山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・東寺探訪 3

2017年08月20日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)春の特別展開催中の京都・東寺を訪ねる

 灌頂院(かんじょういん)  


東寺の中心伽藍(五重塔・金堂・講堂・食堂)を見てきたので、再び南大門近くまで戻り、その他の建物を見ていきます。
五重塔とは対照の位置、東寺境内の南西隅に建つのが灌頂院(かんじょういん、重要文化財)。灌頂院は密教の重要な儀式を行う場所で、密教寺院には無くてはならないもの。伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(詳しくは「東寺境内図と歴史」の「雑記」参照)が行われるという。そういうう建物なので非公開で、一般人は中へ入れません。
掃除をされていた方に聞けば、内部には仏像などは置かれておらずガラーンとした石畳だけの空間だそうです。1月14日に特別の行事があり、この間の2時間ばかりは中へ入れるそうです。

 小子房(しょうしぼう)と蓮花門(れんげもん)  



境内西側に、灌頂院と並んで小子房と本坊がある。小子房は天皇を迎える特別な建物らしく、正面の勅使門(唐門)がいかめしい。非公開のため内部に入れないので東寺の公式サイトを引用すれば「天皇をお迎えする特別なところです。南北朝時代。足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう)を奉じて都に入ったおり、上皇は、洛中の戦いが治まるまでの間、小子房を御所としました。現在の小子房は、昭和9年(1934年)、弘法大師空海の千百年御遠忌(ごおんき)にあたり再建されました。総木曾檜造で、昭和を代表する建築物のひとつとされ、襖絵や壁画は堂本印象、庭園の「澄心苑(ちょうしんえん)」は七代目小川治兵衛の作です。」

小子房の中には庭園に面して国宝の蓮花門(れんげもん)があるというが、小子房の中には入ることができない。御影堂脇の西門から外の壬生通りに出て、写真を撮る。
三間一戸の八脚門で、切妻造り本瓦葺き。この蓮花門は、鎌倉時代初期文覚上人による東寺再興時に再建され、東寺6門のうち最古の門。そのためか唯一国宝指定で、他の門は重要文化財です。東寺には6つの門があるが、東門(慶賀門)と蓮花門は「不開門」で閉められている。

「蓮花門」の名には伝説がある。空海が晩年の天長9年(832)11月、東寺を弟子に譲り高野山に隠棲するためこの門から去ろうとした時、西院不動堂に祀られていた不動明王が門前まで見送りのために現れ、涙を流して別れを惜しんだという。そして空海の歩いた足元に蓮(ハス)の花が咲いたことから、「蓮花門」と呼ばれるようになったそうです。
全国各地に弘法大師にまつわる奇蹟的な伝説は多数残されているが、ここ東寺だけに真実味があります・・・。

 御影堂〈みえどう、大師堂、国宝〉  



小子房、本坊から築地塀にそって北へ進むと、同じ塀内に南から毘沙門堂、御影堂、大日堂と並んでいる。東寺境内の北西隅になる。
御影堂の山門を潜り塀内に入ると、そこは金堂、講堂、五重塔のある東寺の中心部とは違った雰囲気をもった場所です。難しい密教などという空気感はなく、一般庶民の素朴な信仰の場所となっている。
残念ながら御影堂(大師堂、国宝〉は、現在修理中(平成32年12月まで)で大きな覆屋で隠されていて、内部だけでなく外観さえも見ることができない。

御影堂(大師堂とも)が成立するのは鎌倉時代になってから。現在の御影堂のある区画はかって「西院」と呼ばれ、空海が住房とし東寺造営工事の指揮を執った場所。延応2年(1240)、西院の不動堂に安置されていた弘法大師坐像が、不動堂北側の堂に移される。そして東寺再興に大きな功績を残された宣陽門院(せんようもんいん、1181-1252、後白河法皇の皇女)の働きかけで、それまで灌頂院で行われていた弘法大師空海に報恩感謝する法要・「御影供(みえく)」が、この弘法大師坐像が安置されている堂で行われるようになった。これが御影堂の成立です。3年後の寛元元年(1243)、宣陽門院は弘法大坐師像に生前同様に食事などの給仕をする「生身供(しょうじんく)」も始めています。
御影堂の成立をきっかけに、平安時代後期になると寺運が衰退していた東寺が、御影堂を中心に弘法大師信仰が高まり、「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになっていく。
当初の堂は康暦元年(1379)に火災に遭い焼失、翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390年)、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。これが現在の御影堂です。

