山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都御所を訪ねて 3(京都御所)

2023年10月27日 | 名所巡り

これから入口の清所門から入り、抜けガラとなった京都御所内を定められた順路に従い見ていきます。

 京都御所 1(清所門から承明門へ)  



御所とは現在の皇居にあたり、天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿のことで,「内裏・禁中・禁裏」とも呼ばれる。
京都御所の西側です。手前の門が「宜秋門」で、その先に小さく見えるのが「清所門」。御所全体が五筋入りの築地塀で囲まれ、南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万平方メートル。京都御所は宮内庁管理の皇室財産なので、どんなに貴重な歴史的遺産であっても特別名勝・特別史跡・国宝のような文化庁による評価の外に位置している。文化的評価を超越した存在です。天皇陵も同じ(天皇陵が文化財的評価を得て世界遺産に登録されたのが不思議です)。京都御苑は環境庁管理の国民公園。

(パンフレットの参観順路図)

★・・・現在の京都御所の歴史・・・★
平安遷都時の元の平安宮内裏は、現在の場所より1.7キロほど西方にあった。その平安宮内裏は何度も焼失・再建を繰り返し、その都度天皇は、一条院・枇杷殿・京極殿・藤原氏など公家や貴族の邸宅に移り住み一時的な仮の内裏として使ってきた。これを「里内裏(さとだいり)」と呼びます。天皇の居所は内裏、里内裏と転々とし、平安後期以降になると本来の内裏は次第に使用されなくなり、建物も廃絶するものが増え「内野(うちの)」と呼ばれる荒れ野になっていった。

南北朝時代の建武4年(1337)、北朝2代光明天皇が里内裏のひとつであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの、公家・藤原邦綱の邸宅)に居住すると、これ以降他所へ移ることなくここが恒常的な内裏として定着した。これが現在の京都御所の場所で、明治2年(1869)に明治天皇が東京奠都するまで約530年間にわたって天皇の居所として使用され続けられた。(京都御所内に掲示されていた年表には「元弘元年(1331)光厳天皇が現在地の里内裏で践祚。以降この地が約500年間内裏として使用される」とあるのだが・・・)

応仁の乱(1467-1477)で内裏は荒廃するが、天下を取った織田信長が改修に着手、そして秀吉(天正19年/1591)、家康(慶長18年/1613)、家光(寛永19年/1642)が権力誇示するために内裏の整備改築を行ない、しだいに規模が大きくなる。これ以降6度の火災にあい、その都度徳川幕府による再建が繰り返されてきた。
特に天明8年(1788)1月の大火で内裏や仙堂御所が全焼。寛政2年(1790)幕府老中松平定信は、有職故実家の裏松固禅(1736-1804)の「大内裏図考証」を参考に平安時代の復古様式にのっとった紫宸殿や清涼殿、その他の御殿を造営した。しかしこれも安政元年(1854)4月に炎上したが、翌安政2年(1855)に従来のほぼそのままの形で再建された。これが現在目にする京都御所で、かっての平安京内裏の姿に近い形で再現されているという。

北側の「清所門(せいじょもん)」が入口です。ここで検温、簡単な手荷物検査を受ける。そして番号の入った「京都御所入門証」を受け取り、首にかけて歩く。大宮御所・仙洞御所ほどピリピリした雰囲気は感じませんでした。空っぽになり、見せるだけの遺産になった空間と、現在でも皇室が時々使用する空間の違いでしょうか。
清所門は、本柱2本で支えられた切妻屋根、瓦葺。大台所の前にあったことから「台所門」ともいわれる。

清所門から入ると南へ向かって歩く。道の両側にはロープが張られ、その範囲内でしか行動できない。要所々には警備員が配置されているが、威圧感がないので気軽に話しかけてガイドを受けることもできます。


「宜秋門(ぎしゅうもん)」が見えてきた。上の写真は外から撮ったもの。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門で、御所に参内する公家が使用したことから「公家門」とも呼ばれる。

「御車寄(おくるまよせ)」です。儀式や天皇と対面するために参内した公卿や殿上人などの限られた者だけが使用した玄関。牛車を横づけしたことからくる名称でしょうね。廊下を通って、諸大夫の間・清涼殿・小御所とつながっている。唐破風の屋根や金飾りに威厳を感じます。



御車寄と棟続きで「諸大夫の間(しょだいふのま)」と呼ばれる建物があります。玄関から入った者の控えの間で、三間からなり、身分の高い順に東側の清涼殿に近いほうから、襖絵にちなんで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる各部屋に控える。部屋により畳縁の柄や色も違っている。御車寄から入りここで控えるのだが、「桜の間」に控える者だけは建物手前の沓脱石から上がらなければならない。
三間の襖絵は写真が掲示されているが、ガラス越し見ることもできます。

諸大夫の間のすぐ南に「新御車寄(しんみくるまよせ)」が建つ。説明版「大正4年(1915)、大正天皇の即位の礼が紫宸殿で行われる際し、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものである。天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえて南向きに建てられている」
自動車にも対応できるようにするためか、でっぱりがやや長く、側面の壁が無い。建物にはガラス窓が使われ、中は絨毯敷きで天井にはシャンデリアが使用されているそうです。

御所の南側に回り込むと、黒い建礼門と紅い承明門が対面しながら建っています。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門の「建礼門(けんれいもん)」は京都御所の南面中央にあり、天皇皇后及び外国元首などの国賓のみが通ることのできる格式高い門。また葵祭(5/15)、時代祭り(10/22)のスタート地点となります。

建礼門の東側に、潜り戸のような小さな門があり、「道喜門」と呼ばれています。

外から見た御所の南側。手前が穴門の「道喜門」で、中央に建礼門(左の写真)。
16世紀初頭創業の「御ちまき司 川端道喜(かわばたどうき)」という代々続く主人の名を店名とした粽(ちまき)や餅を商う店があった。応仁の乱後の混乱で、皇室も困窮し天皇の食事の確保もままならない状況に陥っていた。そうしたなか、創業間もない川端道喜は、天皇に毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上するようになった。京都御苑西隣にある店から蛤御門を通り、正門である建礼門の東隣の門を潜って御所に入り毎日天皇の朝食を届けていた。明治2年(1869)明治天皇が東京に移る日の朝まで350年以上にわたって続けられたという。やがてこの門は「道喜門」と呼ばれるようになった。

京都御所には6つの大きな門以外に、こうした屋根のない小さな9つの門があり、「穴門(あなもん)」と呼ばれ商人などが出入りするのに使った。

建礼門の向かいに建つのが「承明門(じょうめいもん)」。庭を挟んで正面奥に紫宸殿が見える。瓦葺き切妻屋根の十二脚の門で、天皇行幸や上皇御即位後の出入りに使われるという門で、下々の者は通れないようにロープが張られている。

 京都御所 2(紫宸殿)  



東側に周ると回廊の扉が開いていて、ここから庭に少しだけ入ることができます。右奥に見える屋根付きの門は「日華門」。

紫宸殿の前に、廻廊で囲まれた白砂の庭が広がる。「南庭」で、「だんてい」と読むそうです(皇室用語は難しい)。紫宸殿正面に18段の階段が設けられ、紫宸殿と南庭が一体となった、儀式のための空間となっている。

昭和3年11月10日の昭和天皇の即位の礼を書籍により再現してみます。
・午後2時頃、天皇は御学問所で、皇后は御三間で着替えをする。
・午後2時50分、天皇は紫宸殿に入り高御座にお座りになる。
・午後3時、高御座前の紫の帳が静かに上げられる。鉦の音が「カーン」という音が鳴り渡り、庭に参列していた人々は直立、最敬礼を行う。
・午後3時10分、天皇は立ち上がり「神器を奉じて万世一系の皇統を継ぎ即位の礼を行った」と大礼の勅語を述べられる。
・午後3時13分、田中義一首相は十八階段の下に立ち、高御座でお立ちになっている天皇に向かい「天皇陛下万歳」を三唱、庭の参列者全員も万歳三唱する。御所外に待つ参列者も一斉に万歳の声を上げる。
・午後3時30分、天皇・皇后両陛下は御学問所、御常御殿に戻られた。
・市内もお祝い一色となり、万歳行列、ちょうちん行列で賑わったという。

「紫宸殿(ししんでん)」は、即位式などの重要な儀式を行う最も格式の高い京都御所の正殿です。現在の建物は安政2年(1855)に再建されたもの。なお、慶長18年(1613)に建立された最初の紫宸殿は仁和寺の金堂として移築され現存している(国宝指定)。
入母屋造、檜皮葺きの屋根、正面9間、奥行3間で、周囲に高欄付きの簀子縁(すのこえん)をめぐらす。内部は、間仕切りを設けず広い一室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らず垂木をみせた化粧屋根裏だそうです。柱間には、白板に黒漆塗りの桟で格子を組んだ蔀戸(しとみど)がはめられ、開けるときは内側に金物で釣り上げる。
建物前の庭には、東側に「左近の桜」、西側に「右近の橘」が植えられています。

(写真は回廊に掲示されていたもの)
紫宸殿内の中央に天皇の御座「高御座(たかみくら)」、その東側に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。現在の高御座と御帳台は、大正4年(1915)の大正天皇の即位礼に際し、古制に則って造られたもの。平成天皇、令和天皇の即位礼の際には、解体され京都御所から空輸で東京の皇居に運ばれて使用された。その後京都御所に戻され、現在も紫宸殿に常設されている。

天皇が東京へ移られた後でも、明治・大正・昭和の三代の天皇の即位礼がここ京都の紫宸殿で行われた。何故だろうか?。Wikipediaによれば「1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東京行幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。その翌年にも明治天皇は京都御所を巡覧し、保存の方策として『将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん』との叡慮を示して、1883年(明治16年)には京都を即位式・大嘗会の地と定める勅令を発している。旧皇室典範第11条の規定はこれを承けて制定に至った」。そして明治22年(1889)制定の旧皇室典範に「日本国天皇の即位の礼及び大嘗祭は京都にて行う」と定められた。
明治天皇は、幼少期を過ごされた京都をとても愛された。東京から京都へ行幸されると、帰るのを嫌がり理由をつけて一日でも長く滞在しようとされたという。そして自分の墓は「京都の伏見へ」と言い残されている。
戦後制定された現在の皇室典範では、場所の規定は無くなり、皇居のある東京で行われるようになったのです。

回廊東側に広い土地が広がる。その奥に見えるのが「建春門(けんしゅんもん)」。切妻屋根、四脚門で、他の門と違い唐破風が付き威厳を示す。儀式の時に大臣や公家が出入りしたという。

広い土地の北側に建つのが「春興殿(しゅんこうでん)」。説明版「大正4(1915)年、大正天皇の即位礼に際し、皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられたもので、昭和天皇の即位礼でも使用された。内部は板敷で、外陣・内陣・神鏡を奉安する内々陣に分かれている」
紫宸殿内に小部屋を造り、鏡を置くだけでよいと思うのだが(納税者としては)。

 京都御所 3(清涼殿から御学問所へ)  



指定された見学コースは紫宸殿の背後に回り込む。左の建物が紫宸殿で、「撞木(しゅもく)廊下」と呼ばれる渡り廊下で小御所へつながっている。渡り廊下の下を潜り、清涼殿の東庭に入ってゆきます。

清涼殿の東庭が広がる。「東庭」、どう読むんだろう?。南庭が「だんてい」だったので、「どんてい」かな。
一面に白砂を敷いただけの広い空き地です。目につくものとしては、清涼殿前の二か所の竹の植込み。左側(南)が漢竹(かわたけ、皮竹が転化したとも)、右側(北)に呉竹(くれたけ、真竹の異称)が植えられている。左側の建物は紫宸殿です。

この清涼殿も安政2年(1855)に、平安朝の古い様式にならって再建された建物。入母屋造り、檜皮葺屋根の寝殿造り、正面9間、奥行き2間、内部は板敷で、間仕切りで小さな部屋に区切られている。紫宸殿と同様に、格子状の蔀戸がはめられ、内側に跳ね上げて開く。
清涼殿は、元々は天皇が日常生活を過ごされる御殿だったが、天正18年(1590)に生活の場として御常御殿ができてからは、清涼殿は儀礼の間に変わっていった。

蔀戸が跳ね上げられ、内部が公開されている。高欄奥に厚畳が置かれている。これは「昼御座(ひのおまし)」といい、天皇がお座りになる所。その奥に白絹の帳(とばり)で囲まれた御帳台がある。この中で天皇はご休息なされた。天皇が日常生活の場として使われていた時の様子を再現したものでしょうか。

清涼殿の東側に、「御溝水(みかわみず)」といわれる南北に流れる石敷きの水流があり、その北寄りに高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」と呼ぶ。この滝口近くにある渡り廊にかって内裏警護の武士が詰所として宿直していた。そこから清涼殿の警護をする者を「滝口の武士」と称した。またこの詰め所は「滝口陣(たきぐちのじん)」などと呼ばれた。

「滝口の武士」で有名なのは「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋物語。高山樗牛が1894年に書いた小説『滝口入道』で一躍有名になる。京都小倉山にあるこれに関連した「滝口寺」を、私も5年ほど前に訪れたことがあります(ココを参照)。

清涼殿東庭の北側に見える建物は、御車寄・諸大夫の間・清涼殿から小御所や御学問所につながる長い廊下です。表からは見えないが、二つの廊下が並走している。手前が天皇がお通りになる「御拝道(ごはいみち)廊下」、その脇には六位以下の臣下用の「非蔵人廊下」が並ぶ。

清涼殿をでて、さらに奥へ行くと小御所(手前)と御学問所(奥)が、池に面して並んで建つ。
「小御所(こごしょ)」は鎌倉時代以降に建てられ、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された。内部は畳敷きで、床の高さを変えて北側から「上段の間」「中段の間」「下段の間」と並ぶ。
昭和29年(1954)8月、鴨川の河川敷で開催された花火大会で打ち上げられた花火の残火が小御所の檜皮葺の屋根に落下し全焼する。現在の建物は4年後(1958年)に再建されたものです。

高欄付き板張りの縁が廻り、半蔀格子(はじとみごうし)がはめてある。これは上半分の戸を外側に吊り上げて白障子をみせ、下ははめ込み式になったもの。
正面中央は、白桟障子が開けられ、ガラス越しに室内の障壁画を見れるようにしている。しかしガラスの反射光のためよく見えない。

小御所と御学問所との間の広場は「蹴鞠(けまり)の庭」と呼ばれる。ここで公家さん達の優雅なお遊びが繰り広げられた。後ろには天皇が通る御拝道廊下があり、天皇は廊下から覗いてにっこり微笑んだかナ・・・

御学問所(おがくもんじょ)は「家康による慶長度(慶長18年、1613)の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。江戸末期頃になると御学問所は年中行事の場や仮常御殿としても用いられた他に孝明天皇が徳川将軍である徳川家茂公や徳川慶喜公と対面を行った場になった」(Wikipediaより)
舞良子という細い桟を格子状に打ちつけた「舞良戸(まいらど)」と呼ばれる引き戸が開けられている。内部は畳敷きで、上段・中段・下段を含む6室からなる。

小御所、御学問所は明治維新の舞台ともなった。慶応3年(1867)12月9日、大久保利通、岩倉具視ら倒幕急進派は、軍事力で御所の各門を封鎖し親幕派公家の参内を禁止する。そして御学問所にて、まだ16歳だった明治天皇に勅令「王政復古の大号令」を発せさせた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、幕府の廃止、朝廷の摂政・関白の廃止、新たに三職(総裁・議定・参与)を置く、という政治体制の根本的変革を実行したのです。まさにクーデターだった。
その夜、小御所で新政府の基本方針を策定するため最初の三職会議が開かれた。そこで徳川家の辞官納地(官位を失し、領地を返上さす)について大激論になった。山内容堂(前土佐藩主)は「この会議に、今までの功績がある慶喜公を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い帝を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と反対し、松平春嶽(前越前藩主)も同調した。深夜に及ぶ激論の末、最後は西郷隆盛の「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」の脅しで大久保利通、岩倉具視の主張する辞官納地が決定した。これが「小御所会議」です。

小御所、御学問所の東側に前庭として「御池庭(おいけにわ)」が造園されている。江戸時代初期に作られ、池を中心とした池泉回遊式庭園。ただし仙洞御所のように回遊させてくれません。右奥に見えるのが中島(蓬莱島)にかかる欅橋(けやきばし)

澄みきったエメラルドグリーンの池、対岸に多彩な樹木を見せ、その前に中島を配し橋を渡す。池の中には3つの中島があり、2つの木橋と3つの石橋が架かる。派手過ぎず、地味すぎず、落ち着いた安心感に浸れる池です。

手前の岸には、栗石が敷き詰められ州浜を表現している。州浜真ん中あたりに飛び石が置かれ、池の中まで出ている。ここから舟遊びに出たのでしょうか。

 京都御所 4(御常御殿から出口へ)  



御学問所前を通り、御池庭の北へ行くと、潜り門があります。ここまでが公の空間で、この先は天皇の私的な生活の場になる。「ここから先は明治維新期まで奥向きの御殿とされ男子は稚児と老侍以外は男子禁制とされお付きの女官や女御など女性や女子のみしか立ち入りを許されなかった」(Wikipediaより)

元々、清涼殿が天皇の日常生活の場だったが、秀吉の天正度造営時(1590年)に、天皇の生活の場として「御常御殿(おつねごてん)」が独立した建物として造営された。明治天皇も明治2年(1869)に東京へ遷るまでこの御殿に住んでおられました。
京都御所の中で最も大きな建物で、檜皮葺き、入母屋造り、書院造り。内部は総畳敷きで、天皇の寝室「御寝の間」、三種の神器のうちの剣璽を奉安した「剣璽(けんじ)の間」、儀式や対面用の「上段の間、中段の間、下段の間」など15部屋がある。

縁側の板戸が開けられており、杉戸絵を見ることができます。

御常御殿の東側にある庭は「御内庭(ごないてい)」と呼ばれる。「流れの庭」とも呼ばれるように遣り水が曲がり流れ、中島をはさみ土橋、石橋、八つ橋が架かる。御内庭の南東隅の築山の上には小さな茶室「錦台(きんたい)」<空中写真の(1)>が建ち、庭を眺めながらお茶を嗜むようになっている。
また北東隅には「地震殿(じしんでん、泉殿)」<空中写真の(2)>と呼ばれる建物がある。これは、床を低くし天井を張らず屋根も軽くし、地震などの時の避難場所として造られたもの。

御常御殿の北側までが許可された見学コースです。あとは空中写真をみて想像するしかない。

写真中央は、孝明天皇の希望を受けて書見の間として安政5現(1858)に造られた「迎春(こうしゅん)」<空中写真の(3)>と呼ばれる建物。御常御殿の縁座敷から渡り廊下で結ばれ、十畳と五畳半の二間だけの簡素な建物。その右の檜皮葺き屋根だけが見える建物は「御涼所(おすずみしょ)」<空中写真の(4)>と呼ばれ、暑い京都の夏をしのぐために、窓を多くし風通しを良くした建物。
<空中写真の(5)>は壁のない「吹抜廊下(ふきぬきろうか)」で、途中でゆるやかに折れ曲がり下を池からの遣り水が流れ、この流れの周辺には、飛び石が配置され、美しい植栽と苔で埋められている。廊下の先は「聴雪(ちょうせつ)」<空中写真の(6)>で、安政4年(1857)に孝明天皇の好みで増築された数寄屋建築の茶室。

上の写真の右端が「龍泉門」<空中写真の(7)>で、これを潜ると「龍泉(りゅうせん)の庭」<空中写真の(8)>となる。池の中央に中島があり、三方向から石橋が架けられている。聴雪の奥が「蝸牛(かたつむり、かぎゅう)の庭」<空中写真の(9)>。明治期の作庭で、水を全く使わない枯山水庭園。白砂を敷いて池を表し、中央に苔の島を築かれている。

御常御殿南側の出口を出ると、「御三間(おみま)」と呼ばれる建物がある。ここでも杉戸絵を見ることができます。
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもの。三間からなり、涅槃会、七夕、盂蘭盆会など内向きの年中行事に使われた。明治天皇が祐宮(さちのみや)の幼少時に、「御手習い始め」「御読書始め」をされた場所ともいわれる。

御三間を最後に見学コースは終了です。出口には白テントが設置され、暑いなかご苦労さま、と休憩所が用意されていました。今日は特に暑かったのでありがたかった。

江戸時代、天皇はじめ公家たちは幕府から政治に手を出すなと、と抑えられていた。そして彼らは貧しいながら優雅な宮廷生活を送っていたのです。ところが、1853年ペリーの黒船来航から状況が一変する。開国・通商を求められた幕府はうろたえ狼狽し、何事も決められない。そうだ、日本には天皇という偉いお方がいらっしゃる、相談してみようと京都の御所まで特使を出したのです。天皇と取り巻きの公家達は、俺たちにも力があるんだと目覚めた。こうして朝廷の政治的権威が急浮上し、それにあやかろうとする諸藩の藩士や志士気取りの浪人まで京都に集まってくる。こうして京都は政治の舞台となり、朝廷のある京都御所は幕末政治史の焦点に躍り出た。現在は抜け殻となった空虚な京都御所ですが・・・。


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京都御所を訪ねて 2(京都御苑)

2023年10月23日 | 名所巡り

これから京都御所を取り巻く京都御苑を歩きます。南側の堺町御門から入り、九条邸跡、閑院宮邸跡とその周辺を見学。さらに北上し、京都御所の南域から西、北、東へと時計回りに見てゆきます。

 京都御苑 1(堺町御門・九条邸跡)  




丸太町通りを石垣に沿って西に歩けば堺町御門(さかいまちごもん)が現れる。京都御苑のちょうど南側中央に位置する。
傍の説明版に「1863(文久3)年8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊皇攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に終結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました」とある。この周辺で長州藩兵と、薩摩・会津の藩兵とがにらみあい、一色触発の状態だったという。また翌年の「禁門の変」でも長州藩兵はこの辺りで戦っている。

堺町御門を入ると正面に、広い砂利道とその奥に繁みがみえる。ここはかって鷹司家(たかつかさけ)の邸があった場所です。今では説明版が1枚立つだけで何もない。説明版は文字が擦れ読みにくいので、デジタル拡大して読むと「鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。1864(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、邸に放たれた火は、長州藩邸の火などとともに「どんどん焼け」と称する京都大火につながりました」とあります。
藤原氏北家嫡流で、鎌倉中期の近衛家実の四男兼平を祖とする。家名は、兼平の邸が京都鷹司室町にあったことによる。以降代々、摂政・関白を務め、近衛・九条・二条・一条の四家とともに五摂家のなかでは最後の成立である。
禁門の変(蛤御門の変)の時、長州の久坂玄瑞の一隊は鷹司邸跡を占拠したが、まもなく包囲され総崩れとなり、久坂玄瑞は邸内で寺嶋忠三郎と刺し違えて自刀している。鷹司邸跡や長州藩邸から上がった炎は、北風にあおられ「どんどん焼け」と呼ばれる大火となり、町屋3万戸近くが焼けたという。

堺町御門のすぐ西側が九条邸跡。これは閑院宮邸跡の展示室に置かれていた九条邸跡の模型。池の形から「勾玉池(まがたまのいけ)」とも呼ばれる九条池の中央に高倉橋が架かる。池の西端が捨翠亭で、北側の出島に厳島神社がある。桃色鮮やかな樹木はサルスベリです。

(高倉橋から池の東側を撮る)九条家は、藤原北家の流れを汲み、平安末期から鎌倉初期に活躍した九条兼実を祖とし、京都の南東部の九条陶化坊に邸があったのが家名となる。豊臣秀吉は公家を御所周辺に集め公家町を形成した。その時に九条家も御所の南の現在地に移った。九条家は、平安時代から江戸時代までの数百年間に掛けて多くの摂政・関白を輩出し、近世末まで宮廷政治の重鎮であった。幕末期の関白・九条尚忠(ひさただ)は開国か攘夷かで揺れる京都朝廷で関白として大きな力をもち天皇を補佐してきた。尚忠の娘夙子は孝明天皇の女御となり、また大正天皇の皇后・貞明皇后は九条家出身で昭和天皇を産んでいる。このため、現在の皇室にも九条家の血筋が引き継がれている。

