山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

聖護院から真如堂へ 3(真如堂)

2022年01月08日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
紅葉の美しい真如堂へ、時間があるので近くの天皇陵、吉田神社へも足を向けました。

 真如堂 1(総門から三重塔へ)  



■★~ 真如堂(しんにょどう)の歴史 ~★■
永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧・戒算(かいさん)が夢告によって、延暦寺の常行堂に安置されていた慈覚大師・円仁作の阿弥陀如来像を、現在地近くにあった東三条院藤原詮子(円融天皇の女御で一条天皇の生母、藤原道長の姉)の離宮に遷座し安置したのが始まりとされる。
正暦3年(992年)一条天皇の勅許を得て離宮は寺に改めら、本堂(真如堂)が創建された。

「その後、一条天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として浄土宗の開祖法然上人や浄土真宗の開祖親鸞聖人をはじめとする多くの念仏行者や民衆の篤い信仰を集め、特に女人の深い帰依を受けてきました。全国の浄土系のお寺で行われる「お十夜」法要の発祥の地であり、また慈覚大師が唐より招来した「引声念仏」を伝承する、四季折々に美しい念仏の寺です。
しかしながら、応仁の乱(1467 - 1477)の戦禍に遭い、ご本尊は比叡山の黒谷、滋賀県穴太に遷座。その後、足利義政公の妻、日野富子の帰依を受けて旧地に複座するも、足利義輝公の菩提を弔うために室町勘解由小路に移転。さらに一条西洞院に移転した後、豊臣秀吉公聚楽第建設に伴って寺町今出川に移転(1578年)。元禄6年(1693)の東山天皇の勅により、ようやく現在の地に戻って再建されました。」(拝観受付で頂いたパンフより)
焼失、再建を繰り返した本堂だが、享保2年(1717年)に現在の本堂が完成する。

真如堂境内は西向きに配置されているので、入口にあたる総門は一番西側に位置している。紅葉時期なのでそれほど目立たないが、丹色に塗られ「赤門」とも呼ばれています。元禄8年(1695)建立で、京都府指定文化財。

正式名は「鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)」。この場所が、古くから神楽岡と呼ばれ、「仏法有縁真正極楽の霊地」とされていたことから由来するようです。「真如堂」とは元々は本堂の呼び名だったが、寺全体の呼び名として親しまれてきた。所在地は「京都市左京区浄土寺真如町82」だが、比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院です。
この総門は「真如堂西側の神楽岡(吉田神社)の神々が夜にお参りに来る際につまずかないように敷居がないとされています」(公式サイトより)

総門(赤門)から本堂へ真っすぐのびる広い石畳の参道は、その先に紅葉に覆われた緩やかな石段へと続く。この鮮やかな石段は紅葉の名所・真如堂の最初の紅葉スポットです。参道の左右には多くの塔頭寺院が並んでいます。

石段を登り切って振り返った参道。聖護院、金戒光明寺と比べ、紅葉で名高い真如堂だけあって人出は多い。

石段をあがった右側に三重塔がそびえる。宝暦年間(1751~1764)に建立された後、現在の三重塔は江戸時代後期文化14年(1817)に再建されたもの。本瓦葺で高さ約30メートル。第一層に多宝塔が祀られている。

この三重塔周りも紅葉スポットで、多くの人がカメラを向けている。
「春は新緑に包まれ、夏には青空が映える。秋、紅く染まったもみじ葉の間から見る姿も美しい。冬のうっすら雪を被った姿は枯淡の味わいがあるなど、四季それぞれ飽きることはない」(真如堂発行の小冊子より)

三重塔前、石段参道脇に小さなお堂がある。「殺生石」でできている鎌倉地蔵を祀る地蔵堂で、能の演目「殺生石」の物語に由来する。家内安全、福寿、延命などの他、冤罪を晴らし心の病を治すご利益があるとされています。
悪狐の魂が石と化して生き物を殺すので「殺生石」と呼ばれ恐れられていた。室町時代、玄翁禅師が殺生石をたたき割り、割れた石の一つで地蔵菩薩を刻み鎌倉のお堂に祀った。後の江戸時代に、ここ真如堂に移されたという。

