん。はたしてこの会社に、東大寺ほどの建物を建てる力があるだろうか?

続いては聖武天皇の妃・光明皇后。藤原不比等の第三女として生まれ、藤原氏の政略のため首皇子(後の聖武天皇)に嫁がされる。天災地変が相次ぐなか、気弱な夫・聖武天皇を支え東大寺大仏像の建立、興福寺・法華寺・新薬師寺など多くの寺院の造営や整備に関わり仏教の発展に寄与した。また悲田院や施薬院などをつくり、貧しい人や難病者の救済に努力された。そうした功績からか、皇后でありながら天皇の列に加わっていらっしゃる。
目の前の皇后様も美しい、そのはず松竹芸能の方です。
待ってました!孝謙女帝さまのご登場。
聖武天皇と光明皇后との一人娘。弟がいたが生後1年で夭折してしまったので、病気がちだった父・聖武天皇は娘に譲位,第43代孝謙天皇として即位しました(32歳)。 史上6人目の女帝さんです。しかし実際の政務の実権は母・光明皇太后と藤原仲麻呂が握っていたようです。10年後、母・光明皇太后を介護するという理由で退位し,淳仁天皇に譲位しました。
これで5人目だが、そのうち4人までが女性。ナント奈良時代は女性優位の時代だったことか。
紅白歌合戦の派手な舞台衣装のような姿でご登場されたのは、第25代ミス奈良でございます。

大極殿前には列席のご天皇様が、左から順に既に紹介した元正・聖武・光明皇后・孝謙の天皇様。
その右横が淳仁天皇。孝謙上皇との権力闘争に負け、淡路島に島流しされ幽閉されてしまう。「淡路廃帝」と揶揄された情けない御仁。某会社の奈良支店長さんが演じます。
さらに右横が淳仁天皇を廃位させ、再び第45代称徳天皇として復活した孝謙女帝その人です。だから、本来は淳仁天皇の左右の二人の女性は同一人物。女帝も40代の半ばで女盛り、なぜか僧・弓削道鏡と仲良くなってしまう。二度も天皇になった女性で、生涯独身を貫き、お坊さんとの色恋を噂され、後世に「淫乱な女帝」として小説の好材料を残してくれた。そういう意味では稀有な天皇さんで親しみをもてる。
最後が、紫の衣をまとった光仁天皇に扮する某大学付属幼稚園園長さん。

みなみな大極殿の前庭に整列し終えると、平城京天平祭・春のクライマックス「平城遷都之詔」の儀。第一次大極殿の前面壇上に姿を現した平城京初代の元明天皇が「平城遷都之詔」を読み上げます。

実際には、お傍の少納言(仲川げん奈良市長と知って、笑ってしまった・・・)が巻物を開き読み上げる。
内容は「方(まさ)に今、平城の地、四禽図(しきんと)に叶い、三山鎮を作す。亀筮(きぜい) 並びに従う。宜しく都邑(とゆう)を建つべし」(平城の地は、東西南北の四神に守護され、三方山々に囲まれた縁起のよい土地。占いに従ったものだ。さあ共に都づくりをしよう)

読み終わると、全員で「よろしく とゆうをたつべし」と三回合唱する。会場内の皆様もご協力下さい!、とあった。そんな合唱、聞こえんかったナ。

広場いっぱいに広がる艶やかな女官さんたち、奈良時代っていいナ!・・・??。奈良女子大学をはじめ地元高校・大学の女生徒たち。それと関連企業(協力金?)の女子社員さん。いっそう華やかさが増します。

天平衣装の百官は、階位によって装束の色が位の高い順に紫・緋色(赤)・緑・藍色(青)に厳密に区分されていた。皆、右手に板片を持っている。これは長さがほぼ1尺であるところから「笏(しゃく)」と呼ばれ、束帯着用時に威儀を正すための板片。実際は、裏に紙片を貼り付け、式次第などを書き記した備忘のためのメモ帳。高官のものは象牙製だったという。

平城宮跡西側のイベント広場「東市西市」では、食べ物・奈良の物産販売の沢山のブースが並び混雑している。また風車、綿菓子、折り紙、ネックレスなどの工房が有り、物づくりも体験できます。天平衣装体験も。
路上では、「足長お兄さん」など天平人の大道芸が楽しませてくれる。ところで「せんとくん」はどこへいったのでしょうか?。一度も見かけなかった(見たくもないが・・・)


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 3)

2015年08月01日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 平城宮跡の歴史と保存運動  



1300年前、奈良に都が移され「平城京」と呼ばれた。その平城京の北端中央に、天皇が住まわれる内裏や儀式の施設、役人の執務所などが集まった、いわゆる朝廷の御所がある。これが「平城宮」です。
東西・南北が約1kmの広さをもち、周囲は5メートル程度の高さの大垣が張り巡らされ12の門が設置され、役人等はそれらの門より出入りしたという。広さは約120ヘクタール、甲子園球場が30個も入る広大なスペースだった。現在は、発掘調査を経て保存・再現が進められている。国の所有で、国土交通省 近畿地方整備局が管理し、正式には「国営平城宮跡歴史公園」というようです。

和銅元年(708年)2月元明天皇は、藤原京を放棄し新しい平城京へ遷都するという詔を発する。当時もっとも文化の進んでいた唐の都・長安をモデルに新しい大規模な都造りが行われた。和銅3年(710年)3月10日に平城京へと遷都する。奈良時代の始まりで、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開いた。

しかしこの平城京も74年間という短期間で終わり、長岡京を経て平安京(京都)へ遷っていく。平城宮内の建物の多くは長岡京へ移され、平城宮跡地は放置され荒廃し、忘れられていく。周辺には南都七大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、西大寺など)が残るが、それらの中央にあった平城宮跡は見捨てら、以来千年間田畑となり土の下に忘れられていった。その場所さえ分らなくなっていたという。

江戸時代末になって、藤堂藩の大和古市奉行所に勤めていた北浦定政は、地名や水田の畝などから平城京の条坊を調査、その実測研究から嘉永5(1852年)に『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城宮の跡地を推定し平城宮研究の先駆けとなった。こうして長い間歴史に埋もれていた平城宮が蘇ってきた。

明治33年(1900年)奈良県技師だった関野貞が、大極殿の跡を明らかにすると、これをきっかけに保存運動が始まる。奈良公園の植木職人であった棚田嘉十郎は公園で仕事をしていると、観光客に「社寺仏閣はお参りしてきたけれど、天皇がおられた御所の跡はどこにありますか?」と尋ねられても返答ができなくて困ったという。彼は私財を投げうって保存活動に尽くし、また上京し多くの著名人の署名を集め地元の有志に援助を求めます。
その姿に感激された佐紀町の大地主 溝辺文四郎氏も、棚田氏を助けて保存運動に尽力を尽くす。明治39年(1906)、両氏の呼びかけで、有志が寄って「平城宮址保存会」が設立された。さらに大正2年(1913)には、大極殿と内裏跡保全のため、「平城大極殿址保存会」が結成された。
大正10年(1921)、私財を使い果たし心労で棚田嘉十郎は自害するという悲劇が。しかしその努力は少しずつ実を結び、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その結果、翌大正11年(1922)大極殿と朝堂院の跡が国の史跡の指定を受け、さらに翌年国有地とされた。昭和27年(1952)に特別史跡となり、現在に至っている。

昭和28年(1953)11月、進駐軍の命によって一条大路の改修が行われた時、遺蹟が発見されて大騒ぎになつた。千年以上土中に眠っていた平城宮の遺物が顔を出したのです。文化庁が中心となって周辺土地の買上が進められ、土地の公有化が図られるとともに、奈良国立文化財研究所による本格的な発掘調査・研究が進められた。平城宮の様子が次第に明らかになってきた。
昭和53年(1978)には『特別史跡平城宮跡保存整備基本構想(遺跡博物館構想)』が策定された。これに基づき文化庁を中心に、全額国費によって主要な遺跡の復原や史跡整備が進められた。文化庁直轄の都城跡は,全国でも平城宮跡と藤原宮跡だけである。

平成10年(1998)12月、東大寺などとともに「古都奈良の文化財」としてユネスコの世界遺産に登録された(考古遺跡としては日本初)。平成10年(1998)朱雀門の復元、平成21年(2009)には国営公園に、平成22年(2010)第一次大極殿の復元。現在なお調査発掘、復元が行われている。

 第一次大極殿(だいこくでん)  



平城宮跡のシンボル的存在が大極殿です。平城宮の中心施設で最大の建物。奈良時代の後半は場所が移動したので便宜的に”第一次”を付ける。
大極殿は、天皇の即位式や外国使節との面会、元旦の朝賀など、国のもっとも重要な儀式のために使われた。「大極(太極)」とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味します。

昭和45年(1970)から第一次大極殿地区の発掘調査が始められた。第一次大極殿の建物は、740年恭仁京へ遷都の際に破壊されたり、一部移築されたりしためよく分らない。しかし基壇や階段の基礎部分の痕跡は見つかり、それを基に第一次大極殿の平面規模を確定したという。そして遷都1300年となる2010年の完成を目指して、文化庁を中心に復原工事が始まった。わずかに残る文献を参照し、重層の構造や内部架構は現在唯一の重層金堂である法隆寺金堂の形式を、軒の出と組物は時代が近い薬師寺東塔を模したそうです。そして平成22年(2010)「平城京遷都1300年祭」の時に完成し、お披露目となった。

凝灰石で化粧された二重の基壇の上に、入母屋造本瓦葺の屋根をもつ二重の建物。正面柱間は全て解放され、側面と背面は白壁となっている。もちろん現代建築なので、地震による揺れを最小限に軽減させるための免震装置が導入されている。

大極殿内部の中央に天皇の玉座の高御座(たかみくら)がある。「重要な国家的儀式の時に大極殿に出御して高御座に着座された。貴族たちは、大極殿の南に広がる内庭に立ち並び、大極殿の天皇を拝しました」そうです。この実物大の模型は「大正天皇の即位の際に作られた高御座(京都御所に現存)を基本に、細部の意匠や文様は正倉院宝物などを参考に創作されました」そうです。
席料を支払ってもよいから、一瞬でも座らせて欲しいものです。一瞬でも天皇様に・・・。


大極殿内から、南の朱雀門方向を眺めたもの。大極殿は、平城京の中心線上の真北に位置し、南北320m、東西180mが築地回廊で囲まれている。回廊内の広場は「大極殿院」と呼ばれる内庭で、儀式の際に高官が整列した場所。東西に楼閣を構え、南側には南門がある。南門を出ると朝堂院の建物と広場が広がり、その南に朱雀門が建つ。朱雀門から約4kmの朱雀大路が伸び、平城京の入り口である羅城門(現在の大和郡山市)につながっていた。
西側の池端からの撮った第一次大極殿。第一次大極殿の中へは無料で入って見学できます。
■開園時間:9:00~16:30(入園は16:00まで)
■休園日:月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、年末年始休園

 内裏(だいり)と第二次大極殿  



第一次大極殿の東側に内裏の建物があった。内裏(だいり)とは、天皇が日常住まわれていた建物。大極殿は奈良時代の前半・後半で場所を移動するが、内裏は同じ位置のまま。
現在、内裏の柱跡にはツゲの木が植樹され、高さ1mほどの円柱形に刈り込まれている。一見、奇妙な風景に見えるが、内裏の柱跡とすれば納得です。

内裏の南側に道を挟んで大きな土壇が見える。これが「第二次大極殿」の基壇です。
聖武天皇は740年から、都を恭仁京(京都)、難波京(大阪)、紫香楽京(しがらき、滋賀)と転々と移し替えた。結局、天平17年(745)紫香楽宮から平城宮に戻り、内裏の前に新しい大極殿を造り直した。元明天皇が建てた最初の大極殿を「第一次大極殿」、聖武天皇が建てたこの大極殿を「第二次大極殿」と便宜上名付けている。

