山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

紀三井寺から和歌の浦へ 2

2020年06月27日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 和歌の浦へ  



「和歌の浦」とは、和歌山市南西部に位置する和歌浦湾をとり巻く景勝地の総称。古くから風光明媚な地として「万葉集」に詠われてきた。古き時代は「若の浦」、「弱浜(わかのはま)」、あるいは「明光浦(あかのうら)」と呼ばれていました。平安初期に衣通姫が和歌の神様として玉津島神社に祀られてからは、皇族や貴族、歌人たちが度々訪れ和歌奉納が行われてきた。この頃から「和歌の浦」と呼ばれるようになったようです。

奈良・平安の頃には、「玉津島山」と総称される船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの小島がこの周辺にあった。潮の満ち引きで陸続きとなったり、離れて浮島となったり、その多彩な変化を現した。その神聖さから稚日女尊、息長足姫尊(神功皇后)らを勧請し、玉津島神社が設けられ、和歌の浦の中心になった。
この和歌浦は都に近いことから多くの文人、貴族らに愛されてきたが、とりわけ聖武天皇はこの和歌浦を気に入り、何度も行幸している。玉のように美しく島々が連なる眺望に感動して詔を発し、玉津島の神と明光浦霊を祀り、この風景を末永く守るように命じた。この時天皇に随行した歌人山部赤人が詠んだ歌
  「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」
は有名です。その後、称徳天皇(765年)、桓武天皇(804年)も玉津島に行幸している。
平安初期、和歌の神として衣通姫が玉津嶋神社に祀られると、和歌の聖地として天皇や貴族、歌人たちに崇拝され参詣や和歌奉納が行われてきた。この頃から「和歌の浦」と呼ばれるようになる。

平安中頃から西国巡礼や高野山、熊野への参詣が盛んになると、その行き帰りに和歌の浦を訪れる人々も増えてきた。菅原道真に因む和歌浦天満宮が創建されたのもこのころである。
天正13年(1585)、紀州攻めを行った豊臣秀吉は和歌の浦を遊覧したのち、その北方に城を築き「和歌山城」と名付けた。これが現在の県名の由来となる。

江戸時代になると、御三家である紀州初代藩主・徳川頼宣(家康の10男)によって和歌の浦の景観の保全整備が行われた。父家康の御霊を祀る紀州東照宮を雑賀山に建立し、また母・養珠院の菩提を弔うため妹背山に三断橋をかけ多宝塔を建てた。その後の歴代の紀州藩主も和歌の浦の景観保護に尽くし、観海閣や不老橋などが造られた。

明治になると別荘地・行楽地の性格が増し、1909年に路面電車が和歌浦まで開通し、観光客増加に一役買った。夏目漱石が訪れたのもこの頃だ。しかし大正中頃から開発、観光客誘致の中心は西方の新和歌浦に移っていった。
現在の和歌の浦は、近代化とかっての景勝地との調和に悩んでいるようです。しかし時代の流れには逆らえず、景勝地としての性格は失われ、単に古跡、旧社の残る観光スポットとなってしまっているようだ。

紀三井寺から西に行くと広い大通りに出る。大通りを渡り、車道に沿って西へ歩くと旭橋という大きな橋です。橋を渡りきった所で左下の湾岸道に下ります(写真の白いビルの手前)。湾岸道は奠供山の近くまで真っ直ぐ続いている。歩くごとに和歌の浦の風景が迫ってきます。

 芭蕉句碑・芦辺屋跡  



和歌の浦に近づいてきました。右端の山が奠供山(てんぐやま)で、玉津島神社の赤鳥居が見えます。正面が鏡山、三断橋を渡って左端に少し見えるのが妹背山。妹背手前の家屋が旧「あしべ屋別荘」です。

鏡山と三断橋との間。交通量が多く、景観に見とれていると大変危険な場所だ。横断歩道も信号もありません。和歌にその絶景が詠われた奈良・平安の頃は、奠供山や鏡山は海に浮かぶ小島で波が打ち寄せ、時には潮の干満によって陸続きになったりと多彩な風景が人々を魅了してきた。現在は、その面影は全くありません。

車道を挟んで三断橋の反対側に芭蕉句碑が建つ。天保4年(1833)の建立。芭蕉句碑は紀三井寺にもあったが、芭蕉は元禄元年(1688)、吉野・高野山そしてここ和歌の浦を訪れている。句碑には「行春を わかの浦にて 追付たり」と書かれている。

芭蕉句碑があるこの辺りの平地には、かって「芦辺屋(あしべや)」という旅館があった。紀州藩初代藩主徳川頼宣が造らせた御茶屋が始まりで、明治時代には和歌浦でもっとも格式高い旅館として多くの著名人が利用している。大正11年には、皇太子時代の昭和天皇も宿泊された。しかしその後(大正14年?)に経営不振のため廃業し、建物は取り壊された。三断橋を渡った妹背山の脇には別館が今なお残されています。


絵図は「明治26年(1893)」、写真は「昭和10年代」とある。










 三断橋と観海閣  



この三断橋(さんだんきょう)は、徳川頼宣が妹背山に母の供養のために海禅院多宝塔を建てた時に造られた石橋で、三つのアーチ状の小橋をつないだ美しい橋です。ここから「三断橋」の名前がきます。
ところが、これが現在の三断橋です。橋の両側には打ち波から防御するためでしょうか、石嚢のようなもので守られています。昨年、関西を襲った大型台風のせいでしょう。和歌山は、関西にとって台風の表玄関なのです。

