山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

古市古墳群みてやろう 1

2018年09月25日 | 寺院・旧跡を訪ねて

関西地方に甚大な被害をもたらした台風21号が去った二日後、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。広い古市古墳群は徒歩では無理なので、電動アシスト自転車でスイスイと・・・、とはいかなかった(-_-;)。
巡回コースは近鉄南大阪線・土師ノ里駅を出発点に、市野山古墳(允恭天皇陵)→仲津山古墳(仲姫命陵)→誉田山古墳(応神天皇陵)→高屋築山古墳(安閑天皇陵)と南下し、今度は逆に前の山古墳(日本武尊白鳥陵古墳)→ボケ山古墳(仁賢天皇陵)→岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)→津堂城山古墳→雄略天皇陵へと北上します。

住宅が密集し迷路のような路地に惑わされ、古墳の傍になかなか近づけない、小規模な古墳は見つけられない、など苦労する。そのため無駄な時間を労し、一日では周りきれなかった。世界文化遺産を目指す古墳群は、私にとってかなり距離のある存在でした。岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)からは5日後の9月11日(火曜日)に再訪した。

 市野山(いちのやま)古墳(允恭(いんぎょう)天皇陵)  



7時、近鉄南大阪線・土師ノ里駅に着く。手持ちのパンフによれば、駅前にレンタルサイクルがあり利用料金は自転車が250円、電動自転車が500円とあります。古市古墳群の全てを徒歩で一日で周ろうとするのは無理なので自転車のお世話に。それも電動アシスト自転車に初挑戦することにしました。土師ノ里駅前にある鍋塚古墳の上から北東方向を撮った写真。右が駅、左端ビルの一階にレンタルサイクルがある。市野山古墳が駅のすぐ傍に位置しているように見えますが、それでも駅から1~200mはあります。

国道170号線を駅から300mほど北上すると、右手に允恭天皇陵の正面拝所への入口が見えてくる。拝所のある前方部は北側に、後円部は南側で駅に近い方向です。前方部は濠近くまで住宅が建てこんでいるが、拝所まで真っ直ぐな参道が設けられています。入口はここしかなく、拝所の正面は住宅で遮られ入口はない。
前方部北西角からの眺め。広い濠には水は無く、草が生えている。市野山古墳の大きさは、墳丘長230m、後円部(直径140m、高さ22.3m)、前方部(幅160m、高さ23.3m)、三段築成の前方後円墳。古市古墳群の中では4番目、全国でも19番目の大きさの前方後円墳です。
住宅が迫っているので、窮屈そうな拝所です。明治時代の初めに「允恭天皇惠我長野北陵」(えがのながののきたのみささぎ)に治定された。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)は、中国の歴史書に記される倭の五王中の倭王「済」ではないかとされている。系譜上では、仁徳天皇の第四皇子で、履中天皇、反正天皇の同母弟。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)。安康天皇、雄略天皇の父。都を「遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)」に定め、飛鳥の地に宮を設けた最初の天皇だそうです。

市野山古墳(允恭天皇陵)の周囲はフェンスで囲まれているので、フェンス越しに撮りました。左の写真は後円部、右は後円部から前方部を撮ったもの(古墳の西側)。天皇陵に見られる満々とした濠水が全く見られない。草ボウボウとしています。水はけが良すぎるのでしょうか。
市野山古墳で墳丘を見通せるのは、前方部の拝所までの参道と、後円部のこの位置しかありません。