東西46m、南北24m、高さ3mほどの基壇が復元され、基壇上の柱跡には丸い石が縦列に埋め込まれている。重い建物を支えるために、土を何層にもつき固めた版築(はんちく)という工法で築かれていたという。
数年前、この上でLIVEショーをやていました。

 朝堂院(ちょうどういん)  


第一次大極殿を囲う回廊の南門を出ると、広大な広場が展開する。ここが「朝堂院」と呼ばれ、東西約210メートル、南北約260メートルの広場で、かって政務や式典、儀式、供宴などが行われた場所だそうです。
広場の左右には一段高い基壇が残されている。これは4つあった朝堂の建物の跡で、「四堂朝堂(よんどうちょうどう)」と呼ばれた。唐招提寺の講堂(国宝)は平城宮朝堂院にあった建物の一つ「東朝集殿」を移築したもの。平城宮で唯一現存している建物だそうです。
朝堂院も大極殿の移動と共に場所を変える。ここは「第一次(中央区)朝堂院」、第二次大極殿前の朝堂院は「「第二次(東区)朝堂院」と呼ばれる。

この広場は数年前の写真をみると、草茫々としていたが、現在は写真のように学校のグランドのようになっている。2012年に国交省が、「国営公園としての利便性を向上させるための整備」の一環として、草地だった広場をソイルセメントで舗装すると発表したことから、騒動が持ち上がった。ソイルセメントはコンクリではないが、土をセメントで固めたもの。有識者や住民たちが声明文「即時中断を」を出し、「地中に埋まる遺構に影響が出る恐れがある」と反対運動を始めた。
結局2014年工事が開始され、ご覧のとおり舗装は完了している。私には、その善し悪しは分らないが、数年前に近鉄電車内から眺めた、あの青々とした草地の広がるイメージが懐かしく感じられます。土のグランド化して何のメリットがあるんでしょうか?。草刈りの手間が省ける、天平祭行列で行進しやすい、ぐらいしか思いつかないが。ここは邪魔になる電線がないことから、お正月の凧揚げスポットになっている。凧揚げで走りやすくなったかも。奈良時代にはどんなんだったでしょうネ・・・土?草?半々?。

 朱雀門(すざくもん)  


平成10年(1998)復元した平城宮の正門「朱雀門」は、高さ22m・間口は25m・奥行き10mの入母屋二層構造。
復原にあたって朱雀門に関する直接的資料は、発掘調査によって明らかになった基壇や柱位置、出土した屋根瓦ぐらいしか無かった。「今回の復原では平安宮朱雀門が二重門であることなどから二重門と設定し、その基本構造を、古代に於いて唯一の遺構である法隆寺中門に倣いました。朱雀門は奈良時代前期の建築であり、その年代が法隆寺よりくだることから、様式は同年代の薬師寺東塔を参考にしました。そして、朱雀門の規模が大きいために、各部材の大きさや比例関係などは、より近い条件を持つ東大寺転害門も参考にしました」そうです。

朱雀門から第一次大極殿を撮った。
平城宮は四方を高さ5メートルの築地塀で囲まれ、それぞれの面には3門ずつ計12の門があった。朱雀門は南の正面中央に位置し、最も重要な正門だった。「天子南面す」と云われるように、どの宮殿も南より入り北へ直進し、天皇に謁見するようになっている。
中国の伝説上の神獣(神鳥)に「青竜(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)」の四神(四獣・四象)がある。それぞれ東西南北の守護獣とされ、「朱雀」は南方を守護する神獣なのです。数年前に発掘され話題となったたキトラ古墳の南壁には、「朱雀」が鮮やかな朱色の鳥として描かれていた。朱は赤であり、五行説では南方の色とされてる。
朱雀門を潜り南側に出ると、また広場が・・・。これは広場でなく、「朱雀大路(すざくおおじ)」の一部を復原したもの。朱雀大路は75m幅で、真っ直ぐ南へ向かって約4km伸び、平城京の入り口である羅城門(現在の大和郡山市)につながっていた。都のメインストリートで、外国使節の送迎儀式や大衆の憩いの場として賑わっていたようです(御堂筋でのタイガースの優勝パレードや歩行者天国のような・・・夢のまたユメ)
朱雀門・朱雀大路・羅城門などは、唐の長安に始まった条坊制に基づいたもので、周辺諸国に波及し日本にも遣隋使、遣唐使を通じて伝わったもの。

 東院庭園  


昭和42年(1967)平城宮跡の南東隅で大きな庭園の遺跡が発見された。この周辺は日本書紀で「東宮」もしくは「東院」と呼ばれ、称徳天皇の「東院玉殿」や光仁天皇の「楊梅宮」、さらには聖武天皇の「南苑(南樹苑)」が設けられた場所ではないかと推定されている。
発掘調査の結果、庭園部分とその周辺一帯の様相がほぼあきらかになり、復原されている。そして「東院庭園」と名付けら、2010年に国の特別名勝に指定されました(入園料:無料)。

東院庭園の敷地は東西80m、南北100m。中央に池を配し、池の西岸には宴会や儀式を行う「正殿」が建ち、東岸から平橋で渡れるようになったいる。北側にも建物があり、反橋(そりばし)で繋がっている。石を敷き詰めた池や石組みのある築山、中島、趣向をこらした建物や橋などからなっている。ここで天皇や貴族が儀式や宴を催していたと思われる。正殿・平橋は平成5年(1997)に復原完成したもの。


詳しくはホームページ
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 2)

2015年07月18日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城京跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 不退寺(ふたいじ、業平寺)  


”歩きたくない道”を西へ歩き、JR大和路線を渡ると国道24号に突き当たる。その手前を北側へ200mほど行けば不退寺です。鬱蒼とした雑木の覆われたトンネルのような小径の奥に山門が見える。この風景が不退寺で一番印象に残りました。
不退寺の入り口にあたるの四脚門の南門(重要文化財)をくぐる。正式名称は「金龍山 不退転法輪寺」。入山料400円払い、頂いたパンフレットの由緒書きを要約すれば以下のとおり。
平安遷都の後、平城京をなつかしむ平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位し、大同4年(809)都を離れ平城宮の北東の地に萱葺きの御殿を建て隠棲された。「萱(かや)の御所」と呼ばれたようです。平城上皇が亡くなると、第一皇子の阿保親王が、さらに阿保親王の子息・在原業平(825 - 880)が引き継ぎ住んだという。承和14年(847)在原業平は、仁明天皇の勅願を得てお寺とし、自ら刻んだ聖観音菩薩像を安置すると同時に父阿保親王の菩提を弔った。そして衆生済度の為に「法輪を転じて退かず」と発願し、「不退転法輪寺」と号したのがこのお寺の始まりだという。略して「不退寺」、あるいは「業平寺」とも呼ばれる。

その後、平重衡による南都焼討(養和元年、1181年)などで何度か焼失している。西大寺や興福寺の末寺としてかろうじて存続してきたが、江戸時代の慶長七年(1602)徳川幕府より寺領50石を得て、本堂、多宝塔、南大門、庫裏などが整備されてきた。

南門の先はすぐ本堂です。狭い境内に,せせこましく花木が配置されているので,よけい狭苦しいく感じる。他に誰もいないので,本堂に入ると住職さんらしきがテープレコーダのように早口で解説を始められる。それもダミ声,こういうのは女性の優しい声に限る。うるさいのでそそくさと出てしまった。

このお寺は「南都花の古寺」と自称されている。四季折々、レンギョウ、椿、カキツバタ、菊などが咲き乱れ、晩秋には紅葉、ナンテンなど、一年中花が途切れることなく咲いているという。多宝塔前の池に、浮かぶように咲く黄ショウブが印象的でした。紫色も混じっていたが、これはカキツバタだと住職さんが教えてくれた。
寺務所の横に「石棺」が置かれている。近くにあるウワナベ古墳南側の「平塚古墳」の船型割竹くり抜き石棺だそうです。五世紀のもので,縦長2.7m。
幕末に発掘され、付近の薮の傍らに放置されていた。近隣の農民が石棺を砥石の代わりにして鎌を研いだために、表面が窪んでいる。何でここに置かれるようになったのかは不明。平塚古墳は現在,JR関西線と国道24号線のため跡形もなく無くなっている。

 海龍王寺(かいりゅうおうじ)  


海龍王寺は法華寺の東北隅にくっつくように存在している。入口の表門は、車の通る県道104号線に面した東側向きに建っています。受付で頂いたパンフレットに詳細な「海龍王寺の縁起」が書かれているので、要約します。

平城宮の北東にあたるこの周辺には藤原不比等の大邸宅があった。養老4年(720年)不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が受け継ぎ皇后宮としていた。その邸の一角に、飛鳥時代から毘沙門天を祀った小さな寺院があった。天平3年(731)その寺院を、光明皇后の御願により新たな堂宇を建て伽藍を整えた。目的は、第八次遣唐使として唐に渡っていた僧・玄(げんぼう)が、仏教の経典を網羅した一切経・五千余巻と新しい仏法とを無事に我が国にもたらすこと、さらに平城宮の東北(鬼門)を護ることであった。
天平6年(734)10月、唐から帰国中の玄らが乗った船団は東シナ海で暴風雨に襲われる。狂瀾怒涛に漂いながら一心に経典「海龍王経」を唱えた玄の乗った船だけが、かろうじて種子島に漂着し、無事奈良の都に帰ることができた。そこから寺は「海龍王寺」と名付けられ、玄が初代住持に任ぜられた。また平城京の東北隅にあたることから、「隅寺・隅院」などとも呼ばれたそうです。(Wikipediaには「「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている。「平城宮の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当でない」と書かれているが・・・)
これ以降、海龍王寺において遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城宮内道場の役割を果たすことにもなり、玄が唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われたという。

都が平安京に移ると海龍王寺も衰退していく。鎌倉時代に西大寺中興の祖・叡尊により一時復興するが、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も戦場となり大打撃を受けた。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受けるなどの保護を受けたが、明治の王政復古による廃仏毀釈の嵐に飲み込まれ、東金堂や多数の什器を失うという大きな打撃を受け荒廃にまかされた。境内や堂宇の修理や整備が進められたのは戦後になってから。
写真右の本堂には、鎌倉時代に造立された本尊の十一面観音菩薩立像(重要文化財)が安置されている。
光明皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師により造立されたもの。黒ずんだ仏像が多いなか、秘仏として戦後まで非公開だったためか保存状態がよく、金箔の輝き・華やかな文様・端整できりりとした顔立ちが印象に残った。「イケ仏」ここにあり・・・。写真左が西金堂(さいこんどう、重要文化財)。

住職の石川重元さんがブログをたちあげ「海龍王寺というお寺の住職です。 平成元年に種智院大学を卒業後、仁和寺の密教学院にて修行いたしました。 イラストレーターのみうらじゅんさんから「イケ住」の称号をいただきましたので、称号に恥じぬよう精進いたします。 仏教を、面白く、わかりやすく伝えたいです」とプロフィールされている。住職さんだけではない、本尊の十一面観音菩薩立像も「イケ仏」ですヨ
西金堂内中央に、高さ4mの五重小塔(国宝)が安置されている。扉が開けられ、間近で鑑賞できます。天平時代の建築様式を現代に伝える貴重な建物だそうです。この塔の初重には扉や壁がない珍しいもの。何のために造られたかは不明だそうです。

 法華寺(ほっけじ)  