参道を挟んで三重塔の反対側に建つのが元三大師堂(京都府指定有形文化財)。元禄9年(1696)建立で、元三大師の画像が祀られている。比叡山延暦寺第18代座主慈恵大師良源(912-985)は正月三日に亡くなったことから「元三大師(がんざんだいし)」と呼ばれた。また「降魔大師」とも呼ばれ、礼拝すれば降魔厄除けの御利益があるという。
堂前に建つ石灯籠は「琵琶湖疎水の工事の総責任者である田辺朔郎氏の感謝の意を込めて、明治38年(1905)、疎水によって恩恵にあずかった北白川の人たちが贈ったものである」(真如堂発行の小冊子より)

 真如堂 2(本堂・庭園)  



参道の正面に本堂が建つ。「真如堂」とは、元々この本堂の名前だったが、いつのまにか寺全体の名称になった。正暦3年(992)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたが、その後の戦乱で焼失、再建を繰り返し、享保2年(1717)に再建されたのが現在の本堂です。
本瓦葺の入母屋造り、正面七間、側面七間の欅造り。使われている建材には「○○家先祖代々菩提の為」と浄財を寄進した人の名前が記されているそうです。
本堂正面に掲げられた「真如堂」の大額は、享保11年(1726)に宝鏡寺宮から奉納されたもの。これ「真如堂」と読めますか?

むかって本堂左前に、2008年「京都・映画誕生のの碑」が建てられた。明治41年(1908)、日本映画の父・牧野省三(1878-1929)によって日本で最初の時代劇映画「本能寺合戦」がここ真如堂境内で撮影された。その百年目を記念した碑です。

本堂前の大樹は「菩提樹」。お釈迦様がこの木の下で悟りを開かれたとされ、「菩提(ぼだい)」とは「正しい悟りの智」を意味する「ボ-ディ」を音写したもの、と説明書きがある。

本堂正面で履物を脱ぎそこに置き、階段から本堂に上がります。本堂内へは無料で入れます。

縁から本堂内部を覗きました。「本堂内部は自由に拝観いただける外陣(げじん)と、金箔の天蓋や瓔珞(ようらく)で厳かに飾られた祈祷や修行の場である内陣(ないじん)、さらには御本尊の阿弥陀如来がまつられた須弥壇(しゅみだん)がある内々陣(ないないじん)に分かれています。外陣と内陣との結界には、大涅槃図(3月)、観経曼荼羅(11月)が飾られます。また、内陣左脇の仏間には、中央に文殊菩薩像、両脇に天台大師像と伝教大師像がまつられています。なお、11月1日~11月25日には本堂で観経曼陀羅の特別公開も行います。」(公式サイトより)

(写真は拝観受付時に頂いたパンフより)
本尊阿弥陀如来立像(国重要文化財)は「像高108cm、様式検討から10世紀末、本堂創建当初から伝わる仏像だと考えられ、平安中期まで坐像が多い阿弥陀如来像の立像としては現存最古例である」(Wikipediaより)
「ご本尊は、慈覚大師円仁が滋賀県の苗鹿明神から賜ったという栢の霊木で彫られたもので、その完成間際、大師が「比叡山の修行僧のための本尊になってください」と眉間に白毫を入れようとすると、如来は首を振って拒否されたという。「それでは都に下って、すべての人々をお救いください。特に女の人をお救いください」と言われると、如来は三度うなづかれたところから、「うなづきの弥陀」と呼ばれている。その後如来は比叡山常行堂にまつられていたが、真如堂開祖戒算上人と願主東三条女院の端夢に「早く京に下すべし」というお告げがあり、女人禁制の比叡山から東三条女院の離宮に遷座された」(真如堂発行の小冊子より)

本尊の脇士には、平安時代の陰陽師・安倍晴明の念持仏といわれる不動明王、伝教大師最澄作と伝わる千手観音が祀られています。これらの仏像は秘仏として通常は非公開だが、年に一日だけ、お十夜結願法要の11月15日にご開帳される(有料)。

本堂内の外陣の端に特別拝観(11/1~12/8)の受付があり、本堂北側にある書院、涅槃の庭、随縁の庭が見学できます。
拝観時間:9:00~16:00(受付は15:45まで)
拝観料:大人1,000円、中学生900円

