山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

高取城址・壷坂寺へ 2

2022年11月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年12月2日(木曜日)
高取城址を後にして、山道を石仏群・五百羅漢を経由して壷坂寺へ。

 壺阪寺への道  



12時半、高取城を後にして壺阪寺へ向う。御城門(大手門)の高い城壁に沿って下り、かなりの傾斜の急階段を降りると壺阪口門跡が見える。
壺阪口門跡から少し下ってゆくと、車道が現れ、道脇に車が止まっている。壺阪寺を経由して、ここまで車道が設けられているようだ。ただし駐車場らしきものは見られれないので、せっかく車で来ても引き返さなければならないハメになるかも。ここには仮説トイレが設置されています。高取城内にはトイレはありませんよ。

車道脇の尾根道に入って進む。するとまた車道にでる。高取城へ続く山道(登城道)と並行して車道が設けられているようです。だから車道を歩けば迷うことなく壺阪寺へたどり着ける。ただし地図を見れば、曲がりくねった車道の方がかなり距離が長いようだ。また過去の経験から車道を歩くのはかなり辛いものです。

車道から、道案内に従いすぐ杉林の山道に入る。細い山道は、所々荒れた箇所もあるが歩きやすい。多少のアップダウンはあるが、ほぼ下りだ。
やがて山道は二手に分かれる。標識には、左の下る道は「五百羅漢を経て壺阪寺」とあり、右の登って行く道は「五百羅漢遊歩道を経て壺阪寺」となっている。どちらも五百羅漢から壺阪寺へ行けるようだが、右の道の方が五百羅漢をよく鑑賞できるのかもしれない。しかし登るのはもう嫌なので左の下り道を選びました。

 石仏群・五百羅漢  



さらに山腹の山道を下って行くと、山肌の崖に沢山の小さな石仏が刻まれているのが見えてきました。「阿羅漢」と表示されている。

下る道とは反対側に登って行く道があり、「五百羅漢遊歩道を経て高取城跡へ」とある。途中で見た遊歩道の出口がここなのです。五百羅漢と呼ばれる石仏群を鑑賞するなら、遊歩道を歩いたほうが良かったかもしれない。

「五百羅漢」とあるので、羅漢と呼ばれる石仏が五百体あるのかと思ったが、そうではないらしい。サンスクリット語の「アルハン(敵(煩悩)を倒す者)」の音訳が「阿羅漢(あらかん)」で、それを略称して「羅漢(らかん)」と呼ぶ。羅漢とは、釈迦の弟子の中でも修行を重ね、煩悩を断ちえた高位の弟子達に与えられた称号だそうです。中でも最高位の16人の弟子を「十六羅漢」と呼び、釈迦入滅後に教典編纂に集まった500名の弟子を「五百羅漢」と呼び、尊崇・敬愛されるようになったという。

五百羅漢遊歩道を少し登ってみました。次々と石仏群、磨崖仏がでてきます。写真右手前より「千像如来」、「来迎如来」、「三尊弥陀」とある。
このあたりは、高取山の一部で香高山と呼ばれ、かって壺阪寺の奥の院があったそうです。ここにある石仏群は、16世紀末頃、高取城を本格整備した本多氏が石工に命じて刻ませたと伝わっている。

次に見えるのが「十一面尊」と「護法大黒」。山肌の斜面にむき出た岩肌を利用して彫られている。石工たちにとって、城壁を築くより難しかったのではないでしょうか。数百年経ち、風雨にさらされ肌をそがれ、当初の原型とは大きく変わってしまっているのでしょう。しかし苔むした風化の色に染まり、角がとれ、煩悩に打ち勝とうとする羅漢さんの意思が伝わってきます。

遊歩道をもっと進めば、さらに石仏群が見られそうですが、ここで引き返す。

山道と遊歩道の合流した出口には、たくさんの可愛い小さな羅漢さんが合掌して見送ってくださいます。これは新しいので、近年造られたものらしい。

五百羅漢から少し下っていくと車道へ出ます。ここが山道の終点となっている。壷坂寺経由で高取城跡を目指すなら、右の車道か、左の山道かを選択できる。絶対に左の山道をお勧めします。案内標識には高取城跡まで、車道、ハイキング道のどちらも「約2.8KM」となっているが、七曲りの車道より、山腹を進む山道の方がはるかに距離は短いはずです。

