山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 5(銀閣寺)

2024年05月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日) 哲学の道を終え、銀閣寺へ入る

 銀閣寺 1(総門、銀閣寺垣、中門、宝処関)  



銀閣寺橋を東に渡る。銀閣寺橋から総門まで続く200mほどの銀閣寺参道は賑わっています。お土産屋、お食事処が並び、普段でも観光客が多いのに、桜シーズンはさらに混雑します。

参道の突き当りが総門(寛政12年:1800年の再建)です。総門前にはベンチが用意され、休憩所にもなっている。


★・・・ 銀閣寺の歴史 ・・・★
室町幕府八代将軍足利義政(1436-1490:在職1449-1473)の時、義政の後継者争い、さらに細川勝元と山名宗全の対立による勢力争いもからまり、「応仁の乱(1467-1477)」が起こる。将軍・義政は責任感も政治力も乏しく収拾困難となり、各地の守護大名も、宗全率いる西軍と勝元率いる東軍に二分され争い、大混乱に陥る。長い戦乱は京都の大半を焦土と化し、多くの寺院が焼失した。文明5年(1473)、勝元と宗全が相次いで死去、また義政は将軍職を子の義尚に譲り隠居する。東西両軍の戦いは膠着状態に陥いり、厭戦ムードも漂うなか、文明9年(1477)に勝敗のつかないまま終結を迎えた。
文明14年(1482)、義政は東山山麓にある応仁の乱で焼亡した浄土寺跡に、祖父・義満の鹿苑寺(金閣寺)にならいかねてからの願望であった隠居所として東山山荘(東山殿)の造営を始めた。そして翌年にここに移り住んで、「東山殿」と呼ばれた。「常御所」(つねのごしょ)を住まいとし、禅室として「西指庵」(せいしあん)が完成すると落髪し出家する。文明18年(1486)には仏像や位牌を安置する東求堂が建てられ、西芳寺の庭園に習って造られた上下二段構造の庭園もこの頃に造営されたと思われる。
「当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。」という(Wikipediaより)
「義政は幕府財政を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やした。結果、応仁の乱後の京都の復興は大幅に遅れることとなった」(Wikipediaより)

長享3年(延徳元年、1489)、東山殿内で最後の建物として、金閣寺の舎利殿(金閣)と西芳寺の瑠璃殿を手本として観音殿(銀閣)の造営に着手。しかし翌年の延徳2年(1490)1月、義政は病に倒れ、観音殿(銀閣)の完成を見ることなく56年の生涯を閉じる。義政の菩提を弔うため、東山殿を禅寺に改め相国寺の末寺とし、義政の法号から「慈照院」と称した。翌年「慈照寺」に改められ、現在の正式名は「東山慈照禪寺(とうざんじしょうぜんじ)」。「銀閣寺」は正式名でなく、単なる呼び名にすぎない。
開山を夢窓疎石(1275-1351)とした。疎石は1世紀以上過去の人だが、崇拝する高僧として寺の創始者として位置づけた。金閣寺も同様で、これを「勧請開山(かんじょうかいさん)」という。

その後「室町幕府の末期、天文十九年(1550)三好長慶と十五代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失しました。また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなど、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していったのです。」(公式サイトより)

江戸時代に入ると徳川家康より35石の寺領を与えられ、宮城丹波守豊盛が普請奉行となり大改修がなされた。観音殿(銀閣)・東求堂の修理、庫裏・方丈の建設、荒廃していた庭園の修築が行われるなど復興が進み、現在目にするような寺観が整えられていった。「今の銀閣寺の現況はこの慶長の改修によるところが大きいのです。銀閣寺は将軍の山荘として造営されたのですが、改修に当たって、庭園や建築は、禅寺として、禅宗風の趣を取り入れ修復がなされたと思われます。」(公式サイトより)