受付を済ませ、本堂西側から回廊に出ると、書院へ続く渡り廊下が伸びている。

渡り廊下は書院へ続いている。書院の部屋内には自由に出入りでき、写真も撮れる。ということはそれほど価値はない・・・。

書院東側には、「涅槃」の図を表現したとされる「涅槃の庭」(ねはんのにわ)がある。
「天龍寺や東福寺などの名刹や宮内庁の庭園管理を手がけてきた名造園家・曽根三郎氏が1988年に作庭した枯山水です。入滅(お釈迦様の最期)をモチーフに、北を枕にして横たわるお釈迦様とそれを取り囲む仏弟子や生類を石組みで表し、ガンジス川の流れを白砂で描き出しています。稜線をなぞるような有機的な生け垣の向こうには、比叡山や大文字山を含む東山三十六峰を望めます。心静かに穏やかに、いつまでも眺めていたい情景です。」(公式サイトより)

書院の北側に周ると、重森三玲の孫・重森千靑により2010年に作庭された“随縁の庭”がある。小さいながら洒落た庭です。説明書きには「「随縁」とは「随縁真如(ずいえんしんにょ)」の略で、「真理が縁に従って種々の相を生じること」、つまり「真理は絶対不変でも、それが条件によって様々な姿を見せること」をいう仏教の言葉です。この庭は背後にある仏殿の蟇股に付けられた四つ目の家紋をモチーフに、葛石で仕切られた中の「四つ目」の四角や菱形が、白川砂、さび砂利、黒砂利、たたき、苔などとの縁によって、様々な様相を見せています。また、石や砂利、苔などが、天候や日差しの当たり方によっても姿を変え、その様子はまさに「随縁」です。」。またもや難解な意味付けだ。庭は、無意味でシンプルなのがいい。
真如堂は財閥・三井家の菩提寺、後方の仏殿の蟇股に付けられた「四つ目結」は三井家の家紋です。

 真如堂 3(紅葉)  



庭園を見た後、本堂に戻る。本堂は紅葉に取り囲まれているので、本堂の縁を周って紅葉を鑑賞する。
写真は本堂の背後(東側)です。

本堂の南側に周ると、三重塔が見えます。

本堂の正面(西側)から眺める。

こちらは本堂の北側。

本堂を降り、今度は本堂周りの境内を一周してみます。写真は本堂の南側。この南側から本堂背後にかけても紅葉スポットで、燃え上がる火炎が本堂を包んでいるかのようです。またこの辺りは紅い落ち葉の絨毯も楽しめる。

本堂の裏側(東側)で紅葉の絨毯が美しい。渡り廊下、書院が見える。

本堂の北側。

 陽成天皇陵  



真如堂を見学し終えたのが3時過ぎ。時間があるので近場を徘徊することにした。真如堂の総門(赤門)を出て、西へ真っすぐ進むとすぐ吉田山です。この吉田山の東側に陽成天皇陵と後一条天皇陵があります。さらに吉田山の西側へ周ると吉田神社がある。そう遠くないので寄ってみます。数分で右手に陽成天皇陵が見えてくる。

第57代陽成天皇(ようぜいてんのう、868-949、在位:876-884)は第56代清和天皇の第一皇子。母は当時最大の実力者藤原基経の妹・皇太后藤原高子。諱は貞明(さだあきら)。生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876)に9歳で父・清和天皇から譲位され即位。幼少であるため、伯父の藤原基経が摂政として政治を行った。
元慶4年(880)12月清和上皇が崩御すると、摂政・基経と母・高子の兄妹間の不仲と権力争いもあり、天皇と基経との関係も悪化していった。
元慶6年(882)、陽成天皇元服を境に基経は豹変し、摂政返上を願い出て宮中への出仕を拒否するようになった。そのような時、宮中で殺人事件が起こる。

「基経の出仕拒否からしばらく後の元慶7年(883)11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されるという事件が起きる。事件の経緯や犯人は不明とされ、記録に残されていないが、陽成が事件に関与していたとの風聞があったといい、故意であれ事故であれ、陽成自身が起こしたか少なくとも何らかの関与はあったというのが、現在までの大方の歴史家の見方である。宮中の殺人事件という未曾有の異常事に、基経から迫られ、翌年2月に退位し、太上天皇となる(ただし、公には病気による自発的譲位である)。幼少の陽成にはそれまでも奇矯な振る舞いが見られたとされるが、退位時の年齢が17歳(満15歳)であり、殴殺事件については疑問点も多く、高子・陽成母子を排除して自身の意向に沿う光孝天皇を擁立した基経の罪を抹消するための作為だともいわれる。」(Wikipediaより)
真相は定かでないがこの事件を機に基経に譲位を迫られ、2ヶ月後の元慶8年(884)2月に皇統の違う大叔父の時康親王(第54代仁明天皇の第3皇子)に譲位した(第58代光孝天皇)。陽成天皇17歳の時で、在位は8年間だった。その後長生きし、82歳で没するまで65年間も上皇の地位にあった。これは歴代上皇の中で最長です。上皇となってからは、歌会等を開きながら政治にかかわることなく長い余生を過ごしたという。

