山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

神武天皇陵から今井町へ 1

2020年03月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年2月11日(火曜日)
今まで多くの天皇陵を見てきたが、令和という新しい時代が始まったのを機に初代天皇の陵墓を訪ねてみることにした。その日は2月11日に限る。神武天皇が橿原の地に即位したとされる日だからです。即位地の橿原神宮では紀元祭が行われる。橿原神宮、神武天皇陵と近くにある第二代綏靖天皇陵、第三代安寧天皇陵、第四代懿徳天皇陵もついでに訪ねてみます。これだけでは一日ウォーキングにならないので、午後は今井町へ。今井町と神武天皇陵は何の関係もありません。ただ近いだけです。

 第4代・懿徳天皇陵(いとくてんのう)  



9時、近鉄南大阪線・橿原神宮西口駅に着く。駅北側出口から東へ歩くと、すぐ橿原神宮の西参道入口で鳥居が立っている。参道へは入らず、畝傍山と住宅に挟まれた左側の道を進みます。
この辺りは畝傍山南西の山麓で、橿原神宮のちょうど裏側にあたる。
第4代懿徳天皇(いとくてんのう)の陵墓です。宮内庁の正式陵墓名は「畝傍山南纖沙溪上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)」、陵形は「山形」、所在地は橿原市西池尻町。古墳のように造成された盛り上がりのように見えるが、畝傍山の飛び出た丘陵の一部を利用した自然地形のようです。宮内庁も「山形」といっている。ワンちゃんが散歩したくなるような環境です。

第4代懿徳天皇は「欠史八代」、即ち日本書紀・古事記に簡単な系譜のみが記載され、即位後の事績が無いことから架空の存在とみなされている(反対説もあり)。懿徳34年(前477年)77歳で崩御。古事記では45歳となっている。翌年10月、日本書紀は「畝傍山南纖沙溪上陵」(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)、古事記では「畝火山の真名子谷(まなこだに)の上」に葬ったとされる。
陵墓の場所は、江戸時代に神宮の森の中に残るイトクノ森古墳だとされる時期もあったが、その所在は不明のままであった。幕末の文久3年(1863)現在地に治定され、翌年にかけて陵墓らしく体裁が整えられた。
ここより西側の丘陵を真砂山(マナゴヤマ、現在は安寧天皇神社が鎮座)と呼ばれ、そこと畝傍山との間は「マナゴ谷」と呼ばれていた。この地名が日本書紀「纖沙溪(まなごのたに)」、古事記では「真名子谷(まなこだに)」と合うことから治定の根拠になったようです。


 第3代・安寧天皇陵(あんねいてんのう)  



懿徳天皇陵から左側の道を上っていくとこんもりとした小山が見えてくる。一見、古墳らしく見えます。ここに安寧天皇陵がある。手前の家並みが吉田町で、ここの集落内に古井戸「御陰井」があります。

車道を進むと、すぐ左手に安寧天皇の陵墓が現れる。墓のある森は古墳のように人工的に造られたものではなく、畝傍山から西にのびる尾根の一部が車道によって切り離されただけのようです。第3代安寧天皇(あんねいてんのう)も「欠史八代」の一人で、実在性が疑問視されている。しかし不思議なことにお墓があるんです。そして国民の税金で保守管理されている。

宮内庁公式の御陵名は「畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ)」、陵形は「山形」となっている。所在地は奈良県橿原市吉田町。
所在不明だったが、幕末の文久の修陵で現在地が安寧天皇陵として治定され、翌年にかけて陵墓らしく体裁が整えられた。そこは地元の人が「アネイ山」と呼び、また南側の吉田集落内に「御陰井(みほどのい)」と呼ばれる古井戸が現存していることから決められた。この古井戸「御陰井」は、現在でも宮内庁が管理している。治定の証拠物件として差し押さえしているようです。

 畝傍山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)  



畝傍山西麓に畝傍山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)があるので訪ねてみることに。この神社は畝傍山の頂上に鎮座していたのだが、戦争直前の昭和15年に日本政府より立ち退きを求められた。橿原神宮や天皇陵を見下ろすことはケシカランと。
車道脇の案内標識には「おむねやま」と振り仮名が付けられているのだが。