写真のとおりの橋の惨状だ。ロープが張られ、「通行止め」となっている。立ち入り禁止のようだが、せっかくなのでロープをまたぎました。

傍の説明板に「妹背山は、周間250m程の小島で、西側に砂岩製高覧付きの三断橋が架けられている。この橋は和歌山県内最古の石橋で、紀州藩初代藩主徳川頼宣が妹背山を整備した慶安4年(1651)頃までに建設された。中国の景勝地である杭州西湖の六橋の面影があるといわれ、独特の??・構造を持つ欄干、敷石、橋桁、橋脚は何度か補修されているが、橋の原形は崩れることなく今日まで継承されている。正面右側の「経王堂」と呼ばれる小堂の中には、梵字で書かれた題目碑がある。南側の磯辺の道をたどると東端の水辺に観海閣が建っており、西の方向へ石段を登ると多宝塔の前に出る。」とあります。

三断橋を渡り妹背山の小島へ入り、反対側に周ると海上に突き出た観海閣(かんかいかく)があります。入母屋造り、瓦葺の立派な屋根をのせているが、下は四方に柱を配しただけのただの展望所です。観海閣前の小磯は、亀の姿に似ていることから亀石と呼ばれている。潮の満ち引きで多様に変化するのでしょうね。

この観海閣は慶安年間(1648~1652)に、初代藩主徳川頼宣が木造の水上楼閣として建立したもの。何度か台風で損壊している。現在の建物は、昭和36年の第二室戸台風で流出した後にコンクリートで再建されたものです。

内部からは四方を眺めることができる。特に南側では片男波の砂州を一望でき、現在でも往時の絶景を偲ぶことができます。ここでござを広げ宴でも催されたことでしょう。現在なら、バーベキューに最適の場所ですが。

東側を展望すれば、対岸に名草山を望め、紀三井寺の伽藍が見えます。歴代の紀州徳川家の藩主は、ここから紀三井寺を遥拝したそうです。また民衆にも開放され、多くの人々が多宝塔に詣で、紀三井寺をここから拝観したという。

観海閣の北側には芦辺屋別荘が残されている。本館は無くなっているが、ここの別館は個人に譲渡され現在でも使われているとか。建物の南側は、足場が組まれ数人の作業員の方が修繕中でした。これも台風によるものでしょうか。






 妹背山と多宝塔  



観海閣の脇に階段があり、上に塔が見える。これが海禅院多宝塔(かいぜんいんたほうとう)です。
紀州藩初代藩主・徳川頼宣の生母・養珠院(お万の方)が、慶安2年(1649)に夫・家康の33回忌に多数の小石に法華経題目を書写した経石を石室(東西210cm、南北164cm)に埋納した。その上に小堂が建てられた。経石は、養珠院に賛同した上皇から庶民まで、全国から総数20万個が集められたという。
その後、養珠院が亡くなると頼宣は承応2年(1653)、母の菩提を弔うため小堂を二層の多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立した。これが「海禅院」です。同時に、頼宣は渡るための三断橋をかけ、観海閣を造るなどして妹背山を整備した。江戸時代は紀州徳川家の庇護を受けたが、明治維新以後は庇護するものも無く荒廃し、多宝塔を残すのみとなった。多宝塔は高さ13mの総ケヤキ造り、本瓦葺き。

階段横の民家風の建物は?。洗濯物が吊るされ、犬がさかんに吠えてくれる。住宅としたら、こんな景勝地の高台に住めるなんて羨ましい。でも台風が怖いな・・・。

多宝塔の横に上へ登る道がある。すぐ妹背山(いもせやま)の頂上です。ここからは和歌浦の海がよく望まれ、片男波の出っ張りがきれいに見えます。まるで天橋立のようだ。

背後を見れば、真下の三断橋から鏡山、奠供山を見通せます。奈良・平安の頃には、「玉津島山」と総称される船頭山、妙見山、霊蓋山、奠供山、鏡山、妹背山の六つの小島がこの周辺にあった。潮の満ち引きで陸続きとなったり、離れて浮島となったり、その多彩な変化は多くの人を魅了し和歌などに詠まれてきた。現在は埋め立てられ、小島として残っているのはここ妹背山だけです。
平成20年(2008)、三断橋と共に妹背山が、和歌山県指定文化財名勝・史跡和歌の浦として指定された。

 不老橋と片男波公園  


妹背山の小島を離れ、西に進むとあじべ橋があり、その西側にアーチ型の石橋「不老橋(ふろうばし)」が架かる。片男波の砂洲に渡る橋で、和歌の浦のシンボルにもなっている。
片男波松原にあった紀州東照宮御旅所の移築に際して、第10代紀州藩主徳川治宝の命によって架けられた。第13代藩主徳川慶福の治世の嘉永3年(1850年)に着工し、翌4年(1851年)に完成。紀州東照宮の祭礼である和歌祭の際に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうために通行した「御成道」に架けられたものです。
石材は和泉砂岩を使用し、敷石やアーチ部分の内輪石には直方体状の石材が使用されている。橋台のアーチ部分は肥後熊本の石工集団の施工だそうです。

雲を文様化した勾欄部分の彫刻が優れている。この勾欄部分は、湯浅の石工石屋忠兵衛が造ったという。

(橋を渡り、後ろを振り返った写真)この橋を渡った先には、片男波公園や片男波海水浴場があります。ただし現在は不老橋は使われず、隣の車道橋のあしべ橋が利用されている。というか、不老橋を渡るのはやや危険な感じがします。和歌の浦のお飾りでしょう。

「不老橋」の名前の由来は、住吉神社の神主・津守国基(1023-1102年)が玉津島神社の祭神・衣通姫を詠った
”年ふれど老いもせずして和歌の浦に幾代になりぬ玉津島姫”
という歌からきているようです。