法華寺の縁起略をパンフレットから要約します。
養老4年(720年)藤原不比等の死後、その大邸宅は娘の光明子(聖武天皇の妃・光明皇后、民間出身の皇后の第一号)が受け継ぎ皇后宮となっていた。聖武天皇発願による日本総国分寺であった東大寺に対し、法華寺は光明皇后発願による日本総国分尼寺として天平17年(745年)皇后宮に建立された。詳しくは「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」といった。大和三門跡に数えられる。光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。
当時は七堂伽藍を備えて隆盛を極めていたが、平安遷都とともに次第に衰え、平安時代末期にはかなり荒廃していたという。その後も兵火や地震などで被害を受けかっての面影は無くなった。桃山時代の慶長6~7年(1601-2年)頃に、豊臣秀頼と母の淀君が片桐且元を建築奉行として復興したのが、本堂、鐘楼、南大門などの現在の伽藍。しかしこの再建された現在の法華寺は、創建当時の規模の三分の一程度に縮小している。
南大門(重要文化財)は、現在閉ざされ通り抜けできないが、法華寺の正門に当たる。切妻造・本瓦葺の四脚門で、本堂と同時に慶長6年(1601)豊臣秀頼、淀君により再建されたもの。左右の築地塀は格式ある門跡寺院であることを示す「筋塀」で、右横には「総国分尼寺 法華滅罪之寺」と書かれた「石標」が建てられている。門の正面には本堂が佇む。
現在の通用門は、南大門の東側にある「赤門」(「東門」とも)です。「不許酒肉五辛入門内」と刻まれた石標が建つ。さっき訪れた尼寺「興福院」にも同じ石標が建てられていたので尼僧寺院に共通するものでしょうか。

本堂(重要文化財)は寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。かっての講堂跡に、桃山時代の慶長7年(1601年)豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。
本堂の厨子内に安置されている本尊:十一面観音像(国宝)は、カヤの一木造で平安時代彫刻を代表する作品の1つ。「天竺(インド)の仏師・問答師が光明皇后の姿を模してつくった」という伝承をもつ。胸が膨らみ腰を捻る女性らしいお姿をぜひ拝観したかったが、秘仏で見られない。春と秋の特別開扉の期間でしか拝観できないのです。
塀をはさみ本堂の西側に名勝庭園(国史跡)があります。この名勝庭園の中には特別公開日しか入れないが、訪れた日はたまたま公開日だった。江戸時代初期に京都御所から客殿とともに移築された、池を中央に配した回遊式庭園。世にこれを「仙洞うつし」という。「有名な(かきつばた)や松、石なども京都御所より移されたもので四季折々の美しい庭を眺めることができます」という。あちこちの庭園を見慣れたせいか、それほど感動をおぼえなかった。
法華寺には「華楽園」というお花の庭園もあります。こちらは所狭しと花が植えられ、庭園というよりは、花園、植物園といった感じ。5月初旬ですが、藤の花以外にそれほど目だった花はなかった。この時期、花よりは新緑のほうが冴えます。
赤門を入ると正面に「から風呂」(国指定重要有形民俗文化財)と呼ばれる白壁の建物が建っている。これは奈良時代、聖武天皇の妃・光明皇后によって、難病者たちを入浴させるための福祉施設として創設されたもの。千人目の入浴者は「見るに堪えられない病状の患者で、その病人の願いで患部の膿を吸うために朱色の可憐な唇を患部に当てた瞬間、病人は大光明を放ち姿が見えなくなりましたが、実は阿?(あしゅく)如来の化身だった」という伝説が残されている。

風呂といっても「蒸気」での蒸し風呂で、現在のサウナのようなもの。床下の釜で湯を沸かし、すのこの板床の間から上がってくる蒸気を浴室に充満させるしくみ。熱い蒸気が下からお尻に当るので、火傷しないようにお尻に布を敷いた。これが「風呂敷」の語源だそうです。
現存の建物は江戸時代中期に再建されたもの。その後傷みが激しいので、解体修理が進められ2003年9月に作業が完了した。そのため、現在目にする建物は新しく感じる。内部は見れない。特別公開日ってあるんでしょうか?、年間行事予定には入っていないのだが。

 佐紀神社(さきじんじゃ)と隆光大僧正の墓所  



平城宮の裏に佐紀池がある。丁度、大極殿の裏手です。
ここから眺めていると、奈良の時代にタイムスリップしたような気になる(車は走っていますが・・・)。


佐紀池の北側にも道を挟んで、同じような大きさの御前池がある。一見、溜池風ですが、地図をみると佐紀池・御前池と連なったように平城宮内にも幾つか池が並んでいる。かって平城宮と関係あったんでしょうか?。
この御前池を挟んでの西側に佐紀神社と釣殿神社が、東側にも佐紀神社が存在しています。
東西の佐紀神社は、大きさも同じくらい。何故、約100mほどしか離れていない同じような地域に、同名で祭神も同じくする神社が二つも鎮座しているんでしょうか?。詳しいことはよく判っていないようだが、東側の元社から氏神を西側に分祀したのではないかと推測されている。
釣殿神社も境内の御由緒書きには「鎮祀起源については不詳であるが、御前池の東側亀畑の地に鎮座する佐紀神社から分離鎮祀されたものであると推定される」とあります。東の佐紀神社から分離鎮祀され、同じような場所に(西)佐紀神社と釣殿神社が存在する。複雑な村落共同体事情があったんでしょうネ。
(東)佐紀神社と道を挟んだ南側に市立佐紀幼稚園がある。その裏手に「隆光大僧正の墓所」あるというが、さてどうやって裏へ廻るか。勝手に幼稚園に入り込むわけにはいかない。ウロウロと歩いていると、幼稚園東端の草むらに踏み跡が見える。踏み跡をたどると裏へ廻っており、小さな半円状の土盛りがありました。

隆光(りゅうこう)大僧正は慶安2(1649)年ここ佐紀(大和国超昇寺郷、現在の奈良市二条町)で生まれた。万治元年(1658)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学した後、江戸へ出る。5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となり、あの「生類憐みの令」を進言する。その後ろだてを背景に大和の社寺の復興にも寄与した。東大寺大仏殿再建や法隆寺、長谷寺、室生寺などといった奈良の主だった寺院の復興、再建に大きな力となった。それが幕府の財政悪化をもたらすなど悪評高いが、地元の大和では大恩人。しかし宝永六年(1709)将軍綱吉が急死すると、江戸から追放され、かって再興に尽力した通法寺(河内の太子町にある源氏の菩提寺)の住職に左遷される。晩年は生れ故郷のここ佐紀村に帰り超昇寺で隠棲、享保9年(1724)に没している。
超昇寺は今の佐紀幼稚園周辺にあったようだが、明治の廃仏毀釈により廃寺になり消滅し跡形もない。「いま、その故地に市立佐紀幼稚園の建設開園されるにあたり、奈良市および有縁の者相謀り、墓域を整備し、以てその遺徳を顕彰せんとするものである。 昭和五十三年十一月吉日」の板が立つ。大和の大恩人にしては、目立たないやや寂しい墓所です。
隆光大僧正の墓は他にもある。通法寺跡近く、河内源氏の祖である源頼信の墓の傍のブドウ畑の中に。そして出家得度した唐招提寺西方院に、再興に尽力した室生寺にも。しかしこれらは分骨墓で、ここ佐紀が本墓です。

隆光大僧正の墓所あたりで眺めた平城宮大極殿。大極殿の真裏になる。黒緑の方形跡は「大膳職(だいぜんしき)」の跡。平城宮の給食センターでした。

 秋篠寺(あきしのでら)  


秋篠寺は近鉄・大和西大寺駅の北西に位置し、駅から歩いて20分位、タクシーは770円と表示されていた。私は平城宮から駅前を通り徒歩でやって来たが、住宅地ばかりで安らぎをおぼえるような所は一ヶ所もなかった。タクシーが最善かも。
深い森の入口に、秋篠寺の南門が見えてきた。秋篠寺には、現在ではバス停が近いこともあって東門から入る人が多いそうだが、秋篠寺の正門は南門です。東門と比べても、その風格が違う。
南門の手前左側に赤い鳥居が建ち、石柱「八所御霊神社」が立っている。冤罪などで非業の死を遂げた崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原広嗣、橘逸勢、吉備大臣らの「怨霊」を鎮めるための御霊神社です。
南門左側の塀伝いに青葉に覆われ薄暗い小径を進めば、陶芸家の今西方哉(いまにしまさや)氏の「秋篠窯」です。敷地内で取れる秋篠の土を使って焼き物を焼いておられるとのことですが、入口は塞がれ、煙突からも煙は見えませんでした。

南門を潜ると境内です。境内といっても、お寺でよく見かけるお堂や塔、草花が見られるわけではない。雑木に覆われた薄暗い雑然とした空間が広がっているだけ。その中に一本の小径が通っている。天皇家と縁深いお寺といえ、明治の廃仏毀釈によって惨めな姿に成り果ててしまったようです。受付で頂いたパンフに「明治初年廃仏毀釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のままに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っています」と嘆いておられる。
南門から小径に入ったすぐ右横に「東塔の礎石跡」が残されている。反対側には西塔跡もあるようですが、柵で立ち入ることができません。この辺りは殺風景は空き地風が広がっているだけです。

小径を奥へ進んでいくにしたがい空気が変わってくる。雑然とした空き地が、しだいしだいに新鮮度を増し緑が深くなっていく。整然とした間隔で茂る樹木、その足元には緑の絨毯・苔が。秋篠寺の魅力の一つ「金堂跡の苔庭」です。
唐招提寺の鑑真和上御廟前の苔庭や、京都・大原三千院を見ているせいか、それほど感動は受けなかったが・・・。もう少し湿っているか露で光っていたら、また違った印象を受けたと思います。

苔庭脇の受付で拝観料(500円)を払い生垣の中へ入ります。本当の境内はここからなのでしょう。手入れが行き届いた狭い敷地に数棟の堂宇が見られるだけ。知名度に比べ、簡素でもの静かな情景に、肩透かしをくらったような、それでいてホッと安らぎを覚えるような気分にさせてくれる。奈良でも有数の人気のお寺なのだが、私以外に中年のご夫婦一組をみかけただけでした。観光客で賑わう京都のお寺とは一味違った趣を感じさせてくれる。忙しく足しげく見て廻る、といった京都に比べ、奈良のお寺は”浸る”ことができます。

秋篠寺は、地元の豪族秋篠氏の氏寺だったともいわれているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。寺伝によれば、宝亀七年(776)に平城京最後の天皇・第49代光仁天皇の勅願により、法相宗の僧・善珠によって薬師如来を本尊とする寺として造営されたのが始まりとされます。奈良に建てられた最後の官寺、秋篠宮家の名の由来ともなった寺でもあります。
創建当時は金堂、講堂、東西両塔をもつ大寺院だったようですが、保延元年(1135)戦火のため伽藍の大部分を焼失してしまう。鎌倉時代以降、現本堂の改修など少しずつ復興されてきたようですが、明治の廃仏毀釈によってわずかの堂宇が残されるのみになってしまったという。
本堂(国宝)は、保延元年(1135)の兵火で伽藍のほとんどを焼失した際、焼け残った講堂を大改修し本堂としたもの。内部は床を張らずに土間になっており、薄暗い中に仏像が居並ぶ。檀上中央に本尊の薬師如来坐像(重文)と脇侍の日光・月光両菩薩の立像、その両側を十二神将が守る。
一番左側に位置するのが、秋篠寺で一番有名な伎芸天立像(ぎげいてんりゅうぞう、重文)。パンフによれば「大自在天の髪際から化生せられた天女で、衆生の吉祥と芸能を主宰し諸技諸芸の祈願を納受したまう」と書かれている。諸技諸芸の神さまなので多くの芸術家や芸能人から慕われ、また天女さんなので、腰を少しひねり優しい眼差しをしておられるので、人気があるのも当然なような気がする。堀辰雄が、その女性的で優雅な身のこなしを「東洋のミューズ」と賛美したという。日本で現存している唯一の伎芸天像。天平時代に乾漆造で作られたが、その後の火災で頭部だけ残された。鎌倉時代に木彫りの寄木造りで体部を補なったものだそうです。

