山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

法隆寺を訪ねて

2014年01月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて


正月二日,初詣を兼ねて法隆寺を訪ねました。詳しくはホームページで。

まず南大門から入ります。国宝・南大門は,奈良の東大寺南大門,日光の東照宮陽明門・日暮門とともに日本三大門のうちの1つ。ただし奈良の東大寺のような圧倒する威圧感はありません。創建時のものは1435年に焼失し、永享10年(1438)に当時の西大門を移築し建立したのが現在の門のようです。そのせいか東大門に似ている。
南大門右側の土塀裏に若草伽藍跡がある。ここを発掘調査した結果,塔と金堂の基壇跡が見つかった。聖徳太子が607年に創建した法隆寺は,この位置だったのです。670年に火災で喪失し,その後順次,焼け跡にではなく北西約150m離れた現在地に再建されていった。これによって戦前の「法隆寺の再建,非再建論争」に決着がついたようです。発掘された基壇跡は,現在のように塔、金堂が東西に並ぶのではなく,南北に1直線に並ぶ「四天王寺式伽藍」だった。しかも伽藍の軸が正南を指ささず,その角度が斑鳩と飛鳥を結ぶ太子道と同じでした。飛鳥を向いて一直線に建てられていたようです。

正月なので込み入っているのかと思っていたが,それほどでもありませんでした。皆さん初詣には神社へお出かけなのでしょうか?。


南大門をくぐり直進すると国宝・中門に出る。門とあるからくぐれるのかと思ったら,真ん中に柱があり,閉ざされ通れない。この中門と廻廊に囲まれている領域が,法隆寺のシンボル,五重塔と金堂のある西院伽藍。入り口は左方にあり,拝観料千円払って中へ入る。千円って高いんジャン,と思われるが,大宝蔵院と夢殿への拝観料も含まれているので決して高くはない。チケットはポイしないように。




世界最古の木造建築といわれる五重塔と金堂。六重の塔のように見えるが,初重にのみ板葺の裳階(もこし)が付けられているという。裳階って何?。調べると,「軒下壁面に造られる庇(ひさし)の一種,機能的には建物の高さを高くせず内部空間を広げるため」だそうです。よく見ると金堂も同じです。三層建てではありません。五重塔と金堂とも,中へ入って一周し,貴重な国宝のお像を拝見することができる。


西院伽藍を出ると鏡池があり,その池縁に正岡子規の句碑が建てられている。

「法隆寺の茶店に憩ひて
  柿くへば 
    鐘が鳴るなり
       法隆寺 」

子規は本当にここで鐘の音を聴いたのか疑問視する人もいるが,それより柿はどうしたんでしょう?。茶店に売っていたんでしょうか。それとも,子規は大の柿好きだったそうなので,柿を絶えず持ち歩いていたんでしょうか。この秋は,柿を持参し,この池の傍で12時か2時又は4時に食べてみたい(この時間には時報の鐘が鳴ります)。


法隆寺の東の端一帯は「東院伽藍」と呼ばれ,その中心には国宝・夢殿がある。
ここには聖徳太子が住居として建てた斑鳩宮があったが,太子没後の643(皇極2)年,蘇我入鹿の軍勢により焼き討ちされ,聖徳太子一族も滅亡する。そうした怨念のこもった地に,739(天平11)年行信僧都らによって,聖徳太子の遺徳を偲んで夢殿を中心とする現在の東院伽藍が建造された。「夢殿」の名は,太子が瞑想し夢を見るための室があったことからきているとか。


夢殿の裏に廻ると,聖徳太子が母の穴穂部間人皇后のために建立したと伝えられ中宮寺がある。赤い実をつけた「もちの木(くろがねもち)」の横を通り進むと,池の中に浮かぶように建てられているお堂が目に入る。これは国宝・弥勒菩薩(正式には「如意輪観世音菩薩」)が安置されている本堂で,耐震性を考慮し鉄筋コンクリート造りで昭和43年5月に完成したもの。履物を脱ぎ階段を上がると十畳位の間があり,正面に右手の指先を軽く右頬にふれ半跏思惟のお姿をされた弥勒菩薩様がお迎えしてくれる。釈迦の瞑想の姿を模したものだそうです。こちらも座り,慣れぬ正座思惟してみる。何故こんなに黒いんだろう,としか浮かばなかった。お寺のパンフレットには,スフィンクス,モナリザと並んで世界「三大微笑像」となっている。スフィンクスって微笑んでいたっけ?。通行人に謎かけをし,解けないと殺してしまうというのに。

聖徳太子の里・斑鳩散策(その2)