不老橋を渡り片男波公園に入ります。天橋立のような狭長の砂州半島は、和歌浦湾に注ぐ和歌川の河口部に沿うように延長千数百メートルにも及ぶ。万葉集に「潟をなみ(片男波)」と呼ばれ、その風光美が詠まれていました。現在、景勝地としての歴史的景観を考慮しつつ、市民が手軽に楽しめる文化・レクレエーション・スポーツの場として公園整備されています。
私のウォーキング地は人情味溢れすぎた新世界、天王寺公園だが、こうした自然味豊かな場所でウォーキングできるなんて羨ましい。

名草山の山腹にある紀三井寺から、和歌浦湾やここ片男波半島を眺めた景観が大変素晴らしかった。今度は逆に、ここ片男波から名草山を眺めます。かすかに紀三井寺の伽藍が、特に新仏堂のお堂がよく見える。

公園内にある唯一の建物が見えてきた。1階が健康館、2階が万葉館となっています。

万葉集の中には和歌山を旅した歌が107首あり、”和歌”は県名にもなっている。万葉館には、万葉集に関する資料や書籍が展示され、万葉シアターでは映像と音響・照明効果など使った多彩な演出で万葉の世界を体感できるようになっている。
■ 開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
■ 休館日 年末年始(12月29日~1月3日)及び設備機器等の点検日
■ 入場料 【 無 料 】

健康館は、気軽に健康運動ができるアリーナをはじめ、トレーニング室、多目的室、シャワー、ロッカーを備えたコミュニティ体育館です。レンタル自転車も置いていたので公園内を全周してみたかったが、時間の関係で断念。

西側は海水浴場「片男波ビーチ」で、ビーチの総延長は1200mもあるそうです。シーズンには大阪方面から多くの海水浴客が訪れ賑わうという。環境省選定「快水浴場百選」海の部に選定されている(2006年)。

ただし人工的に造られた海岸で、波打つ天然の砂洲とは大きく様変わりし、かっての景勝地「片男波」ではなくなっている。

 塩竃神社と鏡山  



片男波公園を後にし不老橋を渡ると、正面が塩竃神社(しおがまじんじゃ)だ。鏡山の岩盤にへばりつくように、いや食い込んで存在しています。海風に削がれ、波に洗われ、鏡山の岩盤がむき出しになっている。この辺りの奇岩の岩山に波が打ち寄せる様は、和歌浦十景の一つとされたそうです。
神社横の岩盤上に山部赤人の歌碑が干潟を眺めるように建っています。

ここはもともと玉津島神社の祓い所で、神輿が玉津島へ渡御する「浜降り神事」の際、神輿を収めて清め祓いした岩穴だった。そこから「輿の窟(こしのいわや)」と呼ばれた。大正6年(1917)に、祓所から神社になったが、今でも玉津島神社が管理されている。
拝所となっている「輿の窟」と呼ばれる洞窟の内部へ入ってみます。途中で左に曲がり、その奥の岩石のくぼみに御神体がお祀りされている。
祀られているのは「鹽槌翁尊(しおづちのおじのみこと)」。この神様は、山幸彦と豊玉姫の縁を結び、安産によって子供を授けられたことから、地元では安産・子授けの神様として信仰され、「しおがまさん」の愛称で親しまれている。またこの周辺では紀州藩の塩田があり製塩が行われてきたことから、塩づくりの神でもあった。そこから神社名がきているようです。

塩竃神社から車道を西へ100mほど行くと玉津島神社への西参道口がある。参道を入るとすぐ玉津島神社の正面だが、その反対側に階段が見えます。ここが鏡山への登り口です。
途切れ途切れに52段の階段となっており、すぐ頂上についてしまう。頂上は小さな空き地で、周囲を遮るものが無く、見晴らし抜群だ。

上は和歌浦湾と片男波の風景、下は名草山方面。

 玉津島神社(たまつしまじんじゃ、玉津嶋神社とも書く)  


玉津島神社は歴史的景勝地・和歌の浦の中心で、江戸時代以前までは玉津島神社の歴史が和歌の浦の歴史だった。。
玉津島神社の由緒について公式サイトに「玉津島社の創立は上古(じょうこ)ときわめて古く、社伝には「玉津島の神は『上つ世(かみつよ)』から鎮まり坐(ませ)る」とあります。玉津島一帯は玉出島(たまでしま)ともいわれ、いにしえ、満潮時には6つの島山(玉津島山)があたかも玉のように海中に点在していたとされます。そして山部赤人の玉津島讃歌に「神代より然ぞ貴き玉津島山」と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところとして崇められてきました。」とある。
社伝によれば、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際、玉津島神(稚日女尊)の加護を受けたことから、その分霊を祀ったのに始まるという。その後、息長足姫自身も合祀されることとなった。
神亀元年(724)、23歳で即位した聖武天皇は、その年に和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。そして景観に感動し「この地の弱浜(わかのはま)という名を改めて、明光浦(あかのうら)とせよと命じられた。玉津島と明光浦の霊が祀られたが、特に社殿があったわけでもなく、島自体が神としてあがめられててきた。「玉津嶋には社一(ひとつ)もなし。鳥居もなし。只満々たる海のはた(側)に古松一本横たはれり」との記録もある。

その後、称徳天皇(765年)、桓武天皇(804年)も玉津島に行幸している。第58代光孝(こうこう、830-887)天皇により和歌の道に秀でた衣通姫尊(そとおりひめのみこと、第十九代允恭天皇の妃)が和歌の神として合祀された。これは天皇の御夢枕に衣通姫が現れて、『立ちかえり またもこの世に跡垂たれむ その名うれしき 和歌の浦波』と詠じられたからだという。このことにより玉津島神社は、住吉大社(摂津)、柿本神社(明石)とともに『和歌三神』の一つに数えられ、和歌の神様を祀る神社として天皇や貴族、歌人たちに崇拝され参詣や和歌奉納が行われてきた。またこの頃から、「若の浦」から「和歌の浦」と呼ばれるようになる。

