山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都御所を訪ねて 3(京都御所)

2023年10月27日 | 名所巡り

これから入口の清所門から入り、抜けガラとなった京都御所内を定められた順路に従い見ていきます。

 京都御所 1(清所門から承明門へ)  



御所とは現在の皇居にあたり、天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿のことで,「内裏・禁中・禁裏」とも呼ばれる。
京都御所の西側です。手前の門が「宜秋門」で、その先に小さく見えるのが「清所門」。御所全体が五筋入りの築地塀で囲まれ、南北約450m、東西約250mの方形で、面積は約11万平方メートル。京都御所は宮内庁管理の皇室財産なので、どんなに貴重な歴史的遺産であっても特別名勝・特別史跡・国宝のような文化庁による評価の外に位置している。文化的評価を超越した存在です。天皇陵も同じ(天皇陵が文化財的評価を得て世界遺産に登録されたのが不思議です)。京都御苑は環境庁管理の国民公園。

(パンフレットの参観順路図)

★・・・現在の京都御所の歴史・・・★
平安遷都時の元の平安宮内裏は、現在の場所より1.7キロほど西方にあった。その平安宮内裏は何度も焼失・再建を繰り返し、その都度天皇は、一条院・枇杷殿・京極殿・藤原氏など公家や貴族の邸宅に移り住み一時的な仮の内裏として使ってきた。これを「里内裏(さとだいり)」と呼びます。天皇の居所は内裏、里内裏と転々とし、平安後期以降になると本来の内裏は次第に使用されなくなり、建物も廃絶するものが増え「内野(うちの)」と呼ばれる荒れ野になっていった。

南北朝時代の建武4年(1337)、北朝2代光明天皇が里内裏のひとつであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの、公家・藤原邦綱の邸宅)に居住すると、これ以降他所へ移ることなくここが恒常的な内裏として定着した。これが現在の京都御所の場所で、明治2年(1869)に明治天皇が東京奠都するまで約530年間にわたって天皇の居所として使用され続けられた。(京都御所内に掲示されていた年表には「元弘元年(1331)光厳天皇が現在地の里内裏で践祚。以降この地が約500年間内裏として使用される」とあるのだが・・・)

応仁の乱(1467-1477)で内裏は荒廃するが、天下を取った織田信長が改修に着手、そして秀吉(天正19年/1591)、家康(慶長18年/1613)、家光(寛永19年/1642)が権力誇示するために内裏の整備改築を行ない、しだいに規模が大きくなる。これ以降6度の火災にあい、その都度徳川幕府による再建が繰り返されてきた。
特に天明8年(1788)1月の大火で内裏や仙堂御所が全焼。寛政2年(1790)幕府老中松平定信は、有職故実家の裏松固禅(1736-1804)の「大内裏図考証」を参考に平安時代の復古様式にのっとった紫宸殿や清涼殿、その他の御殿を造営した。しかしこれも安政元年(1854)4月に炎上したが、翌安政2年(1855)に従来のほぼそのままの形で再建された。これが現在目にする京都御所で、かっての平安京内裏の姿に近い形で再現されているという。

北側の「清所門(せいじょもん)」が入口です。ここで検温、簡単な手荷物検査を受ける。そして番号の入った「京都御所入門証」を受け取り、首にかけて歩く。大宮御所・仙洞御所ほどピリピリした雰囲気は感じませんでした。空っぽになり、見せるだけの遺産になった空間と、現在でも皇室が時々使用する空間の違いでしょうか。
清所門は、本柱2本で支えられた切妻屋根、瓦葺。大台所の前にあったことから「台所門」ともいわれる。

清所門から入ると南へ向かって歩く。道の両側にはロープが張られ、その範囲内でしか行動できない。要所々には警備員が配置されているが、威圧感がないので気軽に話しかけてガイドを受けることもできます。


「宜秋門(ぎしゅうもん)」が見えてきた。上の写真は外から撮ったもの。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門で、御所に参内する公家が使用したことから「公家門」とも呼ばれる。

「御車寄(おくるまよせ)」です。儀式や天皇と対面するために参内した公卿や殿上人などの限られた者だけが使用した玄関。牛車を横づけしたことからくる名称でしょうね。廊下を通って、諸大夫の間・清涼殿・小御所とつながっている。唐破風の屋根や金飾りに威厳を感じます。



御車寄と棟続きで「諸大夫の間(しょだいふのま)」と呼ばれる建物があります。玄関から入った者の控えの間で、三間からなり、身分の高い順に東側の清涼殿に近いほうから、襖絵にちなんで「虎の間」「鶴の間」「桜の間」と呼ばれる各部屋に控える。部屋により畳縁の柄や色も違っている。御車寄から入りここで控えるのだが、「桜の間」に控える者だけは建物手前の沓脱石から上がらなければならない。
三間の襖絵は写真が掲示されているが、ガラス越し見ることもできます。

諸大夫の間のすぐ南に「新御車寄(しんみくるまよせ)」が建つ。説明版「大正4年(1915)、大正天皇の即位の礼が紫宸殿で行われる際し、馬車による行幸に対応する玄関として新設されたものである。天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえて南向きに建てられている」
自動車にも対応できるようにするためか、でっぱりがやや長く、側面の壁が無い。建物にはガラス窓が使われ、中は絨毯敷きで天井にはシャンデリアが使用されているそうです。

御所の南側に回り込むと、黒い建礼門と紅い承明門が対面しながら建っています。桧皮葺き、切妻屋根、四脚門の「建礼門(けんれいもん)」は京都御所の南面中央にあり、天皇皇后及び外国元首などの国賓のみが通ることのできる格式高い門。また葵祭(5/15)、時代祭り(10/22)のスタート地点となります。

建礼門の東側に、潜り戸のような小さな門があり、「道喜門」と呼ばれています。

外から見た御所の南側。手前が穴門の「道喜門」で、中央に建礼門(左の写真)。
16世紀初頭創業の「御ちまき司 川端道喜(かわばたどうき)」という代々続く主人の名を店名とした粽(ちまき)や餅を商う店があった。応仁の乱後の混乱で、皇室も困窮し天皇の食事の確保もままならない状況に陥っていた。そうしたなか、創業間もない川端道喜は、天皇に毎朝「御朝物」と呼ばれる餅を献上するようになった。京都御苑西隣にある店から蛤御門を通り、正門である建礼門の東隣の門を潜って御所に入り毎日天皇の朝食を届けていた。明治2年(1869)明治天皇が東京に移る日の朝まで350年以上にわたって続けられたという。やがてこの門は「道喜門」と呼ばれるようになった。

京都御所には6つの大きな門以外に、こうした屋根のない小さな9つの門があり、「穴門(あなもん)」と呼ばれ商人などが出入りするのに使った。

建礼門の向かいに建つのが「承明門(じょうめいもん)」。庭を挟んで正面奥に紫宸殿が見える。瓦葺き切妻屋根の十二脚の門で、天皇行幸や上皇御即位後の出入りに使われるという門で、下々の者は通れないようにロープが張られている。

 京都御所 2(紫宸殿)  



東側に周ると回廊の扉が開いていて、ここから庭に少しだけ入ることができます。右奥に見える屋根付きの門は「日華門」。

紫宸殿の前に、廻廊で囲まれた白砂の庭が広がる。「南庭」で、「だんてい」と読むそうです(皇室用語は難しい)。紫宸殿正面に18段の階段が設けられ、紫宸殿と南庭が一体となった、儀式のための空間となっている。

昭和3年11月10日の昭和天皇の即位の礼を書籍により再現してみます。
・午後2時頃、天皇は御学問所で、皇后は御三間で着替えをする。
・午後2時50分、天皇は紫宸殿に入り高御座にお座りになる。
・午後3時、高御座前の紫の帳が静かに上げられる。鉦の音が「カーン」という音が鳴り渡り、庭に参列していた人々は直立、最敬礼を行う。
・午後3時10分、天皇は立ち上がり「神器を奉じて万世一系の皇統を継ぎ即位の礼を行った」と大礼の勅語を述べられる。
・午後3時13分、田中義一首相は十八階段の下に立ち、高御座でお立ちになっている天皇に向かい「天皇陛下万歳」を三唱、庭の参列者全員も万歳三唱する。御所外に待つ参列者も一斉に万歳の声を上げる。
・午後3時30分、天皇・皇后両陛下は御学問所、御常御殿に戻られた。
・市内もお祝い一色となり、万歳行列、ちょうちん行列で賑わったという。

「紫宸殿(ししんでん)」は、即位式などの重要な儀式を行う最も格式の高い京都御所の正殿です。現在の建物は安政2年(1855)に再建されたもの。なお、慶長18年(1613)に建立された最初の紫宸殿は仁和寺の金堂として移築され現存している(国宝指定)。
入母屋造、檜皮葺きの屋根、正面9間、奥行3間で、周囲に高欄付きの簀子縁(すのこえん)をめぐらす。内部は、間仕切りを設けず広い一室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らず垂木をみせた化粧屋根裏だそうです。柱間には、白板に黒漆塗りの桟で格子を組んだ蔀戸(しとみど)がはめられ、開けるときは内側に金物で釣り上げる。
建物前の庭には、東側に「左近の桜」、西側に「右近の橘」が植えられています。