御影堂正面になる北側から、覆いの隙間から修理中の内部を覗き撮り。わずかながら御影堂の一部を垣間見ることができました。御影堂を目にすることができないので、東寺サイトを引用すれば「後堂(うしろどう)、前堂(まえどう)、中門(ちゅうもん)の3つの建物で構成され、軒まわりは簡素な垂木(たるき)、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)。建具は蔀戸(しとみど)や妻戸(つまど)、縁には高欄(こうらん)を巡らす、落ち着きのある建物です。」となる。
後堂(南側)には、空海の念持仏だった不動明王坐像(国宝、9世紀〉が安置されている。平安時代末期、東寺長者・寛信師が像の光背を修理したところ、直後に空海が入寂したことから、以来現在まで一切御開帳されず秘仏とされている。前堂(北側)の弘法大師座像(国宝〉は、修理期間中は大日堂に移されています。

 生身供(しょうじんく)、御影供(みえいく)と弘法市(こうぼういち)  


★生身供(しょうじんく)~*~*~*~*~*~
この御影堂には早朝6時からお参りできる。弘法大師空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式である「生身供(しょうじんく)」が毎日朝6時から行われるからです。これも東寺サイトから引用すれば「お舎利さん、として親しまれる生身供。弘法大師空海の住房だった御影堂で、毎朝6時から、一の膳、二の膳、お茶をお供えする、生身供がはじまります。ご参拝の方は、午前5時50分ごろまでに御影堂の唐門、または西門前にお越しください。10回の鐘の音の後、門が開きます。そのあとは、毎日お参りに来ている方々にならい御影堂の外陣(げじん)へ。 法要の最後には、弘法大師空海が持ち帰った仏舎利を頭と両手にお授けします。お舎利さん(仏舎利)のお授けは、午前6時20分頃と午前7時20分頃の2回です。」
宣陽門院が始めた生身供は、今日現在まで絶えることなく続けられているそうです。高野山でも同様です。

★御影供(みえいく)と弘法市(こうぼういち) ~*~*~*~*~*~
空海命日に当たる21日には、毎月午前10時から、弘法大師空海に報恩感謝する「御影供(みえいく)」という法要が御影堂で行われる。これは鎌倉時代に後白河法皇の第六皇女宣陽門院が始めたものです。江戸時代に入り、弘法大師信仰の高まりと共に御影供に参加するため多くの人々がお参りにやってくる。それを目当てに、お茶を提供したり、日用雑貨品を並べたりする商売人も集まってくる。こうして毎月21日、東寺境内全域で露店が建ち並ぶ市が開かれるようになった。これが「弘法市」「弘法さん」として親しまれ、京都を代表する縁日の始まりです。
現在でも、早朝5時から夕方4時まで日用品、古着、古本、骨董品、陶器、植木盆栽などの1000店を越す露店が並び10~20万人の人で賑わいます。年初の1月21日は「初弘法」、師走の12月21日は「終い弘法」と呼ばれ、ひと際盛大に催され全国から大勢の人々が詰めかけます。今や京都の代表的な風物詩となっている。

私も数十年前の青春時代、新聞記事を見て初弘法へ訪れました。お堂や仏像など全く興味が無く、東寺が有名な寺など知らなかった。だからお堂や五重塔など全く見ていない。賑わう骨董市の中を歩き回った印象しか残っていません。

 大日堂  


御影堂の正面、即ち北側にあるのが大日堂です。
「御影堂の前にあるお堂が大日堂。御影堂と向かい合う、祈りの大日堂。
大日堂は、東寺のなかで、一番新しいお堂で、もともとは、江戸時代、御影堂の礼拝所でした。その後、桓武天皇、嵯峨天皇をはじめ足利尊氏などの位牌を納める尊牌堂(そんぱいどう)となり、さらに大日如来を本尊としたことで、大日堂となりました。いまは、先祖供養などの回向所(えこうじょ)となっています」(東寺サイトより)
ここには役小角の作と伝えられる胎蔵界大日如来像(平安時代)が本尊として祀られている。また現在御影堂が修理中なので、御影堂前堂(北側)の国宝・弘法大師座像はここ大日堂に移されています。

本物の弘法大師像は見れないが、大日堂の西横に仮御影堂が設けられ、江戸時代作の弘法大師坐像が置かれ参拝できるようになっている。
御影堂の前堂に安置されていた弘法大師坐像(国宝)は、天福元年(1233)に運慶の四男康勝(こうしょう)が、空海の身近にいた真如が描いた空海の肖像画を基に制作したもの。左手に数珠、右手に五鈷杵を持ち、弘法大師空海42歳の姿を刻んだものといわれています。これは最古の大師像といわれ、他の大師像の模範となっている。
非公開だが、毎朝6時の生身供でご開帳され、また毎月21日御影供で内陣扉が開いている時に拝観できるそうです。

御影堂の南側には毘沙門堂が建ち、その西側の築地塀に沿って、幾つかの宝塔や石碑が並べられている。写真左側の亀の上に建つ石碑は「尊勝陀羅尼の碑」と呼ばれ、北野天満宮にあったものが幕末の神仏分離令によってここに移されたもの。この周囲を回りながら亀の頭や手足を撫で、その手で自分の患部をさすると、万病に効くという。患部を擦るための「万病ぬぐい」の布も置かれている(売られている?)そうです。

