山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・小倉山 紅葉三景 2

2018年12月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

018年11月27日(火曜日)紅葉の季節がやってきた。昨年は京都・東山だったので、今年は京都の西、嵐山周辺に決めていた。嵐山・嵯峨野には多くの紅葉の名所があります。その中で、小倉山の山腹に並ぶように佇む常寂光寺、二尊院、祇王寺を訪れることにしました。今回は二尊院です。

 総門  



常寂光寺の山門を出て、真っ直ぐ進むと広々とした空き地に出る。左の道を行けば二尊院へは300m位。空き地の奥に茅葺の屋根が覗いている。これが落柿舎です。落柿舎は、茅葺の小さな庵です。登録有形文化財(建造物)となっている。中を見学するには250円の拝観料が必要です。今回は目的から外れるので入らなかった。
この庵は、松尾芭蕉の門人で俳人の向井去来(むかいきょらい、1651-1704)が貞享3年(1686)から居を構えた閑居跡です。芭蕉も三度ほど訪れている。二度目の元禄4年(1691)初夏の訪問時、嵯峨嵐山周辺を巡り、その記録を綴ったのが「嵯峨日記」。

空き地の脇を北へ歩く。杉木立に囲まれた遊歩道が整い、嵯峨野、化野(あだしの)方面へつづいています。

すぐ二尊院の入口にあたる総門が現れる。12時半だ。この総門は、慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を豪商角倉了以によって移築・寄進されたものという。ここにも秀吉の築いた伏見城の遺構が残されている。屋根瓦が新しく見えるのは、平成26年(2014)に葺き替えられたから。室町時代の建築として京都市指定文化財となっています。
「二尊院(にそんいん)」の名は、本堂に祀られている本尊の二如来像に由来する。現世から来世へと送り出す「発遣(ほっけん)の釈迦如来」、西方極楽浄土へ迎え入れる「来迎(らいごう)の阿弥陀如来」の二つの立像です。
総門をくぐると、正面に「紅葉の馬場」と呼ばれる参道がのびている。ここで写真だけ撮って引き返す人もいる。拝観受付はすぐ右横です。訊けば、再入場はOKだそうです。
料金:大人 500円,時間:9:00~16:30,但し11月は8:30~16:30

 境内図と歴史  



これは受付で頂けるパンフレットに載っている図。おおまかだが判りやすい。

・住所は京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
・山号は小倉山、正式名は「小倉山二尊教院華台寺」(おぐらやま にそんきょういん けだいじ)
・比叡山延暦寺に属する天台宗延暦寺派の寺院
・本尊は釈迦如来・阿弥陀如来
・創建:承和年中(834年 - 847年)
・開基:円仁、嵯峨天皇(勅願)
・公式サイト:<http://nisonin.jp/

◆承和年間(834年 - 847年)に第52代・嵯峨天皇の勅願により慈覚大師円仁(第3代天台座主)が創建したニ尊教院華台寺(かだいじ)が始まりとされている。円仁は比叡山延暦寺を建てた天台宗の開祖・最澄(さいちょう)の弟子です。
◆鎌倉時代初期、法然(1133-1212)が二尊院に住んで法を説かれ、関白九条兼実の協力により中興する。さらに法然の弟子・湛空(たんくう、1176-1253)の尽力で諸堂が整えられていきました。湛空は、第83代・土御門天皇、第88代・後嵯峨天皇の戒師(仏門に入るときに戒を授ける師僧)となる。二条家、鷹司家、三条家の菩提寺になる。
◆第四世の叡空上人も第89代・後深草天皇、第90代・亀山天皇、第91代・後宇多天皇、第92代・伏見天皇の四帝の戒師となる。二尊院は、天台、真言、律、浄土宗の四宗兼学の寺院としてますます栄えました。
◆南北朝時代(1333-1392)に焼失するが、室町第6代将軍足利義教(1394-1441)が再興した。
◆室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により堂宇伽藍は悉く焼き尽くされてしまう。
◆永正18年(1521)、第十六世恵教上人(後奈良天皇の戒師)の時に、本堂と唐門が三条西実隆父子の協力によりによって再建された。
◆近世(安土・桃山時代-江戸時代)、豊臣家、徳川家の寄進が続き寺運も栄えていった。御所の仏事を司っていたので公家との交流も深く、檀家には二条・鷹司・三条・三条西家等がある。
◆近代、1868年以降は天台宗山門派(延暦寺)に属している。

