山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・東山 紅葉三景 3

2017年12月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年11月28日(火)「ねね」の高台寺、青蓮院門跡、そして最後に永観堂へと紅葉鑑賞へ。最後は「モミジの永観堂」です。

 永観堂:総門・中門へ  



南禅寺から哲学の道へ続く道は「鹿ヶ谷通り」と呼ばれている。桜の季節と紅葉の時期は、人々で大変混雑する道となっています。永観堂の白壁が見えてくると紅色の風景が増してくる。こちらの気分もいやが上にも紅葉(高揚)してきます。入口にあたる総門に着くと、人々でごった返している。

総門から拝観受付のある中門までの参道の紅葉も素晴らしい。長さ100m位の広い参道ですが、人、人、人で溢れかえっている。中門までは拝観料無しで自由に歩ける。背伸びして塀越しに境内の庭園の一部をものぞき鑑賞できます。境内に入らなくても、南禅寺を訪れたついでにちょっと寄ってみる価値はあります。

この中門で拝観料を払う。この時期は「特別拝観 秋の寺宝展」(2017年11月7日~12月6日)開催中で、拝観料は大人1000円(通常は600円)。拝観時間は:9:00~17:00(受付終了は16:00)となっています。

数年前、ここを訪れたが拝観料:千円を見て引き返したのを思い出した。今回は、例え五千円であろうと入る覚悟で来ました。

 永観堂:歴史と境内図  



仁寿3年(853)、弘法大師空海の弟子・真紹僧都(しんじょう 797-873)が都における真言密教の道場の建立を志し、歌人・文人であった故・藤原関雄の故居を買い取って寺院建立の敷地に当てたことが始まり。10年後の貞観5年(863)に清和天皇から寺院建立の勅許を得、同時に「禅林寺」の寺名を賜る。

その後、禅林寺中興の祖とされる第七世永観律師(ようかんりっし、1033-1111)の時に寺は大きく発展する。浄土の教えに感動した永観はやがて熱烈な阿弥陀信者となり、人々に念仏を勧め自らも日課一万遍の念仏を欠かさなかった。そして境内に薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、慈善事業を行いました。そうした偉業のため、禅林寺はいつしか「永観堂(えいかんどう)」と呼ばれるようになり、現代まで続いている。
鎌倉時代に禅林寺12世住職となった静遍僧都(じょうへんそうず、1166年-1224年)は、浄土宗の開祖・法然上人の教えに感銘し、禅林寺を浄土宗の寺とします。
応仁の乱の戦火で伽藍のほとんどを焼失するが、安土桃山時代以降少しずつ復興していく。

現在、正式名は「無量寿院禅林寺」で、浄土宗西山禅林寺派総本山。秋になると「もみじの永観堂」として人々に思い出されるお寺です。皆「永観堂」と呼んでいるが、寺名でもなく、永観堂というお堂があるわけでもありません。正式な寺名は「禅林寺」。いつの頃か”永観堂”と親しまれてきたのが、今では正式名の如くまかり通っている。お寺さんも「永観堂禅林寺」と称するようになっています。

 永観堂:紅葉の境内へ  



永観堂の境内は、大きく分けて二つの部分に分かれています。山側(東側)に諸堂宇が配置され、反対側(西側)には放生池を中心としたお庭が広がる。その間に、二つの領域を分けるように写真の小径が通る。石畳の小径で、左右には紅の絨毯が敷き詰められています。

”ワー、凄い!”という声が飛び交っている。あまり感動することのない俺も、ついつぶやいてしまった。寺院の多い京都には紅葉の名所と云われる箇所が沢山あります。しかし「秋はモミジの永観堂」と云われるだけあって、ここは”ワー、凄い!”。

永観堂は、金閣寺・銀閣寺のようにトコロテン式に押し出される拝観コースが決まっているわけではない。何処を歩こうが自由なのです。しかし漠然と散策するだけでは意味が無いので、拝観順序を決めます。まず多宝塔へ寄り、次に廊下で繋がっている諸堂宇を見て周る。最後に、放生池周辺のお庭を楽しむということにしました。

 永観堂:多宝塔  



「多宝塔入口」の矢印に従って横道に入ると、すぐ渡り廊下が見えてくる。こうした廊下で諸堂宇が結ばれているのです。多宝塔へは、廊下の下を潜って石階段を登って行く。

廊下の下を潜ると、すぐ岩壁が迫っている。その急斜面にへばりつくようにカエデの木が伸びている。これが平安時代の古今和歌集に「おく山の岩がき紅葉散りぬべし照る日の光 見る時なくて」と詠まれ、永観堂七不思議に数えられている「岩垣もみじ」なのでしょうか。
この岩壁に添って、多宝塔への石階段が設けられている。

石階段はかなり急ですが、手すりが設けられているので年配者でも大丈夫でしょう。
多宝塔は昭和3年(1928)建立の比較的新しい建物で、上が円形、下が方形の二重の塔となっている。

多宝塔内部は公開されておらず入ることはできない。なのに何故ここまで登ってくるのか?。それはこの景観です。若王寺山の中腹に位置し、永観堂で最も高い場所にあるので、紅く燃え上がる永観堂全体を俯瞰でき、その先に京都の街並みを一望することができるのです。永観堂きっての絶景スポットといっていいでしょう。

 永観堂:大玄関から古方丈・釈迦堂・唐門  



多宝塔から降り、大玄関に向う。大玄関を入口にして諸堂は渡り廊下で結ばれている。大玄関で履物を脱ぎビニール袋に入れ持参し、各お堂を廻ります。大玄関には受付があり、御朱印の受付もここでやっています。
なお大玄関から各お堂を巡るのに特別な料金はかかりません。自由に何度でも出入りできます。

大玄関を入ると、古方丈、瑞紫殿(ずいしでん)、釈迦堂に囲まれた中庭を眺めることができる。池を中心にした美しい築山泉水庭園で、この時期紅と緑のコラボレーションが見事で、いつまでも見入っていたいがそうもいかない。

永観堂の方丈にあたる釈迦堂は、本格的な書院造として寛永4年(1627)に建立された。六つの間があり、正面中央の間に釈迦如来像が祀られている。
釈迦堂西側の前庭に唐門(勅使門)が見える。名前のとおり天皇とその勅使を迎える門で、文化8年(1811)に再建されたもの(表の説明板では文政13年(1830)再建、となっている)。現在は住職が逝去した時のみ使われるという。門を入った所に、白砂を小判形に盛って市松模様をあしらった盛砂(もりずな)がある。傍の説明板には「清めの砂で勅使の方がこの門を入られ、砂の上を歩いて身を清められた。又昔は夜の月明かりをこの盛砂にうけて、あかり取り、として利用されたという」とあります。

 永観堂:御影堂  



釈迦堂から阿弥陀堂まで、曲がりくねっているが一本の渡り廊下でつながれている。特別に規制は無く、自由に行き来してよいのだが、この時期、人の流れは大玄関・釈迦堂→御影堂→阿弥陀堂へと流れているので、その流れに逆らってバックすることはなかなかできない。流されてゆくままです。流されていても、何処からでも紅葉を鑑賞できる。そこが永観堂のすごいところだ。