九条池の中央に架かる高倉橋は、天皇行幸のため明治15年(1882)に架けられたもの。橋の先には広い大通りがつらぬき、御所正門の建礼門につながっている。

橋の西側。捨翠亭と水面に映るサルスベリが印象的です。
明治天皇が東京へ移ると公家たちも東京へ移転していった。明治10年(1877)に政府によって九条家の敷地は買い上げられた。九条邸は取り壊され、広大な屋敷も捨翠亭と九条邸の鎮守だった厳島神社が残るばかりに。

北側の出島に佇む厳島神社。この社は平清盛が摂津の兵庫築島に、安芸の厳島神社の神を勧請し、同時に母の祇園女御を合祀して祀ったもの。経緯は分からないが、後にここ九条邸内に移され、九条家の鎮守とされた。家業繁栄、家内安全にご利益があるとされ、一般からも拝まれている。
石鳥居は、上部が唐破風形をした珍しい鳥居で、京都三珍鳥居の一つとして知られ、昭和13年に文部省より重要美術品に指定された。

厳島神社から眺めた池と捨翠亭。サルスベリはよく見かけるが、これほどピンポイントで映えるサルスベリは初めてだ。

これから捨翠亭(しゅうすいてい)の中に入ります。入口は西側にある。一般公開日は年末、年始を除く毎週木・金・土曜日と葵祭(5/15)、時代祭(10/22)の日。
中学生以下は無料です。内部の撮影はOKです(業者や機材使用はNG)。

玄関を上がると控えの間があり、その奥に十畳の広間がある。広間は茶室だが、池に面して板敷の広い縁が設けられている。お茶を楽しみながら美しい庭園を鑑賞したのでしょう。

広間から庭園を眺める。
拾翠亭は九條家の現存する唯一の建物で、今から約二百年前の江戸時代後期に数寄屋風書院造りで建てられたもので、10畳と3畳の二つの茶室が残されている。九条家の別邸として、主に茶会や歌会などの社交の場として利用されました。「捨翠」とは、緑の草花を拾い集めるという意味が込められているという。

二階にも上がれます。北、東、南の三方に高欄付きの縁がめぐらされ、九条池を中心とした庭園全体を眼下に見晴らせる。ただし、危険防止のため縁側には出れないようです。

二階から高倉橋を眺める。この時期、サルスベリが色取りをそえてくれる。
九條池は東山の山なみを借景とし、拾翠亭からの眺めを第一につくられたといわれています。今は木立が大きくなり東山は見えない。

こちらは厳島神社方向。

今度は捨翠亭から外に出てみます。これは南側から捨翠亭を見たもの。入母屋造りの屋根は、瓦葺と一部柿葺きが組み合わされているという。
女将さん(?)の話では、夏のサルスベリ、秋の紅葉、冬の雪景色がお勧めとおっしゃる。春が欠けているので尋ねると、ワビ、サビの茶室には派手な桜は似合わないそうです。

これな北側から見た捨翠亭。手前に小さな小間が広間に隣接している。三畳中板の茶室で、パンフに「当時公家方がこの二つの茶室を行き来しながらお茶を楽しまれたもので、貴族の茶事の習わしを知る上で貴重なものである」とあります。

池に小舟が浮かんでいる。舟遊びを楽しんだのでしょう。現在でも、なにか催事に使われるのだろうか。
京都御苑内には多くの公家邸の跡が残されているが、跡形もなく消え去り高札だけが立っている。唯一この九条邸跡だけが、当時の高級公家の優雅な暮らしぶりを偲ばせてくれる場所となっている。

 京都御苑 2(閑院宮邸跡とその周辺)  


九条邸跡から丸太町通りに出る「間ノ町口」を超えて西へ行くと閑院宮邸跡がある。堂々とした門が構える。ここが閑院宮(かんいんのみや)邸跡への入口になる「東門」です。

万世一系とされる皇統が継続されるかどうかが、皇室にとって最大の懸念である。そこで天皇に直系男子の継嗣がない時、天皇継承ができる家を創った。皇族の中で、天皇・太上天皇の養子縁組・猶子となって親王と認められ(親王宣下)て天皇継承ができる親王家(宮家)となったのです。江戸前期には伏見宮家・桂宮(八条宮)家・有栖川宮家があった。
儒学者・新井白石(1657-1725)は、皇統の備えとして幕府が費用を出して新しい親王家の創設を六代将軍徳川家宣に提言する。その結果、幕府の援助のもとに宝永7年(1710)に東山天皇の皇子・直仁親王を始祖とし新たな宮家として四番目の閑院宮家 (かんいんのみやけ)が創設されました。皇統の断絶の恐れはまもなくやってきた。安永8年(1779)、後桃園天皇が後嗣ないまま崩御、そこで当時9歳だった閑院宮家二代目の第六王子祐宮が光格天皇(1771-1840)として皇位を継承したのです。光格天皇以降は直系の皇太子が次代天皇に即位し、現在の令和天皇まで続いている。そうしたことから光格天皇は「現皇室の祖」と呼ばれることもある。
一方、閑院宮家は7代目が戦後の昭和22年(1947)に皇籍離脱し、昭和63年(1988)に跡取りが無いままに亡くなったことにより、閑院宮家は断絶しました。

閑院宮家の邸宅は正徳6年(1716)に造営された。しかし天明の大火(1788年)で焼失しその後再建され,閑院宮家が東京に移る明治10年(1877)まで屋敷として使用されました。その後は華族会館や裁判所として一時使用されたが、明治16(1883)年に宮内省京都支庁となり建て替えられたのが現在の建物です。一部に旧閑院宮邸の資材が利用されている。現在は環境省と所管となり、平成15年(2003) から3カ年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われました。バリアフリーのスロープが設けられているのが印象的。

建物内部の一般公開は午前9時~午後4時30分、休館日は月曜日(祝日を除く)と年末年始、入場料は無料です。東門は常時開けられ、庭園など建物の外は何時でも自由に見学できます。


建物は木造平屋建てで、中庭を囲む四つの棟で構成されている。




令和4年(2022)4月にリニューアルした収納展示館は、京都御苑の樹木・花・野鳥等の自然を、さらに御所周辺の公家町や公家の暮らしぶりを紹介している。VR映像シアターでは公家町の映像を流しながら解説していました。




次に建物南側の庭園を散歩してみます。庭園は何時でも自由に散策できる。まず池が現れる。やや素っ気なく感じられるが、現在の池は平成15~17年度の整備で復原されたもの。18世紀中頃に作庭された当時の池は、保存のために埋め戻し、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現したという。州浜を設ける手法は、京都御所、仙洞御所、桂離宮などの宮廷庭園に見られるものだそうです。



庭園の奥へ行くと建物の基礎が残されている。これは明治25年(1892)に建てられた宮内省京都支庁の所長官舎の跡です。その南側に小さな
池泉回遊式庭園がある。遣水が流れ、園池のほとりに置かれた雪見型燈籠(左写真中央)をはじめ、いろいろな形の5基の燈籠が配されている。
官舎の座敷から緑に包まれた曲水の流れを眺める、何とも贅沢な官舎だ。この所長は誰だろうかと調べると、宇田栗園(又は淵)(1827-1901)という勤皇の志士で、怪物公家・岩倉具視の腹心の部下だそうです。


閑院宮邸跡のすぐ東側に宗像神社(むなかた)があります。
社伝によれば、延暦14年(795)、後の太政大臣藤原冬嗣が桓武天皇の命により、皇居鎮護の神として筑前の宗像神社の宗像三女神を勧請し、自邸に祀ったのが始まりと伝わる。その後、花山院家に引き継がれ明治に至るまで、同家の者が別当として奉祀してきた。明治維新後の東京奠都によって花山院家が東京に転居すると、邸宅は取り壊されたが社殿は残され、現在は神社本庁に属している。

西側の烏丸通に面して4つの御門があるが、一番南に位置するのが「下立売御門(しもだちうりごもん)」。幕末の禁門の変(1864年7月)では「蛤御門の戦い」が有名だが、この下立売御門でも守衛の仙台藩と外から攻撃する長州藩との間で戦われた。今はクスノキに覆われ、静かなたたずまいをみせている。

下立売御門から東へ歩くと小さなせせらぎが流れ、「出水(でみず)の小川」の標識が立つ。
かっては琵琶湖疏水から専用水路で御所に水が引かれていた。それを利用して昭和56年(1981)にこの「出水の小川」が造られた。平成4年(1992)に御所水道が閉鎖されたことから、現在では井戸から地下水を汲み上げ循環濾過して流れを維持しているそうです。
長さ約110m、深さ10cm~20cm位で、子供の水遊びにちょうど良い。春には八重桜の名所になるという。春から夏にかけて、子供たちのはしゃぎ遊ぶ姿が浮かんできます。

「賀陽宮(かやのみや)邸跡」の説明版と「貽範碑(いはんひ)」の石碑が建つ。この辺りから烏丸通りにかけて朝彦親王の邸があった。幕末の動乱期に策動した公家・朝彦親王は賀陽宮、久邇宮など多くの呼び方があるが中川宮が一般的。

朝彦親王(1824-1891)は、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれ、13歳の時仁孝天皇の養子となり、親王宣下を受ける。その後、興福寺一乗院の門主、青蓮院門主、天台座主を務めた。幕府が結んだ日米修好通商条約に反対したため、安政6年(1859、35歳)井伊直弼の安政の大獄で隠居永蟄居となる。井伊直弼暗殺後、赦免され国事御用掛となり朝政に参画し孝明天皇を補佐しました。翌文久3年(1863)に還俗して中川宮の宮号を名乗る。当時京都では、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州藩や朝廷内の公卿の活動が活発化していた。危機感を抱いた公武合体派の領袖であった中川宮朝彦親王は、京都守護職を務める会津藩主松平容保やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、攘夷派公卿、長州藩を京都から排斥することを画策する。それが文久3年(1863)の「八月十八日の政変」です。追放された攘夷派志士たちは、朝彦親王を「陰謀の宮」などと呼び敵視した。この年、邸宅の庭にあった榧(かや)の巨木にちなみ中川宮から「賀陽宮(かやのみや)」に改めた。その後、幕府は二度にわたる長州征討を行ったが目的を果たせず、それに伴い尊攘派がしだいに復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」で追放されていた討幕派・尊攘派公卿が復権し、翌年朝彦親王は幕府を擁護した罪で安芸国(広島)へ幽閉される。親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった明治5年(1872)、謹慎を解かれ、伏見宮家の一員として京都に復帰する。明治8年(1875)久邇宮(くにのみや)家を創設、伊勢神宮の祭主となる。孫娘が香淳皇后(昭和天皇后)、そこから明仁上皇(平成天皇)の曽祖父、令和天皇の高祖父にあたる。
昭和6年(1931)、朝彦親王没後40年にあたりその遺徳を偲び子孫が合い寄って建てた碑です。「貽(い)」は遺と同じ「のこす」という意味を持ち、模範となるものを後世に残すということを表す。

 京都御苑 3(京都御所の南から西へ)  



京都御所の南側と西側の図面

九条邸跡前から撮った大通り。京都御苑の真ん中を南北にはしり御所の建礼門まで続くメインストリート。

信長、秀吉の時代に公家達は、御所周辺に集められ徐々に公家町を形成し、江戸時代には約200の公家邸が軒を並べていた。ところが明治維新となり、明治2年(1869)天皇が東京へ移ると、公家さんたちもこぞって後を追うように東京へ移転してしまう。御所周辺の公家町の建物は取り壊され、空き地が目立つようになり荒廃していった。「明治10年(1877)、京都に遷幸された天皇は、その荒れ果てた様を深く哀しまれ、御所保存・旧観維持の御沙汰を下されました。この御沙汰を受けて「大内保存事業」が進められ、皇室苑地として整備されたのが現在の京都御苑の始まりです」(御苑内の案内板より)

建礼門前から南方向を撮る。突き当りが九条邸跡。建礼門前のこの広い通りは、大正天皇の即位大礼に備えて拡張や石積土塁上にウバメガシ植栽などが行われたそうです。

天皇のお嘆きをうけ京都府では、直ちに土地を買い上げ建物を撤去、石積土塁を築いて外周を整え、内側には苑路を整備して樹木植栽等をおこなう「大内保存事業」を開始し、明治16年(1883)に完了した。管理は京都府から宮内省に引き継がれ、現在は環境省が管理している。広さは東西約700m、南北約1,300m、総面積は約65ヘクタール、甲子園球場の16倍もの広さをもつ。昭和24年(1949)、京都御苑は365日24時間出入り自由な国民公園として開放されました。
京都は寺社が多く緑も豊かだが、それとは全く異質の雰囲気をもった緑地で、街の中のオアシス、京都市民の散策の場として親しまれています。ともかく広い・・・、広すぎて閑散と感じる。

(2017/5/15 葵祭を撮影)京都三大祭りのうち5月には葵祭、10月には時代祭の行列が建礼門から出発し、ここを通って堺町御門から市中に出て行きます。

クソ暑い祇園祭、やや品格の落ちる時代祭り、京都観光には5月15日の葵祭が一番のお勧めです。そして観覧場所は通りの中ほど両脇の土盛上が良い。数メートル間隔で高さ30cm位の石柱が並び、この上に立って見る・撮る、腰掛けて休憩するのに利用できる。石柱には数に限りがあるので先陣争いが必要ですが。また、市中でなく御苑内で観覧するメリットは、「次に見えてきました斎王代は・・・」などとマイク放送で解説してくれることです。今年(2023年)の葵祭は、上皇(平成天皇)ご夫妻が御観覧の予定であったが、あいにく雨で順延されてしまった。

大通りの中ほど東側にこんもりした土盛が見られる。土盛上には松が植えられ、すぐ近くには大銀杏の木が突っ立ています。傍に「凝華洞跡(ぎょうかどうあと)の説明版が立つ。説明版は文字が擦れ読めないので、後でデジタル拡大して判読した内容は「江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています」

凝華洞跡の西方には、禁門の変の激戦地だった蛤御門がある。長州藩兵は宿敵・会津藩をねらって攻め込んだのでしょうか。またこの辺りは「御花畑」と呼ばれていたようですが、その由来はよく分からない。

京都御苑の図には、凝華洞跡の北側に「有栖川宮邸跡」とある。その辺りを探したが、それを示す碑も立札も見つからなかった。ただ、恐竜のようにくねる一本のアカマツが印象的でした。
有栖川家(ありすがわ)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。第2代親王は皇位を継ぎ後西天皇(在位:1654-1663)となっている。
以下はWikipediaによる「江戸時代を通し、京都御所の北東部分にあたる猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷が存在した。慶応元年(1865年)に、御所の拡張用地として召し上げられた。代わりに下賜されたのが、現在の京都御苑内で「有栖川宮邸跡」の碑が建つ、御所建礼門前の凝華洞(御花畑)跡であった(この地は直前まで松平容保が宿舎として利用していた)。この場所に明治2年(1869年)に新御殿が落成したが、わずか3年後の明治5年(1872年)、すでに奠都によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより幟仁親王も東京へ転住することになったため、宮邸の土地家屋は京都府を経て司法省に引き継がれ、裁判所として使用された。現在上京区烏丸通下立売角に建つ平安女学院大学の学舎の一つ「有栖館」は、この建物の一部を移築したものと伝えられている。」

9代・熾仁(たるひと)親王(1835-1895)は、公武合体策として徳川将軍家茂に嫁いだ皇女・和宮(孝明天皇の妹)の前の婚約者だった人として知られる。また慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」により新政府が誕生した時、総裁(今の首相)となる。戊辰戦争では東征大総督を務め、西南戦争では征討総督となった。大正2年(1913)に後継ぎが途絶えたため旧皇室典範の規定に基づきお家断絶が確定した。

今度は、大通りの西側へ行きます。凝華洞跡の反対側にあるのが白雲神社(しらくも)。この辺りは西園寺家の邸宅があった所で、白雲神社は西園寺家の鎮守社だった。御祭神は琵琶をもつ音楽神・妙音弁財天で、音楽や芸能の上達を願う人たちに人気のある音楽の神様です。絵馬には琵琶が描かれている。
西園寺家は藤原北家の流れを汲む公家で、琵琶の家として知られ歴代天皇に琵琶の教授を行っていた。鎌倉時代の公卿西園寺公経(1171-1244)が、今の金閣寺の地に別荘北山第を造営し、家名を西園寺と称しました。敷地内に妙音弁財天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てた。
江戸時代中頃の明和6年(1769)に西園寺邸がここ御苑内に移ると、妙音堂も邸内に再建されました。明治2年(1869)、明治天皇の東京行幸にともない西園寺家も東京に移り、屋敷は取り壊されましたが妙音堂は残された。明治11年(1878)、廃仏毀釈の荒らしの中、以前の神仏混淆の作法を神式に改め、地名の白雲(しらくも)村に因み、社号を白雲神社に改められました。
この場所は「立命館発祥の地」と云われる。西園寺公望が邸内に私塾「立命館」を創設したが、府によって1年足らずで閉鎖されてしまう。その後、塾生によって別の場所に創設されたのが現在の立命館大学です。

白雲神社から道をへだてた西側に梅林が、その北に桃林がある。約130本の梅、約70本の桃が植えられている。現在は閑散としているが、赤、白、ピンクに開花する2月中旬から4月にかけて甘酸っぱい香りが漂い、多くの人々で賑わうそうです。

梅林の近くに「枇杷殿跡」(びわどのあと)の説明版が建つ。内容は「このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経の三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002(長保4)年以降、藤原道長と二女妍子の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、1009(寛弘6)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。1014(長和3)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます」

桃林の北側の道を西へ行けば「蛤御門(はまぐりごもん)」。京都御苑への出入り口として9御門あるが、一番名が知られているのがこの蛤御門です。幕末の動乱期に、長州藩兵が御所に向かって攻撃を仕掛けた「禁門の変」または「蛤御門の変」(1864年7月19日)があったからです。

「8月十八日の政変」(文久3年(1863))で京都を追放された尊王攘夷の過激派・長州藩は失地回復・名誉回復を目指して京都へ進軍。烏丸通りに面した全ての御門で戦われたが、一番激しかったのが中央に位置する蛤御門だった。午前7時頃、侵入しようとする長州藩兵と、守衛していた会津・桑名藩兵との激戦になった。守衛側は押され気味だったが、烏丸通りの北方から応援に駈けつけた薩摩の精鋭部隊に側面から攻撃を受け、長州側は持ちこたえることができず、退却せざるをえなかった。その後、堺町御門でも激戦になったが長州軍は敗戦となり、21日には長州軍は総崩れとなる。長州藩邸に放った火は、町屋に燃え広がり、翌日には強い北風にあおられ拡大。京都の市民は、落ち武者のなかを、荷車に家財道具をくくりつけて逃げまどった。「鉄砲焼け」「どんどん焼け」と呼ばれるこの大火で、上京では御所の南の町屋が2割あまり(5425建)焼失、下京では、ほとんど全域が罹災した(22095軒焼失)。
「御所に向かって発砲した」として「朝敵」とされた長州藩への二度にわたる長州征伐戦争がおこり、政局は混迷を深めてゆく。
左は「江戸時代の御所付近図」(苑内の案内板より)
図を見れば、各門の位置が現在の位置より微妙に異なっています。これは明治10年(1877)~明治16年(1883)の京都御苑整備事業で現在位置に移設されたものと思われる。蛤御門は、現在より30メートルほど東側に位置し、南北に向いて建っていたようだ。

蛤御門は、本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」と呼ばれ、固く閉ざされ滅多に開くことがない門だった。ところが宝永5年(1708)の大火で御所が炎上した際に、まるで火に炙られた蛤のように門が開かれたことから、以後「蛤御門」と呼ばれるようになったという。
烏丸通り側から見れば、門柱の各所に銃弾痕が今でも残っています。

烏丸通り側から撮った蛤御門。

蛤御門から通りを東へ進むと京都御所の南面が見えてくる。その南西隅に突っかい棒で支えられた巨木が見える。説明版によれば、樹齢約300年のこの椋(ムク)の大木は、この辺りに清水谷家という公家邸があたので「清水谷家の椋」と呼ばれている。また、禁門の変の際に長州側の陣頭指揮をとっていた来島又兵衛が銃弾に倒れ、自刃した場所だそうです。長州兵はここまで攻め込んでいたのだ。

これから京都御所の塀に沿って北へ歩いてゆきます。ここは御苑の真ん中あたりで、ともかく広い。

しばらく歩くと、西方に中立売御門(なかだちうりごもん)が見える。禁門の変では、筑前藩が守護しており、長州藩兵と戦っている。
御門の手前が中立売北休憩所。室内は広く、左側がレストラン、右が売店と休憩所、トイレ。入口には「無料休憩所につき、どなたでもご利用ください」と案内されている。京都御苑内で食事できる所はここしかなく、昼時なのかレストランは大変混んでいました。私は注文品が出てくるまで30分以上待たされた。

宮内庁京都事務所の建物を右手に見ながら、さらに北へ歩くと「縣井(あがたい)」が現れる。「染井」、「祐井(さちのい)」と共に、御所三名水の一つに数えられています。
説明版に「昔この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中に登ったといいます。この付近は一条家の屋敷地内となっており、井戸水は、明治天皇の皇后となった一条美子のうぶ湯に用いられたとも言われています」

宮内庁京都事務所(写真中央)周辺は一条邸跡とされるが、何の目印も無かった。一条家は藤原北家嫡流九条家の庶流にあたる公家・華族。鎌倉時代前期の摂関九条道家の四男実経(1223~1284)が一条室町にあった屋敷を父から譲られたことが家名の由来となりました。摂政・関白を輩出し、五摂家の一つになる。幕末期の当主の三女・美子は明治天皇の皇后(昭憲皇太后)となった。

西方を見ると乾御門が構えます。「乾」とは、十二支の方位で戌と亥の間を表し北西の方角を示す。即ち、御所の北西隅に位置する門です。

 京都御苑 4(京都御所の北から東へ)  




御所北面の松の繁みの奥に入ると、枝垂れ桜の立ち並ぶ広地がある。ここはかっての名門公家近衛邸(このえてい)のあった場所。代々摂政・関白を務めた五摂家の筆頭格だった。御所炎上の際には仮の皇居ともなったそうです。平安京の近衛大路(現在の出水通)室町付近に邸宅を築いたことから「近衛殿」と称された。
近代では、戦前の昭和期に3度も内閣総理大臣を務めた近衛文麿がいる。「天皇の前で足を組んで話をすることが許されている唯一の存在だったといわれる」(wikipedia)近衛文麿だったが、戦後GHQにより戦犯指定されたため服毒自殺している。
傍にあるのが近衛池。近衛邸の庭園の遺構だが、現在は水は涸れて荒れ地のようになっている。茶室・又新邸は仙洞御所に移され保存されている。この辺りは京の早春を告げる糸桜の名所で、桜シーズンには多くの人が押し寄せるそうです。


近衛邸跡を東側に抜けると今出川御門。門の先は同志社大学で、さらのその北に相国寺があります。


今出川御門の東側に五筋塀と門が見えます。閉じられた門前に「桂宮邸跡」の木柱が立つ。
桂宮家は、天正17年(1589年)に智仁親王(1579~1629、正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六王子)を初代として創設された親王家。、元和6年(1620)に別邸として桂離宮を造営したことから後に「桂宮」と称されるようになった。幕末に京都御所が焼失した際に桂宮邸を孝明天皇の仮皇居とした。その時、天皇の異母妹である皇女・和宮親子内親王は、公武合体策の犠牲になりここから江戸の将軍家茂のもとへ降嫁しました。
桂宮家は明治14年(1881)に断絶。現在敷地を囲む築地塀と御門のほか、園池の遺構だけが残されている。本来あった建物は二条城の本丸として移築されて保存されているようです。