ススキがなびき、色づいた秋の草木に見とれながら車道を下っていきます。平日だったので車には全く出会わない。眼下に大和盆地が見渡せる。遠くにかすんで見えるのは、葛城山、金剛山でしょうか。

右手に壷坂寺の伽藍が見えてきました。高取城跡を出て30分ほどでしょうか。
車道脇に壷坂寺へ降りていく「新参道」の案内がみえる。案内に従い坂道を降りてゆきます。

 壷坂寺(つぼさかでら、南法華寺)1:三重塔まで  



公式サイトに載っていた境内図。
1)大観音石像、2)大涅槃石像、3)大講堂、4)養護盲老人ホーム「慈母園」、5)大釈迦如来石像(壺阪大仏)、6)仁王門、7)多宝塔、8)灌頂堂、9)慈眼堂、10)礼堂、11)八角円堂、12)お里・沢市の像、13)三重塔、14)佛伝図レリーフ「釈迦一代記」、15)大石堂(納骨永代供養堂)、16)つぼさか茶屋、17)石段、18)お里観音・沢市霊魂碑

★★・・・壷坂寺(南法華寺)の歴史・・・★★
壷阪寺の創建について公式サイトは「大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が多数出土している。その後、元正天皇に奏じて御祈願寺となった。」と記されています。「壺阪」の名もこれに由来しているそうです。
「平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し当寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。承和14年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せられている。貴族達の参拝も盛んであり、清少納言の『枕草子』には「寺は壺坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺の筆頭に挙げられている。また、寛弘4年(1007年)左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊している。往時は36堂60余坊もの堂舎があったが、嘉保3年(1096年)に火災にあい伽藍のほとんどが灰燼に帰した。その後、子島寺の真興上人が当寺の復興にあたり、これにより当寺は真言宗子島法流(壷坂法流)の一大道場となった。」(Wikipediaより)

その後も数度の火災や南北朝、戦国時代の戦乱に巻き込まれ衰退していった。慶長年間(1596年 - 1615年)、豊臣秀長の家臣で高取城主本多俊政が壷阪寺の伽藍再建に尽くし、江戸時代になると高取藩主となった植村氏の庇護を受け復興していった。本尊の十一面千手観世音菩薩は眼病に霊験がある観音様として庶民に親しまれてきた。明治の初めに、盲目の夫と妻の夫婦愛をテーマにした人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が公演され人気となり、歌舞伎、講談、浪曲などにも取り上げられ、その舞台となった壷阪寺の名は世に大きく知られるようになる。

戦後になると社会福祉活動に力を入れ、昭和36年には日本最初の養護盲老人ホーム「慈母園」を設立。また昭和39年より、インドでハンセン病患者救済活動を行う。その返礼としてインド政府から古石を提供され、それを利用して造られた巨大な石像、石堂、レリーフが境内に居並ぶ。

バス停のある広場の奥が壷坂寺の入口。右側のお堂が弘法大師像を祀る大講堂。大講堂の手前で入山料を支払う。大人(18歳以上)が600円、小人(高校生以下)100円、幼児(5歳以下)は無料。開門時間 は8時30分から17時まで、年中無休。
壷阪山の中腹に位置し、標高は300m。正式な寺名は「壷坂山南法華寺(みなみほっけじ)」、通称「壷坂寺(つぼさかでら)」で親しまれている。真言宗系単立の寺院。本尊は十一面千手観世音菩薩。西国三十三所第6番札所で、ご詠歌は「岩をたて水をたたえて壺阪の 庭のいさごも浄土なるらん」

左側の三層の建物が日本で最初の養護盲老人ホーム「慈母園」。「壷阪寺は昔から眼の不自由な人々にとっての聖地として厚い信仰と、深い願いがこめられ、全国各地から訪れる人が絶えません。そして、この地に住みたいという老人たちの願いに応えるのが真の老人福祉であるという、故常盤勝憲長老の情熱と信念、多くの人々の善意が結実して、昭和36年(1961)日本で最初の「養護盲老人ホーム慈母園」が誕生しました。さらに「思いやりの心を広く深く」の呼びかけの下に、昭和45年より法人名を「壷阪寺聚徳会」と改名し、現在もさまざまな福祉事業を行っています。」(公式サイトより)