御影堂正面の庭。御影堂は、大正元年(1912)建立の総ケヤキ造の仏堂。永観堂で一番大きなお堂で、浄土宗の開祖・法然上人を祀っている。

御影堂南側より、一段高所にある阿弥陀堂を見上げる。どこもかしこみ紅色に染まっている。これだけ紅葉を見てきたので、そろそろ飽きそうですが、そうはならない。まだまだ続きます。

上の写真の廊下から、逆に見下ろした景観。右が御影堂です。

 臥龍廊(がりゅうろう)・三鈷(さんこ)の松・水琴窟  



御影堂から階段廊下を上り阿弥陀堂へ向う。木製階段は短く、変化に富んでいるので楽しい。階段前に見える一本松が、永観堂七不思議の一つに数えられている「三鈷(さんこ)の松」と呼ばれるもの。
通常の松葉は2本ですが、この松の葉先は3本に分かれており珍しいそうです。法具に、「智慧・慈悲・まごころ」を表す法具の「三鈷杵(さんこしょ)」というのがあり、「三鈷の松」の名はそれに由来しているようです。

後日知ったのだが、「三鈷の松」を持っているとお金が貯まるそうです。そして中門隣の売店でタダで貰えるとか。大いに悔やみました。なお写真を拡大してみたが、3本だというのがもうひとつハッキリしなかった。



階段途中で、廊下は左右に分かれる。左側は、開山堂へ続く「臥龍廊(がりゅうろう)」と呼ばれる階段廊下です。廊下のうねりが龍に似ていることから名付けられた。現在、立入禁止になっている。午前に訪れた高台寺にも同じような「臥龍廊」があり、そこも通行不可にされていた。

分岐廊下を右へ曲がるとすぐ「水琴窟」と案内された井戸がある。耳を近づけたが何も聴こえなかった。後で永観堂サイトをみると
「みかえり阿弥陀さまにご参拝の折に静かに水を注いで水滴が奏でる澄んだ音をお楽しみください。
 下の「水琴窟の音」をクリックすると音色をお楽しみいただけます。
  ・水琴窟の音1(Sound of Suikinkutsu 1) (約1分 MP3 サイズ204KB)
  ・水琴窟の音2(Sound of Suikinkutsu 2) (約1分 MP3 サイズ189KB)」
とある。竹網の間から水滴を落さなければ音は出ないのですネ。クリックして音1、音2 を聴いてみました。音量を小さくし音2 を聴くと雰囲気は出ています。音1 は鐘の音のよう・・・。

水琴窟の前にエレベータがみえる。御影堂脇からわずかな高さだが、階段を避けこの場所まで運んでくれる。神社仏閣でエレベータを初めて見ました。場所柄、不似合いな設置物だと思われるが、年老いた方・体の不自由な方なども阿弥陀さまを拝みたいという人は沢山おられます。こうした投資は賞賛に値すると思う(明日は我が身・・・(-.-))。

 永観堂:阿弥陀堂  


渡り廊下終端の阿弥陀堂は、多宝塔を除き一番高い場所にあるので、ここからの紅葉も見ごたえがあります。この阿弥陀堂には、有名な「みかえり阿弥陀」が祀られているが、残念ながら堂内は写真撮影できません。その分、外の景色で・・・。

阿弥陀堂に祀られている本尊の阿弥陀如来像(国重要文化財)は平安時代末期の作で、像高77.6cmと小さな仏さま。この仏様は、左肩越しに後ろを振り向いている独特の姿していることから「みかえり阿弥陀」として有名です。ですから正面から拝するよりは、須弥檀の右側に回ると厨子の右側が開けられており、振り向かれたお顔を拝することができる。
「みかえり阿弥陀」の由来は次のような伝承によるそうです。
永保2年(1082)、永観堂の中興の祖・永観律師50歳の頃、念仏を唱えながらひたすら阿弥陀像の周りを歩く厳しい修行をしていると、目の前の須弥檀からなんと阿弥陀さんが降り立ったといいます。驚き立ち止まった永観律師の方を振り返り「永観、おそし」と声をかけたそうです。そして見返った姿のまま檀へと戻り、今なおその姿勢をとどめ続けていると伝えられている。そいしていつしか「みかえり阿弥陀」と呼ばれるようになった。

阿弥陀堂の正面です。阿弥陀堂は禅林寺(永観堂)の本尊が祀られているので、阿弥陀堂が本堂にあたる。入母屋造り本瓦葺きのこの阿弥陀堂は、慶長2年(1597)に大坂の四天王寺に建立された曼荼羅堂を、豊臣秀頼により慶長12年(1607)に移築されたもの。虹梁と柱には美しい彩色が施され、堂内も色鮮やかで天井には「百花」が描かれている。
阿弥陀堂の正面の階段を降り、ビニール袋から取り出した靴を履く。ここが永観堂の諸堂巡拝の出口になる。

阿弥陀堂前の石の階段を降り、放生池を中心とした庭へ。この石段も、色鮮やかな紅葉のトンネルとなっており、撮影ポイントの一つです。

 永観堂:放生池上の参道  



境内中央を横切る石畳参道に戻ります。永観堂にはイロハモミジを中心に約三千本もの紅葉があり、人々を楽しませてくれる。関西のみならず全国から多くの観光客やって来るそうです。土日祭日は大混雑になるという。写真を撮るのに苦労するのが、いかに顔が入らないようにするか。しかし次から次へと入ってくるので、顔無しで撮るのは無理のようです。

紅く染まるのは樹木だけではありません。足元の地面にも、鮮やかに色づいた落ち葉が広がり、真っ赤な絨毯を敷き詰めたようになっている。上も下も紅色に染め上げられた永観堂の境内です。平安時代から紅葉の名所として知られていたようですが、ここまで完成するには多くの庭師さん達の努力があったものと思われます。

 永観堂:放生池(ほうじょういけ)  



永観堂の西半分は、放生池を中心とした庭園となっている。今、写真を撮っているこの庭園に入る橋を「極楽橋」といいます。この小さな橋も撮影スポットの一つで、場所を確保するのに一苦労する。ここからの景観は、まさに極楽往生の世界のようです。
放生池の中の弁天島に弁天社の祠が建っている。江戸時代の女流歌人で尼僧の大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の寄進により、1866年に建立されたものという。錦雲橋という太鼓橋でつながっているが、通行止めになっていました。

放生池の水面に映し出される「逆さもみじ」も風情がある。楓の木が水紋にゆがみ、これもまた味わいがあります。雨の日はどう変化するのか興味あります。



庭園から見上げる多宝塔も見もの。特に放生池越しの多宝塔の姿は撮影ポイントの一つになっている。紅い花に囲まれた祭壇上の仏様のように見えます。





















 永観堂:お茶屋・幼稚園・楓橋から出口へ  



放生池の傍にお茶屋さんがある。その名も「みかえり茶屋」とか。赤毛せんのまかれた長床机が沢山並べられている。ほぼ満席状態です。永観堂の境内で、ゆっくり休憩できるのはここだけです。今まで休み無しに歩いてきたので、この茶屋で一服することに。空きを探して座っていると、可愛いお茶子さんが注文をとりに来ます。ぜんざいを頂きながら多宝塔を拝観、と思ったが松が邪魔してよく見えなかった。でもこうして座って、紅葉に包まれた池やお堂の屋根を眺めているだけでも幸せを感じます。