 紅葉の馬場  



総門から広く真っすぐに伸びた参道が約百メートル位続いている。この参道が「紅葉の馬場」と呼ばれ、二尊院きっての紅葉の名所となっており、絶好の撮影スポットです。
約百メートルの間にモミジとサクラの木が交互に植えられているというのだが、サクラはそんなに多くないようです。

参道脇の散りモミジの中に「西行法師庵の跡」の石碑が建つ。西行の歌「我がものと 秋の梢をおもふかな 小倉の里に 家居せしより」の木札が立っている。

”馬場”というだけあって参道は広い。両脇から被さってくる紅葉は美しい。ただ常寂光寺を観てきた後だけに若干感動は減りますが・・・、常寂光寺にはない迫力があります。
ゆるやかな坂道を進むと階段になる。この階段あたりは、両脇のカエデの枝が低く垂れ、覆いかぶさってくるので見ごたえがあります。階段を登ると築地塀の突き当たりに。

 勅使門(唐門)  



紅葉の馬場の階段を登ると築地塀の突き当たりで、参道は左右に分かれる。右へ行くと、お手洗いや八社ノ宮がある。本堂へは左へ進みます。
左に進み勅使門(唐門)を通って本堂へ向かう。勅使門の手前に黒ずんだ黒門があり、ここから入っても本堂へ行けます。

黒門の先に唐門様の勅使門が建つ。門を潜った正面が本堂だ。「勅使門」の名のとおり、かっては天皇の使い「勅使」だけが通れた門です。現在は常に開いており、誰でも勅使になった気分で通れます。
勅使門は応仁の乱で焼失するが、永正18年(1521)に三条西実隆によって再建された。現在の門は、さらに昭和63年に再建されたものです。

勅使門を潜り、振り返って門を見上げると「小倉山」と書かれたの勅額が掛かっている。この額は永正18年(1521)の再建時に後柏原天皇が二尊院に下賜されたものだそうです。



 本堂  



勅使門(唐門)を通ると、京都御所の紫宸殿を模したといわれる大きな本堂と対面する。入母屋造り、銅板葺き屋根で、間口の広い建物です。
勅使門(唐門)と同じく、室町時代の応仁の乱(1467-1477)の兵火で全焼するが、永正18年(1521)に三条西実隆が諸国に寄付を求めて再建する。現在の本堂は平成28年(2016)に大改修されたもの。京都市指定文化財となっている。

本堂左端に上がり口があり、履物をビニール袋に入れ持参しながら本堂に入ります。本堂横が広く開けられ、内陣を見通せるようになっている。二尊院は「撮影禁止」の表示が見当たらないので、本堂内部であろうと自由に撮ってようようだ。こうした本格的な寺院で撮影フリーなのは珍しい。
横から撮った本堂内。正面中央の祭壇には、本尊である二尊像が安置されている。

祭壇の二尊像を撮るが、よくわからないので堂内に置かれていた写真を載せます。傍の説明書きに
「釈迦如来は、人が誕生し、人生の旅路に出発する時送り出してくれる「発遣(ほっけん)の釈迦」といい、弥陀如来は、その人が寿命をまっとうした時、極楽浄土よりお迎えくださる、これを「来迎(らいごう)の弥陀」という。この二尊が祀られていることから「二尊院」という名称が付けられた。共に鎌倉時代の春日仏師の作(重要文化財)である。この思想は唐の時代、中国の善導大師が広め、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれたのである。」とあります。

共に像高78.8センチの木造、寄木造、漆箔、玉眼。右の釈迦如来は右手を上げ掌を見せ、左手を下に向けた施無畏印(せむいいん)を組む。これは現世から来世へと送り出す際に、恐れを取り除き安心させることを意味している。左の阿弥陀如来は左手を上に、その親指と他の指で輪をつくる来迎印(らいごういん)を組んでいる。これは極楽浄土から迎えに来る姿を表わしているそうです。

縁から手が届きそうな所に「法然上人足曳の御影」(重要文化財)が置かれている。レプリカでしょうか?。

傍らに説明版がある。法然上人を崇敬する関白藤原兼実が、法然の姿を写し描こうとした。しかし法然は謙遜して許さなかったので、兼実は絵師・宅磨法眼に法然の湯上り姿を簾中よりひそかに描かせたという。後日、法然がその絵を見ると裾より片足が出て不作法な姿をしていたので恥じた。そして南無阿弥陀仏と念じると、不思議にも片足が引き込み正座している姿になった。そこから「法然上人足曳の御影」と云われる。
配流(1207年)前の法然を描いたもので、現存する法然上人の御影の中で最も古い肖像画だそうです。