車道を北へ歩き、集落内から右手の細道に入る。集落を抜け山裾へ向って行くと紅い鳥居が見えてくる。鳥居を潜ると、ひと際目立つ位置に神社の由緒書きが掲示されています。由緒書きの最後に
「現在の社殿は昭和十五年皇紀二千六百年祭で橿原神宮・神武天皇陵を見下し神威をけがすということで当局の命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった。」
と無念さをにじませておられる。
7年前(2013/2/9)に畝傍山に登ったことがある。山頂はガランとした小さな広場になっており、そこに三角点と畝傍山口神社跡の石碑がありました。山頂は樹木で囲まれ視界が阻まれ、橿原神宮や天皇陵など見下ろせれなくなっていた。あんな窮屈な山頂より、現在の広々とした山麓のほうが神社には良いのではないでしょうか。また地元の人にも親近感が湧くと思います。

正面に見えるのは拝殿で、その奥に三間社流れ造りで銅板葺の本殿がある。本殿・拝殿は昭和15年の下山時に改築され、その他の施設は山頂から移されたもの。
鳥居の横に畝傍山(199m)への西の登山口がある。30分位で登れるそうです。

 橿原神宮(かしはらじんぐう)  


畝傍山口神社を後にし、橿原神宮西口駅近くの橿原神宮西参道入口まで戻る。

神社といえば非常に古い時代に創建されたと考えがちだが、橿原神宮は明治神宮(1920年)、平安神宮(1895年)などと同じく新しい時代の神社です。創建は新しいが、この地は日本発祥の地だと橿原神宮は誇りにされている。

「ようこそ、日本のはじまりへ」で始まる公式サイトには「日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと、後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山の東南の麓に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点ともいえるでしょう。」とあります。

橿原神宮には参道が三つあります。近鉄・橿原神宮前駅から通じるのが表参道で、多くの参拝客で賑わう。ここは西参道で神宮の裏側です。そのため日本建国を祝う紀元祭だというのにほとんど人影はありません。
少し行くと右側に深田池(ふかだいけ)が見えてきます。


深田池の横から南神門が見えてきた。南神門の先が神殿域だが、右手に曲がりまず表参道を覗いてみます。表参道こそ2月11日の何たるかを味わえる場所だからです。

近鉄・橿原神宮前駅へ通じる表参道。こちらはかなりの人出になっている。日の丸の小旗を手にした方も見かける。
参道の両脇には青々とした樹木が生い茂り、神社らしい森厳とした雰囲気をかもしだしている。しかしこの辺りは戦前まで、集落があり田畑だった。昭和15年(1940)、皇紀2600年記念事業として神域拡張整備がなされた。集落は移転させられ、その跡地は勤労奉仕により植樹された。橿原の地名にちなんでカシ類を主とする樹木7万本余りが植えられたという。表参道に立つ三本の鳥居もこの時に建てられたもの。

日章旗を先頭に紋付袴の正装姿の集団がやってきます。これから組織として紀元祭に参列されるのでしょう。

マイクで演説されている人も何人か見かける。「憲法を改正せよ!、安倍がんばれ!」などゲキを飛ばしている。「日本会議」の旗が揺らいでいます。参道脇ではチラシを配る人、署名を求める人、日の丸の小旗を配る人などが。差し出された日の丸の小旗を受け取ってしまい、処分するのに大変困りました。

参道を進むにつれ異様な空気感が漂ってくる。制服姿(戦闘服?)の集団、それを出迎える奈良県警、だんだんとカメラを向けるのが難しくなってくる。表参道の中程だが、この辺りで引き返します。


