山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

竹内街道ひとり歩き (その 4)

2014年09月07日 | 街道歩き

太子町の竹内街道周辺は「王陵の谷」と呼ばれ、見るべき多くの古跡が残されている。叡福寺,聖徳皇太子の墓,小野妹子の墓,そして推古・用明・孝徳・敏達の各天皇陵などです。
詳しくはホームページを見ていただくとして、省略します。

 羽曳野市駒ケ谷周辺  


「春日西」交差点を過ぎると,”美しすぎる”竹内街道は終わり,並みの車道に様変わり。「羽曳野市」の標識が現れ,やや行くと近鉄・南大阪線の踏み切りと上ノ太子駅が見える。上ノ太子駅は太子町でなく羽曳野市に入るようだ。

踏み切りを渡ったら,ズーっと古市駅まで近鉄線に沿ってその右側(北側)を歩くことになる。上ノ太子駅裏辺りには古い民家が密集し落ち着いた雰囲気がある。すぐ山側に入ると飛鳥戸神社があり,この一帯はかって渡来人が住み,その王を祀った神社のようです。
住宅街を抜けると,白いシートに覆われた農場が丘陵の上のほうまで広がっている。この辺りはブドウの産地で有名で,上ノ太子駅から駒ヶ谷駅にかけての沿線にはブドウ畑が広がっている。明治初期に駒ケ谷の農家が山梨県から甲州ぶどうを持ち帰り、ぶどう栽培したのが始まりのようです。ここのぶどうを使用した河内ワインも有名。梅酒で有名な「チョーヤ梅酒株式会社」は和歌山県にあるのかと思っていたが,ここ羽曳野市駒ヶ谷が発祥地で,元はぶどう酒を造っていたようです。現在も本社があります。
山の斜面に白いシートが陽光を反射し,見渡す限りの雪景色のようでもある。
 
白漆喰の壁が残る駒ケ谷の集落の中を杜本神社を探して歩き回る。竹内街道を外れた集落の中なので分かりにくかったが、やっと入り口の標識を見つける。背後に小高い丘が見えるのであの中らしい。

階段を登ると竹薮に挟まれた参道が続き,やがて社殿が現れる。元の社殿は織田信長によって焼かれてしまったので,江戸時代高津神社の古い社殿を譲り受けたものという。境内はそれほど広くはない。現在は駒ケ谷の氏神様です。
杜本神社から南へ進み,飛鳥川に架かる逢坂橋を渡った正面には近鉄南大阪線の駒ヶ谷駅が見えます。この辺りから広い国道となり交通量も多くなる。
「駒ケ谷」の名前の由来として聖徳太子伝説が伝えられている。推古天皇の時代,聖徳太子は愛馬黒駒に乗って各地を周られた。この地にも立ち寄られ,そのとき黒駒をつなぎ止めた場所がある。「そのあたりでは、今も馬の蹄の跡がある不思議な石が出る。それは硯にすることもできる、青く硬い石で割るとしだいに蹄の跡が現れる。それゆえ、ここを駒ケ谷と呼ぶようになった」と案内板に書かれている。

橋近くの国道横に公園風の休憩所が設けられている。道しるべと「緑の一里塚」が設けられ,ここが旧街道であることを知ら示している。

 石川を渡り古市へ  


駒ケ谷の集落を抜け竹内街道を西に進む。街道といっても国道166号線なので,車の行き来が多く,ウォーキングの爽快さなどあったものではない。やがて大きな石川が目の前に現れる。川幅は広いが水量は少ないので,ほとんどが河川敷だ。
大きな橋が架かっている。「臥龍橋」とあり,これも竹内街道の一部となっている。交通量は多いが,幅広の歩道が設けられているので安心して渡れる。臥龍橋の周辺は「石川スポーツ公園」と呼ばれ,グラウンド風に整地され,ママさんたちの見守るなかで少年たちが野球やサッカーなどに興じていた。
石川を渡ると古市の市街地に入る。竹内街道沿いのこの周辺には、西琳寺(さいりんじ)、長円寺(ちょうえんじ)、西念寺(さいねんじ)、白鳥神社(しらとりじんじゃ)など古刹が多い。
この辺りは律令時代に『河内国古市郡』と名付けられ、「古市村」と呼ばれていた。”市”と呼ばれることからわかるように,竹内街道が東高野街道や石川と交差し,水陸あわせた交通の要衝として栄え大いに賑わった。
またこの周辺には,日本を代表する古墳群が広がる。「古市古墳群」と呼ばれ,日本で二番目の墳丘長を誇る応神天皇陵(誉田御廟山古墳)を筆頭に、墳丘長200mを超える巨大な前方後円墳が6基、100m以上の大古墳が9基をはじめ,総計120を超える古墳が集中している。四世紀後半から六世紀中頃にかけて造営されたと推定され,この地域に倭国を統一支配した「河内王朝」が存在したという説もある。
近鉄・古市駅横の踏切を渡り、羽曳野市の中心街に入る。この辺り、国道が交差し交通量も多い。竹内街道ってどこだろう?、ややこしい難所です。

国道166と国道170が交差する車の往来の激しい白鳥交差点に出る。はて,どっちへ行ったものか?。どこが竹内街道なのか,かいもく見当がつかない。やっと、国道の反対側に「日本武尊白鳥陵」の標識を見つける。そこを入っていくと綺麗に舗装された道があり、やがて鉄柵と満々と水を貯えた堀が見え,陵墓の厳かな森が姿を現した。記紀に記された白鳥伝説に基づいて、宮内庁が第12代景行天皇皇子の日本武尊の陵墓に治定し管理している日本武尊白鳥陵(しらとりのみささぎ)古墳(前の山古墳)です。

★日本武尊白鳥伝説
記・紀の日本武尊白鳥伝説によれば,日本武尊は天皇の命令で東国征伐に出かけた。その帰り道,伊勢の国の能褒野(のぼの-亀山市)で病に倒れ,「やまとは国のまほろば たたなづく青垣 山籠れる やまとうるわし」と最期の歌を詠み亡くなった。天皇はその死を悼み、能褒野の陵に埋葬させた。
みなが嘆き悲しんでいると、陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり、大和の方へ飛んでいったといいます。そして大和の琴弾原(ことひきのはら,御所市)に舞い降りた後、そこから河内のこの旧市邑(ふるいちのむら)に飛来したといわれています。そして、ここからさらに白鳥は西をめざして丘の上を羽を曳くように飛び去った。そこから「羽曳野」の名称が生まれたとか。また白鳥の羽は羽曳野市の市章になっている。

能褒野,琴弾原,古市それぞれに墓が造られ,「白鳥三陵」と呼ばれている。

日本武尊白鳥陵から西に向かって歩く。国道170号線と交わる「軽里北」交差点をすぎ、縦横に走る交通量の多い市街路となる。この周辺もややこしい所。少し先に古墳風の森が見える。長い歩道橋を渡り終えると、そこが峯ヶ塚古墳です。この古墳を含む周辺一帯は「峰塚公園」として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96メートル、前方部の幅74.4メートル・高さ10.5メートル、後円部は直径56メートル・高さ9メートルの二段築造の前方後円墳。1992年(平成4年)の発掘調査で、頂上部から2m下で竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘抗から、大刀・鉄鏃などの武器、馬具、装身具、玉類など豪華な副葬品が大量に出土した。藤ノ木古墳に匹敵する豪華副葬品であることから、大王墓級の墳墓である可能性が高いとされる。


詳しくはホームページ
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