角倉与一翁像も置かれていた。また縁側から見上げると扁額「二尊院」が掲げれれている。これは永正18年(1521)の再建時、後奈良天皇から下賜されたもの。


 本堂裏と茶室・御園亭  





本堂の周りは縁廊下で囲まれ、一周できる。本堂裏手の庭は「六道六地蔵の庭」と呼ばれている。小倉山の斜面に、小さく可愛いい6個の地蔵さんが散らばっている。「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に苦しむすべての衆生を救済する六地蔵菩薩さん」と説明されています。

本堂横の庭園をはさんで茶室「御園亭」(みそのてい)が建つ。本堂から廊下をつたって行けます。二尊院の公式サイトから紹介すると
「皇女の御化粧之間でお茶を味わう。
本堂の隣にある書院の奥に、春と秋の一時期だけご利用いただける茶室があります。ここは、後水尾天皇の第六皇女である賀子内親王の御化粧之間であったものが二条家に与えられ、その後、二尊院に移築されました。皇女が使われていたお部屋とあって、繊細な欄間など上質な趣が漂います。「御園」とは御所の庭を意味しており、茶室から覗く美しい庭を眺めながら、ゆったりとした時の流れに身を任せてください。」

赤毛せんの敷かれた縁先でお庭を拝見。皇室の方が使用されたお部屋なので、つい正座してしまう。お部屋の床の間の違棚の上にある棚(「天袋」というそうだ))に、4枚の小さな絵が描かれている。これは狩野永徳の筆によるものだそうです。
この茶室は、春と秋の期間限定で特別公開されている。


 本堂前庭  



本堂前の広場は、枯山水風の庭になっている。その昔この地に龍女が住み、正信上人によって解脱昇天した故事をもとに「龍神遊行の庭」と呼ばれているそうです。
本堂の縁に座って、正面の勅使門(唐門)や紅葉を眺めているのが二尊院で一番寛げる。

庭の中央に円形の低い「二尊院垣」に囲まれ、「軒場の松」が植えられている。藤原定家(1162-1241)が詠んだ「しのばれむ ものともなしに小倉山 軒場の松になれて久しき」の歌にちなんだものです。できるなら、もう少し”軒場”に植えてもらいたいものです。

これが「二尊院普賢象桜」だ。傍の説明板に「鷹司家より下賜 開花 四月中旬より下旬
花びらが百五~六十枚ある。長く屈曲した雄しべが普賢菩薩が乗る象の鼻に似ていることから、この名がある」と書かれている。受付で頂いたパンフには「白象の牙」とあるのですが・・・。
淡紅色の上品な花を咲かせる八重咲きの桜で、四月半ば過ぎから咲き始め、五月の連休まで咲いている日本で一番遅咲きの桜だそうです。

内から見た黒門。築地塀脇の散りモミジが美しい。黒門周辺も紅葉のお奨めスポットです。



築地塀に沿って北に(本堂前から右方に)歩くと、本堂前とは雰囲気の異なる庭園となる。その中に「小倉餡発祥之地」の碑が建っている。その由来については、碑の裏面に詳しく記されているが読みにくい。809年頃、空海が小豆の種を中国から持ち帰り小倉山で栽培した。この辺りに住む菓子職人の和三郎という人が、その小豆と御所から下賜された砂糖を加え煮詰めで餡(あん)を作り、820年から毎年御所に献上したのが「小倉餡」の始まりだという。



さらに築地塀に沿って北へ進むと、突き当たりに「八社ノ宮」がある。公式HPに「境内の東北に位置し、表鬼門としてつくられた社です。その名の通り、伊勢神宮・松尾大社・愛宕神社・石清水八幡宮・熱田神宮・日吉神社・八坂神社・北野天満宮の八社を祀っています。室町時代末期の建築として京都市指定文化財に指定されています。」と説明されている。
著名な八社を一度に参拝できてしまう大変ありがたいお宮さんです。建物はみすぼらしいですが・・・。

 九頭竜弁財天堂・鐘楼(しあわせの鐘)  



弁天堂(九頭竜弁財天堂)は本堂の右脇に建つ。前ではためく幟には「九頭竜弁財尊天」と書かれている。
公式HPに
「弁天堂 弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂。
弁財天を祀る由来は、当院の『二尊院縁起』に見られます。第三世湛空上人の時代に、四あし門(現在の勅使門)に当院寺名の額があり、その額を夜々に門前の池(竜女池)より靈蛇が出て、字形や彩色が消えるほどに舐めてしまい、これを防ぐため、湛空上人は靈蛇に自らの戒法を授けるため血脈を書いて池に沈めました。すると竜女成仏の証拠として千葉の蓮華一本が咲いたといいます。弁財天の他に大日如来、不動明王、毘沙門天等を安置しております。」とあります。