(写真は回廊に掲示されていたもの)
紫宸殿内の中央に天皇の御座「高御座(たかみくら)」、その東側に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。現在の高御座と御帳台は、大正4年(1915)の大正天皇の即位礼に際し、古制に則って造られたもの。平成天皇、令和天皇の即位礼の際には、解体され京都御所から空輸で東京の皇居に運ばれて使用された。その後京都御所に戻され、現在も紫宸殿に常設されている。

天皇が東京へ移られた後でも、明治・大正・昭和の三代の天皇の即位礼がここ京都の紫宸殿で行われた。何故だろうか?。Wikipediaによれば「1877年(明治10年)、東京の皇居に移っていた明治天皇が京都を訪れた際、東京行幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と宮内省(当時)に命じた。その翌年にも明治天皇は京都御所を巡覧し、保存の方策として『将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん』との叡慮を示して、1883年(明治16年)には京都を即位式・大嘗会の地と定める勅令を発している。旧皇室典範第11条の規定はこれを承けて制定に至った」。そして明治22年(1889)制定の旧皇室典範に「日本国天皇の即位の礼及び大嘗祭は京都にて行う」と定められた。
明治天皇は、幼少期を過ごされた京都をとても愛された。東京から京都へ行幸されると、帰るのを嫌がり理由をつけて一日でも長く滞在しようとされたという。そして自分の墓は「京都の伏見へ」と言い残されている。
戦後制定された現在の皇室典範では、場所の規定は無くなり、皇居のある東京で行われるようになったのです。

回廊東側に広い土地が広がる。その奥に見えるのが「建春門(けんしゅんもん)」。切妻屋根、四脚門で、他の門と違い唐破風が付き威厳を示す。儀式の時に大臣や公家が出入りしたという。

広い土地の北側に建つのが「春興殿(しゅんこうでん)」。説明版「大正4(1915)年、大正天皇の即位礼に際し、皇居から神鏡を一時的に奉安するために建てられたもので、昭和天皇の即位礼でも使用された。内部は板敷で、外陣・内陣・神鏡を奉安する内々陣に分かれている」
紫宸殿内に小部屋を造り、鏡を置くだけでよいと思うのだが(納税者としては)。

 京都御所 3(清涼殿から御学問所へ)  



指定された見学コースは紫宸殿の背後に回り込む。左の建物が紫宸殿で、「撞木(しゅもく)廊下」と呼ばれる渡り廊下で小御所へつながっている。渡り廊下の下を潜り、清涼殿の東庭に入ってゆきます。

清涼殿の東庭が広がる。「東庭」、どう読むんだろう?。南庭が「だんてい」だったので、「どんてい」かな。
一面に白砂を敷いただけの広い空き地です。目につくものとしては、清涼殿前の二か所の竹の植込み。左側(南)が漢竹(かわたけ、皮竹が転化したとも)、右側(北)に呉竹(くれたけ、真竹の異称)が植えられている。左側の建物は紫宸殿です。

この清涼殿も安政2年(1855)に、平安朝の古い様式にならって再建された建物。入母屋造り、檜皮葺屋根の寝殿造り、正面9間、奥行き2間、内部は板敷で、間仕切りで小さな部屋に区切られている。紫宸殿と同様に、格子状の蔀戸がはめられ、内側に跳ね上げて開く。
清涼殿は、元々は天皇が日常生活を過ごされる御殿だったが、天正18年(1590)に生活の場として御常御殿ができてからは、清涼殿は儀礼の間に変わっていった。

蔀戸が跳ね上げられ、内部が公開されている。高欄奥に厚畳が置かれている。これは「昼御座(ひのおまし)」といい、天皇がお座りになる所。その奥に白絹の帳(とばり)で囲まれた御帳台がある。この中で天皇はご休息なされた。天皇が日常生活の場として使われていた時の様子を再現したものでしょうか。

清涼殿の東側に、「御溝水(みかわみず)」といわれる南北に流れる石敷きの水流があり、その北寄りに高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」と呼ぶ。この滝口近くにある渡り廊にかって内裏警護の武士が詰所として宿直していた。そこから清涼殿の警護をする者を「滝口の武士」と称した。またこの詰め所は「滝口陣(たきぐちのじん)」などと呼ばれた。

「滝口の武士」で有名なのは「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋物語。高山樗牛が1894年に書いた小説『滝口入道』で一躍有名になる。京都小倉山にあるこれに関連した「滝口寺」を、私も5年ほど前に訪れたことがあります(ココを参照)。

清涼殿東庭の北側に見える建物は、御車寄・諸大夫の間・清涼殿から小御所や御学問所につながる長い廊下です。表からは見えないが、二つの廊下が並走している。手前が天皇がお通りになる「御拝道(ごはいみち)廊下」、その脇には六位以下の臣下用の「非蔵人廊下」が並ぶ。

清涼殿をでて、さらに奥へ行くと小御所(手前)と御学問所(奥)が、池に面して並んで建つ。
「小御所(こごしょ)」は鎌倉時代以降に建てられ、江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用された。内部は畳敷きで、床の高さを変えて北側から「上段の間」「中段の間」「下段の間」と並ぶ。
昭和29年(1954)8月、鴨川の河川敷で開催された花火大会で打ち上げられた花火の残火が小御所の檜皮葺の屋根に落下し全焼する。現在の建物は4年後(1958年)に再建されたものです。

高欄付き板張りの縁が廻り、半蔀格子(はじとみごうし)がはめてある。これは上半分の戸を外側に吊り上げて白障子をみせ、下ははめ込み式になったもの。
正面中央は、白桟障子が開けられ、ガラス越しに室内の障壁画を見れるようにしている。しかしガラスの反射光のためよく見えない。

小御所と御学問所との間の広場は「蹴鞠(けまり)の庭」と呼ばれる。ここで公家さん達の優雅なお遊びが繰り広げられた。後ろには天皇が通る御拝道廊下があり、天皇は廊下から覗いてにっこり微笑んだかナ・・・

御学問所(おがくもんじょ)は「家康による慶長度(慶長18年、1613)の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。江戸末期頃になると御学問所は年中行事の場や仮常御殿としても用いられた他に孝明天皇が徳川将軍である徳川家茂公や徳川慶喜公と対面を行った場になった」(Wikipediaより)
舞良子という細い桟を格子状に打ちつけた「舞良戸(まいらど)」と呼ばれる引き戸が開けられている。内部は畳敷きで、上段・中段・下段を含む6室からなる。

小御所、御学問所は明治維新の舞台ともなった。慶応3年(1867)12月9日、大久保利通、岩倉具視ら倒幕急進派は、軍事力で御所の各門を封鎖し親幕派公家の参内を禁止する。そして御学問所にて、まだ16歳だった明治天皇に勅令「王政復古の大号令」を発せさせた。新政権の樹立と天皇親政をうたい、幕府の廃止、朝廷の摂政・関白の廃止、新たに三職(総裁・議定・参与)を置く、という政治体制の根本的変革を実行したのです。まさにクーデターだった。
その夜、小御所で新政府の基本方針を策定するため最初の三職会議が開かれた。そこで徳川家の辞官納地(官位を失し、領地を返上さす)について大激論になった。山内容堂(前土佐藩主)は「この会議に、今までの功績がある慶喜公を出席させず、意見を述べる機会を与えないのは陰険である。数人の公家が幼い帝を擁して権力を盗もうとしているだけだ」と反対し、松平春嶽(前越前藩主)も同調した。深夜に及ぶ激論の末、最後は西郷隆盛の「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」の脅しで大久保利通、岩倉具視の主張する辞官納地が決定した。これが「小御所会議」です。

小御所、御学問所の東側に前庭として「御池庭(おいけにわ)」が造園されている。江戸時代初期に作られ、池を中心とした池泉回遊式庭園。ただし仙洞御所のように回遊させてくれません。右奥に見えるのが中島(蓬莱島)にかかる欅橋(けやきばし)

澄みきったエメラルドグリーンの池、対岸に多彩な樹木を見せ、その前に中島を配し橋を渡す。池の中には3つの中島があり、2つの木橋と3つの石橋が架かる。派手過ぎず、地味すぎず、落ち着いた安心感に浸れる池です。

手前の岸には、栗石が敷き詰められ州浜を表現している。州浜真ん中あたりに飛び石が置かれ、池の中まで出ている。ここから舟遊びに出たのでしょうか。

 京都御所 4(御常御殿から出口へ)  



御学問所前を通り、御池庭の北へ行くと、潜り門があります。ここまでが公の空間で、この先は天皇の私的な生活の場になる。「ここから先は明治維新期まで奥向きの御殿とされ男子は稚児と老侍以外は男子禁制とされお付きの女官や女御など女性や女子のみしか立ち入りを許されなかった」(Wikipediaより)

元々、清涼殿が天皇の日常生活の場だったが、秀吉の天正度造営時(1590年)に、天皇の生活の場として「御常御殿(おつねごてん)」が独立した建物として造営された。明治天皇も明治2年(1869)に東京へ遷るまでこの御殿に住んでおられました。
京都御所の中で最も大きな建物で、檜皮葺き、入母屋造り、書院造り。内部は総畳敷きで、天皇の寝室「御寝の間」、三種の神器のうちの剣璽を奉安した「剣璽(けんじ)の間」、儀式や対面用の「上段の間、中段の間、下段の間」など15部屋がある。

