山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

京都・きぬかけの路 3(仁和寺)

2021年05月23日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年4月10日(土曜日)
朱山七陵の次は「花まつり」開催中の仁和寺へ。宇多天皇陵などの天皇陵もいくつかあるので訪ねます。

 仁和寺1(歴史と境内図)  



竜安寺を後にし仁和寺へ向かいます。住宅街に挟まれた金閣寺~竜安寺間の道と違い、竜安寺~仁和寺の間は緑におおわれ気持ちよく歩ける。15分ほどで仁和寺の仁王門(におうもん)が目の前に現れ、その豪華さに圧倒されます。

高さ18.7m、重層、入母屋造、本瓦葺で、建築形式は平安時代の伝統である和様で統一されている、そうです。説明版に「和様=日本在来の様式。鎌倉時代(1185-1333)の大仏様・禅宗様建築に対し、奈良時代(710-794)に中国から移入された系統の建築様式」とあります。江戸初期の寛永の仁和寺再興時に、徳川家光の寄進によって建てられた。重要文化財で、知恩院、南禅寺の三門とともに「京都三大門」に数えられている。「仁王門(二王門)」の名前のとおり、左右に阿吽二王の金剛力士像を安置する。背面には、それぞれ唐獅子像も置かれています。

■■■ 仁和寺(にんなじ)の歴史 ■■■
仁和2年(886)、第58代光孝天皇が寺の建立を始めたが、翌年天皇は崩御する。子の第59代宇多天皇(867-931が引き継ぎ完成させ、仁和4年(888)に落慶供養が行われた。当初「西山御願寺」と称されたが、やがて元号をとって「仁和寺」と名付けられた。寛平9年(897)、宇多天皇は第一皇子に譲位し、第60代醍醐天皇として即位さす。昌泰2年(899)、宇多上皇は仁和寺で落髪し出家し、法皇と称した。出家した上皇を「法皇」と呼ぶ最初の例です。この時、真言宗の僧を戒師として出家したのを機に、仁和寺は真言宗の寺となる。
延喜4年(904)、宇多法皇は仁和寺境内の南西に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建て、移り住んだ。「室」は僧坊のことで、法皇が御座する室なので「御室」といわれた。法皇は承平元年(931年)に没するまでここに住み、仁和寺は「御室御所」とも呼ばれるようになる。宇多法皇以降も法親王(天皇の子息・兄弟で、出家した男子)が仁和寺に入り住持し住職を務めた。これは「御室門跡」とも呼ばれ、門跡寺院制度の始まりです。「門跡(もんぜき)」とは、祖師の法統を継承する「一門の祖跡」の意で、皇族や公家が出家し住職を務める寺院、あるいはその住職を「門跡」と呼ぶようになったのです。後には皇室と関わりのある格式高い寺院を表す称号ともなる。この門跡寺院の制度は明治時代に廃止されるまで続いた。
平安時代の後期から鎌倉時代初めにかけて仁和寺は最盛期を迎える。新しく入った門跡は新たな御室を建て、法親王、内親王らの別院、子院などが周辺に造られ、四円寺もこの頃に建てられた。70以上の寺院が建ち並んだという。応仁の乱(1467-1477)で、西軍が陣を敷いた仁和寺は東軍の攻撃を受け、金堂、御室など多くの伽藍が焼失した。仁和寺は焼失を免れた本尊と共に、双ヶ丘の西麓にある西方寺へ移る。
江戸初期の寛永年間(1624-1644)に徳川幕府の支援を受け、旧地の現在地に再興されることになる。御所の建て替えにともない紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築、再建された。金堂、御影堂、五重塔、観音堂など現在の建物の多くは、この時の再建による。桜の木もこの頃に植えら、江戸期を通して花見が盛んに行われたようです。
慶応3年(1867)、第30世の門跡が還俗して親王に戻った。これを最後に皇室出身者が仁和寺の門跡となることはなかった。明治4年(1871)、政府は門跡制度を廃止し、門跡の称号も廃された。ここに千年続いた門跡寺院の歴史は終焉したのです。明治20年(1887)に仁和寺御殿(旧御室御所)が焼失したが、その後再建されています。