左右に阿形、吽形の金剛力士像を配置する、よく見かける仁王門。建暦2年(1212)建立の仁王門は別の場所にあったが、平成10年(1998)の台風で半壊する。平成15年(2003)壷阪寺開創1300年を記念して現在地に再建された。金剛力士像は像高3.3mの木造。黒々とした身体は、幾度も火災にあった歴史を感じさせてくれます。

仁王門からさらに階段を登ると左に多宝塔が、その奥に灌頂堂が建つ。多宝塔、灌頂堂は平成15年(2003)壷阪寺開創1300年時に建立されたもの。
写真の灌頂堂について、公式サイトには「「壷阪寺は子島流(小島)または壷坂流と称される真言宗の一流派の道場であった。その教を伝えるための灌頂堂は平安時代に建立されていたと推察される。その後、二度の大火に遭いながら、その度ごとに再建されていたと伝えられている。15世紀にまた大火の難に遭うが、その後再建の記録は見受けることはできない。平成15年に迎えた壷阪寺開創1300年を期に当山の重要な御堂の一つであった灌頂堂再建を発願した。御堂再建に際し、慶長年間、当山伽藍再興に尽力された高取城主本多因幡守が寄進した因幡堂(いなばどう)の部材の大部分を用い、老朽化した部材を新調すると共に、旧因幡堂の幅と奥行を拡げ、現在の正面五間、奥行四間の御堂として再建した」とあります。中央に十一面千手観音菩薩、むかって左に高取藩初代藩主で壷阪寺再興に尽力した本多俊政公像、右に本多俊政が仕えた大和大納言豊臣秀長像が祀られている。

階段を登った右側には、身丈10m、台座5mの大きな大釈迦如来石像(壺阪大仏)が立つ。インドでの奉仕活動の縁から始まった国際交流・石彫事業の一環として平成19年(2007)に製作された。その前には御前立として、十一面千手観音石像、文殊菩薩石像、普賢菩薩石像などが配されている。

さらに石段が続きます。数えたら56段ありました。山腹を利用してお寺が建つので、階段はやむを得ない。多くのお寺には階段が多く、年配の参拝者には一苦労をかける。そのため階段を避けるため、回り道になるが緩やかな坂道が設けられていることが多い。ここ壷阪寺にはそうしたスロープは見当たらないが、この石段には昇降機リフトが設けられていました。そのうちお寺にもエレベーター、エスカレーターが付けられる時代がくるかも・・・。

階段を登ると、右側に三重塔が基壇上に建つ。明応6年(1497)再建されたもので、本瓦葺、塔高23m、国の重要文化財に指定されている。平城遷都1300年記念(2010年春)で、初めて初層の扉が開かれ内部が公開されたという。「戦国大名越智氏によって建立されたと思われる。越智氏はその後、壷阪寺に立て籠もるが、武運なく吉野に落ちのびた。その時、寺は火に包まれ、殆どの御堂は焼失したが、この塔だけは兵火を免れた。以来、火難除けの搭、塔内にある大日如来も火難除けの仏として、信仰されている」(傍らの説明版より)

三重塔前に、違和感を抱かせる大メガネが置かれ、「合掌してめがねの中をくぐってください」と書かれています。壷阪寺は眼病封じのお寺でもあるのです。このメガネは、後方に見える巨大な大観音石像の顔の大きさを想定して造られているそうです。それにしても違和感が・・・。

 礼堂・八角円堂  



階段を登った左側が礼堂と八角円堂。礼堂(らいどう、国重要文化財)とその奥の八角円堂は棟続きになっており、八角円堂(本堂)に祀られている本尊・十一面千手観世音菩薩を礼堂をとおして礼拝するようになっている。礼堂は、創建当初から建てられていたが、何度も焼失、再建をを繰り返し、室町時代に現在の形で再建された。ただし江戸時代に、模様替えなど大改築がされ、規模も縮小されていた。昭和の解体修理時に行われた地下発掘調査並びに残存していた部材から、室町時代の礼堂の姿が判明し、御堂の大きさ等を室町の礼堂に復元して、建てられた。
本堂となる八角円堂もお寺の創建当初から本尊を祀るお堂として建てられていたが、現在のものは江戸時代の再建と言われる。