八脚門の南神門(みなみしんもん)へ戻ります。

橿原神宮が創建されたのは明治23年(1890)で近代に入ってから。幕末の文久3年(1863)、尊皇思想の高まりから初代・神武天皇の陵墓が新しく造営された。次は神武天皇の宮殿探しです。神武天皇の宮について、日本書紀は「橿原宮(かしはらのみや)」、古事記では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記されている。「橿原」の地は不明だったが、畝傍山の東南あたりが想定された。明治10年代になると民間より神宮創建の請願が相次いだ。
明治22年(1889)、明治天皇の勅許が下り、県は土地の買収を始める。社殿として京都御所の賢所(現在の本殿)と神嘉殿(拝殿、1931年より神楽殿)の2棟が下げ渡された。明治23年(1890)1月に完成、3月に皇紀2550年を記念して社号を「橿原神宮」に、4月2日には格式の高い官幣大社に列された。
同年11月、第一条に「大日本帝國ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とうたう大日本帝國憲法(明治憲法)が施行されたが、万世一系の始まりである初代神武天皇の陵墓と宮殿の策定が急がれたのです。そして天皇の権威を高め天皇統治に利用されてきた。
その後も橿原神宮は神武天皇陵とともに拡張整備され大きくなっていった。昭和15年(1940年)の皇紀2600年記念事業でほぼ現在の聖域が完成し、その広さは約53万㎡で、甲子園球場約13個分の広さといわれる。

戦後の昭和31年(1956)、周辺の町村が合併し「橿原市」が発足する。ここで初めて「橿原」という公の地名ができたのです。

南神門には「紀元二千六百八十年」と大書きされている。「紀元2020年」じゃないの?。
明治維新を経て、西洋列強に伍するため暦法を改め太陽暦を採用するとともに、西暦(キリスト紀元)と同じような日本独自の紀年法をも取り入れた。明治5年(1872)、初代天皇・神武が即位した年を元年としたのです。日本書紀には「辛酉年」に即位した書かれている。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』は次のように説明してくれます。「ここでの「辛酉年」は西暦紀元前660年にあたる。その理由は以下のとおりである。日本書紀の紀年法は、元号を用いる以前はその時の天皇の即位からの年数で表している。また、天皇の崩御の年の記載もあり、さらに歴代天皇の元年を干支で表している。日本書紀のこれらの記述から歴代天皇の即位年を遡って順次割り出してゆけば、神武天皇即位の年を同定できる。これを行って神武天皇の即位年を算定すると、西暦紀元前660年となる」ということです。即ち歴代天皇の在位年数や即位年の干支を計算してゆけば、神武天皇の即位年が西暦紀元前660年に。

西暦と紛らわしいので「紀元」といわず「皇紀(こうき)」と言います。戦後、皇紀は使われなくなったが、再び尊皇運動が高まり皇紀が復活し、令和2年(皇紀2680年、西暦2020年)と3つも年を覚えなければならないなんて勘弁してね。私は元号も不要だと思っているのですが・・・。


南神門では若い神官さんがロープを張って、通行規制している。これから天皇代理の勅使さまがお通りになるからです。今日は2月11日で建国記念日の祭日です。戦前までは「紀元節」と呼ばれていた。何故2月11日なのでしょうか?。
日本書紀は「辛酉年春正月庚辰朔(かのととりはるむつきかのえたつついたち))天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(辛酉年の正月朔日、天皇は橿原宮で即位す、この年を天皇元年となす)と記述する。「正月朔日」、即ち1月1日です(皇紀元年1月1日、旧暦)。明治5年新暦採用にともない、旧暦の明治5年12月3日を新暦(太陽暦:グレゴリオ暦)の明治6年1月1日することに決定。そうすると今までの神武天皇即位日だった1月1日は新暦1月29日にずれることになる。
ところがWikipediaによると「1873年(明治6年)1月29日、神武天皇即位日を祝って、神武天皇御陵遙拝式が各地で行われた。同年3月7日には、神武天皇即位日を「紀元節」と称することを定めた(明治6年太政官布告第91号)。なお、同年1月には、神武天皇即位日と天長節(天皇誕生日)を祝日とする布告を出している。(一部略)1月29日では、孝明天皇の命日(慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇祭)と前後するため、不都合でもあった。そこで、政府は、1873年(明治6年)10月14日、新たに神武天皇即位日を定め直し、2月11日を紀元節とした。2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。その具体的な計算方法は明らかにされていないが、当時の説明では「干支に相より簡法相立て」としている。」と、紀元節が2月11日に替えられた背景を説明しています。