市野山古墳(允恭天皇陵)の北側300mくらいの所に古社・志貴県主神社(しきあがたぬし)があります。正面に朱色の鳥居が立ち、その脇に「惣社宮」「式内志貴県主神社」「河内国府址」の碑が立っている。
この辺りの肥沃な水田地帯は「志貴(磯城)の県」という朝廷の直轄地で、神八井耳命(かむやいみみのみこと、神武天皇の子)を祖とする志貴県主(しきのあがたぬし)と、その同族の志貴首(しきのおびと)が管理していた。その氏神として創建された神社という。また河内国府が設置され、その総社(惣社)ともなった。
その後、南北朝の頃には楠木正成の祈願所として栄えたが、楠木氏の衰亡とともに衰微し、大坂夏の陣などの兵火により社殿焼失、江戸期に再建されるが勢いは取り戻せず。明治5年(1872)村社に指定され、本殿・拝殿を再建して現在に至る。この周辺の町名は「惣社」。
志貴県主神社の前から右の道に入り、200mほど行くと広い空き地にでます。ここが国指定史跡となっている「国府遺跡(こういせき)」。一面に緑の芝生が広がっているだけで、遺跡らしい痕跡は見られない。まだ未整備のようです。
大正時代の発掘調査で、手足を折り曲げて埋葬された3体の縄紋時代の人骨と、縄紋土器や弥生土器が確認された。その後の調査によってさらに縄文時代から弥生時代の90体を超える人骨が確認されるとともに、人骨頭部両側からケツ状耳飾りが出土した。学術的にも貴重な遺跡として昭和49年(1974)に国指定史跡に指定されました。

 道明寺と道明寺天満宮  


土師ノ里駅から国道170号線を400mほど南下し、少し東へ入ると道明寺(どうみょうじ)がある。真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
7世紀中頃に古墳造営にあたった土師氏の氏寺として、現在の道明寺天満宮の南側参道付近に建立された「土師寺」を起源とする。その後、戦国時代の戦火や江戸時代の石川の洪水による荒廃が原因で道明寺天満宮の境内地に移り、さらに明治時代の神仏分離令(明治5年、1872)に よって現在地に移った。菅原道真は土師氏の末裔で、道真死後の天暦元年(947)に道真の号である「道明」から「道明寺」と改められた。
本堂には本尊の国宝:木造十一面観音立像が祀られている。毎月18日と25日に拝観することができる。

道明寺の東側に道明寺天満宮(どうみょうじてんまんぐう)がある。こちらは道明寺と違って境内は広い。宝物館、絵馬堂、土師社などあるが周りきれない。

檜皮葺きの本殿。本殿・幣殿・拝殿の3つの構造からなる権現造り。ご祭神は土師氏の祖神・天穂日命、菅原道真公、道真のおばにあたる覚寿尼公です。
左の建物は能楽殿で、文化12年(1815)築とされ大阪府で一番古い能楽堂だそうです。舞台上で植木鉢が舞っていました。

昭和53年4月に近くの三ツ塚古墳から大小2基の修羅(運搬用のソリ)が発掘された。実物は、大が大阪府近つ飛鳥博物館に、小は藤井寺市立図書館に保存展示されている。この修羅は西岡常一ら宮大工の手で復元され、同年9月に朝日新聞社や考古学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で巨石を乗せて牽引する実証実験に使われたもの。修羅保存庫とあるので、厳重にカギのかけられた倉庫をイメージしていたが、ただの屋根をかけただけのものでした。復刻製なのでこんなものか。

 鍋塚古墳と三ツ塚古墳、土師の里埴輪窯跡群  



土師の里駅改札口を出ると、道路の向かいに丸裸の土盛りが見える。これが国史跡に指定されている鍋塚古墳。背後の山は仲津山古墳(仲姫命陵)です。鍋塚古墳は世界文化遺産候補の登録古墳に含まれている。
この駅周辺には多くの中小古墳が存在していたというが、戦後の道路建設や宅地開発などで失われ、現在残っているのがこの鍋塚古墳だけ。

一辺70m、高さ7mの古市古墳群でも最大級の方墳。仲津山古墳(仲姫命陵)に近いことからその陪塚と考えられるが、宮内庁による指定はされていない。そのため階段が設けられ、墳頂まで登ることができる。丸裸の墳頂には何もありません。ただし四方の見晴らしは良く、北に市野山古墳が、南に仲津山古墳(仲姫命陵)が望まれます。

現地説明板より(上が北です)。仲津山古墳の南東に、東から順に八島塚古墳(やしまづか)、中山塚古墳、助太山古墳(すけたやま)という3基の方墳がならんでいる。この三つの古墳は墳丘の南辺を一直線に揃え、周濠を共有していることから、一体的なものと考えられ「三ツ塚古墳」と総称されています。この3古墳とも世界文化遺産の登録候補に入っています。