天暦3年(949)9月、冷然院で崩御。その夜、棺は円覚寺に移され、10月3日に神楽岡東地に葬られた、という記録が残る(『日本紀略』巻4)。しかし中世(鎌倉時代-室町時代)以降は所在不明になり、江戸時代にはいっても様々な説が入り乱れ、その場所は明らかではなかった。安政2年(1855)、京都町奉行が現在地の吉田山(神楽岡)の東にあたる真如堂の門前の小丘を陵所とした。これが現在の陵です。なぜここなのか、全く根拠はありません。
幕末の文久2(1862)年から始まった「文久の修陵」で、「陽成天皇神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)」と命名し、八角形に整形され植樹し、周囲に堀、外堤、拝所、参道が新設され、現在目にするような外観となったのです。


空中写真で見ると、植樹された円丘があり、それを取り囲むように八角形に整地されている。山も無ければ、大きな森もない。住宅地の中の児童公園のようです。


宮内庁の公式陵形は「八角丘」。八角墳といえば天智天皇陵、天武・持統天皇陵など平安時代以前に見られただけだが、他の天皇陵は円墳にしているのだが。何故幕末になって突然八角墳を採用したのか判然としない。天智・天武の時代を理想としたのでしょうか?。







 後一条天皇陵  



陽成天皇陵から100mほど西へ行き、右側の道に入ると、小高くなった所に天皇陵の見慣れた構えが現れる。こここが後一条天皇陵です。吉田山の東側に位置し、東面して設けられている。

第68代後一条天皇(ごいちじょうてんのう、1008-1036、在位:1016-1036)は第66代一条天皇の第二皇子。母は藤原道長の娘・彰子(しょうし/あきこ)。諱は敦成(あつひら)。その誕生は道長にとって待望の外孫皇子の出生で、藤原氏の栄華のきっかけとなり、「紫式部日記」にも記されている。
道長は第67代三条天皇に退位の圧力をかける。三条天皇は息子・敦明親王を次の皇太子にすることを条件に退位し、ここにわずか8歳の後一条天皇が即位する。幼帝のため道長が摂政となり権勢を振るった。後一条天皇11歳の時、道長の三女・威子(いし)を中宮(皇后)とする。母の妹で、叔母にあたる。これで道長の長女・彰子が一条天皇中宮、次女・妍子が三条天皇中宮と、道長の三人の娘が全て同時に中宮になるという(天下三后)、全く前例のないことだった。道長が自らの栄華を詠った有名な歌「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」はこの頃のものです。
後一条天皇はこの時代には珍しく他の妃を持たず、皇后威子との間に二皇女を設けたが世継ぎの皇子にはめぐまれなかった。当初は三条天皇の皇子・敦明親王を皇太子としたが、道長の圧力で辞退させ、代わりに後一条天皇の同母弟の敦良親王(後朱雀天皇)を立太子させた。

後一条天皇はたいした事績のないまま長元9年(1036)4月に在位20年、29歳で亡くなった。「栄花物語」に飲水と痩身の症状の記載があるので、今でいえば糖尿病だったのではないかとされている。天皇の遺詔によって、自らの喪を秘して弟の敦良親王(後朱雀天皇)への譲位の儀を行なったとされる。そしてその半年後、後を追うように妃・威子も疱瘡で亡くなっている。

記録によると、神楽岡東辺で火葬され遺骨は近くの浄土寺に安置された。火葬所の跡に母・彰子は伽藍を建て、天皇の供養を行いこれを菩提樹院と号した。その後、菩提樹院へ遺骨を移し山陵とした。しかし戦乱などの影響をうけ、中世、江戸時代を通じて所在不明となる。
幕末になって現在地が火葬所とされ、明治22年(1889)年に火葬所が陵に治定され「後一条天皇陵」と名付けられた。同時に西に接する小墳を娘の二条院の墓と定めた。明治39年(1906)、二条院の墓とともに「菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)」と改称された。