さらに「即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦(先発グレゴリオ暦)で紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日を探すと新暦2月11日が特定される。その前後では前年12月20日と同年4月19日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」にならない。したがって、「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日とした。」ともある。

戦前までは盛大に祝われた紀元節だが、昭和23年(1948)に占領軍(GHQ)の意向で廃止された。しかし激しい議論の末、昭和41年(1966)に佐藤栄作内閣は旧紀元節の2月11日を「建国記念の日」として国民の祝日とすることに決定したのです。
紀元節祭というのは無くなったはずだが、紀元祭と名前を変え皇室から勅使まで迎えてて行われている。

南神門を潜ると、畝傍山を背景に神殿が佇み、その前に掃き清められた玉砂利を敷き詰めた広場が。
大きな屋根の建物は外拝殿(げはいでん)。沢山の人が紀元祭を祝うために集まっている。ロープが張られているのは勅使さまのお通りのためです。
外拝殿の両側から長い廻廊が連なり「外院斎庭(げいんのゆにわ)」と呼ばれる広い庭を囲んでいる。庭の正面に内拝殿が建ち、その奥に重要文化財の幣殿と本殿がある。本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したもの。神武天皇とその皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が祀られています。
外拝殿の奥で紀元祭の祭礼が11時から天皇の勅使を迎えて行われます。一般参拝の場合は外拝殿の外での礼拝になるが、事前予約をすれば外拝殿から奥に入る事ができるそうです。

広場を北へ進むと北神門です。こちらはほとんど人影が見られない。神武天皇陵へはここから向います。

北神門の外は北参道。広々とした参道だがひっそりとし、人通りはありません。参道中程の左手に畝傍山(標高199m)への登山道入口がある。7年前にここから登りました。30分ほどで頂上でが、意図的に見下ろせないコースとなっているのか、また樹木で遮っているのか、途中神宮や天皇陵を見下ろすことはできませんでした。

参道は広い大通りに出ます。車道では、皇国の始まりである今日この日を祝うためにガイセンパレードが繰り広げられています。この日のために全国からこの種の車が橿原神宮周辺に集結するとか。奈良県警も忙しそうだ。

神武天皇陵



橿原神宮の北参道を抜け、大通りを北へ向って歩く。大通りの両側は青々とした樹木が茂り、神苑の雰囲気を漂わす。左側の畝傍山東北部は、かって集落が点在していたが、軍国主義・皇室崇拝の深まっていく大戦直前までに移転させられ神武天皇陵が拡張されていった。

左側に神武天皇陵の入口が見えてきます。深い緑につつまれた常緑樹の森が広がる。しかしこうした景観が作り出されたのは明治時代からで、それまでは田畑が広がっていた。

武士の時代は天皇の墓などないがしろにされ、その所在さえ判らなくなっていた。ところが江戸後期になると国学などの影響で尊皇思想が高まっていく。幕末の尊王攘夷運動の中で万世一系の皇統をいだく日本の国体が強調されるようになる。
幕府も無視できなくなり宇都宮藩(栃木県)の建議を受け、大規模な歴代天皇陵の探索とその修復造営を行った。それが文久2年(1862)から慶応元(1865)年5月にかけて行われた「文久の修陵」と呼ばれるものです。この時に100箇所以上の天皇陵が修陵された。玉砂利を敷き詰め、石造の玉垣で囲まれた拝所の正面に鳥居を建て、内側に一対の石燈籠を置く、という現在どこの天皇陵でも見られる基本的な姿が形作られた。また「みだりに域内に立ち入らぬこと」「鳥魚等を取らぬこと」「竹木等を切らぬこと」と書かれた制札も設けられ、現在までそのまま受け継がれている。

鳥居が建ったということは、陵墓が神の居ます神域として崇拝の対象にされたことです。神社と同じように森厳な環境にしなければならない。それまで雑木や雑草が生い茂ったり、田畑だったりしていた場所に松,杉,カシ,ヒノキなどの常緑樹が植樹された。今日見るような常緑樹の森の景観に整えられていったのです。

