山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・東寺探訪 1

2017年07月30日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)
高野山と並び真言密教の聖地、京都・東寺を訪ねました。弘法大師信仰の原点でもあります。東寺には*十年前の青春時代に来たことがある。その時は、1月21日の「初弘法」と呼ばれる縁日目当てで、広い境内に所狭しと並ぶ露店を見て周っただけです。当時お寺や仏像に興味がなく、また東寺がどのようなお寺なのか知らなかったし、知ろうともしなかった。だから東寺をお寺として見るのは今回が初めてとなる。
これまで高野山をはじめ、醍醐寺、神護寺(高雄山寺)、泉涌寺、奈良・長谷寺、室生寺など著名な寺を周ってきたが、これらのお寺はどれも真言密教と深い関わりがあるのを知った。それなら東寺も訪れない訳にはいかないと・・・。

東寺を訪れる前に、まず羅城門跡と西寺跡に寄ってみる。平安京造成時、南の玄関として羅城門が置かれ、門の東西に都の守護寺として二つの官寺、東寺、西寺が建てられた。羅城門と西寺は、現在その姿を見ることはできず、石碑が建つだけです。

 羅城門跡(らじょうもん)  



東寺の南大門から九条通を西に500m程歩くと、市バス停「羅城門」があり、右に少し入り込んだ所に小さな公園が見えます。「唐橋羅城門公園」とある。どこにでもある小さな児童公園なので見逃しやすい。入口には、「羅城門跡」と書かれた小さな石柱が建てられているが。入っていくと、滑り台の横に「羅城門遺址」の碑と、説明板が立っているだけ。平安時代の面影を示すものは何一つありません。この碑は明治28年(1895)3月に設置されたもの。

平安京の都には、朱雀門を起点にし、中央を南北に貫通する大通り「朱雀大路(すざくおおじ、現在の千本通)」があり、その東側を左京、西側を右京と呼んでいた(大内裏から朱雀大路を南向きで見ての左右)。その朱雀大路の南端、九条大路と交わる位置に、平安京の南の玄関として羅城門が築かれた。正面約32m、奥行き約8m、高さ約20mの二層の楼閣で瓦葺。
楼上に王城鎮護の「兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)」が安置されていた。羅城門が倒壊した時、瓦礫の中から見つけ出され東寺へ運ばれます。現在、国宝として東寺宝物館に収蔵展示されている。

しかし平安京の表玄関だった羅城門は、平安中頃から右京の衰退や社会の混乱によって次第に荒れ果てていく。
死体が転がり、盗人、下人などの巣となってる有様。芥川龍之介の小説『羅生門』の世界です。小説では、行く当てのない下人が門の上の楼へ上がると、死骸ばかりが転がっている中で、一人の痩せこけ猿のような老婆が死人から髪の毛を一本ずつ抜き取っていた。老婆は、飢え死にしたくないので髪の毛で鬘をつくるのだという。下人は”俺も飢え死にしたくないのだ”といって、老婆の着物を剥ぎ取り逃げてゆく。
?十年前の青春時代に黒澤明の映画「羅生門」を観たが、暗いイメージしか残っていない。当時の羅城門はそれほど荒廃してしまっていたようです。
弘仁7年(816)8月に大風で倒壊、その後再建されたが天元元年(978)7月に台風で倒壊した後は再建されることもなく、歴史から消えていった。羅城門推定地での発掘調査は今まで4回行っているが、その痕跡は一切確認されていないという。

なお「羅城門(らじょうもん)」より「羅生門(らしょうもん)」のほうがよく知られている。芥川龍之介の小説や映画、能などのせいでしょうか。歴史用語としては「羅城門」が正しく、「羅生門」は創作だと思っていた。ところがWikipediaによると、中世頃からは「らしょう」の読みが一般化し、当字で「羅生門」とも表記されるようになった、とあります。一概に「羅生門」は後世の創作だとは言えないのですね。