受付の外へ出て、出口の東門に向かう途中に香水閣(こうすいかく)がある。平安時代の初め、僧常暁(じょうぎょう)が当時の閼伽井(あかみず、香水井)の水面に映る大元帥明王像を感得したという伝えがある。
大元帥明王(たいげんみょうおう)とは、国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われる明王さんです。
毎年正月七日に宮中行事で大元帥修法が行われ、この香水閣の井戸から汲み上げられた霊水が平安京禁裏まで運ばれたという。この儀式は東京遷都の前年の明治4年まで連綿と続けられたそうです。
普段は門が閉じられているが、毎年6月6日の大元帥明王像の御開帳に合わせて公開される。その時には、泉から柄杓で霊水をすくい、参拝者に振舞われるそうだ。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 1)

2015年06月26日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 はじめに  


東大寺転害門から不退寺、ウワナベ・コナベ古墳などを抜け、水上池に出るぐらいまでを佐保路、これより西へ、秋篠寺あたりまで向かう道を佐紀路という。平城宮跡の北側に当たり、現代的な地理感覚でいえば、近鉄奈良線の大和西大寺駅から奈良駅間の北側にあたる。ここには名のある古刹が多く、また佐紀盾列古墳群と呼ばれ多くの古墳が散在しています。
毎年5月3日は東大寺の聖武天皇祭で、今年は日曜日と重なり平城宮跡では天平祭も行われる。さっそく出かけ、二つのお祭りの合間に周辺も廻りました。しかし訪れきれなかった所も多く、8日(金)に再訪した。
実際に歩いた順路とは異なりますが、このページに載せるにあたり、判りやすいように次のようなコースをたどったことにしました。
まず東大寺・転害門を出発し、佐保・佐紀路を古刹や名所を訪れながら、西の秋篠寺目指して歩く。
帰りは秋篠寺近くの神功皇后陵から始めて、東の聖武天皇陵までの古墳を訪ねる。

この間、静かな住宅地半分、のどかな山裾や田畑が半分といった状況だった。「歴史の道」の小さな標識を時々見かけたので、そういう道が整備されているようです。しかし案内図がほとんどありません。入組んだ住宅路や山裾の道を正確な地図なしに歩けるものではない。幸い、転害門横の観光案内所で80cm四方の大きさの「奈良市観光マップ」を入手できた。この地図に助けられ、二日間かけてですが、ほぼ見るべき所は訪ねることができました。

 東大寺「転害門」(てがいもん、国宝・世界遺産)  


東大寺の境内は広大です。大仏殿の西側にも広い空間が広がり、大仏池、戒壇院、正倉院がある。正倉院前から西側を見れば、もの静かな参道が伸び門が見える。これが東大寺の西の入口「転害門」(てがいもん、国宝)です。南大門から大仏殿にかけては観光客や修学旅行生で混雑しているが、こちらの正倉院周辺には、ほとんど人影を見かけない。喧騒から解放された癒しの空間になっている。
門と平行に「京街道」が通り、「奈良坂」を越えて京都へ繋がっている。門から垂直に西へ真っ直ぐ伸びているのが平城宮まで直進する「平城左京一条大路」、いわゆる「一条通り」です。添うように佐保川が流れているので「佐保路」とも呼ばれる。かって平城宮から天皇を初め高貴な人達が東大寺へお参りした聖なる道だった。
転害門から平城宮跡まで1時間超かけて歩いたが、現在は”聖なる”雰囲気など微塵も無く、雑然とした交通路となり”歩きたくない道”になり下がっている。

天平勝宝年間(750年代)の創建。東大寺西面(東七坊大路)には三っつの門があったが、このうち北の門であるこの転害門だけが数度の兵火を免れ、残された。東大寺は、平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(永禄10年、1567年)で焼き尽くされたが、転害門と法華堂(三月堂)本堂だけは免れ、天平以来残っている貴重な建物となっている。昭和6~7年(1931~1932)に老朽柱3本取替えなどの解体修理を受けているが、天平時代の姿は残されている。
現在は、吉祥の位置(大仏殿の西北)にあり害・災いを転じる門として「転害門」と呼ばれているが、「手掻門」(てがきもん)・「碾磑門」(てんがいもん)・「景清門」(かげきよもん)・「佐保路門」(さほじもん)など多くの名称・愛称をもつ。
東大寺公式HPには
「!お願い、野良猫の被害で困っています。門の周辺でエサなどを与えないで下さい。」という悲痛な叫びが、囲み付きで掲載されている。糞尿や爪とぎのようです、「ニャン害門」とは・・・

門なのに扉が見られない。明治の廃仏毀釈で、誰でもが入れるように門扉が取り払われたという。東大寺といえ、明治の神風狂気を防ぎえなかったようです。門は開いているが、通れないどころか柵で囲われ立ち寄りできないようになっている。これは猫だけではないぞ!
門中の中央には、四個の礎石らしきものが見られる。門横の案内板には
「この門は当寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)の祭礼が行われて遷座の場所となり重要視されてきた。基壇中央には、神輿安置の小礎四個が据えられ、天井も格天井に改められ、現今も川上町の有志により大注連が中央の二柱に懸けられている」と説明されていました。
なお門横にある「奈良きたまち転害門観光案内所」では、佐保・佐紀路の貴重な観光案内地図・パンフが入手できる。是非、立ち寄ってみるべし。トイレも有り。10時~16時、木曜日休館。

 南山城(京都)へ向かう古道「奈良坂」  


転害門前の道「京街道」を北上します。途中「北山十八間戸」「奈良少年刑務所」「般若寺」「奈良豆比古神社」の標識が見える。
奈良少年刑務所の茶色のレンガが見えてきた。般若寺へは右へ折れる道をとります。またこの折れ口に国史跡「北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)」があります。鎌倉時代の寛元元年(1243年)、西大寺の僧・忍性によってハンセン病などの重病者を保護・救済するための施設として造られたもの。

奈良少年刑務所の前身は、明治三十四年から七年間かけ、ヨーロッパ中世の城や礼拝堂を参考に洋風レンガ造りとして建設された奈良監獄。山下啓次郎(ジャズピアニストの山下洋輔さんの祖父)による設計で、明治文明開化を現す建物の一つ。現在も少年刑務所として年少受刑者の更正に使われている。
「二つの円形ドーム屋根を持つ重厚なれんが造りの表門や、中央看視所から放射状に配置された五つの舎房。奈良少年刑務所(奈良市般若寺町)は明治政府が全国で建てた「五大監獄」の中で唯一、完全な形で当時の姿を残しており、市民有志による保存運動も起きている」(平成26年新聞記事)という。「近代の名建築 奈良少年刑務所を重要文化財に!」を目指す保存運動の会長が山下洋輔さん。

 般若寺(はんにゃじ)  


これが般若寺の正門にあたる楼門(ろうもん、国宝)です。入母屋造・本瓦葺きの二階建て楼門で、京街道に面して西向きに建つ。鎌倉時代(13世紀後半)に伽藍が再興された時に建立された。明治30年(1897)に国宝に指定。豪華さは無いが、均整がとれ落ち着いた重厚さが感じられる。その優れた意匠は楼門建築の傑作とされています。
般若寺の創建について、受付でいただいたパンフレットには「飛鳥時代高句麗僧慧灌(えかん)法師によって開かれた。都が奈良に遷って天平七年(735)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため「大般若経」を基壇に納め塔を建てられたのが寺名の起こり・・・」とあります。
平安末期の治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。鎌倉時代に入ってから再興が進められ、十三重石塔建立や、西大寺の僧・叡尊によって本尊文殊菩薩像の造立や伽藍の復興が行われた。

「その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている」(wikipedia)

高さ12.6メートルの十三重石塔(重要文化財)。日本の代表的な石塔の一つ。戦火で焼け落ちた東大寺再建のために南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)らにより建長5年(1253年)頃に建立された。

本堂(奈良県指定文化財)は寛文7年(1667年)に建てられた。薄暗い本堂には、木造文殊菩薩騎獅像、四天王立像、不動明王坐像など多くの仏像が並んでいたが、護良親王が身を潜め難を遁れたという黒さびた唐櫃だけが印象に残っている。この唐櫃は鎌倉時代の大般若経の経箱だったそうです。
私以外誰も居ていないガラーンとした境内。「コスモス寺」あるいは「花の寺」とも呼ばれ、四季折々の花が楽しめるそうですが、現在は萎れた山吹の花を楽しむ?くらい。

平重衡(たいらのしげひら)の供養塔も建つ。度重なる興福寺の横暴に業をにやした平清盛は,五男・重衡に南都襲撃の命を下す。治承4年(1180年)奈良坂の般若寺に本陣をはった重衡は、南都焼き討ちを命ずる。火は折からの強風にあおられまたたくまに燃え広がり,東大寺大仏殿、興福寺だけでなく般若寺も全て灰燼に帰してしまった。
その後、平家は滅亡の途を辿るが,重衡は捉えられ南都に連れ戻され、木津川の河原で斬首された。その首が般若寺の大鳥居に晒されたという。
焼き討ちにされた憎っくき武将だが、供養塔を建てている。これも仏の慈悲なのでしょうか?

 奈良豆比古神社(ならつひこじんじゃ)  


般若寺前の奈良街道(京街道)をさらに北へ400mほど進むと,左手に「奈良豆比古神社」が見えてくる。
神社の由緒は,志貴皇子(しきのみこ,施基親王とも。天智天皇の第7皇子であり、第49代・光仁天皇の父)が病気療養のために隠居していた奈良山春日離宮の地に,宝亀2年(771年)のその志貴親王を祀ったのに始まるとされる。かっては「奈良坂春日社」とも呼ばれていた。
この神社は、能楽の原点といわれる『翁舞』(おきなまい)で知られる。「翁舞」は、8世紀、祭神春日王(志貴皇子の第二皇子)の病の平癒を王の皇子・浄人王(きよひとおう)が祈願して、舞を奉納したのが起源とされている。国指定の重要無形文化財です。拝殿前の中央に立派な能舞台が設けられ、「翁舞保存会」の人たちによって,毎年10月8日の「秋祭宵宮」の夜に篝火の中で舞われるそうです。

 多聞城跡(たもんじょう)  



南都と京を結ぶ奈良坂の交通・軍事上のの要衝にかって「多聞城」があった。
東大寺・転害門から一条通りを西に200mほど行き、北に少し入ると佐保川に架かる若草橋に出会う。橋を渡り、緩やかな坂道を上って行くと、突き当りが多聞城跡に建てられた若草中学校です。左側の丘陵が聖武天皇とその妃の眠る佐保山陵。
校門からこれ以上中に入れない。この辺りでウロウロしていると不審者のようで、どうも気マズイ。校門の中を覗くと、校舎へつづく階段の横に「多聞城跡」と刻まれた石標が建っている。周辺を見廻すが、石標以外に城跡を示すようなものは見あたらない。「多聞城跡」の石標を確認しただけで良しとし、引き返そうとすると、二人の生徒がやってきた。城跡のことを尋ねていると、「一般の人も中へ入っていかれますヨ」と教えてくれた。学校に迷惑かからない程度に、校内へ入れるようだ。