その後についてWikipediaは「天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉も早々に玉津嶋に詣でている。この後、紀州に入部した浅野幸長により社殿の再興が図られ(1605年)、初代紀州藩主・徳川頼宣により本殿などの本格的な整備がなされた。寛文4年(1664年)には、春秋2期の祭祀が復活している。現在、境内には頼宣が承応4年(1655年)に寄進した灯篭が残されている。近世に整備された玉津嶋神社は、和歌の浦の名所として巡礼をはじめ大勢の人々が詣でるところとなり」と記す。

鏡山の階段を降りると、すぐ正面が玉津島神社です。鳥居前に「日本一社・玉津島神社」の石柱が立っている。これは国内に同名の神社が多くあるが、「玉津島神社」というのはここしかない、ということです。

鳥居の左側の塀には「小野小町袖掛の塀」と案内されている。小野小町が和歌の上達を願って当神社に参詣した時、この塀に袖を掛けて和歌を詠んだと伝わることから。
鳥居右前には「衣通姫」と名付けられた桜の木があります。和歌の神様として祀られている衣通姫は、絶世の美人として知られ、その色香が「衣を通して光り輝いた」そうです。小野小町、藤原道綱母と並び「本朝三美人」の一人とも。
拝殿です。二基の石灯籠は、徳川頼宣が承応4年(1655)寄進した石灯籠の復元もの。実物は本殿前にある。名のある神社にしては境内は広くない。数分もあれば全て見てまわれます。海に浮かぶ小島だったからでしょう。

拝殿背後の一段高くなったところに本殿が建つ。樹木に遮られよく見えないのだが、「蝋色(ろいろ)施工の漆塗りが優美な春日造りで、内陣外壁3面には名勝和歌の浦の風景、根上り松などの絵が描かれている」そうです。見えている石灯籠が徳川頼宣が寄進した実物です。

御祭神は以下の四神。
・稚日女尊(わかひるめのみこと)・・・伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子であり、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の妹神で、玉津島の神でもある。
・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・・・神功皇后です。
・衣通姫尊(そとおりひめのみこと)・・・第19代允恭天皇の后で、和歌の道に秀でた絶世の美女でその麗しさは「衣を通して光り輝いた」と伝えられている。第58代光孝(830-887)天皇により和歌の神として合祀されました。
・明光浦霊(あかのうらのみたま)・・・当地に行幸された聖武天皇は、美しい景観に感動され「明光浦(あかのうら)」と名付け、その霊を祀られた。

拝殿の左に回ると天然記念物の「根上り松(名称鶴松)」がある。人工的なオブジェのようで、松とは見えない。砂や雨風によって松の根元が浮き上がり、このような有様になったのです。大正10年に和歌山市高松より移転保存されたもの。

右奥に見えるのが山部赤人の万葉歌碑。聖武天皇に随行した宮廷歌人山部赤人が詠んだ玉津島讃歌を、万葉学者・犬養孝氏(大阪大学名誉教授)が平成6年(1994)に揮毫建立したもの。

 奠供山(てんぐやま)  



境内の右奥側に周ると階段が見えてきた。30mほどの山だし、それほど傾斜も急でないので簡単に登れそうだが、そうでもなかった。足場が悪いのです。不整形の石を階段状にただ漠然と置いているだけなので、足元を見つめ気をつけながら踏みあげてゆく。足が疲れるわ、気分は滅入るわ、で散々でした。紀三井寺の230段の石段のほうがはるかに楽だった。
大正初期にはエレベーターが設置されていたようだが、残しておいてほしかった・・・。

やっとの体で山頂まで登りきる。そこに広がる眺望は疲れた体を一気に癒してくれました。
奈良時代の初め、聖武天皇が山部赤人らを引き連れここまで登ってこられた。ここから眺めた風光明美な景色にひどく心打たれた天皇は、「山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に≪弱浜・わかのはま≫の名を改めて≪明光浦・あかのうら≫と為せ。宜しく守戸を置きて荒穢すせしめることなかれ」と命じられたという。
聖武天皇もあの石段を・・・そんなはずない、当時は草ボウボウの粗道だったはず。当時、天皇は23歳、俺とはは雲泥の差でもあります。


頂上は小さな広場になっており、片隅に「望海楼遺址碑」が建つ。碑文は腐食が激しく詠むことはできません。望海楼とは765年に称徳天皇が和歌の浦の眺望を楽しむために造営された楼閣風の建物。望海楼もこの碑も、元は山麓にあったのだが、明治天皇が艦上から眺められるように山頂に移したという。なんでや、という気がします。

片男波方面の眺望。遠くに見えるのは下津の石油工場?、和歌山マリーナシティ?。かって「万葉集」などに詠まれた景観だが、当時の風景とは全く別のものに。頭と目を空にして、古の風景をイメージするしかありません。

こちらは新和歌浦方面。背後の山が桜の名所・高津子山で、今日の最終地です。

後ろを振り返れば、これから訪れる紀州東照宮や和歌浦天満宮が見えています。

これは現地の案内板にのっていた写真。左の写真に注目です。エレベーターが写っている。建物は「望海楼本店全景」と書かれている(望海楼といっても、称徳天皇が休んだという楼とは同名でも全く別物)。
明治43年(1910)、日本初となる高さ30mの昇降機(屋外型エレベーター)が旅館望海楼によって建設された。東洋一のエレベーター「明光台」として大々的に宣伝されたそうです。