羅城門跡の石碑がある公園への入口に、九条通に面して地蔵堂がある。右肩に矢傷の跡を残す地蔵尊が祀られている。空海の身代わりとなり矢を受けた地蔵さんと伝わり、「矢負の地蔵」と呼ばれていたが、いつの頃からか「矢取の地蔵」と呼ばれるようになったという。





 西寺跡(さいじ)  




西寺(さいじ)跡は、羅城門跡の北西500m位の場所にある。唐橋小学校のすぐ北側なので、唐橋小学校を探して行けばすぐ分かる。現在「唐橋西寺公園」として整備されています。町名も「唐橋西寺町」。

国家鎮護を目的とし、東寺と対をなす官寺として建てられた。創建の詳細は不明だが、東寺と同様に弘仁11年(820)頃までには完成したといわれる。東西250m、南北510mの広大な寺域をもち、東寺とほぼ同規模だったという。東寺と同じように、南から南大門、中門、金堂、講堂、食堂の順に伽藍が並び、伽藍の間は回廊で繋がれていた。境内南西には五重塔も建てられていたという。
記録では弘仁14年(823)、嵯峨天皇が東寺の管理を空海に、西寺を守敏(しゅびん)に委ねたとある。
東寺は民間に下賜され真言密教の根本道場となるが、西寺は最後まで国家鎮護の役割をもつ官寺として国家管理のもとにおかれていた。当初、西寺は東寺より格上だったのです。

正暦元年(990)、落雷による火災によって多くの伽藍を焼失したが再建され、平安末期頃までは官寺として機能していた。しかし次第に衰退し、鎌倉時代の天福元年(1233)に再び焼失し西寺は廃寺となり、以後再興されることはなかった。官寺として国家に依存してきたことが逆目にでたようです。平安中頃から官庫の財政が苦しくなり、朝廷の支援を受けらなくなる。西寺だけでなく、全国にある多くの官寺は廃寺に追い込まれたという。
逆に東寺は、空海が真言密教という教えを広く世に広め、民衆だけでなく時の権力者の帰依を受け、そのあと押しによって生き延び発展してきた。

大正10年(1921)、国の史跡「西寺跡」に指定され、「史蹟西寺址」の碑が建てられた。公園中央に高さ2mほどの土盛りがある。これは、戦前に松尾大社の御旅所として神輿を練り上げるため土盛りされたもの。その土盛りの上、中央に「史蹟西寺址」の碑がたち、碑の周辺に数個の礎石が散らばっている。ここはかっての講堂があった場所で、この礎石は講堂のもの。
昭和34年からの発掘調査により、講堂、金堂・廻廊・僧坊・食堂院・南大門などの遺構が確認され、昭和41年(1966)に唐橋小学校敷地、公園の北側などが追加で史跡指定された。

西寺にかつて安置されていたという「地蔵菩薩立像」は、現在、東寺の宝物殿に保管展示されている。平安時代初期の木像で、重要文化財です。

 東寺・南大門  



東寺はJR京都駅の南西6~700mの位置。JR京都駅からでも歩いて行けるが、最寄の駅は近鉄京都線の東寺駅。
南側が正面になり、お濠を挟んで九条通りに面している。その正面中央に建つのが南大門(重要文化財)。

慶長9年(1604)に豊臣秀頼によって復興された南大門は、明治元年(1868)に焼失し、東寺には正門が無い状態だった。ところが明治の中頃、京都国立博物館の建設と七条通を更に東に延長さすためには、三十三間堂(蓮華王院)の西門が邪魔だった。そこで東寺がもらい受け、移築した。明治28年(1895)のことです。東寺にとっては新しい門なのですが、三十三間堂の西門は慶長6年(1601)に建てられたもので、桃山建築の特色を残す。そのため重要文化財となっている。なお三十三間堂の時は、俗に「大仏崩門」とも呼ばれていたとか。南大門に仁王像が見られないのは、こうした経過によるものでしょうか。