左が八島塚古墳、右が中山塚古墳で、共に仲津山古墳の陪塚として宮内庁が管理している。昭和53年(1978)3月、その間の濠の部分に共同住宅の建設計画がもちあがり、事前調査が行われた。その調査で大小2基の修羅(運搬用の木ソリ)と附属のテコ棒が出土し話題になった。

これは藤井寺市立図書1階に展示されている小修羅(2.8m、幅0.7m)で実物だ。大小修羅、テコ棒は平成18年に重要文化財に指定された。
大修羅(全長8.8m/幅1.9m)の実物は大阪府近つ飛鳥博物館(大阪府南河内郡河南町の大阪府立近つ飛鳥風土記の丘に)に展示されている。大修羅の複製は近くの道明寺天満宮でも見られます。

藤井寺市立図書1階中央の大ケースに納められている古墳造営の模型。大小修羅の利用法が見てわかる。この辺りに土師の里遺跡があり、古墳造りに関わった土師氏の道具と考えられます。

南側の団地駐車場から見た一番西側の助太山古墳(すけたやまこふん)です。西側に階段が設けられているが、階段を利用するほどでもなく、どこからでも這い登れます。奥に見える小高い森は仲津山古墳。
一辺36m、高さ6mの方墳で、墳丘のみが国の史跡に指定されている。何故、助太山古墳だけ陪塚から外れたのでしょうか?

(藤井寺市立図書1階の展示図)
三ツ塚古墳の北側、仲津山古墳南側の堤の傾斜を利用し埴輪を焼く窯の跡が10基以上見つかっている。これらの窯は、出土した埴輪の特徴から5世紀中頃を中心に使用されたものと考えられています。このあたり一帯は「土師の里」と呼ばれ、古墳造営や葬送儀礼に関わった土師氏の居住集落のあった場所。土師氏の氏寺・土師寺は道明寺の前身です。「土師の里埴輪窯跡群(はにわがまあとぐん)」と名付けられていますが、その跡地には住宅が建て込み痕跡は残っていない(見つけられなかった?)。さらに南300mほどの所に「土師の里南埴輪窯跡群」も見つかっている。

 仲津山古墳(なかつやま、仲姫命陵)  



三ツ塚古墳から西へ住宅街を抜けると低いハゲ山が見えてくる。これは仲津山古墳の前方部と対面している古室山古墳です。進むと突然、右側の住宅の間から仲津山古墳の拝所が現れた。前方部は南西を向いている。

仲津山古墳(なかつやま)は宮内庁によって応神天皇皇后の仲姫命陵に治定されている。仁徳天皇のお母さんです。「応神天皇皇后 仲姫命仲津山陵」(なかつひめのみことなかつやまのみささぎ)の石柱が建つ。
宮内庁が定める他の陵墓同様に、仲姫命陵とすることに異説も多い。見つかった円筒埴輪の特徴から、先に亡くなった夫・応神天皇の陵墓(誉田山古墳)より古いという。仲哀天皇陵ではないかという説も。

古墳の北側側面。後円部から前方部方向を撮ったもの。周濠はそれ程広くなく、市野山古墳と同じように空濠だ。一面に雑草が生え水は溜まっていない。溜まらない土質でしょうか。古墳時代からこんな状況だったのでしょうか?。

前方部北角から前方部を撮ったもの。右の住宅街の中央に拝所が見えます。やはり水が見られない。濠に水が満ちていたら仲津山古墳の雰囲気もまた違っていただろうに、残念です。

古墳の前方部北角。こちらが正式な入口らしく説明板が設置されている。休息用の大きな平石も置かれていた。
三段築成の前方後円墳で墳丘長290m、後円部(直径170m、高さ26.2m)、前方部(幅193m、高さ23.2m)、古市古墳群で誉田御廟山古墳(応神天皇陵)に次ぐ2番目、全国9番目の大きさ。葺き石は確認されているが埋葬施設や副葬品は不明。
ここの横に古室八幡神社があり、境内の横に仲津山古墳周回路への入口が見えている。前方部拝所から少しいった所に神社への入口階段があります。