縁側の板戸が開けられており、杉戸絵を見ることができます。

御常御殿の東側にある庭は「御内庭(ごないてい)」と呼ばれる。「流れの庭」とも呼ばれるように遣り水が曲がり流れ、中島をはさみ土橋、石橋、八つ橋が架かる。御内庭の南東隅の築山の上には小さな茶室「錦台(きんたい)」<空中写真の(1)>が建ち、庭を眺めながらお茶を嗜むようになっている。
また北東隅には「地震殿(じしんでん、泉殿)」<空中写真の(2)>と呼ばれる建物がある。これは、床を低くし天井を張らず屋根も軽くし、地震などの時の避難場所として造られたもの。

御常御殿の北側までが許可された見学コースです。あとは空中写真をみて想像するしかない。

写真中央は、孝明天皇の希望を受けて書見の間として安政5現(1858)に造られた「迎春(こうしゅん)」<空中写真の(3)>と呼ばれる建物。御常御殿の縁座敷から渡り廊下で結ばれ、十畳と五畳半の二間だけの簡素な建物。その右の檜皮葺き屋根だけが見える建物は「御涼所(おすずみしょ)」<空中写真の(4)>と呼ばれ、暑い京都の夏をしのぐために、窓を多くし風通しを良くした建物。
<空中写真の(5)>は壁のない「吹抜廊下(ふきぬきろうか)」で、途中でゆるやかに折れ曲がり下を池からの遣り水が流れ、この流れの周辺には、飛び石が配置され、美しい植栽と苔で埋められている。廊下の先は「聴雪(ちょうせつ)」<空中写真の(6)>で、安政4年(1857)に孝明天皇の好みで増築された数寄屋建築の茶室。

上の写真の右端が「龍泉門」<空中写真の(7)>で、これを潜ると「龍泉(りゅうせん)の庭」<空中写真の(8)>となる。池の中央に中島があり、三方向から石橋が架けられている。聴雪の奥が「蝸牛(かたつむり、かぎゅう)の庭」<空中写真の(9)>。明治期の作庭で、水を全く使わない枯山水庭園。白砂を敷いて池を表し、中央に苔の島を築かれている。

御常御殿南側の出口を出ると、「御三間(おみま)」と呼ばれる建物がある。ここでも杉戸絵を見ることができます。
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもの。三間からなり、涅槃会、七夕、盂蘭盆会など内向きの年中行事に使われた。明治天皇が祐宮(さちのみや)の幼少時に、「御手習い始め」「御読書始め」をされた場所ともいわれる。

御三間を最後に見学コースは終了です。出口には白テントが設置され、暑いなかご苦労さま、と休憩所が用意されていました。今日は特に暑かったのでありがたかった。

江戸時代、天皇はじめ公家たちは幕府から政治に手を出すなと、と抑えられていた。そして彼らは貧しいながら優雅な宮廷生活を送っていたのです。ところが、1853年ペリーの黒船来航から状況が一変する。開国・通商を求められた幕府はうろたえ狼狽し、何事も決められない。そうだ、日本には天皇という偉いお方がいらっしゃる、相談してみようと京都の御所まで特使を出したのです。天皇と取り巻きの公家達は、俺たちにも力があるんだと目覚めた。こうして朝廷の政治的権威が急浮上し、それにあやかろうとする諸藩の藩士や志士気取りの浪人まで京都に集まってくる。こうして京都は政治の舞台となり、朝廷のある京都御所は幕末政治史の焦点に躍り出た。現在は抜け殻となった空虚な京都御所ですが・・・。


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京都御所を訪ねて 2(京都御苑)

2023年10月23日 | 名所巡り

これから京都御所を取り巻く京都御苑を歩きます。南側の堺町御門から入り、九条邸跡、閑院宮邸跡とその周辺を見学。さらに北上し、京都御所の南域から西、北、東へと時計回りに見てゆきます。

 京都御苑 1(堺町御門・九条邸跡)  




丸太町通りを石垣に沿って西に歩けば堺町御門(さかいまちごもん)が現れる。京都御苑のちょうど南側中央に位置する。
傍の説明版に「1863(文久3)年8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津・薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿七人と尊皇攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。堺町御門警備担当の長州藩が御門に終結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、激派の公卿七人も長州に逃げ落ち、京都では一時的に公武合体体制が成立しました」とある。この周辺で長州藩兵と、薩摩・会津の藩兵とがにらみあい、一色触発の状態だったという。また翌年の「禁門の変」でも長州藩兵はこの辺りで戦っている。

堺町御門を入ると正面に、広い砂利道とその奥に繁みがみえる。ここはかって鷹司家(たかつかさけ)の邸があった場所です。今では説明版が1枚立つだけで何もない。説明版は文字が擦れ読みにくいので、デジタル拡大して読むと「鎌倉時代中頃、近衛家からわかれた五摂家の一つです。江戸時代中期には閑院宮家の皇子淳宮が鷹司家を継ぎました。孫の政通は幕末期30年以上も関白を務め、九条尚忠へ譲った後も、内覧、太閤として朝廷で重要な役割を担いました。政通夫人は水戸藩主徳川斉昭の姉で、外国情報を早く知り得たといいます。1864(元治元)年の禁門の変では、長州藩士が邸内に入り、邸に放たれた火は、長州藩邸の火などとともに「どんどん焼け」と称する京都大火につながりました」とあります。
藤原氏北家嫡流で、鎌倉中期の近衛家実の四男兼平を祖とする。家名は、兼平の邸が京都鷹司室町にあったことによる。以降代々、摂政・関白を務め、近衛・九条・二条・一条の四家とともに五摂家のなかでは最後の成立である。
禁門の変(蛤御門の変)の時、長州の久坂玄瑞の一隊は鷹司邸跡を占拠したが、まもなく包囲され総崩れとなり、久坂玄瑞は邸内で寺嶋忠三郎と刺し違えて自刀している。鷹司邸跡や長州藩邸から上がった炎は、北風にあおられ「どんどん焼け」と呼ばれる大火となり、町屋3万戸近くが焼けたという。

堺町御門のすぐ西側が九条邸跡。これは閑院宮邸跡の展示室に置かれていた九条邸跡の模型。池の形から「勾玉池(まがたまのいけ)」とも呼ばれる九条池の中央に高倉橋が架かる。池の西端が捨翠亭で、北側の出島に厳島神社がある。桃色鮮やかな樹木はサルスベリです。

(高倉橋から池の東側を撮る)九条家は、藤原北家の流れを汲み、平安末期から鎌倉初期に活躍した九条兼実を祖とし、京都の南東部の九条陶化坊に邸があったのが家名となる。豊臣秀吉は公家を御所周辺に集め公家町を形成した。その時に九条家も御所の南の現在地に移った。九条家は、平安時代から江戸時代までの数百年間に掛けて多くの摂政・関白を輩出し、近世末まで宮廷政治の重鎮であった。幕末期の関白・九条尚忠(ひさただ)は開国か攘夷かで揺れる京都朝廷で関白として大きな力をもち天皇を補佐してきた。尚忠の娘夙子は孝明天皇の女御となり、また大正天皇の皇后・貞明皇后は九条家出身で昭和天皇を産んでいる。このため、現在の皇室にも九条家の血筋が引き継がれている。

九条池の中央に架かる高倉橋は、天皇行幸のため明治15年(1882)に架けられたもの。橋の先には広い大通りがつらぬき、御所正門の建礼門につながっている。

橋の西側。捨翠亭と水面に映るサルスベリが印象的です。
明治天皇が東京へ移ると公家たちも東京へ移転していった。明治10年(1877)に政府によって九条家の敷地は買い上げられた。九条邸は取り壊され、広大な屋敷も捨翠亭と九条邸の鎮守だった厳島神社が残るばかりに。

北側の出島に佇む厳島神社。この社は平清盛が摂津の兵庫築島に、安芸の厳島神社の神を勧請し、同時に母の祇園女御を合祀して祀ったもの。経緯は分からないが、後にここ九条邸内に移され、九条家の鎮守とされた。家業繁栄、家内安全にご利益があるとされ、一般からも拝まれている。
石鳥居は、上部が唐破風形をした珍しい鳥居で、京都三珍鳥居の一つとして知られ、昭和13年に文部省より重要美術品に指定された。

厳島神社から眺めた池と捨翠亭。サルスベリはよく見かけるが、これほどピンポイントで映えるサルスベリは初めてだ。

これから捨翠亭(しゅうすいてい)の中に入ります。入口は西側にある。一般公開日は年末、年始を除く毎週木・金・土曜日と葵祭(5/15)、時代祭(10/22)の日。
中学生以下は無料です。内部の撮影はOKです(業者や機材使用はNG)。

玄関を上がると控えの間があり、その奥に十畳の広間がある。広間は茶室だが、池に面して板敷の広い縁が設けられている。お茶を楽しみながら美しい庭園を鑑賞したのでしょう。

広間から庭園を眺める。
拾翠亭は九條家の現存する唯一の建物で、今から約二百年前の江戸時代後期に数寄屋風書院造りで建てられたもので、10畳と3畳の二つの茶室が残されている。九条家の別邸として、主に茶会や歌会などの社交の場として利用されました。「捨翠」とは、緑の草花を拾い集めるという意味が込められているという。

二階にも上がれます。北、東、南の三方に高欄付きの縁がめぐらされ、九条池を中心とした庭園全体を眼下に見晴らせる。ただし、危険防止のため縁側には出れないようです。

二階から高倉橋を眺める。この時期、サルスベリが色取りをそえてくれる。
九條池は東山の山なみを借景とし、拾翠亭からの眺めを第一につくられたといわれています。今は木立が大きくなり東山は見えない。