南大門を通して境内を見ると金堂が見える。その金堂の裏には、講堂・食堂が南から北へと一直線に並ぶ。この伽藍配置は平安時代の原初からそのまま維持されている。
南大門は、幅約18m、高さ約13m、切妻造本瓦葺、三間一戸の八脚門。貰いものとはいえ、古風で威厳にみち、東寺の正門に相応しい姿をしている。

 東寺の境内図  



東寺境内は南北約515m、東西約255mあり、その中央に南から北へ南大門・金堂・講堂・食堂・北大門が一直線に配置されている。建物は戦乱や火災などで創建当時のものは残っていない。しかしこの伽藍配置や、建物の位置、姿は創建時のものを踏襲されてきた。平安京の遺構で、現在目にすることのできるのは、ここ東寺だけとなっている。

境内図で、金堂・講堂・五重塔の領域は直線で囲われている。即ち、柵で囲われ入れないようになっている。この区画に入るには、中央の「拝観受付」となっている所で拝観料を支払い、その脇の入口から入ることになる。
それ以外の境内は自由に見学できます(開門時間:午前5時 開門、午後5時 閉門)。
なお、五重塔の初層内部、宝物館、観智院は通常非公開だが、特別期間だけ有料公開されている(今回はその特別期間中)。

 東寺の歴史  


記録によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796)、王城鎮護のため桓武天皇の発願によって創建されたとされる。同時に、羅城門を挟んだ西には西寺も建立された。共に官寺で、仏教寺院が政治に介入した平城京の反省からこれ以外の寺の造営は許可されなかったという。
その後西寺は衰退し廃寺となり、今や存在しない。ところが東寺は、空海という人物が入ったことで大きく飛躍し、現在までその姿をとどめています。

空海は、延暦23年(804)遣唐使の留学僧として唐に渡り、長安の青龍寺で密教の最高僧・恵果に会う。空海に会った恵果は、彼の才能を見抜き、密教の秘法をことごとく伝えたという。そして出合ってわずかしかたたない空海を自分の後継者に指名したのです。2年後の大同元年(806)に密教の経典・仏具・曼荼羅などの多くの資料を持って帰国し、高雄山寺(現在の神護寺)に入り活動を開始します。
異国の香りを含んだ密教という新しい教えは、朝廷内の人々の間に広まり、最大の関心事となりました。空海は仏教の新しい教えである密教の第一人者として信望を得、朝廷からも信任を得る。特に嵯峨天皇の信任を得て親交を深めていきます。弘仁7年(816)、空海は自らの入定の地並びに修禅の道場として高野山を選び、朝廷の許可を得て開山に着手します。
そうしたなか弘仁14年(823)、嵯峨天皇は官寺だった東寺の造営と運営を、高く評価していた空海に託します。その時、空海は条件を出したという。「東寺を真言密教の根本道場としたい。そのため東寺においては他宗との雑住を禁じていただきたい」と、他宗派の排除を求めた。天皇はそれを認め、翌年(824年)空海は造東寺所別当に任じられ東寺の経営にあたることになった。空海50歳の時で、その時の空海の心情が「歓喜にたえず、秘密道場となす」と残されている。空海は唐より請来した経典類・仏具類・曼荼羅などを納め、東寺は真言密教の寺院としての歴史を開始する。空海が東寺に入ったときは金堂と僧房しかなかったが、空海は真言密教の根本道場とするため講堂(825年)、五重塔(826年)など諸堂の造営にに着手する。
東寺の御詠歌に「身は高野(たかの)、心は東寺に納めおく、大師の誓いあらたなりけり」とあるが、空海は東寺に住房を構え、東寺を密教の根本道場とするための造営事業と、高野山を修禅道場とするための壮大な伽藍建設という二つの造営を平行して進めていった。
832年11月、東寺の別当として長く暮らしてきた西院御影堂を離れ高野山に隠棲。3年後の承和2年(835)3月21日、空海は高野山で62歳で亡くなる。しかし空海は「入定(にゅうじょう)」したとされている。即ち亡くなったのではなく、永遠の禅定(坐禅瞑想)に入り、苦しむ人々を救済するため祈り続けているのだと。
晩年は東寺、高野山の造営に力を注いでいたが、講堂の諸像が完成し立体曼荼羅の開眼供養が営まれたのは承和6年(839)、五重塔が完成したのは元慶7年(883)で、空海亡き後です。