放生池の南の端、幼稚園周辺も紅葉が美しい。園児が羨ましいですね。見飽きたって・・・。

お茶屋さんの裏にあるのが楓橋。放生池から小川が流れている。小川と小橋、紅葉と落ち葉、この周辺も風情のある場所です。
この辺りにはプロ風のカメラマンが多い。私を含め素人は、堂とか池とか具象的なものを撮りたがるが、プロは光とか影とか色を求めているようです。
右の建物は、境内図には図書館となっている。僧侶の?、園児の?、僧侶と園児が席を並べているのを想像すると微笑ましいですね。
放生池の横に、なんの説明も無くポツンと与謝野晶子の歌碑が建っています。明治33年秋、晶子は与謝野鉄幹と恋のライバル・山川登美子と三人でここ永観堂を訪れている。翌年には鉄幹と二人だけで再訪した。晶子は恋のライバルに勝ったのです。

出口の中門を出たところ。4時前、昼の部の入場受付終了の時間が近づいている。それでも多くの人が列をなしています。5時にいったん人を出して閉門し、5時半に夜の部(ライトアップショー)の開演。劇場の昼夜入替制と同じ。
私は基本的にライトアップなるものが嫌いです。自然なものは自然な環境で見るもので、人工的に加工された美を見ても感動しない。ところが最近やたらライトアップが増えている。する側にとってはオイシイのでしょうか。

最後に私の少ない体験の中から紅葉ベスト5を。
1位:京都・嵯峨野の化野念仏寺(無数の無縁仏を被うあの紅葉は忘れられない)
2位:ここ
3位:奈良・桜井の談山神社
4位:京都・高雄の神護寺
5位:京都・大原・三千院


詳しくはホームページ

京都・東山 紅葉三景 2

2017年12月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年11月28日(火)「ねね」の高台寺、青蓮院門跡、そして最後に永観堂へと紅葉鑑賞へ。今回は青蓮院門跡の紹介です。

 青蓮院:境内図と歴史  



青蓮院門跡の由緒について、青蓮院の公式サイトは次のように記している。
「日本天台宗の祖最澄(伝教大師)が比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊を幾つも作りましたが、その一つの「青蓮坊」が青蓮院の起源であると云われています。伝教大師から円仁(えんにん、慈覚大師)、安恵(あんね)、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊でした。
平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称せしめられたのが門跡寺院としての青蓮院の始まりであり、行玄が第一世の門主であります。その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族であるか、五摂家の子弟に限られていました。」

名称「青蓮」は、最初に比叡山東塔南谷(現在の大講堂南の崖下付近)に作られた住坊が、その近くに青蓮池があったことから「青蓮坊」と呼ばれたことに由来する。山下へ移転した当初は現在地のやや北西にあたる三条白川の地にあったが、河川の氾濫を避けて鎌倉時代に高台の現在地へ移ったという。
名著「愚管抄」で有名な慈円(関白藤原忠通の子)が第3代門主に、室町時代には第3代将軍・足利義満の子・義教が義円と称して門主を務めた(後に還俗し第6代将軍に就く)。近代までの門主の内訳は、皇子は12人、皇族は13人、摂関家子弟は13人、足利家は1人。
天明の大火(1788年)で内裏が焼失した時には、女帝・後桜町上皇(第117代)が青蓮院に一時的に避難され、地名から「粟田御所」とも呼ばれた。このため現在、青蓮院旧仮御所(仙洞御所)として境内全域が国の史跡に指定されています。

門跡寺院といえど明治の廃仏毀釈によって大きな打撃を受ける。境内は五分の一に減らされ、さらに明治26年(1893)の火災で建物のほとんどを焼失した。現在の建物はそれ以後に再建されたものです。
戦後では平成4年(1993)、茶室「好文亭」が過激派(中核派)によって放火されるという事件まで遭遇している。

天台宗の寺院で、山号はなく、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。「青蓮院(しょうれんいん)」とも「青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)」とも呼ばています。門標、拝観券、公式サイトとも後者の表記となっている。

 クスノキの大樹  



円山公園、知恩院前を通りすぎ、平安神宮へと続く道です。人通りも、車も少なく、京都でも大変気に入っている道の一つ。歩いていると右手土手堤に大楠木が現れる。枝を大きく広げ道に被さり、日陰をつくってくれる。大クスノキの後方にあるのが「御幸門(四脚門)」で、江戸時代初めに御所の旧殿の門を移築したものです。明治26年の火災をまぬがれている。

この大クスノキこそ青蓮院のシンボルです。車道沿いの土手に2本、表門へ向う右手に2本、境内の宸殿前庭に1本、と5本あります。いずれも大枝を四方に伸ばした姿は圧巻です。青蓮院が現地に移された頃に植えられたそうで、樹齢は800年を越えている。京都市天然記念物に指定されています。

車道から入口の表門へ。右土手上に「長屋門」があり、門の両側に2本の大クスノキがそびえる。「長屋門」も、「御幸門(四脚門)」同様に江戸時代初めに御所の旧殿の門が移築されたもの。

 植髪堂  



表門を潜り、右へ曲がると青蓮院の主要伽藍へ、左へ進めば植髪堂です。植髪堂へは何時でも自由にお参りできる。

養和元年(1181)、9歳の親鸞は青蓮院第3代門主・慈円のもとで得度(出家し仏門に入る)した。その時切り落とした髪が、親鸞の親族によって保管され、親鸞聖人の童形像の頭上に植えつけられていた。その後、その像が青蓮院に移されとという。
「童形像」が安置されている植髪堂は、1759年に建立され、1880年現在地に移転。蓮如も青蓮院で得度を受け、「本願寺の法王は明治までは当院で得度しなければ公に認められず、また当院の脇門跡として門跡を号することが許された」(青蓮院受付で頂いたパンフより)という。
現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深く、大クスノキの下には「親鸞聖人得度聖地」と刻まれた大きな石碑が建てられています。

 玄関から華頂殿・小御所・宸殿へ  



ここら辺りまでは自由に散策できる。正面が事務所で、玄関で履物を脱ぎビニール袋に入れ持参する。玄関を上がり拝観受付をする。
拝観時間 9:00 - 17:00
拝観料 大人500円(ライトアップ拝観料金 大人800円)

玄関から奥へ進むと客殿の華頂殿です。大変綺麗なお部屋で、この建物だけは内部を撮影できる。蓮の描かれた襖絵は絵師・木村英輝氏が描いたもの。また三十六歌仙の額絵が掲げられている。廊下に座って、室町時代に相阿弥によって造られたと言われる美しい庭園を眺めるのも良い。(写真は、高台にある好文亭から撮った華頂殿)

渡り廊下から見た小御所(左)と宸殿(右)。華頂殿から始まり、各建物は渡り廊下でつながれているので、まず建物内部を見てまわる。といっても建物内部は撮影不可なので紹介できませんが・・・。そして華頂殿の脇から降りて履物を履き庭園に入る、というのが拝観コースになっている。