近くには角倉了以像も建つ。角倉了以(すみのくら りょうい、1554-1614)は朱印船貿易で儲けた江戸初期京都の豪商で、保津峡を開削し、「保津川下り」の基を作った方。お墓はこの寺の上方にあります。


お寺のパンフレットにまで載っている「坂東妻三郎の墓」。探すがなかなか見つからない。「田村家累代墓」があり、後ろの卒塔婆に「田村正和」の名を見つける。俳優じゃん・・・というわけで、よく見ると横の板に坂妻の名を見つけました。この累代墓に眠っているのですね。

坂妻の墓あたりから撮った本堂。

弁天堂近くまで引き返す。弁天堂の横に鐘楼がある。鐘楼は慶長年間(1596~1615年)の建立で、梵鐘は慶長9年(1604)の鋳造。現在の鐘は、平成4年(1992)に開基嵯峨天皇千二百年御遠忌法要記念として再鋳されたもの。鐘楼内に置かれている小ぶりの鐘が、それまでの旧い鐘です。
新しい鐘は「しあわせの鐘」と名付けら、誰でも自由に撞いてよい。幸せを願い3回撞くそうです。「自分が生かされているしあわせを祈願」「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」「世界人類のしあわせのために」と、それぞれに祈願しながら3回撞く。

 墓所 1(二条家、伊藤仁斎)  



鐘楼の脇に長い階段が見える。数えたら113段あった。ここから上は小倉山中腹に広がる広大な墓場だ。といっても我々庶民が目にするような通常の墓場とは違います。
二尊院は、南北朝の頃より明治維新まで京都御所の御内仏殿をお守りする任をおっていた。その縁から鷹司家・二条家・三条家・三条西家・嵯峨家など公家の菩提寺となっている。

50段ほど登った階段中ほど、右側に墓所が奥の方へ伸びている。**院、公爵、男爵、従一位とか刻まれた墓石がほとんどで、一般人のそれらしきものは見かけない。ここは特に二条家が多い。

二条斉敬(左、1816-1878年)と二条厚基(右、1883-1927年)の墓。二条家は、藤原氏北家に属し、五摂家の一つ。初代の二条良実(1216-1271)が京都二条の邸に住んでいたので二条殿と称した。以後代々ほかの摂家と交代して摂政,関白に任じられてきた。左の二条斉敬は最後の関白となった人。右の二条基弘は、明治維新後に公爵に叙せられた。

奥の方へ進むと、半円形の奇妙なモニュメント(?)が現れる。正面を見ると「男爵二条家之墓」と刻まれている。
天皇陵にならって円墳にしたのでしょうか。伏見にある明治天皇陵は、さざれ石が葺かれた巨大な円墳墓です。二条家の円墳はそこまでの大きさはないが、さざれ石で覆われているのだろうか?。

階段をさらに35段登ると、また右側に墓地がひろがる。境内図をみれば、ここの奥のほうに四条家の墓地があるようだ。四条家も藤原北家の流れをくみ、初代の藤原隆季(権大納言、1127年 - 1185年)の邸が四条大宮にあったことから四条家と称した。
階段脇に「伊藤仁斎・伊藤東涯の墓→」の案内が立つ。

伊藤家の墓が集まっている。伊藤仁斎(いとう じんさい、1627-1705)は京都の商家の出身で江戸前期に活躍した儒学者。京都堀川に古義堂(堀川学校)ちう塾を開き、門弟三千余人を有したといわれる。朱子学への批判を通して古義学派を創始。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求した。著作に「論語古義」「孟子古義」「童子問」などがある。近くに長男の伊藤東涯(いとう とうがい、1670-1735)の墓もある。

 湛空上人廟・時雨亭跡  



また階段を登る。登りきった正面が湛空上人廟です。慶長5年(1253)に中国の石工によって彫られた湛空上人の碑を収めたお堂で、京都市指定文化になっている。湛空(たんくう、1176-1253)は法然の弟子で、二尊院の諸堂の整備に尽力され、二尊院中興の祖といわれる。
また、湛空の師である法然上人の遺骨も分骨されて納められているといわれます。お堂横には「法然上人廟」の立札が立っている。