桂宮邸跡から御所の背後にまわり、御所塀の北東隅を見ると塀が奇妙に凹んでいて、この場所は「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ばれている。陰陽道によると北東は鬼門方位にあたる。そこで鬼門を「避けている」「除けている」ということから角を欠いて造っているのです。蟇股には、鳥帽子をかぶり御幣を担いでいる猿が木彫りされている。この猿は、日吉大社で神の使いとして大切にされている猿だそうです。日吉大社は平安京の北東に位置することから、表鬼門を守る神社として崇敬されてきました。その日吉大社は猿を神の使いとし、「神猿」と書いて「まさる」と読み、そこから「魔が去る」に通じるとして、猿は魔よけの象徴とされてきたのです(神猿→真猿→まさる→「魔が去る」)。ただこの猿は、夜になるとこの付近をうろつき、いたずらをするので金網に閉じ込められています。

またこの場所は、文久3年(1863)5月20日におこった「猿ヶ辻の変」でも知られる。朝廷内の尊皇攘夷派の急先鋒の一人だった姉小路公知が、朝議からの帰途中にこの付近で刺客に襲われ暗殺された事件です。

桂宮邸跡の東側が幕末の公家・権大納言中山忠能の邸宅跡。明治天皇の実母の実家であり、明治天皇の誕生の地です。
中山家は平安時代末期に、中山忠親により創設された公家で、江戸時代には大名家の家格に準ぜられ、最高官位は大納言まで進むことが出来る家柄でした。第24代の権大納言・中山忠能(1809- 1888、ただやす)の次女・慶子(よしこ)は宮中の高級女官「典侍(ないしのすけ/てんじ)」となり、孝明天皇の身の回りの世話をしていた。
「孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。」(Wikipediaより)
孝明天皇が崩御され(1866年12月)、翌年1月に明治天皇が即位する。今や天皇の祖父となった中山忠能は幕末維新期に倒幕に貢献。岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ(1867年12月9日)、小御所会議では司会を務めた。王政復古後三職制が創設されると議定に就任した。

敷地内の左奥に、祐宮(のちの明治天皇)が4歳まで過ごしたという産屋(6畳2間)が残っており、塀越しに見ることができます。

塀前に「祐井」の木柱が立ち、塀の格子間から奥の井戸を覗くことができる。祐宮が2歳の時、日照り続きで邸内の井戸が枯れたため、新たに井戸を掘ると清らかな水が湧きだした。孝明天皇は祐宮の一字をとって「祐井(さちのい)」と名付けた。「京都御苑の三名水」の一つです。

中山邸跡から東へ行くと、倒れそうな老木が支えによってかろうじて立っている。「公家町の時代から残る名木・五松(ごまつ)」と紹介されています。崩れ行く公家の象徴なのでしょうか。五松の角を北へ行くと今出川口が開いている。

五松の場所から東へ直進した所に「石薬師御門」が建つ。かってこの門の前にあった真如堂に石薬師が祀られていたことからくる。門前には石薬師通り、真如堂前道などの地名が残っています。

石薬師御門前から南に広がる鬱蒼とした繁みの中へ入って行く。ここは昭和61年に環境庁が提唱した「母と子が自然とふれあう機会を増やそう」というコンセプトのもとに森作りが行われ「母と子の森」と名付けられています。「おじいちゃんとおばあちゃんの憩いの森」のほうが相応しいような印象を受けました。死に絶えた老木が横たわっている。展示されているのか、放置されているのか?。
「森の文庫」と呼ばれる四面からなる本棚があり、植物や鳥についての図鑑や書物が置かれ自由に閲覧できるようになっている。ここだけは親子で楽しめそう。

「母と子の森」の南側は「京都迎賓館」の建物です。その裏手に「「染殿井(そめどのい)」が残されている。その傍らに「染殿第(そめどのだい)」の邸宅についての説明版が立っている。内容は「染殿第跡 この付近一帯は、平安京当時の北東端(左京北辺四坊)にあたり、平安時代前期に臣下として最初の摂政に任じられ、その後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸「染殿第」があった場所とされています。染殿第はまた、良房の娘・明子(文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所であり、清和天皇は譲位後ここに移られて「清和院」と称されました。(現在の「清和院御門」の名の由来となっています)ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれているのも、かつての染殿第にちなんだものでしょう。」

藤原良房(804-872)は藤原北家・藤原冬嗣の二男で、その子孫達も相次いで摂関となったことから、藤原北家全盛の礎を築いた人物とされている。また染殿井は「御所三名水」の一つに数えられ、清和天皇の産湯井にも使用されたという。

京都迎賓館の南、仙洞・大宮御所の北側に広い空き地が広がり、立札「土御門第跡」だけがぽつんと立っている。
ここは藤原道長(966-1027)が栄華を極めた邸宅の場所で、土御門大路に面していたことから「土御門第(つちみかどだい)」と呼ばれた。元々は源雅信(920-993)が造った邸だったが、雅信の死後、娘の倫子と結婚した藤原道長が継承した。多くの邸を持っていたが、ここが道長の本邸であり、一族栄華の舞台になった所です。。道長の姉である詮子(一条天皇の母)や、長女の彰子(一条天皇の中宮、後一条天皇と後朱雀天皇の母)の御所となる。彰子の妹・嬉子もここで後冷泉天皇を出産、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏(仮御所)ともなった。道長の栄華を示す和歌「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」はこの屋敷で詠われた。また道長に召し出されて彰子に仕えた紫式部は、その宮仕えの様子を「紫式部日記」に描写している。
こうして華やかな歴史を刻んだ土御門第だったが、鎌倉時代の吉田兼好「徒然草」には廃墟になり荒廃したようすが記されているという。
(説明書きの駒札がかすれて読めない、デジタル拡大しても判読しがたい。環境省さん、松の手入れも大切だが駒札も読みやすくしてくれ)

土御門第跡の前を仙洞・大宮御所の塀に沿って東へ行くと「清和院御門」がある。清和天皇が譲位後に「清和院」と称し、近くに住んだことからの名称です。門を出てすぐに左に、紫式部が住んでいた蘆山寺があります。紫式部は蘆山寺から清和院御門を通って土御門第へ宮仕えしていたのです(当時門はあったのかな?)

大宮御所の北側、京都御所の建春門東側の広地に「学習院跡」の立札が置かれている。江戸時代末期に、公家をはじめ御所に務める役人のための教育機関として開設されたもの。一時、諸藩の陳情や建白を受け付ける窓口としたことから、尊皇攘夷派の公家や志士の活動拠点とされたが、八月十八日の政変以降、本来の教育機関に戻る。天皇や公家が東京に移るとともに京都の学習院は廃止されたが、東京に再設立されている。


学習院跡には珍しい「桜松」が生育している。
左上の写真を見れば、松の樹上に桜が咲いている。これ自体が驚きだ。桜は、松の空洞を通り土に根を張っていたのです。育ての親松は倒れても、子桜は元気に成長し、春には美しい花を見せてくれます。

学習院跡北側の広地は、公家の橋本家の邸宅跡のようです。探したが立札など見つけられなかった。
橋本家は藤原北家の流れをくみ、鎌倉時代末期に西園寺実俊を祖として創設された公家。この橋本家で有名なのが、幕末の時代の波に翻弄された和宮(かずのみや、1846-1877)。
和宮の母・橋本経子は仁孝天皇の側室だった。和宮は仁孝天皇の第八皇女として生まれ、孝明天皇の異母妹にあたる。ここ橋本家で14年間養育され、嘉永4年(1851)には、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約している。和宮は6歳、有栖川宮は17歳だった。
嘉永6年(1853)6月ペリーの浦賀来航から政局は激しく動く。開国をめぐって幕府と朝廷は対立し緊張関係になります。この緊張関係を収拾させようとして考え出されたのが公武合体策。具体的には、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に降嫁させようというもの。紆余曲折を経て、嫌がる和宮を説得し、万延元年(1860))にようやく内諾を得る。
文久元年(1861)10月、和宮(15歳)は内親王の宣下を受け、江戸の14代将軍・徳川家茂のもとに正室として降嫁していく。翌2月、和宮と家茂の婚儀が行われた。慶応2年(1866)7月、家茂没後、落飾して「静寛院」と称す。
慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると、かっての婚約者だった熾仁親王が東征大総督になり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城攻撃の中止を懇願し、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。32歳で亡くなり、芝・増上寺に夫ともに葬られています。


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京都御所を訪ねて 1(大宮御所・仙洞御所)

2023年10月05日 | 名所巡り

★2023年9月29日(金曜日)
猛暑の夏もようやく過ぎ、出かけたくなる季節がやってきました。最近、明治維新関連の本を読んでいるせいか、京都御所に大変興味が湧いてきた。京都御苑には葵祭、時代祭りで何度か訪れたことがあるのだが、宮内庁管理の京都御所(内裏)は桂離宮、修学院離宮などと同様に面倒な事前予約が必要だと思い敬遠してきたのです。ところがネットを見ていると、京都御所は事前予約なしに見学できるようになった、とあります。こうなったら出かけざるをえない。ついでなので仙洞御所も、と思ったらこちらはまだ事前予約制だった。やむなく4日前にネット予約する。
広い京都御苑内をどういった順路で周るか悩みます。まず午前9時30分予約の仙洞御所を見学する。次に京都御苑の南の門「堺町御門」からスタートし、京都御所を取り巻く京都御苑内を時計回りに一周し、最後に京都御所に入る。こういうコースで歩くことにした。

なお、京都御苑や仙洞御所などを含めた全体を「京都御所」と呼ぶのが一般的なようです。私もそうでした。しかし正しくは天皇の住まいだった「御所」(内裏、禁中、禁裏とも)とそれを取り巻く公家たちの邸があった「御苑」は区別されるようです。管轄も違い、御所は宮内庁が、御苑は環境省が管理している。

 大宮御所・仙洞御所の見学順路図 



1)北門、2)休憩待合所、3)御車寄、4)御常御殿、5)六枚橋、6)阿古瀬淵、7)紀貫之邸宅碑、8)鎮守社、9)土橋、10)石橋、11)雌滝、12)紅葉橋、13)八つ橋、14)雄滝、15)草紙洗石、16)反り橋、17)醒花亭、18)悠然台、19)氷室、20)柿本社、21)又新亭

見学ツアー進路を赤点で示しましたが、少々分かりにくい。番号順に見学、撮影していったので参考にしてください。

 大宮御所  



仙洞御所の外側を、南から北方を眺める。中央に正門が構えるが、閉まっています。

「仙洞(せんとう)」とは、仙人が住む俗世間を離れた清らかな土地という意味から、天皇を退いた上皇が住む場所をさします。仙洞御所は「後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7年(1630)に完成した。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏にように一定の場所にあったわけでもなく、また必ず置かれたわけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東南に定まった」(受付でのパンフより)。その後、何度か焼失するが、その都度再建されてきた。ところが嘉永7元年(1854)の大火で京都御所とともに焼失すると、その時たまたま上皇がいなかったので再建されないまま現在に至る。今は二つの茶室と、庭園のみが残されています。仙洞御所を取り囲む五筋の紋の入った築地塀は、安政2年(1855)に京都御所とともに再現されたもの。

北側に回ると北門があり、出発時間の30分前に開けられ、ここから入る。門脇に二人の皇宮警察官が立ち、ハガキやメールなどの見学確認書をチェックする。荷物検査は特にありませんでした。門をくぐると三人目の皇宮警察官が見張っており、少し緊張感が湧いてきた。白テントは受付でなく、案内用のものかと思われます。

右側にある建物が、受付と待合場所になっている。

京都仙洞御所(大宮御所も含む)は、京都御所のような自由な一般公開はされていない。事前予約制の無料見学ツアーに申し込みする必要がある。無料見学ツアーは1日に4回(午前 9時30分、11時00分、午後 1時30分、3時30分)で、しかも定員(20名?)がある。予約は往復はがき、インターネット、当日予約の3つの方法があります。当日予約は午後のみで、当日の参観を希望される方は午前11時から仙洞御所北入り口前に並んで、先着順で10名まで入ることができます。
私は4日前にインターネットで申し込みました。カレンダーが表示され、予約可能日が示され、予約時間を選択します。29日は<午前:9時30分>しか空きがありませんでした。・氏名・住所・電話番号・メールアドレス・参加人数などを入力します。2日後に見学許可のメールが届いた。このメールを印刷して当日に受付に提出する。印刷できない人はメールに記載されている許可番号を知らせます。返信はがき、確認メールの着信などを考えると、最低4日程前までに予約する必要があるようです。

待合場所です。自動販売機あり、また見学ツアーは1時間ほどかかるので、ここでトイレをすましておくこと。ここ以外にトイレはありません。
ツアーコースにそったビデオ映像が流されているので、事前知識を持っておくのもよい。20分ほどの映像が終わり、9時半になると、ガイドさんが現れ「それでは参りましょう」となる。

総勢15名ほどがガイドさんに先導され、大宮御所へ入って行く。最後尾には、皇宮警察官が目立たないようについてくる。コースからはみ出さないように、グループから外れないように見張っているようです。現在でも、天皇、皇后の京都府への行幸の際の宿泊に使用されているようなので、監視が厳しいのでしょう。

日英二ケ国語で案内されるガイドさんは小型スピーカーを腰に付けておられるので、少し離れていてもよく聴こえます。

大宮御所の玄関になる「御車寄(みくるまよせ)」で、奥の御常御殿と棟続きになっている。銅板葺の屋根が三層重なっており、雁が飛んでいるようでカッコいい。
「大宮」とは皇太后、太皇太后の敬称で、現在の「大宮御所」は慶応3年(1867)に、孝明天皇の女御・英照皇太后の御所として女院御所の跡に造営された。明治5年(1872)に英照皇太后が東京に移ったことから多くの建物は撤去され、常御殿、御車寄、付属舎だけが残る。

潜り戸を抜け、大宮御所の御常御殿の南庭に入る。白砂が敷かれた南庭には、御殿前の右に白梅、左に紅梅が、背後に竹が、周辺に松が配され、「松竹梅の庭」と呼ばれています。

慶応3年(1867)に造営された御常御殿(おつねごてん)は大正年間に洋風に改められた。周りはかつて遣戸だったがガラス戸に代わり、内部は絨毯が敷かれ、ソファ、テーブルなどの洋風調度品が置かれているそうです。これは現在でも天皇、皇后、皇太子、および皇太子妃の行幸の際の宿泊に使用されているからでしょう。
上皇(平成天皇)ご夫妻が今年(2023年)の5月15日の葵祭を御観覧の予定だったが、あいにく雨天順延となってしまった。そこでここ御常御殿で過ごされたそうです。

 仙洞御所 1(北池周辺)  



土塀の潜り門を抜けると、池を中心とした雄大な仙洞御所の庭園が開けてくる。広大な庭園ですが、ガイドさんがベストなコースを選択して案内してくださいます。かってにコースやグループから外れ、単独行動はできません。後ろには皇宮警察官が見張っていますよ。
以下の紹介はコース順に記述していますので、空中写真の地名、番号を参考にイメージしてください。

目の前に広がるのは「北池」と呼ばれている。もともとは大宮御所の庭園として造られたが、延享4年(1747)に掘割で南池とつなげられ仙洞御所の庭園となった。
仙洞御所の庭園は、幕府の作事奉行・小堀遠州が寛永13年(1636)に作庭した池泉回遊式庭園です。遠くにかすかに東山がのぞく。かって東山の峰が借景にして採られていたが、現在は樹木が大きくなり目立たなくなっている。

北池に沿って左(北側)へ歩くと六枚の切り石二列の「六枚橋」が架かる。橋の左手の入江は「阿古瀬淵(あこせがふち)」と呼ばれています。
橋を渡った先に、明治8年(1875)に建立された紀貫之の邸宅跡を示す石碑が建っている。この辺りに「古今和歌集」を編纂した平安時代初期の歌人・紀貫之の邸があったと伝わっています。入江の名の「阿古瀬」とは、紀貫之の幼名「阿古久曾(あこくそ)」にちなんだものだたいわれている。

北池の北側の散策路。京都の寺院などの多くは、回遊式庭園といっても建物内から眺めるだけのものが多い。仙洞御所の庭園は、建物が無いこともあるが、広い園内を回遊して楽しめる庭園です。しかもガイドさんの案内付きで、しかも無料で(税金?)。

左手の土堤上に紅い鎮守社が見える。伊勢神宮、下賀茂神社、上賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社を祀っているそうです。

北池の南側を眺めると、中央に掘割があり、南池とつなげられている。掘割の右が紅葉山、左が鷺の森です。

北池の東側に回り込と、やや反り気味でテスリ付きの土橋がある。かって長さ5mの橋を1本の橋脚で支えていたが、危険なので現在は2本になっている。さらに行くと石橋がある。幅が狭くテスリも無いので、写真に夢中になっていると落っこちそうになる。

この辺り、北池の南東隅で入江が入り組んでいる。樹木と池を見ながら曲路を気持ちよく散策できます。「雌滝(めたき)」と呼ばれている小さな滝があります。ガイドさんに紹介されなければ、ただの水の流れだと見逃してしまいそうです。

鷺の森に入り、北池を眺める。

反対側の南方向を眺めると、これから周回する南池が広がる。中央に見えるのが藤棚に覆われた「八つ橋」。

鷺の森の先に「紅葉橋」が架かる。土橋で、丸竹のテスリが付く。これは北池と南池をつなぐため間を割って造られた掘割にかけらてた橋。舟遊びで両池を往来するために運河を造ったのでしょう。

紅葉橋の遠景。橋の右が鷺の森で、左が紅葉山。名前から想像すると、紅葉シーズンには素晴らしい景観となることでしょう。ついガイドさんに「紅葉時期も無料ですか?」と尋ねてしまった。「仙洞御所はいつでも無料ですヨ」とのご返事(宮内庁管理の皇室財産なので税金?)

 仙洞御所 2(南池周辺)  



南池西岸を少し下ると、藤棚に覆われた橋がある。南池を横断し、池の中央にある中島へつながる。元は木造橋だったが、明治時代中頃に八枚の御影石を稲妻形につないだ石橋に架け替えられた。そのため「八つ橋」と呼ぶ。4本の藤もその時植えられ、西半分は下り藤、東半分が上がり藤だそうです。

八つ橋から池の北東を見ると、自然石と切り石を組んだ護岸をもつ出島がある。左の写真は、出島の左端を拡大したもの。高さ2mほどの滝から水が落下している。北池の雌滝に対して「雄滝(おだき)」と呼ぶ。滝の右前方にある大きい平石は「草紙洗(そうしあらい)の石」と呼ばれ,六歌仙の小野小町と大友黒主が、歌合わせで対峙した逸話を題材にした謡曲「草紙洗小町」にちなんだ石だそうです。

八つ橋から南を見ればさらに南池が広がっている。西岸は小石を敷き詰めた州浜がのび、左には中島が見えます。
中島にはかって釣り殿があったが、今は礎石だけが残されている。丸く平たい笠で三本足の雪見燈籠は、黄門さんこと水戸光圀の献上によるものだそうです。





中島から反り橋を渡り対岸へ。周辺の景観に見とれていると、この橋でも落っこちそう。


南池の南端には小さな「葭島(よしじま)」が浮かぶ。かって島の周囲に葦(葭)が生えていたことからくる名称。
池に沿った散策路にはカエデの木が多く、紅葉に彩られた絶景が眼に浮かんできます。

南池の南にでると西岸一帯に、平べったくて丸い小石をびっしりと敷き詰めた「州浜」が広がる。池の中にまで敷き詰められ、石の数はなんと約12万個。小田原藩主・大久保忠真が領民に集めさせ光格天皇に献上した。石1個につき米1升と交換したことから「一升石」と呼ばれている。一個一個真綿で包み、船で大阪から京都に運んだという。

州浜に沿った道は「桜の馬場」と呼ばれ、桜並木となっていた。ガイドさんによると、台風で倒され、今は6本しか残っていないそうです。

 仙洞御所 3(醒花亭・又新亭)  



南池の南端に、池を一望できるように北面して茶室「醒花亭(せいかてい)」が建つ。数度の火災にあい、現在のものは江戸時代後期、1808年に後桜町天皇により再建されたもの。仙洞御所内でもっとも古い建物になる。柿葺き平屋の数奇屋造の建物で、腰高障子がはまる。醒花亭の「醒花」は李白の詩から取られたもので,室内東側の鴨居の上に拓本の額として掲げられている。額の字は中国明の時代の郭子章の筆である。
また茶室東側の小高い丘の上に「悠然台(ゆうぜんだい)」という物見台が置かれていた。仙洞御所で最も高い場所で、観月や祇園祭の山鉾巡行を眺めたそうです。


茶室の前には手水鉢と加藤清正の献上品と言われている朝鮮灯籠がある。手水鉢にはひび割れを防ぐため小石が敷き詰められているが、天皇行幸のおりには除かれ、清水が満たされるそうです。



醒花亭斜め前の小高い土盛は、殻を伏せたサザエに似ていることから「さざえ山」と呼ばれている。頂上には石垣で囲われた遺構が残され、7世紀の古墳跡のようです。




さざえ山とは道を挟んだ西側に緑の植え込みが見られる。これは深さ4m、長さ7m、幅4mの地下構造物で、「お冷やし」と呼ばれる氷室です。洛北の氷室より運び込まれた氷を夏場に貯蔵し、氷水、食物の冷蔵などに使っていた。
ガイドさんの案内が無いので尋ねると、覗き込んで落っこちる方がいるので紹介していないそうです。



真っすぐ北へ進むと赤垣で囲まれた小さな社がある。万葉の歌人・柿本人麻呂を祀っている「柿本社(かきのもとのやしろ)」です。火災が頻発したことから、零元上皇(1654-1732)が「人麻呂(ひとまろ)」は「火止まる」につうじるとして勧請したという。



州浜沿いの苑路に戻り、北へ向かう。手前の小石が原、エメラルドグリーンの南池、奥の緑の森、葭島が浮かび左には中島が見える。紅葉に彩られたらどんな風景になるんだろう。池は、紅葉の映りがよくなるように浅くしているそうです。

北方を眺めれば、藤に覆われた八つ橋を手前に、奥に紅葉橋と左の紅葉山、さらにその左が蘇鉄が植えられ燈籠が立てられている蘇鉄山です。

この写真の左には樹木が茂る広々とした林がある。このなかにかって仙洞御所の殿舎が池に面して建ち並んでいとという。それらの殿舎は整理され、現在は1棟も残されていない。

仙洞御所への入口近くまで戻ってきました。そこには四つ目垣で囲まれ茶室「又新亭(ゆうしんてい)」が佇んでいる。明治17年(1884年)、近衛家(今出川御門)の寄進により、その邸宅より移されたもの。茅葺と柿葺の屋根をもち、大きな丸窓に半切れの竹桟が特色です。名は裏千家宗旦の「又隠(ゆういん)の席」に因る。
茶室の南離れには「待合御腰掛」があり、ここから蘇鉄山、紅葉山を観覧できるようになっている。

茶室真ん前の池岸には船着き場が設けられている。ここから舟遊びにでかけ北池から南池へと優雅なひと時を過ごしたのでしょう。中島に釣殿があったことからすると、釣りも楽しまれたことと思う。