小御所は、天皇が一時的に仮御所として使用された建物。明治26年(1893)に焼失したが、その後復興された。

小御所への渡り廊下の脇に、横に長い大きな手水鉢が置かれています。これは太閤豊臣秀吉の寄進により聚楽第より移されたもので、「一文字手水鉢」と呼ばれている。








渡り廊下を通り宸殿へ。宸殿入口にトレイレがあります。
Wikipediaから引用します。「小御所の西側に建つ、寺内で最も大きな建物。東福門院の御所が寄進されたもの。入母屋造、桟瓦葺きで、明治26年(1893年)の焼失後の復興である。「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。なお、1962年に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている。」
またこの宸殿には「おみくじ」が置かれ、日本のおみくじの元祖だそうです。

 相阿弥の庭園  



廊下から地に降り靴を履き、トンネル(?)を抜けるとそこは美しい庭園だった。

小御所から華頂殿前までの庭園は「相阿弥の庭」と呼ばれている。室町時代に相阿弥(そうあみ)によって造られたと伝わる美しい築山泉水庭園。相阿弥は能阿弥の孫で水墨画家として名高いが、作庭家でもあった。粟田山の山裾を借景にして、龍心池を中心に巨石や石組みを配し、築山や滝をバランスよく置いている。この時期、鮮やかな紅葉と築山の緑が対照的で、見飽きません。



龍心池は小御所の高欄の下にまで入り込むようにのび、そこでは鯉が戯れていました。










 霧島の庭  



「相阿弥の庭」の小径を、華頂殿前を抜けて北へ行くと、そこは紅葉の美しい「霧島の庭」です。

江戸時代の小堀遠州作と伝えられる庭で、山裾斜面一面に霧島つつじが植えられていることから「霧島の庭」と呼ばれている。5月初旬にはこの一帯を真っ赤に染めるあげるという。秋の紅葉も見事で、青蓮院の紅葉ではここが一番でしょう。

 茶室・好文亭  



霧島の庭から少し高所へ上ると茶室・好文亭がある。近づくと、いきなり奥から和服の超綺麗なお嬢さんが現れたのでビックリした。「お茶をどうですか」と。上がるべきかどうか悩むが、お茶を嗜むような柄でもないので止めました。
この建物は、1772年に学問所として建立されたもの。天明8年(1788)に後桜町上皇が青蓮院を仮御所として一時避難された際には、上皇の御学問所として使われた。明治以降は茶室として利用されていたようです。

この好文亭は、平成5年(1993)4月に過激派(中核派)の放火により焼失するという不幸な事件に遭います。何故、中核派が狙ったのでしょうか?。2年後に再建されている。
青蓮院門跡のサイトは「焼失前の図面と、本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に、江戸時代の本格的数奇造りを忠実に再建しました。木材等の材質も全く同じで、完全復元されましたた。内部は四畳半の茶室三部屋と六畳の仏間、水屋等からなります。障壁画十三画は、日本画の大家、上村淳之画伯の御奉納による花鳥図です」と紹介している。

好文亭は、毎年春と秋の特別拝観期間にだけ茶室が一般公開されています。

 本堂(不動堂と熾盛光堂)  



高台の好文亭から降りると、本堂の裏に出る。本堂は二つの部分からなっている。青不動明王を祀る不動堂、そして熾盛光堂(しじょうこうどう)です。

不動堂の扉が開いていて、青不動明王(レプリカ?)らしきものが垣間見えます。この不動堂には国宝の「青不動明王」(絹本著色「不動明王二童子像」)が祀られていたが、平成26年(2014)からは、青蓮院裏側の山頂に新しく建てられた将軍塚の青龍殿の方に移された。「日本三不動」(他に三井寺の黄不動、高野山明王院の赤不動)の一つに数えら、「青不動」と呼ばれている。


本堂を裏手から西側に回りこむと、熾盛光堂(しじょうこうどう)の正面に出る。方三間の小さなお堂ですが、ここに青蓮院の本尊である熾盛光如来の曼荼羅が安置されている。豊臣秀吉により寄進され、安土・桃山時代の文禄5年(1596)に絵師・狩野左京により描かれた絹本著色「熾盛光如来」(200.1㎝×143㎝)の掛け軸です。通常は非公開。



 宸殿の前庭  



本堂から宸殿の前庭を通って出口に向う。この宸殿の前庭が、青々と苔むし、緑に囲まれ美しい。今まで艶やかな紅葉を見てきた後だけに新鮮に感じられます。宸殿前には右近の橘、左近の桜も植えられ、皇室と縁の深い寺であることを示している。

宸殿側から撮ったもの。こうした庭には和服が似合います。元々は白砂の広がる庭だったようですが、スギゴケの庭に替えられたそうです。またこの庭には青蓮院五大クスノキの一本もそびえています。

軒唐破風、こけら葺きの「大玄関(車寄せ)」を右手に見ながら出口へ。

「モミジの永観堂」へ向います。


詳しくはホームページ

京都・東山 紅葉三景 1

2017年12月15日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年11月28日(火)
11月末、そろそろ紅葉シ-ズンも終えようとしている。定まらない天気予報が続き、お出かけ日がなかなか決まらない。やっと28日(火)が快晴のようだ。京都の嵯峨野か東山か迷ったが、京都を代表する「紅葉の永観堂」に惹かれ東山山麓に決めました。東山山麓の紅葉の名所には、清水寺、知恩院、南禅寺などもあるが、欲張るのは無理で、「ねね」の高台寺、青蓮院門跡、そして最後に永観堂へというコースにする。

 ねねの道・台所坂  



八坂神社、円山公園を経て清水寺へ続く道を歩く。この周辺は1998年に、電線を地下に埋め、石畳を敷きつめ環境美化された。そして高台寺までが、今までの「高台寺道」という名称から「ねねの道」という親しみやすい名前に改称されました。何時歩いても心落ち着く小径です。
ところで秀吉の正室を「北政所」というが、本名(幼名)は「ねね」です。天正13年(1585)、秀吉が関白に任ぜられると同時に朝廷から「北政所」の称号をもらったのです。
「ねね」については異説があるようで、Wikipediaには次のような記述があります。
「ちなみにNHKの大河ドラマにおいては高台院が初めて登場した昭和40年(1965年)の『太閤記』以降、長年「ねね」が用いられてきたが、平成8年(1996年)の『秀吉』以降は、『功名が辻』を除いて劇中では「おね」の呼称が使われている。さらに、平成28年(2016年)の『真田丸』では「ねい」(表記は「寧」)が使われた。」

高台寺へ続くこの石の階段は「台所坂」と名付けられています。階段横の「総合案内所」とある小屋は、高台寺の案内所で、お寺の人が常駐し説明や客引き(失礼!)をやっておられます。
この反対側に高台寺の塔頭寺院「圓徳院」がある。ここは秀吉死後、北政所(ねね)が秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭を移築して住み、高台寺造営に当たった所。北政所は19年間ここで生活し、日々前の階段(台所坂)を登り高台寺の秀吉の霊を弔ったという。そしてここで亡くなられました。
清水寺への道で、ここら辺りまでが和やかな道です。ここから先は、チャイナ語やハングルが飛び交い、修学旅行生が行列をなす雑踏の道で好きになれない。



