山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

いざ天王山へ 2(古戦場碑・光秀本陣跡・勝龍寺城)

2023年07月24日 | 山登り

★2023年7月2日(日曜日)
天王山から下山後、山崎の戦いに関連した東黒門跡、古戦場石碑、明智光秀の本陣跡、勝龍寺城へ向かいます。

 東黒門跡と古戦場石碑 



天王山から下山し、これから光秀の本陣跡と勝龍寺城へ向かいます。
大山崎町歴史資料館で食事と休息した後、西国街道を東へ20分くらい歩くと、左側の道端に石碑が置かれている。この場所が「大山崎の東黒門」が建っていた所ろです。西国街道(現在、府道67号線)に沿って細長く続く大山崎の集落は、集落の東西の端に東黒門、西黒門を設け、治安の維持をはかっていたという。
歴史資料館のガイドさんの話では、秀吉方の高山右近がこの東黒門を突破し突撃したことから「山崎の戦い」の戦端が開かれたそうです。

現在、東黒門の痕跡は残されていないが、石柱と石碑が建っている。
手前の石柱には「石敢当」(いしがんとう、せっかんとう)と刻まれている。これは集落や境内の出入口などに置かれた魔除けの石板のこと。石碑には「高瀬川清兵衛」と刻まれている。この人は江戸時代後期に活躍した大山崎出身の相撲力士で、引退後は相撲の興行主として地元におおい貢献したことから、明治前期に建立されたと説明されています。

さらに歩くこと10数分、高架が見えてきた。東名高速道路が天王山トンネルを出て大山崎JCTに入る手前です。地図で見ると、この周辺は高速道路の高架が縦横に走り、とても気持ちよく歩ける環境ではない。昼過ぎの一番暑い時間帯、熱中症を心配しながらこまめに水分補給する。
右の立派な建物は大山崎町役場。どこへ行っても役所が地域で一番大きく豪華だ(大阪府庁は例外)。

高架をくぐり、100mほど先で右折し進むと橋が見えてくる。小泉川(かっての円明寺川)が流れ、川に沿って京都縦貫道が通っている。右側の大山崎中学校のグランドと川に挟まれた高架の下が「天王山夢ほたる公園」です。南北に細長い公園で、古戦場碑は一番北端に建っています。

13日午後4時頃、円明寺川(現小泉川)を挟んで西側に羽柴軍3万6千、東側に光秀軍1万5千の軍勢が対峙した。そして午後4時30分頃合戦の火蓋が切って落とされる。しかし秀吉軍はわずか3時間余り(ここの説明版では1時間)で勝利を収めたという。

公園の北側に建てられた「山崎合戦古戦場」の石碑。ここが山崎合戦の一番の撮影スポットとか。戦場に撮影スポットがあるとは・・・。確かに天王山を借景に、戦場の碑が浮き立つ。ここ以外に戦場の跡を表すものがないのです。
しかし横に目をやると、巨大な橋げたに碑などかすんでしまう。

コンクリート額縁に収まった天王山。この眺めは光秀側から見た視点です。山崎駅から眺めた天王山は横に水平だったが、こうして東側から眺めても水平でなだらかな山です。

(現地説明版の戦場図。4枚目の陶板絵図と同じ)
光秀の敗因は幾つかあげられているが、その一つに戦場に選んだ場所の問題があります。天王山と桂川に挟まれた一番狭い場所、即ち大山崎の町ではなく、その外れの小泉川(円明寺川)の周辺の広い湿地帯を戦場に選んだ。光秀の軍勢は1万人から1万5千人、対する羽柴軍は3万6千人といわれている。狭い場所なら大軍を動かしにくく、逆に少ない軍勢でも十分に対抗できる。ところが光秀は大山崎の町での戦闘、つまり「町合戦」を避けたのです。
光秀は本能寺の変後すぐ5通の禁制を出している。「禁制」とは、寺社や民衆に対しての約束事です。本能寺の変の翌日、光秀は経済力に富む大山崎油座と、献金と引き換えに町を戦火にさらさぬという禁制を結んでいた。実直な光秀は約束を守り、そして負けたのです。

 光秀の本陣跡  



次に目指すのは明智光秀の本陣跡。古戦場碑の場所から北東へ500m程の所に、古墳時代前期後半の境野(さかいの)一号墳という古墳があります。サントリー京都ビール工場のすぐ東側になる。ここが「太閤記」などにでてくる「御坊塚」と呼ばれる光秀の本陣跡だとするのが今までの定説になっていた。その場所には大山崎町が設置した「明智光秀本陣跡」という石柱と案内板が建てられている。説明版に「当地周辺の地形を考慮すると、当古墳上が本陣に利用されたものと考えられます。古墳のある場所は標高二五・二mを測り、周辺と比べるとひと際高く、天王山や西国街道方向に視界がひらけます。羽柴秀吉の軍勢と対峙し、味方の軍勢を把握して指揮するのにうってるけの場所が本古墳であったと言えるでしょう」と推定しています。
ところが最近になって御坊塚は長岡京市の恵解山古墳ではないか、という説が浮上してきた。次にその恵解山古墳へ行ってみます。

境野一号墳から北へ500mほど行けば恵解山古墳が現れる。墳丘全体が前方後円墳らしく公園として整備され、周りに埴輪列が並べられているのですぐわかる。

恵解山古墳(いげのやまこふん)は古墳時代中期、5世紀前半頃の前方後円墳。全長:128m、後円部の直径:78.6m、後円部の高さ:10.4m、前方部の幅:78.6m、前方部の先端の高さ:7.6mの規模をもち、乙訓地域最大の前方後円墳で、5世紀前半頃に桂川以西を支配した首長の墓と考えられています。

三段形状の墳丘は、小泉川から採集した河原石を葺石として全体が覆われていた。「葺石に覆われた古墳は、白く輝く石の山として、強烈な印象を与えたことでしょう」(説明版)。また墳丘の周囲には幅30mの広く浅い周濠が巡っていた。副葬品埋納施設からは、木箱の中に収められた約700点もの鉄製武器類(刀、剣、槍、短刀、矢)が見つかっている。

昭和56年(1981)に国史跡に指定され、現在は史跡公園として整備され市民に公開されています。広い周濠は芝生が植えられ、市民の憩いの場となっている。墳丘上にも自由に登れ、埴輪列が並べられ復原された前方後円墳の姿を見学することができる。写真右は、後円墳部分。

平成23年(2011)長岡京市埋蔵文化財センターが、恵解山古墳周辺から大規模な堀跡、火繩銃の玉や、兵が駐屯するために古墳を平らに整形した曲輪の跡が見つかり、これは光秀の本陣跡とされる「御坊塚」ではないかと発表した。

どこを探しても光秀の本陣跡という碑も案内も見つからない。ただ一ケ所、古墳を囲う鉄柵に写真のような横断幕が掲げられていました。長岡京市はまだ確信がもてないのでしょうか?。
「現在、光秀の本陣跡とされる御坊塚について、大山崎町と長岡京市とが競い合っている。しかし最近はウチの方が分が悪くなっています」と語るのは大山崎町歴史資料館のボランティアガイドさん。

 勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)  



山崎の戦いで負けた明智光秀は勝龍寺城に逃げ込み、ここで最後の夜を過ごした。

勝龍寺城は、光秀の本陣跡とされる恵解山古墳からさらに北へ500mほどの所。現在公園として整備され、長岡京市の観光スポットとなっている。光秀よりは、その娘・玉(ガラシャ)が新婚生活を過ごした場所として有名です。公園東側の府道211号線は「ガラシャ通り」と呼ばれています。右の写真は公園の東側です。北東隅に、外を監視・攻撃するための隅櫓が建つが、これは公園化するときに再建されたもの。

(案内板の「勝龍寺城縄張推定復元図」)
勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)は、京都盆地の南西部に位置し、京都から西宮を経て中国、九州へと続く「西国街道」と、桂川右岸の低地を直進する「久我畷」の結節点を抑え、淀川水系にもほど近い交通の要衝に立地する。「文明2年(1470)西軍畠山義就が勝龍寺城を陣城としたように、応仁・文明の乱中には寺院としての「勝龍寺」が、たびたび臨時的な砦として利用されるようになり、次第に恒常的な城郭として整備されたようです」(案内板より)。戦国時代末期には三好三人衆が陣地にしていたが、永禄11年(1568)に織田信長が攻撃し勝龍寺城を手に入れる。信長は勝龍寺城を細川藤孝(1534-1610)に与え、大改修を命じ、ここを山城支配の拠点とした。
「勝龍寺城は、元亀2(1571)年に、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を、当時最先端の城郭に大きく造り替えたものです。土を切り盛りして造った、それまでの中世城郭とは一線を画し、「瓦葺き」「石垣」「天主」といった、その後の城郭の標準となる諸要素が取り入れられています。信長の安土城築城よりも5年早く、近世城郭の先駆けとも言えるものです」(パンフより)

本丸は、東西120メートル×南北80メートルで、周囲は高さ4~5mの土塁で囲まれ、外側には幅10~15m、深さ約3mの堀を巡らせていた。本丸の南西側には沼田丸という台形の曲輪があり、本丸の南側には勝龍寺や築山屋敷、西側には沼田屋敷、東側には中村屋敷、北側には米田屋敷や松井屋敷、神足屋敷があった。城名は南側の古刹・勝龍寺に由来する。
細川藤孝・忠興親子が、天正9年(1581)に丹後宮津城に移るまで10年間居城し、後の肥後熊本藩細川家の礎を築いた。

城跡は本丸と沼田丸の部分だけ残され、平成4年(1992)に「勝竜寺城公園」として整備され市民に開放されました(9時~17時(4月~10月は~18時))。公園整備に先立つ昭和63年(1988)の発掘調査によって、数々の遺構・遺物が発見されている。また北方の神足屋敷の土塁跡も保存されています。入口に「明智光秀公三女玉お輿入れの城」の石柱が建つ。

天正6(1578)年、信長のすすめにより明智光秀の三女・玉(1563~1600)は細川藤孝の嫡男・忠興(ただおき)にここ勝龍寺城で輿入れした。忠興・玉ともに16歳で、ここで2年間の新婚生活を過ごし、二人の子供をもうけている。天正9年(1581)に丹後宮津城に移るが、翌年(1582年)に「本能寺の変」「山崎の戦い」となり、玉の人生は暗転する。
本能寺の変の後、光秀は盟友でもあり縁戚でもある細川藤孝・忠興親子に加勢を呼びかけた。しかし親子は信長への弔意を表し応じなかった。藤孝は「喪に服す」といって剃髪し、雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし丹後田辺城に隠居、忠興に家督を譲った。謀反人の娘となった玉は離縁され、味土野(京丹後市)に幽閉されます。2年後、秀吉の取り成しで復縁し、忠興は玉を大坂玉造の細川家屋敷に呼び戻す。キリシタン大名高山右近の影響で洗礼を受け、玉はガラシャという洗礼名を授かりました。
関ヶ原の戦いに先立つ慶長5年(1600)7月、石田三成の軍勢は徳川方についた忠興の妻・玉を人質にするため細川屋敷を包囲します。ガラシャは人質になるのを拒んで死を決意、キリスト教は自殺が認められていないので、家臣の介錯により最後を遂げた。辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。38歳でした。
細川忠興は関ヶ原の戦いで軍功をあげ、丹後国宮津城主から豊前国小倉藩39万石初代藩主、息子の忠利は中津城主となります。忠利は、寛永9年(1632)に肥後熊本城に54万石の大名として入城します。元総理大臣の細川護熙(もりひろ)氏は、熊本城主細川家18代当主です。

毎年11月第2日曜日に「長岡京ガラシャ祭」が開催される。細川忠興に輿入れする様子を再現した「お輿入れ行列」や古墳時代から江戸時代までの有名な歴史の人物が登場する「歴史文化行列」、「町衆祝いの行列」など様々な人が勝竜寺城公園に向けて約3kmの街中を練り歩く。公園内で多くの来場者が見守るなか、玉と忠興の婚礼の儀が執り行われるという。

公園北側にある北門。山崎の戦いに敗れた光秀は勝龍寺城へ逃げ込み最期の夜を過ごした。しかしこの城では追撃する秀吉軍を防ぐことはできないため、その夜中に20人ほどの兵を連れてこの北門から脱出し、本拠の坂本城を目指した。しかしその途中の小栗栖の藪(現明智藪)で落ち武者狩りに遭い殺される。享年55歳だった。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒されたという。
「三日天下」と言われるが、本能寺の変が6月2日、山崎の戦いが13日なので「十二日天下」だった。

戦いの翌日14日には秀吉が勝竜寺城に入城している。秀吉は勝竜寺城をあまり重視せず、城は荒廃してゆく。寛永10年(1633)、旗本の永井直清が入府し、荒廃していた勝龍寺城の修築を行う。しかし慶安2年(1649)に直清が摂津高槻藩に転封されると、勝龍寺城は完全に廃城となった。

北門の近くに石垣跡が残されている。その傍に小屋があり、石垣の一部として用いられた石仏、五輪塔、宝篋印塔など集められている。こうした転用石はどの城でもよく見られ、古墳の石棺などを転用した例もあります。お城は沢山の石を必要とするので、石材を集めるのに苦労したのでしょう。

管理棟の建物の西側に、「光秀出陣テラス」よばれる段丘がある。7mほど高くなっており、天王山、男山、淀川などを一望できるという。城に攻め込む敵兵を側面から射撃する「横矢掛かり」としての機能をもっていた。「ここに天主が建てられ、周囲の街道などににらみをきかせていた可能性がある」(パンフより)

お城の形をした公園内の唯一の建物は管理棟です。1階は休憩室(右写真)、2階が展示室(撮影禁止)になっている。展示室では、勝龍寺城跡の発掘の様子や瓦や一石五輪塔などの出土品が展示され、また勝龍寺城の各種資料を見ることが出来ます。私以外誰もいないはずの室内で声が聞こえてきます。ビデオ映像が流れていました。勝龍寺城にゆかりの明智光秀・玉(ガラシャ)・細川藤孝(幽斎)・忠興(三斎)4人の人物に焦点を当てた映像と、「お城博士」として知られ城郭考古学の第一人者の千田先生が丁寧に解説される勝龍寺城についての二本の映像が繰り返し流れていました。
トイレもあり、涼しい冷気のの中で一服できる管理棟です。

勝龍寺城から北へ200mほど行くと神足(こうたり)神社があります。入口から入ってすぐ右側に、勝竜寺城の土塁・空堀跡が復元され、周囲を一周して見学できるようになっています。堀の底から土塁の頂部までの高さが6mを超えるという。細川藤孝の修復時に築かれたと考えられている。

神足神社から北へ数分歩けばJR長岡京駅です。さらば天王山。



ホームページもどうぞ

いざ天王山へ 1(天王山山頂まで)

2023年07月16日 | 山登り

★2023年7月2日(日曜日)
久しぶりに登山に出かけることにした。その山は「天下分け目の戦い」として歴史に名を刻む「天王山」。高さ約270メートルで、”登山”などというと笑われるかもしれない。しかし、今の私にとってかなりハードな登山なのです。
天王山の戦い(山崎の戦い)は天正10年6月13日とされる。これは旧暦です。新暦に直すといつだろうか?。調べても適格な情報が見つからなかったが、Wikipediaに「天正10年6月13日(1582年7月2日)」と記されていた。7月2日だともうすぐだ。念のために地元の大山崎町歴史資料館に電話してみた。7月2日は新暦でもユリウス暦で、現在使われているグレゴリオ暦はそれから10日ほどズレる、と説明されました。じゃ12日だ、と決めるがこの時期、梅雨時で曇りや雨が多く、天気予報も良くない。悩んでいると、前後の悪天候に挟まれた状態で、7月2日だけが晴となっている。これは出かけるよりしかない。いざ天王山へ!(登山中に見た4枚目の陶板絵図に「新暦では7月12日」と書かれていました)
下山後、体力に余力があったら、古戦場石碑、明智光秀の本陣跡、勝龍寺城へ向かいます。

大山崎の地は京都と大阪の境に位置し、空中写真を見ればわかるように、天王山と男山に挟まれた狭い地域となっている。ここに桂川・宇治川・木津川が流れ込み、合流して淀川となって大阪湾に流れ込む。そのため、古来水運・陸運の要地となっていたと同時に軍事上の要衝として歴史上重要な役割を果たしてきた。「天下分け目の戦い」と言われる「山崎の戦い」があり、幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、幕府方として大山崎に布陣していた津藩・藤堂軍が、いきなり対岸の男山方面に布陣する幕府軍を砲撃した。薩長側に寝返ったのです。これで幕府軍は総崩れとなり戦いの趨勢が決まり、薩長を中心とした明治維新が実現した。