約1時間の見学でした。緑と池に囲まれ清々しい広い庭園を案内付きで回遊できるなんて素晴らしい。しかも無料で。紅葉シーズンならなお感動が得られることでしょう。


お疲れさま、と皇宮警察官が北門を開けてくれます。



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嵯峨・嵐山 散歩 4

2021年03月24日 | 名所巡り

「嵯峨・嵐山 散歩」の最終回は、亀山公園、野宮神社、長慶天皇陵、車折神社です。

 亀山公園  



宝厳院を出て南へ歩くとすぐ大堰川(保津川)に突き当たる。川岸を上流方向へ少し歩くと亀山公園の入り口です。傍が「保津川下り」の船着き場だ。

通常「亀山公園」と呼ばれているが、正式には京都府立「嵐山公園 亀山地区」。天龍寺を含めこの地域一帯は、かって後嵯峨天皇が造った離宮・亀山殿の跡地です。小倉百人一首で有名な小倉山の南側の丘陵で、その地形が亀に似ていることから「亀山」と呼ばれるようになったという。
紅葉で色づく丘陵が亀山公園、その後ろの台形の山が小倉山、さらにその後方にそびえるのが愛宕山だ。

階段を上るとすぐ右に「周恩来総理記念詩」碑が建つ。後に中華人民共和国の国務院総理となる周恩来は、若かりし時、京都大学の聴講生となり学び、帰国を前にし嵐山を訪れた(1919年4月)。その時に詠んだ「雨中嵐山」の詩を刻んだ石碑です。1978年に日中平和友好条約の調印がなされ、それを記念して翌年に建立されたもの。

この広い道を進んでゆけば竹林の小径へ。公園は左側の丘陵上に広がり、散策路が設けられている。この時期、紅葉で彩られているが、亀山公園が最も華やかなのは桜の季節。この辺りは桜並木になり、多くの人で賑わいます。

亀山公園のある小倉山には小倉百人一首を撰集した藤原定家の「時雨亭」跡がある。そこから亀山公園内には百人一首の歌碑が多く設置されています。さらに興味ある人は、宝厳院の南沿いにある小倉百人一首資料館「時雨殿」へ。



広い道から左を見上げると、階段の先に銅像が建つ。大堰川(保津川)や高瀬川を開削した角倉了以の銅像で、三条京阪の高山彦九郎像、円山公園の坂本龍馬像と並んで「京都三大銅像」となっている。「現在の像は2代目で、1代目の像は大正元年に建立され、戦時中の資材供出で撤去された。現在の像は1988年に地元の有志が設置したものである」(Wikipediaより)。

さらに50mほど先の左側に、ふっくらした女性の像が見える。津崎村岡局(1786-1873)といい、尊王攘夷派の公家や西郷隆盛らを助けた幕末維新の女傑だそうです。詳しくは説明版を。

津崎村岡局銅像の左側の森を見ると、宮内庁の立板と柵があり「立入禁止」となっているので、宮内庁の管理地のようです。陵墓を簡素化した造りで、よく見かける構えだ。ここが後嵯峨天皇・亀山天皇の火葬塚なのです。

第88代後嵯峨天皇、第90代亀山天皇はそれぞれ離宮・亀山殿で亡くなり裏山で火葬され、遺骨は亀山殿内に設けられた浄金剛院法華堂に納められたと伝わる。幕末の「文久の修陵」時に、この辺りを火葬場所だと推認し火葬塚が造営された。皇統の対立していた後深草天皇の孫・第93代後伏見天皇(持明院統)の火葬塚もある。「嵯峨野で火葬された」と記録されているので、この場所にもってきたのでしょう。

不敬だと叱責されるかもしれないが、ここで天皇の葬法について調べてみました。
古代ではまだ火葬という考えはなく、一般的な葬法は風葬か土葬だった。天皇についても巨大な前方後円墳で知られるように、遺体をそのまま棺に入れ埋葬した土葬でした。ところが伝来した仏教の影響を受け7世紀末頃から荼毘にふす、すなわち火葬が行われるようになる。天皇で最初に火葬されたのは女帝・第41代持統天皇(645-702、在位:690-697)。崩御すると大宝3年(703)に、遺言にもとづき火葬され夫の天武天皇と同じ八角形墳「檜隈大内陵」(明日香村、野口王墓古墳)に合葬された。夫の木棺(土葬)の横に焼骨を入れた銀製骨壺が並んで置かれたのです。不幸なことに鎌倉時代に大規模な盗掘にあい、銀製骨壺は持ち出され、中の焼骨だけが路上に捨てられていた、という記録が残されている。
その後、三代の天皇が火葬されたが、奈良時代の45代聖武天皇(701-756)から土葬に戻された。しばらく土葬が続いたが53代淳和天皇(786-840)は薄葬の考えから遺言を残し、「多くの民を煩わしてはならない」と荼毘のあとに焼骨を砕き大原野に散骨し、陵墓の造営も禁じたという。平安時代の後半になると火葬が多くなる。これは天皇が在位のまま崩ずれば土葬,譲位して上皇になってから崩じれば火葬が通例となり、多くは生前譲位し上皇となったからです。
鎌倉時代は土葬と火葬が入り混じるが、南北朝合一(1392年)となった100代後小松天皇(1377-1433)からは火葬が通例となり、江戸初期の107代後陽成天皇(1571-1617)まで続く。後陽成天皇は火葬された最後の天皇ということになった。
後陽成天皇の次に亡くなったのが110代後光明天皇(1633-1654)。承応3年(1654)、葬儀がそれまでの慣例に従い火葬のうえ納骨されようとした。ところが後光明天皇は儒学に傾倒し、仏教を「無用の学」と呼ぶほど大の仏教嫌いでした。その上、御所に出入りしていた魚屋「奥八兵衛」が、こんな仏教嫌いの天皇を仏教式に火葬するのはいけないと号泣しながら訴えたといわれる。その結果土葬され、これ以来天皇の土葬が現代の昭和天皇まで続いている。

南北朝時代中頃から泉涌寺(京都市東山区)で天皇の火葬が行われ、遺骨は別の場所に埋葬されていた。ところが110代後光明天皇、108代後水尾天皇(1596~1680)と泉涌寺で仏式(火葬方式)の葬儀が行われ、そのままそこに埋葬(土葬)され石塔が建てられた。このやり方が幕末まで続き、13人の天皇が泉涌寺の[月輪陵]にお眠りになっている。
幕末になると、土葬方式はそのままだが天皇のお墓についても変化が生じてくる。尊皇思想の高揚から復古神道が台頭し仏教の影響を排除しようという動きです。江戸時代最後の天皇・121代孝明天皇は石塔式の月輪陵ではなく、泉涌寺の裏山に円丘墳「後月輪東山陵」が造営され埋葬された。しかし神仏分離令以前だったので、葬式は仏式で行われた。次の122代明治天皇の葬儀になると仏式は排され完全に神式で行われた。そして古代の天皇陵を想起させるような巨大な円墳(伏見桃山陵)が築かれたのです。この流れは大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)と続く。
ところが江戸初期以来長く続いた「天皇の土葬」が大きく変わろうとしています。詳しくは宮内庁のココココを参照。
参考までに宮内庁の発表によれば、神武から昭和天皇に至るまでの124人の天皇のうち火葬になったのは約3分の1だという。そして持統天皇以降では、88人の天皇中46人が火葬で、半分を占めている。

起伏に富んだ園内はこの時期、紅葉が見頃で楽しめる。しかし桜と紅葉のシーズン以外はあまり人影を見かけない。花壇や遊戯施設があるわけでもなく、高台にあるのだが樹木に遮られ見晴らしもよくない。周辺が住宅地なら散歩やウォーキングする人もいるだろうが、観光地だけにそういう人もいない。見どころの多いい嵯峨・嵐山にあってこの公園まで足を運ぶ観光客は少ないようです。竹林の小径や大堰川河岸もすぐ近くなので、人波から解放され一服するなら最適の場所です。



園内が展望が良くないからなのか、より高所に展望台が特別に設けられている。園内を西方向へ横切っていくと、階段が見えてくる。標識に「頂上展望台まで160m」とあるようにかなりの段数があります。






階段を登りきると、柵で囲まれた展望台が設置されている。眼下に保津川渓谷が見渡せ、対岸には午前中に訪れた大悲閣(千光寺)のお堂が見えます。大悲閣と同じくらいの高さでしょうか。これで両岸から保津川(保津峡)を見下ろしたことになる。大悲閣で見てしまった景観なので、あまり感動はありませんでした。展望できるのはこの角度だけで、京都市内、渡月橋など別の方向は見えません。せめてトロッコ列車だけでも、と期待したが通ってくれませんでした。



真下を見下ろすと保津川下りの舟が。石を投げれば届きそうな距離です。

さらに奥に別の展望台があるようだ。100mほど行くと同じような展望台が設置されている。

眺めはさっきの展望台と同じで、少しだけ大悲閣が近くに見えるだけ。コットンコットンと音がしてきました。トロッコ列車が通るようです。身を乗り出しカメラを構えたが、線路わきの樹木のためか見えず肩透かしをくらう。

かってこの保津峡の渓谷に沿って国鉄・山陰線が走っていた。平成元年(1989)、その山陰線(現在の嵯峨野線)は輸送力改善のため小倉山の下をトンネルで通過するようになる。保津峡沿いの旧線は廃線となって放置されていた。しかし保津峡の美しい景観を楽しめる旧線を活用しようと嵯峨野観光鉄道が設立され、トロッコ列車が嵐山~亀岡の間で運行されるようになったのです。今では「保津川下り」と並んで嵐山観光の定番として人気となっています。

 野宮神社(ののみや)  




嵯峨野のシンボル「竹林の小径」、観光客は盛時の3分の1以下だ。この小径を下っていくと天龍寺の北門に出くわす。北門は曹源池庭園の出口になっているが、ここから入ることもできます。当然見えている受付所で500円の「庭園参拝券」を購入してからですが。


北門を過ぎても周辺一帯に竹林が広がる。竹林で覆われやや薄暗い環境の中に野宮神社(ののみや)が鎮座する。この辺りは竹林と縁結びで有名な野宮神社が存在するので嵯峨・嵐山でも特に観光客の多い所。特に若い女性が目立ち、おじさんがウロウロするのは気が引ける場所でした。盛時の混雑を知っているだけに、現在の観光客の数は寂しく感じます。
境内の入り口に「黒木(くらき)の鳥居」が建ち、その両袖には小柴垣が並ぶ。黒木鳥居は日本最古の鳥居形式で、樹皮を付けたままのクヌギの木でできている、とあったので触ってみた。合成樹脂のようで生木とは感じなかったが、説明版を読み納得した。原木に防腐加工が施されているそうです。

天皇が代替わりすると、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王(未婚の皇女)が伊勢に赴く前に身を清める場所が「野宮」。この「野宮」の地は天皇の代替わりごとに毎回替わっていたが、嵯峨野の清らかな場所から選ばれ造営されていた。嵯峨天皇(786-842)の代から現在の野宮神社の地が野宮に選ばれるようになる。斎王制度は南北朝時代、14世紀前半の後醍醐天皇(1288-1339)の代を最後に廃絶した。その後は天照大神を祀る神社として存続していたが、度重なる戦乱の中で衰退していった。その後、後奈良天皇(1496-1557)、中御門天皇(1701-1737)などから大覚寺宮に綸旨が下され当社の保護に努められ再興されていった。近年では、1980年(昭和55年)に浩宮徳仁親王殿下、1994年(平成6年)には秋篠宮文仁親王殿下並びに同妃殿下が御参拝されるなどし、皇室からの厚い崇敬を受けているそうです。

黒木鳥居から境内に入ります。境内といってもとても狭く、2分もあれば周りきれてしまう。ここに若い女性が集中するので、おじさんが入れる余裕はなかった。でも現在は違いなす。ソーシャルディスタンスもしっかりとれ、余裕で周れます。
入ると正面に野宮大神(天照大神)を祀る本殿がある。神社本殿といえばいかめしく格式ばった姿を思い浮かべるが、ここの本殿は質素な造りで、どこかしら愛着がわく。健康と知恵授けにご利益があるということなので、二拝二拍手一礼。



野宮大黒天はえんむすび・良縁結婚の神様ということなので、パス。
傍に「神石(亀石)」が置かれている。よくみかける”撫でもの”で、ここでは亀です。祈りを込めてなでると願いごと達成です。きっちりと消毒液も置かれていました。


亀の横に水を貯めた桶が置かれている。「禊祓清浄御祈願(みそぎばらいせいじょうごきがん)」とあります。迷惑行為、悪運、悪縁など祓いたいことや清めたいことを御祈祷用紙に記入し、コインを乗せ浮かべます。紙が沈み文字が消えていくと願いが叶うとされています。用紙はお札受所で1枚300円で手に入れる。祓いたいことはいっぱいあるのだが、沈んだコインがどうなるのか気になったのでパス。







今度は本殿から右側方向へ行きます。昭和55年(1980)に浩宮徳仁親王殿下、平成6年(1996)には秋篠宮文仁親王殿下並びに同妃殿下が御参拝されたという。亀は摩られたのでしょうか?、縁結び・恋愛成就をお祈り・・・、それとも子宝安産を。

良縁にも、子宝安産にも縁のない私は、野宮神社で唯一心惹かれるのはこの小さな苔庭。見つめているだけで禊祓清浄されてきます。みずみずしい斎王のイメージも浮かんでくる。

境内あちこちにお願い事を書いた絵馬がたくさん掛けられている。ほとんどが恋と愛と縁。絵馬は社務所で千円で購入する。上の写真は恋愛成就の奉納木(ほうのうぎ)。こちらは安く、授与所で200円。

 長慶天皇陵  



長慶天皇陵は嵯峨・嵐山の東側で、観光地からは少し外れている。JR嵯峨野線「さがあらしやま駅」前の道を真っすぐ南下し大堰川に向かう。その中ほどに入り口がみえます。「長慶天皇陵参道」の標識が建ち、周辺の閑静な住宅地とは異なった厳めしい雰囲気を漂わすのですぐわかる。

土手と生垣で囲まれた参道を進むと左側に陵墓が見えてくる。ここには長慶天皇と息子の承朝王の墓がが並んでいます。

南北朝時代の第98代長慶天皇(ちょうけい天皇、1343-1394、在位16年:1368-1383)は、南朝では後醍醐天皇,後村上天皇に続いて三代目の天皇とされる。後村上天皇の第一皇子で、後醍醐天皇の孫にあたる。名は寛成(ゆたなり)。
応安元年(1368年)父・後村上天皇の死去により26歳で天皇を継いだとされる。行宮(あんぐう)を摂津の住吉(大阪市住吉区)にし、同母弟の煕成親王(後の南朝第4代後亀山天皇)を皇太弟にした。しかし当時、南朝は弱体化し追い込まれており、行宮は天野山金剛寺(大阪府河内長野市)、吉野山、大和栄山寺(奈良県五條市)へと転々としていた。長慶天皇は北朝に強硬姿勢を示していたが、内部で和平派が台頭してきており、ついに穏健な弟に譲位した。これが南朝第4代後亀山天皇で、明徳3年(1392)に北朝の後小松天皇に「三種の神器」を渡し南北朝合一がなり、60年にわたった南北朝時代は終わる。

長慶天皇は譲位後2年程は院政を敷いていたが、その後は落飾し法名覚理と号し禅宗に帰依、長慶院また慶寿院とも称した。
南北朝時代の戦乱期で、しかも長慶天皇は足利幕府の攻撃を受け各地を転々としたため史料が少なく、長慶天皇については不明な点が多い。晩年をどこで過ごし、いつ亡くなったか、確定的なことは分からない。「大乗院日記目録」の応永元年(1394)8月1日条に「大覚寺法皇崩ず、五十二、長慶院と号す」という記載があり、これによって応永元年8月没、享年52歳とされている。

不明な点は天皇に即位したかどうかにもある。衰退した南朝側は財政も逼迫し即位の儀礼も行われた形跡がない。そのため天皇の在位をめぐって江戸時代以降に即位説(徳川光圀「大日本史」)と不即位説(新井白石「読史余論」、塙保己一)があり議論が続いた。幕末の「文久の修陵」を主導した谷森善臣は不即位説にたっていたので、その時は取り上げられなかった。議論は明治に持ち越された。

天皇主権国家を樹立した明治政府にとって、大日本帝國憲法(明治憲法)第一条「大日本帝國ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるように「万世一系」を確定さすことが急務だった。南北朝時代の扱いについて、江戸時代までは北朝こそが正統とされ、南朝は後醍醐天皇を除いて親王扱いだった。明治44年(1911)明治天皇は、皇位の象徴である三種の神器を保持していた南朝を正統とする勅裁を下す。それまで正式の天皇とされていた北朝の歴代天皇に代わって、南朝の第2代後村上天皇は第97代、南朝第4代後亀山天皇は第99代の正式な天皇に認定されたのです。北朝については「南朝が正統であるが、北朝の天皇も歴代以外の天皇」扱いとした。ところが南朝第3代だった後村上天皇の皇子・寛成親王(長慶天皇)については即位が不明とされ在位認定されなかったのです。

長慶天皇の在位論争を決定づけたのは大正時代になってからでした。八代国治「長慶天皇御即位の研究」や武田祐吉による古写本『耕雲千首』奥書の発見で在位が確定的となったのです。これを受け宮内省は大正15年(1926)皇統加列の詔書を発布し、長慶天皇を正式に第98代天皇として公認した。

天皇として認められると、次の課題はお墓はどこかということです。天皇制国家においては非常に重要なことなのです。ところが長慶天皇については在位だけでなく、晩年の状況を示す記録がほとんど残っていない。
昭和10年(1935)6月,宮内大臣に諮問機関として長慶天皇陵を決定するための臨時陵墓調査委員会が設置され、調査が行われた。長慶天皇は譲位した後は、戦況不利なため南朝勢への協力を求めて全国各地を巡っていたので、北は青森県から南は福岡県まで全国各地に「長慶天皇墓」と称する御陵伝説地が生まれていた。候補地は70を超えていたといわれる。6年近くかけて調査が行われたが、決め手となる根拠が見つからず、確定するには至らなかった。

昭和16年(1941)9月に委員会の答申がだされた。長慶天皇陵をあえて決定するのであれば、長慶天皇の晩年の事情から、現在の陵墓となっている嵯峨の慶寿院(けいじゅいん)址が「最も妥当である」とされたのです。「皇子などの近親者が晩年は地方を引き上げて入洛していることから、天皇も晩年は入洛したことが推定される。また、別称の慶寿院は皇子の海門承朝(相国寺30世)が止住した天竜寺の塔頭慶寿院に因むものであるから、天皇は晩年を当院で過ごし(当時天皇はその在所によって呼ばれた)、崩後はその供養所であったと思われる。したがって、慶寿院の跡地が天皇にとって最も由緒深い所と考えられた。」(Wikipediaより)
あくまで推定で、結局一番ゆかりの深いこの地を選ぶしかなかった。慶寿院跡を整備してひとまず「下嵯峨陵墓参考地」に指定した。この段階ではまだ参考地なのです。

その後の調査でも葬地はなお判明せず、結局臨時陵墓調査委員会は昭和19年(1944)2月11日紀元節の日に下嵯峨陵墓参考地を長慶天皇陵として正式に決定し、陵名を「嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)」とした。宮内庁の公式陵形は「円丘」となっている。同時に陵域内に海門承朝の墓も治定された。

南隣に「長慶天皇皇子承朝王墓」が並ぶ。海門承朝(かいもんじょうちょう、1374以前 -1443)は長慶天皇の皇子として生まれた。南北朝合一後に落飾して臨済宗夢窓派の僧となり、相国寺住寺や南禅寺住寺などを歴任した。父・長慶天皇の没後、父の菩提のためにここに慶寿院を建立した、といわれる。

どこの天皇陵も広大でよく整備され、手入れがよく行き届いている。いつも思うのだが、宮内庁予算ってすごいんだナァ、って。ここは埋葬地かどうか不確かなのでなおさらだ。

 車折神社(くるまざきじんじゃ)  



長慶天皇陵を出て、南へ向かって歩くと大堰川沿いに三条通りが通っている。三条通りを東に向かって20分ほど、京都バス・市バスのバス停「車折神社前」を目印に歩く。バス停近くの右側に「車折神社」と刻まれた社号柱と朱の灯篭が建っているのですぐわかる。住所は京都市右京区嵯峨朝日町。

(境内図は公式サイトより)(1)本殿、(2)八百万神社、(3)表参道入口、(4)神門、(5)駐車場、(6)河津桜、(7)表参道、(8)芸能神社、(10)大鳥居、(11)溪仙桜、(12)本殿入口、(13)社務所(授与所)、(14)本殿前、(15)春光舎(儀式殿)、(16)清めの社、(17)裏参道入口、(18)嵐電・車折神社駅、(19)古いお守り・扇子、(20)清少納言社、(21)弁天神社、(22)三条通側入口、(23)大国主神社

車折神社の由緒について公式サイトに「ご祭神・清原頼業公は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の御子孫にあたり、一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘、清少納言らの名も見られます。頼業公は大外記の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、晩年には九条兼実から政治の諮問にあずかり、兼実から「その才、神というべく尊ぶべし」と称えられた程です。頼業公は平安時代末期の1189年(文治5年)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、廟が設けられました。やがて頼業公の法名「宝寿院殿」に因み、「宝寿院」という寺が営まれました。この寺は室町時代に至り、足利尊氏によって嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となりました。また、頼業公は生前、殊に桜を愛でられたのでその廟には多くの桜が植えられ、建立当初より「桜の宮」と呼ばれていましたが、後嵯峨天皇が嵐山の大堰川に御遊幸の砌、この社前において牛車の轅(ながえ)が折れたので、「車折大明神」の御神号を賜り、「正一位」を贈られました。これ以後、当社を「車折神社」と称することになりました。」とあります。
近世は荒廃していたが明治21年から明治26年まで車折神社の宮司を任めた日本画家・富岡鉄斎(1836-1924)によって復興された。

三条通りから100mほど入れば表参道の入り口だ。ここから参道は北へ伸び、嵐電の「車折神社駅」まで続き、境内は南北に細長い。この入り口にも社号柱が建っている。社号柱み刻まれている文字は元宮司で近代日本画の巨匠・富岡鉄斎の筆によるもの。50mほど入ると朱色の神門がある。

神門を潜るとすぐ右側に、車折神社を有名にしている境内末社の「芸能神社」がある。ここに祀られているのは、女神で芸能道の祖神である「天宇受売命(あめのうずめのみこと)」。ご由緒は公式サイトによれば「芸能神社は車折神社の境内社の一社で、昭和32年に他の末社より御祭神・天宇受売命を分祀申し上げ創健した神社である。天宇受売命が芸能・芸術の祖神として古来より崇敬される所以は、<神代の昔、天照大御神が弟である素戔鳴尊の行いを逃れ、天の岩戸にお入りになり固く扉を閉ざされたためにこの世が暗闇になった。その時、天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申されたところ、大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した。>という故実にもとづく。」だそうです。

芸能神社の周りには、名前が書かれた朱塗りの玉垣がびっしりと並ぶ。その数4千枚以上だそうです。所々に知っている名前が見受けられる。芸能・タレントに詳しくないのだが、チラッとと見ただけで、宮迫博之、森脇健児、梅沢富美男、横山由依、前田敦子、辺見えみり、辺見マリ、南野陽子、藤原紀香、田中理恵・・・。ここは東映や松竹の撮影所が近く、映画やドラマのロケによく使用されるので役者、歌手などの芸能人がよく参拝するという。長嶋一茂、桧山進次郎、赤星憲広、吉田沙保里のスポーツ系もいるが、どんな芸事を祈願したのでしょうか?。清原和博の名も見えるが、清原頼業の末裔?、それとも人生再起をかけタレントをめざしてか?。
誰でもここに名前を載せることができます。社務所で奉納の申込書に名前とか書いて、奉納料13000円支払えばよいのです。ただし期間は2年間だ。超有名人に挟まれ名前が並ぶかも。


芸能神社の向かいが「清少納言社」。清原頼業公と同族(清原氏)である清少納言を祀る。才女清少納言にあやかり「才色兼備」のご利益を授かる、そうです。より美しく、より聡明になる「才色兼備」お守りも800円で売られています。