ここには後一条天皇と娘・章子(しょうし/あきこ)の二人の墓があるという。合葬ではないだろうし、二つの墳墓がはっきりしない。
後冷泉天皇皇后章子内親王(1026-1105)は後一条天皇の第一皇女、母は藤原道長の娘・威子(いし)。9歳の時に父帝と母を相次いで亡くした。12歳で従兄弟にあたる皇太子親仁親王(後の第70代後冷泉天皇)に入内、親王の即位に伴い中宮になる。後冷泉天皇の崩御後、延久元年(1069)に出家し「二条院」の院号を授けられる。80歳で亡くなり、父後一条天皇と同じ菩提寿院陵に葬られたという。

宮内庁の公式陵形は「円丘」。吉田山を背にし南東を向いた円墳で、高さ約3m、径約35mの規模。
他の大半の天皇陵と同じく、この場所が埋葬地だという根拠は全く無い。幕末から明治の初めにかけ、万世一系の天皇制国家を打ち立てる必要から、早急に全ての天皇の陵墓を確定する必要に迫られていたのです。

 吉田神社 1  



吉田山の西側へ周る。その辺りは京都大学の広大な敷地が広がり、吉田神社の表参道は大学の構内を通って入っていく雰囲気だ。紅い第一鳥居から真っすぐな参道が吉田山へ向かって続いている。

■★~ 吉田神社の歴史 ~★■
貞観元年(859)、中納言藤原山蔭が藤原氏の氏神である大和・春日大社四座の神を吉田山に勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。藤原山蔭の孫娘が藤原兼家に嫁ぎ詮子を生み、詮子は円融天皇の后となって一条天皇をもうけた。それ以来皇室の崇敬を受けるようになる。永延元年(987)に一条天皇が即位して詔を下し、吉田祭は朝廷の官祭(公祭)としての祭礼になる。正暦2年(991年)には朝廷より特別の奉幣を受け、二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。
平安中期の卜部兼延が吉田社の祠官となって以来、社務職は卜部氏の世襲となる。卜部(うらべ)氏は元々、宮廷の祭祀に関わり鹿卜や亀卜の占いにをつかさどってきた氏族。兼延は、一条天皇から「兼」の字を与えられ、子孫は代々名前に兼の字を付けるようになる。鎌倉時代の兼煕のとき吉田氏に改称した。。南北朝時代の1360年、二十二社の正一位を授けられた。

(大灯篭の背後に「皇太子殿下御誕生記念 昭和十年 春日会」とある)
南北朝の戦乱、応仁・文明の乱(1467-1477)で被害を受け廃れる。乱後、吉田兼倶(よしだかねとも、1435-1511)という神主が復興に尽くす。吉田兼倶は吉田神道(唯一神道)を唱え、将軍足利義政夫人・日野富子に接近し、その援助により文明16年(1484)、境内に末社・「斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)」を建立し拠点とした。大元源神を天照大神以下の八百万神の根源として祀り、周囲に全国の式内社3132座の神々を、奥の左右に伊勢神宮の内宮・外宮もここに降臨したとして祀られた。朝廷、幕府に取入り神祇官復興の勅許を得て、自ら神祇管領長上を名乗のり、神位・神職の位階、神号、神殿、祭礼に対する許可する権限を得て全国の神社を支配した。その子孫は明治維新まで神祇管領長上として吉田神道の頂点にあり、明治期には子爵となっている。
吉田神社の信仰の中心は大元宮に移り、こに参ると全国の神社に参ったのと同じ効験があるとされ、庶民の信仰を集めた。
天正18年(1590)、第107代後陽成天皇の勅命により、宮中にあった神祇官八神殿を大元宮の背後に移した。そのため宮中で行われていた神祇官作法は斎場所で行なわれることになる。
1601年、現在の大元宮社殿が再建されている。
1648年、現在の本殿、若宮社が建てられた。
1685年、舞殿、直会殿、着到殿などが建立される。

(第二鳥居)しかし明治時代になると、国家神道は伊勢神宮が中心となる。吉田神社に与えられていた神祇裁許状は奪われ、神祇官八神殿は皇居(東京)に再遷座された。こうして吉田神道は崩壊、大元宮は吉田神社の単なる末社とされ、吉田神社の中心は春日四座を祀る元の社殿に戻ることになった。吉田神社は官幣中社に列せられたとはいえ、ごく普通の神社にその姿を変えていったのです。