 大山崎町歴史資料館  



阪急・大山崎駅のホームから天王山を眺める。この駅と天王山との間にJR山崎駅があります。山は高さ約270メートル、お散歩に丁度良い位の高さ。西側の山腹を、摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎり、天王山は京都府に属します。古くは「山崎山」と呼ばれていたようですが、山頂近くに牛頭天王を祀る天神八王子社があったので室町時代の頃より「天王山」と呼ばれるようになった。

阪急・大山崎駅。この道路はかって「西国街道」と呼ばれ、西国と京を結ぶ歴史ある街道で、秀吉も「中国大返し」で軍馬を走らせた道です。
京都 - 西宮間は「山崎街道」とも呼ばれている。
駅から100mほど手前(東側)に大山崎町歴史資料館が、200mほど向こう側(西側)へ行けば離宮八幡宮があります。

大山崎ふるさとセンターの建物。一階は広々とした休憩コーナー、二階が歴史資料館(入館料200円)となっている。歴史資料館は全て撮影禁止です。妙喜庵の茶室・待庵(国宝)の複製が展示されていたが、撮影できず残念でした。その他、私が望んでいた情報もパンフも無かったが、ボランティアのおじさんが寄ってきて色々話をしてくださったのが有益だった。
月曜休館 tel: 075-952-6288(総合案内)


 離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)  



駅から西へ数分歩けば離宮八幡宮の東門です。写真のように西国街道が門の前で左に湾曲している。これは江戸幕府三代将軍・徳川家光の時、境内が南側に拡張されたためです。

離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)の創建は「社伝によると、貞観元年(859年)、清和天皇は神託により国家鎮護のために宇佐八幡宮から八幡神を勧請し、平安京の守護神として奉安しようと考えた。そして大安寺の僧行教が豊前国に使わされ、八幡神とともに山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)に戻ってくると、同年8月23日に行教は神降山に霊光を見、その麓にある西国街道に面している当地に行くと岩の間から清水が湧いているのを見た。帰京後に清和天皇にその出来事を奏上したところ、勅命によりその地(現在当宮がある地)に社が建立され、「石清水八幡宮」と名付けられた、という。しかし、翌貞観2年(860年)2月9日にその社から淀川の対岸にある男山に向かって一筋の光が放たれると、4月3日には男山に八幡神を遷宮させて新たに「石清水八幡宮」を建立した。だが、最初に八幡神が降り立ったのは山崎であるとして残された当地の社に再び八幡神を勧請して「石清水八幡宮」を存続させた、という。」(Wikipediaより)

境内に入ると石鳥居、その先に中門(国登録有形文化財)が建つ。
Wikipediaによると「当社は修理の要請を幕府に行う際、社名である「石清水八幡宮」と「源家の宗廟」という立場を強調していたが、遂に男山の石清水八幡宮と「石清水八幡宮」の社号を巡っての争いが起きて当社は敗北し、元禄10年(1697年)9月18日の裁許状で「石清水八幡宮」の名称の使用を禁止された。以降、当社は離宮八幡宮を正式の名称とした。」
かつてこの地に嵯峨天皇の「河陽(かや)離宮」があったことによる。公式サイトに「「河陽宮」の名前の由来は、淀の大河の北、即ち陽に当たる処にあったことから「河陽」の宮と称せられました。山崎の津(港)は古来より淀川流域における一要津として重んぜられていました。奈良朝より平安朝にかけて天皇が遊猟する風習が盛んになり、天皇はその遊猟地である交野、栗前、水生野、大原野、葛野、山階野等に行幸される度にその要路である山崎の駅に泊られました。弘仁4年(813)、嵯峨天皇が交野に行幸された際、山崎駅を行宮に定められ、後に山崎行宮が「河陽宮」と称せられるようになりました」とあります。
中門前の右側に「河陽宮故址」の碑が建つ。中門前左右の石灯篭には「石清水八幡宮」と刻まれ、裏面に「元禄」の文字が見える。改名する前に造られた石灯篭でしょうか。

中門右前に碑「本邦製油発祥地」と「油祖像」(ゆそぞう)が建つ。黄色の円形標識は「全国油脂販売店標識」で、昭和32年に制定された全国油脂販売業者共通の店頭標識です。

「貞観年間(859- 877)に当宮の神官が「長木」という搾油器を発明し荏胡麻(えごま)油の製油を始めました。当初は神社仏閣の燈明用油として奉納されていたが、この製法はやがて全国に広まると、朝廷より「油祖」の名を賜ります。鎌倉時代に油座の制度ができると離宮八幡宮は座の会所となり、全国の荏胡麻油の販売権を独占し、諸国の油商人は離宮八幡宮の許状無しには油を扱うことはできませんでした。また山崎は幕府から自治権を認められ自治都市として独自の発展を遂げました。「室町幕府三代将軍・足利義満は円明寺から水無瀬川の間を当宮神人の在所であることから「守護(役人)不入地」とし、大山崎の自治を認めました。以来、明治維新までの長きにわたって、離宮八幡宮の神領として特別に自治を認められる地域でありました」(境内の説明版より)
山崎の油商人は関所通行料免除などの特権も与えられ、「山崎長者」として大いに栄えた。ところが戦国時代になって織田信長などがとった楽市・楽座の政策で、油座の持っていた特権は無くなってしまう。さらに菜種油が主流となっていき、荏胡麻油生産は衰退していった。
「荏胡麻(えごま)」とは、シソ科の一年草で、「え」「しろじそ」「じゅうねん」とも呼ばれている。その種子は35~40%の油を含んでおり、これを搾りとったのが荏胡麻油。

拝殿と、その奥の本殿(国登録有形文化財)。本殿に応神天皇、左殿に酒解大神(別称大山祇神)、右殿に比売三神が祀られている。
社殿は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による「寛永の造営」によって再建された。境内も拡張され、「西の日光」と呼ばれるほどの壮大な社殿を構えていたという。ところが幕末の元治元年(1864年)「禁門の変(蛤御門の変)」の時、離宮八幡宮は長州藩の屯所となったので、会津藩や新撰組などの幕府軍の攻撃を受け、多くの民家とともに離宮八幡宮は惣門(南門)と東門を残してほとんど焼失してしまう。明治時代になると、神仏分離によって神宮寺が廃寺となり、境内の西側が大阪府に割譲された。明治9年(1876)には東海道本線の敷設のため、境内の北側を収公され、境内はさらに縮小してしまう。そうしたなか、明治12年(1879)に大阪油商山崎講と地元の崇敬者の寄進により社殿が再建された。さらに昭和4年(1929)、東海道本線の複々線化の工事に合わせ、かつて拝殿が建てられていた場所に移して本殿、幣殿、拝殿を繋げる様式に改築され現在に至る。
本殿内の両脇には、各メーカーの油の一斗缶が沢山奉納されています。

境内西側に十数個の巨石が並んでいる。これはかって存在した多宝塔の礎石だそうです。その奥に見えるのが「菅原道真腰掛け石」。延喜元年(901)右大臣菅原道真(845-903)が大宰府に左遷される道中、西国街道脇にあったこの石に腰を下ろし休息したと伝わる。


 妙喜庵(みょうきあん)・登山口  



離宮八幡宮のすぐ北側にJR山崎駅がある。その駅前広場の一角に妙喜庵(みょうきあん)がある。外観は民家風なので、案内板が無かったら気づかないでしまう。この中に国宝の茶室「待庵(たいあん)」がある。「待庵」は千利休が唯一残した茶室であるといわれる。

妙喜庵内部を見学するには、希望日の1ヶ月前までに往復はがきで予約が必要。



JR山崎駅から線路沿いに100mほど歩けば踏切です。京都ー大阪間なので頻繁に列車が通り、タイミング悪ければかなり待たされることもある。踏切を渡れば「天王山登り口」の標識が建つが、山への登山口というより、お寺の参道といった雰囲気です。







 陶板絵図「秀吉の道」(全6枚)  


天王山山頂までの途中途中に、「本能寺の変」から「山崎の合戦」までの経緯を時系列に並べた陶板絵図「秀吉の道」が6枚設置されています。解説文は堺屋太一さん、陶板絵は日本画家・岩井弘さんによる。ここに頂上までの全6枚を一括取り上げ、全文を掲載しておきます。前もって「山崎の戦い(天王山の戦い)」の概要を知っておくと、大山崎の町と天王山を歩くのに大いに役立ちます。

なお「天王山の戦い」とも云われるが、これは正確ではないようです。天王山が戦いの場になったのではなく、また天王山の争奪戦があったわけでもない。戦闘の場所は天王山の東山麓の湿地帯だった。そこから「山崎の戦い(山崎合戦)」と呼ぶのが正しいようです。

1枚目は、分岐点からアサヒビール山崎山荘美術館に向かう道に入り200mほど進んだ所に設置されている。屏風画は本能寺の変直前の、各武将たちの勢力図が描かれています。(これだけは下山時に撮ったもの)

「本能寺の変 「鬼」信長を討った「人」光秀
天正十年(一五八二年)、織田信長の天下統一は、まさに成らんとしていた。その信長が、旧暦六月二日(新暦では七月一日)未明、京都本能寺で家臣の明智光秀に襲われ殺害された。史上に名高い「本能寺の変」である。三十一年前、十八歳で尾張(愛知県西部)の小さな大名の地位を継いだ織田信長は、銭で傭う兵を設け、誰でも商いのできる楽市楽座を進め、自分一人の判断で政治を行うようにした。兵農分離、貨幣経済、独裁政治の三つを柱とする新しい仕組みである。古くからの習慣や身分を大切に思う人々は、これに反対、信長の敵になった。だが、信長は挫けず、新しい仕組みの利点を活かして鉄砲や築城の技術を取り入れて強力な軍隊をつくり上げた。このため、天正十年初夏には、織田信長の領地が天下の半分を占めるまでになっていた。天下統一を急ぐ信長は、有能な人材を抜擢して各方面の大将とし、その下に大小の大名を付ける組織をつくった。北陸は柴田勝家、関東は滝川一益、中国は羽柴(豊臣)秀吉、新しくはじめる四国攻めには丹羽長秀、といった具合だ。図は「本能寺の変」直前の織田信長とその相手方を描いたものである。
そんな中で、明智光秀だけは持ち場がない。手柄を立てたい光秀は、不満だった。古い伝統や人脈を尊ぶ常識的な「人」光秀には、合理性に徹した改革を進める信長が「鬼」のような独裁者に見えた。天正十年五月、中国攻め総大将の羽柴秀吉は、備中(岡山県)高松城を攻めた。毛利方も高松城を助けようと総力を挙げて出陣してきた。それを知った織田信長は、自ら出陣すべく安土から京都に入り、僅かな供廻りだけを連れて本能寺に宿泊した。一方、信長出陣の先駆けを命じられた明知光秀は、丹波亀山(京都府)で一万六千人の軍勢を揃え、中国に向かうと称して出発したが、途中で方向を変えて本能寺を急襲、あっという間に織田信長を討ち取った。世界の歴史にも珍しい劇的な事件である。」

2枚目は「青木葉谷展望台」にあります。

「秀吉の中国大返し 勝負を決めた判断と行動
天正十年六月二日(新暦一五八二年七月一日)未明、明智光秀は京都本能寺に織田信長を襲撃、近くの二条城に居た長男の信忠と共に討ち果たした。その頃、織田家の有力武将は、遠く離れたそれぞれの持場で強力な敵と相対していた。羽柴(豊臣)秀吉は、はるか西の備中(岡山県)にいた。秀吉は雑用人として織田信長に仕えて以来二十数年、機転と勇気で様々な手柄をたてて出世。五年前に強敵毛利家と戦う中国攻めの総大将に任じられてからは、才気とねばりで大きな戦果を挙げた。天正十年五月、秀吉は、いよいよ毛利家に止めを刺すべく山陽の要衝、備中高松城を攻め、水攻めの奇策によって陥落寸前にまで追い詰めた。毛利方も高松城を見殺しにできず、全力を挙げて救援にきた。それを知った信長は、自ら出陣、一気に毛利勢を撃滅することにした。秀吉は、主君信長の天下統一が間もなく完成すると信じていた。
ところが、六月三日の夜、その信長が京都本能寺において明智光秀に殺害されたことを知らされた。光秀の使者が闇夜で道を誤り、毛利方に届ける書状を持って秀吉の陣に迷い込んだのだ。秀吉は主君の死を悼んで大声を上げて泣いた。だが、すぐ次には直ちに上方に駆け戻り明智光秀と天下を賭けて戦うことを決断、夜明けまでに毛利方との和睦を成り立たせた。翌五日を和睦の儀式や兵糧の撤収に費やした秀吉は、六月六日、中国街道を駆けぬけ、二日後には約七十キロ東の姫路城に戻った。世にいう「秀吉の中国大返し」である。季節は梅雨時、雨が降り続いて行軍は難渋したが、秀吉軍は姫路で軍備の点検に一日を費やしただけで東に進み、六月十日には早くも摂津の尼崎に到着した。羽柴秀吉が瞬時にして下した的確な判断と迅速な行動、それによって天下争覇の勝負は決した、といえるだろう。」

3枚目と4枚目は旗立松展望台のところに並べて設置されている。

「頼みの諸将来らず 明智光秀の誤算
本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将はみな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。ところが、羽柴(豊臣)秀吉が毛利と和睦、十日目の六月十日(新暦七月九日)には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江(滋賀県)から京都に戻り、翌十一日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ。明智光秀は、恐ろしい「鬼」の信長さえ討ち果たせば、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。だが、そうはならず、あてにしていた組下大名たちも離れていった。親類の細川藤孝や筒井順慶も来なかった。光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済と技術を発展させた織田信長は、豪商から庶民にまでに人気があった。このため「主君の仇討ち」を旗印とした羽柴秀吉の方に多くの将兵が集まった。
六月十二日、空しく洞ガ峠を降りた明智光秀は、一万六千人の直属軍を天王山の東側に扇形に布陣させた。当時は淀川の川幅が広く、天王山との間はごく狭い。兵力に劣る明智方は、ここを出て来る羽柴方の部隊を各個撃破する作戦だった。同じ日、羽柴秀吉は摂津の富田に到着、花隈城主の池田恒興、光秀の組下だった茨木城主の中川清秀や高槻城主の高山右近らも参陣した。四国攻めのために和泉にいた信長の三男の信孝や丹羽長秀も加わった。総勢三万数千人、明智勢の二倍以上だ。
翌十三日、羽柴方の先手の中川清秀と高山右近が天王山と淀川の間を越えて東側に陣を敷き、秀吉の弟の羽柴(豊臣)秀長もこれに続いた。明智方はじっとしていられない。申ノ刻(この季節なら午後四時半頃)、天下分け目の決戦ははじまった。この日、空は雨雲に覆われて暗く、地は長雨を吸って黒かったという。本図は、決戦直前の両軍の北側から見下ろした構図。画面右側に羽柴方が、左側に明智方である。」

「天下分け目の天王山 勝負は川沿いで決まった
「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっている。しかし、実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった。天正十年六月十三日(新暦では一五八二年七月十二日)申ノ刻(午後四時半頃)、天王山の東側に展開した明智勢が、羽柴(豊臣)秀吉方の先手、中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊に攻めかかった。天王山と淀川の間の狭い道を出て来る羽柴方を各個撃破する作戦である。だが、戦いは明智光秀の思い通りには進まなかった。天王山の東側には油座で知られる山崎の町があり、その東側には広い沼地が広がっていた。この地形が双方の行動を制約、斎藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智方の猛攻でも、羽柴方の先手を崩すことができなかった(画面右下)。
その間に、淀川沿いでは羽柴方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が進攻、円明寺川の東側にも上陸した。川沿いの明智方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った(画面上方)。羽柴秀吉が本陣の大部隊と共に天王山の東に出たのは、合戦がはじまって半刻(約一時間)ほど経った頃だ。この図はその直後の戦場を、北から南向きに描いている。画面左側の水色桔梗の幔幕に囲われた光秀の本陣では、後退する味方の様子に不安な気分が現れている。右側の秀吉の本陣では勝利の確信が拡がり、貝を吹く足軽まで自信と勇気に溢れている。画面右上では、参陣の遅れた丹羽長秀が山崎の木戸を通り過ぎようとしている。天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わった。破れた明智光秀は勝龍寺城(画面左側)に逃げ込んだ。その頃、秀吉は天王山に登って戦場を見下ろしたかも知れない。闇に包まれた戦場跡には、負傷者を援ける松明が無数に揺れ動いていたことであろう。」
(ここに新暦では7月12日と書かれている)