湛空上人廟の前から左右に道が分かれたいる。右(北)へ進めば墓所で、左(南)へ行けば時雨亭跡と伝わる場所がある。まず時雨亭跡に行ってみます。
100mほど平坦な山道を歩くと、杉木立に囲まれた小さな広場に着く。

広場には石積みの基壇が置かれ、ここが「小倉百人一首」を撰定した藤原定家の時雨亭跡だという。
なお常寂光寺にも、小倉山の中腹に藤原定家の時雨亭跡とされる石碑が置かれていました。

ここは小倉山の中腹にあたり、京都嵯峨野の街並みが一望できます。景色を眺めながらゆっくり休息してくださいとベンチも置かれている。

 墓所 2(三条西家、鷹司家、角倉了以、三帝塔)  



湛空上人廟に戻り、今度は右の墓所へ入ってみます。まず「三条西家」の墓が目に付く。
三条西家は、藤原氏北家の流れをくむ大臣家の家格を持つ公家。南北朝時代後期、権大納言・公時(きんとき)を祖とする。三条北の西朱雀に屋敷があったことから「三条西」または「西三条」と呼ばれた。内大臣、右大臣などをだし、明治になって伯爵となる。和歌のほか香道も家業とする。明治天皇の和歌師範としても有名である。

室町時代から安土桃山時代の4代実隆、5代公条、6代実枝の墓が並んでいる。三条西実隆は内大臣を務め、歌人、書家としても有名。また三条西家の家業となる「香道(御家流)」の祖でもあります。

この辺り、従一位、内大臣、左大臣、**公などと刻まれた墓石が並ぶ。鷹司家の墓所が現れる。鷹司家(たかつかさけ)も藤原氏北家の流れをくむ五摂家の一つ。鎌倉時代,近衛家3代当主・近衛家実の四男・兼平(1228-1294年)を初代とする。その邸が鷹司室町にあったので鷹司を家名とした。代々摂政,関白となる者が多く,明治に入ると華族となり公爵を授けられた。

さらに奥へ行くと角倉了以の墓がある。角倉了以(すみのくら りょうい、1554-1614、本名:吉田光邦)は京都に生まれ、1603-1613年ごろ御朱印船貿易によるアジア諸国との交易で巨万の富を得る。豊臣秀吉の命により、大堰川開削工事により保津峡に船を渡し、亀岡と京都間の木材輸送を拓く。これが現在の「保津川下り」のもとになった。その後、富士川、高瀬川などの開疏も手がけた。ここ二尊院の道空に師事し仏道を極めたという。

さらに奥へ進むと行き停まりになり左右の道に分かれる。右側の坂道を下っていけば、八社ノ宮の脇にでる。左側は緩やかな階段だ。これを登って行けば、すぐ「三帝塔」と呼ばれる墓所に突き当たる。

後土御門天皇(1196-1231)、後嵯峨天皇(1220-1272)、亀山天皇(1249-1305)の御分骨が収められているという。十三重塔、五重塔、宝篋印塔と、三人三様の墓形をしています。明治維新までは御所から勅使の参拝があったそうです。

おエライ方のお墓は環境も良い。小倉山の中腹で、ゆったりとした空間の中で京都の街を見下ろしながらお眠りになっていらっしゃる。二尊院からさらに奥へ行ったところにある化野念仏寺とはエライ違いだ。密集する無数の無縁仏・・・、この寺の石仏と紅葉は必見!


詳しくはホームページ

京都・小倉山 紅葉三景 1

2018年12月05日 | 寺院・旧跡を訪ねて

■2018年11月27日(火曜日)
紅葉の季節がやってきた。昨年は京都・東山だったので、今年は京都の西、嵐山周辺に決めていた。嵐山・嵯峨野には多くの紅葉の名所があります。その中で、小倉山の山腹に並ぶように佇む常寂光寺、二尊院、祇王寺を訪れることにしました。小倉山は、桂川(保津川)を挟んで嵐山と向かい合い、古より紅葉の名所として親しまれ、皇族や貴族が別荘を構えた所です。
嵐山・嵯峨野は平安の昔より景勝地として知られていた。それは現代でも変わりはない。多くの人が訪れます。特に週末や祭日は人、人・・・で溢れかえる。週末は避けました。今回は常寂光寺です。