こちらは厳島神社方向。

今度は捨翠亭から外に出てみます。これは南側から捨翠亭を見たもの。入母屋造りの屋根は、瓦葺と一部柿葺きが組み合わされているという。
女将さん(?)の話では、夏のサルスベリ、秋の紅葉、冬の雪景色がお勧めとおっしゃる。春が欠けているので尋ねると、ワビ、サビの茶室には派手な桜は似合わないそうです。

これな北側から見た捨翠亭。手前に小さな小間が広間に隣接している。三畳中板の茶室で、パンフに「当時公家方がこの二つの茶室を行き来しながらお茶を楽しまれたもので、貴族の茶事の習わしを知る上で貴重なものである」とあります。

池に小舟が浮かんでいる。舟遊びを楽しんだのでしょう。現在でも、なにか催事に使われるのだろうか。
京都御苑内には多くの公家邸の跡が残されているが、跡形もなく消え去り高札だけが立っている。唯一この九条邸跡だけが、当時の高級公家の優雅な暮らしぶりを偲ばせてくれる場所となっている。

 京都御苑 2(閑院宮邸跡とその周辺)  


九条邸跡から丸太町通りに出る「間ノ町口」を超えて西へ行くと閑院宮邸跡がある。堂々とした門が構える。ここが閑院宮(かんいんのみや)邸跡への入口になる「東門」です。

万世一系とされる皇統が継続されるかどうかが、皇室にとって最大の懸念である。そこで天皇に直系男子の継嗣がない時、天皇継承ができる家を創った。皇族の中で、天皇・太上天皇の養子縁組・猶子となって親王と認められ(親王宣下)て天皇継承ができる親王家(宮家)となったのです。江戸前期には伏見宮家・桂宮(八条宮)家・有栖川宮家があった。
儒学者・新井白石(1657-1725)は、皇統の備えとして幕府が費用を出して新しい親王家の創設を六代将軍徳川家宣に提言する。その結果、幕府の援助のもとに宝永7年(1710)に東山天皇の皇子・直仁親王を始祖とし新たな宮家として四番目の閑院宮家 (かんいんのみやけ)が創設されました。皇統の断絶の恐れはまもなくやってきた。安永8年(1779)、後桃園天皇が後嗣ないまま崩御、そこで当時9歳だった閑院宮家二代目の第六王子祐宮が光格天皇(1771-1840)として皇位を継承したのです。光格天皇以降は直系の皇太子が次代天皇に即位し、現在の令和天皇まで続いている。そうしたことから光格天皇は「現皇室の祖」と呼ばれることもある。
一方、閑院宮家は7代目が戦後の昭和22年(1947)に皇籍離脱し、昭和63年(1988)に跡取りが無いままに亡くなったことにより、閑院宮家は断絶しました。

閑院宮家の邸宅は正徳6年(1716)に造営された。しかし天明の大火(1788年)で焼失しその後再建され,閑院宮家が東京に移る明治10年(1877)まで屋敷として使用されました。その後は華族会館や裁判所として一時使用されたが、明治16(1883)年に宮内省京都支庁となり建て替えられたのが現在の建物です。一部に旧閑院宮邸の資材が利用されている。現在は環境省と所管となり、平成15年(2003) から3カ年をかけて全面的な改修と周辺整備が行われました。バリアフリーのスロープが設けられているのが印象的。

建物内部の一般公開は午前9時~午後4時30分、休館日は月曜日(祝日を除く)と年末年始、入場料は無料です。東門は常時開けられ、庭園など建物の外は何時でも自由に見学できます。


建物は木造平屋建てで、中庭を囲む四つの棟で構成されている。




令和4年(2022)4月にリニューアルした収納展示館は、京都御苑の樹木・花・野鳥等の自然を、さらに御所周辺の公家町や公家の暮らしぶりを紹介している。VR映像シアターでは公家町の映像を流しながら解説していました。




次に建物南側の庭園を散歩してみます。庭園は何時でも自由に散策できる。まず池が現れる。やや素っ気なく感じられるが、現在の池は平成15~17年度の整備で復原されたもの。18世紀中頃に作庭された当時の池は、保存のために埋め戻し、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現したという。州浜を設ける手法は、京都御所、仙洞御所、桂離宮などの宮廷庭園に見られるものだそうです。



庭園の奥へ行くと建物の基礎が残されている。これは明治25年(1892)に建てられた宮内省京都支庁の所長官舎の跡です。その南側に小さな
池泉回遊式庭園がある。遣水が流れ、園池のほとりに置かれた雪見型燈籠(左写真中央)をはじめ、いろいろな形の5基の燈籠が配されている。
官舎の座敷から緑に包まれた曲水の流れを眺める、何とも贅沢な官舎だ。この所長は誰だろうかと調べると、宇田栗園(又は淵)(1827-1901)という勤皇の志士で、怪物公家・岩倉具視の腹心の部下だそうです。


閑院宮邸跡のすぐ東側に宗像神社(むなかた)があります。
社伝によれば、延暦14年(795)、後の太政大臣藤原冬嗣が桓武天皇の命により、皇居鎮護の神として筑前の宗像神社の宗像三女神を勧請し、自邸に祀ったのが始まりと伝わる。その後、花山院家に引き継がれ明治に至るまで、同家の者が別当として奉祀してきた。明治維新後の東京奠都によって花山院家が東京に転居すると、邸宅は取り壊されたが社殿は残され、現在は神社本庁に属している。

西側の烏丸通に面して4つの御門があるが、一番南に位置するのが「下立売御門(しもだちうりごもん)」。幕末の禁門の変(1864年7月)では「蛤御門の戦い」が有名だが、この下立売御門でも守衛の仙台藩と外から攻撃する長州藩との間で戦われた。今はクスノキに覆われ、静かなたたずまいをみせている。

下立売御門から東へ歩くと小さなせせらぎが流れ、「出水(でみず)の小川」の標識が立つ。
かっては琵琶湖疏水から専用水路で御所に水が引かれていた。それを利用して昭和56年(1981)にこの「出水の小川」が造られた。平成4年(1992)に御所水道が閉鎖されたことから、現在では井戸から地下水を汲み上げ循環濾過して流れを維持しているそうです。
長さ約110m、深さ10cm~20cm位で、子供の水遊びにちょうど良い。春には八重桜の名所になるという。春から夏にかけて、子供たちのはしゃぎ遊ぶ姿が浮かんできます。

「賀陽宮(かやのみや)邸跡」の説明版と「貽範碑(いはんひ)」の石碑が建つ。この辺りから烏丸通りにかけて朝彦親王の邸があった。幕末の動乱期に策動した公家・朝彦親王は賀陽宮、久邇宮など多くの呼び方があるが中川宮が一般的。

朝彦親王(1824-1891)は、伏見宮邦家親王の第四王子として生まれ、13歳の時仁孝天皇の養子となり、親王宣下を受ける。その後、興福寺一乗院の門主、青蓮院門主、天台座主を務めた。幕府が結んだ日米修好通商条約に反対したため、安政6年(1859、35歳)井伊直弼の安政の大獄で隠居永蟄居となる。井伊直弼暗殺後、赦免され国事御用掛となり朝政に参画し孝明天皇を補佐しました。翌文久3年(1863)に還俗して中川宮の宮号を名乗る。当時京都では、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州藩や朝廷内の公卿の活動が活発化していた。危機感を抱いた公武合体派の領袖であった中川宮朝彦親王は、京都守護職を務める会津藩主松平容保やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、攘夷派公卿、長州藩を京都から排斥することを画策する。それが文久3年(1863)の「八月十八日の政変」です。追放された攘夷派志士たちは、朝彦親王を「陰謀の宮」などと呼び敵視した。この年、邸宅の庭にあった榧(かや)の巨木にちなみ中川宮から「賀陽宮(かやのみや)」に改めた。その後、幕府は二度にわたる長州征討を行ったが目的を果たせず、それに伴い尊攘派がしだいに復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」で追放されていた討幕派・尊攘派公卿が復権し、翌年朝彦親王は幕府を擁護した罪で安芸国(広島)へ幽閉される。親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった明治5年(1872)、謹慎を解かれ、伏見宮家の一員として京都に復帰する。明治8年(1875)久邇宮(くにのみや)家を創設、伊勢神宮の祭主となる。孫娘が香淳皇后(昭和天皇后)、そこから明仁上皇(平成天皇)の曽祖父、令和天皇の高祖父にあたる。
昭和6年(1931)、朝彦親王没後40年にあたりその遺徳を偲び子孫が合い寄って建てた碑です。「貽(い)」は遺と同じ「のこす」という意味を持ち、模範となるものを後世に残すということを表す。

 京都御苑 3(京都御所の南から西へ)  



京都御所の南側と西側の図面

九条邸跡前から撮った大通り。京都御苑の真ん中を南北にはしり御所の建礼門まで続くメインストリート。

信長、秀吉の時代に公家達は、御所周辺に集められ徐々に公家町を形成し、江戸時代には約200の公家邸が軒を並べていた。ところが明治維新となり、明治2年(1869)天皇が東京へ移ると、公家さんたちもこぞって後を追うように東京へ移転してしまう。御所周辺の公家町の建物は取り壊され、空き地が目立つようになり荒廃していった。「明治10年(1877)、京都に遷幸された天皇は、その荒れ果てた様を深く哀しまれ、御所保存・旧観維持の御沙汰を下されました。この御沙汰を受けて「大内保存事業」が進められ、皇室苑地として整備されたのが現在の京都御苑の始まりです」(御苑内の案内板より)