5枚目は酒解神社の三社宮横にあります。絵は、竹薮で光秀にむかって竹槍を突き出す落ち武者狩りを描く。

「明智光秀の最期 古い常識人の敗北
天下分け目の合戦は、一刻半(約三時間)ほどで終わった。明智勢は総崩れとなり、総大将の明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。だが、ここは小さな平城、到底、羽柴(豊臣)秀吉の大軍を支えることはできない。明智光秀は、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。坂本城は明智家の本拠で光秀の妻子もいた。しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。当時は、普通の村人でも落ち武者狩りに出ることが珍しくなかった。光秀を刺したのも、そんな落ち武者狩りの一人だった。享年五十五歳、当時としては初老というべき年齢である。
これより十五年前、足利義昭の使者として織田信長と相まみえた明智光秀は、詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われて織田家の禄を食むことになった。それからの出世は早く、僅か四年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて織田家屈指の有力武将にのし上がった。織田信長と将軍になった足利義昭とが不和になった際には、いち早く信長方に加担、細川藤孝らの幕臣を口説いて信長方に転向させた功績が信長に高く評価されたのだ。だが、光秀は、信長の改革の過激さに反発を感じ出した。古い常識にこだわる知識人の弱さ、というものだろう。
一方、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、時を移さず明智光秀の領地を占領、丹羽長秀や池田興恒ら織田家の重臣たちを配下に加え、「次の天下人」への道を駆け登る。この間、織田家の他の重臣たちは容易に動けなかった。みな前面には強敵がいたし、背後では土一揆が蜂起した。信長の死と共に、織田領全体に混乱が生じていたのだ。世はいまだに乱世、将も民も、野心と危険の間で生きていたのである。」

最後は山頂の本丸跡にあります。絵には秀吉と大阪城、茶の大家の千利休が描かれている。

「秀吉の「天下への道」はここからはじまった
山崎の合戦で明智光秀を破った羽柴(豊臣)秀吉には、織田信長に代わる「次の天下人」との期待が集まり、織田家の家臣の大多数も、秀吉の命令に服するようになった。これに対して柴田勝家は、滝川一益らと組んで信長の三男の神戸信孝を担ぎ、秀吉の天下取りを阻もうとした。しかし、丹羽長秀や池田恒興らと結んで次男の北畠信雄を取り込んだ秀吉の優位は揺るがず、翌天正十一年(一五八三年)四月の賤ケ岳(滋賀県)の合戦は、秀吉の圧勝に終わった。柴田勝家らに勝利した秀吉は、天下統一の象徴として、大坂の地に巨城を築いた。天正十一年に着工したこの城は、天下の政治を行う天下城、つまり首都機能の所在地だった。秀吉は城の縄張りを黒田官兵衛孝高に、襖絵を狩野永徳一門に、接遇演出は茶頭の千宗易(利休)に委ねた。信長は美意識の面でも独裁者だったが、秀吉は専門家の意見を尊重した。
秀吉は、過激な改革を目指した信長とは異なり、有力大名には元からの領地を残しつつ自分の政権に編入する方針を採り、毛利輝元や上杉景勝らとも和睦して天下統一を急いだ。信長が絶対王制を目指したのに対して、秀吉は中央集権と地方分権を組み合わせた封建社会を築こうとしたのである。やがて朝廷から豊臣と姓を頂いた秀吉は、関白、太政大臣になり、天正十八年(一五九〇年)の小田原の役によって天下統一を完成する。秀吉は、政治的に天下を支配しただけではなく、経済の面でも大坂を中心とした物資と金銭の流通を把握した。文化の面でも茶道や囲碁将棋などに全国的な家元制度を芽生えさせた。これらは徳川幕府に引き継がれ、日本独特の「型の文化」を創り出すことになる。秀吉のきらびやかな天下。――それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。」

 宝積寺は(ほうしゃくじ)  



登山口から少し入ると、右に入る道が見える。右に入れば、1枚目の陶板絵図、アサヒビール大山崎山荘美術館前を通り、宝積寺の先で合流する。美術館に寄る予定はないので直進します。下山時に右のコースに入り、陶板絵図を撮るつもり。

この道は宝積寺への参道なのでしょうか?。登山道にしては、広くてよく整備されている。

やがて右側に仁王門(京都府登録有形文化財)が現れる。阿形、吽形二体の木造金剛力士立像が出迎えてくれます。

★歴史
寺伝では神亀元年(724)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。しばらくして本尊・大黒天神を天竺(インド)から招いて祀ったという。行基(ぎょうき、668-749)は奈良時代の僧で諸国を巡り、民衆教化や造寺、池堤設置、架橋などの社会事業を行い、行基菩薩と称された。東大寺の大仏造営にも関わった人。平安時代の寺史はあまり明らかでないが、長徳年間(995~99)、寂照が衰退していた当寺を中興し、室町初期には八幡宮油座からの寄進も多くあり寺運は大いに盛り上がった。さらに嘉慶3年(1389)には定額寺にも列し、多くの子院をもつに至る。
天正10年(1582)、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いでは宝積寺に秀吉の本陣が置かれた。戦いの後、秀吉は天王山にあった城跡を大改築して山崎城を築城し、宝積寺をも城内に取り込んだ。このため城は「宝寺城」とも呼ばれた。宝積寺は別名「宝寺」とも呼ばれていたからです。しかし大坂城が完成すると、秀吉は本拠をそちらに移し山崎城は廃城となる。
幕末の元治元年(1864年)には禁門の変で尊皇攘夷派の陣地が置かれたために幕府軍の攻撃で戦禍を蒙り境内が荒廃した

仁王門をくぐると、左手に鐘楼「待宵の鐘」が、右手に三重塔(国指定重要文化財、総高約20m)が見えてくる。三重塔には「豊臣秀吉 一夜之塔」の札が立つ。秀吉が山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したと伝わっている。ただWikipediaには「慶長9年(1604年)建立。本瓦葺、総円柱、大日如来坐像が祀られている。豊臣秀吉が一夜で建てたという伝説があるが、この時代秀吉はすでに故人である。」と書かれているのだが・・・。
三重塔の脇に「殉国十七士墓」と刻まれた石碑が建っている。現在、真木和泉を中心とした尊皇攘夷派の十七士の墓は天王山山頂近くにあるのだが、当初はこの三重塔前に埋葬された。ところが参拝者が多く香華が絶えなかったという。そこで幕府は近くの竹藪にうち捨てるように埋め直した。4年後、時代は大きく転回します。幕府を倒した明治新政府は、山頂近くに手厚く葬り直し、ここ三重塔横に石碑を建てたのです。

階段を登ると、正面に本堂が、右手に閻魔堂がたたずむ。本堂の内陣には本尊の木造十一面観世音菩薩立像(重要文化財、像高160.9cm)が祀られている。「当寺は、木津川・宇治川・桂川の三川合流を望む天王山中腹にあり、延暦三年洪水にて橋が流出したとき、一人の翁が現れ水上を歩くと神通自在の下、見事橋が復元されました。一条の光明と共に当寺厨子内に至られました。以来、当寺の本尊十一面観世音菩薩が翁に化身されて、橋を掛けられたとの評判がたち、橋架観音と呼ばれるようになりました。」(公式サイトより)
閻魔堂には閻魔王坐像(重要文化財)とその眷属像が配置され、地獄の法廷が再現されているそうです。閻魔堂拝観は有料(400円)です。

本堂前に柵で囲われた「出世石」が置かれている。山崎の戦いの時、秀吉がこの石に腰を下ろして采配を振るったという。奥に見える九重石塔は、鎌倉時代に建立された聖武天皇の供養塔です。

本堂左横にあるお堂の扁額には「小槌宮」とある。聖武天皇は即位前、夢に出現した龍神に「打出」と「小槌」を授かり、それへ祈願すると天皇に即位できた。宝積寺が建立されると打出と小槌を奉納し、大黒天神を印度より招き祀ったという。打出の小槌は、七福神の一神とされる福の神大黒天が所持している宝物で、振れば出世、福徳、財徳を授けてくれると言われています。ここから宝積寺は別名「宝寺」「大黒天宝寺」とも呼ばれ、また秀吉が山頂に築いた山崎城は「宝寺城」とも称された。お堂正面上部の庇の下に、宝船が彫刻されています。

 青木葉谷(あおきばだに)展望台  



宝積寺本堂の右手奥に天王山山頂への案内があります。傍に、ご自由にお使いください、と竹の杖が置かれている。こんなの必要ないだろうと強がったが、後で後悔した。片手だけでも杖の支えがあれば、少しは楽だったのですが。この杖は、宝寺口(ここ)、小倉神社口、観音寺口のどれかに返せばよいようです。

ここから本格的な山登りが始まります。傾斜はそれほどきつくないのだが、でこぼこ道に石がごろごろ、久しぶりの山登りなので体に堪えます。丸太で階段状に整地されているのだが、これを踏み越えて登るのはかえって辛く感じた。

登山道に沿って一本のレールが敷かれている。上へ用材、機材を運ぶものかと思ったが、後で調べるとタケノコ搬出用のレールでした。大山崎町はタケノコの産地として知られるようです。

この近辺、竹林が多く見られる。散策マップには「竹林のこみち」というスポットも載っています。京都南部は竹の名産地として有名のようだ。以前、天王山の向かいにある男山石清水八幡宮に初詣したとき、境内にエジソンの大きな顕彰碑が設置されていたので驚いたものです。1879年に炭素白熱電球を発明したエジソンは、さらに長時間輝き続ける材料を世界中から探し続けたという。紙や糸、植物の繊維など数々の材料からフィラメントを作り電球の試作を試行錯誤しながら繰り返した。その結果、たどり着いたのが京都南部の真竹だったそうです。

ようやく「青木葉谷(あおきばだに)展望広場」にたどり着きました。この広場には2枚目の陶板絵図「秀吉の中国大返し~勝負を決めた判断と行動~」が設置されている。
ここは六合目付近にあたるようで、休憩するのにちょうど良い。これくらいで休憩する必要などないと、先へ進む人もいるが。

桂川、宇治川、木津川が合流し淀川となって大阪平野を流れてゆく様子が一望できる。やや曇っているので大阪市内までははっきり確認できないが、天気が良ければ、あべのハルカスや大阪城まで見えるそうです。

 旗立松展望台(はたたてまつてんぼうだい)  



青木葉谷展望台を出て、また山登りです。かなり疲れてきました。
酒解神社の鳥居が見えてきました。旗立松(はたたてまつ)展望台に到着です。鳥居手前に「山崎合戦之地」の石碑が建ち、戦いの概要が説明されている。しかし実際の戦闘の地は山裾の湿地帯で、天王山そのものは戦いの場にはなっていません。



鳥居と石碑との間に「旗立松」があります。合戦の時、秀吉がここの松の上に千成瓢箪の旗印を掲げ、山麓を進軍する秀吉軍を鼓舞したと伝えられている。その旗立の松はどれだろう?。
傍の説明版は「この逸話は、同時代史料に残っておらず、伝承の域を出ません」とそっけない。






鳥居右手に、展望のための台場が組まれ、青木葉谷展望台とは別の方向の景観になる。秀吉軍と光秀軍が対峙した古戦場の地が一望できるが、高速道路が縦横に走り、新幹線、工場群などでかっての様相を想像することさえできません。

桂川(写真右側で見えない)西側。かって湿地帯で、小泉川(画面下部を左右に流れているが、写真では樹木で隠れ見えない)を挟んで両軍がにらみ合ったという。現在は全く様相が変わってしまっている。画面中央に名神大山崎ICTが入り組み、上下に通るのが名神高速道路、中央を左右に通るのが京都縦貫自動車道。「山崎合戦古戦場」の石碑が建つ天王山夢ほたる公園は写真左下で、樹木で隠れ見えない。

鳥居の奥に、3枚目と4枚目の陶板絵図が並んで設置されている。左側には休憩所が設けられ、大きな写真が掲示されています。桂川、宇治川、木津川の三つの川が合流するのがよく分かり、対岸の石清水八幡宮のある男山も良く見えている。ところが現在樹木が生い茂り、写真の景観は全く見えません。何故見えなくしたのでしょうか?。向かいの男山と肖像権でケンカでもしたのでしょうか?。天王山は三川合流点がウリのはずなのですが・・・。

 十七烈士の墓  



旗立松展望台で一休みした後、また山登りです。かなり足が重くなってきて、なぜか17年ほど前の富士山登山が思い出されてきました。3歩登って3分休憩、の繰り返しだった。その時よりも体重は増え、年の数も増えてきた。山はこれが最後だろうな・・・。

分岐道の標識が建っている。左の階段を登ると十七烈士の墓を通り、天王山山頂への近道らしい。この真下には、名神高速の天王山トンネルが通っています。

27段の階段を登ると広場で、奥に十七烈士の墓地が、左が休憩所となっている。

幕末の京都、長州藩を中心とした尊皇攘夷運動が激化する。手を焼いた幕府、朝廷の公武合体派は会津や薩摩の藩兵を使い、長州藩とそれにつながる公家を京都から追放する(文久3年(1863)の八月十八日の政変)。
翌年、長州藩は天皇に直訴し失地回復をはかろうと京都に出兵します。元治元年(1864)7月19日、御所の蛤御門で会津藩兵と激突する。これが「蛤御門の変(禁門の変)」です。薩摩藩兵の加勢によって長州藩は総崩れになり退却を余儀なくされます。国元へ撤退する長州軍の最後尾を務める真木和泉以下17名は、追撃する新選組と戦った。「真木は最後まで付き従った十六名と天王山中で郡山藩兵、新選組と一戦を交えた後、山中の小屋で火薬に火を放って爆死を遂げたと言う」(現地説明版より)

17名の「遺体は宝積寺三重塔前の地に埋められたが、遠近よりの参拝者が多く、香華常に絶えず、之を見た幕府方は、その屍を竹林中に移埋した。」(休憩所の説明版より)
4年後、時代は大きく転回します。幕府は倒され、長州藩、薩摩藩を中心とした明治新政府が成立する。賊徒、朝敵と呼ばれた17名は一転、維新の功労者、殉国烈士となり、贈正四位となった。打ち捨てるように埋められた竹藪から、天王山山頂近くの現在地に手厚く改葬され、立派な墓が建てられた。毎年10月21日には十七烈士のご子孫、地元有志らにより慰霊祭が行われています。

中心の墓碑には「烈士墓表」と刻まれ、その下に殉死した17名の姓名が刻まれています。裏には「明治元年戊辰九月建」とある。この墓碑を囲むように三方に17名の墓が並ぶ。真木和泉の墓は裏側の列の真ん中に立っている。

十七烈士の出身藩をみると長州藩士は一人もおらず、土佐藩、久留米藩、筑前藩、肥後藩、宇都宮藩となっている。リーダーの真木和泉(1813-1864)は久留米藩水天宮の神官だった。早くから江戸、水戸に遊学し尊王攘夷運動に共鳴すると、脱藩し長州藩に身を寄せていたのです。他の烈士も自藩を去り長州藩に共鳴し加勢していた者たちです。最後に、世話になった長州藩の退却を助け、自ら命を断っていった。

 酒解神社(さかとけじんじゃ)  



十七烈士の墓から酒解神社にかけては平坦な道が続く。歩いていると左手に酒解神社の末社・三社宮が見えてくる。祭神は、天照大神・月讀大神・蛭子神と書かれている。三社宮の横に5枚目の陶板絵図が設置されています。

登山道を跨ぐように酒解神社の社殿が現れる。階段上の左右に一間高くらいの石柱が建つが、これは鳥居の残滓でしょうか?。

奈良時代には既にあったと伝わり、大山崎周辺で最古の神社とされているが、その歴史はよく分からないのでWikipediaの説明をそのまま載せておきます。
「創建の由緒は不詳であるが、養老元年(717年)建立の棟札があることから奈良時代の創建とみられている。旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、官幣名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預ると記されている。
その後、自玉手祭來酒解神社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていた。現在の自玉手祭来酒解神社は、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」であった。天王山は元は山崎山と呼んでいたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになった。明治10年6月、山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称した。現在の祭神・大山祇神はそのときに定められたものである。」