1900年(明治33年)4月7日 観音殿(銀閣)が国の重要文化財に指定
1951年(昭和26年)6月9日 観音殿(銀閣)が国宝に指定
1952年(昭和27年)3月29日 庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定
1994年(平成6年)12月17日 「古都京都の文化財」として銀閣寺が世界遺産登録

慈照寺(銀閣寺)は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、相国寺の境外塔頭。金閣寺も同じ。

総門前の境内図。左側が北になる。

総門を潜り、角を曲がると壮大な垣根が両側にそそり立ち、これから始まる銀閣寺の世界を暗示させてくれます。約50m続く白砂利と大垣根の参道は「銀閣寺垣参道」と呼ばれ、銀閣寺のウリの一つです。左右の垣根の造りが異なっている。右側は石垣の上に椿をメインとした丈の高い常緑樹の生垣をのせている。左は、石垣の上に竹垣をのせ、その上に常緑樹の生垣を見せている。この石垣、竹垣、生垣のセットを「銀閣寺垣」と呼ぶそうです。

これだけ圧倒的な垣根は見たことがない。公式サイトは申します「銀閣寺垣と呼ばれる竹垣で囲まれた細長い空間は、これから始まる壮大なドラマの序章です。本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと思われますが、その厳粛で人工的な空間は我々の雑念を消し去ってくれます。それは喧噪の現代に生きる我々と、東山殿に現出しようとした浄土世界をつなぐプロローグでもあります」。確かにこれから始まる異空間への誘いでもあります。

銀閣寺垣参道を過ぎると、寛永年間(1624年 - 1644年)再建の中門がある。この中門の手前が拝観受付で、拝観料500円払うと、拝観チケットとパンフレットを頂ける。拝観チケットは金閣寺同様に、「銀閣観音殿御守護」と書かれた御札となっています。またパンフレットは、国際的な観光寺院らしく日本語、英語、中国語、ハングルで説明されている。その分内容は乏しい。

・拝観時間(3月~11月):8時30分~17時00分(下山:17時20分)
・拝観料 - 大人・高校生500円、中学・小学生300円。
・春秋限定の特別公開(令和6年3月20日(水)~ 5月6日(月))・・・東求堂・方丈・弄清亭を公開。特別拝観料:2,000円(ご希望の方のみ本堂前にて要申込)



中門を潜ると、左に庫裏と大玄関が建つ。正面に花頭窓が見えます。そこは「宝処関(ほうしょかん)」と呼ばれる唐門で方丈の玄関にあたる。創建時に初代住持として迎えられた相国寺の宝処周財にちなむ名称です。

花頭窓を額縁にみたてて銀沙灘を撮る撮影ポイントとなっています。







 銀閣寺 2(観音殿(通称「銀閣」))  



(写真右端が宝処関)寺を象徴するのが錦鏡池に面して建つ「観音殿」(かんのんでん、通称「銀閣」)。この銀閣が寺の中心なので、寺全体を「銀閣寺」と呼びますが、正式には「慈照寺(じしょうじ)」です。金閣寺の舎利殿(金閣)や西芳寺の瑠璃殿を模して造られた木造二層構造。現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物で、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京都三名閣とされる。
長享3年(1489)の上棟であるが、正確にいつ完成したのかは不明。銀閣寺内の建物は16世紀中頃の戦火で大半が焼失したため、この観音堂(銀閣)と東求堂だけが創建当時から残る貴重な建造物です。1951年(昭和26年)6月9日に国宝に指定される。内部は常時非公開

屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)の柿葺(こけらぶき)で、屋根上には東を向いた青銅の鳳凰が飾られています。ただし当初は宝珠だったようで、江戸時代中期の改修で鳳凰に換えられたようです。

北東から眺めた銀閣。一階部分は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれ書院造の様式が取り入れられている。東側だけ縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)となっているので、東側が正面であることを示している。北側の半分は白い土壁となっているほかは腰壁入りの障子窓で四周を囲い、住宅風の造りとなっています。