第二鳥居の先の左手にあるのが末社の今宮社。鎮座の年代は不詳だが、文化13年(1816)に現在地に造営され、木瓜大明神(こうりだいみょうじん)と称して吉田町の産土神とされた。拝殿があり、その奥に祭神の大己貴神・大雷神・健速須佐之男命を祀る本殿がある。
本殿をとり囲む玉垣の四隅に方位を守る霊石である四神石が置かれている。東北隅には無いので不思議に思ったが、本殿内陣に置かれているそうだ。

緩やかな石段を登れば、そう広くない広場だ。広場に掲げられた大雑把な境内図で、現在の吉田神社の姿がうかがわれます。

広場の中央に、しめ縄で囲まれた丸い火炉が見えます。境内の案内板に「毎年節分の日を中心に三日間行われる節分祭は、疫神祭、追儺祭、火炉祭の三部にわかれ、追儺祭は「鬼やらい」としてとくに有名で、毎年多数の参拝者でにぎわう。」とある。吉田神社の節分祭は有名で、二日目に行われる火炉祭で、参拝者が持参した古いお札を焼き納め、厄をはらいをする。その時に使用する火炉です。

広場左側に紅い第三鳥居が建ち、「吉田社本宮」の額がかかる。拝殿があり、その奥に御廊をもった中門が控え、さらにその奥に本殿が建つ。中門から奥へは入れないので、本殿の姿は見れません。
第一殿~第四殿からなる4棟の本殿は慶安年間(1648-52)に再建され、奈良の春日大社を模して建てられた朱塗りの春日造りで、4棟とも同じ造りだそうです。御廊、中門、4棟の本殿は京都府指定有形文化財です。祭神は勧請元の奈良の春日大社と同じで、第一殿から建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いはいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)を祀る。

 吉田神社 2  



広場の山側に巻物をくわえた鹿の像が鎮座している。奈良の春日大社の由縁と同じで神鹿です。その脇に、しめ縄の巻かれた大岩が置かれている。傍の説明版には「国歌君が代に詠まれているさざれ石」とあります。国歌発祥の地といわれる岐阜県春日村から運ばれたものだそうです。その由来は、平安時代にあるお偉い方が、春日村の谷間の渓流に山積するさざれ石を見て「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」と詠み、古今集にも採録されているという。

広場の南側に小さな池が見える。「竜沢池(たつざわのいけ)」と呼ばれ、奈良の猿沢池を模してつくられたという。どこまでも奈良の春日大社を意識しているのだ。

広場奥の階段上に摂社・神楽岡社がある(写真左)。この地の地主神また雷除の神を祀る。
さざれ石の横の階段上にあるのが摂社・若宮社(写真右)。本殿第三殿の天之子八根命の御子の「天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)」を祀っています。これも奈良の春日大社の若宮神社を模したもののようです。

広場から南側へ向かって境内参道がのびている。この参道を入ったすぐ左脇に菓祖神社(かそじんじゃ)がある。昭和32年(1957)に京都菓子業界によって創建された比較的新しい社。祀られているのはお菓子の神様とされる次の二神。第11代垂仁天皇の命を受け、果物の祖とも言われる橘を日本に持ち帰ったとされる田道間守命(たぢまもりのみこと)、室町時代に来日し初めて餡入りの饅頭を作り広めたという林浄因命(はやしじょういんのみこと)。
周辺には、菓子業者から奉納された玉垣がずらりと並んでいます。何故、菓子業界は吉田神社を選んだのでしょうか?。

境内参道中ほど右に、吉田神社の開祖・藤原山蔭を祀った末社・山蔭神社(やまかげじんじゃ)がある。石柱には「料理飲食祖神」となっており、説明版に「わが国においてあらゆる食物を調理調味づけられた始祖であり、古来包丁の祖、料理飲食の祖神にして崇敬厚き神である」と書かれている。四条流庖丁道の創始者だそうです。包丁さばきにも流派があるのですね。昭和32年(1957)、全国料理関係者により創建された新しい社です。