60mほどの台所坂は、傾斜が緩く、そのうえ段差、段幅とも優しく造られている。後期高齢者(俺も!)も楽に登れます。手をつなぐご夫婦、おばあちゃんの手を引く女子大生風・・・をよく見かけ、本当に心和む坂道です。
春は青葉の、秋には紅葉のトンネルとなり、たとえ高台寺へ寄らなくても、この道順から清水寺へ進むのがベストでしょう。しつこい人力車をも避けられます。

ところで”台所坂”の名はどこからきているのでしょうか?。名前からして由来がありそうですが、調べたが見つかりませんでした。

階段の上で山門が出迎えてくれる

山門を潜ると左に高台寺の伽藍が見える。右に進むと、京都市内を一望しながら産寧坂を経て清水寺へ行けます。

 高台寺: 境内図と歴史  



正面の建物は庫裏。左側に拝観受付所があります。

高台寺の歴史についてWikipediaを引用すれば
「豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月心尼)は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため、東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗建仁寺派の大本山である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。
北政所の兄・木下家定は建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の七男が三江紹益のもとで出家していることも、この改宗と関連すると言われる。なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没している。」

造営に際しては、徳川家康が豊臣家への政治的配慮から多額の財政的援助を行い、お寺の規模は壮麗雄大だったようです。しかし寛政元年(1789)2月焼失、その後も何度か火災に遭い、わずかに表門、開山堂、霊屋と茶室の傘亭・時雨亭(いずれも重文)観月台が創建時の建造物として残っているのみです。

臨済宗建仁寺派の寺院で、山号は鷲峰山(じゅぶさん)で、正式名称を「高台寿聖禅寺」という。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院です。「高台寺」の名は、北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である「高台院」からきている。

★拝観受付所
 拝観休止日:なし ※悪天候などによる拝観休止あり
 拝観時間:9:00~17:00(受付終了) ※夜間特別拝観期間は21:30(受付終了)
 拝観料:大人600円 中高校生250円 小学生以下無料(保護者同伴) 
  *圓徳院、掌美術館との3カ所共通拝観券900円

 高台寺: 湖月庵・遺芳庵(いほうあん)  



拝観受付所から奥に入ると、茶席・湖月庵と鬼瓦席がある。この近辺の紅葉も鮮やかで綺麗だ。

湖月庵からさらに裏に回ると田舎屋風の小さな建物が見えてくる。これが茶席・遺芳庵(いほうあん)です。
京都の豪商であった灰屋紹益(はいやしょうえき)が、夫人であった島原の芸妓・吉野太夫を偲んで上京区に建てたもの。明治41年(1908)に紹益の旧邸跡からここへ移築されました。壁一杯に開けられた丸窓が特色で、「吉野窓」と呼ばれている。

 高台寺: 方丈と波心庭  



境内の中央に位置し、一番大きな建物が「方丈」です。方丈は、伏見城から移築された建物だったが火災に遭い、現在の建物は大正元年(1912)に再建されたものです。本尊の釈迦如来坐像が祀られている。

枯山水式庭園で「波心庭」と呼ばれている。白砂が敷き詰められ、東西に並んだ二つの立砂に波紋が描かれています。正面に見えるのは、大正元年(1912)に方丈とともに再建されたも勅使門。右端に少しだけ見えるのが唐門で、この近辺に植えられている枝垂桜の見事さは春の名所となっている。

 高台寺: 開山堂と庭園  



方丈の東には、広い池泉廻遊式庭園が広がる。庭園の中央には、偃月池と臥龍池に挟まれ開山堂が建つ。庭園は、小堀遠州の作庭と伝わり、国の史跡・名勝に指定されています。

偃月池を跨ぐように屋根付の廊下が設けられている。その中ほどにある少しだけ飛び出た建物が、秀吉遺愛の「観月台」(重要文化財)。一間四方と小さく、ここだけ檜皮葺きで唐破風造りの屋根となっている。ここから北政所は亡き秀吉を偲びながら月を眺めたそうです。

中門を入り、偃月池と臥龍池に挟まれた道を進めば開山堂(重要文化財)です。慶長10年(1605)に北政所の持仏堂として建てられたが、その後、高台寺に貢献された人の木像を祀る仏堂になっている。
中央奥に高台寺第一世の住持・三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に徳川家康の命を受け高台寺の普請に尽力した堀直政像を安置している。

開山堂の天井には特色があるといわれるので、外から覗き撮りさせてもらいました。
左側(外陣)の天井は、秀吉が使用していた御座船の天井そのものだそうです。漆黒の格子とくすんだ金色が歴史を感じさせてくるます。右側の内陣の天井は、北政所が使っていた御所車の遺材を用いたものだそうです。






 高台寺: 臥龍廊(がりゅうろう)  



開山堂から右上の高台にある霊屋へ、屋根付き廊下が通っている。半分は階段になっており、横から見たその形状が龍の背に似ていることから「臥龍廊(がりゅうろう)」と呼ばれる。渡ることはできません。

上の霊屋から見た臥龍廊。全長約60mくらい。この臥龍廊を渡って、秀吉とねねが祀られている霊屋へ登ることができたら、また違った感慨を受けることでしょうが・・・。人が殺到し、構造上耐えられないのでしょう。



 高台寺: 霊屋(おたまや)  



開山堂東横の高台に霊屋が建ち、臥龍廊で開山堂と繋がっている。霊屋(おたまや、重要文化財)は北政所(ねね)の墓所です。内陣中央の厨子内には大随求菩薩像が安置され、その右に豊臣秀吉の坐像が、左に北政所の片膝立の木像が配されている。北政所は自らの像の約2メートル下に葬られています。
建物は慶長10年(1605)に建てられたもので、屋根上に宝珠を乗せた宝形造檜皮葺きの堂。霊屋は火災に遭わず、創建時のままといわれるが、外見は綺麗に見える。改修を受けているのでしょうか?。屋根裏、棟木などに極彩色の飾り付けがなされ、墓所とは思われないような華やかさだ。

写真には撮れないが、内部の厨子や須弥壇などの堂内装飾に壮麗な蒔絵が施され、「高台寺蒔絵」と呼ばれています。また北政所所用と伝えられている多くの調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、高台寺は「蒔絵の寺」とも称されている。

霊屋前からの眺め、左が方丈、右が開山堂、そして臥龍池。高台にある霊屋から眺めた紅葉が、高台寺では一番綺麗です。池とお堂がより冴えます。

 高台寺: 傘亭・時雨亭  



霊屋手前に、さらに高台へ登る石の階段がある。登ると「傘亭」と「時雨亭」という二つの茶室が並んでいます。

傘亭は厚い茅葺きの屋根をもつ茶室。茶室にしては頑丈そうに見えるのは、伏見城から移されものだからでしょうか。内部には天井がなく、屋根裏は竹が放射状に組まれており、唐傘を広げたように見えることから「傘亭」と呼ばれている。「安閑窟」が正式名称で、重要文化財指定されている。