登山道に覆いかぶさるのは拝殿らしい。正面が本殿です。拝殿内部を見ていると、人が住み手入れをしている様子がなく、見捨てられた神社のように感じられる。

拝殿に比べ、本殿は銅板葺き屋根のかなりしっかりした構えをしている。欄間や蟇股の彫刻も立派で、国の登録有形文化財に指定されています。旧本殿は文化10年(1813)に火災で焼失したため、文政3年(1820)に再建された。大山祇神を主祭神とし、素盞嗚尊を相殿に祀っている。素盞嗚尊は、旧天神八王子社の祭神・牛頭天王と同一とされる。「天王山」の名の由来となった神様です。
なお正式名称は「自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)」。

社殿前の左側、一段高くなった所に国の重要文化財に指定されている神輿庫が建つ。フェンスで囲われ近づけない。
「一般によく用いられる三角形の木を積み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。この板倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新しく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である」(傍の説明板より)
鎌倉時代中期の建立で、文化10年(1813)の火災でも難を逃れた。庫内には室町時代以前作という神輿2基が納められています。

 天王山山頂(山崎城跡)  



酒解神社の拝殿をくぐり抜けて、また山道を登ります。丸太の階段、ゴロ石などあるが、中腹辺りに比べそれほどきつくありません。頂上が近いと思うと元気が出てきます。

分岐道です。標識に従い天王山山頂へは左へ登る。右の道は「小倉神社・柳谷方面」となっています。

荒れた道を少し登ると、ようやく山頂の広場に到着。ちょうど昼過ぎ、数組のハイカーがいて食事中でした。

天王山は、西国、大阪と京都を結ぶ交通の要所を見下ろす戦略上の重要な場所。そのため古来より、山上一帯には度々砦や小規模な城が築かれてきた。ここに本格的な城を築いたのは秀吉です。天正10年(1582)6月、光秀との戦いに勝利し、清州会議をへて織田信長の後継者となる。しかし信長の筆頭家老だった柴田勝家が反対の動きをします。それに対抗するため天王山に「山崎城」を築き、備えた。城域は山麓まで広がり宝積寺まで取り込まれ、宝積寺の別名「宝寺」から「宝寺城」とも呼ばれた。
天正11年(1583)4月、「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を破り確実に天下を取ると、天下人に相応しい本格的な城郭「大阪城」を築き、本拠地とした。そうなるとここ山崎城は不要となり、天正12年(1584)に廃城となり取り壊されました。

説明版に載っていた山崎城跡の図面。山頂の広場は、図面の「主郭」にあたる。虎口bを経て虎口aから山頂広場へ入ってきたようだ。

広場の北側は一段盛り上がり、石垣に使われたような石が転がっています。ここは天守台の築かれていた場所で、「天王山山頂 標高二七0・四メートル」の標識が建っている。「天下分け目の 天王山」と書かれた旗が一本だけ風にはためいている。


天守台跡から眺めた広場の南側。広場は樹木に囲まれ視界が遮られ見晴らしはできない。ただ一ケ所、この南側だけは木立の間から遠くが見通せるようですが、実際にはそれほどの眺望ではありません。。
一本の季節外れの紅葉の木が殺風景なこの広場に風趣をそえています。

天守前の広場から、さらに西側へ一段降りるとそこも広場になっている。西の丸でもあったのでしょうか。この広場の南方に、山崎城の井戸跡が柵で囲われ残されています。説明版に「本来は地上部に木製の井桁が組まれ、水を汲み上げるための釣瓶もあったと思われますが、城の廃城とともに失われたと考えられます。完成当時の深さは不明ですが、三十年程前(1980)には五メートル程度の深さでした。山頂に掘られた井戸であることから地下水が湧き出るとは考えられず、雨水を溜めて利用していたのではないかと思われます」とある。

西の広場からさらに西側の斜面を降りてみると、わずかな石垣の残骸と土塁らしき形状が見られます。この石垣を見る限り、本格的な城というより、急ごしらえな城郭だったように感じる。
その他、土塁、空堀、食い違い虎口、石垣などの残滓が残っているかもしれないが、急斜面で道もなく探すのは容易ではありません。

12時半、下山します。登山口から2時間ほど経過。ゆっくり、のんびり、こんなものでしょう。


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六甲全山縦走(三日間) 5

2018年04月16日 | 山登り

2017年11月 三日間かけてですが六甲全山縦走に挑戦した時の記録です。今回は三日目(11月24日(金))、記念碑台から終着地・宝塚まで。

 記念碑台(きねんひだい,標高795.6m)  



六甲全山縦走の三日目(11月26日、金曜日)早朝,阪神御影駅から阪急六甲経由し六甲ケーブル下駅に着く。7時40分発のケーブルに乗車し、山上駅に着く。記念碑台まで歩けないことはないがバスを利用します。

前回(11月16日)の夕方に一度来ている記念碑台の交差点。今日改めて、記念碑台を探します。写真に見える六甲ガイドハウスは、まだ早朝なので閉まっています。さて、記念碑台はどこだろう?

六甲ガイドハウスの横に上へ登る階段が見えます。そして階段登り口には「↑六甲山自然保護センター」の標識だけが建っている。ところが階段の側面にまわると記念碑台の案内図が掲示されているではないか。それによると階段を登るようになっているのです。バス停や交差点の名前に使われている”記念碑台”なので、もう少し判りやすい位置に標識なり案内図を設置して欲しいものです。しかし後でよく考えると、記念碑”台”なので台上を想定すべきでした。

朝8時20分、階段を登ると休憩所,展望台も兼ねた広場となっている。広場の中央にはアーサー・ヘスケス・グルーム(1846-1918)の記念像が建つ。彼は英国人貿易商で,神戸に居留しながら六甲山の開発を行った。私費を投じて六甲山の植林や登山道整備を行い、山上に多くの別荘を建て,「六甲山村長」と呼ばれたそうです。
六甲山開発の祖として彼の偉業を称え,「六甲開祖之碑」が明治45年(1912)6月に建てられた。しかし第二次世界大戦中に敵国人の碑だとして取り壊されてしまいました。戦後,昭和30年(1955)に碑は再建され,同時にグルームの胸像も建てられた。
広場の奥の建物が六甲山自然保護センターで、休憩所,展望台も兼ねている。

 神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場  



記念碑台から降り、交差点に戻る。これから神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場を経て、六甲山ガーデンテラスを目指します。
交差点からドライブウェイを東側へ100mほど歩くと右側に入っていく道が見えます。標識に,この道はゴルフ場,六甲山小学校,六甲全山縦走路へ,と表示されている。
入っていくとすぐ六甲山小学校です。小学校の横を通って,幾つか分岐路があるが標識に従い進む。

やがて道の両側にネットが張られ,ネット越しにゴルフ場が見えてきました。神戸ゴルフ倶楽部とあります。
神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場は、アーサー・ヘスケス・グルームが開設した日本最初のゴルフ場。そのクラブハウスは近代化産業遺産に指定されている。
六甲全山縦走路はこのゴルフ場のど真ん中を縦断するように通る。どこから球が飛んでくるのか分かりません。そのためネットが張られているのです。別荘やゴルフ場,私には縁の無い世界だ。


防球ネットは両側だけでなく,頭上にも覆われてきた。これから数百m防球ネットのトンネルが続きます。防球ネットのトンネルの中にも,しっかりと六甲全山縦走路の標識が設けられている。迷うことのない一本道なのだが。

トンネルから抜け,防球ネットも少しずつ減ってきた。平坦な山道を進むと右側に車道が見えてきた。登山図で確認すると「サンライズドライブウェイ」となっている。ドライブウェイを左側へ進んで行くと、ドライブウェイは左に大きくカーブする。ドライブウェイを左に曲がってゆけば、六甲高山植物園やオルゴールミュージアムに行けるようです。六甲山ガーデンテラスへは正面の少し細い道を進むようにとの標識が立つ。標識に従い、正面の道に入り六甲山ガーデンテラスを目指します。

 六甲山ガーデンテラス(高度は870mほど)へ  




山道に入ると平坦な道が続き、この辺りは登山でなくハイキング気分。時々覗き見える阪神間の市街や大阪湾の眺望も楽しめます。
右側にみよし観音の像が現れました。この像は、ミス京都、準ミスワールドにも選ばれたことのあるスチュワーデスを観音様として祀った像です。説明板を紹介すると「昭和39年2月18日雪の朝、スチュワーデス麻富美代子(京都市出身)の搭乗機が徳島に向って大阪国際空港を飛び立って間もなく遭難した。美代子は沈着冷静よく7人の乗客を救出し、最後の一人を助けようとして爆発にあい、猛災の中に”お母さん~”の一語を残して殉職した。21歳であった」

みよし観音を過ぎ、ちょっとした坂道を登りきると、前方にドーム状の建造物が見えてきた。六甲山ガーデンテラスに到着したらしい。六甲山ガーデンテラスは飲食店やお買い物ショップが並び、展望所も備えたエリアで、特に入場料など必要としない。広い駐車場が完備しているので、大型バスやマイカーで来る人が多いと思われます。現在、9時20分なので人影は少ない。

早朝なので飲食店やショップの多くは閉まっています。展望だけを楽しむことにしました。六甲山の最上部に近いだけあってここからの眺望は素晴らしい。六甲山ガーデンテラスには3ケ所のビュースポットがある。一つはこの「見晴らしの塔」と呼ばれる、高さ11mほどの展望塔。ヨーロッパの小城のような佇まいで、60段のらせん状階段を登った最上部が展望所です。

「見晴らしの塔」のすぐ南側は「見晴らしのテラス」と呼ばれ、階段状になっており、休憩場を兼ねた展望台になっています。ここで寛ぎながら食事をするのもよいですね。この時期は少し寒いですが。

神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場が、遠くには明石海峡大橋、淡路島が望まれます。

このドーム状の建造物はパンフによれば、六甲山のランドマーク「自然体感展望台 六甲枝垂れ」となっている。六甲山上に立つ樹木をイメージするため、展望台全体をフレームで覆ったという。だから”枝垂れ”なのでしょうか?。そのようなイメージは全く浮かばないのですが・・・。展望台にも見えないし、枝垂れ桜をも想起させない。ともかく入ってみることに。入口の受付小屋で入場料300円取られます。
登っていく坂道の両側には、何かが表現されている。これはアート作品なのでしょうか?。お花畑にしたほうが、よっぽど自然体感できるのですが。ドーム内からは360度パノラマ展望ができるが、せっかくの眺望をフレームが遮っている。違和感展望台でした。

六甲山ガーデンテラスの中心部。飲食店や雑貨店などのショップが並び、その背後が展望所となっている。ここは「見晴らしのデッキ」と呼ばれている。六甲枝垂れのように入場料を取られることもありません。昼間より夜間のほうが人出が多いいのかもしれない。なにしろ「百万ドルの夜景」と呼ばれ、函館、長崎と並んで日本三大夜景なのだから。
左側は広い駐車場で、マイカーや大型バスが出入りしている。私のように歩いてくる人は稀で、ほとんどの人が車やバスの利用と思われます。六甲全山縦走路は、中央を貫くこの車道を奥へ進み、突き当りを右折する(写真では、大型バスの向こう側)。

 極楽茶屋跡(標高約864m)へ  



六甲山ガーデンテラス奥の突き当たり。左側へ折れて、少し歩くと裏六甲の有馬温泉へ通じるロープウェイ駅。
六甲全山縦走路は、緑のフェンスに沿って右への小道に入る。極楽茶屋跡を経て六甲最高峰を目指します。

標高800mの尾根を歩く。坂道などほとんど無い。一本道なので迷うことも無い。晩秋の清々しい陽光を浴びながら東へ進みます。「←六甲最高峰 2.5km ガーデンテラス 0.1km→」の標識が建つ。

尾根筋なので視界を遮るものはありません。阪神間から大阪方面が眺められる。

峠らしき所を越えると、下りになる。ドライブウェイに出ます。何の案内も掲げられていないが、地図を見ればここが極楽茶屋跡らしい。自動販売機が設置されているので、飲料水を調達する。ドライブウェイを左に行けば、六甲山人工スキー場へ。六甲最高峰へ、即ち六甲全山縦走路はこのドライブウェイを右に折れる。

 六甲最高峰めざして  



ドライブウェイを歩いているとすぐ左側の山中に入っていく階段が見えます。その脇に「六甲最高峰→」の標識が建っている。ドライブウェイを横断し階段を登る。なだらかな山道を10分ほど歩くと、またドライブウェイに出る。

こうした風景を見ていると、鳥になって飛んでみたくなります。
山道からドライブウェイへ、そしてすぐ山道へと何度も繰り返されます。

こうして六甲全山縦走路は、ドライブウェイを何度も跨ぎながら進んで行く。実際は、六甲全山縦走路が先にあり、それを股裂きするように後からドライブウェイが造られたのです。手持ちの登山図で確認すると、このドライブウェイは六甲最高峰近くの一軒茶屋へ通じている。ですから六甲全山縦走路の山道を歩かなくても、広く平坦なドライブウェイを歩いていけばよいのだが、そういう訳にもいかないので・・・。


 六甲最高峰(931m)  



11時45分、ようやく六甲最高峰の傍までたどり着きました。前の舗装路を左に登ればすぐ六甲最高峰です。右に降ってゆけば一軒茶屋があります。

電波塔の横が広場になっており、真ん中に標識「六甲山最高峰 931m」が建っているだけ。正確には現在海抜931.25m。平成7年(1995)1月の阪神大震災で12cm高くなったそうです。
最高峰なので絶景を期待するがそれ程ではありません。

六甲最高峰を後にし、坂道を降る。この坂道での景観が良い。ススキ越しに見える阪神間から大阪方面の眺めがすこぶる絶景なのです。
坂道を降りると、ドライブウェイと建物が見えてくる。この建物が一見茶屋で、中は広い食堂となっている。温かいうどんを頂きました。平日ですが、開いていました。六甲最高峰に達した満足感に浸り、一服するのにちょうど良い。トイレは一見茶屋から数十m離れた場所にあります。

 石の宝殿へ 


六甲最高峰を過ぎると見るべきものはありません。ただひたすら宝塚めざして歩くだけ。といっても六甲最高峰~宝塚間は、六甲全山縦走路の全行程の4分の1を占めている。この行程をカットしたいが、それでは六甲全山縦走とはならないので、我慢してあるきます。救いは、海抜48mの宝塚まで降るだけということ。
一見茶屋からドライブウェイを200mほど歩くと右へ入る小道に出会う。これが六甲全山縦走路のようです。

山道を歩くと、すぐにドライブウェイにでる。トンネルが現れる。数十mの短いトンネルで、「鉢巻山トンネル」となっている。

トンネルを出ると、右手に坂道がみえ、石の鳥居が建つ。鳥居には額「石宝殿 白山の宮」が掲げられている。ここが「六甲山」の名前の由来となった神社のようなので、寄ってみることに。
白い拝殿らしき建物の背後に本殿が見える。中に入ることはできません。案内板では「六甲山神社」とあるが、俗に「石の宝殿」と呼ばれているそうです。
伝説では、三韓遠征から帰国した神功皇后が六つの甲を納めた所と伝えられている。遠征中に王子(後の応神天皇)を産みます。その王子が帝位を継ぐことに反対する兄などが謀反を起こします。しかし逆に征伐され首謀者6人の首が兜(甲)とともに山中に埋められた。そこから「六甲山」となったという。

 船坂峠(663m)へ  



石の宝殿から、ドライブウェイに戻り歩く。10分位で左に入る細道が見え、六甲全山縦走路の標識が建っている。これで最終的にドライブウェイともオサラバです。

次の目的地は船坂峠。海抜はほとんど変わらないので楽だ。黙々と歩くだけ。番号「29」の六甲全山縦走路の標識が見えてきました。その脇に「清水谷道」の分岐道を示す標識も建っている。手持ちの地図で確認すると、清水谷を通って裏六甲の舟坂へ降りていく道のようです。そして地図では、この分岐地点が「船坂峠」と記されている。周辺を見渡しても、それらしき案内表示は見つからないが、ここが船坂峠でしょう。現在1時半なので、六甲最高峰から2時間弱かかったことになります。

 大谷乗越(510m)へ  



面白味のない平坦な山道が続きます。視界も開けず、黙々と樹木の間を歩くだけ。すれ違う人もいてない。こんな味気ない山道を好んで歩く人はいないのでしょう。
やがて山道は舗装路に出ます。番号「31」番の標識が建つ。舗装路を左側に進むと無線中継所の電波塔が立つ。電波塔あたりが太平山(681m)の山頂らしいが、何の案内もありません。