多聞城の歴史を調べてみました。
南北朝時代以降,大和一円は三好長慶の支配下にあった。戦国武将・松永久秀(まつながひさひで,1510~77)はその家臣で,大和の統治を任される。久秀は信貴山城を拠点としていたが,新たな支配拠点として北方から興福寺や東大寺に睨みをきかせれる眉間寺山(みけんじやま)に城を築き「多聞城(多聞山城)」と名づけた(永禄四年(1561)頃)。城内に多聞天が祀られたためにそう呼ばれたという。
その後,大和の支配をめぐって三好三人衆や筒井順慶と争いを繰り返す。永禄10年(1567年)には,多聞城に陣取る久秀と東大寺に布陣する三好・筒井方とが、南都争奪をめぐりにらみ合う。久秀は東大寺へ夜襲をかけ勝利している(東大寺大仏殿の戦い)。この時,東大寺大仏殿は焼失し,大仏の首は落とされてしまう。
その後も争いは続いたが,天正元年(1573)台頭してきた織田信長に多聞城を包囲され,ついに屈服し城明け渡しとなる。以後、多聞城には信長配下の明智光秀、次いで柴田勝家が入った。
 
信長は天正4年(1576)に安土城を築き、久秀の宿敵・筒井順慶を大和の守護に任じ、大和一国を与えた。そして筒井順慶に多聞城の破却を命じる。天正5年(1577年)6月頃には四階層の天守も破壊され、築城からわずか16年間で多聞城は消滅したのです。破壊された多聞城の石材は筒井城や郡山城に利用されたという。またその建材は京都に運ばれ旧・二条城に活用されたそうです(旧・二条城は、本能寺の変で織田信忠とともに焼失)。
同年久秀は再度信長に叛旗をひるがえすが,破れ信貴山城の戦いで自害する。

松永久秀が築いた多聞城は城郭史上で重要な位置を占めている。四重天守(四階櫓とも)は,その後どの城郭でも見られる天守閣の先駆けとなった。城の周囲にめぐらした石垣、その塁上に白壁、瓦葺屋根の長屋形状の櫓が築かれたが、これは後の城郭につきものの多聞櫓の始まりであるとされる。多聞城は近世城郭の先駆けをなすもので,松永久秀は「近世式城郭建築の租」と呼ばれる。信長も安土桃山城をこの多聞城を見習って建てたという。多聞城を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが,この絢爛豪華な城郭を見て「日本において最も美麗なるものの一つ」「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と書き残している。

廃城後の多聞城跡地だが,江戸時代には与力や同心の屋敷が立ち並び、幕末には練兵場に利用された。昭和中頃までは築城当時の地形がそのまま残されていたという。
戦後の昭和23年(1948年)に若草中学校が建設され、城の面影はほとんど失われ,当時を思い起こさせるものはほとんど残っていないそうです。

校門から入り右手の坂道を登ってみたが、城跡の形跡を示すようなものは何も無かった。これ以上は迷惑なので引き返す。坂道の下に多数の石仏が集められ、柵に閉じ込められていた。東大寺の大屋根が真近に望まれる。無縁仏達が、東大寺の大仏さんを睨んでいるような、救いを求めているような、不思議な光景です。

 興福院(こんぶいん)  

転害門から平城宮跡まで真っ直ぐな道が約2キロ通っている。この「一条通り」の中ほどに興福院があります。佐保山丘陵の麓に位置し、周辺は閑静で緑豊かな落ち着いた場所です。
浄土宗知恩院派に属し「法蓮山・興福院(こんぶいん)」と称する尼僧寺院です。
創建については複数説あり、明確ではない。寺伝では奈良時代の天平勝宝年間(749 - 757年)、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したというのが始まりとされる。場所は「西の京」の、現在の近鉄尼ヶ辻駅近く。その後は長く衰退していたが、安土桃山時代に豊臣秀長の援助を受け、復興する。そして天正年間(1573年~1592年)筒井順慶一族の女性が尼僧として入山し尼寺となる。その後徳川家光などの援助を受け本堂、客殿、大門などが建立される。寛文5年(1665)、徳川家綱から現在地の法蓮町の寺地を賜り移転する。本堂、客殿、大門などの建物もそのまま移築されたようです。
大門は寛永年間建立の四脚門で、奈良県指定有形文化財。閉まっており、受付も見当たらない。後で判ったが、電話予約が必要で、それも3~6月及び9~11月の午前中のみの拝観だそうです(拝観料;300円)。さすが尼寺・・・。門が開けられているので覗くと、奥に山門が見えるだけで、その先は見えない。
本堂があり、本堂と渡り廊下で結ばれた客殿(国重要文化財)があるそうです。客殿の書院庭園は小堀遠州の作で、4月のツバキ、5月のサツキの季節が特に見頃とか。また客殿には本尊の木造阿弥陀如来三尊像(国重文)が祀られているという。
代々の徳川将軍の位牌をまつる霊屋(奈良県指定有形文化財)もあり、装飾の一部に葵の紋を用いた奈良県下では珍しい徳川家ゆかりの霊廟建築だそうです。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初瀬街道から長谷寺へ (その 4)

2015年06月06日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 仁王門から登廊(のぼりろう)へ  


多くのお土産屋で賑わう門前町を抜けると「桜ノ馬場」と呼ばれている広場に出る。そこから緩やかな階段を上ると仁王門が迎えてくれる。ここが長谷寺の入口となり、仁王門前の受付で入山料五百円支払い、門をくぐる。
仁王門(重要文化財)は長谷寺の総門にあたり、門の両側には仁王像、上階には釈迦三尊と十六羅漢が祀られている。入母屋造り本瓦葺の二階建の非常に重厚な感じがする門で、長谷寺に相応しい。

仁王門を潜ると、目の前に石の階段が長い廊下となって奥へ延びている。屋根付きなので「登廊」と呼ばれ、長谷寺の名物となっています。天井には長谷型と呼ばれる丸い灯籠が吊るされている。
登廊は全長108間、全部で三百九十九段の石段からなり、本堂(観音堂)まで続いている。途中二箇所で折れ、下から「下登廊、中登廊、上登廊」と呼び、折れ目の場所には「繋屋」「蔵王堂」の建物がある。これらはいずれも重要文化財に指定されています。階段といっても緩やかで、お年寄りでも楽に登れます。

登廊のすぐ右側斜面が長谷寺名物のボタン園です。長谷寺は「牡丹の寺」として知られ、寺全体で百五十種七千本のボタンがあり、四月中旬~五月にはボタンの花で埋め尽くされます。
一昨年(2013)五月に訪れた時の写真です。斜面全体に色鮮やかなボタンの大輪が咲き、多くの人出で賑わっていました。




 本堂(国宝)  



下、中、上の三つ折れ登廊を登りきった出口が鐘楼の二階建ての建物。その横に本堂がそびえる。
本堂横の鐘楼(重要文化財)は、藤原定家が『年を経ぬ 祈る契は初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ』(新古今和歌集)と詠んだことから「尾上の鐘」と呼ばれている。朝6時には時を知らせる鐘が、正午には鐘と法螺貝の音が響き渡る。長谷寺の慣わしとして千年の昔から絶える事無く続いている。

朱鳥元(686)年、道明上人によって初瀬山の中腹の西の岡に三重塔を中心としたお寺「本長谷寺」を建てたのが長谷寺の起源だとされる。その後、神亀4年(727年)に道明上人の弟子である徳道上人が本長谷寺の東に聖武天皇の勅願をうけ十一面観世音菩薩を刻み、それを安置し祀るお堂を建立し「後長谷寺」としたのがこの本堂です。
平安から戦国時代にかけて七度も焼失した。豊臣秀長の援助で天正16(1588)年に再建されたが、その後徳川3代将軍家光の寄進(2万両)を受け、慶安3年(1650)に再度造り直されたものが現在の本堂。木造では東大寺大仏殿に次ぐ大きさで、平成16年(2004)に国宝に指定される。

本堂の中央は東から西側へ貫く通路となっている。これを「相の間」と呼ぶそうです。入って右側が本尊の十一面観音立像を安置する「正堂(しょうどう、内陣)」、左の広間は「礼堂(らいどう)」と呼ばれる。
「相の間」は一段低い石敷きの薄暗い通路で、そこを通るとおごそかで心が引き締まる気分にさせられるます。右側を見上げると巨大な観音さんが立っておられ、今にも迫ってくるような迫力があります。
左の「礼堂」は板敷き床の大広間になっており、相の間を挟んで正堂の本尊・十一面観音を拝することができるようになっている。
一昨年(2013)訪れた時は、特別拝観期間中(3/3-5/31)で法要が行われている真っ最中でした。僧侶の読経の声が響く中、沢山の参拝者の方たちが正座し読経を聞いておられました。礼堂の後ろはすぐ「長谷の舞台」です。そこから礼堂を「内舞台」とも呼ぶ。

本堂は初瀬山(546m)の中腹の傾斜地に南を正面として建てられている。そのため南側は、山腹にせり出す形で床下に柱を組み張り出し舞台の構造になっており、「長谷の舞台」と呼ばれている。規模は小さいが、京都の清水寺本堂と同じ懸造(かけづくり、舞台造とも)です。京都・清水さんとそっくりです。

舞台上からの眺望が素晴らしい。遠くに宇陀に続く山並み、下には山々に抱かれた初瀬の門前町の家並みが一望できる。谷沿いを左に行けば伊勢へ続く街道筋。右は直ぐ”まほろば”大和の地にでる。

この地は古来「隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)」として神聖視され、特別な感慨をもって見られてきたのも頷ける。「隠りくの」という枕詞は「山に包まれた処」の意で、泊瀬は初瀬のこと。

 御影堂(みえどう)・本(もと)長谷寺・五重塔  


本堂から山腹の方へ向かう緩やかな坂道を登って行く。この道は御影堂、本長谷寺、五重塔など見所多く、また景色も堪能できる。この周辺が紅葉の一番綺麗な場所ではないでしょうか。春から夏は新緑が冴え清々しく、この秋の紅葉のシーズンになるとこの辺り真っ赤に染まり絶景になります。春の桜はどうなんでしょうか?。

御影堂の周辺はひときわ紅葉が冴える。御影堂の立札には「宗祖弘法大師入定1150年御遺忌を記念して、その御徳を偲び、昭和59年建立せられる」とあります。

御影堂から本長谷寺、五重塔と続く道も癒しの道です。この辺りが”初瀬山の西の岡”にあたるのでしょうか。ここからは”東の岡”の本堂や張り出し舞台もよく見える。

「本(もと)長谷寺」は、飛鳥・川原寺(弘福寺)の僧道明が弟子の徳道らを率いて三重塔やお堂を建て、天武天皇の病気平癒を祈って、「銅板法華説相図」を初瀬山の西の岡に納めて祈願したのが長谷寺の始まりといわれる。

手前の竹の柵で囲われた礎石が、本長谷寺とされる三重塔跡です。たびたび焼失したが、慶長年間に豊臣秀頼によって再建されここに建っていたという。しかしこれも明治9年(1876年)の落雷で焼失し、礎石だけが残されている。

奥に見える五重塔は、案内板によれば「昭和二十九年 戦争受難者檀信徒慰霊及びに世界平和を祈願して建立されました」とある。どうりで新しいナァ、と感じたものです。内部には、本尊に大日如来を祀っているそうです。

最後に、南の端に位置する本坊へ行く。ここからは”東の岡”の本堂を眺めることができる。
長谷寺紅葉絵巻で、極楽浄土の世界か、地獄の炎か。

お寺の各所にいろいろな種類の花が植えられている。牡丹をはじめ四季を通じて「花の御寺」として有名です。春は桜と牡丹、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は寒牡丹と、ほぼ年中美しい境内の眺めを満喫できます。
平安時代以降、長谷詣でが盛んになり、貴族から庶民まで多くの人が参拝に訪れている。「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「蜻蛉日記」の作者も参詣し、作品の中に取り入れている。


詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初瀬街道から長谷寺へ (その 3)

2015年05月24日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 長谷山口坐(はせやまぐちにいます)神社  