南西から眺めた銀閣。二階は「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、禅宗様の仏殿です。黒漆を塗った板敷の一間のみで観音菩薩坐像を東向きに安置している。観音像の背後に自然木を組み合わせて洞窟風になっていることから「洞中観音」「岩屋観音」とも呼ばれているそうです。

二階の四周には縁と高欄がめぐらされている。東西面には出入口はなく花頭窓だけ。南北面は中央に桟唐戸が設けられ開閉できるが、北面は両脇が窓がなく板壁であるのに対して、南面は桟唐戸の両脇に花頭窓が設けられている。以上のことからWikipediaによると「上層では南面と北面のみに戸があり、正面にあたる東面には出入口がない。以上のような上層の状況をみれば、上層は桟唐戸のある南面が正面とみなされ、当初は銀閣の南側に池があり、池を挟んで南側から観音像を拝する形であったと推定されている。銀閣はこのような変則的な形式をもつことに加え、部材にみる改造の痕跡から、かつて別の場所に建てられていたものが移築改造されたものである、とする説もある。ただし、平成21年(2009年)に行われた発掘調査によって、現・銀閣の下で室町時代の整地層と石列が確認され、銀閣は創建時の位置から移動していない可能性があるとの調査結果が公表された」。
一階は東向きだが、二階は南向きという謎の残る銀閣だ。

南から眺めた銀閣。一階の縁の南半分は四畳大の吹き放しの広縁となっており、その奥(左側)は板敷の仏間で千体地蔵像を安置しているという。

黒ずんだ色なのに何故「銀閣」と呼ばれるのだろうか?。2007年の科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが判明している。「銀閣」と呼ばれるようになったのは江戸時代に入ってから。義満の創った鹿苑寺と義政の慈照寺は、同じ禅宗の臨済宗相国寺派に属し相国寺の寺外塔頭寺院という全く同じ性格をもつ。そこから鹿苑寺の舎利殿が「金閣」と呼ばれるのに対応して、同じような楼閣造りの観音殿を「銀閣」と呼ぶようになったようです。

 銀閣寺 3(東求堂(とうぐどう))  



庭園北側に、方丈(左)と東求堂(右)が並んで建つ。本堂にあたる方丈は寛永元年(1624)の再建で、釈迦牟尼仏を祀り、足利義政・妻日野富子の位牌を安置している。正面に額「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」が掲げられています。東に連なる山々が、川の水の上を流れていくという、という意味だそうです。室内には与謝蕪村や池大雅の襖絵がある。現在は精巧な複製品に入れ替えられ、現物は相国寺承天閣美術館で保存されている。


方丈と東求堂は短い廊下で結ばれているが、その廊下の前に僧侶の袈裟(けさ)の文様に似ていることからから「袈裟型手水鉢」と言われる手水鉢が置かれている。四方の側面に市松模様が彫られた独特の意匠をもち、傍に「銀閣寺形手水鉢」という名札が立つ。




東求堂(とうぐどう)は文明18年(1486)の建立で、東山殿造営当時の遺構として現在残っているのはこの東求堂と観音殿(銀閣)だけです。両方とも国宝指定。「東求堂」の名称は、法語の「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」から由来する。相国寺住職が撰した候補の中から足利義政が選んだという。南面に掲げられている扁額「東求堂」は義政の筆による。
重入母屋造、檜皮葺の建物は正方形で、庭園に面した南が正面になる。内部は襖で仕切られた四室から成り、阿弥陀如来立像、足利義政像が安置されている。

四部屋あるうち「北面東側の四畳半は、義政公の書斎「同仁斎(どうじんさい)」とよばれ東山文化を生み出す舞台となった」(パンフより)。机である一間の付書院と物を収納する半間の違棚が設けられている。「この棚と書院はこの種の座敷飾りとしては現存最古のもので、床の間、違棚、付書院という座敷飾りが定型化する以前の、書院造の源流といえるものである」(Wikipediaより)。この様式がその後の日本の和室の原点となったといわれる。