建礼門前から南方向を撮る。突き当りが九条邸跡。建礼門前のこの広い通りは、大正天皇の即位大礼に備えて拡張や石積土塁上にウバメガシ植栽などが行われたそうです。

天皇のお嘆きをうけ京都府では、直ちに土地を買い上げ建物を撤去、石積土塁を築いて外周を整え、内側には苑路を整備して樹木植栽等をおこなう「大内保存事業」を開始し、明治16年(1883)に完了した。管理は京都府から宮内省に引き継がれ、現在は環境省が管理している。広さは東西約700m、南北約1,300m、総面積は約65ヘクタール、甲子園球場の16倍もの広さをもつ。昭和24年(1949)、京都御苑は365日24時間出入り自由な国民公園として開放されました。
京都は寺社が多く緑も豊かだが、それとは全く異質の雰囲気をもった緑地で、街の中のオアシス、京都市民の散策の場として親しまれています。ともかく広い・・・、広すぎて閑散と感じる。

(2017/5/15 葵祭を撮影)京都三大祭りのうち5月には葵祭、10月には時代祭の行列が建礼門から出発し、ここを通って堺町御門から市中に出て行きます。

クソ暑い祇園祭、やや品格の落ちる時代祭り、京都観光には5月15日の葵祭が一番のお勧めです。そして観覧場所は通りの中ほど両脇の土盛上が良い。数メートル間隔で高さ30cm位の石柱が並び、この上に立って見る・撮る、腰掛けて休憩するのに利用できる。石柱には数に限りがあるので先陣争いが必要ですが。また、市中でなく御苑内で観覧するメリットは、「次に見えてきました斎王代は・・・」などとマイク放送で解説してくれることです。今年(2023年)の葵祭は、上皇(平成天皇)ご夫妻が御観覧の予定であったが、あいにく雨で順延されてしまった。

大通りの中ほど東側にこんもりした土盛が見られる。土盛上には松が植えられ、すぐ近くには大銀杏の木が突っ立ています。傍に「凝華洞跡(ぎょうかどうあと)の説明版が立つ。説明版は文字が擦れ読めないので、後でデジタル拡大して判読した内容は「江戸時代第111代後西天皇退位後の仙洞御所があったところといわれています。1864(元治元)年禁門の変の頃、京都守護職に任じられていた会津藩主松平容保は病を患い、朝廷の配慮もありここを仮本陣にしました。丘の上の松の横には東本願寺が寄進した灯籠が建ち南には池がありました。その後、明治の大内保存事業等で池は埋められ、灯籠は九条池畔に移され、戦時中の金属供出により今は台座だけが残っています」

凝華洞跡の西方には、禁門の変の激戦地だった蛤御門がある。長州藩兵は宿敵・会津藩をねらって攻め込んだのでしょうか。またこの辺りは「御花畑」と呼ばれていたようですが、その由来はよく分からない。

京都御苑の図には、凝華洞跡の北側に「有栖川宮邸跡」とある。その辺りを探したが、それを示す碑も立札も見つからなかった。ただ、恐竜のようにくねる一本のアカマツが印象的でした。
有栖川家(ありすがわ)は、江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家。第2代親王は皇位を継ぎ後西天皇(在位:1654-1663)となっている。
以下はWikipediaによる「江戸時代を通し、京都御所の北東部分にあたる猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷が存在した。慶応元年(1865年)に、御所の拡張用地として召し上げられた。代わりに下賜されたのが、現在の京都御苑内で「有栖川宮邸跡」の碑が建つ、御所建礼門前の凝華洞(御花畑)跡であった(この地は直前まで松平容保が宿舎として利用していた)。この場所に明治2年(1869年)に新御殿が落成したが、わずか3年後の明治5年(1872年)、すでに奠都によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより幟仁親王も東京へ転住することになったため、宮邸の土地家屋は京都府を経て司法省に引き継がれ、裁判所として使用された。現在上京区烏丸通下立売角に建つ平安女学院大学の学舎の一つ「有栖館」は、この建物の一部を移築したものと伝えられている。」

9代・熾仁(たるひと)親王(1835-1895)は、公武合体策として徳川将軍家茂に嫁いだ皇女・和宮(孝明天皇の妹)の前の婚約者だった人として知られる。また慶応3年(1867)12月9日の「王政復古のクーデター」により新政府が誕生した時、総裁(今の首相)となる。戊辰戦争では東征大総督を務め、西南戦争では征討総督となった。大正2年(1913)に後継ぎが途絶えたため旧皇室典範の規定に基づきお家断絶が確定した。

今度は、大通りの西側へ行きます。凝華洞跡の反対側にあるのが白雲神社(しらくも)。この辺りは西園寺家の邸宅があった所で、白雲神社は西園寺家の鎮守社だった。御祭神は琵琶をもつ音楽神・妙音弁財天で、音楽や芸能の上達を願う人たちに人気のある音楽の神様です。絵馬には琵琶が描かれている。
西園寺家は藤原北家の流れを汲む公家で、琵琶の家として知られ歴代天皇に琵琶の教授を行っていた。鎌倉時代の公卿西園寺公経(1171-1244)が、今の金閣寺の地に別荘北山第を造営し、家名を西園寺と称しました。敷地内に妙音弁財天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てた。
江戸時代中頃の明和6年(1769)に西園寺邸がここ御苑内に移ると、妙音堂も邸内に再建されました。明治2年(1869)、明治天皇の東京行幸にともない西園寺家も東京に移り、屋敷は取り壊されましたが妙音堂は残された。明治11年(1878)、廃仏毀釈の荒らしの中、以前の神仏混淆の作法を神式に改め、地名の白雲(しらくも)村に因み、社号を白雲神社に改められました。
この場所は「立命館発祥の地」と云われる。西園寺公望が邸内に私塾「立命館」を創設したが、府によって1年足らずで閉鎖されてしまう。その後、塾生によって別の場所に創設されたのが現在の立命館大学です。

白雲神社から道をへだてた西側に梅林が、その北に桃林がある。約130本の梅、約70本の桃が植えられている。現在は閑散としているが、赤、白、ピンクに開花する2月中旬から4月にかけて甘酸っぱい香りが漂い、多くの人々で賑わうそうです。

梅林の近くに「枇杷殿跡」(びわどのあと)の説明版が建つ。内容は「このあたりにあったといわれ、平安時代前期、藤原基経の三男仲平に伝えられ、敷地内には宝物を満たした蔵が並んでいたといいます。1002(長保4)年以降、藤原道長と二女妍子の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、1009(寛弘6)年には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。1014(長和3)年、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます」

桃林の北側の道を西へ行けば「蛤御門(はまぐりごもん)」。京都御苑への出入り口として9御門あるが、一番名が知られているのがこの蛤御門です。幕末の動乱期に、長州藩兵が御所に向かって攻撃を仕掛けた「禁門の変」または「蛤御門の変」(1864年7月19日)があったからです。

「8月十八日の政変」(文久3年(1863))で京都を追放された尊王攘夷の過激派・長州藩は失地回復・名誉回復を目指して京都へ進軍。烏丸通りに面した全ての御門で戦われたが、一番激しかったのが中央に位置する蛤御門だった。午前7時頃、侵入しようとする長州藩兵と、守衛していた会津・桑名藩兵との激戦になった。守衛側は押され気味だったが、烏丸通りの北方から応援に駈けつけた薩摩の精鋭部隊に側面から攻撃を受け、長州側は持ちこたえることができず、退却せざるをえなかった。その後、堺町御門でも激戦になったが長州軍は敗戦となり、21日には長州軍は総崩れとなる。長州藩邸に放った火は、町屋に燃え広がり、翌日には強い北風にあおられ拡大。京都の市民は、落ち武者のなかを、荷車に家財道具をくくりつけて逃げまどった。「鉄砲焼け」「どんどん焼け」と呼ばれるこの大火で、上京では御所の南の町屋が2割あまり(5425建)焼失、下京では、ほとんど全域が罹災した(22095軒焼失)。
「御所に向かって発砲した」として「朝敵」とされた長州藩への二度にわたる長州征伐戦争がおこり、政局は混迷を深めてゆく。
左は「江戸時代の御所付近図」(苑内の案内板より)
図を見れば、各門の位置が現在の位置より微妙に異なっています。これは明治10年(1877)~明治16年(1883)の京都御苑整備事業で現在位置に移設されたものと思われる。蛤御門は、現在より30メートルほど東側に位置し、南北に向いて建っていたようだ。

蛤御門は、本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」と呼ばれ、固く閉ざされ滅多に開くことがない門だった。ところが宝永5年(1708)の大火で御所が炎上した際に、まるで火に炙られた蛤のように門が開かれたことから、以後「蛤御門」と呼ばれるようになったという。
烏丸通り側から見れば、門柱の各所に銃弾痕が今でも残っています。

烏丸通り側から撮った蛤御門。

蛤御門から通りを東へ進むと京都御所の南面が見えてくる。その南西隅に突っかい棒で支えられた巨木が見える。説明版によれば、樹齢約300年のこの椋(ムク)の大木は、この辺りに清水谷家という公家邸があたので「清水谷家の椋」と呼ばれている。また、禁門の変の際に長州側の陣頭指揮をとっていた来島又兵衛が銃弾に倒れ、自刃した場所だそうです。長州兵はここまで攻め込んでいたのだ。