参道に入り少し進むと、右手に細い路地があり、奥に朱色の太鼓橋が見える。脇に「延喜式内社 長谷山口座神社」の社標がある。長い石段を登りきると、小さな境内に拝殿と本殿が佇む。
案内板には
「長谷(はせ)山口神社由緒(ゆいしょ)記
当神社は長谷山の鎭(しづめ)の神として太古より大山祗(おおやまつみ)の神を祭神としている。第十一代垂仁天皇の御代倭(やまと)姫の命を御杖として、この地域の「磯城嚴橿の本(しきいつかしのもと)」に約八ヶ年、天照大神をおまつりになった時、随神としてこの地に天手力雄(あまのたぢからを)の神、北の山の中腹に豊(とよ)秋津姫の神をまつる二社を鎭座せられた。」とあります。

 伊勢の辻から化粧坂へ  



長谷参道の名物「くさ餅」の店があります。右に折れる道があり、その角はに「伊勢辻 右 いせみち」と彫られた石の道標(1726年建立)が建っている。ここが「伊勢の辻」と呼ばれ、真っ直ぐ参道を進めば長谷寺へ、右の道に入れば伊賀・伊勢方面への伊勢街道です。

伊勢の辻を右に入り、初瀬川に架かる「伊勢辻橋」を渡ると、道は左右に分岐する。行き先はどちらも伊勢方面で同じだが、右は車も通れる新しい道。左側がかっての伊勢街道です。

左に入っていくと、落ち葉が散乱し、旧街道の雰囲気を漂わす。やがてやや勾配のきつい七曲りの坂道となる。このあたりで伊勢参りの旅人たちが衣装直しや化粧直しをしたことから「化粧坂(けはいさか)」と呼ばれている。長谷寺に参詣した伊勢参りの旅人は、ここを曲がり榛原を経由して伊勢を目指したのです。
15分位で七曲りの坂を登りきると峠に出、視界が開けてくる。ここには峠の茶屋があり、旅人が一服したという。

 紅葉スポット:愛宕神社  



左に折れれば伊勢街道だが、この峠には右への道もある。この道を進めばすぐ紅葉スポット:愛宕神社です。ここも絶好の休息場所で、初瀬川を挟んで長谷寺を真正面から拝することもできる。今も昔も変わらない。

それほど広くない境内の中央に、燈籠と小さな祠が長谷寺本堂と向かい合う形で建っている。かって大きな社が建っていたというが、昭和十七年の火災で焼失し、再建されないままになっているそうです。確か、愛宕神社は火伏せ・防火に霊験のある神さまのはずですが・・・。
ここには建物は無いほうが良い。目立つ社殿がないだけ紅葉がひときわ鮮やかに見える。こんな素晴らしい場所を誰も知らないのでしょうか。私が居た20分ほどの間、誰一人来なかった。紅葉だけなら長谷寺よりはるかに勝ります。

初瀬川のある谷を挟んで長谷寺の全景が一望できます。ここで観音さんに手を合わすだけで十分です。きっと昔の人はそうしたんでしょうネ。
本居宣長の「菅笠日記」(1772年・明和9年)に
「けはひ坂とて さがしき坂をすこしくだる 此坂路より はつせの寺も里も 目のまへにちかく あざあざと見わたされるけしき えもいはず」。彼も化粧坂を登りこの景色を眺めたのでしょうか?

写真を撮ろうと前のめりしたら、急崖を2mほど滑り落ちた。足元ご用心・・・

 法起院(ほっきいん)  


愛宕神社から伊勢の辻にもどり、参拝道を進むと右側に「長谷寺開山徳道上人」と刻まれた石標が建ち、奥へ続く路地が見える。
ここは天平7年(735)の開基された法起院で、西国三十三ヶ所観音霊場巡礼を始めた徳道上人が晩年隠棲した寺です。そしてここ法起院は西国三十三カ所霊場巡りの番外札所として、霊場巡りを終えた人が最後に参詣する寺院になっている。
境内はそれほど広くはない。開山堂(本堂)には本尊の徳道上人自身の木像が安置され、本堂の左奥に十三重石塔があり、徳道上人の墓所とされている。

 與喜山(よきやま、天神山)へ  


法起院から少し進むと、参道はほぼ直角に左折している。左に折れ、お土産屋の間を100mほどたどると長谷寺はすぐそこ。左折しないで正面を見ると、初瀬川にかかる紅い欄干の「天神橋」、その先に階段が伸び紅い鳥居が見える。この道は與喜山(天神山)中腹の與喜天満神社、素盞雄神社を迂回して長谷寺へたどるコースです。”裏参道”というのでしょうか。表参道に比べ距離は数倍あり、きつい階段や山道がありで体力的にハードです。しかし土産屋の呼び声を聞くより、はるかに見所は多い。裏へ廻ることにします。

橋の上からは、初瀬川越しに長谷寺が一望できる。
鳥居から少し入ると左側に空き地があり、「與喜寺跡」の石柱だけが建っている。ここも廃仏毀釈で消滅したのでしょうか?。今は、椅子が寂しげに置かれ展望所となっています。初瀬の集落が一望でき、「隠口(こもりく)」のイメージがぴったりです。
「隠口の泊瀬」と萬葉集に多くの歌が詠まれている。、「隠口(隠国、こもりく)」とは泊瀬(初瀬)にかかる枕詞で、両側から山が迫ってそれに囲まれたような「山間の隠れた国」という意味だそうです。

 與喜(よき)天満神社  


與喜寺跡からさらに長~い石段の参道が待っている。杉の大木に囲まれ、100段位はあるでしょうか?。この階段の上、與喜山中腹に鎮座するのが菅原道真公を主祭神とし祀る與喜天満神社です。
道真の神霊が現れ「私は右大臣正二位菅原道真だ、私はこの良き山に神となって鎮座しよう。」と語って神鎮まったという。「良き山」から”與喜(よき)”という名前が付けられたようです。
通史では、出雲(島根県)の野見宿祢は、垂仁天皇により大和へ招来されたという。しかし、初瀬の出雲の地が野見宿祢の出身地だという伝承も残る。だから野見宿祢を先祖とする菅原道真がこの近辺と縁が深いのも頷ける。

 玉鬘庵跡(たまかずらあん)と素盞雄(すさのお)神社  



與喜天満神社境内の脇に「裏参道」と書かれた木札が立てられ、下へ降りる道が見える。この道を降りていけば長谷寺へ行けるので下りて行く。竹薮に囲まれた石段の途中に「源氏物語(玉鬘編)」にでてくるという「玉鬘庵跡」の板札が立っている。板札の矢印の指す方向を探すと、何やら跡らしきものがある。工具箱やらゴミが散乱し、竹林を除いて源氏物語の世界とはほど遠い。「源氏物語」ってノンフィクション?フィクション?。

玉鬘庵跡の立て札から数段下りた所にも「素盞雄神社」の立て札が立つ。右方を見れば、黄色に染まった大樹の下に社殿が見えます。與喜山は天照大神が降臨した山だ、との伝承をもつのでその弟神の素盞雄命の霊を祀ったものと思われる。大銀杏がそびえ、地面一面を黄色に染めあげている。推定樹齢800年、樹高約40m,周囲約7.5m。イチョウの巨樹としては県下最大のもので県指定天然記念物となっている。

初瀬川を挟んで向かいの山が長谷寺で、ここから長谷寺全体を眺望できる

 連歌橋  



與喜山からの出口にも紅い橋が架かっている。「連歌橋」と呼ばれている。
かって長谷寺に集まった僧や貴族たちが與喜天満神社境内の連歌会所・菅明院での連歌会のため、初瀬川に架かるこの橋を渡ったとことから名付けられたそうです。
連歌橋から長谷寺の入口は直ぐ近く。




詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初瀬街道から長谷寺へ (その 2)

2015年05月13日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 脇本遺跡  


玉列神社を後にし、民家と田園の広がる三輪山の山裾の道を東に歩く。「東海自然歩道」の標識があり、かつての初瀬街道と重なるのでしょうか。車も通らなければ人も見かけない、のどかな田舎道です。
田舎道はやがて右に大きくカーブし、平行して通っていた国道165号線にでる。その交わる辺りに脇本バス停があり、この一帯が脇本の集落です。山裾や国道の反対側には民家が集中しているが、脇本バス停を中心にして広大な空間が空き地になっている。この空間こそ、雄略天皇の「泊瀬朝倉宮跡」ではないかとされる「脇本遺跡」の場所です。

写真は「2012/9/29 橿原考古学研究所の現地説明会資料」によるもの。
この付近は、縄文・弥生時代から古墳時代にかけての遺物が出土し、脇本西遺跡・脇本東遺跡として以前から知られていた。昭和59年(1984)から桜井市と橿原考古学研究所によって、朝倉小学校校庭から国道165号線周辺にかけての発掘調査が行われた。

その結果、5世紀後半のものと推定される大規模な建物の存在を示す掘立柱の柱穴や溝の遺構が発見され、考古学的見地から『記紀』にみえる第21代雄略天皇の「泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)」跡と推定されています。現在、この建物遺構の跡は私有地のため埋め戻され稲田となっている。
2012年6月には七世紀後半の大型建物跡を発見され、伊勢神宮に斎王として向かった「天武天皇の娘、大伯皇女(661~701年)が心身を清めたとする泊瀬斎宮(はつせのいつきのみや)の一部である可能性が考えられる」と発表した。9月には泊瀬朝倉宮の関連施設と想定される五世紀後半の池状遺構を発掘したと発表された。

 黒崎の集落と白山神社  



脇本から、白山神社のある黒崎の集落へ向かう。黒崎の古い民家を見ていると、玄関の軒先にしゃもじが並べて掲げられている。どれも「八十八才」と書かれ、柄の部分に名前がある。民家の方に尋ねると、地区の八十八才になられた人の名前を書き込み門口に飾り、そのしゃもじでご飯を食べると長生きできる、という風習からきているようです。桜井周辺で古くから伝わっているとか。

日本全国いたるところにある白山神社の一つ。石川県白山市に鎮座する白山比(しらやまひめ)神社を総本山とし、菊理媛命(くくりひめのみこと)こと白山比命(しらやまひめのみこと)と菅原道真公を祭神とする。
境内はそれ程広くはなく、どこにでも見かける並みの神社です。拝殿奥には、朱塗・春日造で檜皮葺の本殿が覗く。
   
雄略天皇の歌を刻んだ石碑が置かれ、国道沿い神社入口の右手瑞垣越しに「万葉集発燿讃仰碑(はつようさんぎょうひ)」の石柱がのぞく。
雄略天皇がこの辺りの丘で摘み草をしている乙女たちに語りかけ歌ったもので、万葉集の冒頭を飾っている。そこから「万葉集」発祥の地であると。さらに雄略天皇の泊瀬朝倉宮の場所だとも、主張されている。

 出雲へ  



黒崎の田舎道から国道165号線に合流し、車道脇の歩道を歩かされることになる。ひたすら長谷寺方向へ歩きます。出雲地区に入ると、国道脇に「流れ地蔵」を祀る小さなお堂があります。
案内板によれば、室町時代末の地蔵石仏(高さ1.4メートル、幅63センチ、仏身1.15メートル、花崗岩)で、文化八年(1811年)の大洪水で、初瀬川上(長谷寺の桜の馬場)から現在地まで流されてきたのを当時の出雲村の人たちが助けて祀った、とされる。
この地域にも「出雲」があるようだ。とはいえ、お地蔵さんが流されるほどの大洪水とは。

ここは”出雲人形”で知られる。起こりは、垂仁天皇の時代に野見宿禰が出雲(島根県)の国から土師部(はじべ)を呼び寄せ埴輪をつくらせたことからくるという。土師部が此の地にも住み着き、埴輪つくりの技術を応用して土人形を作るようになった。ということは1500年も受け継がれてきた伝統工芸ということになります。天神や力士、狐などの型に粘土をつめて天日で乾かし、田の中に穴を掘って並べ、上から籾ワラなどをかぶせて火をつけて焼き上げ、泥絵具で彩色するという素朴なもの。これを”出雲人形”と呼び街道を行き交う人に売られていたという。

