山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

佐保・佐紀路と平城宮跡 (その 1)

2015年06月26日 | 街道歩き

2015年5月3日(日)/8日(金)、佐保・佐紀路の古刹と平城宮跡を訪れ、佐紀盾列古墳群の陵墓を廻る

 はじめに  


東大寺転害門から不退寺、ウワナベ・コナベ古墳などを抜け、水上池に出るぐらいまでを佐保路、これより西へ、秋篠寺あたりまで向かう道を佐紀路という。平城宮跡の北側に当たり、現代的な地理感覚でいえば、近鉄奈良線の大和西大寺駅から奈良駅間の北側にあたる。ここには名のある古刹が多く、また佐紀盾列古墳群と呼ばれ多くの古墳が散在しています。
毎年5月3日は東大寺の聖武天皇祭で、今年は日曜日と重なり平城宮跡では天平祭も行われる。さっそく出かけ、二つのお祭りの合間に周辺も廻りました。しかし訪れきれなかった所も多く、8日(金)に再訪した。
実際に歩いた順路とは異なりますが、このページに載せるにあたり、判りやすいように次のようなコースをたどったことにしました。
まず東大寺・転害門を出発し、佐保・佐紀路を古刹や名所を訪れながら、西の秋篠寺目指して歩く。
帰りは秋篠寺近くの神功皇后陵から始めて、東の聖武天皇陵までの古墳を訪ねる。

この間、静かな住宅地半分、のどかな山裾や田畑が半分といった状況だった。「歴史の道」の小さな標識を時々見かけたので、そういう道が整備されているようです。しかし案内図がほとんどありません。入組んだ住宅路や山裾の道を正確な地図なしに歩けるものではない。幸い、転害門横の観光案内所で80cm四方の大きさの「奈良市観光マップ」を入手できた。この地図に助けられ、二日間かけてですが、ほぼ見るべき所は訪ねることができました。

 東大寺「転害門」(てがいもん、国宝・世界遺産)  


東大寺の境内は広大です。大仏殿の西側にも広い空間が広がり、大仏池、戒壇院、正倉院がある。正倉院前から西側を見れば、もの静かな参道が伸び門が見える。これが東大寺の西の入口「転害門」(てがいもん、国宝)です。南大門から大仏殿にかけては観光客や修学旅行生で混雑しているが、こちらの正倉院周辺には、ほとんど人影を見かけない。喧騒から解放された癒しの空間になっている。
門と平行に「京街道」が通り、「奈良坂」を越えて京都へ繋がっている。門から垂直に西へ真っ直ぐ伸びているのが平城宮まで直進する「平城左京一条大路」、いわゆる「一条通り」です。添うように佐保川が流れているので「佐保路」とも呼ばれる。かって平城宮から天皇を初め高貴な人達が東大寺へお参りした聖なる道だった。
転害門から平城宮跡まで1時間超かけて歩いたが、現在は”聖なる”雰囲気など微塵も無く、雑然とした交通路となり”歩きたくない道”になり下がっている。

天平勝宝年間(750年代)の創建。東大寺西面(東七坊大路)には三っつの門があったが、このうち北の門であるこの転害門だけが数度の兵火を免れ、残された。東大寺は、平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(永禄10年、1567年)で焼き尽くされたが、転害門と法華堂(三月堂)本堂だけは免れ、天平以来残っている貴重な建物となっている。昭和6~7年(1931~1932)に老朽柱3本取替えなどの解体修理を受けているが、天平時代の姿は残されている。
現在は、吉祥の位置(大仏殿の西北)にあり害・災いを転じる門として「転害門」と呼ばれているが、「手掻門」(てがきもん)・「碾磑門」(てんがいもん)・「景清門」(かげきよもん)・「佐保路門」(さほじもん)など多くの名称・愛称をもつ。
東大寺公式HPには
「!お願い、野良猫の被害で困っています。門の周辺でエサなどを与えないで下さい。」という悲痛な叫びが、囲み付きで掲載されている。糞尿や爪とぎのようです、「ニャン害門」とは・・・