右側の低い石柵に囲まれた石は「天降石(てんこうせき)」と呼ばれている。“天から降ってきた石”、大日如来さんからの贈り物なのでしょう・・・。この石も撫でると万病に効くという。お大師さんにお参りされた多くの人々が触って帰られる。ところが、逆に病を人から人へ蔓延させるという理由から、明治の一時期にはお触り禁止になったこともあるそうです。
こうした「撫でもの」は、多くの神社・寺院で見かけます。お賽銭箱も置かれている。お賽銭あげないと効果が得られない気になってしまいますネ。

 宝物館と北大門  



御影堂の門の脇にある灰色の建物が宝物館。東寺は我が国トップクラスの国宝・重文を有し、ことに密教美術の宝庫として知られている。その多くの寺宝は公開されていなかった。しかし昭和40年(1965)にこの宝物館を開館し、春秋の一時期に限定して一般公開されるようになった。今は、春の特別展(3月20日~5月25日)の最中です。
仏像、彫刻、工芸品、絵画、古文書など多くの寺宝の中から一部を選別し展示しています。今年は「後七日御修法」(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)に関係するものが中心に展示されていた。

正面受付を入ると書籍、写真などの展示販売所がある。その奥が展示ルームで、主に後七日御修法関連の古文書や用具が並ぶ。足利尊氏が寄進したという梵鐘もあった。二階展示室には、空海自身が唐から持ち帰った儀式用の密教法具セット(金銅製の金剛盤・五鈷杵・五鈷鈴、写真左)が注目される。国宝ですが、現在でも後七日御修法で使われているそうです。

二階ホールがメインの展示所。地蔵菩薩立像、五大尊像など多くの仏像が並ぶが、注目されるのは二つ。国宝の兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてん、写真右)は、平安京の入口だった羅城門の楼上に置かれ都を監視していたものだが、羅城門倒壊後に東寺に移された。中国唐代の木彫像といわれ、中央アジア風の鎧や兜で武装し、地天女と二鬼(右が尼藍婆:にらんば、左が毘藍婆:びらんば)を踏みながら睨みつけている勇ましい形相をしている。”兜跋”の名の由来は、チベットの戸蕃国(とばん)と関係があるのではとされるが、多くは不明だそうです。
もう一つは、高さ約6メートルもの千手観音菩薩立像。もとは食堂の本尊だったが、昭和5年(1930)食堂の火災で焼損したが、平安初期の仏像様式を忠実に守り昭和40年から修理され甦り、宝物館に収蔵されることになった。被災前は国宝だったが、補修が入っているため現在は重要文化財指定です。なお食堂には、この千手観音菩薩さんを四方から守護していた四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)が、焼け爛れた姿のままの姿で立っている。こちらも見逃すべきでない。

またこのホールの壁には、真言密教の教えを視覚化した胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つの曼荼羅(「両界曼荼羅図」という)が掲げられている。数mもの巨大なもので、大日如来を中心に多数の仏さんが描かれているのがよく解かる。もちろん複製です。本物は5年おきに公開されるそうです。2年前なので、次回は3年後の2020年の春と秋になる。


宝物館の東隣が、東寺北側の出入り口の北大門。南大門と比べると、規模も風格も格段に小さい。しかし重要文化財です。






 塔頭・観智院(かんちいん)  



北大門を出、川(堀?)に架かる石橋を渡る。すぐ右側に見える塀越しの屋根が、東寺の塔頭寺院・観智院(かんちいん)です。塔頭寺院であるが、別格本山となっている。
観智院は通常は公開されていないが、以下の期間に限り特別公開されている。
春期特別公開: 3月20日~5月25日
秋期特別公開: 9月20日~11月25日

拝観料は必要でが、私は五重塔初層・宝物館・観智院を含め全てを拝観できる共通券(1300円)を利用したので、観智院だけという料金はよくわからない。

客殿(国宝)と庭園(観智院受付で頂いたパンフの写真)。客殿(国宝)は慶長10年(1605)建立で、入母屋造、銅板葺き。桃山時代の典型的な書院造りの建造物として国宝に指定されています。
客殿の上段の間の床の間には、宮本武蔵筆の「鷲の図」と「竹林の図」が描かれています。
剣豪・宮本武蔵は21歳で一乗寺下(さが)り松の決闘において吉岡一門を倒した後、その仕返しを避けるために、吉岡一門が手を出せない東寺の塔頭であるこの観智院に約3年間隠れ住んだ。「鷲の図」「竹林の図」は、その時に宮本武蔵が描いたものと伝えられています。

客殿前の枯山水様式の庭園は「五大の庭」と呼ばれ、五大虚空蔵菩薩像を表す五つ石が配され、弘法大師空海が唐の長安から帰国した際の様子を表現しているといわれます。受付のパンフには「枯山水様式の庭は涅槃禄の庭と称し、白川砂利の広がりの中に隠岐島の赤松、杉苔、吉野石、守山石等を巧みに配し、真言密教の無限の宇宙観と涅槃寂静の境地を表している」と書かれている。