芸能神社の先に石鳥居と中門が構え、その奥が本殿だ。ところがここは通れないように塞がれています。神様の前に直進するのは不敬だからとか。参道は石鳥居の手前で右に折れて進むようになっている。

本殿にはご祭神・清原頼業が祀られている。
車折神社のご神徳は、頼業公のご学徳により学業成就・試験合格、さらに清原頼業(かねより)の名に因み、「金寄(かねより)」と掛けて商売繁盛、売掛金回収、金運向上に御利益がある。


本殿のさらに奥にあるのが境内社「八百万(やおよろず)神社」で、あらゆる神々(八百万の神々) が祀られている。津々浦々に座すあらゆる神々の広大な繋がり(ネットワーク)にあやかり、「人脈拡大」のご利益を授かる、そうです。「人脈拡大」お守りは800円で。





参道に戻り北へ歩くと左側に「清めの社」が見える。赤鳥居の間からのぞく円錐形の石が珍妙だ。「裏参道より本殿入口付近に出る石鳥居の脇に境内社・「清めの社」があります。清めの社のご神力(パワー)により、車折神社の境内全体(敷地)は「悪運・悪因縁の浄化」「厄災消除」のご神力が充満しており、全国各地より大勢の方が、厄除け・八方除けのご祈祷を受けに来社されます。また、清めの社の円錐形の立砂は石をモチーフにしており、車折神社が石(パワーストーン:祈念神石)との関わりが深いことを物語っています。」(公式サイトより)

清めの社から北へ進むと嵐電(京福電車)の「車折神社駅」に突き当たる。かって駅周辺も車折神社の境内だったが、1910年に京福電鉄(四条大宮-嵐山)開通の際に境内地を無償提供し車折神社駅を誘致したそうだ。鳥居を出るとすぐプラットホームだ。嵐電(京福電車)に乗って嵐山まで帰ります。この駅には乗車券の販売所も販売機も見当たらない。初めての人は戸惑うでしょう。料金は一律200円で、降車時に払うシステムなのです。

プラットホームから撮った裏参道の入り口。夕方薄暗かったが、時々人とすれ違う。こんな時間に参拝者?と訝ったが、そうでもないようだ。車折神社の参道は、南の三条通りバス停から北の嵐電・車折神社駅まで真っすぐつながっている。地元の人にとっては南北を行き来する便利な通路なのです。

嵐山まで帰ってきました。夕方の5時半、明かりに照らされる嵐山も風情がある。まだ人通りはたえません。

「嵯峨・嵐山 散歩」完

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嵯峨・嵐山 散歩 3

2021年03月11日 | 名所巡り

三回目は、渡月橋・中ノ島公園・大堰川(保津川)・天龍寺・後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵・宝厳院です。

 渡月橋と中ノ島公園  



「嵐山モンキーパークいわたやま」を降りとすぐ渡月橋だ。

大堰川(保津川)に架かる橋長155m、幅12mの渡月橋(とげつきょう)は観光地・嵯峨嵐山の代名詞のようになっており、両岸を結ぶ観光の中心です。「日本百名橋」にも入っている。
ただし、車両も通る2車線の橋なので(京都府道29号の一部)、両側に一段高くした歩道が設けられているとはいえ観光客の多いい時は危険な橋でもあるのです。コロナ禍の現在は安全なのですが。

この橋が最初に架けられたのは平安時代の承和年間(834-848)と伝わる。弘法大師の高弟で法輪寺を再興した僧、道昌(どうしょう、798-875)が大堰川を修築するとともに、「十三まいり」で知られる法輪寺へ参詣する利便のために橋を架けた。これが始まりです。そのため当時「法輪寺橋」と呼ばれ、位置は現在地より100m~200mほど上流だったようです。
鎌倉時代に後嵯峨上皇がこの一帯に離宮・亀山殿(嵯峨殿)を造営すると、橋も庭園の一部として取り込まれた。第90代・亀山天皇(1274-1287)が満月の晩に舟遊びをされたおり、橋の上空の月を眺め「くまなき月の渡るに似たり」と詠われたことから「渡月橋」と呼ばれるようになったという。その後、亀山殿の地に天竜寺が造営されると、朱塗りの渡月橋は天竜寺十景の一つに数えられるようになる。
江戸時代の慶長11年(1606)、角倉了以によって保津川の開削工事が始まり、この時少し下流の現在地に架け替えられという。

渡月橋は何度も焼亡と流失を繰り返してきた。昭和7年(1932)6月、洪水により橋の半分が流出してしまう。二年後の昭和9年(1934)に架け替えられたのが現在の橋です。橋脚、橋床など主要部分は鉄筋コンクリート製だが、周辺の景観との調和を図るため欄干だけが木製(国産のヒノキ)で造られている。欄干の下部分に桁隠しの板が張られている。これも少しでも鉄骨を見えなくする工夫なのでしょう。橋脚の上流側に7本のコンクリート製の杭が設置されている。これは洪水の際の「流木止め」で、橋を守るためのものです。

二年前(2018年)の9月、台風21号が関西を襲い、渡月橋の橋上まで濁流が暴れているテレビ映像を見て衝撃を受けました。その時、東側の欄干が100mほど損壊したのです。嵐山のシンボルだけあって、すぐに修復されましたが。

渡月橋の南側下流沿いの広場が中ノ島公園。正しくは「嵐山公園中ノ島地区」。大堰川本流と用水路として掘られた傍流に囲まれた中洲の島なのです。他に「嵐山公園亀山地区」(亀山公園)、「嵐山公園臨川寺地区」(渡月橋の北側下流沿い)に分かれる。

河原に砂浜を思わせる砂利道、そして松林。山、川、橋が一体となった景観は、窮屈な都会暮らしの身には一時のくつろぎを与えてくれます。ここは、行楽客で賑わう嵐山の最盛期でも、広いので混雑することもない。露店が並び、音楽祭などのイベントもよく行われていたが、今はコロナ自粛によって閑散としています。

こちらは公園の東側で、阪急嵐山線の終点駅からの入り口になる。私はいつも阪急電車を利用するので、ここから嵐山散策が始まります。川沿いの砂利道を歩くもよし、お店の並ぶ左側の畳道を歩くのも楽しい。

ここ中ノ島公園は、私にとり京都で一番好きな場所です。路傍の石に座り、往来する人を観察し、山を眺め川を見つめ、世のことわが身のことを思索する。数年前の夏の早朝、二人の御婦人が近づいてこられたのでゾクッとしました。「朝の礼拝にご一緒しませんか?」って。救いを差し伸べたくなるほどみすぼらしく貧相な姿格好をしていたのでしょう。まだイエス様のご加護を要しないので、丁重にお断りしました。いつの日か必要になったら、ここへ来てしょんぼり佇んでいようと思います。

夕方5時半の渡月橋。ふつうは街灯が立つものだが、この橋には街灯がなく、代わりに足元を照らす低いポール型のLED照明灯60基が車道と歩道の間に設置されている。景観を重視するため高い街灯を避けたのです。

 大堰川(保津川)  



渡月橋の上から大堰川(保津川)の上流方向を眺めたもの。左に嵐山、右に亀山、小倉山に挟まれ大堰川が流れる。この時期、嵐山は色鮮やかに染まっています(撮るのが下手なので、写真はケバケバしいが・・・)。
渡月橋から上流100mほどに川幅いっぱいに堰が造られ、堰より上流側と下流側では川の様相が異なっている。

堰によって水がせき止められ、流れがゆるやかになり湖のようになっています。そのため屋形船、ボートなどの格好の舟遊びの場所となっている。ここは保津峡にたいして「嵐峡」とも呼ばれます。
この風光明媚な嵐山周辺は古く平安時代から景勝地として知られ、皇族、貴族達は別荘を築き遊楽の場所とした。この川は平安貴族たちが舟遊びを楽しんできたところなのです。天皇も行幸され舟遊びされたという記録も残っている。それを現代に蘇えさすために堰き止めされたのでしょうか?、それとも洪水対策?。
ここで毎年五月、車折神社の三船祭が催され、平安王朝の舟遊びが再現されています。貸しボートもコロナの影響をうけてか暇そうだ。

私は、この川の名は「保津川」だと思っていた。ところがそうではないようです。Wikipediaによると、最上流域では「上桂川(かみかつらがわ)」、南丹市付近ではと「桂川」、そこから亀岡市にかけては「大堰川(おおいがわ)」、そして嵐山までは「保津川(ほづがわ)」となり、渡月橋付近では「大堰川」、渡月橋を超えると「桂川」にと名前を変えている。川はその地域の生活と密着しているので、所々の事情によって呼び名が変わるのでしょう。最後は伏見で鴨川と合流し、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となり大阪湾へ。
「1896年(明治29年)4月に旧河川法が公布、同年6月の施行以降、行政上の表記は「桂川」に統一されている。国土地理院の測量成果においても、全流域において「桂川」の表記に統一されており、他の呼称が用いられることはない」(Wikipediaより)そうです。

渡月橋の欄干には「大堰川」と刻まれている。5世紀後半に大陸から渡来してきた秦氏がこの嵐山周辺に住み着き、農耕用水を引くため川に大きな堰(せき)を造った。このあたり古くは葛野川(かどのがわ)と呼ばれていたので、この堰は「葛野大堰(かどのおおい)」と呼ばれたようです。そこから「「大堰川」となったのです。

嵐山周辺は秦氏が農耕地として開発し、川に堰を造り農耕用水を取り込んでいた。しかし大堰川(保津川)そのものは、急流と巨岩がむき出しの暴れ川だったので舟運には利用されていなかった。わずかに筏流しによって上流の丹波の木材を京へ運び込むのに使われていたのに過ぎなかった。
この舟運にむかない大堰川(保津川)を大きく変えたのが江戸初期の京都の豪商・角倉了以(すみくらりょうい、1554-1614)でした。若くして家業の土倉業を引き継ぐと、それまでの吉田姓から角倉家を名乗るようになる。そして朱印状を与えられ、東南アジアとの朱印船貿易で莫大な富を得た。

得た富をもとに、慶長10年(1605)に大堰川(保津川)開削工事を江戸幕府に上申する。工事の許可と通航料徴収などの権利を得ると、翌年慶長11年(1606)3月に息子の角倉素庵とともに開削工事に着手。舟を通すためには川中の邪魔な岩石を除かなければならない。大石を両岸に引き揚げる、巨岩は鉄棒を打ちつけたり貿易で手に入れた火薬を使って破砕する、急流はならし、浅瀬は石で囲い深くし、川岸の岩を削り川幅を広げた。こうしてわが国で初めての舟運のための河川工事は6か月で完了している。角倉了以53歳の時です。

以後、丹波地方の木材や農作物、薪炭などが保津川の舟運を利用して京へ運ばれるようになった。ここ嵯峨は丹波と京都をつなぐ水運の要地となり、木材などを扱う問屋などが軒を並べたという。また角倉家は独占的に通行料を徴取することにより莫大な利益を得たのです。司馬遼太郎は次のように書いている。「出発点の丹波の保津に官許の「角倉役所」を置いて通行料をとり、終点の渡月橋下流には倉敷料をとる役所をおいた。つまりは、もとをとった。帳尻をあわせる感覚は商人のものといっていい」。

保津川の舟運も明治になると転機を迎える。明治32年(1899)に京都鉄道(後の山陰本線、現在のJR嵯峨野線)が開通、また国道9号線も開かれ物資輸送は陸上に移っていく。そこで舟運は物資輸送から観光客輸送に切り替えていった。これが有名な「保津川下り」で、庶民だけでなく、多くの文人や有名人が体験してきた。大正15年(1926)には昭和天皇、秩父宮妃殿下、昭和58年(1983)には常陸宮妃殿下と皇族の方々もお下りになっている。また海外でも知られ、大正時代にはルーマニア皇太子や英国皇太子エドワード8世も乗船されている。

嵐山到着です。下船場は渡月橋上流300m位の亀山公園入り口あたりに設けられている。皆さん満足した顔で降りてこられます。
私もかなり以前になるが体験。トロッコ列車で亀岡へ行き、湯ノ花温泉に泊まり翌日「保津川下り」で嵐山まで帰ってきました。変化に富んだ渓流約16kmをおよそ2時間弱かけて下る舟旅です。20人ほど乗った平底船は蛇行しながら岩場をすり抜け、激流で激しく揺られながら下ってゆく。水しぶきを浴びる箇所もあるので水除けカッパを貸してくれます。3人の船頭さんが乗り込み、長い竹竿で巧みに舟を操る。そして「青蛙岩」「孫六岩」「獅子岩」、保津峡の景色などをユーモアたっぷりに紹介してくれる。このスリルと緊張感、そして変化に富んだ渓谷美が保津川下りの醍醐味でもあります。さらに巧みな動作とユーモアあふれた舟頭さんも楽しさを増してくれる。嵐山が近くなると、川幅が広くなり流れも穏やかになってくる。どこからともなく小舟がスーと近づき横付けしてきます。「オデンにイカ焼きあるよ、甘酒やビールあるよ!」って。
私の場合は初夏だったが、保津峡の渓谷美を満喫するなら紅葉の時期が一番良いのではないでしょうか。「保津川遊船企業組合」(TEL:0771-22-5846)のパンフレットを見ると、冬場でもやっているようです。12月上旬~3月9日まで、囲い付きの船内に、ジュウタンをしきストーブが置かれた「冬季お座敷暖房船」です。舟に揺られながら保津峡の雪景色を楽しむのもよいかもしれない。

乗客を降ろした舟は、どのようにして亀岡まで戻しているのでしょうか?。

戦前までは、川岸の道からロープで舟を引っ張りながら、約4時間かけて保津川を溯って亀岡の乗船場まで戻していたそうです。現在はトラックで国道9号線を走って戻している。渡月橋の南のある渡月小橋から下流側を見るとクレーンが見えます。このクレーンで吊り上げ、大型トラックに3台重ね積みし走ってゆく。

 天龍寺(境内図と歴史)  



渡月橋を渡って大堰川(保津川)の北側にゆく。お土産屋、お食事処が並び、一番混雑する所です。かなりの人出だが、それでも最盛期の半分くらい。邪魔な人力車はなんとかしてほしいものです。

(境内図は天龍寺公式サイトより)
■■■ 天龍寺(てんりゅうじ)の歴史 ■■■
天龍寺のあるこの地には平安時代初期、檀林皇后と称された嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(786-850年)が開創した禅寺・檀林寺があった。わが国最初の禅学興隆の道場として知られるが、皇后没後、延長6年(928)に焼失しその後は廃絶していた。鎌倉時代中期、後嵯峨天皇(1220-72)は上皇になるとこの地に広大な離宮を造営した(建長7年1255年)。背後の小倉山の姿が亀の甲に似ていることから亀山殿(嵯峨殿)と呼ばれた。さらに亀山上皇が仮の御所を営んだ。
亀山殿は後嵯峨天皇から亀山天皇を経由して孫の後醍醐天皇へと引き継がれた。後醍醐天皇(1288-1339)は鎌倉幕府を倒し天皇中心の「建武の新政」を行ったが、足利尊氏が離反し暦応元年(1338年)征夷大将軍となり、新政は崩壊する。京を追われ吉野に逃れた後醍醐天皇は、当地で翌年の暦応2年(1339年)8月に薨去した。
★~・~創建~・~★
禅僧・夢窓疎石(むそうそせき1275-1351年)は足利尊氏に、後醍醐天皇の菩提を弔う寺院の建立を勧めた。禅の師として夢窓疎石に師事していた尊氏は受け入れ、荒廃していた亀山殿の地に勅願寺を建てることにした(暦応2年(1339))。
「夢窓は、調停者の立場になった。かれは、双方(後嵯峨天皇と足利尊氏)から敬せられており、たとえば足利尊氏やその弟の直義はかれのもとで参禅していた。果てもない乱のあげく、後醍醐は吉野で崩じた。夢窓は尊氏に、「菩提のために巨刹を建ててはどうか」と、提案した。造寺そのものよりも、造寺をすることで双方の妄執が昇華されることを望んだにちがいない。尊氏は、大いに賛同し、天竜寺が大いに興ることになる」(司馬遼太郎「街道をゆく」の「嵯峨散歩」より)
暦応4年(1341)7月、地鎮祭を行い、疎石や尊氏が自ら土を担いで造営を手伝ったという。「造営に際して尊氏や光厳上皇が荘園を寄進したが、なお造営費用には足りず、直義は夢窓と相談の上、元冦以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を造営費用に充てることを計画した。これが「天龍寺船」の始まり。」(天龍寺公式サイトより<http://www.tenryuji.com/>)
造営費の捻出に成功し堂宇の建築が進められた。康永4年(1345)秋、疎石を開山に迎えて後醍醐天皇七回忌法要を兼ねて盛大に落慶法要が営まれた。初め年号をとって「暦応資聖禅寺」と号したが、その後尊氏の弟・足利直義が大堰川に金龍の舞う夢を見たことから「天龍資聖禅寺」と改めたという。
★~・~衰退~・~★
将軍 足利家の帰依を受けた天龍寺は京都五山の第一位に格付けされるなど大いに興隆したが、室町幕府の没落や天災などの影響を受け次第に衰退していく。
「延文3年(1358年)1月、伽藍が焼失する(1回目の大火)。貞治6年(1367年)2月、伽藍が焼失する(2回目の大火)。応安6年(1373年)9月、仏殿、法堂、三門などが焼失する(3回目の大火)。康暦2年(1380年)12月、庫裏などが焼失する(4回目の大火)。文安4年(1447年)7月、伽藍が焼失する(5回目の大火)。応仁2年(1468年)9月、応仁の乱に巻き込まれ、伽藍が焼失する(6回目の大火)。」(Wikipediaより)
天正13年(1585年)に豊臣秀吉は嵯峨、北山など寺領1720石を天龍寺に寄進し本格的な復興が始まった。徳川家からも支援を受け再建していった。ところが「文化12年(1815年)1月、法堂、方丈などが焼失する(7回目の大火)。元治元年(1864年)7月、禁門の変(蛤御門の変)で長州藩兵が立て籠もり、攻撃してきた幕府軍や薩摩藩兵の兵火にかかって大打撃を受け、伽藍が焼失する(8回目の大火)。」(Wikipediaより)
★~・~明治以降~・~★
現在の建物は明治時代後半に再建されたものです。
「以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)には上地令により嵐山53町歩を始め(このうち蔵王堂境内175坪をのぞく)亀山全山、嵯峨の平坦部4キロ四方の境内はほとんど上地することとなった。その結果現在の境内地はかつての10分の1、3万坪を残すこととなっている。・・・こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。」(天龍寺公式サイトより)

メイン通りを少し北へ行けば門がある。これが「総門」と呼ばれ、天龍寺表参道の入り口です。総門から数十メートル行けばまた門がある。これは「中門」と呼ばれる。天龍寺にしては簡素な門です。
天龍寺は禅宗の臨済宗天龍寺派大本山。正式名称は「霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)」。平成6年(1994)ユネスコ世界遺産に登録された「古都京都の文化財」の一つです。

中門と塀で繋がっている勅使門(ちょくしもん)です。閉ざされ通れないようになっている。天皇の勅使をお迎えする時だけに使われ、普段は開かずの門なのです。
総門、中門と比べ古さびて、四脚門の風格をもつ。もともと秀吉の建てた伏見城の門だったが、伏見城取り壊しで御所に移され、さらに寛永18年(1641)に現在地に移築された。幸い江戸時代の火災を免れ、天龍寺で最も古い建造物となっています。

中門から真っすぐな参堂が続き、その左脇は苔と紅葉の庭になっている。そして参堂と庭の両側には多くの塔頭寺院が並んでいます。

 天龍寺(伽藍)  


参堂の先には、切妻造の屋根と大きな三角形の白壁の独特な形をした庫裏(くり)が建つ。天龍寺を象徴する景観です。庫裏とはお寺の台所をさすのだが、現在の天龍寺では諸堂拝観の玄関口となっています。

庫裏に入ると拝観受付がある。諸堂(大方丈・書院・多宝殿)参拝券は300円(法堂と庭園は除く)。時間は8時30分~16時45分(受付終了16時30分)
庭園(曹源池・百花苑)は別途500円必要です。ただし庭園内を散策しないで、その美しい曹源池を眺めるだけなら大方丈や書院(小方丈)の縁側でも十分鑑賞でき、500円節約できます。

下駄箱に履物を置き、上がると大きなメガネ男が睨んでいる。なんじゃこら・・・。調べると、禅宗の開祖・達磨大師を画いた達磨図の衝立だった。前管長の平田精耕老師が描いたものだそうです。禅宗って、こういうう雰囲気の宗派なのでしょうか?。

大方丈と書院(小方丈)は庫裏と棟続きになっている。庫裏の西側が書院(小方丈)です。大正13年(1924)の建築で、来客や接待や様々な行事、法要などに使用される、そうです。この部屋にも達磨図が掛かっている。
畳の上に注意書きが置かれている。撮影禁止とか入室禁止かと思ったら、「寝転び禁止」でした。四畳半暮らしの身には、こうした大広間で大の字になってしばし寝転んでいたいものだ。ましてや外は天下の名庭園です。

書院(小方丈)の南側は廊下で、曹源池庭園に面しています。ここから眺めても庭園を十分鑑賞できます。

書院(小方丈)から回廊風の渡り廊下が西北へ伸び多宝殿へ繋がっている。曲線あり、スロープあり、小階段あり、花頭窓あり、廊下の両側は開け放たれ花園風の庭を眺められるなど趣向が凝らされた廊下になっています。

後醍醐天皇の聖廟とされている多宝殿(たほうでん)。昭和9年(1934)に当時の管長であった関精拙老師によって建立された。この場所は幼少の後醍醐天皇が勉学した所で、後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式を取り入れた建物。
南側に、階段付き一間の向拝をもった拝堂がある。拝堂の奥には相の間を挟んで繋がった祠堂があり、中央に後醍醐天皇の木像が安置され、両側に歴代天皇の尊牌が祀られている。

多宝殿から書院(小方丈)に戻り、次は大方丈です。大方丈(だいほうじょう)は書院(小方丈)の南側に棟続きとなっている。本堂にあたる大方丈は、書院(小方丈)と同じく明治32年(1899)に再建され、天龍寺では最も大きな建物です。東側が正面で「方丈」の扁額が掛かり、前は白砂と松だけの簡素な庭。法堂の大屋根が覗いています。裏となる西側は曹源池庭園に面している。周りは回廊風の広い縁が巡らされ、大方丈を一周できます。

大方丈の内部は「六間取り(表3室、裏3室)の方丈形式」だそうです。こちらは「立入禁止」となっています。
中央の「室中の間」には本尊の釈迦如来像(重要文化財)が祀られている。檜材の寄木造、彫眼、漆箔仕上げ。天龍寺の創建よりはるかに古い平安時代後期の作で、八回にも及ぶ天龍寺の火災にも難を逃れ、天龍寺では最も古い仏像。

大方丈の縁伝いに西側に回ると、多くの人が名勝・曹源池庭園を眺めている。庭園参拝券500円払い庭に降りなくても縁側で眺めるだけでも十分鑑賞できます。

以上でお堂の見学を終え、いったん庫裏から外へ出る。次は鏡天井の「雲龍図」で有名な法堂(はっとう)へ。法堂は庫裏や大方丈の手前(東側)にある白壁の美しい大きな建物です。法堂は常時公開されていません。土日祝日と春夏秋の特別公開期間だけです。法堂参拝受付は法堂の西側にあり、庭園・諸堂参拝料とは別に500円必要です。
堂内に入るとまず天井を見上げます。天井の直径9mの円の中に、雲に乗った龍が墨色で描かれ躍動している。どの角度からみても目が合う「八方睨みの龍」といわれています。八方とは、四方と四隅のこと。平成9年(1997)に法堂移築100年・夢窓国師650年遠諱記念事業として加山又造画伯(1927~2004)により新しく雲龍図が描かれたものです。それまでは明治32年(1899)に鈴木松年画伯により描かれた雲龍図があったが損傷が激しかったので描き直された。