慶応3年(1868)、「諸事神武創業之始ニ原キ」と王政復古の宣言がなされ、幕府を廃止し神武から始まる天皇親政の開始を宣言する。また大日本帝國憲法(明治憲法)は第一条に「大日本帝國ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とうたう。万世一系の初代・神武天皇の陵墓を策定し修陵することが急務だった。ところがその場所がはっきりしないのです。日本書紀には、「127歳で崩御され、畝傍山の東北陵に葬る」とある。古事記には「135歳で崩御され、御陵は畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」と記述されている。畝傍山周辺ということだが、その場所は判然としなかった。ただし学者の間では候補地が三ケ所あった。
一つは塚山説(福塚とも)です。畝傍山から東北へ約700mの所にあった福塚(塚山)という小さな円墳です。現在、第2代綏靖天皇陵に治定されている場所だ。
二つ目が、畝傍山の東北にあたる水田の中にあった「ミサンザイ(「みささぎ」の訛り)」あるいは「神武田(じぶでん)」と呼ばれる小さな塚。最終的にこの場所が神武天皇陵だと治定され、現在に至ります。
三つ目が「洞の丸山」説。畝傍山東北の山裾に高市郡洞村(ほらむら)があり、その山側に「丸山」と呼ばれる隆起する場所があった。「白檮(かし)」に似た地名があり、畝傍山の北の尾根にあたることから「白檮の尾の上にあり」(古事記)に合致し、最も有力視された。蒲生君平、北浦定政や本居宣長などがこの説を支持した。

修陵顧問団の中でも、北浦定政は丸山説を主張し、顧問団筆頭の谷森善臣は神武田を推すなど意見が分かれ決められなかった。両者の意見が朝廷に提出され、最終的に文久3年(1863)2月、孝明天皇の勅裁によって塚「神武田」に治定された。「神武田で決めなさい、但し丸山も粗末にしないように」という「御沙汰書」が出されたのです。
「神武天皇御陵之儀神武田之方ニ御治定被仰出候事
尤丸山之方も箆末ニ不相成様被仰出候事
右ニ月十七日夜御達」
顧問団筆頭の谷森善臣が、誰も異議を唱えられない天皇勅裁という形で決着させたのだと思う。当時、孝明天皇の大和行幸が早めら、神武天皇陵を早急に整備する必要に迫られていた。丸山だと洞村集落を強制移転させなければならず、その時間的余裕がなかった。それに対して神武田は平地の田畑なので工事がやり易かったのです。
他の天皇陵に先駆け、5月から大規模な造成工事が開始され、突貫工事で12月に終えている。水田の中の土檀(神武田)を基盤に方形の二重の丘を築き、裾は石垣でかためられた。鳥居や石燈籠も配され、周囲は柵でかこまれた。近くの桜川から引水し周濠もめぐらせた。全天皇陵の総修復費用の3分の一を費やして神武天皇の陵墓を完成させたのです。
「粗末にしないように」とあるように丸山もなお可能性が残るということで「宮」の文字を入れた石柱で囲まれ祀られた。

参道の長さは300mくらい。中程で「く」の字形に湾曲している。参道は砂利が敷き詰められているのだが、。その砂利がゴロゴロして歩きにくい。端に30cmほど砂利のない部分があり、そこを歩く。

新しく創造された神武天皇陵は、初代の天皇の陵墓としてふさわしいものに整備すべきだという意見が強まり、以後も明治から昭和にかけて修陵が続けられ、巨大で荘厳な「天皇陵」に作り変えられていく。明治23年(1890)には神武天皇を祭神とする橿原神宮が創建され、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳う憲法が施行された。神武天皇陵・橿原神宮・畝傍山が三位一体の神苑として聖域化され、整備拡張されていったのです。周辺の土地を皇室財産として収用し、クロマツ、ヒノキ、カシなどの常緑樹が植樹され、神秘的で厳粛な空間が演出されていった。地元住民から「糞田(くそだ)」とも呼ばれていた田圃が神聖な天皇陵に変貌したのです。
昭和15年(1940)の皇紀2600年記念事業では全国から建国奉仕隊が動員され陵域の大拡張が行われた。東西約500m、南北約400mの広大な現在の姿の陵墓が完成する。またこの年、神武天皇をまつる橿原神宮も大規模に造り直され、皇威高揚に利用された。そして天皇を中心とした大東亜共栄圏を目指し戦争へ突入する。そして無惨な敗戦です。