観智院の前の道、即ち北大門から北総門(重要文化財)までの真っ直ぐな参道は「櫛笥小路(くしげこうじ)」と呼ばれ、平安時代以来そのままの幅で残っている京都市内ただひとつの小路だそうです。この道の東側に観智院と、これも塔頭寺院の宝菩提院が並ぶ。西側は、宗門校の洛南高校と附属中学となっている。ちょうど土曜日の昼過ぎだったので、下校中の生徒さんが多かった。
なお、空海は日本最初の私立学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を造り、貴賎貧富の区別なく入学させたという。

 六孫王神社(ろくそんのう)  


1時15分、東寺の北総門を出ると東西に走る八条通りに突き当たる。八条通りを左へ歩き、壬生通りと交差する北西角に「六孫王神社(ろくそんのう)」があります。大きな石柱と看板が掲げられているのですぐ判ります。
看板に「清和源氏発祥の宮」と書かれているように、清和源氏の祖と仰がれる源経基を祀っている神社です。「六孫王」と名付けられたのは、経基が清和天皇の第六皇子貞純親王の子で、天皇の孫だったから。経基の死後、その子の源満仲が経基の屋敷に応和2年(962)社殿を建立し経基の霊を祀ったのが始まりとされる。
反り橋を渡り本殿へ向かいます。源満仲の子達は、畿内を中心に各地に分散し武士団を形成し武門として土着していった。平安時代中期の寛仁4年(1020)、源満仲の三男・頼信が河内国壺井(現在の大阪府羽曳野市と太子町の境界辺り)に本拠を置いた。これが河内源氏の始まりで、頼信-頼義-義家(八幡太郎義家)と三代に渡り武門の棟梁として活躍しました。

源義家の死後,河内源氏は衰退し,ついには平清盛に滅亡寸前まで追い詰められる。しかし義家の4代の孫である源頼朝と弟・義経らの活躍で起死回生し,ついには平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開き日本の支配権をも朝廷から奪いました。鎌倉の鶴岡八幡宮は、河内源氏の氏神だった壺井の八幡宮を分祀したものです。
この河内源氏の系統からは、源頼朝・足利尊氏・新田義貞・木曾義仲・武田信玄・今川義元・明智光秀・徳川家康など名だたる名将が輩出している。
源氏といっても二十一の流派(嵯峨源氏、宇多源氏、文徳源氏など)があるといわれるが、平氏を倒し鎌倉幕府を開くなど歴史的に有名で最も力が強かったので、一般に”源氏”といえば清和源氏を指します。

 京都鉄道博物館  



六孫王神社をでてJRの高架線沿いに歩き、地下道を潜り梅小路公園の大宮南入口にたどり着く。

梅小路公園は、かって平清盛をはじめ平家一門の邸宅があった跡地に造られたという。この公園の下には、かって栄華をほこった平氏の遺構が盛土して保存されているそうです。
広い公園内には、森が繁りお花が咲き、チンチン電車が走り、河原遊びもできます。イベントの開催中らしく、芝生広場の先に見える京都水族館から時おり大歓声が聞こえてきます。子供とファミリーが一日楽しめる大空間になっている。そこに昨年春、日本最大の鉄道博物館がオープンしました。

細長い梅小路公園をつき抜け、ようやく京都鉄道博物館に着く。西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営する面積・展示車両数で日本最大の鉄道博物館で、2016年4月29日にオープン。
営業時間 10:00~17:30(入館は17:00まで)、水曜休館
入館料は、一般:1200円、大高校生 1000円、中小学生 500円、幼児 200円

本館1階メインスペース。この博物館には蒸気機関車から新幹線まで、53両の車両が収蔵、展示されている。本館1階に入ると、新幹線などの車両が並び、いまにも走ってきそう・・・。そのスケールには圧倒されます。

2階から1階メインスペースを眺める。
館のテーマは「見る、さわる、体験する」で、ここには鉄道の歴史、仕組み、車両・構造の全てが凝縮されています。1階には、鉄道の歴史と変遷を紹介する「鉄道のあゆみ」コーナー、線路・踏切・信号などの設備やトンネル・橋などの施設、衝突を防ぐシステムなどを紹介する「鉄道の施設」コーナー、京都駅の引込み線につながり現役で運行している車両を見学できる「車両工場」コーナーがあります。

本館2階には、幅約30m・奥行約10mで、日本最大級を誇る鉄道ジオラマがある。実物車両の1/80の大きさの鉄道模型が走る。JRのみならず、近鉄、阪急などの関西私鉄の車両も走るそうです。
ここだけは見たかったのだが、タイムスケジュールがあり、また満員のため入れなかった。入れないため外から覗き撮り。
また2階には、在来線用が6台・新幹線用が2台の運転シミュレータが置かれ、運転士を体験できます。制服や帽子も借りれば最高!。人気があるのか、抽選によって整理券を配っていました。

2階の外へ出ると、扇形車庫が見下ろせます。現存する日本最古の鉄筋コンクリート造りの扇形車庫。20両の蒸気機関車が保存・展示されている。中央の運転台って動くんでしょうね?