 十二柱神社(じゅうにばしらじんじゃ)  


出雲の集落には十二柱神社がある。祭神として、神世七代(かみよのななよ)の神と地神五代の神、合計十二柱の神が祀られています。
境内に出雲村伝説として「十二柱神社は出雲ムラの村社。大昔は、神殿がなく”ダンノダイラ”(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代の出雲集落地)の磐座を拝んだ。明治の初めごろまで、年に一度、全村民がダンノダイラへ登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲したり遊んだり食べたりした」と書かれている。
「ダンノダイラ」は現在の出雲集落の真北約1.4キロ、三輪山の背後から尾根続きになる巻向山山腹にあたる。標高400m近い山中だが、小川や沼地の跡も残り、そこから水を引き田畑を耕し生活できたようだ。今でも巨岩が剥き出しになっていて,かっての磐座信仰が偲ばれるという。
十二柱神社の石柵の並ぶ長い参道を進むと、途中に「相撲開祖 野見宿禰顕彰碑」なる石碑が置かれている。参道の奥に鳥居が立ち、その右横の石垣上に立派な五輪塔が見えます。これが野見宿禰(のみのすくね)の五輪塔(高さ2.85メートル)。
通史によれば、相撲開祖・野見宿禰は島根県の出雲国から召され垂仁天皇に仕えた、とされている。しかしこの地域の人々は、野見宿禰はここ出雲集落の出身で、この地から召されたと主張します。十二柱神社の南300m、初瀬川を渡った先の狛川(こまがわ)沿いに、古代より野見宿禰の古墳と称される直径20mを越える塚があり、その上に鎌倉時代初期に創られたという五輪塔が建っていた。明治16年に塚は取り壊され、五輪塔は十二柱神社境内に移された。塚のあった場所には、現在でも「野見宿禰塚跡」の碑が建っているという。

第25代武烈天皇は「小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと、日本書紀)・小長谷若雀命(古事記)」と呼ばれ、『古事記』には「長谷(はつせ)の列城宮(なみきのみや)におられて、天下を治めること8年」とある。その泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)伝承地が、ここ十二柱神社境内とされ、拝殿の右側に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑と「武烈天皇社」と書かれた小さな祠があります。

武烈天皇は非常に残虐な天皇であったとされ、子供がいなかったので、ここで皇統が途絶えてしまった。そこで、次の天皇として越前から継体天皇を迎え入れることになった。しかし武烈天皇については、その実在性を含め謎が多いとされています。

 長谷寺参拝道へ  


十二柱神社を後にし、再び国道165号線に出、長谷寺を目指す。車がひっきりなしに往来する国道の路側帯の歩道を歩く。この道は榛原・名張を経て三重県・中部圏へ通じている。

やがて「ようこそ長谷寺へ」の大きな看板のある初瀬観光センターに出くわす。現在”もみじ祭り”のまっ最中らしい。正面には長谷寺参拝道への入口を示す紅い門も見えます。初瀬観光センター内に出雲人形が展示されていました。非常に可愛らしいお人形さんです。ここで販売しているのかどうか、聞き忘れた。

紅い歓迎門を潜り、長谷寺へ向かう。約1キロほどあります。門から100mほど行くと、右手に紅い欄干の橋が見える。「参急橋」(さんきゅうはし)と刻まれている。「お参りに急ぐ」ことからこの名が付いたそうです。近鉄・長谷寺駅へはこの橋を渡り、かなりキツイ階段を登った上にある。距離はしれているが、急な勾配なので、帰りの疲れた身体には堪えました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初瀬街道から長谷寺へ (その1)

2015年05月09日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)  


桜井駅の南出口から、寂れた商店街を抜け東へ歩くと「跡見橋」が見えてきた。神武天皇が東征の折に、ここで後ろを見返したからという。「跡見橋」の手前で右手に入っていく細道がある。小川と民家の間の細い路地を通り、左側に曲がってゆくと正面に雑木林の小山が見える。これが茶臼山。
この地域の地名は「外山(とび)」、そこから「外山茶臼山古墳(とびちゃうすやまこふん)」とも呼ばれる。
鳥見山の北側にのびる丘陵尾根の先端を成形して墳丘を築いたものと想定される。墳丘の規模は、全長約207m・後円部径約110m・同高さ19m・前方部幅約61m・高さ11mの三段築成の前方後円墳で大きさは我が国三十一番目の規模をもつ。築造時期は古墳時代前期前半(4世紀初頭)で、箸墓古墳に続く初期の古墳とされている。ここ後円部の墳上からは、東西約9.8m・南北約12.3mの方形壇があり、その周囲を丸太で囲んだ「丸太垣 」跡が見つかっている。方形壇の約0.8m下には、南北6.8m・幅約1.1m・高さ約1.6mの竪穴式石室が南北方向に築かれていた。天井は12枚の巨石で塞がれ、石室内の石材は全て水銀朱で塗られていた。その石室の中央には木棺が納められていたが、現存していたのは高野槇で造られた長さ5.2m・幅70cmの底の部分と側面の一部だけという。その後の再発掘で、石室から国内最多の13種、81面の銅鏡が見つかった。古墳時代前期の古墳で、箸墓古墳に次ぐ時期の大王級の墓と考えら、初期ヤマト王権を考える上で重要な古墳と思われる。その割には、ただの丘陵のようにひっそりと佇んでいる。1973(昭和48)年国の指定史跡に。

古墳の西側から北側にかけ山裾は刈り込まれ道が通っている。しかし途中で行き止まりになっていて、一周はできない。墳頂への登り道を探すがはっきりしない。それ程高くないので、登れそうな所を雑草を掻き分けながら登ってみる。墳頂は雑草ボウボウで何にもありませんでした。古墳を示す形跡は何一つ見当たりません。雑木林に覆われて見晴らしもきかない。下の民家の方とお話しすると、2009年発掘調査当時は見学者の行列ができていたそうですが、現在は埋め戻されてしまい訪れる人もほとんどいないとか。



ここからは桜井市の民家越しに三輪山がくっきりと見える。三輪山の手前には初瀬川が流れ、それに沿う形で
初瀬・伊勢街道が東へ向かっている。ここは東方から大和に入る重要な場所でもある。




 宗像神社(むなかたじんじゃ)  


茶臼山古墳を後にし、南側の国道165号線を少し東へ歩くと宗像神社が見えてきた。

鳥居を潜ると正面に拝殿があり、その背後に社殿が鎮座する。社殿は塀で囲われているため、紅い屋根が少し見えるだけ。三棟からなり、中央が本殿で、右が春日社で左が春日若宮社。もともと宗像三神を祀っていたが南北朝時代に兵火で焼失し山麓に小祠だけとなる。明治に復活するまで 神域は奈良興福寺の支配下にあり、春日社だったようです。「神社は荒廃の一途を辿りましたが、幕末の国学者、鈴木重胤が嘉永七年(1854)当地を訪れた際、宗像三神の荒廃を嘆き、村民と相談の上、安政六年(1859)に改めて筑前の宗像本社から神霊を迎え再興し、翌年社殿が完成した。その後明治八年(1875)春日神社の社号を廃して宗像神社とした。明治21年社殿を更に改築して、初めて現在のごとく宗像の神を中央の位置とした」(宗像神社のホームページより)
境内の入口近く左側に「能楽宝生流発祥之地」と刻された石碑が建っている。伊賀国にいた世阿弥の弟蓮阿弥が大和へ来て、ここ外山の地で興こしたのが外山座(とびざ)で、後の宝生流となる。

 朝倉駅手前の天誅組烈士之墓  


宗像神社から国道165号線沿いを東へ進むと広い交差点にでる。この辺りは「宇陀が辻」と呼ばれ、桜井の伊勢街道(初瀬街道)から宇陀方面へ入る起点になっている。「忍坂」と書かれた標識の道を入っていくと宇陀へ続いている。真っ直ぐ行けば朝倉から長谷寺方面への伊勢街道(初瀬街道)です。長谷寺まで6キロの道路標識が見えます。


国道165号線から少し右脇に入り進むと、近鉄朝倉駅の手前の線路脇に「天誅組烈士之墓」の石碑が建つ。側面には「大正七年五月日 建之」「慈恩寺 有志者」と刻まれている。

文久3年(1863)、高取城攻略に失敗し幕府方に追われ、東吉野を経て散り散りになった天誅組。関為之助と前田繁馬の若き二人は、初瀬村まで逃れたが見つかり、全身に銃弾を受けて戦死した。
この石碑から上り、近鉄の踏み切りを渡った山裾に慈恩寺共同墓地がある。その中に若い命を散らした関為之助と前田繁馬の墓がある。

 欽明天皇・磯城嶋金刺宮跡(きんめいてんのう・しきしまのかなさしのみやあと)  


国道165号線に戻り少し進むと、前方が開け、紅葉に囲まれた三輪山と大和川の広い河川敷が現れた。かって市場が栄え、宮殿があった場所なのです。中国・隋の使者がここで船から降りたという。いくら想像たくましくしても、古代ヤマトのイメージが浮かんでこない。
大和川に架かる「真佐野渡橋(しんさのとはし)」の手前を左に入り、河川敷沿いに歩いて磯城嶋公園へ向かいます。


この周辺は真っ白なコンクリートの固まり「中和幹線道路」が築かれ、景観が全く一変してしまい”いにしえ”の雰囲気は全く無い。
高架の下を潜り北側に出ると川沿いに小さな公園が見える。巨大な高架道路と大和川に挟まれ、窮屈そうな磯城嶋公園です。


この磯城嶋公園の東端に、四つの石碑が建つ。右から『磯城邑傳稱地』『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』『仏教公伝』『柿本人麻呂の歌碑』の碑が並ぶ。いかにも急場しのぎでまとめて置かれたといった風に見えます。『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』碑は、今まで中和幹線道路の南側の桜井市水道局前庭に置かれていたが、何らかの事情でここに移されたようだ。

『日本書紀』や『古事記』によれば、欽明天皇は即位した翌年の7月、磯城郡の磯城嶋(しきしま)に金刺宮(かなさしのみや)を営んだと記す。第29代欽明天皇は、継体天皇と手白香皇女(たしらか)との間に生まれ、異母兄・宣化天皇の後を継いで32年間(539 - 571)在位した。そして敏達天皇・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の四天皇の親であり、聖徳太子の祖父に当たる。

ここから1キロほど北西には「崇神天皇磯城端離宮跡(しきのみずがきのみや)」がある。三輪山の南西麓で、大和川沿いのこの地域は、古くは「磯城(しき)」と呼ばれていたようです。飛鳥(明日香)に都が置かれる以前の時代です。現在、飛鳥は注目されているが、その前の大和王朝の礎を創った「磯城・磐余」(桜井市)の地がもっと注目されてよいと思うのですが・・・。仏教が最初に持ち込まれた場所でもあり、聖徳太子が青春時代を送った所でもあるんです。
現在の地名は「外山区城島町」となっており、「磯城嶋」の名残を残す。「磯城嶋(敷島、しきしま)」は日本の古名「大和」にかかる枕詞であり、日本の原点とされるべき地域なのです。

『仏教公伝』の碑には、郷土の文芸評論家・保田與重郎(やすだよじゅうろう)氏の著作から引用し、
"初瀬川の南に、磯城金刺宮がある。佛教が正式に渡来したのはこの都である。日本佛教発祥の地である" と刻まれている。

 玉列(たまつら)神社  



公園を後にし、慈恩寺集落へ入っていく。初瀬川右岸沿いに走る県道199号線(慈恩寺三輪線)の北側、三輪山の山裾の住宅道(東海道自然歩道?)を歩いていると玉列神社の標識に出会う。坂道を山側に上って行くと、階段と鳥居が見える。