 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)へ  



9時15分、阪急・嵐山駅に到着。渡月橋の架かる桂川(保津川)へ向う。観光スポットの渡月橋。午後になると人波でごった返す。正面に見えるお椀型の山が小倉山で、左が嵐山。その間を桂川(保津川)が流れる。トロッコ嵯峨駅からトロッコ列車に乗り亀岡まで行き、保津川下りの小舟でここまで帰ってくるのがお奨め。この紅葉シーズンが最高です。
渡月橋を渡ると、嵐山・嵯峨野のメインストリート。そこを抜け左に入れば、これも嵐山名物の竹林地帯へ。人力車が急に増えくる。竹林と人力車はよく似合うのだが、人が多くなってくると邪魔でしょうがない。最近、人力車が増えたような気がする。紅葉シーズンだからなのかな。
竹林の中に佇む野宮神社。縁結びの神さんなので、若い女性に人気だ。

嵐山の観光案内図を撮る。阪急・嵐山駅からここまで20分くらいでしょうか。

踏み切りを渡り、広い空き地が現れ、奥に落柿舎が見えてきた。常寂光寺はすぐ近くだ。空き地から西へ進めば、突き当りが常寂光寺の山門だ。常寂光寺は嵐山・嵯峨野を代表する紅葉の名所ですが、まだ10時前なのでそれほど混雑していない。
山門は、江戸中期までは両袖に土堀をめぐらした薬医門だったが、江戸後期に墨色の門に改築されたもの。豪華さは無いが、山門らしい落ち着いた雰囲気をもった門です。
寺院は塀で囲まれているのが普通だが、この常寂光寺には塀は無く、小倉山と一体となって溶け込んだお寺さんです。

寺名「常寂光寺」の由来ですが、「常寂光土」という仏教の理想郷を表す言葉からきているという。天台宗で言われる四土(しど)で一番最高の世界、仏の悟りである真理そのものが具現されている寂光浄土の世界を表す。
開創者の日禛は隠栖地として、静寂で風情豊かな小倉山の山麓に「常寂光土」を求めたのでしょうか。
藤原定家(1162-1241)の「忍ばれむ物ともなしに小倉山軒端の松ぞなれてひさしき」の歌に因んで、「軒端(のきば)寺」とも呼ばれたそうです。

山門をくぐり少し歩くと受付があるので、ここで拝観料:500円を支払います。この受付の手前までは自由に入れるので、ここから写真を撮って引き返す人もいる。毎年のように訪れる私も今までそうでした。拝観料を支払い中へ入るのは初めてです。無休、9時開門~17時閉門(16:30受付終了)



 境内図と歴史  



山門脇に掲示されている境内図。受付で頂けるパンフレットに載っている図と同じ内容だ。
・京都府京都市右京区嵯峨小倉山小倉町3
・山号は小倉山。旧本山は、大本山本圀寺(六条門流)
・正式名:常寂光寺
・宗派:日蓮宗,本尊:十界大曼荼羅

常寂光寺は日禛(日禎、にっしん、1561-1617)上人によって開創された。日禎は,幼いころに日蓮宗の大本山である本圀寺(ほんこくじ)に入り、わずか18歳で第16世住持(住職のこと)となったといいます。
「文禄四年 (1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。当地を隠栖地にえらんだのは、古くから歌枕の名勝として名高く、俊成、定家、西行などのゆかりの地であったからと思われる。当時、小倉山一帯の土地は、高瀬川開削で名高い角倉一族の所有であった。日禛上人は角倉了以の従兄である栄可から寺の敷地の寄進を受けている。」(受付でもらったパンフより)
日禛は、藤原定家の山荘「時雨亭」跡に草庵を結び、寺に改めたという。宗学(教義について研究する学問)や歌道に造詣が深く、加藤清正、小早川秀秋、瑞竜院日秀尼(豊臣秀吉の姉)をはじめ多くの帰依者がおり、それらから寄進を受け堂塔伽藍が整備されていった。

 仁王門  



受付から仁王門までの50mほどの参道も紅葉の見所。今日あたりが、紅葉が一番華やいで、美しく輝いているようです。赤色から淡黄色までのグラデーションがなんともいえない。

仁王門といえば仁王像が睨みをきかし、豪壮でいかつい建物が多い。ここ常寂光寺の仁王門にはそうした雰囲気はありません。単層で茅葺の屋根、小ぶりで質素な佇まいは周囲の風情によくマッチしている。
この仁王門は、本圀寺客殿の南門(貞和年間の建立)を元和2年(1616)に移築したもの。境内伽藍の中で最も古い建物だという。