2階にはセルフ形式のレストランがあります。高僧建物の無い京都では、2階でも周辺を遠くまで見渡せる。京都駅を出た新幹線を東寺五重塔が見送っている。


童心にかえって楽しむつもりだったが、そのスケールに圧倒され童心も吹っ飛んでしまった。ただただ館内をそぞろ歩きしただけでした。鉄道マニアならずとも、弁当持参で朝から来たくなるような施設です。
京都駅に向かって歩いていると、公園横を子供達を乗せた本物の蒸気機関車が走っている。これは「SLスチーム号」といい、京都鉄道博物館から京都駅手前まで往復約1kmの蒸気機関車の旅を楽しませてくれます。料金は300円(中学生以下は100円)


詳しくはホームページ

京都・東寺探訪 2

2017年08月09日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年5月20日(土)弘法大師信仰の原点、春の特別展開催中の京都・東寺を訪ねる

 五重塔(国宝)  



拝観入口を入るとまず目に止まるのが、五重塔をバックに羽を広げたように立つ桜の大木。現在修繕中なのか、補強材で支えられ、作業員の姿が見られる。

「不二桜 八重紅枝垂れ桜」の説明板が立つ。それによると、樹齢 120年で、元は岩手県盛岡市の旧家で育てられていたものが、鈴鹿市の農園を経て、平成18年に東寺に寄贈されたものだそうです。弘法大師の「不二のおしえ」から「不二桜」と命名された。4月中旬に、色の濃い八重咲きの華麗な花を咲かせるという。満開時のここからの風景は、素晴らしい絵になりそうですね。

五重塔(国宝)は境内の東南隅に位置し、高さ約55mで木造の建造物としては日本一の高さを誇る。建物に高さ規制のある京都ではひと際目立つ存在で、まさに仏の都・京都のランドマークタワーとなっています。

五重塔は、仏陀の遺骨を安置する古代インドの「ストゥーパ」が起源とされ、東寺の五重塔には、弘法大師空海が唐より持ち帰った仏舎利(お釈迦様の遺骨)が納められている。
空海が天長3年(826)に建造を始めたが、完成したのは空海没後50年近く経った元慶7年(883)の頃です。
その後、落雷に寄って4度焼失し、そのつど再建されてきた。
・天喜3年(1055)落雷により焼失(1度目)、応徳3年(1086)再建
・文永7年(1270)落雷により焼失(2度目)、永仁元年(1293)再建
・永禄6年(1563)落雷により焼失(3度目)、文禄3年(1594)豊臣秀吉、五重塔を再建
・寛永12年(1635)落雷により焼失(4度目)、生保元年(1644)徳川家光の寄進により再建、これが現在の五重塔で五代目にあたる。

これだけ高い塔なのに、地震や台風によって倒壊という記録が無いのが不思議ですね。それだけしっかりした工法で建てられていたからなのでしょう。京都って戦乱などの人災は多いが、地震、台風、氾濫などの自然災害の話はあまり聴かない。ただ菅原道真の祟りなのか?、雷には弱かったようです。この度重なる焼失から、現在は塔の先端に避雷針が設置されています。
初層内部(冊子「東寺の仏たち」より) 。五重塔内部は、通常は公開されていないが、特別期間だけ初層内部が公開される。今回は春の特別期間(3/20~5/25)にあたり初層に入れました。
薄暗く地味な空間に仏像が置かれている通常のお寺と違い、この初層内部は、柱、壁や天井など一面にやや色褪せているいるとはいえ鮮やかな彩色の空間が展開します。スケールこそ違うが、高野山の根本大塔内部とよく似ている。これも空海が構想した密教の立体曼荼羅の世界なのでしょうか。
内部中央には各層を貫いている中央心柱(しんばしら)の角柱がある。この心柱の基部には、空海が唐から持ち帰った仏舎利が納められているそうです。この心柱を大日如来に見立て、それを囲むように四面の須弥壇上に金剛界四仏坐像が配置される。その四仏坐像には、それぞれ左右に脇侍菩薩が二体置かれた三尊形式をとる。いずれも檜の寄木造りの漆箔仕上げで、目には玉眼が嵌め込まれているという。
須弥壇四隅の四柱には金剛界曼荼羅諸尊が、四周の側柱には八大竜王図が、壁には真言八祖像が描かれている。これらの仏像や図も江戸初期の再建時に造られたもので、江戸時代初期の作風を伝えているという。
昨年9月に奈良・興福寺の五重塔の初層内部を見学したが、同じように中央心柱を囲むように四尊像が置かれていた。しかしその空間は全く異質のものでした。