礼堂から見た八角円堂の本尊・十一面千手観世音菩薩坐像。以前からあった菩薩像に代わって、室町時代に樫材の寄せ木造りで造られた。蓮華座に座り、像高2.4m。福々しく派手やかな菩薩像で、目力が感じられる。それもそのはず、古くから眼病に霊験あらたかな「眼の仏さん」として、上は天皇から庶民にいたるまで広く信仰を集めてきた。左手に丸い玉をかかげた手が見えます。これが目摩尼手で、眼を救う手だそうです。
この仏さんは常時開帳されているので、眼にお悩みのある方は壷阪寺へ・・・。

堂内へは履物を脱いで上がる。礼堂正面で御本尊様を礼拝した後、礼堂から八角円堂へと堂内を一周する。そこには壷阪寺にまつわる数々の遺品が展示されています。中でも目を引いたのが、盲目の沢市が使っていたという杖。芝居のはずだが実物があるとは・・・。「さわると、夫婦仲が円満になる」とあります。触る人が多いのか、艶やかな木肌だった。

 壷阪寺 3:お里沢市「壺坂観音霊験記」 



お堂を出ると広場となり、その左奥が深々とした森となっている。その間が、お里、沢市が身を投げた「投身の谷」といわれ、お里・沢市の像が置かれている。谷を覗いてみたが、芝居からイメージする深い谷底とはかなりかけ離れていました。

お里沢市の物語、即ち「壺坂観音霊験記(つぼさかかんのんれいげんき)」は明治時代初期に創作された人形浄瑠璃の演目です。おおまかなあら筋を壺坂寺の公式サイトより紹介すると
「今より三百年以上昔、座頭の沢市は三つ違いの女房お里と貧しいながらも仲睦まじく暮らしていた。沢市は盲目ゆえ琴三味線を教え、お里は内職というなんともつつましい暮らしであった。そんな沢市の胸中に一つ不安が生まれていた。というのも明けの七つ(午前四時)になると、お里が毎晩床を抜け出していたからだ。「もしや好きな男が…」と問いただすと、お里は沢市の目の病が治るよう、この三年もの間欠かさず壷阪寺の観音様に朝詣でをしていると訴える。疑った自分を恥じる沢市はともに観音様にお参りすることにしたが、心の中は盲目がゆえに不遇な暮らしをしているのだと自分を責める。そして、一度お里を家に帰して、お里を自由な身にしてやろうと自分の身を投げてしまうのであった。不吉な予感であわてて戻るお里は、非常な現実に遭遇し、自らも身を投げてしまう。」
岩陰に一条の光がさし、観音様が現れしばらくして消えてゆく。やがて夜が明け、谷底で倒れていた沢市とお里は起き上がり、見つめあう。なんと沢市の目が開いているではないか。
「ムゝ、そしてアノ、お前はマアどなたぢやへ」「どなたとはなんぞいの。コレ私はお前の女房ぢやはいな」
「エゝ、アノお前がわしの女房かへ。コレハシタリ初めてお目にかかります。」と、客席を笑わせて幕は閉まる。

千手観音菩薩の霊験により奇跡が起こり、ハッピーエンドとなったこのお芝居は大変な人気となり、その後、歌舞伎や講談、浪曲などでも上演された。昭和初期には、浪花節の名調子”妻は夫を労わりつ、夫は妻を慕いつつ……”は一世を風靡した。演歌の中村美津子さんは「濡らすこの世のしぐれ道 涙ふきあう お里・沢市 夫婦づれ」(1996年「壷坂情話」)と歌います。現在でも、人形浄瑠璃文楽や歌舞伎で上演が続いている。