これから京都御所の塀に沿って北へ歩いてゆきます。ここは御苑の真ん中あたりで、ともかく広い。

しばらく歩くと、西方に中立売御門(なかだちうりごもん)が見える。禁門の変では、筑前藩が守護しており、長州藩兵と戦っている。
御門の手前が中立売北休憩所。室内は広く、左側がレストラン、右が売店と休憩所、トイレ。入口には「無料休憩所につき、どなたでもご利用ください」と案内されている。京都御苑内で食事できる所はここしかなく、昼時なのかレストランは大変混んでいました。私は注文品が出てくるまで30分以上待たされた。

宮内庁京都事務所の建物を右手に見ながら、さらに北へ歩くと「縣井(あがたい)」が現れる。「染井」、「祐井(さちのい)」と共に、御所三名水の一つに数えられています。
説明版に「昔この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中に登ったといいます。この付近は一条家の屋敷地内となっており、井戸水は、明治天皇の皇后となった一条美子のうぶ湯に用いられたとも言われています」

宮内庁京都事務所(写真中央)周辺は一条邸跡とされるが、何の目印も無かった。一条家は藤原北家嫡流九条家の庶流にあたる公家・華族。鎌倉時代前期の摂関九条道家の四男実経(1223~1284)が一条室町にあった屋敷を父から譲られたことが家名の由来となりました。摂政・関白を輩出し、五摂家の一つになる。幕末期の当主の三女・美子は明治天皇の皇后(昭憲皇太后)となった。

西方を見ると乾御門が構えます。「乾」とは、十二支の方位で戌と亥の間を表し北西の方角を示す。即ち、御所の北西隅に位置する門です。

 京都御苑 4(京都御所の北から東へ)  




御所北面の松の繁みの奥に入ると、枝垂れ桜の立ち並ぶ広地がある。ここはかっての名門公家近衛邸(このえてい)のあった場所。代々摂政・関白を務めた五摂家の筆頭格だった。御所炎上の際には仮の皇居ともなったそうです。平安京の近衛大路(現在の出水通)室町付近に邸宅を築いたことから「近衛殿」と称された。
近代では、戦前の昭和期に3度も内閣総理大臣を務めた近衛文麿がいる。「天皇の前で足を組んで話をすることが許されている唯一の存在だったといわれる」(wikipedia)近衛文麿だったが、戦後GHQにより戦犯指定されたため服毒自殺している。
傍にあるのが近衛池。近衛邸の庭園の遺構だが、現在は水は涸れて荒れ地のようになっている。茶室・又新邸は仙洞御所に移され保存されている。この辺りは京の早春を告げる糸桜の名所で、桜シーズンには多くの人が押し寄せるそうです。


近衛邸跡を東側に抜けると今出川御門。門の先は同志社大学で、さらのその北に相国寺があります。


今出川御門の東側に五筋塀と門が見えます。閉じられた門前に「桂宮邸跡」の木柱が立つ。
桂宮家は、天正17年(1589年)に智仁親王(1579~1629、正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六王子)を初代として創設された親王家。、元和6年(1620)に別邸として桂離宮を造営したことから後に「桂宮」と称されるようになった。幕末に京都御所が焼失した際に桂宮邸を孝明天皇の仮皇居とした。その時、天皇の異母妹である皇女・和宮親子内親王は、公武合体策の犠牲になりここから江戸の将軍家茂のもとへ降嫁しました。
桂宮家は明治14年(1881)に断絶。現在敷地を囲む築地塀と御門のほか、園池の遺構だけが残されている。本来あった建物は二条城の本丸として移築されて保存されているようです。

桂宮邸跡から御所の背後にまわり、御所塀の北東隅を見ると塀が奇妙に凹んでいて、この場所は「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ばれている。陰陽道によると北東は鬼門方位にあたる。そこで鬼門を「避けている」「除けている」ということから角を欠いて造っているのです。蟇股には、鳥帽子をかぶり御幣を担いでいる猿が木彫りされている。この猿は、日吉大社で神の使いとして大切にされている猿だそうです。日吉大社は平安京の北東に位置することから、表鬼門を守る神社として崇敬されてきました。その日吉大社は猿を神の使いとし、「神猿」と書いて「まさる」と読み、そこから「魔が去る」に通じるとして、猿は魔よけの象徴とされてきたのです(神猿→真猿→まさる→「魔が去る」)。ただこの猿は、夜になるとこの付近をうろつき、いたずらをするので金網に閉じ込められています。

またこの場所は、文久3年(1863)5月20日におこった「猿ヶ辻の変」でも知られる。朝廷内の尊皇攘夷派の急先鋒の一人だった姉小路公知が、朝議からの帰途中にこの付近で刺客に襲われ暗殺された事件です。

桂宮邸跡の東側が幕末の公家・権大納言中山忠能の邸宅跡。明治天皇の実母の実家であり、明治天皇の誕生の地です。
中山家は平安時代末期に、中山忠親により創設された公家で、江戸時代には大名家の家格に準ぜられ、最高官位は大納言まで進むことが出来る家柄でした。第24代の権大納言・中山忠能(1809- 1888、ただやす)の次女・慶子(よしこ)は宮中の高級女官「典侍(ないしのすけ/てんじ)」となり、孝明天皇の身の回りの世話をしていた。
「孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む。家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日(1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。」(Wikipediaより)
孝明天皇が崩御され(1866年12月)、翌年1月に明治天皇が即位する。今や天皇の祖父となった中山忠能は幕末維新期に倒幕に貢献。岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ(1867年12月9日)、小御所会議では司会を務めた。王政復古後三職制が創設されると議定に就任した。

敷地内の左奥に、祐宮(のちの明治天皇)が4歳まで過ごしたという産屋(6畳2間)が残っており、塀越しに見ることができます。

塀前に「祐井」の木柱が立ち、塀の格子間から奥の井戸を覗くことができる。祐宮が2歳の時、日照り続きで邸内の井戸が枯れたため、新たに井戸を掘ると清らかな水が湧きだした。孝明天皇は祐宮の一字をとって「祐井(さちのい)」と名付けた。「京都御苑の三名水」の一つです。

中山邸跡から東へ行くと、倒れそうな老木が支えによってかろうじて立っている。「公家町の時代から残る名木・五松(ごまつ)」と紹介されています。崩れ行く公家の象徴なのでしょうか。五松の角を北へ行くと今出川口が開いている。

五松の場所から東へ直進した所に「石薬師御門」が建つ。かってこの門の前にあった真如堂に石薬師が祀られていたことからくる。門前には石薬師通り、真如堂前道などの地名が残っています。

石薬師御門前から南に広がる鬱蒼とした繁みの中へ入って行く。ここは昭和61年に環境庁が提唱した「母と子が自然とふれあう機会を増やそう」というコンセプトのもとに森作りが行われ「母と子の森」と名付けられています。「おじいちゃんとおばあちゃんの憩いの森」のほうが相応しいような印象を受けました。死に絶えた老木が横たわっている。展示されているのか、放置されているのか?。
「森の文庫」と呼ばれる四面からなる本棚があり、植物や鳥についての図鑑や書物が置かれ自由に閲覧できるようになっている。ここだけは親子で楽しめそう。

「母と子の森」の南側は「京都迎賓館」の建物です。その裏手に「「染殿井(そめどのい)」が残されている。その傍らに「染殿第(そめどのだい)」の邸宅についての説明版が立っている。内容は「染殿第跡 この付近一帯は、平安京当時の北東端(左京北辺四坊)にあたり、平安時代前期に臣下として最初の摂政に任じられ、その後の摂関政治の礎を築いた藤原良房の邸「染殿第」があった場所とされています。染殿第はまた、良房の娘・明子(文徳天皇の后で清和天皇の生母)の御所であり、清和天皇は譲位後ここに移られて「清和院」と称されました。(現在の「清和院御門」の名の由来となっています)ここにある井戸の遺構が「染殿井」と呼ばれているのも、かつての染殿第にちなんだものでしょう。」

藤原良房(804-872)は藤原北家・藤原冬嗣の二男で、その子孫達も相次いで摂関となったことから、藤原北家全盛の礎を築いた人物とされている。また染殿井は「御所三名水」の一つに数えられ、清和天皇の産湯井にも使用されたという。

京都迎賓館の南、仙洞・大宮御所の北側に広い空き地が広がり、立札「土御門第跡」だけがぽつんと立っている。
ここは藤原道長(966-1027)が栄華を極めた邸宅の場所で、土御門大路に面していたことから「土御門第(つちみかどだい)」と呼ばれた。元々は源雅信(920-993)が造った邸だったが、雅信の死後、娘の倫子と結婚した藤原道長が継承した。多くの邸を持っていたが、ここが道長の本邸であり、一族栄華の舞台になった所です。。道長の姉である詮子(一条天皇の母)や、長女の彰子(一条天皇の中宮、後一条天皇と後朱雀天皇の母)の御所となる。彰子の妹・嬉子もここで後冷泉天皇を出産、後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏(仮御所)ともなった。道長の栄華を示す和歌「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることも無しと思へば」はこの屋敷で詠われた。また道長に召し出されて彰子に仕えた紫式部は、その宮仕えの様子を「紫式部日記」に描写している。
こうして華やかな歴史を刻んだ土御門第だったが、鎌倉時代の吉田兼好「徒然草」には廃墟になり荒廃したようすが記されているという。
(説明書きの駒札がかすれて読めない、デジタル拡大しても判読しがたい。環境省さん、松の手入れも大切だが駒札も読みやすくしてくれ)

土御門第跡の前を仙洞・大宮御所の塀に沿って東へ行くと「清和院御門」がある。清和天皇が譲位後に「清和院」と称し、近くに住んだことからの名称です。門を出てすぐに左に、紫式部が住んでいた蘆山寺があります。紫式部は蘆山寺から清和院御門を通って土御門第へ宮仕えしていたのです(当時門はあったのかな?)