五重塔の北側は、池を中心にした池泉回遊式の庭園になっている。桜の季節には、特に美しい五重塔が浮かび上がるそうです。その形から「瓢箪池(ひょうたんいけ)」と呼ばれるが、この池にはある伝説が残る。
江戸時代に強風が吹き、五重塔が南に傾いてしまった。なんとか元に戻す方法はないものかと思案した結果、反対側の地面に穴を掘ってみた。すると傾いた五重塔が元に戻ったという。そしてその穴に雨水が溜まり、現在の瓢箪池になったそうです。

瓢箪池の東側に、扉の閉められたままの「東大門」がある。現在の門は建久9年(1198)に文覚上人によって再建されたもので、重要文化財に指定されている。傍の案内板によると、別名「不開門(あかずのもん)」とも呼ばれているそうです。
南北朝時代の建文3年(1336)、東寺に陣を張る足利尊氏を新田義貞が攻めたてた。尊氏は門を固く閉ざし危うく難を逃れたといわれます。それ以来、東大門は閉ざされたままだそうです。

 金堂(国宝)  



南大門を入ってすぐ正面に佇む重厚な建物が金堂(国宝)です。延暦15年(796)東寺創建時に最初に造営されたのが金堂で、東寺の中心伽藍であり本尊としてと薬師如来が祀られた。空海が入り、真言密教の寺となった以降もその役割は変わりない。

創建時の金堂は、文明18年(1486)の土一揆で焼失してしまう。桃山時代の慶長8年(1603)、豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再建されたものが現在の金堂です。位置、大きさ、礎石や基壇は創建当時のままを踏襲されたといわれている。

東寺では最も大きい建物で、入母屋造りの本瓦葺き。外見は二重の建物に見えるが、下の屋根は裳階(もこし)と呼ばれる形容の屋根で、内部的には単層の建物。正面の裳階の一部が切り上がり、その下に両開きの扉が設けられている。法会供養の時に扉が開けられ、散華されたそうです。この裳階の切り上げは、東大寺大仏殿や宇治・平等院鳳凰堂にも見られます。

以前は金堂内部は非公開で、中の薬師三尊像は秘仏とされ拝観することができなかった。しかし昭和40年(1965)から一般公開されるようになり、東寺のご本尊を拝することができるようになった。金堂内部は通年で拝観できます。金堂内部へは、東側の入口から入ります。写真の奥は講堂 和服と金堂はよく似合います・・・

内部と仏像(写真は、受付でのパンフ「東寺」より)
薄暗い金堂内部は一室だけで、北側台上に薬師三尊像が並び、その前が東西につながる通路兼拝所となっている。東寺は、空海が入って以降真言密教化されたが、この金堂だけは本尊・薬師如来を祀る東寺の本堂として創建時の姿を今に伝えているという。

中央には東寺本尊の「薬師如来座像」が鎮座する。檜による寄木造り漆箔仕上げ、像高さ2.9m。台座と光背を含めた総高は10mにもなる。薬壺(やくこ)を持たない古い様式の仏像で、光背に7体の化仏を掘り出していることから「七仏(しちぶつ)薬師」ともいわれる。台座の懸裳の下には、薬師如来を守護する眷属である十二神将像が配されている。各神将像は、頭部に十二支の動物を付けている。
本尊に対面して右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」の脇侍像が配される。この両脇侍像も、檜による寄木造り漆箔仕上げとなっている。これら薬師三尊像は慶長8年(1603)金堂再建時に、仏師康正(こうせい)によって焼失前の姿を模して復刻された。桃山時代における佳作とされ、薬師三尊像、十二神将像の全てが重要文化財に指定されています。

 講堂(重要文化財)   



東寺といえば、五重塔と講堂の立体曼荼羅の諸仏像が想起される。その講堂は、広い境内のほぼ中央に位置し、金堂の背後(北)に佇む。単層入母屋造りの本瓦葺きで、白壁と濃茶色の柱が目を引きます。

講堂は、空海が東寺に入った後の天長2年(825)造営が始まり、完成したのは承和2年(835)頃とされる。講堂内の諸仏像が出来上がり、立体曼荼羅の開眼供養が営まれたのは空海没後4年を経た承和6年(839)6月15日のことだった。
文明18年(1486)に起こった文明の土一揆で金堂、講堂、廻廊や南大門など主要堂塔のほとんどを焼失してしまう。しかし金堂や南大門が100年以上経ってから再建されたのに対し、講堂の再建は最優先され、延徳3年(1491)に創建当初の基壇・礎石の上に再建されたのが現存する講堂です。
以前は講堂内部は非公開で、中の仏像は、東側の格子扉から除き見るしかなかったという。しかし昭和40年(1965)から一般公開され、通年で拝観できるようになった。