時々、こうした景観も楽しめます。

電波塔とは反対側へ舗装路を進む。しばらくは電波塔のための舗装路と思われる道を歩きます。舗装路を歩いていると突然に、六甲全山縦走路は右側の細道に入れとの標識が建つ。これを見逃すとどうなることやら。

山道に入ると、しばらくは平坦な道が続く。途中から急な坂道になります。両側にロープの張られた石の降り階段が続く。

階段を降りるとドライブウェイに出る。よく見ると、ドライブウェイを横断した先に細道が見え、標識が建っている。標識を見れば、この細道が宝塚に至る六甲全山縦走路です。手持ちの地図を見れば、ドライブウェイを横断するこの地点が「大谷乗越」となっています。現在、2時25分。六甲最高峰~宝塚間のちょうど中間地点です。

 塩尾寺(えんぺいじ)へ  


大谷乗越から、次の目的地・塩尾寺を目指す。大谷乗越は海抜510m、塩尾寺は海抜350m、距離は3キロ以上あります。この高低差160mを、ゆっくり時間をかけて降りてゆくのでほぼ平坦な道。視界も開けず、樹林の間をただ黙々と歩くその単調さが、逆にツライです。

今まで見かけなかったペットボトルが捨てられています。昨日(11月23日:勤労感謝の日)、神戸市や市民団体主催の六甲全山縦走大会が行われ多くの人が参加している。終着地・宝塚に近いこの辺りは、夜で真っ暗、その上ランナー達は体力消耗しヘトヘト。その光景が浮かんできます。
須磨浦公園からここまで、よく1日でやって来るものだと感心します。俺は三日かけてもヘトヘト・・・。

平坦な道から坂道に変わってきた。かなり急傾斜の箇所もあり、石コロコロの場所もあります。最後の踏ん張りどころだ。急坂を踏ん張っていると、突然前方にお寺の門標らしきものが現れた。ホットした一瞬です。

3時半、「湖来山 塩尾寺」に到着。大谷乗越から1時間かかった。塩尾寺は”えんぺいじ”と読むそうです。
やっと宝塚だ、と安心するのはまだ早い。






 終着地・宝塚へ  



塩尾寺からゴールの宝塚市内まで、ダラダラと下った舗装路が続く。海抜350mの塩尾寺から海抜50mの宝塚市内まで高低差300m、その距離は1キロ半。六甲全山縦走路の中で、丸山町の住宅抜けに続く最大の難所だ。舗装路の坂道は、足指に体重がかかる。以前、登山靴を使った二上山登山で大変辛い体験をした。その経験から、舗装路のありそうな山里歩きには、登山靴でなく普通の運動靴を使うことにしている。今日も運動靴なのだが、それでも足指が痛い。膝にも負担がきます。

この舗装路は塩尾寺さんへ物資を運ぶための車道だと思われるが、六甲全山縦走路から外して欲しい。どんなに急坂、悪路であってもよいから山道に変えてほしいものです(といっても、二度と来ないだろうが・・・)。

舗装路の坂道は、ほとんど景観が楽しめない。苦痛に耐えながらコンクリートの地面を見下ろしながら歩くだけ。一ヶ所だけ宝塚市内を見下ろせる場所がありました。苦痛が和らいだ一瞬です。

甲子園大学の校舎です。ここからは宝塚市内の住宅街となります。早く、さりげなく一杯やりたいものだ!。

住宅街に入っても辛い坂道はどこまでも続く。ここまで来ると案内標識などありません。これが六甲全山縦走路なのかどうかも分からないが、川に沿って下ってゆけばよいだろう、というカンのみです。
小橋を渡り、反対側に出て少し歩くと広い通りです。大きな橋が見えてきた。宝来橋だ、やっとゴールの宝塚に到着。4時20分、塩尾寺から辛い1時間でした。
武庫川に架かる宝来橋。S字型にカーブした大変美しい橋です。何より植込みで守られた広い歩道がいい。さすが宝塚だ。橋を渡った先が阪急・宝塚駅です。反対側にはあの宝塚大劇場の建物も見える。ショーを観劇するか、さりげなく一杯やるか、もうそんな元気などありません。すぐ阪急電車に乗りました。



詳しくはホームページ

六甲全山縦走(三日間) 4

2018年03月31日 | 山登り

2017年11月 三日間かけてですが六甲全山縦走に挑戦した時の記録です。今回は二日目(11月16日(木))の後半、市ケ原から記念碑台まで。

 布引ハーブ園へ  


市ケ原、桜茶屋を後にして山へ入っていく。ちょっとした坂道が続きます。20分ほど登ると、右側に布引ハーブ園に通じる階段が現れる。ハーブ園に立ち寄ってみることに。
小さな上り下りが続く尾根を5分ほど歩くとハーブ園の建物が見えてきた。
たどり着いた所はハーブ園の裏側のようです。入口を探すがなかなか見つからない。鉄柵が閉められている。鉄柵は踏み越えられるような高さだが、不法侵入のようで気が引ける。しかしよく見ると「ハイキング道出入口」とあり、柵を開いて入ってください、とあります。鉄柵は錠がされておらず、簡単に開きました。

中は遊園地のような雰囲気。レストラン、土産店、展望台などがあります。このハーブ園まで登って来るには三ノ宮の繁華街に近い新神戸近くの神戸布引ロープウェイを使用する。帰りもロープウェイで降りるしかない。この往復のロープウェイ代1400円(片道だけなら900円)が、布引ハーブ園への入園料に該当するようだ。
ロープウェイを利用せず、登山やハイキングで登り、裏から入ればタダで入園できる。ハーブ園にとってはあまり歓迎したくない訪問者なのです。入口が判りづらいのも止むを得ないか。
展望台からは神戸の中心街が間ぢかに望まれる。そして展望台のある最上部の施設から下へ、山腹の中ほどまでがハーブ園として公園となっているようだ。

 摩耶山へ(稲妻坂・天狗道)  



布引ハーブ園であまりユックリしてもいられないので、元の分岐路に急いで戻る。11時過ぎ、これから摩耶山(702m)目指して厳しい稲妻坂、天狗道の登りへ向う。
ここに周辺の案内図と、山の断面図が掲示されている。摩耶山頂上(掬星台)までかなりの覚悟が必要なようで、気持ちを引き締めます。こうした図は非常に助かり、励みになる。しかし六甲山では少なすぎます。
案内図では「神戸布引ハーブ園(有料公園)」とあるが、裏から入り出てゆけば無料公園・・・。

これから摩耶山(702m)への厳しい坂道が続きます。ここからは「稲妻坂」と呼ばれているだけあってかなりの急坂だ。

平坦な道となり,右(東)側から登ってくる登山道に合流する。新幹線の新神戸駅裏からスタートし,旧摩耶道そして学校林道と名を替え,ここまで続いている。この合流点から先が「天狗道」と呼ばれる坂道となる。

学校林道との合流地を過ぎ天狗道に入ると,始めは平坦な歩きやすい道が続く。少し下る所もあります。
神戸の中心街が真下に垣間見えます。

普通の山道から,道が削られ岩盤がむき出しになった道に変わってきました。ゴツゴツした岩場の連続です。加藤文太郎や天狗ならスイスイ登っていくのでしょうが,そうもいかないので岩に手を添え足を踏み上げ,踏ん張りながら少しずつ登っていく。体力的には確かにキツイものがある。しかし単調な急坂よりは,変化に富み刺激があるだけにユックリ登ればそれなりに楽しめるものだ。須磨アルプス以来こうした変化に満ちた岩場はなかった。
六甲山縦走路の中でも最大の難所といわれる天狗道の登りだが,私にはそれほど苦にはならなかった。

天狗道でもこうした景観が楽しめます。

急な岩場も,傾斜がゆるくなってきた。天狗道も終わりだろうか?

最後の岩場を登る。階段を登ると平坦な尾根筋の道となる。12時半、平坦部に出るとテレビ塔が建っている。NHKとFM放送の電波塔らしい。

 摩耶山(掬星台)  


摩耶山上にたどり着いたが、展望台のある掬星台までは少し歩かなければならない。舗装路を歩いていると右手に入る道が見えます。案内表示によれば,摩耶山三角点が置かれているという。脇道に入ってみます。
すぐ紅い鳥居と小さな祠が表れる。祠は天狗岩大神を祀っているそうです。天狗岩は摩耶山の僧が山中に出没する天狗を閉じ込めた岩だそうです。
この祠の裏側に摩耶山三角点が置かれ,「摩耶山頂 標高698.6m」の木札が立っている。

もとの舗装路に戻り,掬星台目指して歩く。左手は紅葉が美しい「摩耶自然観察園」で,花や野鳥が観察できる。その反対側は「麻耶山史跡公園(旧天上寺跡)」です。元々天上寺があった所ですが昭和51年(1976)の火災でほとんどの建物を焼失してしまう。その後天上寺は,北へ600mほどの現在地に再建され,旧地は神戸市によって公園として整備された。
午後1時、掬星台に到着。掬星台の広場は広く、トイレや休憩所もある。ちょっと寒いので,広い休憩所内でバーベキューしているグループもいる。

掬星台(きくせいだい)の目玉は,「六甲山の1000万ドルの夜景」展望台。夜景でなくても,昼景も十分楽しめる。現在は寒い時期なので人出は多くないですが。
広場の隅に摩耶ロープウェーの乗り場「星の駅」があります。途中で摩耶ケーブルに乗り継いで市街地まで下山できる。

眼下に、神戸の中心街、さらに阪神間の街並みが遠望できる。

 摩耶山天上寺(てんじょうじ)  



掬星台を後にして摩耶山天上寺へ向かう。天上寺まで700mとなっています。
周辺の山を眺めると,すっかり秋らしい彩りとなってきています。

全山縦走路を外れるが,天上寺を訪れてみる。
すぐお寺の白塀が見えてくる。白塀の中ほどに登り階段があり,山門が見えます。
天上寺はもともと掬星台の南方にあったが、昭和51年(1976)の火災でほとんどの建物を焼失してしまう。北へ600mほどの現在地に再建された。天上寺の旧跡は現在「麻耶山史跡公園(旧天上寺跡)」として整備されています。

階段を登れば,お堂の建つ広場です。
広場の奥は、本尊の厄除けの秘仏・十一面観音が祀られている本堂。本堂の右横は「摩耶夫人堂」。天上寺は、大化2年(646)に孝徳天皇の勅願を受けたインドの高僧・法道仙人の開基と伝わる。弘法大師空海が唐より釈迦の生母・摩耶夫人像を持ち帰り、この寺に納めたことから「摩耶山」と呼ばれるようになった。
お堂の前は枯山水風の庭。道を挟んだ向かいも同様の庭で白砂に模様が描かれている。仏教的な仙郷の世界を象徴しているそうです。庭の奥は展望所です。

 アゴニー坂・杣谷峠  



天上寺から引き返すと,ホテル・ド・摩耶の建物が見えてくる。ホテル・ド・摩耶はかって国民宿舎だった。ジャグジーやイタリアンレストランを備える。立ち寄り入浴も可(525円タオル付き)大浴場12~23時
ホテルの前まで入ってみると,六甲全山縦走路の標識が建っている。六甲全山縦走路は天上寺への道ではなく,直接ホテル・ド・摩耶へ進む道なのです。

次の目標は杣谷峠(そまたに)。ホテル・ド・摩耶の前の車道を奥へ進む。六甲全山縦走路の標識も見つかる。ススキの季節,秋を感じます。

車道を,秋を感じながら歩き標識に従い山道に入る。すぐ次の指示がある。右の山道に入り,アゴニー坂へ進めとあります。六甲山はやたら英語表記が多い。”アゴニー”とは人名だろうか?

山道に入る。しばらく舗装路が続いていたのでまた登山という感覚が戻ってきた。アゴニー坂のすぐ西側に摩耶別山(標高717m)という摩耶山より少し高い山があるのだが,何の案内も目にしないのでパスして進む。
アゴニー坂は,ホテル側からは下り坂のようです。石ころ道や階段を降りると,やがて車道が見えてきた。案内図には奥摩耶ドライブウェイとなっている。車道に出て右方向へ進む。



平日のせいかドライブウェイを走る車は少ない。車道脇にはよく整備された遊歩道が設けられている。さすが六甲山だと感心する。










山上の人工湖「穂高湖」の傍を通り、午後2時半、杣谷峠(そまたに)の洒落た建物が見えてきた。これはトイレです。この峠は,神戸市内から杣谷(別名 カスケードバレー)を登ってくる登山道が六甲全山縦走路に合流する地点。



 三国池・三国岩へ  



杣谷峠を過ぎ,森閑としたドライブウェイを歩く。この道も全山縦走路の一部になっている。

神戸市立自然の家が見えてくる。予備知識では,この自然の家から山へ入っていく。どこから入っていくのだろう?,とウロウロする。たまたま自然の家から出てきた青年に尋ねると教えてくれました。

自然の家からさらに100mほど先に入り口があり,標識も建っていた。ドライブウェイと別れ山道に入っていく。目指すは記念碑台,六甲最高峰の方向です。



山道といっても,今までのような急坂はありません。標高700m位まで上がってきているので,高低差の少ない山上を縦断するだけ。

またドライブウェイに出会う。休憩所も設けられています。車道を渡った先に山へ入っていく道が見えます。傍に標識が建っている。三国池へはそこの山道を入るようだ。ただしドライブウェイを右へ進む方向は「六甲山記念碑台(車道)」と標識に書かれている。登山図で確認しても,車道を歩いても丁字ケ辻から記念碑台へ行ける。車道を歩く方が道に迷うことがないので手っ取り早いかも。ただし丁字ケ辻までは六甲全山縦走路ではありません。

ちょっとした坂道の先に三国池(標高約800m)が現れる。ここから先は行き止まりなので,少し戻り右の道へ入っていく。
三国池は明治時代に人工的に造られた池。この池で氷を造って氷室で貯蔵し、夏に町まで降ろし売ったそうです。氷を大八車で運んだ「アイスロード」という名の登山道が現在でも残っている。
次は三国池の北にある三国岩を目指す。ここから右へ左へ,判りにくい分岐路が現れるが,「六甲全山縦走路」の標識を頼りに歩く。

三国岩が現れました。巨石が四層ぐらい積み上がっている。人為的にか,自然に積み上がったものか?