大宮御所の北側、京都御所の建春門東側の広地に「学習院跡」の立札が置かれている。江戸時代末期に、公家をはじめ御所に務める役人のための教育機関として開設されたもの。一時、諸藩の陳情や建白を受け付ける窓口としたことから、尊皇攘夷派の公家や志士の活動拠点とされたが、八月十八日の政変以降、本来の教育機関に戻る。天皇や公家が東京に移るとともに京都の学習院は廃止されたが、東京に再設立されている。


学習院跡には珍しい「桜松」が生育している。
左上の写真を見れば、松の樹上に桜が咲いている。これ自体が驚きだ。桜は、松の空洞を通り土に根を張っていたのです。育ての親松は倒れても、子桜は元気に成長し、春には美しい花を見せてくれます。

学習院跡北側の広地は、公家の橋本家の邸宅跡のようです。探したが立札など見つけられなかった。
橋本家は藤原北家の流れをくみ、鎌倉時代末期に西園寺実俊を祖として創設された公家。この橋本家で有名なのが、幕末の時代の波に翻弄された和宮(かずのみや、1846-1877)。
和宮の母・橋本経子は仁孝天皇の側室だった。和宮は仁孝天皇の第八皇女として生まれ、孝明天皇の異母妹にあたる。ここ橋本家で14年間養育され、嘉永4年(1851)には、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王と婚約している。和宮は6歳、有栖川宮は17歳だった。
嘉永6年(1853)6月ペリーの浦賀来航から政局は激しく動く。開国をめぐって幕府と朝廷は対立し緊張関係になります。この緊張関係を収拾させようとして考え出されたのが公武合体策。具体的には、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に降嫁させようというもの。紆余曲折を経て、嫌がる和宮を説得し、万延元年(1860))にようやく内諾を得る。
文久元年(1861)10月、和宮(15歳)は内親王の宣下を受け、江戸の14代将軍・徳川家茂のもとに正室として降嫁していく。翌2月、和宮と家茂の婚儀が行われた。慶応2年(1866)7月、家茂没後、落飾して「静寛院」と称す。
慶応4年(1868)、戊辰戦争が始まると、かっての婚約者だった熾仁親王が東征大総督になり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城攻撃の中止を懇願し、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。32歳で亡くなり、芝・増上寺に夫ともに葬られています。


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京都御所を訪ねて 1(大宮御所・仙洞御所)

2023年10月05日 | 名所巡り

★2023年9月29日(金曜日)
猛暑の夏もようやく過ぎ、出かけたくなる季節がやってきました。最近、明治維新関連の本を読んでいるせいか、京都御所に大変興味が湧いてきた。京都御苑には葵祭、時代祭りで何度か訪れたことがあるのだが、宮内庁管理の京都御所(内裏)は桂離宮、修学院離宮などと同様に面倒な事前予約が必要だと思い敬遠してきたのです。ところがネットを見ていると、京都御所は事前予約なしに見学できるようになった、とあります。こうなったら出かけざるをえない。ついでなので仙洞御所も、と思ったらこちらはまだ事前予約制だった。やむなく4日前にネット予約する。
広い京都御苑内をどういった順路で周るか悩みます。まず午前9時30分予約の仙洞御所を見学する。次に京都御苑の南の門「堺町御門」からスタートし、京都御所を取り巻く京都御苑内を時計回りに一周し、最後に京都御所に入る。こういうコースで歩くことにした。

なお、京都御苑や仙洞御所などを含めた全体を「京都御所」と呼ぶのが一般的なようです。私もそうでした。しかし正しくは天皇の住まいだった「御所」(内裏、禁中、禁裏とも)とそれを取り巻く公家たちの邸があった「御苑」は区別されるようです。管轄も違い、御所は宮内庁が、御苑は環境省が管理している。

 大宮御所・仙洞御所の見学順路図 



1)北門、2)休憩待合所、3)御車寄、4)御常御殿、5)六枚橋、6)阿古瀬淵、7)紀貫之邸宅碑、8)鎮守社、9)土橋、10)石橋、11)雌滝、12)紅葉橋、13)八つ橋、14)雄滝、15)草紙洗石、16)反り橋、17)醒花亭、18)悠然台、19)氷室、20)柿本社、21)又新亭

見学ツアー進路を赤点で示しましたが、少々分かりにくい。番号順に見学、撮影していったので参考にしてください。

 大宮御所  



仙洞御所の外側を、南から北方を眺める。中央に正門が構えるが、閉まっています。

「仙洞(せんとう)」とは、仙人が住む俗世間を離れた清らかな土地という意味から、天皇を退いた上皇が住む場所をさします。仙洞御所は「後水尾上皇の御所として江戸時代初期の寛永7年(1630)に完成した。それと同時にその北に接して東福門院(後水尾上皇の皇后、将軍徳川秀忠の娘和子)の女院御所も建てられた。古くは内裏にように一定の場所にあったわけでもなく、また必ず置かれたわけでもないが、後水尾上皇以来現在の地すなわち京都御所の東南に定まった」(受付でのパンフより)。その後、何度か焼失するが、その都度再建されてきた。ところが嘉永7元年(1854)の大火で京都御所とともに焼失すると、その時たまたま上皇がいなかったので再建されないまま現在に至る。今は二つの茶室と、庭園のみが残されています。仙洞御所を取り囲む五筋の紋の入った築地塀は、安政2年(1855)に京都御所とともに再現されたもの。

北側に回ると北門があり、出発時間の30分前に開けられ、ここから入る。門脇に二人の皇宮警察官が立ち、ハガキやメールなどの見学確認書をチェックする。荷物検査は特にありませんでした。門をくぐると三人目の皇宮警察官が見張っており、少し緊張感が湧いてきた。白テントは受付でなく、案内用のものかと思われます。

右側にある建物が、受付と待合場所になっている。

京都仙洞御所(大宮御所も含む)は、京都御所のような自由な一般公開はされていない。事前予約制の無料見学ツアーに申し込みする必要がある。無料見学ツアーは1日に4回(午前 9時30分、11時00分、午後 1時30分、3時30分)で、しかも定員(20名?)がある。予約は往復はがき、インターネット、当日予約の3つの方法があります。当日予約は午後のみで、当日の参観を希望される方は午前11時から仙洞御所北入り口前に並んで、先着順で10名まで入ることができます。
私は4日前にインターネットで申し込みました。カレンダーが表示され、予約可能日が示され、予約時間を選択します。29日は<午前:9時30分>しか空きがありませんでした。・氏名・住所・電話番号・メールアドレス・参加人数などを入力します。2日後に見学許可のメールが届いた。このメールを印刷して当日に受付に提出する。印刷できない人はメールに記載されている許可番号を知らせます。返信はがき、確認メールの着信などを考えると、最低4日程前までに予約する必要があるようです。

待合場所です。自動販売機あり、また見学ツアーは1時間ほどかかるので、ここでトイレをすましておくこと。ここ以外にトイレはありません。
ツアーコースにそったビデオ映像が流されているので、事前知識を持っておくのもよい。20分ほどの映像が終わり、9時半になると、ガイドさんが現れ「それでは参りましょう」となる。

総勢15名ほどがガイドさんに先導され、大宮御所へ入って行く。最後尾には、皇宮警察官が目立たないようについてくる。コースからはみ出さないように、グループから外れないように見張っているようです。現在でも、天皇、皇后の京都府への行幸の際の宿泊に使用されているようなので、監視が厳しいのでしょう。

日英二ケ国語で案内されるガイドさんは小型スピーカーを腰に付けておられるので、少し離れていてもよく聴こえます。

大宮御所の玄関になる「御車寄(みくるまよせ)」で、奥の御常御殿と棟続きになっている。銅板葺の屋根が三層重なっており、雁が飛んでいるようでカッコいい。
「大宮」とは皇太后、太皇太后の敬称で、現在の「大宮御所」は慶応3年(1867)に、孝明天皇の女御・英照皇太后の御所として女院御所の跡に造営された。明治5年(1872)に英照皇太后が東京に移ったことから多くの建物は撤去され、常御殿、御車寄、付属舎だけが残る。

潜り戸を抜け、大宮御所の御常御殿の南庭に入る。白砂が敷かれた南庭には、御殿前の右に白梅、左に紅梅が、背後に竹が、周辺に松が配され、「松竹梅の庭」と呼ばれています。

慶応3年(1867)に造営された御常御殿(おつねごてん)は大正年間に洋風に改められた。周りはかつて遣戸だったがガラス戸に代わり、内部は絨毯が敷かれ、ソファ、テーブルなどの洋風調度品が置かれているそうです。これは現在でも天皇、皇后、皇太子、および皇太子妃の行幸の際の宿泊に使用されているからでしょう。
上皇(平成天皇)ご夫妻が今年(2023年)の5月15日の葵祭を御観覧の予定だったが、あいにく雨天順延となってしまった。そこでここ御常御殿で過ごされたそうです。