空海が真言密教の根本道場として精力を傾けたのがこの講堂の建設だった。大日如来を中心に諸尊像を配置し、密教の教えを表す密巌浄土の世界を表現しようとした。これが「立体曼荼羅(羯磨曼荼羅 かつままんだら)」と呼ばれているものです。
密教とは何か。Wikipediaを見てもよく解からない。手持ちの電子辞書(シャープ:Brain)には「仏教の流派の一つ。凡夫にうかがいえない秘密の教え」とある。なるほど、凡夫中の凡夫の俺に解かるはずがない。
正木晃著「密教の世界」(河出書房新社)の冒頭に
「密蔵は深玄にして翰墨に載せ難し。更に図画を仮りて悟らざるに開示す」(空海「御請来目録」)(著者の意訳:密教の教えは深く神秘的なゆえに、文字では伝えがたい。ゆえに視覚表現をもちいて、理解できない者の眼を開くのだ。)と載っている。

講堂内部の立体曼荼羅(受付で頂いた冊子「東寺」より)
密教特有の「曼荼羅」として、布、板、壁などに描かれたものをよく目にする。大日如来を中心にして、その周囲に沢山の仏さんが描かれたものです。「曼荼羅(まんだら)」とは、サンスクリット語のマンダラ(円、本質)が音写されたもので、密教の最高神大日如来が人々を救済するために様々な姿に変身することを体系的に表したもの、とされる。この曼荼羅は、密教の深い真理を感得するための視覚表現だったのです。空海は東寺の講堂で、この曼荼羅を絵図ではなく、実物の仏像を配置することで実現しようとした。だから”立体”曼荼羅なのです。

ここ講堂内部には、幅24メートル・奥行6.8メートル・高さ0.9メートルの須弥壇上に、二十一躰の諸仏像が整然と配置されている。須弥壇の前は、金堂と同じように通路兼拝所となっています。心落ち着かせ、じっと眺めてみるが、何も感得できない。雑念多き現代人(俺だけか?)には無理なようです。空と海しか見えない洞窟にでもこもって修業しなければ会得できないものかもしれない。しかし真言密教の深い教えは感得できなくても、主な仏像が一同に列されているこの講堂は、仏像の学習にはこの上ない場所です。仏像を紹介する書籍、メディアなどでは必ずと言っていいほど東寺の講堂が取り上げられている。

須弥壇中央に配置され、立体曼荼羅の中核をなすのが大日如来を中心にした五体の如来像。「五智如来(ごちにょらい、五仏)」と呼ばれている。五智とは大日如来が具える五つの智恵のことで、それぞれの智恵を五仏に象徴させたもので、全てが大日如来の化身とされる。
「如来」像は、修業を経て悟りを開いた釈迦をモデルにしている。そのため持物は持たず、服装は質素な衣一枚をまとった簡素な姿で、開いた蓮の花の上に結跏趺座(けっかふざ、左右の足の甲を反対の足のももの上に乗せて組む)し、手は膝の上に置かれている。しかし真言密教の教主である大日如来だけは、菩薩のように宝冠(ほうかん)を被り、首飾りを着け着飾っています。そして手は、最高の悟りの境地を表す智拳印(ちけんいん、胸の前で左手の人差し指を立て右手で握る)という印を結んでいます。
残念ながら当初の如来像五仏は文明18年(1486)の土一揆によって焼失してしまう。大日如来坐像は室町時代の明応6年(1497)東寺大仏師であった康珍による再興像で、他は江戸時代の再興像。そのため国宝ではなく、「木造大日如来坐像 附 金剛界四仏坐像」として重要文化財指定。全て寄木造りの漆箔仕上げ。

如来像の東側(右)には、金剛波羅密多菩薩を中心として五体の菩薩像が配置される。菩薩は出家前の釈迦の姿を表し、如来の衆生救済の補佐をする。悟りを求めて修行しながら、苦しむ人々を救う仏さま。つまり、仏の教えを実践しながら、人々の苦しみや願いをすべて救うため、様々な法力や功徳を持つ。出家前の釈迦の姿なので、如来さんよりやや身を飾り、宝冠を被っています。少しうつ伏せ気味に眼を伏せ、慈悲にみちた柔和なお姿をされている。金剛波羅蜜多菩薩は文明18年の土一揆によって焼失、江戸時代の再興像。それ以外は焼失を免れ創建当初のままの姿を保ち、「木造五大菩薩坐像 4躯」として国宝に指定されている。金剛波羅蜜多像は国宝の附(つけたり)指定です。すべて檜の一木造り、漆箔仕上げ。

