山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

三輪山と「山の辺の道」(その4)

2014年03月18日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 大和神社(おおやまとじんじゃ)  

JR長柄駅近くに大和神社(おおやまとじんじゃ)がある。「山の辺の道」からはかなり離れるが、これも由緒ある神社なので訪れてみた。大和の地主神・倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を主神として祀り、伊勢神宮と並ぶ最古の神社である、とされる。
「檜原神社」とところで書いたように、崇神天皇の代に、天照大神は豊鍬入姫命によって笠縫邑で祭祀させ、一方倭大国魂神は市磯邑に遷し皇女・渟名城入姫(ぬなきのいりひめのみこと)を斎主として祀らせることになり、神地を穴師邑にさだめた。ところが淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。そこで大倭直の祖、市磯長尾市(いちしながおち)を祭主として神地が定められ鎮座するようになたのが大和神社だそうです。
社殿手前に、日本海軍が世界最強を誇った戦艦大和の石碑が建てられている。ここが名付けに由来するからでしょう。

 内山永久寺跡  


「山の辺の道」をさらに北上すると、石上神宮の手前に「内山永久寺跡」という案内板が建っている。この周辺には内山永久寺というかなり大きなお寺があったそうです。
平安時代末の永久年間(1113~7)年、鳥羽上皇の勅願により創建された寺で、境内は五町四方の広大な地域を占め、坊舎五十、堂宇二十余りを数えた巨大寺院だったようです。石上神宮の神宮寺でもあり、寺領と多くの寺坊を有し、かって「西の日光」とさえ称賛されたほどだったようです。
しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく破壊・消滅され、現在では寺の敷地の大半は農地となり本堂池だけが残るのみになっている。寺名の由来は「 永久年間に造立された」からだそうですが、明治の廃仏毀釈で潰され”永久”寺とはならなかった。神様、ムゴい!
池の傍らに芭蕉句碑「うち山や とざましらずの 花ざかり」が、悲しそうに建てられている。

 石上神宮(いそのかみじんぐう)  


石上神宮は、古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓の鬱蒼とした常緑樹に囲まれた高台に位置する。神社でなく「神宮」と呼ばれ、最高の格式をもつ。古来、神宮と呼ばれるのは石上神宮と伊勢神宮の二つだけ。
主祭神は「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) 」で、「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊」だそうです。それでは「布都御魂剣」とはどんな剣だろうか。
社伝によれば、布都御魂剣は神代の時代に武甕雷神(たけみかずちのかみ)が葦原中国平定の際に使った神剣(平国之剣、ひらくにゆきけん)で、初代神武天皇の東征時に天皇を助けた剣だとされる。
この神剣を、第10代崇神天皇の勅命により物部連の祖・伊香色男命(いかがしこおのみこと)が、現在の地である「石上布留(ふる)の高庭(たかにわ)」に「石上大神(いそのかみのおおかみ)」として祀ったのが石上神宮の創建だとされる。
物部氏は神剣を預かり祭祀する任務を与えられる同時に、朝廷の多くの武器を管理する任務をも得る。
物部氏の氏神だった石上神宮は神剣を祭祀する神社であるとともに、刀剣などの武器が納められ、膨大な武器を保管する朝廷の武器庫の役割も果たすようになった。そして物部氏は大和朝廷内で武門の棟梁となり、強力な軍事氏族として重きをなしていく。
写真は国宝の拝殿です。石上神宮にはもともと本殿は無く、霊剣が埋められているという禁足地と、その傍らに建てられた「神庫(ほくら)」と呼ばれる武器庫があるだけだった。現在の拝殿の奥にあたる。この瑞垣に囲まれた禁足地は「石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)」「御本地(ごほんち)」などと称され、祭祀の対象とされてきた。ちょうど、大神神社が三輪山を祭祀の対象としたように。
明治7年(1874)、当時大宮司だった管政友(かんまさとも)がこの禁足地を発掘してみると、地表から1尺余り下に瓦が敷き詰められており、さらに1尺下には一間四方に礫が敷かれその下から伝承どおり神剣、武具や玉類などが沢山見つかった、という。拝殿奥の禁足地は今もなお、「布留社」と刻まれた剣先状の石瑞垣で囲まれて、最も神聖な霊域として非公開・立入り禁止となっている。

また石上神宮には、祭神ではないが貴重な剣が見つかっている。国宝「七支刀(しちしとう・ななつさやのたち)」です。明治7年(1874)の禁足地発掘時に、菅政友は宝物の確認/点検のために禁足地の南西の隅に建っていた神庫に足を踏み入れ、厳重に封印された木箱を開き、そこに刀身から両側3箇所で鹿の角状に枝分かれした珍しい形をした剣を見つけた。そして黒く錆びた刀身に金色に見えるものがあるのに気づき、小刀の先で錆びを静かに落としたところ、文字があるのを発見したという。もともと学者でもあった菅政友は興味を覚えると,刀身に施された金色の文字を確認してみた。

全長74.8cm、刀身の左右に3つづつの枝が互い違いに出ている異様な形をしており、「六叉の鉾(ろくさのほこ)」と呼ばれて神庫の中に大切に伝えられてきた鉄剣。真ん中の1本とあわせて「七支刀」と呼ばれる。
形からして実用的な武器としてではなく祭祀的な象徴として用いられたと考えられている。

日本の古代史において、3世紀の邪馬台国の時期から5世紀の倭の五王の時代までの間は客観的史料が無く、”謎の4世紀”と呼ばれている。そんな中にあって七支刀に刻まれている銘文は、”謎の4世紀”の解明に貴重な資料として注目されている。
刀身の表面に34文字、裏面に27文字、合計61文字の金象嵌(きんぞうがん)の銘文が施されていた。銘文には、泰和4年(当時百済が朝貢していた東晋の年号であり、西暦369年にあたる)に、百済王が倭王・旨に贈った(献上か下賜か論争あり)、とある。この倭王・旨が誰であるか?。その銘文の解釈・判読が明治以降続けられている。この銘文の読み方について歴史家たちはさまざまな説を立ててきたが、現在まで定説とされるようなものはないようです。
七支刀は御神体と同様のものとして奉斎されているが、神体そのものではない。昭和28年(1953)に国宝の指定を受け、現在は他の神宝とともに、昭和55年(1980)に完成した宝物収蔵庫に奉安されている。非公開で、その姿を実際に見ることはできない。

 天理教  


石上神宮から左進しJR天理駅へ向かう。進むに従い、異様な(?)風景が広がってくる。幹線道路の真上に、温泉地の巨大な旅館のような建物が道を覆う。その下をくぐると、幅50mもあろうかと思われるような広い道が真っ直ぐ伸びている。両側には花壇が並び、路上にはゴミ一つ落ちていない。そして人影が全く無い。何か気持ち悪く、不思議な世界に入り込んだ感がします。ここは公道?、私道?。「ちょっと、そこのあなた!」と、どこからか声を掛けられないかと不安になってきた。急ぎ足で進み、鳥居風の黒い大門の下をくぐると、大広場が待っている。おお!、ここは天安門広場か!、と思いたくなるような天理教本部(本殿)前でした。まだ夕方5時過ぎなのに人影がなく静かな天理教施設周辺でした。
天理教は、天保9(1838)年に教祖・中山みきが神の啓示によってこの地で始めた宗教で、信徒は世界各国に300万人を数えるという。天理市に天理教が創られたのではない。昭和29(1954)年に周辺6町村の合併時に、天理教の発祥の地なので「天理市」と命名された宗教都市なのです。
こうした天理教の圧倒するような施設を見ていると、今まで見てきた古墳や神社などがかすんでしまう。宗教には、目に見える形で巨大なもの、圧倒するもの、威厳があるもの、神秘性があるもの、そうしたシンボルが必要なようです。そうした具象性が人々の心を揺さぶるのでしょうか?。だから巨大な建造物を造りたがるのだろうか。信仰なんて心の中だけでよいはずなのに・・・。

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三輪山と「山の辺の道」(その3)

2014年03月14日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 磯城珠城宮跡・纒向日代宮跡  



JR桜井線の踏み切りを渡り、山裾の「山の辺の道」を目指して東へ進む。広々とした田園地帯の中、道端に「垂仁天皇纒向磯城珠城宮(すいにんてんのう・まきむくのしきたまきのみや、玉垣宮)跡」の石柱と案内板だけが置かれている。それ以外に宮殿跡と思われる痕跡は何もありません。第十一代垂仁天皇は、第十代崇神天皇の第3皇子にあたり、ヤマトタケルの祖父でもある。さらに東へ行くと、これも石柱と案内板だけですが「景行天皇纒向日代(まきむくひしろ)宮跡」があります。

神話・伝承の多い天皇の中、第十代崇神天皇を大和朝廷を開いた初代天皇だ、という考え方が現在では有力です。崇神~垂仁~景行と三代続く天皇が、この周辺に宮殿を設け、また葬られている。やはり「山の辺の道」のここ纒向を中心とした一帯こそ大和朝廷、即ち日本の国の始まりの地と言っていいかもしれない。

 相撲発祥の地とされる「相撲神社」  


宮殿跡からさらに山裾に入っていくと、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうず)の手前に相撲発祥の地とされる「相撲神社」があります。神社といっても石の鳥居と土俵らしきものがあるだけです。
相撲発祥の由来伝承は・・・
「日本書紀・垂仁紀」に、垂仁天皇は纒向に本拠をおく倭氏の祖先になる長尾市(ながおいち)に命じ、出雲国の勇士・野見宿禰(のみのすくね)を呼んで来させ、当時大和に豪腕として名を轟かせ葛城の地に住んでいた当麻蹴速(たいまのけはや)と力競べをさせた。天皇の前で相撲を取る天覧相撲の最初です。力でねじ伏せた野見宿禰に、天皇は褒美として当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えた。その後、野見宿禰は朝廷に末永く仕えたそうです。

 渋谷向山古墳(景行天皇陵)と行燈山古墳(崇神天皇陵)  


「山の辺の道」を北上していくと幾つか大きな前方後円墳に出会う。これらは地名から「柳本古墳群(やなぎもとこふんぐん)」と呼ばれ、三世紀末から四世紀の古墳時代前期の古墳です。まず最初に出会うのが「渋谷向山古墳(しぶたにむかいやま、景行天皇陵)」(写真上)。全長300m、周濠が1キロの巨大古墳で、大和地方では見瀬丸山古墳に次いで二番目、全国でも七番目の大きさです。周囲は池や鉄柵で囲われ、宮内庁管理の立ち入り禁止地。この古墳は、古事記に「御陵は山邊の道上にあり」という記述があり、第十二代景行天皇の陵墓「山邊道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)」と比定されている。

ミカン畑やイチゴ園、柿畑の間をさらに北へ行くと、「行燈山古墳(あんどんやま、崇神天皇陵)」が佇む(写真下)。全長242mの墳丘と周濠からなる三世紀後半から四世紀初頭の、典型的な初期巨大前方後円墳。
現在この古墳も宮内庁によって、第十代崇神天皇の墓「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」とされている。大和朝廷の実質的な創始者とも言われる天皇さんの墓所だけあり、これまで見てきた中で一番金かけ整備されている。正面階段を登ると、玉砂利が敷き詰められた前庭があり、その正面で厳めしい構えの扉が睨みつけている。近寄りがたし!、恐る恐る近寄ってみると、扉の向こうは綺麗な水をたたえた広いお堀(周濠)になっていて、なお近寄りがたし。はるか遠くから遥拝するようになっている。

かっては、ここ行燈山古墳が第十二代景行天皇の陵で、渋谷向山古墳が第十代崇神天皇陵とされていた。ところが江戸時代末に「文久の修陵」と呼ばれる大規模な天皇陵の修復が行われた(1861-1866年)。その際に二つの陵墓比定の取り替えが行われ、現在のように行燈山古墳を崇神陵、渋谷向山古墳を景行陵と変更されたようです。変更の理由は明らかにされていない。しかし現在、考古学的には築造時期が渋谷向山古墳のほうが少し古いとされている。天皇の年代と古墳の築造時期が逆で合わないのです。その上、渋谷向山古墳と比較して、行燈山古墳のほうが一回り小さい。だから比定変更以前のほうが正しかった可能性が強い。宮内庁による天皇陵指定のいい加減さの好例です。

宮内庁「天皇陵」公式ページは陵墓名と所在地を記すのみで、どうして陵墓と比定したのか、一言も触れていない。なんとそっけないページだことか、ボロが出るのを恐れられているのでしょう。これ以上の内容を公表したら「天皇家の静安と尊厳」を損なうことになるんでしょうネ。


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三輪山と「山の辺の道」(その2)

2014年03月10日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 箸墓古墳(はしはかこふん)  

纒向遺跡に向かう途中。大池をバックに箸墓古墳(はしはかこふん)と三輪山が美しい。箸墓古墳に葬られた姫の元に毎夜通った男は、あの三輪山の神の化身だった。はるかいにしえの、「国のまほろば」を感じさせてくれる風景です。この一帯は初期大和王朝の発祥の地である。この周辺に邪馬台国はあったんだろうか?

墳長約280m、後円部径約160m、高さ約30m。全国で11番目に大きい前方後円墳。正面に回ると、宮内庁管轄の陵墓でおなじみの逢拝所らしき小さな鳥居(?)がある。守衛所らしき建物があり、明かりがともっている。絶えず監視してるんだろうか?。ものものしい注意書きもみられる。あまり長居するところではないようです。

正式の陵墓名は「倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)大市墓(おおいちのはか)」。飛鳥・奈良時代に入るとこの纒向地域に市が発達し、大市と呼ばれた。そこから「大市墓」と名付けられた。一般的には「箸墓古墳」という名称の方が有名です。現在陵墓参考地として宮内庁が厳重に管理し立ち入りを認めていない。学術目的の発掘調査ができないため、被葬者の納められた石室の構造などは、厚いベールに包まれたまま。
「日本書紀」にその被葬者名と構築の状況が記載された唯一の墓です。崇神天皇のオバ(第七代考霊天皇の皇女)に当たる「倭迹迹日百襲媛命」が被葬される経緯の説話が書かれている。崇神天皇十年の条に、概要「倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓 (はしのみはか)とよんだ。この墓は、昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が 大坂山(二上山)から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだ」と記されている。
「倭迹迹日百襲媛命」を卑弥呼とする説など話題が多い。卑弥呼の死は248年ごろとされるため、箸墓古墳の築造時期こそがカギを握る。しかし、築造年代の根拠となる土器をめぐっては、研究者によって240~280年と数十年の開きがあり、論争の決着には至っていない。内部に入れないので、周辺の濠や壕から採掘した土器や堆積物などから築造年代を割り出そうと努力されている。その結果250年前後の築造とされるが、内部の調査でないので確実なことはいえない。被葬者は、卑弥呼説、台代説、男王説などにぎにぎしく、古代への想像力を膨らませ歴史への興味を沸き立たせてくれる。

2013/2/20日の新聞に「卑弥呼の墓? 箸墓古墳、20日に立ち入り調査」の見出しが躍った。ついに科学のメスが入るか!、と期待したのだが、よく読んでみるとがっかり。
日本歴史・考古学学会が2005年から要望書を提出していたのに対して、宮内庁が初めて許可した立ち入り調査の内容は、研究者ら数人の代表による目視のみによる観察だけ。地面を掘ったり、落ちている遺物を拾ったりすることは認められず、埋葬施設がある墳丘上部も最下段から見上げて観察するだけのようです。日本の先生方は宮内庁にナメられているんじゃないの!
宮内庁は「陵墓は尊崇の対象であり、静安と尊厳が何より優先される」とし、今回も制限を緩めない方針だとか。そもそも陵墓かどうか疑問視されているんだヨ、それを解明するのが先じゃないの(怒り!!)。その新聞には「箸墓古墳は「邪馬台国論争」にかかわる古墳として一般の関心も高く、陵墓の公開をめぐる議論が活発化しそうだ」と結んでいる。その後一年経つが、どうなったのか音沙汰無し。活発な議論も聞かれない。アア嘆かわしヤ!!。
 纒向遺跡(まきむくいせき)  

箸墓古墳から300mほど北に進むとJR巻向駅があり、その周辺一帯が現在注目されている「纒向遺跡(まきむくいせき)」の場所です。現在無人駅となっている巻向駅のホームに立つと周辺が全て見渡せる。ホーム東側は住宅街になってしまっているが、西側は広々とした空き地のまま。ところどころ住宅が点在するが、これ以上の開発はストップされている様子だ。遺跡範囲はここJR巻向駅を中心に東西約2キロメートル・南北約1.5キロメートルの広範囲に及び、あの箸墓古墳も含まれる。
三世紀初めから中頃のものとみられる、国内最大規模の大型建物跡が発見された。ちょうど卑弥呼の時代に重なり、大型建物は「卑弥呼の居館」ではないかと俄然注目を集める。まだ発掘調査は10%にも及んでおらず、今後何が飛び出してくるのか、大いに期待される遺跡です。2013年6月21日ここ纒向遺跡は国の史跡に指定されました。古墳とは?、邪馬台国か?、ヤマト政権発祥即ち日本のクニの始まりは?、大王(天皇)の始まりは?、など多くの鍵を握っている遺跡と思われます。

なお「纒向」の名前は、日本書紀に垂仁天皇の「纒向珠城(まきむくたまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(まきむくひしろ)宮」とみえる。そこから明治38年の町村合併時に「巻向村」とされ、遺跡や古墳の名称は昔の漢字をそのまま使っているそうです。

IR巻向駅を西方に300mほど行くと纒向小学校があります。この小学校を取り囲むように幾つかの小さな古墳が点在する。石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳で、纒向古墳群と呼ばれている。これらは三世紀前半の築造とされ、箸墓古墳より古い。「弥生時代の墳丘墓」だという意見もあるが、前方部に不完全だが短いホタテ貝のような形をした墳丘部をもつのが特徴。そこから「ホタテ貝型前方後円墳」または「纒向型前方後円墳」と呼ばれている。箸墓古墳のような定型化した前方後円墳が造られる前の段階の墳丘形式と考えられる。それらの「纒向型前方後円墳」が築造された三世紀前半から中頃の時期は、ちょうど卑弥呼が活躍した時期と一致する。そして卑弥呼の死(248年)と、本格的な大型前方後円墳の始まりである箸墓古墳築造の時期が符合する。こうした点から否が応でも、纒向遺跡・古墳と邪馬台国・卑弥呼とを結び付けたくなる。しかし現状はまだ推測の段階に過ぎない。箸墓古墳に考古学的なメスを入れる必要性を痛感します。そのためには宮内庁解体の必要性も・・・。

詳しくはホームページ

三輪山と「山の辺の道」(その1)

2014年03月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて
昨年(2013年)五月、二日間に渡って歩いた古道「山の辺の道」(奈良県)の写真が未整理になっていたにで、この度1年ぶりにまとめホームページにアップしました。その一部を紹介します。
大和盆地の東山麓沿い、三輪山の山裾を南北に通ずる「山の辺の道」周辺は、古代ヤマト政権の源流の地でもあり、また卑弥呼の邪馬台国との関連も指摘されている地域です。それを示す数々の遺跡・古墳が残っています。箸墓古墳を始めとする巨大な前方後円墳、大神神社や石上神宮などの古社が「山の辺の道」に沿うように散在している。現在は「山の辺の道」として整備された歴史散策道に、さらに「東海自然歩道」という政府認定ハイキングコースの一部になっています。JR桜井駅から出発し北上し、天理市までの記録です。

JR桜井駅から街中を北東へ20分位歩くと、目の前が開け大和川(初瀬川)と三輪山が現われる。「三輪王朝」とも呼ばれる古代ヤマト政権を象徴する神の坐します三輪山、その山裾のこの一帯は、古代「海柘榴市(つばいち)」と呼ばれ、交易の中心地として市が栄えた。それはここが古代において交通の要衝だったからです。
北へは「山の辺の道」で奈良・京を経て北陸・日本海へ。東へは初瀬(はつせ)街道が通り伊勢を経て東国へ。南へは磐余(いわれ)の道・山田道から飛鳥を通じて紀伊の熊野へ。さらに横大路から竹之内街道を通って河内・難波へも通じている。特に重要なのが大和川の水運で、物資を運ぶのには舟便が一番よかった。大和川は難波・大阪湾から瀬戸内を経て大陸へ繋がっている。そこからシルクロードの終点とも云われる。こうした街道、川筋の交わる場所として市や宿場が栄え賑わった。
推古16年(608)、遣隋使として中国・隋へ派遣された小野妹子が帰国した時も、難波津から大和川の舟運を利用し海柘榴市へ上陸する。日本書紀に「唐ノ客ヲ海柘榴市ノ衡(こう)ニ迎エ」とある。そのとき来日した隋使裴世清(はいせいせい)は海柘榴市から陸路(上ツ道)、飾り馬75頭を仕立てて推古天皇が待つ小墾田宮へ入る、と日本書紀に書かれている。聖徳太子が飾り馬を仕立て大パレードで歓待したものと想像される。またここは「仏教伝来(538年)の地」ともされています。

橋を渡り山裾に入っていくと、第十代崇神天皇の磯城端離宮跡(しきのみずがきのみや)に出会う。初代神武天皇から九代までは作り話(神話)とされているので、実質、崇神天皇が初めての天皇と考えてよい。ということは、この地が日本初の天皇の住居(皇居)となる。これ以後、天皇ごとに大和、難波、近江などへ転々と移り、平城京・平安京へと歴史を刻んでいく。ここがその出発点です。ぜひ立ち寄ってみたいポイントです。
この地域の鎮守「志貴御県坐神社(しきのみあがたにます)」という神社の境内で、正面に見える社のすぐ裏に、柵で囲まれた宮跡が残されている。志貴は「磯城」でもある。>

さらに三輪山の裾まで入ると森に囲まれた大神神社(おおみわじんじゃ)が鎮座する。”神”とかいて”みわ(三輪)”と読む。本殿はなく拝殿のみ。御神体が三輪山だからで、その三輪山には大物主の命が坐しておられる。そのため本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居をとおして大物主の命の宿る神体山・三輪山を信仰する。 しかし残念ながら「三つ鳥居」は外からは見る事が出来ません。神様はどこまでも神秘なのです。現在の拝殿は寛文四年(1664年)四代将軍家綱が再建したもの。

傍に大神神社の摂社「狭井(さい)神社」があります。「さい」とはヤマユリことで古代にはこの地にユリがたくさん咲いていたようです。
古くから「三諸(みもろ)の神奈備(かんなび)」と称され、神の宿る神体山として崇められてきた三輪山に入山参拝(登山ではありませんゾ!)するには、この神社で受付をしなければならない。

狭井神社の境内に入山受付所がある。そこで簡単な作法の説明があり、入山者カードに氏名、住所、電話番号を書き、三百円支払う。そして「三輪山参拝証書」と書かれた白いタスクをもらいます。このタスキが登拝証になり、入山中は首に掛けていなければならない。山中では、飲食、喫煙、写真撮影が禁止され、下山してからも山中での見聞・出来事を他人に話してはいけない。どこまでも神秘で厳粛な山です。これ以上書けないナ!・・・・。でもチョットだけ書けば、高さ467mなので初心者用の山になる。しかし見くびってはいけない。距離は短いが、かなり急勾配の箇所もあり、年配者には辛いかもしれないが、そこは信仰心で・・・。途中、一箇所だけ簡易トイレ付き休憩所があります。ただし見晴らしは全くきかない。物見遊山するところではなく、信仰で登る山なんです。首に掛けたタスキには鈴が付いていてチリンチリンと音が鳴る。なにかお遍路さんのような気分に。
頂上は「奥津磐座(おくついわくら)」といわれ、巨石が沢山転がっている。巨石は御幣付きの注連縄で囲まれ、みなさん順番に並んで手を合わせて帰っていかれる。「磐座」とは神様が鎮座される岩のことです。(こんなことも書いてはいけなかったのかナ・・・)
タスキをかけない人、写真を撮る人、誰一人見かけなかった。一人ぐらいは掟破りが・・・、と思ったのですが。そうさせない雰囲気がこの山にはある。頂上の注意書きの最後に「大神さまはいつも御覧になっておられます・・・」と書かれていた。監視カメラは設置されていないだろうけど、霊なる御眼で監視されているのかも。サァ、早く下山しョ。下山したら、案内所で下山報告をし、タスキを返却する。

三輪山内では全く展望がきかなかったが、狭井神社を西方向に下って行くと「大美和の杜(おおみわのもり)」展望台があります。周辺の雰囲気に似つかわしくない「恋人の聖地」などという名前が付けられている。
三輪山を含め「山の辺の道」で見晴らしの良い場所はほとんど無く、唯一こだけが大和平野の眺望を楽しめます。はるか彼方にかすかに見える山並みは、右端から二上山、その左方向に葛城・金剛の山々が続く。その手前にポッコリ飛び出た小山が、右から耳成山・畝傍山・香具山の大和三山。大神神社の大鳥居も見えます。恋人がいなくても十分堪能できますゾ。

「山の辺の道」は「東海自然歩道」に組み込まれており、東京都八王子市の「明治の森高尾国定公園」から大阪府箕面市の「明治の森箕面国定公園」までの11都府県約90市町村にまたがる長さ 1697kmの長距離自然歩道(ハイキングコース)の一部になっている。
さすが日本を代表する古道だけあって道標や案内図は各所に設置されている。しかし山中の一本道とは違い、住宅街や田畑、雑木林の中を脇道に入ったり、裏道にまわったりして進んでいく。結構入り組み分岐が多く、広い道、狭い道、砂利道、土の道、舗装道と変化に富んでいる。時々、この道でいいんだろうか?と不安になることが度々あった。ハイキング姿の人とすれ違うと「間違ってなかった!」とホッとする。要所に設けられている案内標識を見落とさないように歩こう。
桜井から天理に通ずる「山の辺の道」沿いには、ほんとに多くの果樹園が見られる。ミカン、柿、桃、イチゴ・・・。遺跡地域特有の法的な縛りでもあるんだろうか?。

鬱蒼とした森の中に檜原神社(ひばらじんじゃ)が現れる。特殊な形態の神社で、拝殿も本殿もない。正面に鎮座するのは「三ツ鳥居」と呼ばれる鳥居だけ。中央の鳥居の両側に少し低い小さな鳥居が連なり、三つの鳥居が一組になった独特な姿をしている。この「三ツ鳥居」は大神神社と同じ形で、三輪山を御神体としていた。しかし現在は 山中の磐座(いわくら)が御神体だそうです。

傍の案内板に神社の詳しい由緒が書かれている。
「日本書紀(崇神紀)」によると。天照大神と倭大国魂(やまとのおおくにたま)が宮中に「同床共殿」で祀られていた。ところが神様同士の仲が悪い。やむをえず第十代崇神天皇の六年に、倭大国魂は娘の淳名城入姫(ぬなきのいりびめ)に預け、天照大神は倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)に「磯城神籬(しきひもろぎ)」を建て皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託した。その倭笠縫邑がここ檜原の地であるといわれる。

その後豊鍬入姫命は、天照大御神の祀り場所を求め各地を巡幸され、最後に第11代垂仁天皇の時、伊勢の五十鈴川の上流に定められた。これが伊勢神宮(内宮)の創祀と云われる。こうしたことからこの檜原神社は「元伊勢」と呼ばれるそうです。また倭大国魂神は、変遷を経て現在、大和神社に祀られている。
神社横には「豊鍬入姫宮」が建てられている。伊勢神宮の初代の斎王になられた崇神天皇の皇女豊鍬入姫命を祀っている。斎王とは天皇に代わって天照大神にお仕えする役目で、皇室関係の方のご奉仕で現代まで続いているそうです。