 丁字ケ辻(ちょうじがつじ)  



分岐路に戻り,右の道に入っていく。平坦な山道,といっても車がかろうじて1台通れるほどの舗装路。このあたり別荘が散見されるので,別荘のための車道なのでしょう。立派な門を構え,奥をうかがうことのできない高級別荘が並ぶ。舗装路も整備されているが,通る車は見かけない。閑静な道を歩いていくと,広い車道に出る。

ここが丁字ケ辻だろうか?。周辺を見ても「丁字ケ辻」の表記が見つからないので,たまたま止まっていたパトカーに尋ねて確認する。登山図を見ると,この車道も奥摩耶ドライブウェイとなっています。ここ丁字ケ辻(標高約800m)は阪急六甲(灘区)から登ってくる表六甲ドライブウェイと山上の奥摩耶ドライブウェイの合流点。標識に従いドライブウェイを左方向に進む。

ここの周辺図

 記念碑台へ  



ドライブウェイを少し歩くと左手に六甲山YMCAが見えてくる。さらに行くと藤原商店です。今まで店らしきものが無かったので大変助かります。ビールはともかく,温かいおでんはいいね

所々で谷間から,大阪湾や阪神間の街並みが覗きます。

記念碑台まではこの奥摩耶ドライブウェイを歩くことになります。車はほとんど通らないので,歩きやすい車道を歩くこともできる。六甲山ホテルが見えてきました。
国の近代化産業遺産に指定されている六甲山ホテル旧館。なお六甲山ホテルは、2016年に阪急阪神ホテルズから大阪市の輸入車ディーラーに経営譲渡された。この年末で閉館し、数年後にリニューアルオープンするとの報道がでていました。

10分ほど歩けば,右手に六甲山郵便局が見えてくる。東灘区、灘区、北区に跨る250世帯を配達区域とする日本一小さな集配特定郵便局だそうです。
この郵便局の裏が展望テラスになっており,見晴らしがすこぶる良い。展望テラスへは,局内からでも出れるが,建物の横を周って出る。休憩所,トイレも備えている。日本一小さいが,日本一サービスに優れている郵便局です。

六甲山郵便局の展望テラスから
六甲山郵便局、灘警察六甲山上交番をやり過ごし歩くと、広い交差点が見えてきた。バス停の名前から,ここが「記念碑台」といわれる場所らしい。
さて記念碑台とは,何処だ?。グルームさんの像が建っている,という予備知識しかない。像が建っているのだから広場だと思うが,探し回るが見つからない。時刻は4時半、薄暗くなってきたので今日は諦め帰ることに。六甲ケーブルに向かいます。



詳しくはホームページ

六甲全山縦走(三日間) 3

2018年03月23日 | 山登り

2017年11月 三日間かけてですが六甲全山縦走に挑戦した時の記録です。今回は二日目(11月16日(木))の前半、神戸電鉄鴨越駅から市ケ原まで。

 菊水山めざして  


二日目(11月16日)早朝,神戸電鉄鴨越駅下車。ホーム東側の細路に入る。見上げると上は駅のプラットホームです。

小さな公園を左に見て,その前の小道を奥へ入っていく。平坦な野道が,曲がりくねって続く。野道はやがて谷あいに沿った林道に出る。車一台通れるほどの車道だが、車は一台も見かけない。標識には,左に進んで菊水山まで2.3kmとあります。
舗装路を進むと「神戸市水道局鳥原ポンポ場」にでくわす。水道局の白いタンクを右手に見て舗装路を進むと,右の小道に降りるよう案内されている。小道を降りるとすぐまた舗装路が現れ,左へ進めとあります。

右に渓流を見ながら歩いていると,上に鉄橋が覆いかぶさってくる。鉄橋は,地図で確認すると「山麓バイパス鳥原大橋」となっている。川は,上流の石井ダムから流れ出る鳥原川で,鳥原貯水池に流れ込む。
高架を潜り進むと突き当たりで,標識に従い左へ折れる。








進んで行くと,金網で封鎖された道が現れる。よく見ると金網に,金網の右側の道を進め,の標識が架けられている。金網柵の右の細路を抜けると,広い舗装路となるが,すぐ左の山道へ入るように案内されている。

階段を登っていくと,左上に神戸電鉄線路のコンクリートと菊水山トンネルが見えてくる。その脇下を歩く。

公園風の広場に出る。この辺りが廃駅になった菊水山駅の場所でしょうか?。周りに人の住んでいる気配など全くないのですが。山登り用の駅?。標識に従い奥へ進む。

 菊水山(458.9m)  



ここからが菊水山への本格的な山登りの始まりで、階段から始まりました。ここまで平坦な道ばかりだったので,体力は十分あります。よし、頑張るゾ!。ゴロゴロ石の坂道、鉄板の階段が繰り返し現れる。


右側に菊水ゴルフ場の芝生が見えます。

急坂の山道,急階段,ゴロゴロ石の坂道が繰り返し現れる。最初の山登りといえ,かなりキツイ山登りとなってくる。

時々覗き見える眺望が気分をやわらげてくれます。近くに見えていた菊水ゴルフ場がかなり下に見えるようになってきました。もう一息か。

こうした鉄板の階段が繰り返される。荒れ道を踏ん張り,前方を見ると菊水山の鉄塔が見えてきました。頂上はもうすぐだ。


8時20分、ようやく菊水山(458.9m)頂上の広場にたどり着きました。2つの白い電波塔が目印です。電波塔の前に「菊水山」と刻まれた大きな山名碑が建つ。元々は「鳥山」という名だったが,昭和10年に楠木正成没後600年の記念に神戸市が楠木正成の家紋・菊水の形に松を植樹したことから「菊水山」となったという。石碑の後ろには三角点も設置されている。

鉄塔の下は展望台となっており,今まで繰り返し眺めてきた景観が再度眺められます。

遠方には高取山、横尾山、旗振山と今まで踏破(?)してきた六甲連山が遠く眺められます。

 天王吊橋へ  



菊水山頂上の広場に設置されていた案内図。六甲山の断面図は山や谷の高低差がよく分かり参考になる。先はまだまだ長~い。

天王吊橋目指して降ります。登ったら降りなければならない,また登るのに。これが六甲全山縦走の宿命です。
ここから急な岩場の下りが始まる。まるで裏六甲の街中へ飛び降りていく感じだ。この急坂は、さっきの案内図には「城ヶ越」と名つけられている。特異な地盤なのか,樹木も育っていない。
岩盤を敷き詰めたような急坂を,岩に手をそえ体をよじりながら降りていく。目の前に,次に登る山が見えているにもかかわらずだ。
手持ちの登山図には,この近辺を「危 やせ尾根ガレ」と表記されている。”ガレ”とは,こうしたむき出し岩盤のことでしょうか?。

岩場を過ぎると,今度は急な階段だ。菊水山の登りで見られた鉄板の階段も設置されている。階段を降り山道に入ると川が見えてきた。川があれば,橋が架かるはず・・・。

見えてきました天王吊橋が。吊橋ですので幅は狭い。でもしっかり造られているので揺れることはありません。
この吊橋は何の目的で設置されたのでしょうか?。地元住民のため?,農林業のため?。どうもそういう目的のものには思えない。調べてみると、車の往来が激しい有馬街道を横断しなければならない六甲山のハイカーを危険から守るために、昭和53年(1978)に長さ60mの吊橋が設置されたようです。鍋蓋山へ登るのに,下の谷底まで降りなくてすむので大変助かります。





下は国道428号線で車の往来が激しい。神戸市内から裏六甲の有馬温泉に通じており,有馬街道と呼ばれている。街道に沿うように流れている川は,上流の天王ダムから流れ出る天王谷川。













 鍋蓋山(なべぶたやま、486m)へ  



天王吊橋を渡ると、今度は登り道となる。ゴロ石が転がり,木の根がむき出しになっている。雨によって土が流され,こうなったのでしょうか。天王吊橋のおかげで傾斜はきつくないのだが,歩きにくい。今日二度目の山登りなので,体力的には少々キツクなってきている。

平坦部が見えてきた。山を抜けたんでしょうか?。平坦部に鉄塔が建っている。鉄塔越しに振り返ると,菊水山の2つの鉄塔が見えます。
平坦部は頂上ではなく,カッグリです。山越えはさらに続く。しかしゆるやかな尾根道なので楽です。

平坦な尾根筋を歩いていく。ようやく頂上にたどり着いたようです。9時20分、鍋蓋山山頂に着。頂上は小さな広場となっており、四等三角点も設置されている。山の形が鍋蓋に似ていることからの山名のようだ。
トイレまで1800mというのが,やけに気になる。


広場には休憩用のベンチも置かれており,眼下の神戸市内を眺めながら一服できます。西方を眺めれば、鉄塔のある菊水山,前回登った須磨アルプスや高取山などの連山が望まれます。







 再度山(ふたたびさん、標高約470m)へ  



次の目標は再度山(ふたたびさん)。標高470mで鍋蓋山とほとんど変わらない。沢や谷へ降りることはないので急坂もない。距離はあるが,ほとんどが尾根筋を歩くので楽です。平坦な山道を黙々と歩くだけ。
分岐道に出会う。左に折れれば,鍋蓋北道で再度公園にでる。私が目指すのは再度山の方向,標識では大竜寺・市ケ原の方向です。

時々垣間見える神戸市街や裏六甲の景観が退屈さを慰めてくれます。

尾根をかなり歩くと次の分岐道に出会う。六甲全山縦走路は真っ直ぐ進むのだが,左に折れれば再度公園です。紅葉の時期なのでちょっと寄り道してみる。

300mほど歩けば池が見えてくる。再度公園の中央にある修法ケ原池です。近づくにつれ紅色の鮮やかさが増してきます。再度公園の紅葉。11月中旬ですが,山の上だからか紅葉は鮮やかに色づいていました。

 大龍寺  



再度公園から元の分岐道に戻る。坂道を降りてゆくと,すぐ二つの道に分かれる。標識によれば右の道は,猩々池を経て諏訪山公園から神戸市内へ降りていく登山道となっている。かって弘法大師が登った道なので「大師道」と名付けられ、大龍寺への参詣道として利用された古道。
左に見える広場は大龍寺の門前広場で,六甲全山縦走路はこの広場を横切ってゆく。



広場に入ると,大龍寺境内へ入る階段が見えます。階段を登り大龍寺境内へ入ってみました。
境内はそれほど広くありません。階段を登った右正面に本堂がある。大龍寺は、768年和気清麻呂によって創建された。和気清麻呂が刺客に襲われた時、龍が現れて救ったといういい伝えから「大龍寺」と名付けられた。

標高470mの再度山は大龍寺の裏にある。後で判ったのだが、再度山への登り口は境内の奥にあるようです。かって弘法大師が遣唐使として唐へ渡る前にここ大龍寺参詣し,帰国後にも立ち寄った。大龍寺のある山へ二度登ったことから,この山を「再度山(ふたたびさん)」と名付けられたという。

六甲全山縦走路は広場を横切った奥にあります。左側へ下っていく道です。傍に標識が建っているが,文字がかすれ役立たない。右の道を登っていくと「善助茶屋跡」があるというので,立ち寄ってみることに。

200mほど入ると小さな広場で、石碑が建っている。「毎日登山発祥の地 善助茶屋跡」と刻まれていた。
昭和53年建立の石碑の背面に「毎日登山」のいわれが記されている。
「毎日登山は此の地から生れた。明治三十八年(1905)頃在神外人が北野から範多坂(注:ハンター坂)を登ってここ善助茶屋にサインブックを置いて署名する習わしをつけた。元町栄町及海岸通りの商社の人達がこれに倣って登りだしたのが神戸市民の毎日登山の始まりである。大正初期から昭和十年頃までが最盛期でこの善助茶屋に百冊に余る大小登山会の署名簿が置かれ早朝には賑わいを見せていた。戦時中一時衰退したが又復活し現在では目指す山筋は別れているが毎日登山者の数は晴雨にかかわらず五千名を下らない。ただこのゆかり深い善助茶屋は戦後次第に訪れる人がなくなりいたずらに風雨にさらされ老朽し果てついに取り壊しのやむなきに至った。今その跡地に「毎日登山発祥の地」の碑を建て末永く神戸の誇毎日登山の隆盛を祈念するものである」

元の広場に戻り、全山縦走路を下って行きます。舗装された,幅広の道となっている。10分位下ると二層の紅い山門が建っている。山門を潜った奥に道が見えるので,それが参道かも。
門には「西国愛染明王霊場第五番札所」「近畿三十六不動尊第九番霊場」「摂津弘法大師八十八ケ所八十二番納経所」などの札が掲げられている。
大龍寺山門の前には広い車道が通っている。再度山ドライブウェイですが平日のせいかほとんど車は走っていない。ここにバス停がある。三宮駅前行きとあるので,何らかの事情でリタイアする場合はここで。ただし,夏季だけの運行で土日祝日のみ,それも本数が少ない。次のリタイア場所は布引ロープウェイとなります。

六甲全山縦走路はどこだろう?。車道を横断した先のガードレール脇に標識を見つける。そこの脇道に入っていくようだ。この脇道に入り、市ケ原を目指します。

 市ケ原へ  





次の目的地は市ケ原。再度山ドライブウェイの車道を渡り、東側の谷へ入っていく。車一台通れるほどの道幅があり、ガードレール付きの舗装路となっている。市ケ原キャンプ場へ行く車の進入路なのでしょうか。
11月中旬、六甲山も色づいてきています。舗装路とはいえ傾斜はゆるく、足への負担はない。紅葉、青葉を楽しみながら気持ちよく下っていけます。道を覆いつくす落ち葉を踏みしめながら歩く。この辺りは「再度東谷」と呼ばれている谷間のようです。
途中に高雄山へ向う標識があり、市ケ原まであと200mと表示されている。

細道となり、すぐ河原が見えてきた。市ケ原に着いたようだ。
渓谷にあるこの河原は、神戸市内に近いこともあってキャンプ、バーベキュー、川遊びなどで人気の場所。土日祭日には家族連れで賑わうそうです。すぐ下は神戸の中心街、新幹線新神戸駅や三の宮。ここ市ケ原は標高250mほどなので、山登りというよりハイキング気分で遊歩道を通って1時間ほどで登ってこれます。この自然、この透きとおった川水は都会では目にすることができない。

板橋を渡り、向かいの河原へ。河原の奥の茂みに階段が見える。縦走路はこの階段を登っていく。
階段を登ると「桜茶屋」の建物があるが、今日は平日なので閉まっている。茶屋の前はベンチが置かれ、休憩所になっている。
桜茶屋の前を左に進むのが六甲全山縦走路。右へ進むと、曙茶屋、紅葉茶屋を経て新幹線新神戸駅や三の宮のある神戸の中心街へ降りてゆける。

桜茶屋の先にレンガ造りの綺麗なトイレが設置されている。ここから摩耶山上までトイレは有りません。市ケ原でキャンプ、バーベキューをして、ここで食器を洗う人がいるんですね。


詳しくはホームページ

六甲全山縦走(三日間) 2

2018年03月15日 | 山登り

2017年11月 三日間かけてですが六甲全山縦走に挑戦した時の記録です。今回は1日目(11月5日)の後半です。

 須磨アルプス「馬の背」  



須磨アルプスがより大きく目の前に迫ってきました。ロッククライミングほどではないが、険しい岩場を登りスリリングなことから「須磨アルプス」と呼ばれている。神戸市内に近く、日帰りで岩場登りを体験できるということで人気のエリアとなっている。登山者が少し増えてきたようです。ここへ登る他の登山ルートでもあるのでしょうか。




最後の階段です。かなり急な階段なのでテスリに手を添え、バランスとりながら降りていく。
この岩場は、すぐ横が断崖という危険な箇所はありません。ただザラザラし滑りやすく、また足を大きく上げ踏ん張らなければならない。
ここは登山靴がお勧めでしょうが、私はウォーキングシューズ、いやただの運動靴です。登山靴は持っているのでが、以前に懲りた経験があるので、これくらいの山では登山靴を使いません。岩場は距離が短いので運動靴でも十分です。

花崗岩の急斜面の岩場を登る。ロープも鎖も、もちろん階段などありません。決められたコースもなく、自分の目で確かめ、登りやすい箇所を選び這いつくばってよじ登る。傾斜はきついが短い距離なので、親御さんが後ろでしっかりカバーしてやれば子供さんでも登れます。親御さんがスッテンコロリすれば別ですが・・・。
六甲全山縦走大会では多数の人が集まるので30分~1時間の順番待ちになるようです。

後ろを振り返れば、先ほど降りた急階段が正面に見える。写真で見れば大変危険そうに見えるが、通っているときはそれほど怖いと感じませんでした。

少し横から撮ってみました。細く切り立つ断崖絶壁の難所といった様子ですが、上を通っている時は断崖の様子が見えないので怖さは感じなかった。しかしこうして写真で見ると恐怖感が湧いてくる。万が一、地震でも生じたら・・・と思うとゾッ~とします。

岩場を登りきると、”無事でご苦労様”と「名勝 馬ノ背」の標識が迎えてくれます。この露岩地帯は「神戸槍」あるいは「馬ノ背」と呼ばれている。山の尾根沿いで窪んでおり、両側が谷となって落ち込んでいる様子が、馬の背中みたいなのでそう呼ばれています。

「名勝 馬ノ背」の標識からは平坦な道となる。といっても道幅は非常に狭く人ひとり通れるほどで、両側は断崖となっている。さっきの岩場より、この道のほうが怖さを感じます。強風や激しい雨の時は、断念し引き返すしかないですネ。誤って滑落すれば、怪我だけではすまされないでしょう。過去に滑落死の例があるようです。

細道を渡りきり、振り返ったところ。一見、子供連れでは危険そうですが、余裕ある時間と気象条件さえ良ければ家族連れでも十分楽しめる須磨アルプス「馬の背」だと思います。むしろ子供にとっては良い体験、思い出になるでしょう。ただし、気象条件が急変した時、断念する勇気があるかどうか。

 東山(253m)  


尾根筋なので平坦な道が続く。ほぼ一本道で迷うことはないが、要所には標識が設けられている。向う方向は、妙法寺駅・高取山です。
最後に階段を登ると東山(253m)の山頂です。時刻は11時40分、横尾山から50分位かかったことになる。距離は短いのですが、須磨アルプスを時間かけながらユックリ楽しんだので、その分時間がかかりました。
山頂を示すそっけないプレートが小枝に結ばれているが、これって信用してよいものだろうか?。標高243mとあるが、手元の資料では253mになっている。