また室内に炉が切られ、茶を点てていたとみられる。それまでの茶接待は、別室で点茶し座敷に運び込む方法だったが、室内に炉を切り茶を立て客にふるまう形式が見て取れ、後に茶室などで一般化する四畳半茶室の始まりともいわれる。またその後の日本の生活空間に広く浸透した四畳半間取りの源流でした。
なお、「同仁斎」は「聖人は一視して同仁(出身や身分や敵味方に関わらず、どんな人であっても平等に接すること。)」(出典:韓愈)からくる。

「四畳半」は、「ワビしい」「サビしい」わが青春の思い出・・・

室町時代初期の、足利義満の金閣寺に代表される優美で華やかなの文化を、その地の名から「北山文化」と呼ぶ。その後、11年もの長い戦乱が続き京都を焦土と化した応仁の乱(1467-1477)が終わると、信仰をよりどころとする人々が増え、質素で堅実な文化様式が受け入れられるようになった。隠居した八代将軍義政は、現実政治よりも美に関心を寄せ東山山荘(東山殿)を造り、東求堂で公家や武士、禅僧や文人たちと交流し、茶の湯、華道、絵画などに親しむ風雅で文化的な生活を満喫した。そうしたなかから中国文化や禅宗の影響を受け、簡素で洗練された様式をもつ茶の湯、生け花、枯山水の庭園、水墨画などが盛んになっていった。そこから「侘び・寂び」といった日本人の精神文化の根幹となる「東山文化」が生み出されていったのです。
金ピカの金閣よりは、東山文化を代表する黒ずんで地味な銀閣の方が日本人の精神性に合致するのではないでしょうか。

東側から眺めた方丈と東求堂。方丈・東求堂・弄清亭の内部は通常非公開だが、現在春の特別公開中です。国宝とはいえ、特別拝観料:2,000円とはチト高いのでは。近年流行りの富裕層向けプランなのか。内部には誰も人の姿が見受けられない。もちろん私もパス。

 銀閣寺 4(銀沙灘・向月台)  



方丈前に広がる銀沙灘と銀閣前の向月台。右端の花頭窓が宝処関です。

「銀沙灘(ぎんしゃだん)」は帯状に砂を盛り上げ波紋を描いたもの。月の光を反射させるためのものと言われていますが・・・。材料は京都・北白川の特産品「白川砂」が使用されている。

「向月台(こうげつだい)」は白砂を高さ約1.8メートルに円錐台形に盛り上げたもの。この上に坐って東山に昇る月を待ったもの、と云われるが、公式サイトは「俗説」だとおっしゃる。
銀沙灘と向月台が初めて記録に登場するのは、安永9年(1780)の都名所図絵で、今のような形になったのは江戸時代後期とされる。「これら二つの砂盛りも室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと思われます。」(公式サイト)。現代アートならいざ知ら、何のために造形したのでしょうか。「わび・さび」の東山文化に反するように思えるのだが。

 銀閣寺 5(錦鏡池(きんきょうち))  



義政は洛西の西芳寺を好み二十回以上訪れたという。慈照寺に庭園を造るにあたり、西芳寺の庭を模し自ら指図しながら造園した。そのため西芳寺と同じように上下二段構成をとり、下段は池泉回遊式庭園を、それより高まった所に枯山水式の庭園を造った(枯山水庭園は江戸時代の山崩れで埋没していたが、昭和になってから発掘された)。

写真左が「仙人洲(せんにんす)」と呼ばれる島で、向月台の横から架かる石橋が「迎仙橋(げいせんきょう)」

池泉回遊式庭園の中心は、銀閣から東求堂前に広がる錦鏡池(きんきょうち)で、橋で東西に分けられた瓢箪型をしている。錦鏡池には、7つの石橋と4つの名石があります。写真右端が仙人洲で、その島から南へ少し離れて「浮石(うきいし)」が見える。湖面に映る月を眺めていると、石がまるで浮いているかのように動いていったことから「浮石」と呼ばれた。
観音殿に向かって架かっている石橋は「分界橋(ぶんかいきょう)」で、その横に「北斗石(ほくとせき)」の名札が見えるが、この石の由来は?。