 古室山古墳(こむろやま)  



北側より見た後円部。左側が前方部です。どこからでも自由に登れます。後円部上から藤井寺市内が一望できる。大鳥塚古墳や誉田山古墳(応神天皇陵)も望める。
古室山古墳(こむろやま)は三段築成で墳丘長150m、後円部(直径96m、高さ15.3m)、前方部(幅100m、高さ9.3m)の前方後円墳。後円部の発掘調査は行われていないので埋葬施設や副葬品は不明。周囲に周濠と堤をめぐらしていたというが、その形状がはっきりしない。

前方部から右側の後円部を撮る。前方部には倒木が多く見られる。それも太い幹の真ん中から真っ二つという惨状です。小高い丘の上で遮るものがないので、まともに暴風にさらされたものと思われます。ここも世界文化遺産を目指す古墳なのだが。


西名阪自動車道の高架近く、古墳の南側の写真。左が後円部。右遠方に見える森は仲津山古墳。昭和31年(1956)、国の史跡に指定され整備が進められているようです。シーズンには桜や紅葉が楽しめるという。
ここは後円部背後にあたり、説明板が設置されていた。葺石、円筒埴輪、形象埴輪が出土、それらから古墳時代中期の4世紀末~5世紀初めにかけて築造されたものと推定されている。古市古墳群では初期にあたります。



 赤面山古墳・大鳥塚古墳・道明寺盾塚古墳公園  



古室山古墳に接する西名阪自動車道の高架下に土盛りが見える。これが赤面山古墳(せきめんやま)で、一辺15m、高さ2mの方墳。案内板などないが、昭和31年に国史跡に指定されている。
古墳を破壊しないようにとの配慮からでしょう、この部分だけ橋脚間が長くとられ、特殊な構造になっている。
側道も古墳を避けて急カーブしています。古代の古墳と、現代の巨大建造物との対比が印象的。周辺の多くの古墳を近代化の中で破壊・消滅させてきたなかで、こうして保存されているのは赤面山古墳がそれだけ価値があるためだろうか?。それとも古墳破壊への慰め、慰霊碑・・・?。

西名阪自動車道の高架下の赤面山古墳がある位置から大鳥塚古墳(おおとりづか)の後円部が見えている。横の細道を行くと南を向いている前方部に出れます。昭和31年(1956)に国史跡に。この古墳も世界文化遺産の登録古墳に含まれる。
南側の前方部にでると、東角に説明板が設置されている。前方後円墳で墳丘長110m、後円部(直径73m、高さ12.3m)、前方部(幅50m、高さ6.1m)。葺石、円筒埴輪、形象埴輪が出土、それから5世紀前半の築造と推定。
誉田山古墳(応神天皇陵)に近いが陪塚にも陵墓参考地にもなっていないので自由に入れるが、「スズメバチ注意」の張り紙を見て止めました。道を挟んだすぐ目の前が誉田山古墳(応神天皇陵)の正面拝所です。

赤面山古墳から西名阪自動車道の高架に沿って200mほど東へ行くと、四階建ての集合住宅が見えてくる。これが大阪府営藤井寺道明寺住宅で、その中央にふっくらと盛り上がった芝生公園がある。「道明寺盾塚(たてづか)古墳公園」です。
ここ道明寺住宅の場所には、墳丘長73m、後円部(直径49m)、前方部(幅25m)の帆立貝形古墳があった。5世紀前半から中頃の築造と推定されている。後円部の、割竹形木棺が納められていた粘土槨の上に11枚の赤と黒の漆塗りの盾が覆っていた。そこから「盾塚古墳」と呼ばれた。府営住宅の建設は進められ、古墳は消滅した。鎮魂のためか、府営住宅敷地の真ん中に古墳をイメージした芝生公園を造ったのです。円形で少し盛り上がり、その周りを周濠をイメージしたコンクリートの歩道が囲んでいる。


詳しくはホームページ