ネットで貴重な写真を見つけました。国際二本文化研究センターのデータベースの中の写真で、1891年(明治24年)となっている。

畝傍山から神武天皇陵を見下ろした写真。まだ周辺は田畑のままで、山裾に見えるのが洞村。

正面拝所が見えてきた。宮内庁発表の陵墓公式名は「神武天皇畝傍山東北陵」(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)、陵形は「円丘」となっている。

神代に、高天原から九州の日向の高千穂峰に天孫降臨したのが天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)。瓊瓊杵尊のひ孫にあたるのが神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのすめらみこと、神武天皇)。天照大神からは五代目にあたる。
父は彦波瀲武??草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)、母は妃玉依姫命(たまよりひめのみこと)の四男。
履歴は「庚午年1月1日(庚辰の日)に日向国(南九州)で誕生。15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳のときに兄や子を集め東征を開始。日向国から筑紫国、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とし、翌年に初代天皇として即位した。」(Wikipediaより)
即位76年3月11日、橿原宮にて崩御。127歳。翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られた。古事記では137歳となっている。

広い拝所前の広場。私以外誰もおらず、静かで厳かな雰囲気が漂います。橿原神宮はあれだけ喧騒としていたのに、すぐ近くの神武天皇陵のこの静かさ。宮内庁のいう「静安と尊厳の保持」が完全に守られている。せっかく訪れたのだから手を合わせます、「南無阿弥陀仏・・・」。

神武天皇の実在性についてはいろいろ論争があるようですが、私は「神武天皇は弥生時代の何らかの事実を反映したものではなく、主として皇室による日本の統治に対して『正統性』を付与する意図をもって編纂された日本神話の一部として理解すべきである」(津田左右吉)を支持します。日本神話上の人物にすぎない。

普通の天皇陵の鳥居は一つですが、横から見ると鳥居は三つあります。今まで見た三つ鳥居は、仁徳天皇陵、明治天皇陵くらいしかなく、やはり神武天皇は特別な扱いだというのがわかる。

平成31年(2019)3月26日、平成天皇皇后両陛下(現在の上皇上皇后)が4月末の退位を報告されるためここ神武天皇陵に参拝されました。新聞報道では「ご参拝は計11に上る譲位関連儀式の1つ。天皇陛下はモーニング姿でゆっくりと墳丘前に歩み寄り、祭壇に玉串をささげてご拝礼。4月30日に譲位することを報告された。続いて皇后さまもグレーのロングドレスの参拝服で拝礼された。」そうです。

同年11月27日、今度は令和天皇皇后両陛下が皇位継承に伴う一連の即位の儀式を終えたことを報告するため参拝された。「モーニング姿の天皇陛下は、敷き詰められた砂利道をゆっくりと歩いて進み、玉串を捧げ深々と頭を下げられました。陛下に続き、ロングドレス姿の皇后さまも拝礼されました」という。この後、孝明天皇陵(京都市東山区)、明治天皇陵(同市伏見区)へも参拝されるそうです。新天皇が即位する際は神武天皇陵と前四代の天皇陵に参拝することが通例で、歴代の天皇が橿原を訪れるという。

どこの天皇陵にも置かれている番小屋がここにもある。しかし「見張所」とはっきり書かれた番小屋は初めてだ。”見張る”という言葉に、天皇をかさにした権威主義を感じます。

天皇主権の明治憲法は廃され、国民主権の新憲法となった。天皇は”シンボル”という摩訶不思議な存在になったが・・・。新しい時代になっても天皇陵行政は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の明治時代のままです。研究者といえど立ち入れない聖域のままで、垣根の外から仰ぎ見るだけの、国民からは遠く離れた存在です。「陵墓は皇室祭祀の場であり、静安と尊厳を保持しなければならない」という理由で。「みだりに域内に立ち入らぬこと」「鳥魚等を取らぬこと」「竹木等を切らぬこと」などという子供のしつけのような注意書きも明治初期のまま。政治家も役人も、そしてメディアも天皇制に触れることはタブーのようで、前例主義、形式主義をとっている。