平安時代後期になると、武士の台頭から朝廷の支援も細っていく。そのため東寺は経済的に困窮し、伽藍も荒廃していった。このころの東寺は「諸堂は傾き、供物も絶え、大土塀は崩れ落ち、行き交う人の道となっていた」の状態だったそうです。
鎌倉時代に入り1190年代、文覚上人が源頼朝の支援を受けて堂塔と諸像の修復を行い、東寺の再興に力を注いだ。しかし「お大師様の寺」として広く信仰を集めるようになるのは、弘法大師像が造られ、その像を祀る御影堂が成立してからです(延応2年(1240))。後白河法皇の皇女・宣陽門院(1181-1252)は、弘法大師空海に報恩感謝する法要「御影供(みえく)」を、空海の命日に当たる毎月21日に御影堂で始める。さらに弘法大坐師像に生前同様に食事などの給仕をする「生身供(しょうじんく)」も始めています。これらを契機に御影堂に多くの人々が参拝するようになってくる。こうして御影堂を中心に弘法大師信仰が高まり、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになっていった。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。
ところが文明18年(1486)の文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊(かいろう)や南大門など主な堂塔のほとんどを焼失するという、東寺創建以来のもっとも大きな痛手を受ける。しかし弘法大師空海への信仰は大きく、皇室・公家をはじめ織田信長、豊臣秀吉・秀頼、徳川家康・家光といった時の権力者の庇護を受け、東寺は少しずつ復興をとげていった。

・延徳3年(1491) 講堂再建、明応6年(1497)講堂の大日如来像が再興される。
・文禄3年(1594)豊臣秀吉、五重塔を再建
・慶長8年(1603) 豊臣秀頼、金堂を再建
・慶長9年(1604) 豊臣秀頼、南大門を再建
・寛永21年(1644) 徳川家光、1635年に焼失した五重塔を再建

現在東寺には創建時の建物は残っていないが、何度も支援を受けながら再建復興した南大門・金堂・講堂・食堂・五重塔などが、創建時の位置に当時の姿を残し現存しているのです。

明治時代には、高野山とともに古義真言宗の総本山とされたが、戦後に独立宗派となり東寺真言宗の総本山となっている。昭和9年(1934)国の史跡に指定される。昭和40年(1965)には、千年以上も秘仏とされ非公開だった金堂・講堂の扉が開かれ一般公開されることになった。初めて立体曼荼羅を目にすることができたのです。
平成6年(1994)12月、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

この寺には「東寺」および「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」という2つの名称があります。宗教法人としての登録名は「教王護国寺」。ですから国宝・重要文化財指定は「教王護国寺五重塔」のように「教王護国寺」が使われている。この名称は、嵯峨天皇より東寺を下賜された空海が、王を教化し国家鎮護するための密教寺院という意味で「教王護国寺」の名称に改めたことによる。しかし「教王護国寺」はほとんど使われず、平安時代以降近世までの公式の文書・記録等には「東寺」という表記が用いられてきた。創建時から使用されてきた歴史的名称「東寺」が主に使われてきたし、現在もそうです。境内を歩いていても「教王護国寺」という表記を目にすることはありません。唯一、南大門前の石柱「史蹟 教王護国寺境内」だけです。

 雑記<空海と弘法大師>  


東寺は二つの顔をもっている。
一つは「教王護国寺」で表される官の顔。官寺として創建され、その後も皇室から支援され国家鎮護の密教寺院としての側面です。宮中では元旦から七日まで神式の新年祈願が行われていた。その後の七日間、つまり後七日は大極殿で仏教諸派による祈祷会が営まれていた。空海は唐から持ち帰った密教の儀式を、その後七日に宮中の真言院で営みたいことを申し出て許可された。天皇自ら参加し、東寺の長者から直接体に加持されていたのです。
この「後七日御修法(ごしちにちのみしほ)」の儀式は現代まで途絶えることなく続けられてきた。明治維新で廃止となったが明治16年(1883)復活され、現在でも東寺・灌頂院で後七日御修法の儀式が、正月の8日~14日に厳かに行われている。天皇の安泰と国家鎮護、皇室繁栄、五穀豊穣を祈願するための真言密教最高の儀式です。現在では天皇出席ということはないが、皇室から勅使が遣わされ天皇の身代わりとなる御衣に加持されるという。灌頂院はそうした建物なので非公開で、一般人は中へ入れません。