如来像の西側(左)には、不動明王を中心とした五大明王が配置されている。明王は大日如来の怒りの化身で、仏敵を追い払い、教えに従わない者たちを懲らしめ仏教に帰依さす。衆生教科のために大日如来が忿怒の姿になって現れたものです。東側の慈悲にみちた菩薩像とは対照的に荒々しい姿をしている。慈悲をもって人々を導く菩薩像に対して、明王は威をもって導く。髪を怒りで逆立て武器を持ち、眼が飛び出しそうになるくらい睨みつけてくる。煩悩を焼き尽くすため燃え盛る真っ赤な火焔の光背を背負い、多くの顔と手をもつ(多面多臂)。
すべて檜の一木造り、彩色仕上げ。五体とも創建当初の像で、明王像としては日本最古のものといわれ国宝となっている。

須弥壇の東西両端には、四天王、梵天、帝釈天が配されています。「天」はインド古代神が仏教に取り入れられ、仏教世界の四方を守護する護法神とされたもの。「超人的な力を持つ神」を意味するサンスクリット語の「デーヴァ」が中国で「天」と訳された。
如来・菩薩・明王の十五尊を両端から守護しています。東西南北の四隅に配置された四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天とも))は、兜を冠り甲冑を身につけ武器を持つ武装した姿で、邪鬼を踏みしめ眼を吊り上げ他を威嚇する忿怒の表情をしています。四天王の間に配された梵天、帝釈天は、対照的に眼を閉じ柔和な顔立ちをされている。同じ「天」でも役割が違うようです。六体とも檜の一木造り、彩色仕上げ。みな創建当初からの像で、国宝指定されている。

 食堂(じきどう)  



南西から見た食堂(じきどう)。講堂の北側、拝観受付の傍にあるのが食堂(じきどう)。食堂は、僧侶達が斎時に集って食事をした所という。
食堂には拝観券が無くても自由に入れる。現在、堂内右半分で草場一壽「陶彩画展」が開催されていました。ツルツルした陶器の表面に描かれた色鮮やかな絵画には驚いた。また堂内では写経の場も設けられ、ひたむきに筆をとっていらっしゃる方の姿が見えます。「写経は、国宝・五重塔に永らく奉納させていただきます」とのことです。

北西から見た食堂の背後。食堂の歴史は「初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、文禄5年(1596年)の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年(1800年)にようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成したものである」(Wikipediaより)
足利尊氏が東寺に本陣を置き、この食堂に居住していたこともあったそうです。

食堂はかって「観音堂」「千手堂」とも呼ばれ、仏像が安置されていた。檜の一木造り漆箔で、像高約5.8mの千手観音菩薩と、それを取り囲む四天王像です。平安中期の造像と考えられている。ところがこれらの仏像は、昭和5年(1930年)食堂の火災で焼損してしまう。損傷が比較的軽微だった千手観音菩薩は、平安初期の仏像様式を忠実に守り修理され、現在宝物館に収蔵され見ることができます。被災前は国宝だったが、現在は重要文化財指定です。現在の食堂には、昭和8年(1933)造像の像高約1.8mの十一面観音像が代わりに安置されている。

千手観音菩薩を四方から守護していた四天王像(持国天・増長天・広目天・多聞天)は損傷が激しく、補修もされないままの姿で置かれています。面貌や体形はわかるが、腕を失い体の表面は焼けただれ黒く炭化した状態の痛ましい姿です。この3mをこす焼けただれた四体の巨像が、今回の東寺訪問で一番印象に残った仏像でした。






 宝蔵と慶賀門(東門)  


食堂の東側に、広場を挟み校倉造りの宝蔵(ほうぞう、重要文化財)があります。平安後期の創建当初は南北に二棟あり、弘法大師空海が唐の国師、恵果から授かり、現在、国宝となっている密教法具や両界曼荼羅、袈裟、仏舎利、五大尊など数多くの寺宝を納められていた。
宝蔵は長保2年(1000)と大治1年(1126)に二度焼失したが、建久9年(1198)、文覚(もんがく)上人によりに再建され、「文覚の校倉」とも呼ばれたという。ただし傍の説明板には「解体修理の結果、東寺創建に近い頃の建立と考えられる」とあり、文覚再建説は間違いで、東寺で最も古い建物ということになる。

多くの寺宝が納められているので、火事による延焼を防ぐため掘割で囲まれた中に建つ。掘割には蓮の花の若葉が、初夏の開花を待っています。掘割に架かる石橋の袂に一本の柳が立つ。「伝 小野道風ゆかりの柳」との説明板が。

宝蔵の直ぐ北側に慶賀門(けいがもん、東門、重要文化財)がある。JR京都駅から最寄の門で、大宮通りのバス停に近いことから、この門から訪れる人も多い。
鎌倉時代前期の建造とされる切妻造・本瓦葺きの門。基壇は平安時代後期のもの。
なお、東寺の開いている四門はどれも段差があり、車椅子は通りにくい。ここ慶賀門(東門)の横が駐車場で、そのまま境内に入れます。これを利用すれば車椅子でも段差を気にせず入れます。


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