 天龍寺(曹源池庭園)  



次は曹源池庭園へ周ります。大方丈、小方丈の縁側からでも十分鑑賞できたのですが、庭を歩き縁側からは見えない所を歩いてみます。
庭園に入るには500円のt「庭園参拝券」を購入する必要がある。庫裏前の広場の南側に受付と庭園入口があります。入口を入ると、そこは大方丈東側の白砂の敷き詰められた庭です。縁に沿って歩き反対側の西側へ行けば曹源池庭園。

曹源池庭園(そうげんちていえん)は、曹源池を中心に南に嵐山を、背後に亀山、小倉山を借景にした池泉回遊式庭園です。天龍寺の創建に関わった夢窓疎石の作庭で、何度も火災にあった伽藍と違い創建時のままの姿をとどめているとされている。我が国で最初に国指定の特別名勝・史跡とされた庭園で、苔寺(西芳寺)、南禅院とともに夢窓疎石作の三名勝史跡庭園となっている。

池の中央奥に石組みが見える。公式サイトに「方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝とは中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。」とあります。国師とは夢窓疎石のことで、「曹源一滴」とは「一滴の水は命の水であり、あらゆる物の根源」という意味だそうです。

広い庭園内には散策路が回遊している。これから庭園内を北へ散策し、さらに曹源池奥の丘へ登ってみます。
多宝殿から北へ歩くと、周辺にはたくさんの花木が植えられている。北門開設と同時に昭和58年(1983)に整備された庭園で、「百花苑(ひゃっかえん)」と呼ばれている。ツツジ、しゃくなげ、あじさいなど四季折々の花が楽しめ、池を中心にした庭園とはまた異なった感慨を味わえる。

百花苑内の道は北門で終わり、天龍寺境内もここまで。北門を出ると、そこは嵯峨嵐山のもう一つのシンボル・「竹林の小径」です。北門には受付があり、ここから曹源池庭園に入ることもできる。
この出口の前に大きな硯石の碑が建っています。傍の説明版によると、明治32年(1899)に法堂が再建された時、修行僧60余人がかりで摺った墨をもって鈴木松年画伯が最初の雲龍図を一気に描きあげた。画伯と当時の管長の遺徳をしのんで建てられた碑だという。花苑とは不似合いです。法堂の横とか、他に場所がなかったのでしょうか。

曹源池庭園背後の丘には一本の散策路が南北に通っている。この時期、紅葉で彩られ楽しませてくれます。

境内図には「望京の丘」とあるのだが、曹源池庭園も見えず、大方丈の屋根が見えるくらいで見晴らしはあまり良くない。景観よりも雰囲気を楽しむ散策路のようだ。

散策路を南へ降りると「東司(とうす)」が建つ。トイレマークがあるのでお手洗いだとわかるが、洒落たつもりで「東司」としたのでしょう。禅寺では修行僧が使用する便所のことを「東司」と呼ぶからです。東福寺の東司は圧巻で、便所なのだが国の重要文化財に指定されている。

最後に東司で締めて、以上で天龍寺散歩は終わります。


 後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵  


天龍寺表参道の入り口になる総門の前に後嵯峨天皇陵・亀山天皇陵への標識が立つ。この場所から「西へ二町」の所らしい。

■■第88代後嵯峨天皇と第90代亀山天皇■■
★第88代後嵯峨天皇の即位
鎌倉時代の承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げた承久の乱が起こる。結果は天皇側が負け、首謀者だった後鳥羽上皇は隠岐島に配流されるなど、関係者の処罰がなされた。後鳥羽上皇の血統につながらない後堀河天皇、さらにその子の四条天皇が即位する。四条天皇はわずか12歳で急逝したが、兄弟も跡継ぎも存在しなかった。幕府は、承久の乱で土佐国へ配流されていたが乱には直接関与していなかったとされる土御門天皇の子・邦仁王を擁立します。仁治3年(1242)、第88代後嵯峨天皇(1220-1272、在位:1242~46)が23歳での即位する。

★後嵯峨天皇、退位し院政へ
後嵯峨天皇は宮廷の実力者である西園寺家と婚姻関係を結ぶことで自らの立場の安定化を図り、在位4年で寛元4年(1246)に数え4歳の皇子・久仁親王(第89代後深草天皇、1243-1304)に譲位した。正元元年(1259)、後嵯峨上皇は17歳だった後深草天皇を病気を理由に退位させ、後深草天皇とは同母弟であった恒仁親王を第90代亀山天皇(1249-1305、在位:1260-1274)として即位させた。後嵯峨上皇は病弱で好色だった後深草天皇を嫌い、その愛情は弟の恒仁親王のほうへ厚かったという。
後嵯峨上皇は、現在の天龍寺のある場所に離宮亀山殿、嵯峨殿を築き、後深草・亀山両天皇の二代26年余りにわたり院政を行なった。この院政時代は、鎌倉幕府の北条氏との間での連携によって政治の安定が図られた時期でもあった、という。また後嵯峨上皇は和歌にも長じ、『続後撰和歌集』『続古今和歌集』を撰集させている。

★後嵯峨上皇の出家と崩御、亀山上皇の院政
仏教を深く信仰していた後嵯峨上皇は、文永5年(1268)出家し法名を「素覚」と称し、法皇となり大覚寺を御所として院政を続けた。そして同年、亀山天皇を寵愛した後嵯峨上皇は兄の後深草上皇の皇子をさしおいて、弟の亀山天皇の皇子・世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子に立て亀山天皇の系統を直系とした。その4年後の文永9年(1272)2月17日、亀山殿別院寿量院で崩御した。享年53歳。

ところが、御嵯峨上皇が後継者を決定せず幕府に一任して崩御したことから、後深草上皇と亀山天皇の兄弟間で皇統をめぐり対立が起こる。委ねられた幕府は後深草上皇・亀山天皇の兄弟どちらとも決めかねて、両方の母后・大宮院に相談した。その結果、後嵯峨法皇の意思は亀山天皇親政にあるとの返答を得た。そこで文永11年(1274)亀山天皇は在位15年で退位し、皇太子の世仁親王を第91代後宇多天皇(1267-1324)として即位させ、自ら上皇として院政(1274~87)を開始した。亀山上皇の院政中に「文永の役」(文永11年、1274年)「弘安の役」(弘安4年、1281年)という二度の元寇(蒙古襲来)が起こっている。

★持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の南北朝時代の幕開け
亀山上皇優位の情勢に不満を抱いた後深草上皇は、建治元年(1275)太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、また執権北条時宗に働きかけ自分の息子・熈仁親王(後の伏見天皇)を後宇多天皇の皇太子にすることに成功する。そして後宇多天皇の退位を迫っていった。
幕府は弘安9年(1286)、両統迭立の議を決め、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承(両統迭立)し、院政を行うよう定めた。その結果、弘安10年(1287)に後宇多天皇は退位し第92代伏見天皇が即位することになる。その父である後深草上皇が御所を持明院に移し、亀山上皇に代わって院政を始めることになった。
これ以後、後の北朝である後深草上皇の系統を「持明院統」、南朝となる亀山天皇の系統を「大覚寺統」といい、皇統継承を巡る両者の長い争いとなる。それが南北朝時代、更には後南朝まで続く200年に渡る大乱の源となった。
亀山天皇以後の皇位は、第91代後宇多天皇(大覚寺統)→第92代伏見天皇(持明院統)→第93代後伏見天皇(持明院統)→第94代後二条天皇(大覚寺統)→第95代花園天皇(持明院統)と継承されていった。

★亀山上皇の出家と崩御
正応2年(1289)伏見天皇が皇子(後の後伏見天皇)を皇太子にしたことから,亀山上皇は失意のあまり南禅寺で出家した。剃髪し、法名を「金剛源(こんごうげん)」と称した。禅宗に深く帰依し、離宮を禅寺として南禅寺を創建し禅林寺殿とも呼ばれた。禅宗が公家社会に浸透する端緒になる。
嘉元3年(1305)9月に離宮亀山殿で崩御、享年57歳。

天龍寺表参道の突き当りに庫裏がある。庫裏の前で右手を見れば簡素な門が建つ。内は紅葉が見頃の庭園風になっているが、誰一人見当たりません。「天龍寺僧堂南門」の看板が掛かり、門は竹の横棒でふさがれ立入り禁止になっている(のように見える)。しかしよく観察すると、立木で見えにくいが天皇陵の石柱が建ち、門脇に「墓参以外立入禁止」とあります。ということは墓参なら入っていい、ということです。私はただ写真を撮りたいだけの「墓撮」なのだが、今回だけは手を合わすことにして入りました。
庫裏前には大勢の人がおりその視線が気になり、横棒を潜るのには大変な勇気がいりました。

門から真っすぐ進めば僧堂だが、手前左手に御陵のお堂が見えている。人影は全くありません。誰もいてないので、私は不審者のようで、ここから早く逃げ出したいような気持になります。皆さん天龍寺へは、名勝・曹源池庭園を見にくるのであって天皇陵など興味はないのです。そもそも天皇陵が存在していることさえ知らない人が殆どだと思う。

ここには「後嵯峨天皇嵯峨南陵」と「亀山天皇亀山陵」が同じ陵域にあり、父子が並んで祀られている。

文永9年(1272)2月19日後嵯峨天皇は離宮・亀山殿の寿量院で崩御、遺詔により亀山殿の別院薬草院で火葬し、遺骨はこの亀山殿内に設けられた淨金剛院の法華堂に納められました。
嘉元3年(1305)9月15日亀山天皇は離宮・亀山殿で崩御、裏山で火葬され、遺骨は分骨され後嵯峨天皇と同じ浄金剛院法華堂に、一つは南禅寺に、もう一つは高野山金剛峯寺にそれぞれ納められた。

両天皇が納骨された淨金剛院法華堂があった離宮・亀山殿は、1339年以降足利尊氏によって同地に広大な天龍寺が創建され、その際に浄金剛院は廃絶され陵墓は所在不明となってしまっていた。幕末に全国の天皇陵を確定し補修しようとする動きが起こる(「文久の修陵」)。その時に、浄金剛院法華堂跡地を現在地に確定し、そこにあった舎利殿と経蔵を撤去し、慶応元年(1865)5月新たに法華堂二堂を建立したのです。この時、亀山天皇から勅願所とされた東本願寺が報恩のため二陵の修理費用を支出したという。当初は両陵ともに浄金剛院法華堂と呼ばれていたが、後に嵯峨殿法華堂・亀山殿法華堂に改められ、さらに明治39年(1906)には嵯峨陵、亀山陵となり、大正元年(1912)に「後嵯峨天皇嵯峨南陵」「亀山天皇亀山陵」という現陵名になった。

南面して東西方向に建ち並ぶ両法華堂は同形で、5m四方・高さ4mの規模で、檜皮葺宝形造り。屋根頂部に方形の露盤があり、その上に火炎の宝珠をつけている。周りは透塀がめぐらされ、両堂の前面には金箔が美しい唐門が構える。

向かって右側が後嵯峨天皇の嵯峨南陵で、左側が亀山天皇の亀山陵です。ここは天龍寺境内なのだが、この陵域だけは宮内庁管理なのです。宮内庁の公式陵形名は「方形堂」となっている。なお、裏の亀山公園内には両天皇の火葬塚が残されています。

 紅葉の宝厳院(ほうごんいん)  



天龍寺法堂前から南側へ、つまり大堰川(保津川)へ通ずる道がある。その中ほど右手に宝厳院(ほうごんいん)というお寺があります。いつもは目立たない小さなお寺ですが、紅葉シーズンになると塀越しに見える燃え盛る紅葉の鮮やかさ、そして案内の大きな看板と、否が応でも目にとまります。この道はよく通るのだが一度も入ったことがなかった。紅葉シーズンになるとこの山門前に行列ができているのです。それを見ると入る気がしなかった。今年はコロナの影響で写真のように閑散とし、並ばなくても入れる。入ってみよう。

宝厳院は天龍寺の塔頭寺院で、正式には「大亀山宝厳院」(だいきざん ほうごんいん)と呼ぶ。
通常は非公開だが、春・秋の特別公開時のみ入れます。現在は<秋の特別拝観:2020年9月19日(土)~12月6日(日)>です。
【拝観時間】9:00~17:00 ※受付終了は、本堂が16:30、庭園は16:45です。
【拝観志納料】(庭園)大人:500円・小中学生:300円 ※宝厳院本堂特別公開は、別途志納料(大人:500円・小中学生:300円)が必要です。

宝厳院の見どころは「「獅子吼(ししく)の庭」と呼ばれる回遊式庭園につきる。春から初夏にかけては新緑や苔が、秋は約300本のカエデが真っ赤に染め上げる紅葉の名所として知られている。室町時代に中国に二度渡った臨済宗禅僧・策彦周良禅師(さくげんしゅうりょう)によって原型が作庭され、その後移転時に引き継がれていったもの。
庭内の案内板に次のように書かれています。
「「獅子吼」とは佛尊が説法する事、すなわち真理、正道を説いて発揚することを獅子吼と称し、佛尊の説法を聞くことにより心が癒され安心を得ることが出来ると同様、この庭を散策すると鳥の鳴き声、風の音、水の流れ等が自然と心を癒してくれる。これを「無言の説法」と言う。この事より「獅子吼の庭」と命名された」
庭園内には一本の散策路が設けられている。さあ、「無言の説法」を聴きに行こう。

最初に天龍寺の曹源池庭園を模したようなシーンが目に飛び込んでくる。小石を敷き詰め池(海)を表しているようです。手前の少し大きな岩は「舟石」、小石群は「苦海」、奥の地上の立石は「三尊石」と表記されている。
迷いの世界にいる人間は「舟石」に乗り「苦海」を渡り、彼岸(悟りの世界)にいる釋尊、文殊菩薩、普賢菩薩の三尊佛のもとに参ずる、ということでしょう。
左奥の石組みは曹源池庭園にもあった「龍門瀑(りゅうもんばく)」とあります。

宝厳院の創建は室町時代ですが、現在のお寺は平成になってから移転、再興されたもので、比較的新しいようです。

室町時代の寛正2年(1461)、幕府の菅領・細川頼之が天龍寺開山の夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に招聘して創建。当時は上京区の京都御所の近辺にあった。しかしすぐ応仁の乱(1467年 - 1477年)に巻き込まれて焼失してしまう。天正年間(1573年 - 1591年)に豊臣秀吉の援助により再建される。明治時代になり京都中心部の区画整理による河川工事のため立ち退きを余儀なくされ、天龍寺塔頭の弘源寺境内に移転。平成14年(2002)、住職が現在地を購入して移転、再興した。

獅子吼の庭の特色に各所に大きな岩が配されていることがある。道の両側にある写真の岩は「碧岩」と呼ばれ、約2億年前に海底にあり、微生物やプランクトンの堆積したものとか。

本堂の右隣の書院前。宝厳院は鮮やかな紅葉が美しいが、それを引き立たせるみずみずしい緑の苔も主役の一つ。
散紅葉に苔の絨毯、どこか人工的に演出された自然美のように見えてしまいます。ライトアップされた夜はどんなシーンが展開されるのでしょうか。

庭園には一本の小川が流れている。天龍寺の曹源池庭園から引いた小川のようです。水音は聴こえなかったが、川面に揺れる浮紅葉も目をひきつけます。

出口近くにあるひときわ大きな岩は、獅子の横顔に似ていることから「獅子岩」と呼ばれている。緑の毛皮に赤い散り紅葉をうけ、とてもいかめしい獅子には見えません。
右奥に見えるのが竹を束ねて造った「豊丸垣(ほうがんがき)」。

出口が近づいてきました。またおこしやす、と羅漢さんたちが赤い絨毯の上で見送ってくれている。羅漢(らかん)とは、釈尊の弟子で崇高な修行者「悟りをえた人」の意。企業や個人によって奉納された羅漢さんを、境内だけでなく宝厳院周辺でもたくさん見かけます。

出口通路となっている紅葉のトンネル。塀に青垣、赤絨毯、そしてお見送りの羅漢さんと趣のある道です。宝厳院では紅葉の夜間ライトアップ(夜間特別拝観)も行われている。私は人工的に彩色された自然というのは嫌いなのですが・・・。

今回感じたのは、京都の観光名所を訪ねるにはコロナ過の今がチャンスだ、ということ。人波に煩わされない、とりわけ自撮棒連がいないのがいい。


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鳥羽・伏見の旧跡巡り 1

2017年11月07日 | 名所巡り

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。
鳥羽・伏見の地は京都の南にあり、水路,陸路ともに交通の要所を占め、大阪・奈良からの「京都への玄関口」にあたる。そのため歴史的な名所、旧跡が沢山残されています。前回、伏見城と明治天皇陵を訪れたのを機に、ちょっと興味が湧いてきたので、改めて訪れました。

 京阪電車・中書島駅から伏見入り  



今回の街歩きは、京阪電車・中書島駅から始まり、北上して鳥羽離宮跡まで往きます。中書島駅を降りまず目につくのが、改札口を出て直ぐの所に置かれている酒樽と坂本龍馬の立姿。伏見の町を象徴した観光案内です。

かって、この地は南は宇治川、西は濠川、北と東は宇治川支流に囲まれた島だった。川幅も現在と違って広かったようです。「中書島(ちゅうしょじま)」の名称について、Wikipediaは「文禄年間、中務少輔の職にあった脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだことから「中書島」の名前が生まれたとされる。中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった」と記しています。
中書島駅近くには、「南新町」「東柳町」「西柳町」といった色町を想像させる町名が残っているように、元禄の頃より京都でも代表的な中書島遊郭があった。京と大阪を結ぶ地点にあり、十石舟や三十石舟が往来する港町として交通の便が良く人々の往来が多くなると、そこに色町ができる。酒と女の街だった。川一つ隔てて寺田屋がある。龍馬も遊んだのでしょうか?。

 長建寺(ちょうけんじ)  



東柳町の川沿いに長建寺(ちょうけんじ)がある。朱塗りの土塀に竜宮造りの山門が鮮やかで、色町のお寺らしい。長建寺の由緒について、案内板によれば。
「元禄12年(1699)、伏見奉行であった建部政宇(たけべまさのき)が、中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起りで、寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた」という。現在は、東光山と号し真言宗醍醐派に属する。本尊は「八臂弁財天(はぴべんざいてん)」。京都では、ご本尊として弁財天を祀る寺はここしかなく、一般に「島の弁天さん」の名で親しまれている。

伏見十名水の一つ「閼伽水(あかすい)」。「閼伽」とは貴賓または仏に御供えするもので、特に水をさす。
大きな手洗石は元のお寺、平安時代中期の即成院の多聞院にあったものを移したもの。

 月桂冠大倉記念舘  



長建寺の前はすぐ濠川が流れ、対岸には酒蔵が並ぶ。月桂冠大倉記念舘の裏側で、ここの川と柳と酒蔵の風景は、伏見を代表する写真スポットとなっている。弁天橋を渡り月桂冠大倉記念舘へ向う。

(図は月桂冠サイトより借用)月桂冠は日本を代表する酒造メーカー。辛口として知られ、私も愛用している(時々ですが)。その起源は、寛永14年(1637)、初代大倉治右衛門が京都南部の笠置からここ伏見に出て酒屋「笠置屋(かさぎや)」を開業したのに始まる。最初の酒銘は「玉の泉」だったという。勝利と栄光のシンボル「月桂冠」の銘柄が出るのは明治38年(1905)。

月桂冠本社ビル(左)と月桂冠大倉記念館(右)
同じ白壁だが、対照的な建物が道を挟んで並ぶ。左は現在の月桂冠本社ビルです。平成5年(1993)に建てられたビルだが、本瓦葺の大屋根、酒蔵風の窓など、一帯の景観との調和がはかられている。
この一帯は、1997年に京都市の「重要界わい景観整備地域」に指定され、電柱など見当たらず、建物、街路など景観を考慮したものになっている。間の道を進めば記念館の入口へ、右へ行けば大倉家本宅です。

月桂冠大倉記念館の入口です。月桂冠大倉記念館は、明治42年(1909)建造の酒蔵を改装し、昭和57年(1982)に伝統的な酒造工程やその用具・資料などを展示する博物館として開設されたもの。京都市有形民族文化財に指定されている。
家屋の壁脇の竹細工は「犬矢来(いぬやらい)」と呼ばれ、「やらい」は追い払うという意味をあらわし、犬や馬が家の壁を傷めないようにするため取り付けたものだそうです。

【開館時間】9:30~16:30
【休日】盆・年末年始(8/13~8/16、12/28~1/5)
【料金】大人300円
受付で入場料300円支払うと、お土産として清酒超特選180mlの小瓶をくれます。ついヤボったいことに「月桂冠ですね?」と聞いてしまった。ここで大関をくれるかってよ・・・。

入ると、まず中庭へ案内される。その中庭の入口にあるのが、名水「さかみず」の井戸。”さかみず”とは「栄え水」のことのようで、現在でも湧き続け酒造りに使用されているそうです。
樽に入った水はお酒のようにみえました。皆さん”美味しい”といって飲んでおられたので、私も飲んでみました。大阪の水道水と同じくらいに美味しかった。

中庭は、展示室と酒造場との間の空間。煙突が立ち大きな酒桶が置かれ、酒造場には神木である杉の葉を束ねて球状にした大きな「酒林(さかばやし)」が吊るされている。酒屋の軒先でよく見かけるものです。

酒の発酵に木桶が使われていたので、雑菌を防ぐため何度も熱湯で洗い日干しにして乾燥さていたという。そのため蔵の前にこうした広いスペースが必要だったようです。

中庭の隣に展示室が2棟あります。室内は「酒造り唄」が流れ、酒造りの用具類が並び、古き良き時代の酒造りの雰囲気を体感できます。これらの酒造用具類6120点が、1985年に京都市有形民俗文化財の指定を受けている。また創業からの歴史や、歴史を物語る書画・ポスター・写真などを展示。酒の器や酒まわりの用具類も陳列されている。

通りを挟んで月桂冠本社の西側に大倉家本宅があります。その落ち着いた佇まいは歴史を感じさせてくれます。初代大倉治右衛門が酒業を創業した土地に、文政11年(1828)第8代目当主が建てた酒蔵兼居宅。幕末の争乱時には、周辺の多くの家屋が戦災に遭ったが、幸いこの本宅は免れ現在までその姿を残している。
内部は非公開なので、月桂冠のサイトを引用すれば
「内部には米の洗い場、吹き抜け天井の小屋組み、商いに使われた座敷など、昔ながらの酒屋の佇まいを残しています。表構えには、虫籠窓(むしこまど)、太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られます。屋根には瓦と漆喰、下地となる土をあわせ35トンが乗っており、その重みで構造の強度が維持されています。」

本宅前の道はL字形に曲げられている。これは東方にある伏見奉行所を敵軍から見通せないようにした遠見遮断の道だそうです。

大倉家本宅とL字形に並ぶ家屋が、大正8年(1919)に建てられた月桂冠旧本社。平成5年(1993)まで月桂冠・本店として使用されていたという。床面は道路より1mほど高く、正面には階段が設けられている。これは宇治川氾濫による水害に備えたもの。ここにも壁の足元を守る犬矢来がみられます。
現在は、NPO法人・伏見観光協会の「伏見夢百衆(ふしみゆめひゃくしゅう)」として、お酒を中心とした伏見土産販売・観光案内所となっている。お茶、お酒を飲食できるコーナーもあります。

 十石舟遊覧  



月桂冠大倉記念舘の裏、弁天橋の近くに十石舟乗り場がある。この川は、豊臣秀吉が伏見城を築城した際、宇治川の水を引き込み城の外濠として築いたもの。宇治川派流だが「濠川(ほりかわ)」と呼ばれている。かつて大坂から京に入る玄関口として三十石船が発着、船宿が軒を並べ、旅客でにぎわっていた。また酒蔵の多くは、この濠川沿いに建てられ、明治の終わり頃まで、伏見の名酒や米・薪炭・樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石舟で運ばれていたという。現在、その十石舟が再現され観光用に運行されています。