広場からさらに奥へ行くと、お里観音堂と沢市霊魂碑が建てられています。

明治時代初期に創作されたという「壺坂観音霊験記」ですが、麓の土佐町にある信楽寺にはお里・沢市の墓があります。信楽寺の説明版によると、9世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壺阪観音の信仰で開眼治癒したという説話(「日本感霊録」)があり、古くから壺阪寺の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。
1875年ごろ、大和国高取郷土佐町に住む沢市という盲人と妻里の夫婦愛をテーマにた原作者未詳の浄瑠璃『観音霊場記』が書かれた。それを二世豊沢団平・加古千賀夫妻が加筆・作曲し、1879年に大阪大江橋席にて初演され、大人気をはくしたようです。結局のところ、お里・沢市の実在性はイマイチよく分からない。

手前の石仏は「めがね供養観音」。インドで制作され、日本で組み立てられた高さ3mの石像。台座に古いめがねやコンタクトレンズが奉納供養されます。右手に持った蓮が、紅葉にあわせて色付いていました。

 壷阪寺 4:天竺渡来石造物 



三重塔の奥に、白壁のように見えるのが天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」。
公式サイトに「このレリーフは、南インド、カルナタカ州カルカラにおいて、延べ5万7,000人の石彫師の手によって、インドの石に彫刻され製作されたものである。原図は、奈良教育大学教授小川清彦氏がインドを旅し、釈尊の道を訪ねて構図をまとめたもので、数百に及ぶ佛伝図の中から、比較的誰でも知っている釈尊の道が描かれている。」とある。
このレリーフは、高さ3m、全長50m、重さ300tで、向かって左から右へ釈迦の誕生から入滅までが10面に分けて彫刻されている。輸送の都合上、インドで各場面を数個に分断し彫刻し、日本に運んで組み立て、昭和62年(1987)に設置された。

これはラストの10面で、釈迦の涅槃の図。傍の説明版を要約します。布教の旅の途中、体調を崩した仏陀はクシナガラの郊外の森に入った。沙羅の木の間に枕を北にして床をひき、右脇を下にして横たわった。その夜、仏陀は涅槃に入り、80歳の生涯を閉じた。周囲には仏弟子や町の人々が嘆き悲しんでいる。牛や猿や鳥たちも仏陀の死を惜しんでいるように見える。



境内東がわに、日本のお寺とは想像もできない石造り建物があります。インドの有名なエローラ・アジャンタ石窟寺院をモデルとし、7年の歳月を費やし、三千個の花崗岩を使ってインドで彫刻し、日本に運んで組み立てられたという。平成4年(1992)に落慶した大石堂(納骨永代供養堂)です。



大石堂の内部も全て石造り。写真右が高さ6mの「大仏舎利塔」。「仏舎利」とは釈迦の遺骨のことだが、この搭には仏舎利の代わりに、佛跡涅槃の地クシナガラの砂が納められているそうです。
左が高さ5mの十一面千手観音石像。インドの石を使い、インドの石彫技師によって彫られたという。また最奥部に納骨室が設けられているそうです。

車道の下に設けられたトンネルを潜り、丘の上に出る。丘の上の階段の上に巨大な石像が突っ立っています。インドで分割製作され、日本で組み立てられた高さ20mの大観音石像です。石像の前には大観音さまの御手も置かれている。「日本の方々にも観音さまの温かい御手に触れて頂こうというインドの方々の浄心から、ここに奉納されかした」と説明されている。


大観音石像の立つ高台からの眺め。橿原、葛城の家々の向こうに二上山、葛城山の山並みが見えます。

大観音さまが見下ろす広場の端には、横たわる釈迦の姿があります。すべての教えを説き終えて入滅せんとする釈迦の姿を顕した大涅槃石像です。全長8m。大観音石像同様に、インドで制作され日本で組み立てられ、平成11年(1999)に安置された。

午后三時過ぎのバスで近鉄吉野線の壺阪山駅へ。大阪へ帰ります。
壺阪寺で印象的だったのは、お里・沢市の物語と巨大な石造物。全く相容れないイメージの両者だが、難病救済という点ではつながっている。境内の各所で見られる石造物は、壺阪寺がインドにおけるハンセン病の人々の救済活動を行った縁から造られたものです。境内を徘徊し、仏像を拝観、庭園を鑑賞する通常のお寺見学とは一味違った印象をもった壺阪寺でした。



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