門なのに扉が見られない。明治の廃仏毀釈で、誰でもが入れるように門扉が取り払われたという。東大寺といえ、明治の神風狂気を防ぎえなかったようです。門は開いているが、通れないどころか柵で囲われ立ち寄りできないようになっている。これは猫だけではないぞ!
門中の中央には、四個の礎石らしきものが見られる。門横の案内板には
「この門は当寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)の祭礼が行われて遷座の場所となり重要視されてきた。基壇中央には、神輿安置の小礎四個が据えられ、天井も格天井に改められ、現今も川上町の有志により大注連が中央の二柱に懸けられている」と説明されていました。
なお門横にある「奈良きたまち転害門観光案内所」では、佐保・佐紀路の貴重な観光案内地図・パンフが入手できる。是非、立ち寄ってみるべし。トイレも有り。10時~16時、木曜日休館。

 南山城(京都)へ向かう古道「奈良坂」  


転害門前の道「京街道」を北上します。途中「北山十八間戸」「奈良少年刑務所」「般若寺」「奈良豆比古神社」の標識が見える。
奈良少年刑務所の茶色のレンガが見えてきた。般若寺へは右へ折れる道をとります。またこの折れ口に国史跡「北山十八間戸(きたやまじゅうはちけんと)」があります。鎌倉時代の寛元元年(1243年)、西大寺の僧・忍性によってハンセン病などの重病者を保護・救済するための施設として造られたもの。

奈良少年刑務所の前身は、明治三十四年から七年間かけ、ヨーロッパ中世の城や礼拝堂を参考に洋風レンガ造りとして建設された奈良監獄。山下啓次郎(ジャズピアニストの山下洋輔さんの祖父)による設計で、明治文明開化を現す建物の一つ。現在も少年刑務所として年少受刑者の更正に使われている。
「二つの円形ドーム屋根を持つ重厚なれんが造りの表門や、中央看視所から放射状に配置された五つの舎房。奈良少年刑務所(奈良市般若寺町)は明治政府が全国で建てた「五大監獄」の中で唯一、完全な形で当時の姿を残しており、市民有志による保存運動も起きている」(平成26年新聞記事)という。「近代の名建築 奈良少年刑務所を重要文化財に!」を目指す保存運動の会長が山下洋輔さん。

 般若寺(はんにゃじ)  


これが般若寺の正門にあたる楼門(ろうもん、国宝)です。入母屋造・本瓦葺きの二階建て楼門で、京街道に面して西向きに建つ。鎌倉時代(13世紀後半)に伽藍が再興された時に建立された。明治30年(1897)に国宝に指定。豪華さは無いが、均整がとれ落ち着いた重厚さが感じられる。その優れた意匠は楼門建築の傑作とされています。
般若寺の創建について、受付でいただいたパンフレットには「飛鳥時代高句麗僧慧灌(えかん)法師によって開かれた。都が奈良に遷って天平七年(735)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため「大般若経」を基壇に納め塔を建てられたのが寺名の起こり・・・」とあります。
平安末期の治承4年(1180年)、平重衡による南都焼き討ちの際には般若寺も焼け落ち、その後しばらくは廃寺同然となっていたようである。鎌倉時代に入ってから再興が進められ、十三重石塔建立や、西大寺の僧・叡尊によって本尊文殊菩薩像の造立や伽藍の復興が行われた。

「その後、延徳2年(1490年)の火災、永禄10年(1567年)東大寺大仏殿の戦いでの松永久秀の兵火によって主要伽藍を焼失した。延徳の火災では前述の叡尊によって供養された文殊菩薩像も焼失している。明治初期の廃仏毀釈でも甚大な被害を受けた。近代に入ってからは寺は荒れ果て、無住となって、本山の西大寺が管理していた時代もあったが、第二次大戦後になって諸堂の修理が行われ、境内が整備されている」(wikipedia)