そして弘法大師信仰という民の顔。
弘法大師は”お大師さま””弘法さん”と呼ばれ、広く庶民に親しまれ信仰されてきた。そして日本各地に弘法大師にまつわる多くの奇蹟的な伝説が残されている。空海という人物でなく、神格化され偶像化された”弘法大師”への信仰です。この弘法大師信仰というのはどのようにして生じたのでしょうか?。
その因の一つに「入定(にゅうじょう)」というのがあります。即ち弘法大師空海は入滅したのではなく、永遠の禅定(坐禅瞑想)に入り、苦しむ人々を救済するため祈り続けているのだと。

空海入滅後八十七年目の延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」という称号を贈る。観賢(853~925)がその勅書と醍醐天皇の賜衣を奉じるため高野山奥の院の廟所の扉を開けたところ、大師の顔色は生前のままだった。そして長く伸びていた髪をそり、すでに朽ちていた衣を賜衣に改めたという。ここから空海は蘇り、「弘法大師」として生きながら永遠の冥想に入っておられるのだ、とうい入定信仰が生まれてきた。
弘法大師ゆかりの四国八十八ヵ所霊場を巡るお遍路さんは、「同行二人(どうぎょうににん)」と呼ばれる。「あなうれし、行くも帰るもとどまるも、我は大師と二人連れなり」と詠われているように、巡礼中はお大師さまが絶えずお傍におられ見守ってくださっていると信じたのです。
「空海」は死して後「弘法大師」として蘇り庶民の信仰の対象となっていった。さらに発展し、お大師さまは各地を廻り、人々を救って下さると信じるようになってくる。東寺の御影堂では、弘法大師が今も生きているがごとく、毎日朝6時に食事を捧げる儀式である「生身供(しょうじんく)」が行われているのです。高野山でも同様です。

 拝観受付へ  


南大門を潜り境内に入り、正面に金堂を見ながら北へ歩く。新緑の樹木の間から黒褐色の堂宇が覗く。右に金堂、講堂、食堂が、左側には灌頂院、小子房、本坊、御影堂が並ぶ。この広い空き地で、弘法大師空海の命日にあたる毎月21日に「弘法市」が行われている。柵で囲われ、こちら側からは入れません。

講堂の北側に回ると食堂があり、傍に拝観受付所がある。この北側から眺めると、東寺の主な伽藍が一望できます。手前から食堂、講堂、金堂が並び、左に五重塔がそびえる。これらの建物は、焼失、再建を繰り返してきたが、その位置と配置は東寺創建時のままという。現在、平安京の姿、形を示すものはことごとく無くなってしまっているが、この東寺の姿だけが唯一残された平安京の遺構だそうです。
食堂と講堂の間に、拝観受付があり、ここからだけ中に入れる。
現在、春期特別公開中(2017年3月20日(月)~5月25日(木))で、拝観料が少々ややこしい。詳しくは東寺の公式サイトを。

春期特別公開とは、通常非公開の五重塔初層・宝物館・観智院が拝観できるもの。金堂・講堂を含め全てを拝観できる共通券が 1300円。金堂・講堂だけ、宝物館だけ、観智院だけというのもあるようだ。
拝観時間
 金堂、講堂は、午前8時~午後5時(午後4時30分 受付終了)
 宝物館、観智院は、午前9時~午後5時(午後4時30分 受付終了)
金堂・講堂・五重塔は、通年で公開しています(有料)。


詳しくはホームページ