夏目漱石は明治44年に関西地方への講演旅行の際に和歌の浦を訪れこのエレベーターで奠供山に登った。この時の体験が小説「行人」(大正元年12月6日~大正2年11月まで朝日新聞連載)に使われている。
主人公とその兄は泊まっていた旅館で早朝「手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのと違って、地面から岩山の頂まで物数奇な人間を引き上る仕掛であった。所にも似ず無風流な装置に違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。果たして早起きの客が二人三人ぼつぼつもう乗り始めた」。面白そうだと、二人は浴衣掛けで宿を出た。「すぐ昇降器へ乗った。箱は一間四方位のもので、中に五六人這入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。兄と自分は顔さえ出す事の出来ない鉄の棒の間から外を見た。そうして非常に鬱陶しい感じを起こした。”牢屋みたいだな”と兄が低い声で私語いた。・・・牢屋に似た箱の上り詰めた頂点は、小さな石山の天辺であった。その処々に背の低い松がかじりつくように青味を添えて・・・そして僅かな平地に掛茶屋があって、猿が一匹飼ってあった」。その後、二人は紀州東照宮へ向う。

歩いても10分程度で登れる奠供山だが、物珍しさもあって当初は大人気だったようです。しかしだんだん飽きられ乗降客が減っていき、また環境保全の反対運動もあり、大正5年に撤去された。旅館望海楼も新天地「新和歌浦」へ移転する。

南側から撮った写真で、かって海に浮かぶ小島であった様子がうかがえる。東洋第一エレベーターと望海楼本店が彷彿としてきます。


詳しくはホームページ

紀三井寺から和歌の浦へ 1

2020年06月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2020年4月3日(金曜日)
4月になって春うらら。行楽シーズンになったが、世の中真っ暗。いつも出かける道頓堀、黒門市場、通天閣界隈は人影まばらで生気を失ってしまった。長年大阪ミナミに住んでいるが、こんなの初めてだ。人混みで歩くのも困難だった黒門市場は自転車でスイスイ通れる。通天閣下のビリケンさんもマスクをはめられ、人影の無くなった串かつ通りを見つめている。唯一有難いのは異邦人が消えたことだ。やっと日本語が耳に達するようになった。建設ラッシュだったホテルは、オープン早々「当面の間は休業」の張り紙が。雨後の竹の子のように増殖したドラッグストアも相次いで閉店していく。

そうだ気分を晴らそう!、どっかへ出かけよう!。高野山は別にして、紀州和歌山への出歩きは初めてだ。紀三井寺を訪れ、その後に万葉の歌に詠まれた和歌の浦へ周ることにした。世は、盛んに「不要不急」の外出自粛を呼びかけている。この時期、マズイんじゃないかナ、と自問自答します。
健康のためのウォーキングは認められている。県境を越えるのだが、一日ウォーキングは私の健康保持と気分転換に必要不可欠なのです。不急じゃないのか?。今回の出歩きは桜の名所で名高い紀三井寺と高津子山が目的だ。桜の寿命は短く、あっという間に散ってしまう。この時を逃してはならず「急」を要するのです。とかなんとか自分を納得させ出かけることに。唯一心配なのは往復の電車内、最新の注意を払います。コロナに打ち勝つ健康つくりのために、いざ和歌の浦へ・・・。
(4月8日、緊急事態宣言が天下る。紀三井寺の特別拝観も停止された。和歌の浦の神社仏閣も同様だろう。急を要して、かろうじて目的を達成することができました)

 紀三井寺(きみいでら)へ  



大阪・JR天王寺駅から特急で和歌山駅へ、そこから普通に乗換え紀三井寺駅に到着。9時前です。駅を出ると目の前に名草山が横たわり、桜色に染まる中腹に寺の甍が覗いています。薄雲が広がり、快晴とまではいきません。

駅前広場を横切り、山沿いの細い車道を南へ歩くこと10分位で紀三井寺の正面で、そこは門前町です。何軒か土産物屋さんが並ぶが、まだ開いていません。

★★~紀三井寺の歴史~★★
紀三井寺の始まりについて寺伝では「紀三井寺は、今から1240年近く昔(宝亀元年、770年)、唐僧・為光(いこう)上人によって開基されました。為光上人は、伝教の志篤く、身の危険もいとわず、波荒き東シナ海を渡って唐より到来されました。そして諸国を巡り、たまたまこの名草山の麓に一宿した折、山の頂上付近が白く光っているのを不思議に思って上がって来られると、金色に輝く千手観音様と出会われました。この地が、ご仏縁深き霊場と悟られた上人は、自ら一刀三礼のもとに十一面観音様の尊像を彫られて、これを草庵に安置し、この紀三井寺を開創されました。」(寺から頂いたパンフレットより)

中世の紀三井寺については「合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す」(「紀伊続風土記」)。秀吉の紀州攻めによって寺領は没収され、寺の史料など皆散失したため詳しいことは分からないという。

この辺りは紀州街道沿いになり、京からはるばる熊野詣する途中の中継寺院として栄えてきた。法皇、上皇や貴族達が熊野詣の行き帰りに立ち寄っているのです。紀三井寺のご詠歌は「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も近くなるらん」。これは西国三十三所観音霊場の中興の祖といわれている花山法皇が、熊野からの帰りに立ち寄り、京の都に近づいたな、という感慨を詠ったものです。
江戸時代になれば紀州徳川家歴代藩主の庇護を受けたようです。

 楼門  


境内入口はこの紅い楼門です。紀三井寺への巡拝はまず階段から始まります。紀三井寺は名草山(なくさやま、標高228.7m)の西側中腹(標高50m辺り)に位置するので、そこまで登らなければならない。きつい階段です。ここから100mほど北へ回ると裏門があり(境内MAPを参照)、まわり道になりますが緩やかな坂道を使って登ることができます。階段が苦手の方にはお奨めです。駐車場も近い。