高さ12.6メートルの十三重石塔(重要文化財)。日本の代表的な石塔の一つ。戦火で焼け落ちた東大寺再建のために南宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)らにより建長5年(1253年)頃に建立された。

本堂(奈良県指定文化財)は寛文7年(1667年)に建てられた。薄暗い本堂には、木造文殊菩薩騎獅像、四天王立像、不動明王坐像など多くの仏像が並んでいたが、護良親王が身を潜め難を遁れたという黒さびた唐櫃だけが印象に残っている。この唐櫃は鎌倉時代の大般若経の経箱だったそうです。
私以外誰も居ていないガラーンとした境内。「コスモス寺」あるいは「花の寺」とも呼ばれ、四季折々の花が楽しめるそうですが、現在は萎れた山吹の花を楽しむ?くらい。

平重衡(たいらのしげひら)の供養塔も建つ。度重なる興福寺の横暴に業をにやした平清盛は,五男・重衡に南都襲撃の命を下す。治承4年(1180年)奈良坂の般若寺に本陣をはった重衡は、南都焼き討ちを命ずる。火は折からの強風にあおられまたたくまに燃え広がり,東大寺大仏殿、興福寺だけでなく般若寺も全て灰燼に帰してしまった。
その後、平家は滅亡の途を辿るが,重衡は捉えられ南都に連れ戻され、木津川の河原で斬首された。その首が般若寺の大鳥居に晒されたという。
焼き討ちにされた憎っくき武将だが、供養塔を建てている。これも仏の慈悲なのでしょうか?

 奈良豆比古神社(ならつひこじんじゃ)  


般若寺前の奈良街道(京街道)をさらに北へ400mほど進むと,左手に「奈良豆比古神社」が見えてくる。
神社の由緒は,志貴皇子(しきのみこ,施基親王とも。天智天皇の第7皇子であり、第49代・光仁天皇の父)が病気療養のために隠居していた奈良山春日離宮の地に,宝亀2年(771年)のその志貴親王を祀ったのに始まるとされる。かっては「奈良坂春日社」とも呼ばれていた。
この神社は、能楽の原点といわれる『翁舞』(おきなまい)で知られる。「翁舞」は、8世紀、祭神春日王(志貴皇子の第二皇子)の病の平癒を王の皇子・浄人王(きよひとおう)が祈願して、舞を奉納したのが起源とされている。国指定の重要無形文化財です。拝殿前の中央に立派な能舞台が設けられ、「翁舞保存会」の人たちによって,毎年10月8日の「秋祭宵宮」の夜に篝火の中で舞われるそうです。

 多聞城跡(たもんじょう)  



南都と京を結ぶ奈良坂の交通・軍事上のの要衝にかって「多聞城」があった。
東大寺・転害門から一条通りを西に200mほど行き、北に少し入ると佐保川に架かる若草橋に出会う。橋を渡り、緩やかな坂道を上って行くと、突き当りが多聞城跡に建てられた若草中学校です。左側の丘陵が聖武天皇とその妃の眠る佐保山陵。
校門からこれ以上中に入れない。この辺りでウロウロしていると不審者のようで、どうも気マズイ。校門の中を覗くと、校舎へつづく階段の横に「多聞城跡」と刻まれた石標が建っている。周辺を見廻すが、石標以外に城跡を示すようなものは見あたらない。「多聞城跡」の石標を確認しただけで良しとし、引き返そうとすると、二人の生徒がやってきた。城跡のことを尋ねていると、「一般の人も中へ入っていかれますヨ」と教えてくれた。学校に迷惑かからない程度に、校内へ入れるようだ。