向こうに、次の目的地・高取山が見える。手前に見えるのが横尾、妙法寺の街並み。「東山」の名前には次のような云われがあるそうです。高取山と横尾山の天狗が綱引きをし、その際横尾山の天狗が足を踏ん張った際に出来たのが東山という。当初は「天狗山」と呼ばれていたが、横尾山の東にあることから「東山」となったとか。

神戸市内の中心部が大きく見えるようになってきた。

 横尾・妙法寺の町を抜ける  



次の山・高取山に登るには、いったん横尾・妙法寺の町へ降り、そこを抜けなければなりません。横尾・妙法寺の街中を抜けるのは、六甲全山縦走路にとって難所の一つです。

山を降りると、何処で道を間違ったのか全山縦走路をはずれ、横尾団地に入り込んでしまった。人に尋ねながら全山縦走路を見つける。
手持ちの地図では、途中で車道から脇道へ入るようになっている。何か目印はないか、周辺を注意深く見渡すと、ありました。住宅団地の横の公園の鉄柵に、「←六甲全山縦走路」の小さなプレートが3個も取り付けられていた。1個でよいから、もっと大きなプレートを、と愚痴も言いたくなります。

横尾の町を抜け階段を登ると広い車道が見える。地図を見ると、この辺りは地下鉄・西神山手線が、そして阪神高速神戸山手線が通っている複雑な場所だ。広い車道は阪神高速神戸山手線らしい。六甲全山縦走路も複雑に迂回せざるをえないようです。山歩きの雰囲気などぶっ壊しです。
階段を降り、地下道を潜る。

地下道を潜ると妙法寺町です。
すぐ左側に妙法寺の赤い幟が見えてくる。奈良時代の天平10年(738)、行基によって創建されたという。本尊は毘沙門天で、摂津国八十八箇所の第86番札所。町名、地下鉄の駅名などになっている。

電柱の「六甲全縦」を頼りに歩く。これからは、電柱や石垣、柵などに取り付けられた「六甲全縦」のこの小さなプレートが全ての運命を握る。分岐道では見逃さないよう注意深く周辺を見回します。

小橋を渡り、交差点を横断し、坂道を登る。幾つか三叉路に出会うが、電柱や垣根などに掲げられた「六甲全縦」を頼りに歩きます。入り組んだ住宅地を抜けるのは、なかなか難儀なものです。
住宅地を抜けると小さな公園に出る。ここにはしっかりとした標識が設置されていた。指示に従い右方向へ進む。
公園を過ぎると、本格的な高取山の登山道に入る。

 高取山へ  


次に目指す高取山は標高328mで、今までで一番高い山です。下りた分、登らなければならない。登山道に入ったらほぼ一本道なので、あの「六甲全縦」の小さなプレートは必要ありません。
しだいに坂道の傾斜がきつくなってくる。丸太の階段あり、急坂ありで、かなりハードです。今まで少々楽な縦走路だったので、その分堪えます。
こうした岩盤がむき出した箇所もある。落ち葉を踏みしめ悪路を黙々と登る。こうした所は運動靴より登山靴が優る。ストックがあればなお良し。

展望はあまりきかないが、時々こうして樹林の間から裏六甲が望める。

ゴツゴツした悪路を越えると、平坦な山道となり、しばらく行くと荒熊神社の案内に出くわす。荒熊神社は縦走路から少し外れるのだが、「縦走路へ合流」できるとあるので、階段を登る。階段を登ると、真っ赤なトタン壁の建物が建ち、側面に「眼下一望」とあります。何度も見てきた景観なので、あまり感動しなくなった。



 高取山(たかとりやま、328m)・高取神社  



高取神社に設置されていた高取山案内図。視覚的に現在地が確認できるので、こうした案内図は本当に助かる。ところが六甲山には案内図が少ない。六甲全山縦走路をここまで歩いてきて、初めての案内図です。

石鳥居が現れ、高取神社の案内が見えてきた。左に折れると眺望の良い高取神社らしい。六甲全山縦走路は右の道を進めとある。荒熊神社同様に、高取神社境内から六甲全山縦走路へ合流できるようになっていはずだ。縦走路とは外れるが、左の階段を登り高取神社へ向う。

この階段を登れば、高取山山頂や高取神社があるようです。かなりキツイ階段ですが、途中で後ろを振り返れば絶景が眺められます。

階段を登った先の最上部は広場となっており、広場の右端の柵内に「高取山頂之碑」という石柱が建っている。標高328.8mです。


広場から下りると、東へ参道が通っている。ここから眺める神戸市街や大阪方面の景観がビューポイントとされている。見慣れたといえ、さすがにこの眺望には足が止まる。三ノ宮周辺の高層ビルがはっきり見えます。

高取神社の本殿を左手に見て歩くと、長い階段がある。この階段を降りると六甲全山縦走路と合流です。

階段を降りた先に月見茶屋があり、さらに坂道を下っていくと安井茶屋がある。この安井茶屋を潜り抜けた先に注目。緑の植込みの手前に標識「←六甲全山縦走」が建っている。これを見逃すと大変なことになります。




 最大の難所:丸山の住宅抜け  

安井茶屋先にある標識に従い左に入ると広場です。奥の建物はトイレ。この広場にはベンチも置かれているので一休みするのもよい。トイレの横に、降り口の案内標識「←六甲全山縦走路」が見える。ここから丸山町の住宅街へ降りて行く。


丸山の住宅街まで、階段あり、急坂ありでただひたすら足元を見て降りるだけ。ほぼ一本道なので迷うことはない。気分を和らげてくれる景観など望めません。
長い階段を降り、砂防堤が見えてくればそろそろ山道は終りです。
住宅街に降りてきた。ここからは街を抜けるまでズッーと舗装路が続く。街中はアップダウンの坂が多いので登山靴では足に負担がかかる。こういう所では運動靴が良いのです。これから街を抜けるまで、「六甲全縦」のこの小さなプレートが私の命運を握っている。

これからが六甲全山縦走路で最大の難所”丸山抜け”です。加藤文太郎の時代は野山だったでしょうが、現在は山を削り、野を拓き、道を通し住宅が建ち込む。この”丸山抜け”はホームページで詳しく説明していますので、このブログでは割愛します。

ようやく神戸電鉄鴨越(ひよどりごえ)駅にたどり着く。時間は午後3時半ですが,次の下山できる所はハープ園のある布引ロープウェイとなる。しかしそこまで菊水山,鍋蓋山を超え,かなりの山道を登らなければならない。体力的,時間的に無理だと判断して,ここ鴨越駅で断念し帰ることにした。新開地経由で大阪へ。


詳しくはホームページ

六甲全山縦走(三日間) 1

2018年03月09日 | 山登り

2017年11月 三日間かけてですが六甲全山縦走に挑戦した時の記録です。

 六甲全山縦走路とは  



六甲山には、神戸市に近いだけあって沢山の登山ルートがあります。その中で「六甲全山縦走路」は、六甲山の西端(神戸市西部)から東端(宝塚市)までを踏破する最も代表的な登山ルート。関西での山歩きの象徴にもなっています。
山歩きといっても、通常の登山とはやや趣が異なっています。六甲山は神戸の裏山で、早くから開発され尽くされた山。要所には茶屋が設けられ、観光施設、別荘、ホテル、ゴルフ場が点在します。そして眼下を望めば、神戸の街並みが広がり、瀬戸内海、淡路島、明石海峡大橋、さらには阪神間の市街や大阪方面まで展望できる。反対側には裏六甲の街並みが広がっている。展望を楽しみながら歩くハイキングといった感じさえあります。しかし平坦だけではありません。低山とはいえ300m~500mの山を幾つも登り降りし、ドライブウェイを歩かされ、時には平地の街中を歩かされる。ゴロ石の急坂、急階段もあり、たいへん変化に富んでいる。
神戸市西部の山陽電鉄塩屋駅からスタートし、六甲連山を登り降りし、海抜931mの六甲最高峰を越え、宝塚市へ降りていく約56キロの登山コース(逆のコースもあり)です。
この六甲全山縦走路を有名にしたのが大正末期から昭和初期にかけての登山家、和田岬にある神港造船所のエンジニア・加藤文太郎という人。「地下足袋の加藤」とも呼ばれていた。新田次郎の小説「孤高の人」のモデルでもある。小説では、奥様の要望で本名で登場します。若者と老人の会話から始まる冒頭に「加藤は生まれながらの登山家であった。彼は日本海に面した美方郡浜坂町に生まれ、15歳のときこの神戸に来て、昭和11年の正月、31歳で死ぬまで、この神戸にいた。彼はすばらしく足の速い男だった。彼は20歳のとき、6時に和田岬の寮を出て塩屋から山に入り、横尾山、高取山、菊水山、再度山、摩耶山、六甲山、石の宝殿、太平山、岩原山、岩倉山、宝塚とおよそ50キロメートルの縦走路を踏破し、その夜の11時に和田岬まで歩いて帰った。全行程およそ百キロメートルを17時間かけて歩き通したのだ」と書かれています。ほぼ史実だと思う。単独行だけだった登山家・加藤文太郎は、結婚し初子が生まれた正月、友にせがまれ初めて複数人による冬の北アルプスに挑んだ。そして二度と初子の顔を見ることのできぬ帰らぬ人となってしまったのです。

神戸市と市民団体の主催で、「六甲全山縦走大会」が毎年11月の第二日曜日と23日の休日(勤労感謝の日)に開催されている。スタート場所は、塩屋ではなく近くの須磨浦公園となっている。多くの人が集まるので、集合場所の問題かと思われます。早朝5時にスタートし、時間制限の夜10時40分までに宝塚に到着することを目指す。
この六甲全山縦走大会のコースに挑戦してみることにしました。挑戦といっても、一日でという訳にはいきません。眺望を楽しみ写真を撮りながら、たっぷり時間を掛けての踏破です。そのため三日間かけてとした。天候を見ながら、1日目(11月5日、日曜日)は山陽電鉄塩屋駅から神戸電鉄鴨越駅まで、2日目(11月16日、木曜日)は、鴨越駅から六甲ケーブルまで、3日目(11月24日、金曜日)は六甲ケーブルから宝塚までを歩きました。
一番の難所は、高取山を降りて丸山町の住宅街抜け。二番目の難所は、最後の宝塚へ降りていくアスファルトの坂道。あの舗装路は二度と歩きたくない。山歩きとは関係ない場所が難所なのです。山歩きそのものは、大変眺望がすばらしく、ハイキング気分で歩けました。

 山陽電鉄・塩屋駅から  


11月5日(日)、まず山陽電鉄・塩屋駅からスタートし、旗振山から鉄拐山を目指します。なお、神戸市と市民団体の主催の「六甲全山縦走大会」のスタート地点は須磨浦公園駅となっている。塩屋駅周辺には多人数が集まる場所が無いからです。本来の六甲全山縦走の基点は塩屋です。
駅の向こうに見えるのが旗振山でしょうか?。山側の出口を出ると、そこはもう迷路のようだ。早朝の7時15分、早出の勤め人に出会うが、登山道の入口を知っている人などいてません。自力で見つけるしかない。

塩屋の街中を抜け、六甲全山縦走路の登山道に入るまでが判りにくい。案内標識もありません。駅の出口から左へ(西側)左へと歩き、川に出合う。そして川に沿って北上します。「毘沙門」の石柱を頼りに歩く。持参の登山地図に毘沙門天が載っているからです。街中の坂道を登っていきます。この辺り、郊外の新興住宅地で、山を削った斜面に家屋が建てられている。

ここが問題の分岐点だった。この写真のとおり、左の坂道、真ん中の道、右に曲がる道と、3道に分かれている。どれが正解でしょう?。標識も見えなかった(この時点では)。思案したうえ、真ん中の道を選びました。奥へ奥へと進んで行ったが、どうも怪しくなってきた。心配になって分岐点まで引き返すと、坂道を降りてきたハイカーおばさんと出会う。訊ねると、この坂道だとおっしゃる。後で考えると、山登りだから坂道を選ぶべきだった。20分ほどここでロスしました。
坂道だと分かった後で周りを見回すと、何と々「旗振山登山道」の標識がぶら下がっているじゃないですか。”もっと判りやすい場所に置けよ・・・”とつい叫んでしまった。ここで教訓を得ました。六甲全山縦走路では、道が分からなくなった時は、周辺をよく見回す、ということです。これが後で役立ちました。
坂道を少し登ると、電柱脇に木製標識が傾いている。なぜ坂道の手前に置かないのか・・・。

やっと住宅街を抜け、山へ入って行く。山へ入ればほぼ一本道なので、迷うこともない。「六甲縦走路西基点」が大きく目立つ。もう少し早い地点で案内してほしいものです。
この先に山王神社と社会福祉法人「神戸少年の家」がある。神戸少年の家のグラウンド奥に源平合戦供養塔があるので寄り道してみる。この辺り、一の谷の合戦場に近く、多くの犠牲者がでたようです。
「神戸少年の家」から旗振山を目指して山へ入っていく。まだまだ平坦な道が続き、山登りしている感じはありません。地元の方と思われるジョギング姿の人とよく出会う。旗振山といっても250m位の山で、道の勾配も緩やかで、朝の運動にはちょうど良いのでしょう。旗振山まで0.9Kmの標識が立つ。山に入って初めての「六甲全山縦走路」の標識に出会う。全山縦走路を完歩するのが目的なので、この標識に出会うと、間違ったコースに入り込んでいないのだと、安心します。

 須磨浦山上遊園・旗振山(はたふりやま、252.6m)  



しばらく歩くと、紅葉に染まった施設が」見えてきました。地図で確認すると、須磨浦山上遊園の手前にある「ドレミファ噴水パレス」らしい。ここで初めて紅葉の秋を感じました。

ここからの眺めが素晴らしい。明石大橋、その先にボンヤリと淡路島の島影が眺められます。プールで泳ぎながら明石大橋を眺める、なんて楽しい所だと思っていたら、これは水遊びのプールではありませんでした。噴水プールだった。噴水や明石大橋を眺望しながらバーベキューを楽しめるようです。
すぐ上に須磨浦山上遊園がある。噴水パレスも須磨浦山上遊園の一部なのです。シートなどが被せられているので、この時期は閉園中なのでしょうか。それとも早朝のせいでしょうか?。ウォーキングで登ってきた数人のおじさんが景観を楽しんでいるだけでした。
山陽電車の運営で、山陽須磨浦公園駅に直結する須磨浦ロープウェイを利用してこれる。毎年行われている六甲全山縦走大会では、須磨浦公園をスタートし、この辺りまで石の階段を登ってくるそうです。


8時30分、旗振山の山頂に到着。「標高253米」の標識が建ち、「国境、←摂津の国|播磨の国→」とも書かれている。説明板には「旗振山は17世紀末江戸中期元禄時代から電信が普及される大正初期まで、畳一枚大の大きな旗を振って大阪堂島の米相場を加古川・岡山に伝達していた中継場所である事から「旗振山」と呼ばれています」とあります。

山頂だけあって、ここからの展望も素晴らしい。明石海峡大橋と淡路島が、東側には須磨浦海水浴場が広がり、その奥に神戸市内がかすんで見えます。


この山頂には旗振茶屋がある。昭和6(1931)創業で、六甲山で最も西よりにある茶屋。しかし平成7年(1995)の阪神淡路大震災で倒壊後、平成9年(1997)に再建されたそうです。主に土日祝日に朝7時から営業している。




 鉄拐山(てつかいざん、234m)  


旗振山の山頂の横に、六甲全山縦走路の案内がある。その下を通って、次の目的地・鉄拐山を目指します。
旗振山から鉄拐山まで700mと短く、また平坦な道が続く。全山縦走路の中では最も歩きやすい箇所かもしれない。そのうえ時々、樹林の間から裏六甲の街並みが見えて癒してくれます。
尾根筋が続きます。全山縦走路の標識が見えてきました。三叉路のようで、右に降りると「一の谷町」とあります。「一ノ谷・逆落とし」の案内板が建つ。右側の崖のような急坂を、寿永3年(1184)2月源義経を先頭とする騎馬軍団が駆け下り奇襲し、源氏に勝利をもたらしたという古戦場です。

かなり急な階段を登ると、陽光に照らされた頂上らしき平坦部が見えてきた。

鉄拐山(てつかいざん、234m)頂上です。9時なので、塩屋駅からここまで2時間ほどかけている。寄り道し、写真撮りながらなので、こんなもんでしょう。

神戸市内も、少しずつ大きく見えるようになってきました。

 おらが茶屋へ  



次は「おらが茶屋」を目指します。裏六甲を眺めながら長い階段を下りる。階段を降りると、尾根筋の平坦な道となります。途中、「至 高倉台を経て横尾山」と書かれた六甲山縦走路の標識が建つ。