運航期間/3月25日~11月26日(16便)、11月27日~12月3日(14便) 
※運休日は6月~9月の毎週月曜(祝日は運航)、8月は11日~16日のみ運航
出航時間:
 10:00~11:20・・・20分間隔で5便
 13:00~16:20・・・20分間隔で11便
料金:大人1200円、小人(学生)600円、幼児300円
往復約1時間弱の船旅。ただし三栖閘門の見学をしなければ約40分。
 定員20名。予約が入っているため乗れないこともあるので、事前に(075-623-1030)で確認したほうがよい。

月桂冠の酒蔵を見上げ、蓬莱橋を通過すると直ぐ、寺田屋の二階と屋根が一瞬だけ見えます。舟頭さんが案内してくれるが、一瞬なので見逃しやすい。

京橋から濠川本流に合流するまでが、柳など緑が多く一番舟旅を堪能できます。桜や紅葉の季節はどうなんでしょうか?。でも、舟と青い水面には緑が最も合いそうです。

突き当たりです。ここで濠川本流と合流し、左側へ舵をきる。ここの橋は「であい橋」と呼ばれている。濠川本流と出会うからか、それとも人の出会いがあるからか・・・。

突き当たり地点に「角倉了以水利紀功碑」が置かれている。京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい、1554~1614)は京都の河川開拓工事に着手、とりわけ京と伏見を結ぶ全長約11キロの高瀬川の開削に功績を残す。この高瀬川によって、伏見は京都へ通じる港町としていっそう賑わったという。開削費用は全て私財を投じたが、運河航行の使用料を徴収することで莫大な利益を得たといわれます。

肥後橋、京阪本線の鉄橋を潜ると、左手に「伏見港公園」が見えてくる。この辺りに河川港として伏見港があった。秀吉の時代から昭和の初め頃まで「伏見の浜」と呼ばれ淀川舟運の拠点となり、大変な賑わいだったようです。その後、東海道本線や京阪電車が走り、陸上輸送の発展による水運の衰退とともに港も衰退し、1960年代に埋め立て現在の公園になったようです。体育館・テニスコート・相撲場・プールなど備え、市民の憩いの場となっている。

三栖閘門(みすこうもん)の赤い2つのゲートが見えてきました。このゲート内に終点の舟着場があり、約20分間の往き舟旅は終わります。ここで2つの選択がある。1つは、今来た舟でそのまま出発地点まで引き返す。これなら往復40分間ですむ。もう一つは、三栖閘門資料館(無料)を見学し周辺を散策して、20分後にやって来た次の舟便で帰る、という方法です。これだと約1時間かかる。

舟着場の直ぐ上に三栖閘門資料館はある。係員が、舟から降りた観光客をまとめて資料館に案内し、模型を使って三栖閘門(みすこうもん)の仕組みを丁寧に解説してくれます。

三栖閘門は、水位の違う宇治川と濠川の間を船を通させるため昭和4年(1929)に建造された施設。仕組みはいたって簡単。船をゲート(門)の中に入れ両方の門を閉めます。門内の水位を、増水(濠川に入る)又は減水(宇治川に出る)し、向う側の水位に合わせてから出口側の門を開ける、というもの。”閘”の字は、門を開けたり閉めたりすると云う意味だそうです。規模こそ違いますが、原理はパナマ運河と同じです。

道路や鉄道の発達で船運の利用は減ったため、昭和43年で閘門の機能は終了し、現在は「昭和初期の土木遺産」として観光名所化されている。

宇治川側の門のある堤に上がってみると、雄大な宇治川の流れが展望できる。門から宇治川へ繋がる部分は、水が流れないので底石がむき出しの状態になっていました。係員の説明によると、宇治川の川ざらえや上流にできた天ヶ瀬ダムのために宇治川の水位が下がり、濠川との段差は年々大きくなっているそうです。確かに、濠川の水面よりかなり下に宇治川の流れがあります。

やって来た次の便で引き返す。月桂冠の酒蔵の裏辺りに三十石船が停留されている。十石舟より少し大きいくらいでしょうか。この三十石船も観光客を乗せ遊覧している。ただし、運航は春と秋の特定日だけなので(075-623-1030)で確認すること。定員30名、料金は1200円。コースは十石舟と同じで、往復40分。乗り場は、寺田屋の前にある寺田屋浜。

お疲れ様、約1時間の観光でした。次は坂本龍馬で有名な寺田屋です。


詳しくはホームページ

伏見城と明治天皇陵 3

2017年10月29日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)今は明治天皇御陵となっている旧伏見城周辺を歩く

 伏見桃山城運動公園  



桓武天皇陵入口まで戻り、東への道を進む。100mほどで伏見桃山城運動公園の入口ゲートです。ゲート奥は広い駐車場ですが、今日は平日のためか車は見当たらない。
明治天皇陵背後のこの丘陵地に、昭和39年(1964)春、近鉄によって大規模遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が開園した。ところがバブルが崩壊し遊園地ブームが去り、2003年1月閉園する。その跡地が京都市によって「伏見桃山城運動公園」として整備されたものです。

このお城は、遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」のシンボルタワーとして建てられた。2003年に遊園地は閉園し、お城も取り壊すことになった。ところが地元から保存運動が起こり、結局京都市に無償贈与され、京都市の施設として存続し現在に至っている。伏見の町を造るきっかけになった伏見城は取り壊され今は無く、その領域に明治天皇陵が居座っている。伏見の住民にとっては、たとえ擬似とはいえ伏見のシンボルとしてお城を残してほしかったのでしょう。
五重6階の大天守と三重4階の小天守、櫓門などが鉄筋コンクリートで造られた。この場所は、伏見城御花畑山荘と推定されている場所で、かっての本丸の位置とは異なる。
「伏見桃山城」という名は遊園地用に近鉄が付けた名称で、歴史用語ではありません。豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全く別のものです。別名「近鉄城」。

運動公園となっているだけに、野球場、多目的グランド、体育館などが設置されている。お城をバックにして野球するのもよいですね。城に向って打て~。
平日のせいか、どの施設も閑散としていたが、体育館裏のグランドでは、おじさん、おばさん達がゲートボールではしゃいでいました。

なお、現在は耐震性の問題から城の中へは立ち入り禁止になっている。外から見上げるしかありません。映画やドラマのロケ地撮影等に利用されているそうです。
この周辺は「桃山」と呼ばれるが、現在は桜の名所で、毎年春になるとその桜が満開になって、多くのお花見でお城周辺は大変賑わうそうです。今は閑散としていますが。

 伏見北堀公園  



野球場を北側に下っていくと体育館があり、体育館と道路を挟んだ斜め向かいに清涼院(せいりょういん)という小さなお寺があります。現在は浄土宗知恩院派の寺院(尼寺)ですが、秀吉の死後に伏見城に入った徳川家康が愛妾お亀のために建てた庵が起源とされている。お亀さんに子供が生まれ、「五郎太丸」と名付けられた。この五郎太丸こそ、後の尾張藩初代藩主・徳川義直。
本堂にはお亀さんの像と五郎太の青年時代の像が安置されているそうです。狭い境内を周ったが、歴史を示すものは見つけられなかった。入口の立派なサルスベリの木だけが印象に残りました。京都市指定保存樹だそうです。
現在の町名に、”亀”、”五郎太”が遺されているのは、さすが歴史の町・伏見だけある。

体育館脇が伏見北堀公園の入口です。伏見北堀公園は伏見丘陵の北側に、運動公園に接して造られた東西600mもある細長い公園。公園といっても娯楽施設があるわけではない。池と、遊歩道と、青々とした樹木が生い茂っているだけです。ファミリーで楽しめるというより、中高年の健康増進と憩いの場所となっている。
伏見北堀公園は、伏見城北側にあった外堀の遺構を利用したもの。窪んだ地形に細長い池、お城の堀だったということがよく分かる。今日、見て周ったなかで一番伏見城の面影を偲ばせる場所でした。

伏見北堀公園の東端から坂道を上り、右に折れると三叉路の突き当たりになる。この三叉路を左へ行けば古御香宮へ、右へ行けば仏国寺です。
その三叉路の突き当たりに「黒田長政下屋敷跡」の石柱と案内板が設置されている。秀吉は、伏見城の傍に全国の大名の屋敷を営ませた。大名とその妻子は帰国を許されず、常住を義務付けられたそうです。この辺りに、黒田官兵衛、長政親子の下屋敷があったという。参考地となっているが。

 古御香宮(ふるごこうぐう)と仏国寺  



三叉路を左に進み100mほど下ると,右手に古御香宮社の参道入り口が見えてきます。坂道の参道を登っていくと、鳥居が建ち,その奥に小さな本殿が見える。この神社は,秀吉の伏見城築城の折,北東の鬼門の方角にあたるこの地に鬼門除けの神として,御香宮神社(伏見九郷石井村、現在の伏見区御香宮門前町)の神を勧請し本殿を建てたのが始まり。しかし秀吉の没後の慶長十年(1605)、家康が城下町の人心安定のため、再び 元の地にに戻した。そこから「古御香宮(ふるごこう)」と呼ばれる。1868年、鳥羽・伏見の戦いの時には,御香宮神社の境内が薩摩藩の屯所になったので、神霊は一時的に古御香宮に遷されている。御香宮神社と同じ安産守護の神功皇后ほか九柱を祀る。

参道から本殿の右側の雑木林は,「大亀谷(おおかめだに)陵墓参考地」として宮内庁が占領管理し,柵で囲われ立ち入り禁止になっている。「ひょっとしたら桓武天皇の埋葬地かもしれない」という理由です。室町時代の古図に,それをにおわす記述があるからという。また大正時代にこの周辺から,花崗岩の板材を組み合わせた「石棺」が出土し,近くの仏国寺境内に置かれているそうです。古御香宮社本殿前には,その石棺の台石といわれる大きな石板が敷かれている。桓武天皇と関係あるのでしょうか?。

「石棺」が置かれているという仏国寺へ寄ってみる。「石棺」は大正時代に発掘され、花崗岩の切石造りで、長さ2.60メートル、幅1.28メートル、高さ1.13メートル。天井石は4枚、底石は5枚、側石は4枚からなっていたという。
入口の案内板には、江戸初期の代表的茶人、作庭家で伏見奉行でもあった小堀遠州の墓もあるという。境内のほとんどが墓地で、多くの墓石が群立している。その墓石の中を、「石棺」と小堀遠州の墓を探し回った。しかし、結局どちらも見つけることができませんでした。

あきらめて帰途につく。仏国寺からの下り坂で前方を見ると、眺望が開け伏見丘陵がよく見えています。これは写真に撮らなければならないと、道脇の低い崖をよじ登る。ところがなんと、目の前に小堀遠州の墓が飛び込んできた。こんな墓地の端の端に置かれているとは。ただし仏国寺の管理外のようです。

仏国寺への坂道から眺めた伏見丘陵です。今まで丘陵全体を見渡せることができなかったが、ここでは見渡せます。中央の一番高い辺りに伏見城天守閣があったと推定されている。その向こう側に、現在明治天皇陵があります。

 大岩山展望所  



仏国寺から坂道を200mほど進んだ所で右の道に入る。ここはやや判りにくいので、標識に注意すること。道を進んでいくと、住宅街を抜け竹林が見えてくる。200mほど竹林が続く。道はよくないが、両側の竹が爽やかだ。

竹林を抜けると道はやや急になってくるが、展望が開けてくる。ソーラーパネルが広がり、反対側は山を削る採掘場となっており雰囲気は良くない。その上、道も悪し。この道は京都一周トレイルになっているのだが・・・。

さらに数百m歩くと大岩山展望所に着く。一気に見晴らしがきき、その景観に感動します。想像していた以上の眺めだ。
大岩山展望所は京都一周トレイル「伏見・深草ルート」にあり、2010年3月に設けられた。最近、京都の新夜景スポットとして若者に人気だそうです。ただし駐車場も見当たらず、道も狭い。車では、不可ではないが難しいのでは。

京都方面を眺める
1:東寺、2:愛宕山(924m)、3:嵐山、4:名神高速道路、5:京セラ本社ビル、6:ポンポン山(679m)

大阪方面を眺める。
手前に伏見丘陵全体が見え、お城が乗っている。中央に、はるか遠く微かに大阪市内のビル群が見えます。アベノハルカスも肉眼で確認できました。右奥の丘陵は、岩清水八幡宮のある男山と思われます。

大阪市内の中心を、300mm望遠ズームで撮ってみました。中央辺りに大阪城があり、中央からやや左に薄っすらとそびえる一番高い建物がアベノハルカスです。右側には梅田、中の島辺りの高僧ビルが群立しているのが見える。
大気が澄みビルなどなかった秀吉の時代、伏見城と大阪城はお互いに見通せていたのです。どのような感慨をもって眺めあっていたのでしょうか。


詳しくはホームページ

伏見城と明治天皇陵 2

2017年10月22日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)今は明治天皇御陵となっている旧伏見城周辺を歩く

 明治天皇陵(伏見桃山陵)2  


230階段を登りきると現れる壮大な明治天皇御陵。仰げば尊し、感激のあまりひれ伏すか、230段に疲れはてヘタリ込むか。
鳥居後方の山上に、伏見城の本丸や天守閣がそびえ立っていた。その壮大な姿が浮かんできます。秀吉はそこで亡くなった。明治天皇墓の後方上に秀吉の墳墓を造ってはどうでしょうか。

明治天皇陵の正面拝所。明治天皇(1852~1912)は京都・中山邸で生まれ、父・孝明天皇の崩御により慶応4年(1868)16歳で第122代天皇に即位されました。大政奉還、王政復古から鳥羽・伏見の戦いという激動の時期です。即位すると京都を離れ東京の皇居に住まわれた。そして明治45年(1912)7月30日、宮中で崩御された。61歳、在位46年間でした。

天皇は生前「朕が百年の後は必ず陵を伏見に営むべし」という御遺志を残されていた。生誕の地であり少年期を過ごした京都に愛着があったのでしょうか。何故、伏見になったのか?。陸軍大演習の時、明治天皇はこの丘陵で統監され、この地が大変気に入ったとされる。そのため、東京でなく京都の伏見に葬られることになった。用地は生前より取得され、造営も行われていたという。

大正元年(1912)9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の明治神宮外苑)で大喪の儀が行われた。翌9月14日午前1時40分、天皇の遺骸は青山仮停車場の霊柩車両に移御され、午前2時に発車し京都に向う。翌9月15日午後5時10分、遺骸は伏見の桃山仮停車場に到着。八瀬童子(後醍醐天皇以降、天皇の輿丁を担ってきた集団)104人の輿丁(よちょう)に担われ、午後7時35分に御陵の祭場殿に到着。皇族が隣席するなか、霊柩は玄室に奉安され葬られた。午後9時55分に奉葬の式が終了する。

宮内庁の正式御陵名は「伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)」で、陵形は「上円下方」。

Wikipediaを引用すれば「墳丘は古式に範を採った上円下方墳で、下段の方形壇の一辺は約60メートル、上段の円丘部の高さは約6.3メートル、表面にはさざれ石が葺かれている。方形の墓坑を掘って内壁をコンクリートで固め、その中に棺を入れた木槨を納めた。槨内の隙間には石灰を、石蓋をしてコンクリートで固めた。上円下方墳の墳形は天智天皇陵がモデルにされたという。」という。
大化の改新を断行した天智天皇陵を模したものだが、その後天智天皇陵は八角形墳だったことご判明している。
円墳には堅牢さを保ち、雑草を生えさせないためにさざれ石が葺かれ、コンクリで固められている。この「さざれ石」こそ日本国歌の”さざれいし”なのです。

Google Earthで上空より俯瞰(右は昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵))
天皇の葬制については、中世では天皇も仏式に火葬され寺に埋葬というのが一般的になる。南北朝時代中頃から泉涌寺(京都市東山区)で天皇の火葬が行われるようになった。しかし江戸時代初め頃から天皇家の葬礼が土葬に戻り、天皇の葬儀場だった泉涌寺で葬儀が行われ、そのまま埋葬された。それが泉涌寺の月輪陵で、15人の天皇が眠っている。陵墓は石造塔形式の簡単なものです。宮内庁は陵形「九重塔」と表現している。まさに武士の時代で、皇室の衰えを象徴している。

ところが、幕末にいたって尊皇思想が高揚してくると天皇のお墓についても変化が生じてくる。第121代孝明天皇(明治天皇の父)が崩御されると、月輪陵の裏山を切り開き整形し、大規模な墳丘を持つ円墳が築造された。古墳時代に逆戻りしたのです。
明治天皇の陵墓も父を踏襲し、伏見城跡の山を削り整形し、父をもしのぐ大規模な陵墓が造られ、土葬された。大正天皇(武蔵野陵)、昭和天皇(武蔵野陵)も規模こそ小さいが、同様に「陵形:上円下方」(宮内庁の呼び方)の墳丘が造られ土葬された。

平成25年(2013)11月14日、宮内庁から「今後の御陵及び御喪儀のあり方について」が発表された(内容は宮内庁サイトを)。それによると、ご葬法について今上天皇(明仁)および皇后(美智子)さまから「御陵の簡素化という観点も含め,火葬によって行うことが望ましいというお気持ち,かねてよりいただいていた」という。それを受けて宮内庁で検討した結果、
・御陵は今までどおりの上円下方形とし、規模は昭和天皇陵の8割程度とする。
・今後の「御葬法として御火葬がふさわしいものと考えるに至った」
と発表された。これにより、江戸時代初期から350年以上続いてきた天皇・皇后の葬儀と埋葬方法は今上天皇の代では大きく変わることになる。

 昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵)  



明治天皇陵拝所前広場の東側に、下っていく参道がある。200mほど下っていくと、明治天皇の夫人・昭憲皇太后陵の拝所が見えてくる。ここは伏見城の名護屋丸跡に位置するようです。

昭憲皇后(一条美子、1849-1914)は藤原道長を遠祖とする藤原家の分家である一条家出身。大正3年(1914)4月11日崩御。中国の古式に則って、夫の天皇陵の東に造営されることになった。宮内庁の正式名称は「伏見桃山東陵(ふしみももやまのひがしのみささぎ)」。明治天皇と同様に大きな上円下方墳。規模はやや小さいが、ほぼ同じ作りである。三本鳥居をもち、並みの天皇陵より大きな構えだ。

ところで陵名は「昭憲皇太后」となっている。なぜ「昭憲皇后」でないのか。天皇の夫人は「皇后」、前天皇の皇后、つまり天皇の母親が「皇太后」です。だから明治天皇の夫人を「皇太后」とするのは間違い。何かの手違いで「昭憲皇太后」と天皇に上奏され、その裁可を得て決定されてしまった。天皇の決定は覆すことができないという。アア、不条理・・・
この周辺は、おじさん、おばさんのよい散歩道となっている。

 伏見桃山御陵参道  



昭憲皇太后陵から明治天皇陵前の広場に戻る。写真の左が230階段、前方奥にも参道がある。この参道は、伏見の大手門商店街、京阪電車・伏見桃山駅や近鉄・桃山御陵前駅から真っ直ぐ伸びるなだらかな道です。天皇陵の脇に出てくるので「脇参道」のようですが、ひょっとしたらこちらの方が表参道かもしれない。この参道を歩き、桓武天皇陵(柏原陵)へ向います。この参道の入り口には、桃山陵墓監区事務所とトイレがあります。

参道の中ほどの脇に、20個ほどの大きな石が置かれている、というか展示されているようでもある。御陵の工事中に出て来たものを集めたのでしょう。旧伏見城の石垣に用いられた残石だそうです。
残石には、文様や傷跡など、当時の生々しい痕跡を残しているものもあります。数少ない伏見城の残滓の一つです。

鬱蒼とした杉や檜に囲まれ、厳かな雰囲気を感じさす広く綺麗な参道を歩く。ただ、砂利がばら撒かれているだけなので、ズルズルして歩きにくい。どこの天皇陵も、その陵域は高さ1m以上もある頑丈な柵で囲まれ護られている。ところがここは柵とはいえないほどの低く簡単なもので、入ろうと思えば簡単に入れてしまう。そしてどの天皇陵にも張られている「犬の散歩は・・・」「犬のフンは・・・」の注意書きが見られない。
下っていくと左右の道と交わる。左は乃木神社方向へ。右の道が桓武天皇陵(柏原陵)へ続く参道となっている。
真っ直ぐ伸びた参道の遠くには、電車が通過し、その先に伏見の町並み見える。

右へ折れ桓武天皇陵の参道に入る。やがて、柵越しに小さな池が見えてきます。内堀の跡と推定され、数少ない伏見城を偲ばせる遺構です。この辺りには、かって石田三成の屋敷があり、三成の官名「治部少輔」から「治部少丸」と呼ばれていた。この池も「治部池(じぶいけ)」と名付けられている。ここの町名も「桃山町治部少丸」です。
柵の向こうの雑木林の中にチョコッと見えるだけです。案内板など何も無いので、予備知識がなければ見のがすかもしれない。

 桓武天皇陵(柏原陵)  




治部池のある所から100mほどで、交差路になる。真っ直ぐ行けば桓武天皇陵へ、右に曲がれば伏見桃山城運動公園です。この辺りの道は「京都一周トレイル」の中の「深草トレイル」コースで、よく整備されています。

入口の交差路から2~3分も歩けば桓武天皇陵(柏原陵)の拝所に着く。宮内庁はここを第50代桓武天皇の御陵「柏原陵(かしわばらのみささぎ)」と治定している。陵形は円丘。
ここの地名が「伏見区桃山町永井久太郎」。伏見城時代に,永井直勝と堀久太郎(秀政)のお屋敷があった場所らしい。

この場所が桓武天皇の真の埋葬地かどうかは、大いに疑問視されている。Wikipediaを引用すれば
「在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた。『延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。」

要するに、伏見城築城の影響を受け、判らなくなったしまったのです。明治天皇陵の西北にあった伏見城二ノ丸跡説というのもある。幕末に谷森善臣という学者が、現在の地にあった高まりを桓武天皇陵だと主張した。これを受け、当時の宮内省が明治13年(1880)に「桓武天皇柏原陵」と決め、現在まで引き継がれている。考古学的な考証など行われておらず、全く根拠がない。今の宮内庁も信じていないのか、伏見丘陵の東北にある古御香宮社周辺を”ひょとしたらここかも”と「大亀谷陵墓参考地」として押えています。

桓武天皇は、都を奈良から長岡京に遷し、さらに10年後に京都の平安京へ遷都した。同じ伏見の丘陵に、京都に都を移した天皇と、1200年後に京都から東京に都を移した明治天皇が、枕を並べるように眠っておられるのは単なる偶然でしょうか。


詳しくはホームページ

伏見城と明治天皇陵 1

2017年10月15日 | 名所巡り

2017年9月29日(金)
夏も終わり、涼しくなってきました。そろそろ出かけることにした。今回は京都市伏見区にある伏見城跡と明治天皇陵を中心に歩いてみます。
豊臣秀吉が築き、徳川家康に引き継がれ数々の歴史を刻んだ伏見城です。しかし現在その姿を見ることも、城地さえうかがうこともできなくなっている。その城地の大部分が明治天皇夫妻の陵墓として宮内庁管理下に置かれ、一般人はおろか研究者さえ立ち入り禁止になっているからです。Google Earthを利用して空から偲ぶしかない。
姿の見えない伏見城ですが、明治天皇陵周辺から伏見丘陵(桃山丘陵)にかけて歩いてみます。そして最後は大岩山展望所へ登り、全体を俯瞰します。