銀閣の対岸から撮る「逆さ銀閣」がビュースポットだそうだが、うまく撮れないナ。

これは東求堂前に広がる錦鏡池。左端が「龍背橋(りゅうはいきょう)」と呼ばれ、錦鏡池を東西に二分する橋で、庭園奥へ入って行くメインの観光通路になっている。

松、石、橋、苔と大変美しい庭園だが、江戸時代に大改修され創建当時の面影はかなり失われているという。慶長20年(1615)、宮城豊盛が銀閣寺の再建を任され、方丈を建て、東求堂や観音殿(銀閣)を修理し、また庭園の大改造を行ったのです。

東求堂正前に「白鶴島(はっかくとう)」があり、島の左右に石橋が架かる。左(西側)が「仙袖橋(せんしゅうきょう)」で、右(東側)が「仙桂橋(せんかきょう)」で、7つある石橋で室町時代から伝わる唯一の橋。左右の橋は白鶴が羽を広げたように見え、今にも飛び立とうとする白鳥を表しているという。

白鶴島の手前に「大内石」と名札の付いた石が見えます。これは銀閣寺の作庭に協力した守護大名・大内政弘が寄進したもの。細川石・畠山石・山名石などの記録があるが、現在は見あたらない。織田信長が永禄12年(1569)二条城建設に際し、ここから名石「九山八海石」「藤戸石」を持ち去り、二条城の庭に据えたという。

右が白鶴島。島の左に、浮いているように見える平らな石があり、「夢窓疎石座禅石」と呼ばれています。夢窓疎石は1世紀以上過去の人だが、慈照寺(銀閣寺)の「勧請開山」とされているので、この高僧の名を使わせていただいた、というくらいのことでしょう。

錦鏡池の南側は苔の庭が広がる。現在「苔寺」として名高い西芳寺を真似たのでしょうか?。西芳寺が苔寺と呼ばれるようになるのは江戸時代末になってからなのだが。

昭和26年(1951)、この池泉回遊式庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されました。

 銀閣寺 6(洗月泉、お茶の井、漱蘚亭跡、展望所)  



展望台へ向かう途中、錦鏡池南東端に小さな滝「洗月泉(せんげつせん)」がある。山肌から湧き出る水を錦鏡地に流し入れています。ただしこの滝は後世に作られたもので、本来の滝は右手にある石組で、山崩れによって埋もれてしまっていた。それが昭和4年(1929)に発見され、発掘されたのです。
名前の由来は、泉に映った月がさざ波で揺れ、まるで月が洗われているように見えることからくる。池の左端に投げ銭が見られます。

洗月泉から坂道を登って行くと、「お茶の井」と「漱蘚亭跡(そせんてい)」に出会う。義政は慈照寺に庭園を造るにあたり西芳寺の庭園を模し上下二段の庭園とした。ここはその上段にあたり、西芳寺の竜淵水石組を模倣し作庭された枯山水式の庭園だった。江戸時代の山崩れで埋没してしまっていたが、昭和6年(1931)に発掘・修復されたものです。現在は、山肌に今にも崩れそうな石組、「お茶の井」の泉、水流の跡が見学できる。

高台にある展望所までよく整備された石段を登る。距離は短いのだが、年寄りには堪えます。ここまで来る人は少ないので、多くの人は銀閣と池を堪能してお帰りになるのでしょうか?




展望所からは銀閣寺全体が俯瞰でき、その先には京都市街、吉田山(中央)が見えます。

展望所からの下り道。小川と苔、喧騒から解放された安らぎを覚えます。この苔の一番美しい時期はいつ頃なのだろうか?。
いきなり秋が訪れたかのような銀閣です。


    * 「桜の道:南禅寺から銀閣寺へ」・・・・・(完)


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