 仙洞御所 1(北池周辺)  



土塀の潜り門を抜けると、池を中心とした雄大な仙洞御所の庭園が開けてくる。広大な庭園ですが、ガイドさんがベストなコースを選択して案内してくださいます。かってにコースやグループから外れ、単独行動はできません。後ろには皇宮警察官が見張っていますよ。
以下の紹介はコース順に記述していますので、空中写真の地名、番号を参考にイメージしてください。

目の前に広がるのは「北池」と呼ばれている。もともとは大宮御所の庭園として造られたが、延享4年(1747)に掘割で南池とつなげられ仙洞御所の庭園となった。
仙洞御所の庭園は、幕府の作事奉行・小堀遠州が寛永13年(1636)に作庭した池泉回遊式庭園です。遠くにかすかに東山がのぞく。かって東山の峰が借景にして採られていたが、現在は樹木が大きくなり目立たなくなっている。

北池に沿って左(北側)へ歩くと六枚の切り石二列の「六枚橋」が架かる。橋の左手の入江は「阿古瀬淵(あこせがふち)」と呼ばれています。
橋を渡った先に、明治8年(1875)に建立された紀貫之の邸宅跡を示す石碑が建っている。この辺りに「古今和歌集」を編纂した平安時代初期の歌人・紀貫之の邸があったと伝わっています。入江の名の「阿古瀬」とは、紀貫之の幼名「阿古久曾(あこくそ)」にちなんだものだたいわれている。

北池の北側の散策路。京都の寺院などの多くは、回遊式庭園といっても建物内から眺めるだけのものが多い。仙洞御所の庭園は、建物が無いこともあるが、広い園内を回遊して楽しめる庭園です。しかもガイドさんの案内付きで、しかも無料で(税金?)。

左手の土堤上に紅い鎮守社が見える。伊勢神宮、下賀茂神社、上賀茂神社、石清水八幡宮、春日大社を祀っているそうです。

北池の南側を眺めると、中央に掘割があり、南池とつなげられている。掘割の右が紅葉山、左が鷺の森です。

北池の東側に回り込と、やや反り気味でテスリ付きの土橋がある。かって長さ5mの橋を1本の橋脚で支えていたが、危険なので現在は2本になっている。さらに行くと石橋がある。幅が狭くテスリも無いので、写真に夢中になっていると落っこちそうになる。

この辺り、北池の南東隅で入江が入り組んでいる。樹木と池を見ながら曲路を気持ちよく散策できます。「雌滝(めたき)」と呼ばれている小さな滝があります。ガイドさんに紹介されなければ、ただの水の流れだと見逃してしまいそうです。

鷺の森に入り、北池を眺める。

反対側の南方向を眺めると、これから周回する南池が広がる。中央に見えるのが藤棚に覆われた「八つ橋」。

鷺の森の先に「紅葉橋」が架かる。土橋で、丸竹のテスリが付く。これは北池と南池をつなぐため間を割って造られた掘割にかけらてた橋。舟遊びで両池を往来するために運河を造ったのでしょう。

紅葉橋の遠景。橋の右が鷺の森で、左が紅葉山。名前から想像すると、紅葉シーズンには素晴らしい景観となることでしょう。ついガイドさんに「紅葉時期も無料ですか?」と尋ねてしまった。「仙洞御所はいつでも無料ですヨ」とのご返事(宮内庁管理の皇室財産なので税金?)

 仙洞御所 2(南池周辺)  



南池西岸を少し下ると、藤棚に覆われた橋がある。南池を横断し、池の中央にある中島へつながる。元は木造橋だったが、明治時代中頃に八枚の御影石を稲妻形につないだ石橋に架け替えられた。そのため「八つ橋」と呼ぶ。4本の藤もその時植えられ、西半分は下り藤、東半分が上がり藤だそうです。

八つ橋から池の北東を見ると、自然石と切り石を組んだ護岸をもつ出島がある。左の写真は、出島の左端を拡大したもの。高さ2mほどの滝から水が落下している。北池の雌滝に対して「雄滝(おだき)」と呼ぶ。滝の右前方にある大きい平石は「草紙洗(そうしあらい)の石」と呼ばれ,六歌仙の小野小町と大友黒主が、歌合わせで対峙した逸話を題材にした謡曲「草紙洗小町」にちなんだ石だそうです。

八つ橋から南を見ればさらに南池が広がっている。西岸は小石を敷き詰めた州浜がのび、左には中島が見えます。
中島にはかって釣り殿があったが、今は礎石だけが残されている。丸く平たい笠で三本足の雪見燈籠は、黄門さんこと水戸光圀の献上によるものだそうです。





中島から反り橋を渡り対岸へ。周辺の景観に見とれていると、この橋でも落っこちそう。


南池の南端には小さな「葭島(よしじま)」が浮かぶ。かって島の周囲に葦(葭)が生えていたことからくる名称。
池に沿った散策路にはカエデの木が多く、紅葉に彩られた絶景が眼に浮かんできます。

南池の南にでると西岸一帯に、平べったくて丸い小石をびっしりと敷き詰めた「州浜」が広がる。池の中にまで敷き詰められ、石の数はなんと約12万個。小田原藩主・大久保忠真が領民に集めさせ光格天皇に献上した。石1個につき米1升と交換したことから「一升石」と呼ばれている。一個一個真綿で包み、船で大阪から京都に運んだという。

州浜に沿った道は「桜の馬場」と呼ばれ、桜並木となっていた。ガイドさんによると、台風で倒され、今は6本しか残っていないそうです。

 仙洞御所 3(醒花亭・又新亭)  



南池の南端に、池を一望できるように北面して茶室「醒花亭(せいかてい)」が建つ。数度の火災にあい、現在のものは江戸時代後期、1808年に後桜町天皇により再建されたもの。仙洞御所内でもっとも古い建物になる。柿葺き平屋の数奇屋造の建物で、腰高障子がはまる。醒花亭の「醒花」は李白の詩から取られたもので,室内東側の鴨居の上に拓本の額として掲げられている。額の字は中国明の時代の郭子章の筆である。
また茶室東側の小高い丘の上に「悠然台(ゆうぜんだい)」という物見台が置かれていた。仙洞御所で最も高い場所で、観月や祇園祭の山鉾巡行を眺めたそうです。


茶室の前には手水鉢と加藤清正の献上品と言われている朝鮮灯籠がある。手水鉢にはひび割れを防ぐため小石が敷き詰められているが、天皇行幸のおりには除かれ、清水が満たされるそうです。



醒花亭斜め前の小高い土盛は、殻を伏せたサザエに似ていることから「さざえ山」と呼ばれている。頂上には石垣で囲われた遺構が残され、7世紀の古墳跡のようです。




さざえ山とは道を挟んだ西側に緑の植え込みが見られる。これは深さ4m、長さ7m、幅4mの地下構造物で、「お冷やし」と呼ばれる氷室です。洛北の氷室より運び込まれた氷を夏場に貯蔵し、氷水、食物の冷蔵などに使っていた。
ガイドさんの案内が無いので尋ねると、覗き込んで落っこちる方がいるので紹介していないそうです。



真っすぐ北へ進むと赤垣で囲まれた小さな社がある。万葉の歌人・柿本人麻呂を祀っている「柿本社(かきのもとのやしろ)」です。火災が頻発したことから、零元上皇(1654-1732)が「人麻呂(ひとまろ)」は「火止まる」につうじるとして勧請したという。



州浜沿いの苑路に戻り、北へ向かう。手前の小石が原、エメラルドグリーンの南池、奥の緑の森、葭島が浮かび左には中島が見える。紅葉に彩られたらどんな風景になるんだろう。池は、紅葉の映りがよくなるように浅くしているそうです。

北方を眺めれば、藤に覆われた八つ橋を手前に、奥に紅葉橋と左の紅葉山、さらにその左が蘇鉄が植えられ燈籠が立てられている蘇鉄山です。

この写真の左には樹木が茂る広々とした林がある。このなかにかって仙洞御所の殿舎が池に面して建ち並んでいとという。それらの殿舎は整理され、現在は1棟も残されていない。

仙洞御所への入口近くまで戻ってきました。そこには四つ目垣で囲まれ茶室「又新亭(ゆうしんてい)」が佇んでいる。明治17年(1884年)、近衛家(今出川御門)の寄進により、その邸宅より移されたもの。茅葺と柿葺の屋根をもち、大きな丸窓に半切れの竹桟が特色です。名は裏千家宗旦の「又隠(ゆういん)の席」に因る。
茶室の南離れには「待合御腰掛」があり、ここから蘇鉄山、紅葉山を観覧できるようになっている。

茶室真ん前の池岸には船着き場が設けられている。ここから舟遊びにでかけ北池から南池へと優雅なひと時を過ごしたのでしょう。中島に釣殿があったことからすると、釣りも楽しまれたことと思う。


約1時間の見学でした。緑と池に囲まれ清々しい広い庭園を案内付きで回遊できるなんて素晴らしい。しかも無料で。紅葉シーズンならなお感動が得られることでしょう。


お疲れさま、と皇宮警察官が北門を開けてくれます。



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