そんな中で、一つだけ大きく変更されるものがあります。天皇の葬法です。前方後円墳の時代は土葬、仏教が広まるにつれ火葬も行われ、中世では土葬と火葬が混在していた。江戸時代初め頃からは土葬だけになり、昭和天皇まで続いている。ところが平成天皇・皇后から「ご葬法については,天皇皇后両陛下から,御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ちを,かねてよりいただいていた。」(宮内庁)。そして平成25年11月14日、
「皇室の歴史における御葬法の変遷に鑑み,慎重に検討を行ったところ,
1)皇室において御土葬,御火葬のどちらも行われてきた歴史があること,
2)我が国の葬法のほとんどが,既に火葬となっていること,
3)御葬法について,天皇の御意思を尊重する伝統があること,
4)御火葬の導入によっても,その御身位にふさわしい御喪儀とすることが
可能であること,から,御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った。」
と発表されたのです(詳しくは宮内庁のページを参照)。もし天皇の火葬が行われるとしたら、江戸時代最初の天皇である第107代後陽成天皇(1571-1617)以来です。引退もそうだが、天皇自ら口にしないかぎり天皇制の変更は難しいのだ。令和天皇にお願いしたい。「古代の天皇陵古墳を発掘し、日本歴史の解明に役立ててください」とおっしゃっていただきたい。

入口に戻ると、警察車両と来賓車が対峙している。この日は何かと騒々しいので橿原市民は今日のお祭を敬遠しているとか。その代わり、神武天皇が崩御された4月3日の神武天皇祭には多数の市民が参加して、イベント、パレードなどが盛大に行われるそうです。


日の丸を掲げて親子連れ(社長と社員?)がやって来ました。おとうさんのタスキには、表に「天皇陛下万歳!」、背中には「天皇陛下を中心に団結せよ!」とあります。微笑ましいというより、なにか悲しくなってきます。





おおくぼまちづくり館





神武天皇陵からさらに大通りを北へ歩きます。左手に宮内庁の陵墓監区事務所の入口が見える。ここが昭和15年(1940)まで神武天皇陵への正式な参道だった。昭和15年皇紀2600年記念の神域拡大事業で南側の現在地に変更されたのです。
車道を渡った右側に「おおくぼまちづくり館」があるので寄ってみる。



洞村の移転先となった大久保地区の中に「おおくぼまちづくり館」がある。まちづくりの歩みを学び、人権学習、またコミュニティの場として平成14年に整備された。展示場には、神武天皇陵と移転させられた洞村に関する史料が展示されている。
開館は午前9時から午後5時まで(但し入館は4時30分まで)、入館料100円。展示場では受付の方が丁寧に説明して下さいます。

神武天皇陵拡張にともない移転させられた洞(ほら)村は畝傍山の山裾にあった被差別部落でした。移転当時、200戸あまりの家があり、1000人位の人々が生活を営んでいたという。村には神武天皇の墓の守戸(墓守)だったという伝承があったが、神武天皇陵が新しく造られた際にそれまであった史料が全て焼き捨てられてしまったので詳しいことは判らないという。
戦後、この移転をめぐって天皇制と被差別部落の問題として注目されたのです。




上は移転当時の大正年間の年表です。
神武天皇陵を拡張整備し、橿原神宮・畝傍山とを三位一体とした神苑化を図ろうとしたとき、畝傍山と神武天皇陵との間にある被差別部落・洞村は非常に邪魔な存在になります。官だけでなく民間からも洞村移転の意見が出てくる。
左のパネルにあるように、根強い差別意識による圧力がうかがえます。汚辱が聖(天皇)を見下ろすのは言語道断でケシカランと。大正6年(1917)から移転交渉が始まっている。








大正6年9月、住民達は洞村の土地を宮内省に自主的に献納する「御願書」を提出する。天皇という名を持ち出しての官の圧力には抵抗しがたく、移転を余儀なくされたのだろうと思う。
その後、移転先について幾つかの村から拒まれ難航を重ねたが、大正7年(1918)2月、現在地(橿原市大久保)に移転先が決まり、大正10年(1921)3月に移転が完了している。移転に伴い村の面積は約4分の1になったそうです。