標識「おらが茶屋 200m」を過ぎると休憩所が見えてきた。「市民山の会 おらが山登山会署名所」の看板がかかっている。ここからの眺めも良い。お菓子食べながら、しばらく休憩。11月初旬の山の上だが、歩きとおした体には寒く感じない。薄でのジャンパーで丁度良いくらいです。
休憩所から200mほど先に、おらが茶屋の白い建物が見えている。平成2年(1990)に建てられ、主に土日祝日に限り朝6時から営業しているそうです。今日は日曜日なので営業している。
1階にトイレがあり、トイレ横の階段で2階の喫茶店(おらが茶屋)に、さらに3階屋上の展望台へ登る。特に扉や柵のようなものは見当たらないので、何時でも自由に出入りできるようだ。喫茶店(おらが茶屋)だけが平日営業していないだけのようです。トイレがあるのが大変助かります。

3階展望台から、高倉台団地、さらに栂尾山、横尾山を眺める。いったん町へ降り、そこからまた山へ登っていくことになる。六甲全山縦走は、登って降りてまた登る、これの繰り返しなのです。
おらが茶屋と栂尾山との間、白い建物の高層住宅が立ち並ぶ所には、かって高倉山がそびえていた。高さ291mで、おらが茶屋や栂尾山の270mよりも高い山だった。神戸港を埋め立て人工島「ポートアイランド」造成のため、昭和41年(1966)から高倉山は削り取られ、跡形も無くなっている。140mほど山は削られ、現在は標高150mのニュータウンとなっている。自然を破壊したその報いは、その後神戸を・・・とは思いたくもないが。

ここからは360度パノラマ展望ができる。やって来た方向を振り返れば、旗振山、鉄拐山が望め、はるか遠くに感じられます。さらにその向こうには明石海峡大橋、淡路島の島影が。

 高倉台団地を抜け栂尾山へ(とがお山、274m)へ  


おらが茶屋の近くに下に降りる階段が見える。コンクリート製の階段で、両側には頑丈な鉄製テスリが設けられている。この長ーく急な階段で、真下に見える高倉台団地まで一気に降りるのです。六甲全山縦走路の山の一つ高倉山を削り潰したその代償に、この階段を設けたものと思われます。降りきると標識が建っているので、それに従って進む。車道をまたぐ歩道橋を渡り、高層住宅街の中心に入っていく。
高層住宅の中央を貫くメイン通りに入る。右側に食品スーパー「ピーコックストア」があります。パン類、弁当、おにぎり、惣菜など豊富な品揃えで、しかもお安い。ここで準備できるのは大変助かる。現在9時50分で、すでに営業していたので、朝9時(9時半?)開店と思われます。
メイン通りを突き進むと、正面にまた歩道橋が現れる。紅葉に染まる公園を過ぎるとまた歩道橋です。橋下は広い車道で交通量も多い。神戸市内と裏六甲を結んでいる幹線道路のようです。橋の先に見えるのが、次の目的地・栂尾山でしょうか?
橋を渡りきると突き当たりで、左に曲がれと標識が指し示している。左折し、幹線道路を左に見ながら細い脇道を歩く。細道を歩いていると、突然右側に細長い階段が現れ、登り口に「六甲全山縦走路→」の標識が。
おらが茶屋から高倉台へ降りるのに長い階段が設置されていたのと同様に、高倉台から栂尾山へ登るための階段を設置したのです。これも高倉山を削り取った代償です。こうして六甲全山縦走路は一応確保されている。

空中に突き進んでいくような階段。かなり急勾配で強風でも吹けば怖いでしょう。四百段もあるそうですが、途中の数箇所に踊り場が設けられ、休憩用の木製腰掛が置かれています。これは助かる。絶景を見ながらのどを潤す、いいですネ。

後ろを振り返ればこの絶景なので、辛い階段も耐えられます。高倉台団地、鉄拐山、旗振山そして明石大橋から淡路島まで見通せる。
階段を登りきると、平坦な尾根筋の道となりホットします。しかしすぐ急な山道となり、階段で疲れた体には堪える。すぐに木組みの展望台が見えてきました。ここが栂尾山(とがおやま、274m)の山頂です。10時15分到着。展望台の登り階段の横に、標識「栂尾山頂」が建っている。

もう見慣れてしまった景観ですが、やっぱり見とれます。六甲山の山登りは、これがあるから魅了されるのでしょう。

 横尾山(よこおやま、312m)  


次の目的地横尾山は高さ312mで、栂尾山より40mほど高い。しかし下ってゆきます。目の前に目指す山が見えているのに下っていく、これほど辛いことはありません。六甲全山縦走路はこれの繰り返しです。
この辺りから、風化浸食によりザラザラし滑りやすい道となってくる。須磨アルプスに近づいていることを示します。尾根道になるとホットしますが、登って降ってが繰り返される。我慢するしかありません。この辺り景観も楽しめず、わずかに裏六甲が望めるだけです。

11時前、見えてきました頂上が。ホットする一瞬です。横尾山は関西100名山の一つで、標高312.1m。二等三角点の山です。ザラザラした赤土は、見所の「馬の背」が近いことを示しています。
景観はそれほど望めません。神戸市内が見下ろせるくらいか。
横尾山から次の東山を目指しますが、その間に人気の須磨アルプスがある。六甲全山縦走路で一番楽しみにしている所です。
道が少しずつ険しくなってきました。花崗岩が風化によって削りとられ、草木も育たず、山肌がむき出しになっている。削られた小石や砂が道に散乱し、滑りやすい。これからは足元注意のエリアだ。危険そうな箇所にはクサリも張られている。

眼下に見えてきました、山肌剥き出しの須磨アルプスの一部が。その先に東山、さらに神戸市内が望まれます。


詳しくはホームページ

11月21日、京都♯大原♭・・金比羅山♪♪(その2)

2013年12月21日 | 山登り

山を下りると、そこは紅葉盛りの寂光院だった。紅黄に彩られた階段を登り、山門をくぐるとすぐ本堂です。右に「四方正面の池」、左に「汀(みぎわ)の池」を配置した本堂は、庵に近いような質素で素朴な造り。壇ノ浦で平家滅亡の悲劇を体験した建礼門院徳子が出家し、余生の住まいとしたのに相応しいのかもしれない。今は、真っ赤なカエデや山茶花に彩られ華やかだが、山間のひっそりした、訪れる人のいない隠れ家だったのでしょう。ここを後白河法皇がお忍びで訪れる「大原御幸」で「平家物語」は幕を閉じるという。

平成12年(2000年)5月9日未明、もの静かなこのお堂は一瞬のうちに炎につつまれた。何者かが本堂西側の縁側付近に大量の灯油をまいて火を付けたのです。全てが失われました、お堂も、仏も、建礼門院の遺物も。今もって犯人はわからず時効を迎えてしまっている。諸行無常の響きあり・・・平成の「れきしヒステリー」

寂光院を後にし高野川を渡り、のどかな山里の道を三千院へ向かう。前方には、昨年の今頃登った比叡山が横たわります。その山頂付近に広大な境内をもつ「日本仏教の母山」延暦寺が、威光たけだけしく京の都を見下ろす。
一部の僧侶が山から降り、新しい仏の道を探し求めていったのがこの大原の里。

三百メートルほど続く参道は、右手に高野川の支流・呂川が流れ、左側には京の特産品のお土産店が並ぶ。特に、建礼門院が名付け親とされる「紫葉漬」が有名です。私は「ゆず入りポン酢」(1400円)を買い、帰ってから湯豆腐で一杯やるのを楽しみに。

近くには律川という高野川の支流もあり、三千院はこの「呂川」と「律川」にサンドイッチされた位置にあります。この両川の名は、ここ大原の寺院で誕生した声明(節をつけて謡うように読経すること)のふたつの旋法、唐風の「呂」と和風の「律」の節回しからきているそうです。この二つの旋法を使い分けられないのが「呂律がまわらない」、今風では音痴、または酒飲み・・・。

ようやく三千院の門前に着きました。「紅葉の馬場(桜の馬場)」と呼ぶそうです。

 「京都 大原 三千院
    山に疲れた 男が一人~♪♪」

 「京都 大原 三千円~♪♪」  京都駅からタクシーで三千円の時代もあったようだ(昭和40年代)。
大原のメインスポットだけあって,平日にもかかわらず人出が多い。年配の方がほとんどだが、若い女性も多い。”~に疲れた”人が多いいのでしょうか・・・(*^_^*)、わたくしは山に疲れましたが・・・!(^^)!。

客殿、宸殿では貴重な仏像・襖絵,掛け軸などを鑑賞できますが、それらはさておき((*^_^*))、庭です。
杉木立と絨毯のように敷き詰められた緑の苔、そして赤や黄に色付いた紅葉の織りなす景色がなんともいえない。春は桜、夏はカエデの新緑、秋の紅葉、そして雪景色になったりと、季節々により趣を変え、叙情をかきたて堪能させてくれるそうです。四季を通じて多くの観光客が訪れるのも肯ける。紅葉の奥に見えているのが三千院の本堂にあたる往生極楽院。それはさておき((*^_^*))、庭です。

三千院のシンボル(?)、マスコットキャラ(?)の「わらべ地蔵」さん。ここが一番の人だかり。多くのシャッターを浴びたせいか、つぶらな瞳を閉じている。現代の彫刻家・杉村孝(1937-)作とか。こんな人知らんが、「三千院のわらべ地蔵」はメディアなどにも取り上げられた超有名人です。全部で七体あるようだが、三体しか見れなかった。

この後、実光院・勝林院・宝泉院・来迎院・音無の滝などを廻りましたが、詳しくはホームページをのぞいてください!

最後に、帰り(往き)は八瀬(やせ)へ寄ろう。混雑したバスに40分も揺られるよりは、叡山電車を途中から(まで)利用するのが良い。叡山電鉄の八瀬駅周辺も紅葉(桜)の名所ですゾ!。どの行き先のバスも八瀬駅前に止まるヨ。

もう一つ最後に、大原から30分ほど奥へ歩けば紅葉で知られた「古知谷(こじだに)」へでる。そこの山門から阿弥陀寺へ続く約600mの渓谷沿いの道は、まさに「紅葉の回廊」だそうです。これを見れなかったのが、一番悔しい・・・(-_-;)。

11月21日、京都♯大原♭・・金比羅山♪♪(その1)

2013年12月15日 | 山登り
京都・大原へ一度行ってみたかった。紅葉の時節、今が最適かもしれない。寂光院や三千院の紅葉を見るだけなら、単なる暇つぶしに・・・実際そうなんだが。大義名分に周辺の山を探す。あった!、「大原三山」が。先日「高野三山」に行ってきたばかりだが、「大和三山」といい、どこも「三山」がお好きなようだ。大原三山の一つ金比羅山へ登ろう、ついでに大原の里へ紅葉見物に。紅葉のついでに山だが・・・いや、どっちがどうでもイイヤ、と早朝六時前家を出る。

京阪電車・京都出町柳駅から乗車した大原行きのバスは大混雑。しかし登山口のある戸寺で下車したのは俺一人。チョット寂しい気が。この戸寺が海抜210m、目の前の金比羅山が標高570m。標高差は360mほどなので初心者向きの山でした。
江文神社をすぎ、静原・鞍馬へ通じる府道40号の江文峠に出ると登山口があります。「金比羅大権現」の大きな石碑と鳥居があるので参道になっているようだ。どこの山も信仰の対象になっているようで、頂上には神社やお寺が鎮座する。だから登山道は参拝すための参道でもあるのです。

その入り口に「クマ出没注意!」の注意書きが。そして「クマは音に敏感です。外出する際には鈴等の音の鳴るものを携帯しましょう」と補足されている。今まで何度も出会った警告なので、今回は痴漢撃退用防犯ベルを購入し持参してきた。写真の白い紐の部分を引っ張れば鳴るようになっている。途中の山中でテスト試音してみたら、かなりの音量だったので大丈夫か・・・。でも逃げてくれるんでしょうネ?。実際、熊と御対面したらどうなるんでしょう?、手が震えたりして・・・、想像などしたくない。
登山途中に見晴らしの良い場所などありません。頂上近くになればやっと比叡山が一望できるようになります。

頂上はこの有様。赤い鳥居に、倒れ掛かった祠。石塔が倒れ、赤い板の柵が戦乱の後のようになぎ倒されている。その昔、保元の乱(1156年)敗れた崇徳上皇は讃岐(香川)の地に島流しされ、非業の死をとげた。京の都に災いが起こるたびにその怨霊が恐れられた。その怨霊を鎮めるための、この頂上にも金比羅大権現と崇徳天皇を祀る社が建てられたというが、今はない。この悲惨な有様は、崇徳天皇の怨霊のたたりか?


この頂上の裏側へ廻ると、大きな石柱が断崖絶壁の際に建っている。恐る恐る覗きみると、ハングル文字が刻まれているではないか。実は、ハングルでなく神代文字の一種で「阿比留(あびる)文字」というものだそうだ。まァ、そんなことはどうでもよく、ここは絶好の眺望場所。大原の里から比叡山まで見渡せる。見とれて足元が疎かにならないように。お陀仏ですゾ!

詳しくはホームページをのぞいてください!


11月6日、高野山女人道の高野三山を歩く

2013年12月10日 | 山登り
サァ~、高野三山へ入ろう。奥の院御廟橋の手前、水向地蔵の横に「三山巡り参詣道」の石柱と登山口を示す標識があるのですぐ分かる。そこの横道を入り小橋を渡ると、山の方へ向っている山道がある。数分進むと、なんと大師御廟前へ出てしまった。どうも高野三山への登山道とは違うようだ。引き返し,周りを見渡すと駐車場の奥に隠れるように車道が走っている。不安な気持ちで歩いて行くと、向こうにロープの張られた横道が見える。そこで思い出した。昨夜ネットで下調べをした時、「ロープの張られた道に入る・・・」と書かれていたのを。しかし、登山口だと知らせる案内らしきものは何も無い。しばらく進み、何の標識にも出会わなかったら引き返すつもりで入ってゆく。15分くらい進むと「--→摩尼峠」の標識が現れ、ホッとしました。昨夜ネットを見ていなかったら、あの車道をどんどん進んでいただろう。どこへ行ったやら・・・。高野町は、なぜ高野三山への入り口に標識を設けないのでしょうか?。これでは入山を嫌がっているように思えます。

楊柳山(ようりゅうさん)山頂。標高1008m,高野三山の最高峰。祀られているのが楊柳観音。この観音さんは手に楊柳枝(ヤナギ)を持っていることが特徴だそうです。そこから「楊柳山」という山名になったのだろうか?。

高野三山歩きの詳しい内容はホームページを見ていただくとして、この山について。

高野三山とは、奥の院をグルッーと取り囲むようにその背後に連なる摩尼山(まにさん)、楊柳山(ようりゅうさん)、転軸山(てんじくさん)の峰々を指します。標高は1000mありますが、高野町が900m位なので実際の高度は100mほど。三山を上がり下りするので起伏はかなりあるが、山歩きとしては手ごろなコース。ただし見晴らしは全く・・・で、ただ黙々と歩むだけ。
途中に幾つか「高野山女人道」と表記された標識が立っている。「摩尼山←-黒河峠-→楊柳山」のように、来た方向と進む方向は記されている。ところが第三の道、即ち分岐する道はあるのだが、全て「---×」と進入禁止になっている。危険?、崩落・崩壊?、行き止まり?・・・。どうも、どれも奥の院の方へ下りて行く道のようです。聖域の背後から進入されたくない、ということでしょうか。ですから、いったんこの山へ入ったなら、前へひたすら進み三山を乗り越えるか、それとも登山口まで引き返すしかない。体調、天候などの急変で断念し、途中で町内の方向へ下山しようとしてもできないようです。
女人禁制時代の「高野山女人道」のままなのでしょうか?。かって女人達は高野山内には入れず、それを取り巻く険しい峰々を巡り、木立の隙間から垣間見える寺院や御廟を眺め、涙するしかなかった。今は寺院や御廟さえ見えない。
不安な気持ちを抱きながらも、かろうじて最後の転軸山から降りてきました。ところが、ここから近くと思われる参詣道の方へ出る道が、これまたよく分からない。持参の地図はあいまい、車道脇の標識はどれも不動坂の「女人堂」を指す。どこまでいっても、外部から高野山の聖域内へ入るのを拒んでいるように感じられました。