紅く染まった紅葉の下で、両脇の仁王さんも色づいている。身の丈七尺の仁王像は、若狭の小浜の日蓮宗寺院・長源寺から移されたものとされる。寺伝では、平安時代に活躍した仏師・運慶の作と伝えられているというが、実際の作者は不明なようです。
仁王像の前にたくさんの草鞋が吊るされている。仁王像は目と足腰の病にご利益があるとされ、近在の檀信徒がわらじを奉納して病気平癒を祈願したものだそうです。



仁王門から入口の山門側を振り返る。人出もだいぶ増えてきたようだ。写真を撮るのに困るのは人の顔。なるべく写らないように、場所を選びタイミングを探るのだが、これだけ人が増えると避けるのは困難になる。

写ってしまった人、ゴメンナサイ!。










仁王門を通して見上げれば、本堂へ通じる階段が。



仁王門を潜り、背後からみた風景。白壁に苔むす茅葺の屋根、とても仁王門とは思えない山門風の佇まいです。

 本堂への階段  





仁王門を潜ると50段くらいの石段だ。登りきると本堂の正面です。この階段周辺が常寂光寺一番の絶景スポット。見上げて撮る、振り返って撮る、を繰り返しているうちに登りきってしまう。この景観をもっと大規模にしたものが奈良の談山神社の階段です。談山神社の紅葉もすごかったが、コンパクトにまとまったここも見ごたえがある。



見上げて感動する紅葉だが、横を見てもこれまた感動もの。苔に覆われた階段横の斜面に降り散った真っ赤なモミジ葉。緑の苔の上に舞い散った深紅の落ち葉、自然に演出された美しいまだら模様を創りだしている。「散りもみじ」「敷きもみじ」と呼ばれているが、こんなに目をひく散りもみじは初めてだ。

右の写真は、階段左側の「散りもみじ」。

仁王門横から撮った写真。階段は登り専用とされているが、ハッキリ明示されていないので降りる人もいる。右の坂道がお帰りコースとなっている。この坂道は「末吉坂」と呼ばれ、上ると「女の碑」、休憩所・トイレへ行けます。階段が苦痛な人は、少し遠回りだが末吉坂を登っても本堂へ行けます。緩やかな坂道で、こちらも紅葉を堪能できるよ。

階段を登りきって撮る。京都有数の紅葉寺。境内には200余本のカエデが植えられているそうです。

 本堂  


常寂光寺公式サイトに「本堂は、第二世通明院日韶上人(日野大納言輝資の息男)代に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたもの。江戸期の文献、資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。現在の平瓦葺きの屋根は、昭和七年の大修理の時に改修されました。建立の年代は、慶長年間。」とあります。秀吉が建て、家康が再築し、その後廃城となった伏見桃山城からは、多くの建造物が各所にばら撒かれている。ここもその一つなのでしょう。「御祈祷処」の扁額は伏見常照院宮のもの。
本堂内には本尊の十界大曼荼羅と釈迦如来像が安置されています。

妙見堂前から撮った本堂。

本堂の裏は庭園になっている。縁側に座ってしばし休憩するのによい。豪華な庭園ではないが、小倉山の苔むす斜面に紅葉が被さる。手前に小さな池が配されているが、散りもみじに覆われ「枯れ山水」ならぬ「紅山水」となっている。

 鐘楼・女の碑  



本堂の斜め前に、紅葉に覆われ鐘楼が佇む。寛永18年(1642)に建立されたものだが、梵鐘は第二次世界大戦中の金属供出により失われた。現在の鐘は、戦後の昭和48年(1973)に新しく鋳造されたもの。毎日、正午と夕方五時に撞かれているそうです。

鐘楼の先が下山路となっている。その途中に「女の碑」が置かれている。碑には「女ひとり生きここに平和を希う」と刻まれています。この碑の趣旨は、横の説明板を読んでいただくとして、尼寺に設置されたほうが相応しいと思うのだが・・・。
結婚式の最中に召集令状が、という話を聞いたことがある。戦争の影はこういうところにもあったのですね。

女の碑からの坂道は仁王門へ下り、仁王門横を通って出口へ至る。この坂道も、階段に劣らず紅葉と「敷きもみじ」が冴えます。

 妙見堂  



本堂左側に妙見堂が建つ。妙見菩薩とは北極星または北斗七星を神格化した菩薩で、平安時代から京都の各所に祀られて人々の信仰を集めていた。
「當山の妙見菩薩は、慶長年間 (1596~1610) 保津川洪水の際、上流から流れついた妙見菩薩御像をふもとの角倉町の一船頭が拾い、久しく同町の集会所にお祭りされていたのを、享和年間 (1801~1803)、當山第二十二世日報上人の時に、當山境内に遷座されました。 爾来、御所から西の方角に当たることから「酉の妙見菩薩」となり、江戸時代末期から昭和初期にかけては、京都市内だけでなく関西一円から開運、厄除けの御利益を願う参拝者で大賑わいしました」(拝殿前の「妙見菩薩縁起」より)