2014年01月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて


藤ノ木古墳を後にし、法隆寺を過ぎ北に向かう。矢田丘陵の裾野に沿って上って行くと車道に出ます。「松尾山詣での道」と標され、傍に丁標石「十八石」が建てられている。この道は、矢田丘陵上にある松尾寺への表参道なのです。丁標石はその道しるべで、ここが出発点になっている。横の堤は「天満池」で、この周辺には灌漑用のため池が沢山造られている。この天満池と車道を挟んだ横が天満山で、その麓に地域の守り神「斑鳩神社」が鎮座している。車道脇にすぐ石の鳥居、石階段があり近い。境内は狭く小さな神社だが、正月用に飾られ、格式ありそうな落ち着いた風格が漂う。この神社の祭神は菅原道真公だが、ここの境内には総社明神、五所明神(法隆寺東院の総鎮守)、白山権現も祀られている。もともと法隆寺境内に有ったのだが、神仏分離により明治2年(1869)ここに遷祀されたものだそうです。あの法隆寺といえども明治の廃仏毀釈の嵐は避けられなかったようです。

天満池を後にし、法輪寺を目指す。墓地あり、池あり、サイクリングロードあり、そして田畑が広がる中をのんびり20分ほど歩く。車道だが、車の往来は少なく歩きやすい。前方に三重塔が見えてきました。
法輪寺前を左に曲がり細道を進めば、民家の込み入った一角に国史跡「三井(みい)の井戸」跡がある。聖徳太子は我が子の産湯を使うのに三つの井戸(御井、赤染井、前戴井)を掘ったと伝えられ、その古井戸の1つで、「赤染(あかぞめ)の井」とも呼ばれた。聖徳太子と関係がある国史跡だけに,野ざらしの井戸とはわけが違い、瓦葺屋根に覆われ,柵で囲われている。法輪寺の別名である「三井寺」「御井寺」もこの井戸からきているようです。
聖徳太子の長子・山背大兄王が太子の病気平癒を願って建立したとされる法輪寺です。法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔とともに斑鳩三塔と呼ばれる国宝の三重塔が有名でした。ところが1944年(昭和19年)7月21日、落雷により焼失してしまったのです。大東亜戦争の金属供出のため避雷針が撤去されていたのです。戦後、作家幸田文さんらの尽力で再建されましたが、国宝指定は解除されてしまいました。ここにも皇軍の犠牲者(寺)がおられるようです。ところで伊勢神宮の避雷針も撤収されたのでしょうか・・・?

法輪寺から東に歩き、瓦塚池傍の「瓦塚古墳群と三井瓦窯跡(みいがようせき)」を訪ね、そこから法起寺(ほうきじ)へ向かいました。ここの三重塔は、幸いなことに創建当時(八世紀初頭)の姿を残し、国宝にもさらには世界文化遺産にも登録されている。法隆寺など通常は塔が左なのですが、ここの塔は右側に配置された伽藍配置をとっているのが独特。奥の収蔵庫には国指定重要文化財の「木造十一面観音菩薩像」が安置されている。杉材の一木彫で像高350cm。外から金網越しに眺めることができるようになっている。3mを超える仏さまが,金網の向こうの狭い空間に立たされ収容されているお姿は、何か寂しく悲しくも異様です。**所に面会に来たような気分で、解き放ってあげたい気になります。

法起寺から南に下がり、国道25号沿いに出ると、二つの小さな古墳があります。写真では、奥が「駒塚古墳(こまづか)」、手前が「調子丸古墳(ちょうしまる)」です。駒塚古墳は、聖徳太子の愛馬「黒駒」を葬った墓とされる。太子はこの馬に乗り飛鳥の宮殿まで通勤(宮?)されたそうです。そして黒駒の手綱をとり、太子にお供したのが舎人の調子丸。どちらの古墳も、柵で囲われたり、道が無かったりで近寄ることはできない。そして丸く小さくなっているが、開発で周辺が削り取られているようです。どちらの古墳も聖徳太子に関係付けられているが、築造が古墳時代前期後半(4世紀後半)と推定されているため,時代が合いません。あまり細かく詮索しないで、斑鳩は全て太子の里として散策するのが分かりやすく楽しい。

古墳からさらに3~400m南へ下がり富雄川沿いに出ると、上宮遺跡と成福寺跡がある。この周辺は、聖徳太子が最愛の妃・膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)と共に晩年を過ごした「飽波葦垣宮(あくなみあしがきのみや)」の伝承地。太子もこの宮で亡くなったと伝えられている。
平成3年の発掘調査で、大型の掘立柱建物群や軒瓦などが見つかっている。上宮遺跡は公園として整備され、子供達の遊び場に。成福寺のほうは、廃寺となり跡地だけが周囲を金網フェンスで囲まれ残されている。「危険ですので境内への立ち入りをご遠慮ください」の注意書きがある。何が危険なのだろう?。
近年、聖徳太子像が揺らいでいます。私も「歴史の真実を知りたい」という気持ちと、太子のイメージ(多分創作された・・・)を壊したくないという気持ちで揺らいでいます。

詳しくはホームページで。

聖徳太子の里・斑鳩散策(その1)

2014年01月13日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2014/1/2(木)初詣に法隆寺を訪ねたついでに斑鳩を散策することに。
斑鳩小学校の側を通りました。校門と校舎塀が瓦葺き屋根つき,そして土塀風になっている。さすが寺院町の校舎だけあると感心した。塀だけ見ているとお寺と錯覚してしまう。