展示場の中央に置かれている畝傍山、移転前の洞村と神武天皇陵の位置を表した模型。現在残されている図面の中で最も正確に洞村の姿を表している「高市郡洞村実測全図」(明治22年9月18日作成)を参考にして復元したそうです。洞村の上方に見える白文字の石柱らしき場所が神武天皇陵候補地「丸山」です。
模型右下の説明板には以下のようなことが書かれている。洞村移転の理由の中に「御陵を見下ろすのはけしからん」というのがあるが、「神武天皇陵は海抜約66m、洞村の住居部分は海抜約69~83m。これが「驚愕に耐えざる」高低差だったのでしょうか」と疑問を呈している。

戦後、天皇制批判の立場から洞村移転問題が注目された。権力による強制移転だったと、天皇制と被差別部落の問題として取り上げられた。反面、力による強制移転ではなく洞村の人々が陵墓への畏怖心などから自主的に移転を決めた、という説もあります。
私には真相は判りませんが、当時の天皇崇拝の強まる時代背景を考えると、「御願書」に書かれているように「畏れ多くも神武天皇陵に接し、近くからこれを見下ろす位置にあるのです。・・・知らず知らずの内に御陵の尊厳まで冒してしまってはいないかと、憂いてさえいます」と自虐し、自主的献納という形をとって立ち退かざるをえなかったのだと思う。先祖代々、何代にもわたって住みなれた土地を去るというのはそう簡単にできるものではない。力による強制移転でなくても、強制移転に近いものだったと思います。

第2代・綏靖天皇陵(すいぜいてんのう)



また大通りに戻り、北へ歩くとすぐ第2代綏靖天皇の陵墓です。
第2代綏靖天皇(すいぜいてんのう)の履歴は(日本書紀)
・神武29年(皇紀29年、前603年)、神武天皇の第三皇子として生まれる。母は事代主神の長女の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)。名前は「神渟名川耳尊(かんぬなかわみみのみこと)」、古事記では「神沼河耳命」。
・神武42年(皇紀42年、前619年)14歳で立太子する。
・神武76年(皇紀76年、前585年)3月、先帝・神武天皇が崩御される。この後、皇位をめぐって異母兄手研耳命(たぎしみみのみこと)の反逆事件が起こる。
・綏靖元年(皇紀80年、前581年)正月8日即位。
・綏靖2年(皇紀81年、前580年)春1月、母の妹・五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后に。

即位33年後の綏靖33年(前549年)12月、84歳で崩御され、「桃花鳥田丘上陵」に葬るとある(日本書紀)。古事記では45歳で崩御され「衝田岡(つきたのおか)」に葬るとなっている。

綏靖天皇の陵墓は中世以降不明だったが、元禄時代に幕府は畝傍山西北の慈明寺町にある「スイセン塚(主膳塚)」古墳(前方後円墳、墳丘長55m)とした。そして現在の綏靖天皇陵がある塚山(塚根山)を神武天皇陵としていた。ところが幕末の文久の修陵で、すぐ南の「神武田」を神武天皇陵と治定する。そこで空きとなった塚山(塚根山)が明治11(1878)年2月に綏靖天皇陵とされたのです。根拠はありません。宮内庁の公式名称は「桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)」で、陵形を「円丘」と公表している。

考古学的には「四条塚山古墳」と呼ばれ、直径約30メートル、高さ約3・5メートルの円墳。江戸時代に、円墳の周りを八角形の石柵で囲まれたという。
綏靖天皇は「葛城高丘」(かずらぎたかおか」に宮を置いたとされる。その場所を6年前に訪ねたことがあります。葛城山の山裾を南北にはしる葛城古道を歩いている時、たまたま出会いました。現在の奈良県御所市森脇で、九品寺から一言主神社へ行く途中に「綏靖天皇高丘宮跡」の碑が建っていた。お墓があり、宮跡が残されているのですが、綏靖天皇も「欠史八代」に数えられ、実在性が疑問視されている天皇です。



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