多聞城の歴史を調べてみました。
南北朝時代以降,大和一円は三好長慶の支配下にあった。戦国武将・松永久秀(まつながひさひで,1510~77)はその家臣で,大和の統治を任される。久秀は信貴山城を拠点としていたが,新たな支配拠点として北方から興福寺や東大寺に睨みをきかせれる眉間寺山(みけんじやま)に城を築き「多聞城(多聞山城)」と名づけた(永禄四年(1561)頃)。城内に多聞天が祀られたためにそう呼ばれたという。
その後,大和の支配をめぐって三好三人衆や筒井順慶と争いを繰り返す。永禄10年(1567年)には,多聞城に陣取る久秀と東大寺に布陣する三好・筒井方とが、南都争奪をめぐりにらみ合う。久秀は東大寺へ夜襲をかけ勝利している(東大寺大仏殿の戦い)。この時,東大寺大仏殿は焼失し,大仏の首は落とされてしまう。
その後も争いは続いたが,天正元年(1573)台頭してきた織田信長に多聞城を包囲され,ついに屈服し城明け渡しとなる。以後、多聞城には信長配下の明智光秀、次いで柴田勝家が入った。
 
信長は天正4年(1576)に安土城を築き、久秀の宿敵・筒井順慶を大和の守護に任じ、大和一国を与えた。そして筒井順慶に多聞城の破却を命じる。天正5年(1577年)6月頃には四階層の天守も破壊され、築城からわずか16年間で多聞城は消滅したのです。破壊された多聞城の石材は筒井城や郡山城に利用されたという。またその建材は京都に運ばれ旧・二条城に活用されたそうです(旧・二条城は、本能寺の変で織田信忠とともに焼失)。
同年久秀は再度信長に叛旗をひるがえすが,破れ信貴山城の戦いで自害する。

松永久秀が築いた多聞城は城郭史上で重要な位置を占めている。四重天守(四階櫓とも)は,その後どの城郭でも見られる天守閣の先駆けとなった。城の周囲にめぐらした石垣、その塁上に白壁、瓦葺屋根の長屋形状の櫓が築かれたが、これは後の城郭につきものの多聞櫓の始まりであるとされる。多聞城は近世城郭の先駆けをなすもので,松永久秀は「近世式城郭建築の租」と呼ばれる。信長も安土桃山城をこの多聞城を見習って建てたという。多聞城を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが,この絢爛豪華な城郭を見て「日本において最も美麗なるものの一つ」「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と書き残している。

廃城後の多聞城跡地だが,江戸時代には与力や同心の屋敷が立ち並び、幕末には練兵場に利用された。昭和中頃までは築城当時の地形がそのまま残されていたという。
戦後の昭和23年(1948年)に若草中学校が建設され、城の面影はほとんど失われ,当時を思い起こさせるものはほとんど残っていないそうです。

校門から入り右手の坂道を登ってみたが、城跡の形跡を示すようなものは何も無かった。これ以上は迷惑なので引き返す。坂道の下に多数の石仏が集められ、柵に閉じ込められていた。東大寺の大屋根が真近に望まれる。無縁仏達が、東大寺の大仏さんを睨んでいるような、救いを求めているような、不思議な光景です。

 興福院(こんぶいん)  

転害門から平城宮跡まで真っ直ぐな道が約2キロ通っている。この「一条通り」の中ほどに興福院があります。佐保山丘陵の麓に位置し、周辺は閑静で緑豊かな落ち着いた場所です。
浄土宗知恩院派に属し「法蓮山・興福院(こんぶいん)」と称する尼僧寺院です。
創建については複数説あり、明確ではない。寺伝では奈良時代の天平勝宝年間(749 - 757年)、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したというのが始まりとされる。場所は「西の京」の、現在の近鉄尼ヶ辻駅近く。その後は長く衰退していたが、安土桃山時代に豊臣秀長の援助を受け、復興する。そして天正年間(1573年~1592年)筒井順慶一族の女性が尼僧として入山し尼寺となる。その後徳川家光などの援助を受け本堂、客殿、大門などが建立される。寛文5年(1665)、徳川家綱から現在地の法蓮町の寺地を賜り移転する。本堂、客殿、大門などの建物もそのまま移築されたようです。
大門は寛永年間建立の四脚門で、奈良県指定有形文化財。閉まっており、受付も見当たらない。後で判ったが、電話予約が必要で、それも3~6月及び9~11月の午前中のみの拝観だそうです(拝観料;300円)。さすが尼寺・・・。門が開けられているので覗くと、奥に山門が見えるだけで、その先は見えない。
本堂があり、本堂と渡り廊下で結ばれた客殿(国重要文化財)があるそうです。客殿の書院庭園は小堀遠州の作で、4月のツバキ、5月のサツキの季節が特に見頃とか。また客殿には本尊の木造阿弥陀如来三尊像(国重文)が祀られているという。
代々の徳川将軍の位牌をまつる霊屋(奈良県指定有形文化財)もあり、装飾の一部に葵の紋を用いた奈良県下では珍しい徳川家ゆかりの霊廟建築だそうです。