楼門は室町時代の永正6年(1509)の建立で、三間一戸・入母屋造・本瓦葺き。正面左右には仁王像を安置している。永禄2年(1559年)に加修。下階中央間は開放で扉がない。欄間には牡丹と蓮の鮮やかな彫刻が施されています。国の指定重要文化財。




楼門の左脇に閻魔大王像が置かれている。ここ紀三井寺は西国三十三所観音霊場の二番目札所。三十三所観音霊場巡りは、病死して冥土の入口にやってきた徳道上人に閻魔大王が、三十三所を巡り地獄に落ちる人々の罪を軽くしなさいと、上人を現世に送り返したことから始まったという。そういうご縁で閻魔大王さまがお座りになっているのでしょう。脇の小像は徳道上人でしょうか?。




 清浄水(しょうじょうすい)  



楼門の先には、気の遠くなるような階段が待ち構えている。「紀三井寺」の名称は、「清浄水」「楊柳水」「吉祥水」の3つの湧き水に由来します。このうち「清浄水」「楊柳水」の2つがこの階段の途中にあるので、先にこの井戸を紹介します。

三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は、水槽の刻銘により、紀州初代藩主徳川頼宣によって慶安3年(1650)に整備されたことが知られている。昭和60年(1985)には環境庁の「名水百選」に選定された。
石段を60段ほど登ると、右手にチョロチョロと滴り落ちる小滝があります。これが三井水の一つ「清浄水(しょうじょうすい)」です。伝説では、寺の開祖・為光上人の前に竜宮の乙姫が現れ、上人に竜宮での説法を乞うて清浄水に身を投じて龍に化身したという。
公式サイトに「大正十一年、昭和天皇陛下が皇太子殿下のみぎり、当地に行啓された時、紀三井寺の清浄水が非常に良いということで、わざわざ和歌浦の御宿舎までこの水を運んで調理その他の用水に供されたことは、当時の人々の誇りとして、今尚諸人の記憶に新たなる所です。」とあります。

清浄水の小滝を見つめるように取り囲んで後代紀州の俳人達の句碑が置かれている。一番手前には松尾芭蕉の句碑「見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺」(建立文化年間(1804年~)もあります。芭蕉は桜見に来たのだが、既に散始めていたのを残念がって詠ったものだそうです。

 楊柳水(ようりゅうすい)  



清浄水の所からさらに数段登れば右手に小道がある。この小道を100mほど進めば突き当たりに瓦葺の小屋が現れる。ここが「楊柳水(ようりゅうすい)」の場所だ。

公式サイトに「この水を飲む人々を病から救って下さるというありがたい水として喜ばれてきた南の滝・楊柳水ですが以前は、木々の間に埋もれ、覆屋の白壁は落ち、井戸は泥で濁って、見るも無惨な有様でした。一足先に復興された吉祥水や紀三井寺の三井水が、環境庁より日本の名水百選に認定されたのを期に、楊柳水の整備の気運が高まり、かねてより護持の意向を示しておられた、市内和歌浦・木下建設株式会社の木下治郎社長の手により昭和六十年に短期間の内に整備工事が進められ、復興されました。」とあります。

楊柳水への小道からの眺め。和歌の浦や高津子山が見えてきました。

小道とは反対側に、和歌山市指定文化財になっている「応同樹(おうどうじゅ)」がある。開祖・為光上人が竜宮から持ち帰った七種の宝の内の一つと伝えられておる霊木で、和名はクスノキ科のタブノキ(イヌグス)。
現在の樹は樹齢推定約150年とされ、「創建の頃の応同樹株から種子が落ち、自然に発芽成長して今日に及んだもの」(「側の説明板より)だそうです。



 厄除け石段「結縁坂(けちえんざか)」  



この急な階段を登らなければ紀三井寺に参拝できない。「地上より231段」とあるのは楼門前にある20段位を含んだ数です。

ここは「結縁坂(けちえんざか)」と呼ばれ、公式サイトに「江戸時代の豪商・紀ノ国屋文左衛門は、若い頃にはここ紀州に住む、貧しいけれど孝心篤い青年でした。ある日、母を背負って紀三井寺の表坂を登り、観音様にお詣りしておりましたところ、草履の鼻緒が切れてしまいました。困っていた文左衛門を見かけて、鼻緒をすげ替えてくれたのが、和歌浦湾、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘「おかよ」でした。これがきっかけとなって、文左衛門とおかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれました。後に、文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送って大もうけをしたのでした。紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、それ以来「結縁坂」と呼ばれるようになりました。」 とあります。
二人で登ると縁が結ばれるといわれる結縁坂だが、現在は縁結びよりは厄除けを強調されているようです。鼻緒の時代ではないですからね。踏み外して転ぶ・・・というのはありか。これより上の登段最速記録は21.9秒(元100m日本記録保持者 青戸慎司選手)とある。平地50mの俺の記録と同じだ。


70段ほど登ると楊柳水への脇道がある場所になる。ここで一区切りされ、次の「女厄除坂(33段)」が始まります。女性の大厄が33歳であることからくるんでしょう。

右側には災厄を代りて受くてくださる「身代り大師」を祀っているお堂松樹院があるので、ついでにお参りを。

次は「男厄除坂(42段)」、さらにその上は「還暦厄坂(61段)」と続きます。階段は厄ごとに一区切りされているので、そこで一服。そして歯を喰いしばり石段踏み越え厄払い。といっても俺はとっくに厄を越えてしまているのだが。結縁を望むには枯れすぎたし・・・。