200mほどの境内参道は斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)に達して終わる。ここ大元宮は、明治時代に入るまで吉田神社の中心として人々の信仰を集めてきた。さらに数々の特権を得た吉田神道の大本として全国の神社を支配してきた。その始まりは、室町時代の文明16年(1484年)、神主・吉田兼倶(よしだかねとも、1435-1511)が吉田神道(唯一神道))を唱え、千界万法の根源を太元尊神とし、大元宮を造り祀ったことにある。

「吉田兼倶は文明年間に森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を考え、大成すると、室町にあった自邸に虚無太元尊神を祀る社・大元宮を建て、その祭祀を行い始めた。そして、兼倶はいよいよ吉田神道を目に見える形にして一般に広めようとし、また本格的に伊勢神宮を含む全国の神社を吉田神社の統制下に置こうと考え始めた。そこに、日野富子などからの寄付もあって、文明16年(1484年)に吉田神社の現在地に新たな社・斎場所大元宮を創建すると、11月24日に自邸から虚無太元尊神を遷座した。主祭神虚無太元尊神の周りには、その虚無太元尊神の作用によって生じた天神地祇八百万大神の他、全国の神々を祀っている。この大元宮を拝むことは日本中の全ての神社を拝んだことに等しいとし、神社自体の格も伊勢神宮よりも上であるとした。」(Wikipediaより)

神祇斎場所として全国の神を勧請し祀り、さらに伊勢内宮・外宮の神職間の紛争に乗じて伊勢神宮の神器が神楽岡に降臨したとして伊勢内宮・外宮の神々まで斎場所内に祀るにいたった。こうして天照大神以下の八百万神は大元尊神に帰することとなった。また朝廷、幕府に取入り神祇官復興の勅許を得て、自ら神祇管領長上を名乗のり、神位・神職の位階、神号、神殿、祭礼に対する許可する権限を得て全国の神社を支配した。
天正18年(1590年)には後陽成天皇の勅命により、宮中で祀られていた天皇の守護神である神祇官御巫祭神八座(神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神・大宮売神・御食津神・事代主神)を祀る八神殿を大元宮の背後に遷座して祀った。そのため宮中で行われていた神祇官作法は斎場所で行なわれることになる。
こうして大元宮は全国の神社の頂点に立つだけでなく、伊勢神宮をも上回る地位を得ることになった。

赤鳥居を潜った先に中門があり、神域は廻廊で囲まれている。中門から奥へは入れないので、中門から覗き込むようにして大元宮の本殿の写真を撮った。通常の神社には見られない特異な形が異様だ。全国の神社の頂点に立つ神社として、一般的な神社形式と異なるこうした特異な形態にしたものと思われます。屋根の中央にはめ込まれた額は「日本最上日高日官 大元宮」と読むのでしょうか?。どういう意味でしょう?。大元宮は「日本最上神祇斎場所日輪太神宮」とも呼ばれるそうなので、それと関連するのでしょうか。。

説明版に「本殿(重要文化財)は慶長6年(1601)の建築で、平面上八角形に、六角形の後房を付した珍しい形をしている。屋根は入母屋造で茅葺、棟には千木をあげ、中央には露盤宝珠、前後には勝男木を置く特殊な構造である。この形式は密教・仏教・陰陽道・道教などの諸宗教、諸思想を統合しようとした「吉田神道」の理想を形に表したものといわれる」とあります。

内部は覗うことができないので、GoogleEarthで空から眺めました。本殿が八角殿というのはよく分かるが、六角形の後房というのはよく分からない。後方の空き地に、天照皇大神を祀る東神明社、豊宇氣比売神を祀る西神明社が見える。それぞれ伊勢内宮・外宮の神様です。その周辺には全国の式内社全3132座の神々が祀られ、宮中から移された八神殿もあったようですが、現状は取り壊されたのかその跡地だけが見えます。

中世末から近世にかけて一時代を築いた大元宮だが、明治維新によって吉田神道は崩壊する。神道裁許状の特権は剥奪され、神祇官八神殿は皇居(東京)へ再遷座された。国家神道は、天皇家の祖先である天照皇大神を直接祀る伊勢神宮を中心に再構築されたのです。そして大元宮は吉田神社の一末社となり下がり、吉田神社も春日四座を祀る普通の神社にその姿を変えていったのです。

なお、斎場所大元宮の内部は、「正月三が日・節分祭・毎月1日」には無料で公開されるようです。



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