詳しくはホームページ
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初瀬街道から長谷寺へ (その 4)

2015年06月06日 | 街道歩き

2014年11月28日(金)、近鉄・桜井駅を出発し、初瀬街道を散策しながら紅葉の長谷寺詣でへの記録です。

 仁王門から登廊(のぼりろう)へ  


多くのお土産屋で賑わう門前町を抜けると「桜ノ馬場」と呼ばれている広場に出る。そこから緩やかな階段を上ると仁王門が迎えてくれる。ここが長谷寺の入口となり、仁王門前の受付で入山料五百円支払い、門をくぐる。
仁王門(重要文化財)は長谷寺の総門にあたり、門の両側には仁王像、上階には釈迦三尊と十六羅漢が祀られている。入母屋造り本瓦葺の二階建の非常に重厚な感じがする門で、長谷寺に相応しい。

仁王門を潜ると、目の前に石の階段が長い廊下となって奥へ延びている。屋根付きなので「登廊」と呼ばれ、長谷寺の名物となっています。天井には長谷型と呼ばれる丸い灯籠が吊るされている。
登廊は全長108間、全部で三百九十九段の石段からなり、本堂(観音堂)まで続いている。途中二箇所で折れ、下から「下登廊、中登廊、上登廊」と呼び、折れ目の場所には「繋屋」「蔵王堂」の建物がある。これらはいずれも重要文化財に指定されています。階段といっても緩やかで、お年寄りでも楽に登れます。

登廊のすぐ右側斜面が長谷寺名物のボタン園です。長谷寺は「牡丹の寺」として知られ、寺全体で百五十種七千本のボタンがあり、四月中旬~五月にはボタンの花で埋め尽くされます。
一昨年(2013)五月に訪れた時の写真です。斜面全体に色鮮やかなボタンの大輪が咲き、多くの人出で賑わっていました。




 本堂(国宝)  



下、中、上の三つ折れ登廊を登りきった出口が鐘楼の二階建ての建物。その横に本堂がそびえる。
本堂横の鐘楼(重要文化財)は、藤原定家が『年を経ぬ 祈る契は初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ』(新古今和歌集)と詠んだことから「尾上の鐘」と呼ばれている。朝6時には時を知らせる鐘が、正午には鐘と法螺貝の音が響き渡る。長谷寺の慣わしとして千年の昔から絶える事無く続いている。

朱鳥元(686)年、道明上人によって初瀬山の中腹の西の岡に三重塔を中心としたお寺「本長谷寺」を建てたのが長谷寺の起源だとされる。その後、神亀4年(727年)に道明上人の弟子である徳道上人が本長谷寺の東に聖武天皇の勅願をうけ十一面観世音菩薩を刻み、それを安置し祀るお堂を建立し「後長谷寺」としたのがこの本堂です。
平安から戦国時代にかけて七度も焼失した。豊臣秀長の援助で天正16(1588)年に再建されたが、その後徳川3代将軍家光の寄進(2万両)を受け、慶安3年(1650)に再度造り直されたものが現在の本堂。木造では東大寺大仏殿に次ぐ大きさで、平成16年(2004)に国宝に指定される。