階段の高さや幅は丁度良いくらいなので登り易い。そのうえテスリも設けられている。とはいってもかなりの段数があるので大変です。そういう時は一服し後ろを振り返るのです。満開の桜の先に美しい和歌浦湾がだんだんと見えてくるようになります。石段を踏み外さないように注意を・・・今時の娘さんは見向きもしない。

 六角堂・鐘楼  



階段を登りきると、正面に見えてくるのが六角堂。江戸時代の寛延年間(1750年頃)に建てられたお堂で、西国三十三カ所の御本尊が祀られている。六角堂にお参りすれば西国三十三箇所巡礼をしたのと同様の功徳が得られるようです。
鐘楼は宝亀2年(771)に建立


六角堂の横に建つのが鐘楼。黒ずんだ縦板の袴腰の上に、梵鐘を納めた紅い上層部がのっている。渋い黒とカラフルな赤色の上下対照的な鐘楼は珍しい。
鐘楼は宝亀2年(771)建立とされるが、天正13年(1585)秀吉の紀州攻めの後の天正16年(1588)に再建されたのが現在の鐘楼。旧鐘は文禄・慶長の役の折に没収されて筑後に移されたが現存しないという。
細部の様式も安土桃山時代の特徴をよく示している秀作で、明治41年に国の重要文化財に指定された。






鐘楼の先に建つのが弘法大師像を祀っている大師堂。



階段を上がりきった左手突き当りが本堂です。そこまでの参道右手に、六角堂、鐘楼、大師堂が並ぶ。紀三井寺は山腹に位置するので、境内はそれほど広くはない。

 本堂と特別拝観  



参道の正面が本堂です。入母屋造本瓦葺き、正面に唐破風の向拝を付け、総欅(ケヤキ)造りの建物。江戸時代、宝暦9年(1759)の建立とされる。和歌山県指定有形文化財。
正面軒下に額「救世殿」が掛かる。この本堂の名前なのでしょうか。


外陣には扉は無く巡拝者に開放されている。ここは名だたる西国三十三所観音霊場の第二番札所なのです。

特別拝観のため本堂内に入ります。本堂右手に回りこみ履物を脱ぎ、本堂入口で特別開帳拝観料:千円(大人)を払う。本堂内を一周するように反対側(西側)に回り込む。そこが大光明殿の入口になっている。

今まで本堂内に秘仏として安置されていた本尊の十一面観音像と千手観音像は火災や震災などに備えて、本堂の裏手に棟続きに建てられた大光明殿(昭和58年、1983年 完成)に移された。二体の秘仏は50年に一度御開帳されるが、今年がその年に当たる。また紀三井寺開創1250年目でもあります。通常、大光明殿は扉が閉められたままで非公開だが、今回は特別に開かれることになった。
大光明殿内部は狭く、薄暗い。10人も入れば「三蜜」になりそうだ。込み合うと入場制限されるようです。朝早かったのでまだ5人ほどで、ゆっくり拝観できました。
(コロナ緊急事態宣言により4月8日から特別拝観は停止されました。宣言解除されたので5月30日(土)より再開されました)

大光明殿内の仏様は、写真が撮れないので置いてあったパンフレットで紹介します。といっても、写真のように肝心の中央秘仏二体はパンフレットでも「秘」扱いで、かすかに透けてみえるだけ。

中央の秘仏の右側は千手観世音菩薩立像。樟の一木造り、素地仕上げ。通計の42手の他に多数の小手を配した真数千手観音。10世紀後半から11世紀の作風。左の秘仏は本尊の十一面観世音菩薩立像。樟の一木造り、素地仕上げ。10世紀初期の作風。どちらも「伝開山・為光上人御手彫」(パンフ)とされているのだが・・・。一番右端は十一面観世音菩薩立像で、秘仏本尊のお前立ちだったと思われる。その他は、右から梵天立像・帝釈天立像・ 毘沙門天立像。毘沙門以外の五体は国の重要文化財です。

本堂外陣から境内を撮ったもの。
本堂前の向って左側の桜の木は、開花宣言の目安となる和歌山地方気象台季節観測用の「ソメイヨシの標本木」です。この木に5輪の桜が花開けば桜の開花宣言となる。近畿地方では最も早く開花することから「近畿地方に春を呼ぶ寺」としても知られています。

 霊宝堂(大願洞)  



本堂を出た左側(西側)に「霊宝堂 大願洞」の入口が見える。本堂にくっついて建てられている。午前8時半~午後4時半の間に入堂でき、無料です。




まず階段を降り、地下の大願洞に入る。「洞」とあるだけに、やや薄暗く不気味感が漂う。周囲には西国三十三所観音の仏画(?)が並べられ、壁一面に願掛けした杓子が張り付けられている。やっと「大願洞」の意味がわかりました。仏画の前にさい銭箱が置かれているので、さい銭を投げ入れながら三十三所の巡礼ができるようになっているのですね。
最奥には金ピカの仏像がお迎えして下さる。昭和28年に製作された、一体型の陶像としては日本最大の救世観音像だ、と注釈されている。大きく不思議な円筒もよく見れば願掛け杓子を束ねたものでした。この杓子は、本堂前で願い事を書き奉納されたもののようです。

階段を登ると、そこは明るい展示室になっている。壁一面に西国三十三所観音霊場の版画が掲げられ、これを見れば楽しみながら西国三十三所の霊験を巡観できるという。江戸時代の著名な浮世絵師、文章家の手になる版画だそうです。
反対側のショーケースにはいろいろな寺宝が展示公開されている。一休さんの書、第十代紀州藩主徳川治宝筆の「雲龍図」など。