特に「妙見」が「麗妙なる容姿」とされ、役者や花街、水商売関係の信仰を集めたという。

 多宝塔  



本堂と妙見堂の間を登る坂道が、多宝塔、歌仙祠、時雨亭跡への道になります。この道は紅葉に覆われ、すぐ横は竹林です。竹の緑ともみじの紅のコントラストが本当に美しい。苔の緑とはまた違った雰囲気をだしています。「散りもみじ」「敷きもみじ」も楽しめる。

見上げても、見下げても、そして横を見ても風情を堪能できる。

燃え上がる紅葉の間から多宝塔が見えてきました。

多宝塔は元和6年(1620)、京都町衆の辻藤兵衛尉直信の寄進により建立されたといわれる。内部の須弥壇に釈迦如来、多宝如来の二仏を安置する。そこから「並尊閣(へいそんかく)」とも呼ばれるそうです。正面に、第112代・霊元天皇の勅額「並尊閣」が掲げられている。内部は常時非公開で見ることはできません。

方三間、重層、宝形造、檜皮葺,総高約12m余、屋根の上に長い相輪が伸びる。
初層の屋根上に、雪が積もったような白い部分が見える。これを「亀腹 (かめばら)」というそうです。亀の腹のようにふっくらとしているからでしょうか。亀腹上に縁高欄をめぐらした円塔が建つ。この細い円塔の上に大きく傘を拡げたように広い屋根がのっている。不安定に見えるが、全体を見ればバランスがとれ、均整のとれた美しい姿をしています。国の重要文化財。

多宝塔は境内でも最も高所に位置するため、見晴らしは良い。遠く嵯峨野一帯が見渡せます。


多宝塔の右方に開祖を祀る開山堂が建つ。これは平成16年(2004)、明石本立寺(日蓮宗の寺)野口僧正とその夫人によって建立されたもの。江戸時代作の日禛上人坐像を安置している。






 歌仙祠と時雨亭跡  



多宝塔の右方に佇むのが「歌仙祠(謌僊祠 かせんし)」と呼ばれる建物。藤原定家、藤原家隆そして徳川家康の木像が祀られれています。一般には非公開。
公式サイトに「定家山荘の場所については、諸説ありますが、常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側に有ったと伝へられています。 この場所には、室町時代頃から定家卿の御神像を祀る祠が有りましたが、常寂光寺を創建する時に、定家卿の祠よりも上に寺の庫裏を建てるのは恐れ多いと現在の場所に遷座されました。 明治時代までは、小さな祠でしたが、明治23年に現在の大きさの建物に改築され、歌遷祠と呼ばれるようになりました。 歌遷祠の扁額は、富岡鐡齋の作。南隣に位置する時雨亭跡は、戦前までは庵室が建っていましたが、台風により倒壊してしまい、その後再建出来ず現在に至ります。 この庵室は、いつごろ建てられたか不明ですが、当山の古文書「双樹院日勝聖人傅」(1728年)の境内図には、この位置に庵が描かれています。又、「都名所図会」(1780年発行)にも庵が図示されていることから、江戸時代中期には建てられていたことが分かります。」とある。

小さな祠だったが、明治23年(1890)に定家卿没後650年を記念して現在のような建物に改築されました。そして、富岡鉄斎(文人画家、儒学者、1836-1924)が「謌僊祠(かせんし)」と名付け、彼による扁額が掲げられた。現在の建物は、平成6年(1994)の再改築によるものです。

歌仙祠のすぐ南隣に「時雨亭跡」と刻まれた石碑が置かれています。戦前までは、藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山の山荘を意味する庵室「時雨亭」が建っていた。その後、台風のために倒壊し再建されないまま石碑のみになっている。

歌仙祠の横に上に登る坂道がある。数分上るとすぐ展望台です。絶景というほどではないが、ここから一番よく嵯峨野一帯が眺められる。

常寂光寺は、お寺にしてはそれ程広い境内ではない。1時間もあれば周れるが、この時期、紅葉を鑑賞しながら写真を撮るとなると1時間半ほどみておけば十分かな。
展望台から下り多宝塔、本堂を経て出口に向います。紅葉シーズンなので臨時出口が設けられているようです。この出口は御朱印所となっています。


詳しくはホームページ