本堂の中央は東から西側へ貫く通路となっている。これを「相の間」と呼ぶそうです。入って右側が本尊の十一面観音立像を安置する「正堂(しょうどう、内陣)」、左の広間は「礼堂(らいどう)」と呼ばれる。
「相の間」は一段低い石敷きの薄暗い通路で、そこを通るとおごそかで心が引き締まる気分にさせられるます。右側を見上げると巨大な観音さんが立っておられ、今にも迫ってくるような迫力があります。
左の「礼堂」は板敷き床の大広間になっており、相の間を挟んで正堂の本尊・十一面観音を拝することができるようになっている。
一昨年(2013)訪れた時は、特別拝観期間中(3/3-5/31)で法要が行われている真っ最中でした。僧侶の読経の声が響く中、沢山の参拝者の方たちが正座し読経を聞いておられました。礼堂の後ろはすぐ「長谷の舞台」です。そこから礼堂を「内舞台」とも呼ぶ。

本堂は初瀬山(546m)の中腹の傾斜地に南を正面として建てられている。そのため南側は、山腹にせり出す形で床下に柱を組み張り出し舞台の構造になっており、「長谷の舞台」と呼ばれている。規模は小さいが、京都の清水寺本堂と同じ懸造(かけづくり、舞台造とも)です。京都・清水さんとそっくりです。

舞台上からの眺望が素晴らしい。遠くに宇陀に続く山並み、下には山々に抱かれた初瀬の門前町の家並みが一望できる。谷沿いを左に行けば伊勢へ続く街道筋。右は直ぐ”まほろば”大和の地にでる。

この地は古来「隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)」として神聖視され、特別な感慨をもって見られてきたのも頷ける。「隠りくの」という枕詞は「山に包まれた処」の意で、泊瀬は初瀬のこと。

 御影堂(みえどう)・本(もと)長谷寺・五重塔  


本堂から山腹の方へ向かう緩やかな坂道を登って行く。この道は御影堂、本長谷寺、五重塔など見所多く、また景色も堪能できる。この周辺が紅葉の一番綺麗な場所ではないでしょうか。春から夏は新緑が冴え清々しく、この秋の紅葉のシーズンになるとこの辺り真っ赤に染まり絶景になります。春の桜はどうなんでしょうか?。

御影堂の周辺はひときわ紅葉が冴える。御影堂の立札には「宗祖弘法大師入定1150年御遺忌を記念して、その御徳を偲び、昭和59年建立せられる」とあります。

御影堂から本長谷寺、五重塔と続く道も癒しの道です。この辺りが”初瀬山の西の岡”にあたるのでしょうか。ここからは”東の岡”の本堂や張り出し舞台もよく見える。

「本(もと)長谷寺」は、飛鳥・川原寺(弘福寺)の僧道明が弟子の徳道らを率いて三重塔やお堂を建て、天武天皇の病気平癒を祈って、「銅板法華説相図」を初瀬山の西の岡に納めて祈願したのが長谷寺の始まりといわれる。

手前の竹の柵で囲われた礎石が、本長谷寺とされる三重塔跡です。たびたび焼失したが、慶長年間に豊臣秀頼によって再建されここに建っていたという。しかしこれも明治9年(1876年)の落雷で焼失し、礎石だけが残されている。

奥に見える五重塔は、案内板によれば「昭和二十九年 戦争受難者檀信徒慰霊及びに世界平和を祈願して建立されました」とある。どうりで新しいナァ、と感じたものです。内部には、本尊に大日如来を祀っているそうです。

最後に、南の端に位置する本坊へ行く。ここからは”東の岡”の本堂を眺めることができる。
長谷寺紅葉絵巻で、極楽浄土の世界か、地獄の炎か。

お寺の各所にいろいろな種類の花が植えられている。牡丹をはじめ四季を通じて「花の御寺」として有名です。春は桜と牡丹、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は寒牡丹と、ほぼ年中美しい境内の眺めを満喫できます。
平安時代以降、長谷詣でが盛んになり、貴族から庶民まで多くの人が参拝に訪れている。「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「蜻蛉日記」の作者も参詣し、作品の中に取り入れている。


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