 多宝塔・開山堂  



本堂前の広場。右側の名草山を少し上ったところに見える鮮やかな朱色の建物が多宝塔。本堂横に上り階段があるので、多宝塔と開山堂へ行ってみます。

現在の多宝塔は宝徳元年(1449)に再建されたものだが、紀三井寺に現存する建物では最古のものらしい。各種の絵様、彫刻、須弥壇に室町中期の建築様式を示しているという。
高さは約15mで、方形の下層内の須弥壇には五智如来坐像が安置されている。

多宝塔の南側の一段と高い所に小さな祠が見える。これは「春子稲荷」と呼ばれ、織田信長、羽柴秀吉の軍勢から紀三井寺を救った春子という女性を祀っている。傍の説明板には「凡そ四百年の昔、天正三年織田信長、羽柴秀吉による紀州征伐六万の大軍は根来寺、粉河寺を焼き討ちにし、紀三井寺に迫った。丁度その頃当山観音堂に仕えていた春子という二十才位の美女が突然須弥壇のなかから白狐の姿となり身をひるがえして敵の軍営に赴き霊力をもって武将を威嚇し先鋒の将羽柴秀長から焼打ち禁制の書状を得て紀三井寺及び在所を戦火から救った」とある。


多宝塔の北側に静かに佇むのが開山堂。名前からして紀三井寺の開祖・為光上人を祀っているのでしょう。

この場所は本堂のある境内からさらに一段と高い場所にあるので見晴らしがすこぶる良い。やはり紀三井寺は桜のこの季節が良いようです。

 本堂前の広場  



本堂前の広場は休憩所と展望所となっている。名草山の西側中腹の標高50m位辺りに位置しているので展望がよい。桜を額縁にして、和歌の浦湾から高津子山、雑賀埼まで見通せます。

休憩所の中央に大きなくすの樹が立つ。樹齢約400年と推定され、和歌山市指定文化財となっている。


 新仏殿  



本堂とは反対側の参道突き当たりに、朱色と白壁の新しいお堂が建つ。その名も「新仏殿」。平成14年(2002)に竣工した鉄筋コンクリート造りで、高さ25m、3階建の建物。中に入るといきなり金ピカの巨大な仏様が、よくいらっしゃいました、と合掌印で迎えてくれる。木造の立像仏としては日本最大で高さ12mの総漆金箔「大千手十一面観世音菩薩像」です。京の仏師松本明慶師の京の工房で制作した寄木造の像をここで組み上げ、平成20年(2008)5月入仏落慶供養が行われた。薄暗い宝庫のなかで、50年に一度御開帳の秘仏を見てきた後だけに、拝観というよりは好奇心で見上げるだけでした。

新仏殿の目的は、三階の展望回廊です。金ピカ仏像の脇に置かれた小箱に展望料百円を入れ、小戸を押し開け中に入り、階段で三階へ。
この展望所からは、南、西、北方面が遮るものなく見渡せる。南の和歌山マリーナシティから、和歌浦湾、片男波、高津子山、雑賀埼方面、さらに北側に回ると和歌山市内まで眺望できます。

これから訪れる和歌の浦をアップで撮ってみました。今でこそ家々が建ち、人工物が造られ昔の面影は無くなっているが、かっては風光明媚な景勝地として都にまで知られた。潮の干満によって干潟が現れては消え、小島となったり陸続きになったり、その多彩な風景は奈良の時代から皇室、貴族に愛され多くの和歌に詠われてきた。ここからその地形を見つめていると、かってのイメージが浮き上がってきます。

飛び出た山地の最上部が桜の名所・高津子山。今日の一日ウォーキングの最終地だ。あそこまで歩かなければならない。

桜に染まる境内を見下ろしたもの。一番奥に本堂の大屋根が見える。左上は和歌山市内だ。
紀三井寺の境内には約500本の桜の木が植えら、桜の名所としても名高く「日本さくら名所百選」にも選ばれている。
寺伝では、開祖・為光上人が龍神の招きで竜宮城に行った帰りに七つの宝物をもらった。その一つが桜の苗木で、それが今日の紀三井寺の桜の元になったという。

 吉祥水(きっしょうすい)  


最後に、三井水の残りの一つ「吉祥水(きっしょうすい)」を訪ねます。吉祥水は、紀三井寺境内から北にかなり離れた少々判り辛い場所にある。目印は紀三井寺の裏門です。
本堂前の広場の北西に、下へ降りる階段がある。降りていくと左に分岐する道があるが、これは例の結縁坂へ通じているので、右の道を選んで降りてゆく。下まで降りるとそこに裏門があります。近くに駐車場があるので、この裏門から坂道を使ってお参りされる人も多いようです。250段の結縁坂を避けれるので、階段の苦手な方はこちらを選ばれると良い。裏門の前に駐車料金所があり、係りの方が常駐されているので吉祥水の場所を尋ねてみても。

裏門の前から北へ向って細い車道が通っている。この車道を北へ300mほど歩きます。一本道なので迷うことはない。すると広い駐車場が見えてくる。この駐車場の北東隅をよく見ると、「吉祥水」と書かれた白い板が見え、その脇が階段になっている。

細い階段を登ってゆく。数えたら93段ありました。
公式サイトに「「吉祥水」は昭和初期、附近に土砂崩壊が起り、その後も相次ぐ崩壊により水筋も変り、水桶等施設も理没して荒廃し、境界も定かならぬ有様となりました。その後幾度となく復旧の話も出て種々努力もなされましたが、機縁熟さず、立ち消えとなりました。しかし近年地元三葛地区の人々を始め有志により、先祖以来子供の頃から「瀧のぼりの清水」として親しまれてきた吉祥水を後世に残そうと保存会が設立され、環境整備が進み吉祥天女石像も造られて、後に落慶法要を迎える運びとなりました。」とあります。



詳しくはホームページ