傘亭と屋根付きの土間廊下でつながった、もう一つの茶室「時雨亭」。こちらは二階建てで、これも伏見城からの移築といわれる。傘亭同様に重要文化財。「なお廊下は移転時に付加されたもので、両茶室はもともと別々に建っていたと考えられる」そうです。

この高い位置にある茶室からは、遠く大阪市内まで見通せる。大阪城落城のとき、北政所はこの高台寺にいたという。北政所(ねね)はこの二階建ての茶室で、炎上する大阪城をどのような気持ちで眺めていたのでしょうか。そしてこの9年後に、この高台寺で息を引き取ります。

 高台寺: 竹林・雲居庵  



高台から下へ降りていく途中に竹林の道がある。華やかな紅葉を見てきた後だけに、いっそう清々しい気分にさせてくれます。

竹林の道を過ぎるとお茶席「雲居庵」。これで高台寺境内を一周したことになる。最後はこの茶席で一服。ここの庭の紅葉も素晴らしい。お茶を味わいながらこの美しい紅葉を鑑賞って最高・・・、私は鑑賞だけでしたが。

出口を出てもまだ高台寺の境内です。天満宮や販売店、お茶所が並んでいる。鐘楼の所からの眺めも良い。京都市内が見渡せます。鐘楼には慶長11年(1606)銘の入った梵鐘(重要文化財)が吊るされていたが、老朽化のため2010年に外され、今は二代目が吊られている。

次は青蓮院門跡へ。


詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 5

2017年12月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 鳥羽離宮とは  



(現在の鳥羽の地と鳥羽離宮跡 - 京都市埋蔵文化財研究所のサイトより)
鴨川と桂川の合流点附近に位置する鳥羽の地は,陸路は山陽道,水路は淀川を経て瀬戸内海へ通じる水陸交通の要所でした。運ばれてくる物資の多くは,都に最も近い鳥羽の港で陸揚げされました。鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。

鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。鴨川と桂川の合流点附近に位置する鳥羽の地は、京への入口として水陸の要所だった。と同時に水の豊かな風光明媚な土地として、貴族達の別邸が建ち並び狩猟や遊興の地としても知られていた。現在の京都市南区上鳥羽,伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯です。

応徳3(1086)年11月、第72代白河天皇(1053~1129)は父・後三条天皇の遺言「次は輔仁親王(白河天皇とは異母弟)を天皇にせよ」を無視し、まだ8歳だった自分の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位してしまう。自分は上皇となり、実子の幼帝を後見するため自ら政務に介入するようになった。上皇は「院」とも呼ばれていたので、これが歴史上「院政」と呼ばれる政治システムの始まりです。

これと同時に鳥羽離宮の造営も開始される。院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上すると、諸国から資材が集められ、造営工事が行われた。後の南殿(現在の鳥羽離宮公園付近)です。また貴族や院近臣たちに宅地を与え、周辺に住まわせたという。「あたかも都遷(みやこうつり)の如し」のようだった、と噂されたそうです。
白河上皇は、熱心に仏教を信じ、嘉保3年(1096)の寵愛していた皇女の死を機に出家し、法名を「融観」として法皇となった。そして東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重塔を建立。堀河天皇崩御後は、自らの孫で5歳で即位した鳥羽天皇、更に曾孫の崇徳天皇と3代にわたって幼主を擁し、以後43年間にわたり院政を敷いた。鳥羽離宮は、ただの隠居所ではなく、院政政治の拠点ともなりました。大治4年(1129)、77歳で崩御。

鳥羽天皇(1103~56)は、保安4年(1123)に第一皇子・崇徳天皇に譲位し上皇となる。しかしまだ実権は白河上皇が握っていた。白河上皇の死後(1129)、子の崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡って鳥羽上皇の院政が行われた。鳥羽上皇も鳥羽離宮の拡張に努め、継続して殿舎が増築された。東殿に安楽寿院を付設し、田中殿、泉殿をはじめとして増設が繰り返された。鳥羽上皇の代にほぼ完成し,14世紀頃まで代々院御所として使用されました。
そして鳥羽上皇も東殿(安楽寿院)に本御塔(ほんみとう)と新御塔(しんみとう)の2つの塔を造営し、本御塔を自らの墓所と定める。保元元(1156)年,鳥羽上皇が安楽寿院で亡くなると,遺言に従い本御塔に埋葬されました。

鳥羽離宮の復原イメージ(上記サイトより)
鳥羽離宮は、幾つもの御所と御堂と庭園・苑池から成り立ち、東西1.5キロ、南北1キロのその広大な敷地は約百八十町(180万平方メートル)あったそうで、京都御苑の3倍(甲子園球場約26個分)といわれる。東には鴨川(旧)が、西には桂川(旧)が流れ(現在は、流れが変更されている)、その合流地点で水の豊かな土地。
離宮西端には「鳥羽の作道」(とばのつくりみち)が通っていた。これは平安京の朱雀大路を真南に真っ直ぐ伸ばした約3キロの道で、都と鳥羽とを結んでいる。

鳥羽離宮を構成する南殿・北殿・東殿・馬場殿(城南宮を付設)・泉殿・田中殿などの御所には,それぞれ御堂が附属し,その周辺には広大な池を持つ庭園が築かれました。離宮内への各御殿には舟で往来していた。
鳥羽離宮は、院政という政治の場でしたが、同時に末法の時代を反映し多くの寺院が造営され、更には遊興の地でもあった。
その後院政は、更に後白河上皇、後鳥羽上皇まで4代150年続くが、院政の終焉とともに離宮内の建物は姿を消していき、南北朝時代の戦火によって、多くの建物が焼失し、その後急速に荒廃していった。
現在は、すぐ傍に名神高速道路京都南インターチェンジが現れ、工場や倉庫などの点在する住宅地となり、鳥羽離宮を偲ばせるものは安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみとなっています。

 鳥羽離宮跡公園  



現在の鴨川沿いに「鳥羽離宮跡公園」があります。これは鳥羽離宮で最初に造営された南殿の跡が整備され公園とされたもの。現在、国の史跡公園に指定されています。公園といっても遊具や施設が見られず、広いグラウンドがあるだけです。グラウンドの片隅で、おじさん、おばさん達がゲートボールに興じられていた。

公園北に、樹木に覆われた土盛りがあります。鳥羽離宮では、四季の山になぞらえて四つの山が庭園内に造られた。この土盛りは、その中の一つで「秋の山」と呼ばれ、地上に明確に残るほぼ唯一の鳥羽離宮の庭園遺構だそうです。また、公園北側には「中島秋ノ山町」という町名が残っている。なお、城南宮の庭園・楽水苑内に「春の山」が新しく造られています。
最上部に石碑が建てられていたが、文字が読めず、何の碑なのか判らない。明治45年2月という建立日だけが判明。

南殿の復原図(公園内の案内板より)。現地案内板には
「昭和38年から42年にかけて調査し、建物と庭園の跡を確認したもの。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる」
「南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中門廓・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている」とあります。



 鳥羽伏見戦跡  


鳥羽離宮跡公園内の土盛り「秋の山」の傍に、「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋」という解説版が設置され、その横に新政府軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)と幕府軍(会津藩、新撰組)の布陣図まで置かれている。解説板は、文字がかすれ読みにくいので、全文を紹介します。

「鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地 小枝橋
小枝橋は、慶応4年(1868)正月三日、京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。大政奉還し大阪城にいた徳川15代将軍慶喜は、薩摩を討つため上洛を決意します。大阪から淀川を上って竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本体が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、伏見街道周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。
「将軍様が勅命で京に上るのだから、通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩のアームストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍1万5千人と新政府軍6千人の激しい戦いが始まります。こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」は、ここ伏見から始まったといえます」


鳥羽離宮跡公園から北へ少しいった車道脇に「鳥羽伏見戦跡」の石柱が建てられている。案内板には「明治元年(1868)正月3日(太陽暦1月27日)夕方、この付近での戦が、鳥羽伏見戦の発端となった。王政復古ののち、将軍の領地返納をきめた朝廷、薩摩、長州藩らの処置を不満とした幕臣、会津、桑名軍は、正月1日挙兵、大阪から京都へ攻め入ろうとし、薩摩、長州軍はこれを迎えうった。城南宮には、薩摩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍、幕府大目付滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとするのを阻止して、談判の後、ついて薩摩軍から発砲した。この一弾があたかも合図となって、戦端はひらかれ、鳥羽伏見両方面で激戦がつづき、正月6日幕府軍は敗退した。この一戦をきっかけに、戊辰(ぼしん)戦争が始まった。伏見区中島秋ノ山町」とあります。戦いの発端となった小枝橋がこの付近にあったのでしょうか。

 城南宮(じょうなんぐう)  


城南宮の東の入口
城南宮の創建には諸説あるが、城南宮公式サイトには「延暦13年(西暦794年)の平安京遷都に際し、都の安泰と国の守護を願い、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を八千矛神(やちほこのかみ)と息長帯日売尊(おきながたらしひめのみこと)に合わせ祀り、城南大神と崇めたことが城南宮のご創建と伝え、城南宮とは平安城の南に鎮まるお宮の意味です。」と記載されている。息長帯日売尊とは神功皇后のことです。
平安後期に鳥羽離宮が造営されるとその一部となり、馬場殿にあった城南寺の鎮守社となる。応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって復興され、この地方の産土神として崇敬されてきた。

境内は開放されており無料で自由に拝観できる。庭園の神苑「楽水苑」だけ有料です。
参道を進むと、右側に朱鳥居、その奥に拝殿、本殿が現れる。朱鳥居の最上部には屋根が葺かれ、その下に城南宮の御神紋「三光の紋」が輝く。太陽と月と星を組み合わせた非常に珍しいもので、神功皇后の軍船の旗印にちなんだものだそうです。方除けの神徳を表し、城南宮は方除け、交通安全、旅行安全の神として信仰されている。

鳥居の横に水屋があります。この湧き水は、伏見の名水10ヶ所の一つ。傍の説明板によれば、「延命水」「菊水若水(きくすいわかみず)」とも呼ばれ、この水を飲むとあらゆる病気が治る。東大寺のお水取りの水は、若狭の国からこの「菊水若水」を通り二月堂の若狭井に達するそうです。

能舞台風の拝殿の背後に本殿がある。しかし本殿は現在、平成の御遷宮の最中で覆いが被され見ることはできません。平成30年秋を目指して修復中とのこと。
祭神は息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)・八千戈神(やちほこのかみ、大国主神)・国常立尊(くにとこたちのみこと)。
現在は、普請・造作・転居・旅行・交通安全など方除け(ほうよけ)の神社として広く信仰されてている。

「熊野詣出立の地」の立て札が立つ。それによれば、白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の熊野御行では、鳥羽離宮で方除けの精進を勤め旅の安全を祈願し、近くの鳥羽の湊から舟に乗り淀川を下って難波津より陸路熊野に向かわれた。

本殿、拝殿、神楽殿など城南宮の建物の外側を一周するように庭園「楽水苑」が設けられている。昭和の造園家・中根金作氏(1917-1995)の作庭によるもので、四季折々の草花を観賞できるようになっている。
庭園入口は拝殿の左にある。境内は自由に参観できるが、この楽水苑は入園料が必要です。大人:600円、中小学生:400円。入園時間は:9時~4時半まで。

庭園に入ると、まず「春の山」と源氏物語の世界が迎えてくれる。
鳥羽離宮では、四季の山になぞらえて四つの山が庭園内に造られた。その中の一つ「秋の山」が鳥羽離宮跡公園内に現存しています。ここ城南宮の中に「春の山」が再現されたのです。「秋の山」と同じように築山され、春には椿やしだれ梅などが彩りをそえる。またその周辺は「源氏物語の庭」と称され、紫式部、夕顔、桐など源氏物語に登場するほとんどの植物が植えられています。

境内の東側に広がるのが「平安の庭」。平安貴族の邸宅の庭に倣って造られたという。池と植栽、苔の美しい庭です。
「平安の庭」の南側に、苔むした広場があり、池から流れ出る小川が曲がりくねっている。ここが毎年4月29日(昭和の日)・11月3日(文化の日)に催される「曲水の宴(きょくすいのうたげ)」の場所です。王朝時代を偲ばせるその優雅な催しは、写真では見たことあるが実際に見てないので、城南宮公式サイトより紹介すると

「木漏れ日もやわらかな平安の庭を、ゆるやかに曲がりながら流れる一筋の遣水(やりみず、小川)の辺(ほとり)で、雅やかな曲水の宴を行っています。この曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけて宮中で催された歌会を再現した行事で、京都を代表する年中行事に数えられ、次のような次第で行われます。
 色とりどりの平安時代の装束を身につけた7名の歌人(男性5名は狩衣[かりぎぬ]、女性2名は小袿[こうちき]を着用)が席に着くと、1人ずつ歌題を確認します。そして歌人が遣水の傍らの座に着くと、中央の舞台で白拍子の舞がしずしずと披露されます。次いで2人の水干(すいかん)姿の童子が朱塗りの盃にお神酒を注ぎ、羽觴(うしょう、鴛鴦[おしどり]の姿を象った盃台)に載せ、川上から次々に流します。琴の音が響く中、歌人は歌題にちなんだ和歌を詠み、それぞれ短冊にしたためます。そして、和歌を書き終えた歌人は、目の前に流れて来た羽觴を取り上げ、盃のお神酒をいただくのです。全員が和歌を詠んで盃を飲み終えると童子が短冊を集め、これら7首の和歌は、平安時代さながらに節をつけて神職によって朗詠され、神様に奉納されます。
こうして、春は新緑の中、秋は紅葉が色づき始める神苑で、約1時間にわたって王朝の雅な世界が再現されます。」

午後2時よりおよそ50分間、平安の庭で斎行される。当日は、神苑楽水苑が無料公開され自由に観覧できる。ただし混雑が予想され、観覧者多数の場合は危険防止の為、入場制限を行うそうです。

楽水苑はグルッと一周しているので一度参道へ出る必要があります。参道を横切ると、次なる庭園への入口が見える。入園券なしに勝手にはいることはできません。可愛い巫女さんがチェックしています。