階段の上り口で、右側を見ると鮮やかな紅葉と朽ちかけた巨樹が目に付く。つっかい棒で支えられ辛うじて倒れないでいる様子。傍には奈良県保護樹木の標識が建てられ「樹齢800年といわれ、「阿弥陀寺のケヤキ」「雷の落ちた木」と言って地域住民の人々に親しまれている」と書かれている。欅(ケヤキ)の大木で、落雷に遭いこのような姿になってしまったようだ。幹の中央に空洞がポッカリ空いている。それでも生きている証に、色ついた葉枝を精一杯広げているのが痛々しい。欅の周りには、付近の街道沿いから拾い集められた小石仏や道標が並べられている。
鳥居を潜って薄暗い参道を進むと、正面階段上に拝殿(割拝殿)が見え、その奥に石垣上に瑞垣に囲まれて本殿(春日造・桧皮葺)が建つ。祭神は大物主(大神神社の祭神)の御子神である玉列王子(たまつらのみこ)神とされる。しかし記紀などにはみえず、確たる出自・神格などは不詳だそうです。本殿右下に三つの境内社が並ぶ。右から”金の神様”金山彦社、”道と教えの神様”猿田彦社、”火(かまど)の神様”愛宕社。

玉列神社は古くは「玉椿(たまつばき)大明神」と呼ばれ、椿の神社として有名。後ろの山には椿の大木が多く茂り、また境内には早咲き、遅咲きなど200種500本あり、その時期になると境内は椿の花で埋め尽くされ彩られるという。参道脇には椿の苗木が多数植えられ、奉納者の名前や、「京錦、若武者、らんまん、薩摩、さかさ富士・・・」などの名札が添えられている。

毎年椿が見頃な3月の最終日曜日には椿まつりも開催され、神事・浦安の舞・御神酒の振る舞い・椿にゅう麺(三輪そうめん?)の振る舞い・椿の展示・販売・椿饅頭(150円)の販売が行われるという。
境内の広場には「奉納演芸場」が設けられている。椿まつりでは、この舞台で髪に椿の花を付けた巫女による神楽「浦安の舞」の奉奏が行われるそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋津洲(あきつしま)の道 (その 4)

2014年12月22日 | 街道歩き

 国見山  


掖上鑵子塚古墳をやり過ごし、これから国見山へ登ります。今まで国見山山頂への道は無かったそうですが、数年前から地元有志や市によって登山道が造られたそうです。山裾に沿って農道を進むが、入口がハッキリしない。案内や標識など期待できず、カンに頼るのみだ。ここだろうと思い入った道が間違っていて、進むに従い山笹と深い雑草で道跡は消えてしまった。これはヤバイと引き返し国見山登頂は断念することにした。引き返す途中に偶然に登山道を見つけました。杉木立に囲まれ薄暗く、見晴らしのきかない山道を20分ほど登ると山頂に着く。14時15分。
海抜229mの山頂は、雑木が伐採され雑草が刈り取られ、応急的な広場となっている。一番高い所に石碑が建てられ、その脇に木製の簡易椅子が設けられていた。休憩するもよし、国見するもよし。といってもそれ程見渡せない。南を望めば金剛山や大峰山系が、北を見れば、木々の間から大和三山がかすかに覗き見える程度。願わくば、秋津洲(御所市)を見渡せるようにして欲しかった。「蜻蛉の臀占」の様子を眺めてみたかったのですが・・・。

石碑には「?間丘」「神武天皇聖蹟傳説地」、裏側に「皇紀2600年」と刻まれている。

日本書紀によると、大和を平定した神武天皇は掖上の「ホホ間の丘」に登って国見をされた,と書かれている。その丘がこの山で、後に「国見山」と呼ぶようになった。神武天皇はここで国見し「なんと素晴らしい国だ、蜻蛉の臀占のようだ」と感嘆されたそうです。日本古典文学大系『日本書紀』の頭注によると「蜻蛉(トンボ、秋津)がトナメ(交尾)して飛んでいくように、山々がつづいて囲んでいる国だなの意」だそうです。こうして日本を「秋津洲(あきつしま)」と呼ぶようになった、とされる。「?間丘」は、国見神社の案内板によれば「ほほまおか」と読むようです。

なお「国見山」という名前の山は、奈良県には幾つかあります。天理市の国見山(標高680m)、宇陀市の国見山(標高1016m)、吉野郡東吉野村の国見山(標高1248m)・・・。

 国見神社  


国見山から下山し、山腹の途中にある国見神社に寄る。本来、こちら側が国見山への登山ルートで道も整っている。私が登ってきた道は反対側で裏ルートまたは下山道だったようです。
山頂から国見神社までの高低差は100m位。15分程で神社に着きました。案内板によると、元々は山頂にあったようですが、いつの頃か東麓の現在地に移され、周辺地区の氏神として祀られているようです。
多くの石燈籠に守られ本殿が鎮座している。ここには主祭神として、天照大神の命により天孫降臨をした瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が祀られている。神武天皇の曾祖父ともされ、東征で大和を平定した神武天皇が、国見山に曾祖父を祀ったと伝えられる・・・神話ですが。

国見神社の参道を真っ直ぐ進むとJR掖上駅の方へ行ってしまうので、一の鳥居の所を左に曲がって行くと、最初に上り始めた場所へ戻れる。在所の住宅路や農道が入り組んでいるので、かなりややこしく一筋縄ではいきませんが・・・。迷いながらも、かろうじて元の入山道に戻ってこれた。手前の左に入る脇道が、正しい国見山への登山道。私は間違って、もう一本向こうの道から竹薮の中に迷い込み酷い目に会いました。これくらいの山に標識など期待できません。では何を頼りに・・・・

 孝安天皇玉手丘上陵(こうあんてんのうたまてのおかのうえのみささぎ)  


国見山へ向かった道を逆戻りし、秋津鴻池病院の裏にある道に入り山裾の道を北へ進む。左側に葛城・金剛の山並みを遠望しながら、平坦な道をのんびり15分ほど歩けば玉手山です。長い階段を登った上には、左に孝安天皇神社拝殿(孝安天皇社)、右手に琴毘羅神社(こんぴらじんじゃ)があります。目的の孝安天皇玉手丘上陵はどこだろう?。山上から北に少し下ると小石畳の整備された階段がある。階段を100mほど進むと整地された広場の奥に、城壁のような重々しい構えをした孝安天皇の玉手丘上陵が現れた。古墳のようですが、玉手山の北の丘陵部分を利用して築造された陵墓のようです。今まで多くの天皇稜を見てきましたが、これほど重厚な拝所を構えた陵墓もそう多くない。
第6代孝安天皇は、歴代天皇中最長の在位期間102年とされ、年齢も日本書紀によれば137歳、古事記では123歳という超長寿の方。この天皇様も「欠史八代」といわれ、その実在性が疑問視されている。それにしては、豪華な陵墓なこと・・・。

 役小角 たらいの森・杓(しゃく)の森  




玉手山を降り、200mほど北進すると広い県道116号線にでる。その国道116号線への出口で、チラッと右横を向くと、民家の一角に小さな石柱が立つ。「役小角 たらいの森」と刻まれています。
修験道の開祖、役小角はこの近くの寺で生まれたが、その誕生の時、産湯を浴せられたたらいを埋めた場所だという。土地の人はこれを「たらいの森」といい、安産祈願の塚として守っているそうです。森にしては貧相ですが・・・








県道116号線にでて、県道沿いを南側へ200mほどバックします。玉手山の裾に目をやると、大きな樹木の下に石柱が見える。これが「役小角 杓の森」です。役小角の誕生時に、産湯を汲んだ杓を埋めた場所だそうです。大きな樹木は棗(なつめ)の老樹で、この辺一帯は「棗ケ原」と呼ばれ、昔から棗の木が多く生い茂っていたという。







 吉祥草寺(きっしょうそうじ)  


16時、県道116号線沿いを北に進み、JR和歌山線の踏切を渡ります。この周辺は、高速道路や県道が交差し車の往来が激しく、「秋津洲の道」では一番の難所です。できたら避けて通りたい所。少し進むとコンビニがあるので、その北側にある脇道を左へ入る。すぐ吉祥草寺の正門です。「役行者 誕生所」の大きな札が掲げられている。寺伝によると役行者が生まれた時、葛城の山野に吉事の時にしか咲かない吉祥草(キチジョウソウ、スズラン科で蘭に似た花、花言葉は吉事・祝福)が咲き乱れたので、この寺名になったという。

この寺が修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)の生誕地といわれる。「役行者」とも呼ばれています。
役小角は、舒明天皇の代、蘇我氏全盛の時期(630年代、諸説あるが634年が有力)に葛城山東麓の大和国葛木上郡茅原(かつらぎのかみのこおりちはら、現在の御所市茅原)のここで生まれたとされる。「役(えん)」は姓(苗字)で、賀茂君(のちの高賀茂朝臣)の氏族の中の役君の家に生まれた。ただし「役」という苗字の人物は、歴史上「小角」しかおらず、不思議な苗字です。父の幼名が「大角」といったので、「小角」と名を付けたとか。

境内左に雑木林がある。その中に「役小角 産湯の井戸」が残されている。寺伝によれば、役行者御隆誕の時「一童子現れ、自ら香精童子と称し、大峯の瀑水を吸みて役ノ小角を潅浴す、その水、地に滴りて井戸となる」という。
母の名は「白専女(しらとうめ)」とされるが、地元では今でも「とらめ」と呼ばれている。母は「月を飲んだと夢見て」「天から降ってきた金色の独鈷(とっこ)が口に入るのを夢見て」小角を身ごもったという話が伝わる。身籠った母の体から光明が放たれ、不思議な香りが漂うようになったという。そして生まれた小角は、手に一枝の花を握り「かつて願うところはすでに成就した。今は一切の衆生を化して、みな仏道に入らしめる」と語ったという。

怪物・役行者には判らないことが多い。出生もその一つ。修験道信仰の高まりと共に、その開祖・役行者には噂・伝承が付加されていき偶像化されていった。聖徳太子、弘法大師、菅原道真なども同じ類。

最期もまた凄い。朝廷は危険分子として捕まえるため母を人質にとると、「母を免れしめんために出頭し捕縛された。そして伊豆の島に流された。時に身は海の上に浮かび、海の上を走ること陸の上のごとくであった。また空を飛ぶことは、羽ばたき天翔る鳳(おおとり)のごとし。昼は天皇の勅命に従い島に留まり修行した。夜は駿河の富士の御嶽に往きて修行した」(日本靈異記)そうです。三年後(701年)、罪を許され故郷に戻った小角は、何処ともなく天に飛び去った、という。「役行者は、自らは草座に乗り、母は鉢に乗せて唐に渡った」とその最期を閉じられている。

「産湯の井戸」のすぐ近くには「役行者 腰掛け石」がある。各地の山々を踏み分けて修行している間にも、時々この茅原に戻り、この石に座して精神修行をされたという。有り難い石なので、皆様もこの石に座してみてください、とあります。丁度坐りやすいくらいの高さで、平べったくなっている。
京都祇園祭の山鉾に「役行者山」がある。室町通三条上ル役行者町で、そこにも「役行者神腰掛け石」があります。傍の立札には、吉祥草寺の立札とほぼ同じ内容が書かれています。ただ「役行者神は、この石に手を当て全身の凝りを解したとされています。皆様もこの石に手を当てて、役行者神の精神と御徳をいだかれ、全身の凝り、特に肩の凝りなどを解される事を心よりお祈り致します」が付加されている。私は特に凝りはないが、年が年なのでチョッと触っときました。

        「秋津洲(あきつしま)の道」~・~完

詳しくはホームページ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする