山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

三十三間堂界隈ブラ歩き 3

2019年04月24日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2019年1月4日(金曜日)
三十三間堂界隈には見所がいっぱい。京都国立博物館を中心に、三十三間堂・法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院・妙法院・豊国神社が建ち並ぶ。そして豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘のある方広寺もあります。最後は、妙法院・方広寺・大仏殿跡緑地・豊国神社・阿弥陀ヶ峯の豊国廟の紹介です。

 妙法院門跡(みょうほういんもんぜき)  



智積院を出て東大路通りを北へ進むと,通りを挟んで妙法院がある。正月らしく注連縄の張られた表門が建つ。門柱には「妙法院門跡」(みょうほういんもんぜき)とあります。門跡寺院とは,皇族出身の方が入寺し住んだ格式の高い寺院を指します。東山の「青蓮院」,大原の「三千院(梶井門跡)」とともに「天台三大門跡寺院」と称されている。

★妙法院の歴史
寺伝によれば,延暦年間(782-805)に比叡山西塔で最澄によって創建され,平安時代後期頃から「妙法院」と呼ばれるようになったとされる。後白河法皇(1127-1192)の時代に洛中の綾小路(現在の八坂神社の南西あたり)に移転し,後白河法皇との関係を深める。妙法院の寺伝では,後白河法皇を第15代の門主(法名は行真)とし中興の祖と位置づけています。

1227年,尊性法親王(後白河法皇の曽孫で後高倉天皇の皇子)が入寺してからは,皇族出身の法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者)が門主になることが多く,門跡寺院としての地位が確立していく。
応仁・文明の乱(1467-1477)の混乱で,一時比叡山に避難したが,その後現在の場所に移転。
豊臣秀吉が天下をとり,文禄4年(1595)に方広寺大仏殿をこの辺りに建立し,秀吉は亡父母のために千僧供養を「大仏経堂」で行った。この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏(国宝)だとされている。
豊臣家が滅び徳川の時代になると,方広寺、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社は妙法院の管理下におかれ,妙法院門主が方広寺住職を兼ねるようになる。

明治時代に入り神仏分離令による廃仏毀釈の影響を受けて寺域は大きく減り、寺運は衰微する。方広寺と新日吉社は独立し,豊国廟は神祇官に引き継がれる。管理してきた後白河天皇陵も宮内省の移管になる。一時,門跡の称号も廃された。ただし蓮華王院(三十三間堂)は現代に至るまで妙法院の所属となっています。

門を入ると,正面に見える大きな建物が「大庫裡」,即ち厨房です。豊臣秀吉が造営した方広寺大仏殿の開眼供養のため集まった千人もの僧侶の食事を準備する台所として文禄4年(1595)に建てられた。高さ18mもある。さすが秀吉,自身の体は小さいがやることはデカイ。厨房といえど入り口の玄関は唐破風造りとなっている。桃山時代の代表的建築として国宝されています。

屋根の上に小さな小部屋が,と思ったがこれは煙り出し用の煙突だそうです。煙突まで格式ぶっている。

大庫裡の内部は非公開です。ただし玄関は開け放たれ内部を垣間見ることができる。土間と板間があり,その上は天井板をはらず太い貫や梁木などがむき出しになっている。
ここから見るだけでも豪快で,そのスケールの大きさを感じられます。

大庫裡の右横が「大玄関」(重要文化財)。大書院(重要文化財)とともに,東福門院(徳川秀忠女,第108代・後水尾天皇の中宮)の御殿を御所より移築したものとされる。大小二つの唐破風屋根の「車寄せ」で,来賓を迎える玄関として用いられているそうです。

境内の一部は自由に入り見学できる。大玄関からさらに右の境内に入りこむと,二つの建物が見える。左が明治31年(1898)に再建された宸殿(しんでん),右が普賢堂(本堂)。
左側の宸殿(しんでん)の仏間には,中世よりの天皇,皇后,中宮の位牌が安置されている。この宸殿は幕末の「「八月十八日の政変(七卿落ち)」の舞台として有名。文久3年(1963)年8月,公武合体派と対立する勤王急進派の三条実美卿一行がここ宸殿に集結,合議の末,市内戦を回避,後の維新を期して,西国へ向け出京したという「七卿落ち」。この宸殿で最後の夜を過ごし,翌日早朝雨中、久坂玄瑞らに付き添われ長州へ都落ちしたという。毎年10月には,いまも七卿をしのぶ記念法要が続けられているそうです。

右側は本堂となる普賢堂(ふげんどう)で、妙法院本尊の木造・普賢菩薩像(重要文化財)が祀られている。

 大仏殿と秀吉の死  


方広寺と豊国神社に関係するので,「大仏殿と秀吉の死」に関連した歴史を調べてみます。

<左の写真は、方広寺本堂内の掛け軸より>
◆大仏殿と大仏の造営(初代)
豊臣秀吉の全盛期,自らの権勢を天下に誇示するために奈良の大仏をもしのぐ巨大な大仏を造営することを思い立つ。その場所として,東国からの交通の要所で,かつかって後白河法皇や平清盛が栄華を極めた場所を選んだ。蓮華王院(三十三間堂)の北側一帯です。

天正14年(1586)に造営に着手,諸大名に用材の運上を命じる
天正15年(1587),聚楽第完成し,秀吉,大阪より京に移る。
天正16年(1588),地鎮祭が盛大に催され,4000人が集い笛、太鼓、踊りが続き、酒、餅が振舞われた。前田玄以を主奉行に多くの大名が動員され,数万人の人足が関わったという。この年「刀狩令」が発令され,没収された刀などは大仏殿造営に使う釘などの金具に再利用された。

天正18年(1590)小田原攻め,天下統一を完成させる
天正19年(1591)9月大仏殿立柱式行われる。大仏は当初は銅で造る予定だったが,工事の遅れにより木製(漆膠)に変更された。
文禄2年(1593)8月,本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。

文禄4年(1595)9月,方広寺大仏殿が完成する。重層瓦葺の大仏殿は南北90m、東西55m、高さ49mもあり,内部に安置された木造漆彩の大仏(毘魂盧遮那仏)は東大寺の大仏より大きい高さ19mもあったという(ちなみに奈良の大仏は約18メートルの高さ)。東山の斜面に西向き,即ち都の洛中を見下ろす。逆に京の街中からも大仏の顔が見え,秀吉の権勢を感じさせられた。
秀吉は亡父母のために千僧供養を大仏経堂で行なった。天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗の僧が出仕を要請された。千人もの僧の食事を準備した台所が、現在も妙法院に残る大庫裡(国宝)です。

また秀吉は町衆が大仏殿へ参拝しやすいように道路整備も行う。伏見街道を整備し,清水寺への参拝に使われていた五條大橋を200mほど南に架け替えてしまう(だから現在の五條大橋は義経と弁慶が戦った橋でなく,現在の松原橋がそれにあたるそうです)。

◆慶長大地震で大仏大破
文禄5年(1596)7月12日、畿内を慶長大地震が襲う。大仏殿は倒壊を免れたが,大仏は大破する。秀吉は「頼りないヤツ!」と大仏を叱りついけたという。
大地震後,秀吉は信州・善光寺の本尊・阿弥陀如来の夢を見たという。夢のお告げに従い,大破した大仏に代えて善光寺如来を方広寺の本尊として迎えることを命じ,翌年に移送させ方広寺の大仏殿に安置させた。大仏殿は「善光寺如来堂」と呼ばれ,如来を一目拝もうとする人々が押し寄せたという。

◆秀吉の死
慶長3年(1598)3月に醍醐の花見を終えた秀吉は5月より病にかかり日々体調が悪化する。死が近いことを悟ったのか,遺言状を残し,徳川家康に秀頼の後見人になるように頼む。秀吉の病は信濃・善光寺から取り寄せた阿弥陀如来の祟りであるという噂が立つ。8月17日、善光寺如来はひそかに信濃の善光寺へ戻されることとなったが、翌日の18日,辞世の句
  露と置き 露と消へにし 我が身かな 浪華のことも 夢のまた夢
を残し,秀吉は63歳の生涯を伏見城で終えた。

<洛中洛外図屏風に描かれた豊国社と方広寺大仏殿(豊国神社宝物館より)
◆秀吉の埋葬と豊国廟(ほうこくびょう)
秀吉の死はしばらく秘密にされ,火葬されることなく伏見城内に安置されていた。
慶長4年(1599年)4月13日,秀吉の遺言により遺体は伏見城から東山連峰のひとつ阿弥陀ケ峰(あみだがみね)へ移送され,頂上に埋葬され祠廟が建てられた。
山麓(太閤坦、たいこうだいら)には北野神社を模した「八棟造り」の本殿をはじめとした壮麗な豊国社(とよくにのやしろ)の社殿が造営された。

後陽成天皇から「正一位」の神階と豊国大明神の神号を授けられ,神として祀られたために葬儀は行われなかった。
4月18日に遷宮の儀が行われ、その際に「豊国神社」と改称された。また豊臣秀頼の希望により大坂城内に豊国神社を建て分祀された。

これ以後,毎年8月18日の秀吉の年忌には、豊国廟や各地の豊国神社にて盛大な祭礼「豊国祭」が執り行われた。特に慶長9年(1604)の”豊臣秀吉七回忌”の豊国祭は「豊国祭図屏風」(国宝)に描かれるなどして有名である。見物人の列が三条大橋、五条大橋から連なり,人々が豊国踊り、風流歌舞を舞い、廟前に押し寄せたという。

<写真は、大仏殿跡緑地公園の説明板より>
◆大仏殿の修復と金銅製大仏の復興(二代目) 
慶長5年(1600)豊臣秀頼は大仏殿の修復と金銅製の大仏の復興をはかる。徳川家康は、豊臣家の財力を失わせるために復興を勧めたといわれている。

この頃,大仏殿のある方広寺は広大な敷地を占めていた。現在の蓮華王院(三十三間堂)も方広寺境内に取り込まれ、修理と境内整備が行われた。南大門、西大門(東寺の南大門として移築され現存している)が建てられ,土塀(太閤塀)が築かれた。

慶長7年(1602),金銅大仏の鋳造中,流し込んだ銅が漏れ出し大仏の腹中から出火した。火は大仏殿にも燃え移り、大仏もろとも焼失してしまう。

◆大仏の復興(三代目),鐘銘事件
慶長13年(1608)秀頼は家康の勧めにより再度大仏復興を企図,費用・用材の準備開始する。慶長15年(1610)6月に大仏殿地鎮祭、同年8月に立柱式が実施される。徳川家康も、諸大名に、費用の負担を命令したり、大工を派遣したり、協力していた。
慶長19年(1614),大仏殿,楼門、廻廊,金銅製の大仏(像高19.1m,三代目大仏)が完成。再建された大仏殿は東西69m、南北103mあり、秀吉の大仏殿より規模は大きかったという。

梵鐘も完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。大仏の建立の総奉行をしていた片桐且元は、仕上げとして梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓という人物に選ばせた。ここに豊臣家滅亡のきっかけとなった「鐘銘事件」が起こる。家康は梵鐘銘文に異議をとなえ大仏開眼供養の延期を命じた。

◆豊臣家滅亡,豊国神社の閉鎖
慶長19年(1614)12月、「大坂冬の陣」で徳川方と豊臣方の決戦が始まる。翌慶長20年(元和元年)(1615)5月大阪夏の陣で,追い詰められた淀殿と豊臣秀頼は自刃し,ここに豊臣家は滅亡してしまいます。

7月,勝利した家康は阿弥陀ケ峰山麓の豊国神社を閉鎖し,秀吉の霊は大仏殿後方南に建立された五輪塔に移された。この石造五輪塔は現在の豊国神社境内宝物殿裏に「御馬塚」として遺る。秀吉の遺体そのものは霊屋とともに阿弥陀ケ峰山頂に遺された。
また後水尾天皇の勅許を得て「豊国大明神」という神号を剥奪し,もはや神ではなくなった秀吉には「国泰院俊山雲龍大居士」という仏教の戒名が贈られ,仏式で祀られることになった。
阿弥陀ケ峰山麓の豊国神社は破却されるはずだったが,秀吉の正室・北政所の嘆願により社殿はそのまま残された。しかし放置され,空しく風雨にさらされ朽ち果てるままの状態にされた。参道も新日吉神社を移設して塞がれ,参拝する道さえ無くなった。
以後、300余年にわたり廟の社殿は荒廃にまかせ、訪れる人もなかったという。歴史の舞台からは完全に姿を消すことになったのです。
大仏殿のある方広寺は妙法院の付属寺院とされた。毎年の豊国祭も禁止された。

◆木造の大仏(四代目)
秀頼の再建した大仏は豊臣家滅亡後も残されたが,寛文2年(1662)の寛文地震で金銅大仏(三代目)が大破する。大破した大仏の銅は寛永通宝の原料とされたという。
寛文7年(1667)木造の大仏が完成する(四代目)。庶民の間では江戸期を通じて「大仏さん」の名で親しまれた。京のわらべ歌に「京の大仏つぁん」がある。
   京の京の大仏つぁんは
   天火で焼けてな
   三十三間堂がやけのこった
   アラ どんどんどん
   コラ どんどんどん
   うしろの正面どなた

この木造大仏も,寛政10年(1798)7月,大仏殿本堂に落雷し出火。大仏殿,楼門,大仏が焼失。以後は同様の規模のものは再建されることはなかった。

◆十分の一の木造半身大仏(五代目)
江戸時代後期の天保年間(1830 - 1844年),尾張国有志の寄進により、旧大仏を模した像高2mの木造半身の大仏が造立され,仮本堂に安置された。上半身のみで旧大仏の十分の一でしかなかったが,「京の大仏」と呼ばれて親しまれた。これも昭和48年(1973年)に焼失してしまう。

◆豊国神社の再建 
徳川幕府が倒れ,天皇親政の明治になる。徳川方によってないがしろにされてきた豊臣秀吉が見直されるようになった。
明治元年(1868),明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇を再興することが命じられた。
当初、大坂城の城外に豊国神社を再興される予定だったが,京都の人々の嘆願で京都には本社、そして大阪には別社が建てられることに。明治13年(1880)、秀吉が築いた方広寺大仏殿跡に豊国神社の社殿が再建された。そのため方広寺境内の大部分は政府に収公され,現在の規模となってしまった。
明治8年(1875)には秀吉の大明神号は復されている。

◆阿弥陀ヶ峯山頂の五輪石塔
明治30年(1897)、阿弥陀ヶ峰山頂の秀吉の埋葬地に10mの巨大な石造五輪塔が建てられた。この時,土中から素焼きの大きな壷が見つかり,その中には西向き(御所の方角)に手足を組んで座る、秀吉の半ばミイラ化した遺体があったという。丁重に再埋葬された(取り出すとき,ボロボロと崩れてしまった,という説も・・・)。甲冑や刀、黄金などの豪華な副葬品も埋葬されていたはずだが,すでに盗掘されてしまっていた。

黒田家や蜂須賀家など、豊臣家ゆかりの武将の子孫たちにより、太閤坦、豊国廟が修復整備され,塞がっていた参道を開けるために、新日吉神社は参道南(現在地)へ移転される。ここに二の鳥居が建てられる。翌明治31年には、豊太閤三百年祭が大々的に挙行された。

◆戦後 
昭和48年(1973)3月、3月28日、天保年間に造られた十分の一の木造半身大仏は失火により焼失した。地震や火事、雷などで壊れてしまっては、再建してということを繰り返して、昭和48年に消失するまで、5代の大仏さんが造営されてきた。

平成12年(2000)、大仏殿跡の発掘調査が行われた。大仏殿は東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明。また大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。

 方広寺(ほうこうじ)  



豊国神社の大鳥居前を数十m北へ歩くと右に入る道があります。この道を入れば方広寺はすぐだ。

狭い境内には,本堂・大黒天堂と鐘楼があるだけです。写真の右が大黒尊天の木像を祀る大黒天堂。本堂は,明治11年(1878)に再建された。
右の本堂に入ります。境内は無料だが,本堂・大黒天堂は300円の拝観料が必要。拝観料を払うと,受付の黒衣のおばさんが本堂内へ案内してくれる。3部屋あり、大雑把に説明し、すぐ受付に戻ってしまわれた。一人でやっておられるので、受付をほっておけないのでしょう。「撮影禁止」の注意書きが見当たらないので、おばさんに確認すると、曖昧な返事で「どうぞごゆっくり」とおっしゃってあたふたと受付へ戻ってゆかれた。私は撮影OKと理解し,撮りまくりました。後で見つけたのだが,本堂の外には「撮影禁止」の張り紙が・・・(^_-)-☆

本堂内に「眉間籠り仏(みけんこもりぼとけ)」が安置されている。これは秀頼が造仏した三代目大仏の眉間部分に納められていた。寛文2年(1662)の寛文地震で三代目大仏が大破するが、そのときに取り出されたと思われます。

大仏殿と大仏の一部であると考えられる遺物を見ることができる。銅製風鐸、銅製蓮弁、瓦、大仏の台座の一部など、カケラですが展示されています。
右下は、左甚五郎作の龍の彫り物。

秀吉の創建した方広寺は,かって蓮華王院(三十三間堂)などを境内に取り込み広大な敷地を占めていた。しかし明治に入り,方広寺境内の大部分は政府に収公され,その敷地内に豊国神社が建てられ,現在のような小さな規模の境内になってしまった。

本堂の前に鐘楼が建つだけ。その向こうには広い敷地を占めた豊国神社が見えます。
鐘楼は1880年代に再建されたものだが,梵鐘は豊臣家滅亡のきっかけになった方広寺鐘銘事件当時のまま残され,現在も吊るされている。徳川幕府にとって豊臣家を消滅させなければならなかった証拠物件として温存してきたのでしょうか?。

慶長19年(1614),秀頼は大仏殿ならびに金銅製の大仏を復興する。この時梵鐘も完成し,大仏の開眼供養の日を待つばかりとなった。「ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。上記の梵鐘の銘文(東福寺、南禅寺に住した禅僧文英清韓の作)のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒?するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされる(方広寺鐘銘事件)。なおこの事件を徳川方の言いがかりとする見方がある一方で、「姓や諱そのものに政治的な価値を求め、賜姓や偏諱が盛んに行なわれた武家社会において、銘文の文言は、徳川に対して何らの底意をもたなかったとすれば余りにも無神経。むろん意図的に用いたとすれば政局をわきまえない無謀な作文であり、必ずしも揚げ足をとってのこじつけとは言えない。片桐且元ら豊臣方の不注意をせめないわけにはいかない」とする指摘もある。また大工棟梁を勤めた中井正清から家康への注進により大仏殿の棟札にも不穏の文字があるとされた。」(Wikipediaより引用)
問題となった銘文の一部「国家安康」「君臣豊楽」は,分かりやすいように白枠で囲まれています。この鐘は昭和43年に重要文化財に指定されました。東大寺、知恩院の梵鐘と合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。




鐘楼の中に、大仏殿の遺物が置かれている。大仏殿の柱にまかれていたという鉄製の輪、大仏殿の四隅につられていた風鐸、大仏殿に使われていた鉄製の金具などです。












 大仏殿跡緑地  



地図で見ると、大仏殿跡緑地は豊国神社の裏に位置する。豊国神社内を通って行けると思っていたが、そうではなかった。方広寺受付でおばさんに尋ねると、そこの道を入って行けばすぐです、と指差し教えてくれた。指差された先に細い路地が見える。
確かに大仏殿跡地へは方広寺境内からしか入れないようです(東大路通りからも入れそうだが未確認)

路地を通るとすぐ広場が現れる。中央部分は小高く盛り上がっており,所々に敷石らしきものが散在している。。

豊国神社東側の大仏殿跡地は,平成12年(2000)に発掘調査が行われた。大仏殿は東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明。また大仏が安置されていた場所からは八角の石の基壇も発掘されている。
発掘調査後,保存のため埋め戻し「大仏殿跡緑地公園」として整備された。この大仏殿跡地は国の史跡に指定されています。

(現地の説明板より)

 豊国神社(とよくにじんじゃ)  


方広寺の南側,大和大路通に面し豊国神社(とよくにじんじゃ)の大鳥居が建つ。徳川幕府が倒れ,明治になると豊臣秀吉の名声が復権する。明治13年(1880),かって阿弥陀ヶ峯の麓にあった豊国神社が,場所を変えて秀吉の建てた方広寺境内を没収して建てられた。秀吉は再び神として祀られたのです。大阪城内や,秀吉の出身地・名古屋市中村区など,全国に多くの秀吉を祀る豊国神社が存在するが,ここがその総本社です。

大鳥居から参道を進むと,正面に豪華絢爛たる唐門(国宝)が建つ。この唐門から奥へは正月の三が日以外入ることはできません。
総欅(けやき)作りの四脚門。秀吉の造った伏見城の城門だったが,二条城へ,さらに南禅寺の塔頭・金地院へ、そして明治に入ってから豊国神社に移築されたもの。漆を塗り、彫刻や飾金具を施したその豪華絢爛な唐門は、桃山文化を代表する建築の一つとして国宝に指定されている。西本願寺,大徳寺の唐門とともに国宝三唐門と称されている。


扉の下部に「鯉の滝登り」と呼ばれる左甚五郎の彫刻が彫られている。これは中国の故事にある「登竜門」を示し、「立身出世」を意味しているという。








正面の欄間に彫られた鶴は「目無しの鶴」と呼ばれ、目が無い。出来が良すぎたので飛び去らないように目を入れなかったそうです。






境内の南側に垣根で囲まれた領域がある。この中に宝物館があります。この領域に入るには拝観券300円が必要(高・大学生200円、小・中学生100円)。横の売店で売っている。
白壁の頑丈そうな建物が大正14年に開館した宝物館。係員は誰もいてない(即ち,拝観券のチェックもない)。撮影禁止の注意書き見られないので内部を撮りました。

太閤秀吉ゆかりの品々が多数展示されています。秀吉遺品を納めた唐櫃(重文)、秀吉が使っていたといわれる獏の形の枕や、身の回りの品を納めた蒔絵の箱(蒔絵唐櫃)など。他にも甲冑や弓・太刀といった武具類、息子・秀頼が八歳の頃に書いた書作品…なども展示されている。

宝物館に入るとすぐ横に「豊国祭礼図屏風」(重要文化財)が展示されている。六曲一双の大きな屏風で桃山絵画の傑作とされている。
慶長9年(1604)8月(旧暦)、豊国神社で7日間にわたりに行われた秀吉の7回忌の祭礼の様子を、豊臣秀頼の命を受けた家臣・片桐且元が、豊臣家のお抱え絵師・狩野内膳に描かせた屏風です。当時の京都の町並みや、人々の祭りを楽しんでいる様子が、表情も豊かにとても活き活きと描かれています。
豊臣家が滅亡すると祭礼も中止された。この屏風は京都・吉田神社が引き取り保管し、徳川幕府が倒れ明治になってから豊国神社に戻された。

秀吉の歯まで展示されている。賤ヶ岳七本槍のひとり加藤嘉明に形見として贈ったもの。秀吉直筆の贈り状まで残されている。親分の貴重な歯なので、写真のような容器に入れて大切に保管されていた。
この歯のから秀吉の健康状態がわかってきた。秀吉は歯槽膿漏で歯が抜け、この歯が最後の一本だったようです。ろくにものを食べられず、衰弱していったらしい。歯医者の存在しない当時は、天下人といえ防ぎえようがなかったのでしょう。血液型はO型だった。
戦場で使われていた瓢箪の馬印もある。

豊国神社の大鳥居から車道を西へ50mほど行くと,左に小高い丘の上に五輪塔が建つ。
秀吉が朝鮮を攻めた文禄・慶長の役(1592-1598年)の時、切り取られ塩漬けにして持ち帰った朝鮮の人々の耳や鼻を埋葬したもの。その上に高さ5mほどの五輪塔が建てられた。国の史跡に指定されている。

 阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)の豊国廟(ほうこくびょう)  


豊国神社を2時半にでる。三十三間堂界隈から少し離れているが,時間があるので阿弥陀ヶ峯(あみだがみね)山頂にある秀吉の墓所・豊国廟を訪ねてみることにした。

智積院と妙法院との間の東山七条の交差点から車道を東へ歩く。入り口には「豊国廟参道」の大きな石柱が建っています。緩やかな坂道を進むと新日吉神宮に出会い,その左脇をさらに登ると京都女子学園のキャンパスが両脇に現れる。この緩やかな坂道を「女坂」と呼ぶらしい・・女学生がゾロゾロと。残念ながら正月休み中なので一人として出会いません。
この真っ直ぐな坂道が,かって豊国廟へお参りする参道だったのです。

さらに進むと女坂の突き当たりに階段と大鳥居が見えてくる。鳥居の先に見える緑の山が東山三十六峰のひとつ阿弥陀ヶ峰(あみだがみね、196m)です。かつて阿弥陀堂があったことから山名がきているようです。
東山七条の交差点からここまで20分位でしょうか。

階段を登ると石畳がまっすぐ続き,周辺は広々とした平坦地となっている。ここが「太閤坦(たいこうだいら)」と呼ばれ,かって秀吉を祀る豊国社の社殿があった場所です。
豊国神社で頂いたパンフには「旧豊国社創建当初約三十万坪あった境内には,山腹の俗称太閤坦に,本殿の他にも舞殿・神宝殿・護摩堂・鐘櫓・太鼓櫓等の殿舎が整然と立ち並び,まさに人目を奪う美しさを誇っていた。その後元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に旧豊国社・豊国廟は破壊され,墳墓に弔する人もなく,空しく風雨にさらされていた」という。現在は「本殿のあった太閤坦には二,三の礎石と慶長五年(1600)長谷川右兵衛尉守直奉納の手水鉢(石船)等が残って,わずかに昔の面影を伝えているのみであるが,拝殿・手水舎等の諸殿舎整備修復が徐々に成され,春には桜の名所として賑わいを見せている」そうです。
豊国神社から約1km離れ,現在は,山頂の豊国廟を含め豊国神社の「飛び地境内」の扱いとなっている。春の桜の季節以外は,訪れる人も無く閑散とした様子。南側はバスの待機所らしく,10台くらいのバスが止まっている。豊国廟へお参りする観光バスかと思ったが,これは京都女子学園用の「プリンセスライン京都」のバスらしい。

なぜ広々としたここ太閤坦に豊国神社を再建しなかったのでしょうか?

石畳の先に拝殿が構える。割拝殿のようで,真ん中を通り抜けるとそこから山頂に向かって長い石段が続いています。
拝殿から奥は有料です。拝殿横の豊国廟神札授興所で,百円を納めて登拝券をいただきます。授興所が閉まっている場合は拝殿奥の入り口に設置されている志納金箱へ納める。

授興所の奥には、秀吉の側室・松の丸殿と、秀頼と側室との子,即ち秀吉の孫にあたる国松の五輪塔があります。



拝殿周辺に注意書きが掲示されている。拝殿から奥の階段には灯りが無い。遅くなると真っ暗な中を降りなければならない。そのうえ,イノシシにサルとくれば・・・クマともご対面しそうだ。

拝殿を通り階段を登ります。この階段は,女坂にたいして男坂と呼ぶとか。確かに,女性や年配者にはキツイかも。俺も年配者だが,頑張った。上方を見れば折れそうになるので,下の段面だけみながら黙々と登る。階段が終わり石畳の参道が続き,その先に門が見えます。階段を振り返れば,長い急階段が続いている。イノシシが現れたら転げ落ちるしかない。この階段はロケによく使われるそうです。斬られた悪役が転げ落ちる・・・。

門は豊臣家の家紋・五七の桐が刻まれた神門。ここまでまだ階段の半分です。神門の先に後半部分の階段が続き,上部は明るくなっているので頂上部分と思われます。また俯きながら黙々と登るしかない。前半より階段幅は狭く,樹木に覆われ日中でも薄暗い。灯りが無いので日没までには降りなければならない。私以外誰もいてないので心細い。天下の秀吉のお墓といえど,好んでこの階段を登ろうとする人はいないだろう。私もこれが最初で,最後です。

この階段の段数ですが、豊国神社のパンフでは565段の石段と書かれ、登拝券裏には「正面の階段489段」とあります。私が数えたところ、神門までの前半が313段、そこから上の後半部分が172段で、合計485段です。山頂部の石の玉垣前に3段あるので、登拝券裏の489段に近い(誤差は私の数え間違えか)。さらに詳しくいえば、石の玉垣の奥の五輪塔前に7段あります。565段というのは、大鳥居前の階段を含めた数と思われます。

やっと山頂にたどり着く。それほど広くない平坦地に,石の玉垣に囲まれ大きな五輪塔が建つ。何の案内板も無く、桐の紋がなければ秀吉の墓だとは分からない。
阿弥陀ヶ峯は京都市外を見下ろせる位置にあるのだが、木々が生い茂り眺望はあまりよくない。わずかに京都の街が見えるだけ。

門が閉まっているので玉垣の中には入れないかと思いきや、右奥の柵の一部が切り取られ、入れるようになっている。
五輪塔は高さ三丈一尺(約9.4m)。明治30年(1897)、太閤坦、豊国廟修復整備の時に建てられた。

階段を降り帰途につく。大鳥居から西へ続く坂道を見下ろしながら撮った。

京阪・七条駅まで徒歩30分以上かかる。もはや歩く元気もありません。京都女子学園の校舎が見え,その傍にバス停があります。バスを利用しました。



詳しくはホームページ

三十三間堂界隈ブラ歩き 2

2019年04月02日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2019年1月4日(金曜日)
三十三間堂界隈には見所がいっぱい。京都国立博物館を中心に、三十三間堂・法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院・妙法院・豊国神社が建ち並ぶ。そして豊臣家滅亡のきっかけとなった梵鐘のある方広寺もあります。今回は、法住寺・後白河法皇法住寺陵・養源院・智積院の紹介です。

 法住寺(ほうじゅうじ)  



南大門を潜ると、最初に右手に出会うのが法住寺。「大根焚き」やら「身代不動尊」やら、賑やかな表門です。脇に「後白河天皇陵」「親鸞聖人そばくひ御木像」の石柱が見える。
「法住寺」という寺は、平安中期に太政大臣・藤原為光が妻と娘の菩提を弔うために建立したが焼失してしまっていた。その後、いつの頃か後白河天皇陵を守る寺が創建され、法住寺殿跡地に因み「法住寺」とされた。一時、秀吉の造った方広寺に含まれたが、徳川期になり妙法院門跡が重要視されてくると、その「院家」として扱われ、妙法院の歴代法親王(門跡)の墓所も法住寺の境内に後白河天皇陵と並んで置かれた。
法住寺はその後、後白河天皇陵と妙法院歴代法親王の墓を守る寺として存続してきたが、明治維新政府の廃仏毀釈により後白河天皇陵と法親王墓が宮内省所管に移され寺から分離される。そして法住寺は「大興徳院(大興院)」と改称する。かっての「法住寺」の名に戻されたのは昭和30年(1955)です。

賑やかな表門の手前に、もう一つ竜宮城のような門がある。「竜宮門」と呼ばれています。

竜宮門に入る道のど真ん中に「旧御陵正門」と刻まれた石柱が置かれている。後白河天皇の御陵がこの法住寺の真裏にあり、かってここが御陵への入口だったそうです。後白河天皇陵は、現在は宮内庁管理となり、法住寺とは分離されたので門だけ残された。どうしてこんな門形に・・・?

境内は狭く、本堂だけが建つ。平成になって改修されたので新しい。本尊である不動明王像が祀られています。「身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)」と呼ばれ親しまれている。
寺のサイトには「法皇さまが法住寺殿に住まいしておられる時、法住寺合戦で木曽の義仲が院の御所に攻め入ったとき、法皇さまがあやうく命を落とされるところを当時の天台座主の明雲大僧正が敵の矢に倒れ、法皇さまが難をのがれることができましたが、この時法皇さまは、「お不動さまが明雲となって我が身代りとなってくれた」と、とめどなく涙をこぼされたという話が伝えられています」とあります。

あらゆる災厄から身代わりとなって護ってくれるありがたいお不動さんです。赤穂の大石内蔵助(1659-1703)も、潜んでいた山科から遊郭へ通う道すがらこのお不動さんに度々訪れ、討ち入り直前には参拝し大願成就を祈願したという。その縁から堂内には赤穂浪士四十七士全員の小さい木像が安置されている・・・ハズだが見つけられなかった。討ち入りのあった12月14日には「義士会法要」が行われ、討ち入りそばが振舞われるそうです。

本堂の裏は墓場です。すぐ左横が後白河天皇の御陵となっている。
漫画『サザエさん』の作者・長谷川町子さんは先代住職と親しかった縁で、この法住寺を菩提寺とされている。町子さんの遺骨の一部が分骨されているそうです。墓場を大雑把に探したが、これも見つけられなかった。





 後白河天皇法住寺陵  



法住寺の真裏に後白河天皇陵があるのだが、その入口がわかりにくい。法住寺表門のすぐ北側に細い路地が見える。ここが入口のようで、宮内庁の「お知らせ」板が掛かっているので、それが目印です。
長い間、法住寺の境内であり、法住寺が管理し守護してきた。それが明治初期、宮内省所管に移され法住寺から分離された。そして急遽、陵域を塀で囲い、細い路地を造り参道としたものと思われます。

後白河法皇が建久3年(1192)66歳で没すると、その遺命に従い法住寺の法華堂に葬られた。三十三間堂の千体千手観音が向いている方向、即ち蓮華王院(三十三間堂)のすぐ東側に位置している。

宮内庁が「後白河天皇法住寺陵(ほうじゅうじのみささぎ)」として管理し、陵形は「方形堂」としている。
中央に切妻造り本瓦葺、正面3間の法華堂が建つ。この仏堂の床下地中に石槨が埋められているという。幕末に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないと唱えた学者が現れたとき、当時の住持が御陵の真下を掘ったところ記録どおりに天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったと云われている。
堂内には僧形の「後白河天皇法体坐像」(82.7㎝)が安置されている。鎌倉中期の寄木造り,玉眼入り。

後白河天皇法住寺陵の南側に接して、即ち法住寺の墓場の一角に食い込み、フェンスで囲まれた領域が見える。いくつか宝筐印塔(五輪塔?)が並んでいます。これが妙法院の歴代門跡法親王のお墓です。法住寺は江戸時代から妙法院に属し、門跡法親王のお墓が法住寺境内に設けられた。しかし後白河天皇法住寺陵と同様に、明治初期に分離され宮内省所管に移されたのです。
法住寺陵の制札には、七人の妙法院歴代門跡法親王の名が列記されています。

 養源院(ようげんいん)  



後白河天皇法住寺陵の入口からさらに北へ進むと養源院(ようげんいん)の山門が現れる。

戦国武将・浅井長政と織田信長の妹お市との間に生まれ、戦乱の世に翻弄され数奇な運命に見舞われた三人の娘「茶々(ちゃちゃ)、初(はつ)、江(ごう)」は「浅井三姉妹」として、小説、ドラマなどでよく知られている。ここ養源院はその浅井三姉妹と縁の深いお寺です。

豊臣秀吉の側室となった長女の淀殿(幼名・茶々)は、文禄3年(1594)に父・長政の二十一回忌にあたりその菩提を弔うため秀吉に懇願して養源院を創建した。「養源院」という名は浅井長政の院号からきている。

三女のお江は秀吉の政略結婚に利用され、後の2代将軍徳川秀忠へ嫁がされる。秀吉の死後、豊臣方と徳川方の対立から淀殿とお江は敵対関係におかれてしかう。次女のお初は和解させようとに努力するがかなわず、元和元年(1615)大阪夏の陣で、家康・秀忠の大軍に攻められ大阪城は落城し、淀殿は息子・秀頼とともに自害した。翌年(1616)5月、お江はここ養源院で姉の淀殿と秀頼の菩提を弔ったのです。
元和5年(1619)、養源院は落雷による火災により焼失します。しかしお江の懇願によって元和7年(1621)に再建されました。それ以後、徳川氏の菩提所となり,徳川歴代将軍の位牌を祀っている。

本堂(重要文化財)に入ります。履物を脱いで上がり、拝観料500円支払うと住職さんが堂内へ案内してくれます。
拝観・開館時間:9:00~16:00、
拝観料:500円
休日:年末、1, 5, 9月の各21日午後

写真が撮れないので説明するのが難しい。以下の写真は当院発行の小冊子「養源院と障壁画」からお借りしたものです。

俵屋宗達筆による杉戸絵「波と麒麟図」(重要文化財)
最初に案内されるのが拝観受付奥の幅広い廊下。長さは10mほどで短い。廊下には10人位が集まっていた。私が加わると黒衣をまとったおばさん(ご住職さんの奥様でしょうか?)が説明を始めます。説明慣れをなされているのでしょう、ユーモアを交えながら分かりやすくお話される。最初に廊下の両端の杉戸に描かれている俵屋宗達の絵を説明してくださる。入口近くの杉戸に描かれている「この動物は何でしょう?。ヒントはビールです」「ハイ、キリンです」といった調子。

俵屋宗達筆による杉戸絵「白象図」(重要文化財)
奥側の2枚は「白象図」(重要文化財)。一部テープの解説に。途中、さらに拝観者がやってくるので忙しいのです。







杉戸絵の説明が終わると、次は当寺自慢の「血天井」の説明に。黒衣おばさんは、皆を一箇所に集め、立ち位置と向きを細かく指示される。窓のカーテンを閉めるが、それでも少し明るいので板戸を半分ほど閉める。2mほどの棒で天井のある部分を指し示しながら、ここが自害された鳥居元忠の頭、胴、腕、脚・・・と解説してくれる。なるほど、言われてみれば変色した血痕の跡にようにも見えなくもない。

この本堂は、焼失後の元和7年(1621)にお江によって伏見城の「中の御殿」を移築して再建されたものです。
関ヶ原の合戦の直前、慶長5年(1600)7月に「伏見城の戦い」があった。徳川家康に伏見城の死守を命じられた
鳥居元忠率いる1800人は、石田三成が率いる4万の軍勢に攻められる。10日間城に立て籠もり必死に防戦した。最後まで残った鳥居元忠以下380余名の兵士は「中の御殿」に集まって自刃し、伏見城は落城した。その亡骸は真夏の2ケ月間放置され、床板に染み付いた血痕はいくら洗っても削っても消えなかったという。家康は元忠らの菩提を弔うためその床板を「決して床に使ってはならぬ」と命じ幾つかの寺に分け与えた。養源院本堂の廊下の「血天井」もその一つです。

廊下についての説明は無い。「うぐいす張りの廊下」ってここですか?、と訪ねると「そうです」と。「血天井」の下が「うぐいす張りの廊下」ということだ。確かに、歩くと軋んで音がするような・・・気がする。俺の田舎の実家はもっと大きく鳴いてくれる・・・。
左甚五郎が作り、大泥棒・石川五右衛門が引っかかったという役者の揃った廊下なのだが、お寺は控えめです。当院発行の小冊子「養源院と障壁画」にも載ってない。

次は「牡丹の間」の中へ案内される。中央は地蔵菩薩、金雲の中に牡丹の折り枝だけを散らした奥の襖絵は狩野山楽の描いたもの。伏見城から移築されたもので、秀吉の学問所だった部屋です。

写真は、左より崇源院(お江)の位牌、浅井長政の位牌、仏壇羽目板の唐獅子図(当院発行の小冊子「養源院と障壁画」からお借りしたものです)
次は位牌のある間に案内され、10体ほどの位牌がケースに入れられ立てられている。位牌は非公開で見れないが、3枚の位牌写真が置かれていた。崇源院(お江)と秀忠の位牌には「菊」「葵」「桐」の3つの紋が彫られている。それぞれ皇室、徳川家、豊臣家を象徴する紋です。
養源院は、2代将軍徳川秀忠の正室となっていた崇源院(三女・お江)により再建され、その後徳川家の菩提所となり、2代将軍秀忠から14代将軍家茂までの位牌が安置されています。また崇源院(お江)と秀忠の子・和子が後水尾天皇の中宮として入内し、次期天皇を生んだことから皇室との縁もできる。「桐」は養源院を創建したした淀殿(幼名・茶々)の豊臣家の紋。購入した冊子を入れる紙袋には「豊臣・徳川和合の寺」と書かれていました。
仏壇下の羽目板に描かれた狩野山楽の唐獅子図3面。京都府指定の有形文化財
養源院に、浅井三姉妹の母・お市の方の供養塔があるという情報を得ていたので、本堂に入る前に境内を探し回ったが見つけられなかった。本堂の見学を終え出るとき、「お市の方の供養塔はどこですか?」と尋ねると、本堂の横を指され、「公開していないので柵で閉じられているが、見学なさっていいですよ」とおっしゃる。
本堂の横にまわると、柵で閉じられ「許可なく入らないで下さい」とある。さっき了解を得たので、柵を越えて入った。

供養塔らしきものが3基ありました。しかし梵字以外に何も目印がないので、どれがお市の方の供養塔なのか判らない。さっき玄関で「お市の方の供養塔ってわかりますか?」と尋ねたら、「判るとおもいますよ」との返事だったのだが、案内もないのでどれか判るはずもない。とりあえず3基とも写真を撮って帰りました。
帰宅後、購入した小冊子「養源院と障壁画」を見ると写真が載っていたので判明した。
 (上の写真)手前にあるのがお市の方の供養塔
 (下の写真)一番奥が崇源院(お江)石塔墓

 智積院(ちしゃくいん)  



養源院から次の智積院(ちしゃくいん)へ向う。智積院は法住寺と養源院の東側に広大な敷地をもったお寺。一度七条通りに出て、京都国立博物館に沿って東へ歩く。正面突き当たりに見えるのが智積院の総門(そうもん)です。白い幔幕に、寺の紋章である「桔梗花型」が。京都には沢山の神社仏閣があるが、総門が通りの突き当たりにあるのは八坂神社とここだけ。
智積院は天和2年(1682年)に火災に遭うが、その再建時に東福門院の旧殿の門を移築したのがこの総門。

智積院の歴史を見てみます。
真言宗の僧・覚鑁(かくばん,1095-1143、興教大師)が大治5年(1130)、大伝法院を高野山に創建する。保延6年(1140)、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、大伝法院を紀州・根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)に移して新義真言宗を打ち立てた(根来寺)。最盛期の戦国時代には、所領70万石、坊舎2700余り、約6000人もの学僧たちを擁し、強い勢力をもっていた。智積院は、南北朝時代にこの大伝法院の塔頭として建立された寺で、根来山内の真言教学の学問所として隆盛していた。

天正13年(1585)、根来山大伝法院の強い勢力を恐れた豊臣秀吉により攻められ、全山炎上し堂塔のほとんどが灰燼に帰してしまった。智積院住職の玄宥(げんゆう)は、秀吉の根来攻め直前に弟子達と共に高野山に逃れ、さらに京都・醍醐寺,高雄山,洛北北野の仮堂と移り智積院の再興をめざす。
秀吉は死に、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康が勝利すると、秀吉を祀っていた東山の豊国神社の土地と建物の一部が玄宥に与えられ、智積院はようやくここに再興した。
なお紀州・根来寺は、その後も残った僧侶によって護持され、現在は新義真言宗の総本山となっている。

元和元年(1615)大阪城が落城し豊臣氏が滅ぶと、隣にあった豊臣家ゆかりの祥雲禅寺(しょううんぜんじ)が与えられた。祥雲寺は、秀吉が3歳で亡くなった愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うため天正19年(1591)に建てた寺だった。こうして智積院は寺域をますます広げ、正式名称も紀州根来山当時のものを使い「五百佛山 根来寺 智積院」(いおぶさんねごろじちしゃくいん)とした。

江戸時代には、真言密教の学問寺として多くの寮舎が建ち、数多くの僧侶たちが集まる大規模な寺院として隆盛した。しかし明治に入り、ここ智積院も廃仏毀釈の嵐に遭い、多くの堂舎が取り壊された。規模は縮小されたが、現在、真言宗智山派三千末寺の総本山となっている。

総門前の東大路通りを南へ行くと智積院の入口です。入口すぐ横にあるのは拝観受付でなく、朱印所です。紛らわしい。
拝観受付は冠木門を潜った更に先です。冠木門(かぶきもん)とは、両柱に貫(ぬき)と呼ばれる木を通しただけで屋根を持たない門のこと。







最初に講堂、大書院、名勝庭園へ行きます。智積院の境内は無料で自由に見学でき、金堂や明王殿、大師堂なども無料で中に入り拝観できる。しかし講堂、大書院、名勝庭園、宸殿のある領域と収蔵庫だけは拝観料が必要です。

冠木門を潜り真っ直ぐ行った突き当りが金堂。その参道の中程に左に入る小道があり、その先に講堂などへ通じる門が見える。その門の手前に拝観受付があります。
 拝観受付時間: 午前9時 ~ 午後4時
 拝観料: 一般 500円 高中校生 300円 小学生 200円
   ※団体割引(それぞれ20人以上)50円引き
   ※12月29日,30日,31日はお休みとなります。

門の先にある講堂は、真言密教の重要な儀式である灌頂の道場や檀信徒の廻向道場、また各種研修会などで使用されている。焼失した旧講堂に代わり、平成4年(1992)の興教大師850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)10月に完成したのが現在の建物。

講堂の右側に周ると名勝庭園が見えてくる。

講堂の裏を進むと大書院の玄関があり、履物を脱いで上がる。広い大書院に入ると眩いばかりの障壁画が目に飛び込んでくる。上段の間には「松に立葵の図」が、後ろの壁には「桜図」と「楓図」が描かれている。それぞれ長谷川等伯、息子の久蔵、そして等伯の作です。ただし本物は
収蔵庫に保管され、ここで目にするのは複製品。なので大書院内部は写真撮り放題です。

大書院の前に広がる庭園は、桃山時代に造られた庭園で国の名勝に指定されている。小掘遠州の作庭といわれ、
中国の廬山を模して築山を造り、その前面に「長江」をイメージにして池が造られている。池は寝殿造りの釣殿のように縁の下まで入り込んでいる。
この庭園の特色は、山の斜面に石組みと球形の植込みが配されていること。それによりより雄大な立体感を演出している。丸く球形に刈り込まれた植込みはサツキで、色鮮やかな花を咲かせる5~6月頃が見頃だそうです。

講堂の背後は、大書院、宸殿、奥書院、本坊、大玄関が廊下で繋がっている。廊下は複雑に入り組み、迷路のようで、今どこに居るのか分からなくなってきます。廊下はどこもピカピカに磨かれている。葺き掃除している若い僧侶の姿が目にうかんできます。これも修行なのでしょう。

ここは大玄関で、東大路通りに面した総門とつながっている。総門は、住職の就任時と退任時だけに使われ、通常は通ることができない。
桔梗紋が智積院の寺紋ですが、その由来は加藤清正からきているそうです。秀吉は3歳で亡くなった愛児・鶴松を弔うため祥雲禅寺の建立を加藤清正に命じた。清正は立派にその役目を果たしたので、清正の家紋だった桔梗紋が祥雲禅寺を引き継いだ智積院でも使われたという。

大書院、講堂から外に出ます。拝観受付所の横に収蔵庫が建っている。国宝の障壁画を保管展示するため昭和46年(1971)に建立された。国宝の障壁画を保管した拝観料500円の中にこの収蔵庫への見学も含まれている。講堂、大書院も同様ですが、収蔵庫に入るのに特に”もぎり”のような方はおられない。拝観者の良識を信じておられる。
入口に近づくと、自動ドアが左右に開き、履物を脱ぎ下駄箱にあずけ、さらに次のドアから入る。中は一室で、四辺に配されたガラス越しの国宝障壁画を鑑賞するようになっています。入口傍のボタンを押せば、ガイダンス音声が流れます。

収蔵庫には、桃山時代に主流だった狩野派に対抗し、独自の画風を確立した長谷川等伯(1539-1610)一門の筆による数々の国宝障壁画が保管展示されている。元は秀吉の建てた祥雲禅寺の客殿を飾っていた作品ですが智積院に引き継がれた。なかでもかって大書院にあった「楓図」「桜図」は日本の障壁画を代表するもの。
障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、客殿が天和2年(1682)に全焼した時に助け出され、残った画面を継ぎ合わせたためという。

左の写真は<真言宗智山派宗務庁発行の小冊子「私たちの真言宗智山派と総本山智積院」より>
長谷川等伯の長男・久蔵(1568-1593)の25歳の作とされる「桜図」(国宝)です。「金箔をふんだんに使った絢爛豪華(けんらんごうか)な色彩を背景に、力強い桜の大木を描き、そして絵の具を盛り上げる手法を用い、桜の花びらの一枚一枚を大胆に表現しています。まさに花びらの中から、長谷川等伯の子・久蔵の若さ溢れる情熱が眼前に迫ってくるかのようです。久蔵が二十五歳の時の作といわれています。しかし、残念なことに久蔵はこの翌年亡くなりました。」(公式サイトより)

長谷川等伯(1539-1610)の「楓図」(国宝)<拝観受付で頂けるパンフより>。
「「桜図」の完成の翌年に亡くなった息子久蔵の突然の死を悲しみ、創作意欲を失いかけましたが、息子の分まで精進しようと自分を鼓舞し、楓図を描き上げたといわれます。桜図と同様な豪華さで楓の古木が枝をいっばいに広げ、その下には様々な草花がみごとに配されています。息子の死という悲痛な思いを乗り越えた力強さと、落ち着いた秋の雅が感じられる等伯五十五歳の時の作品です。」(公式サイトより)

智積院の中心伽藍となる金堂。宝永2年(1705)に建立された金堂ですが、明治15年(1882)に焼失してしまう。
昭和50年(1975)、宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として再建されました。毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されます。
この金堂には本尊の大日如来が祀られ、正面の扉が開放されているので拝観できます。この大日如来像も昭和50年の再建時に造顕されたので金ピカに輝いている。これは金剛界大日如来で、実は地下にも部屋があり、胎蔵界大日如来が祀られているそうです。真言密教の金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅の両世界によるもの。

金堂へつづく道の両側には、智積院のシンボルの桔梗が植えられているそうです。花の咲く夏から秋にかけて、どんな景観をみせてくれるのでしょうか。

<本堂(左)と明王殿(右)>
金堂と並んで建つのが、紀州・根来寺伝来の不動明王を祀る明王殿(みょうおうでん)。不動堂とも呼ばれます。「明王殿は、昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物です。その後、平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されております。」(公式サイトより)



金堂から北側の領域に入ります。最初に出会うのが大師堂。寛政元年(1789)の建立。真言宗開祖の弘法大師空海の尊像が安置されている。この尊像は東寺御影堂の大師像を参考にして造られたものだそうです。







これは求聞持堂(ぐもんじどう)。「文殊堂、護摩堂ともいう。嘉永4年(1844)に建立されました。本尊は虚空蔵菩薩で、お前立ちに不動明王を祀っている」と説明されている。










智積院の元になる紀州・根来寺を創り新義真言宗を打ち立てた覚鑁(かくばん,1095-1143、興教大師)の尊像を安置する密厳堂(みつごんどう)です。寛文7年(1667)の建立で、開山堂ともいわれる。







詳しくはホームページ