再入場すると、まず現れるのが「城南離宮の庭」、そして最後に広々とした池泉廻遊式庭園が現れる。「室町の庭」と「桃山の庭」です。右の刈り込みは山並みを表し、芝生の海には島が点在し、右端の松は船の形になっている。写真手前には茶席「水石亭」があり、庭園を眺めながら季節のお菓子とお抹茶を味わえるそうです。

 田中殿と西行寺跡  



新城南宮通りを渡り、200mほど行くと高速道路に突き当たり、その手前が田中殿公園です。町工場が立ち並び、すぐ横が名神京都南インターチェンジで、その近辺にラブホテルが乱立する。環境は最悪で、離宮を示すものは公園名以外に何も見られなかった。

田中殿は,鳥羽上皇が離宮内に造営した最後の御所で、皇女八条院のために建立したもの。西には寝殿、東には金剛心院などが建ち,庭園や池があり,舟つき場を備え南殿や東殿などと繋がっていた。
それらの遺構が見つかっており,現在,その跡が「田中殿公園」として整備されたものです。

田中殿から安楽寿院へ向う途中、住宅に挟まれた狭い空き地に西行寺跡(さいぎょうじあと)がある。「西行寺跡」と刻まれた石と、小さな祠が並んでいるだけです。ここは西行(俗名:佐藤義清)が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられています。江戸時代に西行寺が建てられ、境内には月見池・剃髪堂があった。西行寺は、明治11(1878)年観音寺(伏見区竹田西内畑町)に併合され、現在は西行寺跡を示す石碑が残されているだけです。

 白河天皇 成菩提院陵と北向不動院  



西行寺跡から、本通りに出て150mほど南へ歩くと「白河天皇 成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)」です。ここは鳥羽離宮の泉殿内に位置し、白河上皇は自らの墓所として三重塔を建立した。大治4(1129)年、77歳で崩御すると,火葬後,遺骨は一旦香隆寺(こうりゅうじ,北区)に埋葬された。三重塔に付属して御堂成菩提院が完成すると,遺言に従って三重塔の下に改葬されました。

Wikipediaによれば「白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。法皇の遺体を荼毘に付したとされる火葬塚は京都市北区の金閣小学校の近くに現存する。」

宮内庁の陵形名は「方丘」となっている。現在、33メートル四方の正方形の盛り土があるだけで、三重塔は失われている。発掘調査によると、元は一辺56メートルの正方形で,周囲には幅約8メートルの周濠が巡らされていたそうです。

白河天皇 成菩提院陵から車道を渡り、少し行くと北向不動院(きたむきふどういん)がある。
案内板によると,大治5(1130)年鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮の安楽寿院内に興教大師を開山として創建されたという。もとは天台宗延暦寺末寺でしたが,現在は単立寺院。

南の入口から入り、奥へ進むと本堂が北向きに建つ。この本堂には、興教大師が仏師康助に刻ませた本尊の不動明王(重要文化財)が祀られています。王城鎮護のため北向きに安置されたことから,鳥羽上皇から「北向不動院」の名を賜ったといわれています。
本尊の不動明王は秘仏ですが、鳥羽上皇の誕生日である毎年1月16日に行われる「御開扉特別加持祈祷」のときだけ開扉されるそうです。大護摩が修され、護摩の煙にあたると一つだけ願い事がかなうという。俗に「一願の護摩」と呼ばれている。

 安楽寿院(あんらくじゅいん)  



安楽寿院内の案内図より

鳥羽離宮内の南殿には証金剛院が、田中殿には金剛心院が、北殿には勝光明院が建てられたが、現存していない。この安楽寿院は東殿に設けられたもので、唯一現存している遺構です。
安楽寿院は保延3(1137)年,鳥羽上皇の御願によって東殿に創建された御堂で、阿弥陀三尊像が安置された。その後、三重塔(本御塔、ほんみとう、後の鳥羽上皇の墓所),九体阿弥陀堂,新御塔,不動堂も相次いで建設されました。
平安後期以降は、戦乱などで多くの伽藍を焼失し衰退していく。安土桃山期に豊臣秀吉・秀頼父子の支援のもとに復興し、規模は縮小されたものの維持されてきた。幕末の鳥羽・伏見の戦(1868年)では官軍(薩摩軍)の本営となり明治維新の一役割を担う。しかし明治の廃仏毀釈で伽藍、末寺、土地の多くを失う。戦後も災いは続き、昭和36(1961)年の第2室戸台風で大きな被害を受けている。建物の多くはその後に修理再建されたものです。
現在、真言宗智山派に属す。市指定史跡。

左太師堂、右は薬師堂と鐘楼。
大師堂は、安土・桃山時代(1596)に建立され、弘法大師像を祀っています。
薬師堂は台風による倒壊後、1959年に建立されたもの。かっては阿弥陀堂と呼ばれ、本尊の阿弥陀如来像が安置してあった。鐘楼は、江戸時代(1606年)に、豊臣秀頼による大修復の際に建立された。柱、梁にのみ当時の材を残す。

薬師三尊・釈迦三尊・阿弥陀三尊の三体からなる三尊石仏が、江戸時代に境内の西にあった成菩提院跡から出土した。平安時代の貴重な遺仏といわれる。そのうち最も保存状態のよい阿弥陀三尊像は京都国立博物館に寄託され、博物館の前庭に置かれている。残り二体がこうして小屋の中に、向かって右に釈迦三尊、左に薬師三尊が安置されています。



 近衞天皇安楽寿院南陵  



安楽寿院の諸堂とは道を挟んで反対側に、近衞天皇安楽寿院南陵(このえてんのう あんらくじゅいんみなみのみささぎ)がある。
1157年、鳥羽天皇の皇后・美福門院の葬所として新御塔(しんみとう)が建てられました。1160年美福門院は亡くなったが、その遺言に従い遺骨は高野山に葬られた。そのため、既に亡くなっていた息子の近衛天皇の遺骨を知足院(ちそくいん,北区紫野)からこの新御塔に移し改葬されたのです。

遺骨が納められた新御塔ですが、現在の多宝塔は慶長11年(1606)、豊臣秀頼によって再建されたもので、その中に骨臓器が納められている。宮内庁も「陵形:多宝塔」としている。土盛りされた丘や石塔などがほとんどの歴代天皇陵だが、こうした建物形式の陵墓は非常に珍しい。

 鳥羽天皇安楽寿院陵  



境内の道を西へ歩くと、突き当たりに石標「白河法皇・鳥羽法皇院政の地」と「冠石」が置かれている。そこを右へ曲がるとすぐ鳥羽天皇安楽寿院陵(とばてんのう あんらくじゅいんのみささぎ)です。
下々をそんなに叱りつけなくても・・・

鳥羽上皇は、白河上皇に倣って生前に自らのの墓所として安楽寿院内に三重塔(本御塔)を造られていた。保元元年(1156)7月に崩御された鳥羽上皇は,遺言に従って三重塔(本御塔)の下に埋葬されました。第一層の須弥檀上には上皇の念持仏だった阿弥陀如来坐像が安置された。
当初の本御塔は永仁4(1296)年に焼亡。現在の御陵は元治元(1864)年に造営された法華堂です。なお、宮内庁発表の公式形式は「陵形:方形堂」となっている。


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