「ぽっくり往生の寺」「ぽっくり寺」とも呼ばれる吉田寺(きちでんじ)。ご本尊の前で祈祷を受けると、「ぽっくり」と安楽往生できるそうです。嬉しいような悲しいようなお寺さん。また「腰巻祈祷の寺」とも呼ばれるようだが,その由来は不明。





聖徳太子が法隆寺建設の場所を探していると,白髪の爺さんが現れ,この斑鳩の地を示されたという。この爺さん,実は竜田明神さんでこの龍田神社(たつたじんじゃ)に祭られている。
境内には,県指定の天然記念物になっている蘇鉄の巨樹がある。それよりも、広くもない境内に覆い被さっている一本の楠の木の大きさに圧倒されました。

龍田神社を北に丘陵沿いに上っていくと、10分位で藤ノ木古墳のある広場が広がる。その中央に真ん丸い古墳がお皿をひっくり返したように横たわっている。あたかもここに人工的に造られたかのように、矢田丘陵とのバランスも良い。ここも高松塚古墳と同じくらい有名な古墳なので、周辺は整備され解説板やベンチが設置されるなど公園風になっている。


法隆寺が陵山(ミササキ山)としてこの古墳を守ってきたので、盗掘を受けず副葬品がそのままの状態で出土している。また、合葬された二体の人物の人骨が埋葬当時の状態のまま見つかる。金銅製の冠や靴などを身に付けたこの二人は誰なんでしょうか?。人骨の調査では、北側の人物は17~25歳の男性、南側には20~40歳の男性の可能性が高いそうですが、今だ誰なのか確定されていない。場所からして、聖徳太子と関係深い人物であることは間違いないと思われます。
丸い円墳の南側に、中を覗けるガラス窓をもった扉があります。扉は開かないが、人が近づくとセンサーが働き内部の明かりが点く。中を覗くと奥に赤色の石棺が見えます。

詳しくはホームページで。

「磐余(いわれ)の地」を散策

2014年01月04日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2013/12/1(日)、談山神社の紅葉を満喫した後、午後からは「磐余」を歩きます。かって「磐余(いわれ)の地」には、「磐余稚桜宮、磐余甕栗宮、磐余玉穂宮、磐余池辺双槻宮」など古代天皇の宮が築かれました。そもそも
初代神武天皇は「神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)」と呼ばれ、「磐余」の地名が入っている。またここは聖徳太子が青春時代を過ごした場所でもあります。飛鳥以前の古代ヤマト政権を解明するには、とても重要な地域。しかし残念ながら、明日香ほど解明が進まず不明な点が多い。新興住宅など開発がすすみ、ますます困難になっている。一度歩いてみたいと思っていた。


200m級の巨大前方後円墳のメスリ山古墳。天皇陵に匹敵するくらいの規模と出土品だが、被埋葬者が不明で宮内庁の管理下に入っていない。そのため、雑草を踏みしめ自由に中へ入り込めます。木棺を納めた竪穴式石室と国内最大の特殊大型円筒埴輪が発掘された頂上部は、現在その痕跡を示すものは何も残っていません。

メスリ山古墳から300mほど北に、聖徳太子ゆかりの「上之宮遺跡」がある。三方を新興住宅に囲まれ、窮屈そうです。ここで太子は、605年に斑鳩宮に遷るまで、12才~32才の約20年間の青春時代を過ごしたといわれる。確定はされていないが、もうこれ以上の発掘調査は不可能でしょう。

上之宮遺跡から北西300mほどに「艸墓古墳(くさはかこふん)(カラト古墳)」があります。民家にくっついた異様なお墓。古墳の概念から程遠く、”土まんじゅう”のようだ。これでも立派な国の指定史跡です。なお南東部に石室への口が開いており、石室内に入り石棺に触れることもできるそうです。私は見逃してしまって、後悔しています。テッペンには立ちましたが・・・


艸墓古墳からこれまた300m位西に安倍文殊院がある。写真は、赤色だが「白山堂」という縁結びの神社。その横には「合格門」が。”縁結び”も”合格”もご縁がなくなった年になったので素通りです。ここ安倍文殊院は
「文殊の智恵」と、占いの安倍晴明で有名な神社(お寺?)。世相を反映してか、最近は「ボケ防止」にも力を入れられている様子。境内にはボケの花を植えられ、また「ぼけ酒」をNET販売されている。大変お智慧の働く神社のようです。「ボケ防止門」でもできたら、くぐりに来ようかと・・・。

安倍文殊院から300mほど北西に、吉備池がある。この池の傍から1998年(平成10)、百済大寺の跡と思われる大規模な伽藍、塔の壇跡、金堂や塔の周囲を囲む回廊の跡などが見つかった。飛鳥・藤原京の時代、官営の4大寺(薬師寺、元興寺<飛鳥寺>、弘福寺<川原寺>)の筆頭にあたる大官大寺だったが、その存在が判らず「幻の大寺」とされてきた寺です。

最後に、敏達天皇の訳語田幸玉宮跡(おさだのさきたまのみや)を訪れました。現在は春日神社という小さなお社ですが、その狭い境内にそびえ立つ数本の老巨樹に圧倒されます。その巨樹を見ただけで、歴史の重みを感じさせてくれます。

詳しくはホームページで。