 伏見城  



姿の見えない伏見城をGoogle Earthの空中写真で(数字は、私の歩いたコース順です)
1:大光明寺陵、2:乃木神社、3:230段の階段、4:明治天皇陵(伏見桃山陵)、5:昭憲皇太后陵(伏見桃山東陵)、6:旧伏見城の残石、7:桓武天皇への入口、8:治部池、9:桓武天皇陵と伏見桃山城運動公園へ分岐路、10:桓武天皇陵(柏原陵)、11:遊園地用伏見桃山城、12:伏見桃山城運動公園、13:清涼院、14:伏見北堀公園、15:黒田長政下屋敷跡、16:古御香宮社、17:仏国寺

秀吉の死、関が原の戦い、家康・秀忠・家光の将軍就任、大坂城攻撃の拠点など重要な歴史を刻んできた伏見城。しかし現在その姿を見ることができないどころか、詳細も判明していないという。廃城が決定すると、一部の建物、石垣は解体され他へ持ち去られ、残ったものは徹底的に破壊されて跡形も無くなっている。「幻の城」なのです。
その上伏見城の跡地は、明治天皇存命中から宮内省が占拠し、明治天皇死後「伏見桃山陵」として占領統治している。御陵内部へは、宮内庁職員以外、研究者を含め誰も立ち入りことができない。皇室聖地の「静安と尊厳」を守るためだそうです。伏見城の調査・究明などできるはずがない。空から見ても、青々とした樹木が繁るのみで、お城の痕跡さえ覗えない。

なお伏見城の遺構で、持ち出された代表的なものは以下。
本丸天守--→二条城
伏見櫓--→江戸城、福山城
大手門--→御香宮神社(伏見区)
唐門--→豊国神社、醍醐寺の三宝院、西本願寺
茶室--→高台寺

 伏見城の歴史  


★指月の城 <文禄元年(1592)~文禄5年(1596)>
文禄元年(1592)8月、豊臣秀吉(1536/1537-1598)は、関白の位と京都での居城であった聚楽第を甥の豊臣秀次に譲り、自らの隠居所として宇治川沿いの低地丘陵である指月(しづき)の岡(現在の伏見区桃山町泰長老辺り)に邸宅の造営を始める。これが後の伏見城の原形とされる。
この指月の地は、平安時代より観月の名所と知られていた。(指月の場所については「指月の地」参照)
文禄2年(1593)8月、嫡子秀頼が誕生すると、位を譲った秀次との関係が悪化したことから、翌文禄3年(1594)には隠居屋敷は本格的な築城に改められ,天守閣などの城郭施設をもつ平山城に造り替えられていった。これが指月城です。淀古城の天守や櫓を移築し、延べ25万人を動員し,わずか5ヶ月で完成、8月1日に秀吉が入城している。同時に城下町の整備も行われ、武家屋敷,寺社,町家などの町割が行われ、現在の町の原型が形づくらた。
ところが築城後間もない文禄5年(1596)7月、後に「慶長伏見地震」と名付けられた直下型の大地震が発生した。建物は倒壊し多数の犠牲者をだしたが、秀吉は無事で翌朝に北東へ1キロ離れたに木幡山(こばたやま、標高100m)に逃れ、そこで避難生活を送った。

★豊臣秀吉の築いた木幡山城(伏見城)<慶長元年(1596)~(慶長5年(1600)>
地震後すぐ、避難先の木幡山で築城が始まった。指月城の再利用できる資材を運び、昼夜を徹した築城工事が行われた。翌慶長2年(1597)5月までには本丸、天守閣が完成し、秀吉は秀頼とともに大坂城から移ってきた。
本丸を中心に、西北に天守閣があり、西方に淀殿の住した二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸等の曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在したという。それらの周囲は堀(最大幅100m)、空堀、高石垣で囲まれていた。
全国各地から有力大名が集められ、大名・武家屋敷が連なり、さらに商工業者も住むようになり城下町も広がっていった。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉はここ木幡山伏見城で没する。秀吉の遺言により、秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭だった徳川家康が伏見城に入り政務を執る。

(「京都歴史散策マップ」を利用)
★伏見城の戦い(◆木幡山城の戦い)
慶長5年(1600)6月、家康は伏見城の留守居役に家臣・鳥居元忠を任じ、会津征伐に動き出す。この間隙をぬって、西軍の石田三成、小早川秀秋、島津義弘連合軍は伏見城を4万の兵で攻めた。鳥居元忠は、籠城し10日間持ちこたえたが、本丸で討死する。伏見城は炎上し、落城する。秀吉の築いた伏見城はこうして焼け落ちてしまった。この時の戦いで、立てこもっていた徳川家の家臣らの割腹の際の血染めの廊下板が、「血天井」として京都市の養源院、正伝寺などに遺されている。ただしその真偽は不明。この木幡山城の戦いが、この後の関ヶ原の戦い(1600年)の前哨戦とたった。

★徳川家康による木幡山城(伏見城)再築  <慶長5年(1600)~元和5年(1619)>
慶長5年(1600)9月の関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康は,翌年には藤堂高虎を普請奉行に命じ伏見城の再建を始めた。慶長7年(1602)には再建され、家康が入り大阪城の豊臣氏に対する西の拠点とした。翌年慶長8年(1603)2月,家康は伏見城で征夷大将軍に就任しました。その以後三代徳川家光まで伏見城で将軍宣下式を行っている。

その後、駿府城が改築されると家康もそちらに移り、宝物や什器、備品など駿府城へ移された。慶長12年(1607)に松平定勝が城代となり、また大番等による在番や定番が行われた。元和元年(1615)の大坂冬の陣・夏の陣では大坂城攻撃の拠点となる。

★廃城とその後 <元和5年(1619)~>
大坂の陣後、豊臣氏が滅亡し伏見城は城郭としての役割を終える。京都には二条城があるので、一国一城令の主旨からも伏見城の必要性はなくなり、元和5年(1619)に廃城が決まる。元和9年(1623)7月16日の三代将軍徳川家光の将軍宣下の式を最後に、廃城となる。五層の天守は二条城、また、福山城、淀城などに移された。建物、石垣などは京都の社寺や大名屋敷に移築されたともいう。城跡は徹底的に破壊されたとみられている。

廃城後の跡地は「古城山」と呼ばれ、桃の木が植えられた。そこから「桃山」と呼ばれるようになる。歴史用語に「安土桃山時代」「桃山文化」というのがありますが違和感を感じます。織田信長と豊臣秀吉の時代なので、安土城と伏見城から「安土伏見時代」とするのが正解じゃないでしょうか。丸暗記したものは、なかなか消えないでしょうが・・・。また「伏見桃山城」という名は、近鉄が遊園地内に建てた城の名称にすぎず、歴史用語ではありません。
桃山(伏見)丘陵は、現在は桜の名所ですが。

 指月(しげつ)の地  



伏見城は伏見桃山丘陵(木幡山)の上のほうにあったが、伏見城の元になった秀吉の隠居邸や指月城は「指月の岡」に造られたとされる。指月は「四月」とも書かれ、宇治川の中州に浮かぶ川の月、池の月、空の月、杯の月を一度に眺めることのでき、平安時代から月見の名所として知られた景勝の地であったという。
ところがその「指月の岡」が何処なのか長い間不明のままでしたが、最近の調査で少しずつ明らかになってきた。宇治川北岸で、現在の桃山町泰長老一帯を指すと推定されている。京阪電車宇治線・観月橋駅とJR奈良線・桃山駅に挟まれた地域です。現在は住宅地となっており、団地や近畿財務局桃山東合同宿舎が建っています。この周辺を歩いてみました。
京阪電車宇治線・観月橋駅を降り、200mほど歩くと月橋院(げつきょういん)というお寺に出会う。ここには応仁の乱後に創建された後土御門天皇勅願の般舟三昧院という寺があったが、秀吉の築城のおり上京・西陣へ移転する。その跡地に真言宗の円覚寺が開創されたのが始まり。この寺で、秀吉が月見の宴を催したことから「月橋院」となったという。現在は、「指月山」を山号とする曹洞宗のお寺。
境内に石柱「指月山月橋禅院」が立つ。この辺りが「指月」の地であったことをうかがわせます。

住宅路を丘陵方向へ向って真っ直ぐ進むと、JR奈良線に突き当たる。その手前を左折し150mほど行くと天皇陵・大光明寺陵(だいこうみょうじりょう)の入口が現れる。150mほどの参道を進めば拝所です。
この場所には、夢窓疎石(むそうそせき)が建立した臨済宗の大光明寺という寺があった。伏見城築城時に相国寺に移転する。この寺が北朝方の御願寺だったので、後に北朝方だった光明、崇光天皇の陵墓としたのでしょう。治仁(はるひと)親王の墓もある。この人は崇光天皇のお孫さんです。

ここは光明天皇(こうみょうてんのう、在位:1336-1348)と崇光天皇(すこうてんのう、在位:1349-1351)の御陵です。ところが宮内庁の陵墓一覧には載っていない。南北朝時代の北朝の天皇さんだからです。
南朝、北朝に分裂した争いは、1392年(元中9年/明徳3年)南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合体した。そして北朝方の天皇の系統が現在まで続いている。だからどちらが正統かといえば、北朝となる。事実、江戸時代まで北朝正統論が主流だった。
ところが明治維新後は南朝正統論が台頭してきます。南朝の後醍醐天皇が、幕府を否定し天皇親政を実現しようとした倒幕運動が、明治維新を成しとげた尊皇イデオロギーと結びついたのでしょう。学会で論争になり、帝国議会までもが紛糾する。事態を憂慮した明治天皇はついに明治44年(1911)、「南朝を正統とする」旨を決定しました。北朝系の明治天皇も誰かに言わされたのでしょう。歴史教科書でそれまで使われていた「南北朝時代」という歴史用語も、”北朝”を含むと問題視され、「吉野朝時代」に変えられてしまったという。

この明治天皇の裁定は現在でも有効で、北朝の6代6人の天皇のうち後小松天皇を除く5人は、歴代天皇に含まれないことになった。そのため宮内庁の陵墓一覧に載っていないのです。ただし、歴代には数えないが、正式な天皇として認め、祭祀なども天皇としておこなわれているそうです。系統的には明治天皇以降平成天皇までも北朝系です。しかし正式に正統とされているのは南朝のほうです。おかしな話ですネ。こうした天皇制の微妙なところは誰も手をつけようとしない。天皇制は妖怪です。
公式陵形は円丘。現在の天皇の直系の先祖にしては、ちょっとお粗末な陵墓に見えます。

 乃木神社  



JR奈良線のガードを潜り、突き当りを右折し坂道を上るとすぐ正面に乃木神社が見えてくる。すぐ傍に桃山小学校があり、生徒達の明るい声が飛び交っている。地名は「桃山町板倉周防」で、伏見城時代には武家屋敷があった。

乃木希典(のぎ まれすけ、1849-1912) は長府藩士で、西南の役、日清戦争、日露戦争と明治期の戦争に従軍した軍人。後に陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵となり、「乃木大将」「乃木将軍」などと呼ばれた。
明治天皇が崩御すると、大葬の列を見送って帰宅した後、赤坂の屋敷にて皇居に向い静子夫人とともに自害する。
この乃木夫妻の死は、天皇への忠心「殉死」として美化される。時の権力によって宣伝流布され、天皇へ身をささげる犠牲の精神の高揚へと利用されていった。乃木希典の本望だったか、否か・・・。「殉死」として美化されるにつれ、全国各地に乃木神社が建立されていったのです。

楠木正成を祀る湊川神社を模して造られたという本殿には、乃木夫妻が神として祀られている。北にある明治天皇陵に向いて建てられています。
本殿前左右には二頭の馬が跳ねている。左が日露戦争後にロシアのステッセル将軍から贈られたアラビア産の牡馬。「壽号(すごう)」といい、乃木の愛馬であった。右は、壽号の子馬で「璞号(あらたまごう)」と呼ぶ。


本殿脇に村野山人像が建つ。村野山人(むらのさんじん)とは乃木神社を創建した方です。案内板を要約すると。
村野山人は薩摩の人で、九州、関西などの各電鉄会社の取締役を歴任し、また衆議院議員も二期務めている。明治天皇の大葬の際は京阪電車の会社代表として参列。翌日、乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。乃木夫妻の1周忌にあたる1年後、会社を辞め全ての身代を投じて、明治天皇の奥津城たる伏見桃山陵の傍らに乃木夫妻を祀る神社創建に尽力する。ここの土地はもともと皇室の御料地だったが、村野山人をはじめ政財界人や軍人の努力や、時の政府の力添えによって建設が許可され、大正5年(1916)9月に創建された。

境内には、長府(山口県)生家を復元した建物、日露戦争時の旅順・第三軍司令部だった建物、軍艦吾妻の主錨など、乃木将軍に関係するものが置かれておる。その中に「さざれ石」というのがありました。国歌の”さざれいし”が石のことだと初めて知った。直接、乃木将軍とは関係ないのですが、さすが国威発揚の地です。

 明治天皇陵(伏見桃山陵)1  


乃木神社を出て鳥居をくぐり北へ少し進むと三叉路になる。右に折れ、青々とした樹木に囲まれた車道を歩く。天皇陵へ通じる道らしく森厳な雰囲気に満ちている。涼しく気持ちいい。左の森は宮内庁統治の占領地となっており、頑丈そうな柵で囲われ何人も入れない。
車道は二手に分かれる。天皇陵へは左の道に入る。右の道は下って宇治方面への向かっている。

すぐ左手に噂の230段の石段が現れる。この辺り、静かさの中に厳粛さが演出されています。
伏見城の本丸や天守閣は、ちょうど階段の上方にあったと想定されている。この階段辺りには何があったのでしょうか。大手門?櫓?。この広場は、内堀だったかもしれない。いろいろ想像してしまう。

石段前の広場には、さらに奥へ続く参道がある。この参道は昭憲皇太后陵への緩やかな坂道となっている。そして昭憲皇太后陵から明治天皇陵へつながっているので、この回り道を利用すれば230段の石段は回避できます。

階段はかなり急で、登り応えがあります。23段ごとに幅広段となり、全部で10区切りされている。

室生寺の鎧坂、神護寺の金堂前の階段を思い出し、紅葉や桜で覆われた階段をイメージしてしまった。230段もあるので、その色鮮やかな風景に、シーズンには見物客が押し寄せることでしょう。しかしここは皇室の聖地、静安と尊厳を乱してはなりません。階段横の樹木を見るが、色鮮やかさを演出するような樹木は見当たりません。
この階段は粛々と登るためだけのものです。それと若人、中年をとわず健康増進の鍛錬場となっている。さすがに後期高齢者には無理かも。それより、明治・大正生まれの人って、まずここまで来れないでしょう。

230段の石段をようやく登りきると、目の前に厳かな明治天皇墓が次第しだいに姿を現します。天皇崇拝者にとっては感動的な瞬間と思われます。私は、天皇墓より階段上からの景観のほうに感動したという、不敬者です。伏見南部から宇治市、遠くに生駒山から連なる山々が見渡せる。後ろの山上に建っていた伏見城天守閣からは、大阪城も見えたかもしれない。


詳しくはホームページ

奈良 桜 二景 (高田川河畔)

2015年04月26日 | 名所巡り

 高田川河畔(高田千本桜)  



2015/4/4(土)
12時前、JR王寺駅に戻り、JR和歌山線で高田駅に向かう。王寺駅から5つ目の駅だから近い。高田駅の西出口より真っ直ぐ西へ3~4百m歩けば府道132号線に沿って流れる高田川、それに架かる高田橋に出会う。もうこの付近は桜一色。昼過ぎなので、人の流れも多くなっている。

高田川は曽我川の支流で、大和高田市を南北に貫流する。高田橋の上から眺めると、川を覆い隠すように両岸から桜が覆いかぶさっている。護岸工事がされているためかやや川幅は狭くなっているが、もう少し水量多くて屋形船を浮かべ舟上から桜見物できたら最高でしょうネ。

堤防上を100mほど南へ歩けば大中公園への入口が見えてくる。この辺りの堤防下には遊歩道が設けられ、それに沿った芝生斜面が一番の桜鑑賞場所となっている。
大和高田市の公式HPに「千本桜の秘話」が載っています。
昭和23年(1948)1月、市制施行を記念して、高田川沿いの堤防に延長2キロメートルサクラ並木をつくる計画を立てた。サクラ苗木は、市内の町内会から、数本ずつの寄贈をうけ、その数は千本を少し越えたという。ところが、河川の堤防にサクラを植樹すると堤防を弱くするという理由で県が許可しなかった。そこで当時の市長が進駐軍の奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐に協力を求め、やっと植樹できたという。
樹齢60年を超えた見事な桜並木は、今や奈良県を、いや関西を代表する桜の名所になっています。

「高田千本桜」と呼ばれ、大中公園を中心に川の両岸南北2.5キロメートルにわたり、見事な桜並木が続きます。その中心が大中公園。三室山と違い、こちらは多くの屋台が並び賑わっている。夕闇とともに、ぼんぼりに灯が入り、ライトアップされた夜桜を見物できるそうです。そのころはすごい人の波でしょうネ。


大中公園の真ん中には大中池がある。池の中に浮舞台が張り出している。「桜華殿(おうかでん)」と呼ばれる本格的な能舞台。岸から渡り廊下で結ばれ、ヒノキ造り65平方メートルの舞台となっている。
池の中に浮かぶ姿は優雅で、能・狂言・雅楽などの芸能が行われるのなら、夕方まで待っても良いかな、と思った。しかしそれらしき様子もければ、案内も無い。満開の桜シーズンで土曜日だというのにもったいない気がします。
以前この舞台で白拍子の舞が演じられたという。白拍子といえば源義経に見初めらた静御前が有名です。雪の吉野山で義経と別れた静御前は、捕われ鎌倉へ送られたが、晩年は母・礒野禅尼の故郷ここ大和高田でその生涯を閉じたと伝えられている。公園の片隅に「静御前記念碑」があるそうだが、見つけられなかった。この舞台で、桜吹雪を浴びながら舞う白拍子の姿を見てみたいものです・・・。
水面に映る“さかさ桜”も綺麗!!。公園の半分は芝生の広場。土曜日とあって宴で盛り上がっていた。ここではバーベーキューもOKのようです。

大中公園から南へ歩きます。高田川に沿って桜のアーチはどこまでも続く。ソメイヨシノがほとんどだが、山桜,彼岸桜などもあるようです。この景色を見ると、桜吹雪の舞う中を歩いてみたくなります。


やがて大中橋へ。ここが南の入口のようですが、堤防沿いの桜並木はまだまだ南へ続いている。関西を代表する桜の名所となった「高田千本桜」、これから夕方にかけてまだまだ人出が増えてきそうです。

大中橋上から撮りました。北側は行楽できるように整備され、皆さん楽しそうに食事をされている。南側は整備されておらず、誰もいてません。川岸で花見見物できるのは大中橋までのようです。

河畔の桜並木はさらに南へ続いている。近鉄電車の踏み切りに出会うあたりで、ようやく桜並木は途絶えます。視界が開け、西方に二上山が見えてきた。「馬の背」を挟み、右の雄岳と左の雌岳の形がよくわかる。



詳しくはホームページ

奈良 桜 二景(三室山)

2015年04月20日 | 名所巡り

 2015/4/4(土) 三室山へ 


今年の桜の開花は早い。明日からの天気予報は良くないので、4日(土曜日)に出かけた。奈良県の桜の名所・三室山です。奈良県生駒郡斑鳩町神南(じんなん)4丁目にあり、JR大和路線・王寺駅と斑鳩・法隆寺の間に位置する。王寺駅から王寺の町を抜け、大和川に架かる昭和橋を渡る。大和川沿いに東へ進み、支流の竜田川に沿って北上すると桜の山が見えてくる。地図では近くに思えたが、実際に歩くと遠かった。30分はかかります。

三室山の歴史は、遠く飛鳥時代、聖徳太子が斑鳩宮造営にあたり、太子の出生地の飛鳥神名備の産土神をこの地に勧請されたのが由来とされ、その神々は現在山の中腹にある神岳神社に祀られている。そこから神南備山(かんなび)、三諸山(みもろ)と呼ばれ、現在の地名である「神南(かんなび)」の由来となっている。
三室山を含め竜田川の川畔上下1.4キロが「県立竜田公園」となっており、春には桜、秋には紅葉の名所となっています。

三室山の正面を過ぎた辺りに岩瀬橋がある。国道25号線に架かる橋で、車の往来も激しい。三室山の全景をビューするにはこの橋上が一番の場所です。
三室山は標高82メートルで高くない。山というより丘といったほうが相応しいかも。全山桜一色・・・といいたいが、今見えているこちら側の山半分だけです。西(裏)側は住宅地(公園もあるのかナ?)。

三室山を含む周辺には、ソメイヨシノを中心に約300本の桜が植えられ、ピンク一色に染まった景観を見せてくれている。この周辺にはコンビニ、食事などの店はありません。露天などもも見かけないので、スッキリしている。その分、食べ物、飲料など持込しないと困ることに。

岩瀬橋を渡り左に曲がると三室山への入口(登山口)になる階段が見える。入口の石垣には、和歌が詠まれたパネルが埋め込まれています。
「嵐吹く 三室の山の もみじ葉は 竜田の川の錦なりけり」
   (能因法師、百人一首 69番、1049年(永承4年)後冷泉天皇の宮中の歌会詠み)

「千早ふる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに水くくるとは (在原業平)」

稀代の色男として知られ百人一首で有名な在原業平(825-880)も、この麓の道を天理の櫟本から河内の高安(現在の大阪市八尾市)まで河内姫のもとへ通ったとされている。いつからかこの道は、「業平道(なりひらみち)」の名で呼ばれるようになったとか。

どちらも竜田川の紅葉をたたえた歌のようです。竜田川といえば昔から紅葉の名所として百人一首にも詠まれ、現在でも周辺の竜田公園は秋は紅葉の名所とされる。しかし桜を詠った歌はきかない。ここの桜はいつの時代に植えられたのでしょう?。

ところで、万葉集や百人一首に詠まれている「三室山・竜田川」はここ斑鳩町のものではなく、近くの三郷町のものを指す、という説もあります。地図を見れば三郷町にも三室山(1372m)がそびえている。江戸時代からどちらが元祖かの議論があったという。三郷町のほうが有力なようだが、法隆寺に近く早くから観光地化された斑鳩町のほうが有名になってしまったようだ。

三室山の南側中腹に神岳神社(かみおか)が鎮座している。小さな神社で、祭神は大己貴神、須佐之男神。聖徳太子が斑鳩宮を建てるとき、三輪山の神を三室山に祀り、太子の勅願所として祭祀されていたが、いつしか祭神は須佐之男命に替わったという。拝殿と一間社春日造・銅板葺屋根の本殿は新しいが、狭い境内は荒れている。

神岳神社から山上まではすぐです。山上には一服し、桜景色や大和の風景を一望できる休憩所が設置されている。
休憩所の横に高さ1m90cmの能因法師の五輪塔が建っている。もとは神南の集落にあったとされるが、三室山が公園として整備された際に山頂に移された。

能因法師(のういんほうし。988~1050)は摂津国古曾部(こそべ。今の大阪府高槻市)で生まれ、本名は橘永(ながやす)。大学で詩歌を学び文章生となったが26歳の若さで出家し、甲斐、陸奥、伊予など諸国をふらりと旅して歌を詠む漂泊の歌人となります。三室山麓の神南集落の三室堂に住んだことがあり、三室山にもしばしば遊びに来ていたとか。漂泊の旅で一生を送った中古三十六歌仙の一人。のちの西行法師・松尾芭蕉などにも大きな影響を与えたとされています。


山の上からの眺めも良い。北方には桜木立の間から生駒山が望まれ、その麓が平群の里です。東は法隆寺のある矢田丘陵方向を眺めれる。桜花の隙間から大和の町並み、山々が遠望できる。
桜吹雪も舞うが、これって写真撮るのが難しい。諦めた。


詳しくはホームページ