太平洋戦争末期、「太平洋戦争での日本の敗戦が濃厚となった1945年(昭和20年)1月20日以降、数度にわたり、近衛文麿が仁和寺を訪れ、昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画について当時の門跡と話し合い、出家後の居所などを検討している。1月26日、近衛文麿の別荘陽明文庫において、文麿と昭和天皇の弟宮・高松宮宣仁親王との間で、昭和天皇の出家について会談がもたれた。霊明殿に掲げられている扁額「霊明殿」の文字は、文麿が仁和寺を訪れた際に揮毫した絶筆である。」(Wikipediaより)。
日本が無条件降伏を受け入れ、天皇を落飾させ仁和寺に入寺させることで天皇の戦争責任を回避しようと密議したのです。結局、GHQは天皇の戦争責任を不問にし、天皇制を存続させた。
戦後、独立し真言宗御室派と称し、その総本山となる。平成6年(1994)には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録された。
  所在地 京都府京都市右京区御室大内33
  山号 大内山
  宗派 真言宗御室派
  本尊 阿弥陀如来

(境内図は公式サイトより)仁和寺は大きく二つの領域に分けられる。一つは門跡の住居だった「御殿」、他は金堂、五重塔などの伽藍が配置された境内の北側。

仁王門を潜ると、仁和寺の広い境内が目の前に広がる。境内に入る前に、お金を支払わなければなりません。お寺とはお金の掛かるものです。以前数回来たことがあるが、お金を払ったことはありません。境内だけなら自由に歩けまわれました。春の「御室花まつり」(3月20日(土)~5月9日(日))の期間だけ、境内も有料になっているのです。
「花まつり」だけ、即ち御室桜鑑賞と、金堂、御影堂、五重塔などの伽藍を外から見て周るだけの特別入山料が大人500円です。御殿、霊宝館とセットになった共通券もある。私は、霊宝館をゆっくり見学する時間的余裕が無いのでパスし、「花まつり・御殿」800円を購入しました。なおこの期間、通常非公開の金堂と五重塔の内部が一般公開されている。これは別の場所に受付があります。

 仁和寺2(御殿)  



まず仁王門の傍にある御殿から見学することにします。御殿への入口が写真の本坊表門。慶長年間(1596-1615)の建立で、総ケヤキ造、本瓦葺で重要文化財となっている。門脇に石柱「御室流華道総司庁」が建つ。花を愛した宇多天皇から始まり、歴代門跡が家元となった御室流華道の本部です。

表門から大玄関へ。大玄関には唐破風檜皮葺の立派な車寄が付いている。蟇股や虹梁の華やかな彫刻が目を引きます。ここで靴を脱ぎ、拝観券を提示し室内へ。
本坊とも呼ばれる「仁和寺御殿」は、かって宇多法皇の御室御所があった場所で、歴代の門跡(住職)がお住まいになった所。御殿の内部は、白書院・黒書院・宸殿・霊明殿などの建物が渡り廊下で複雑につながれ、優雅な宮廷生活の一端がうかがわれます。

大玄関の先には白書院がある。説明版に「この建物は、明治二十年(1887)に仁和寺御殿が焼失したため、仮宸殿として、明治二十三年(1890)にたてられたものである。その後、宸殿等の諸建造物が再建されると「白書院」と呼ばれるようになった。」とあります。襖絵は昭和12年(1937)に福永晴帆(1883-1961)が松を主題に四季折々の景色を描いたもの。(現在。**彫刻展と銘うって御殿各所に異様なオブジェが置かれている。白書院内には布地が展示され、非常に目障りだ。こんなクズ物を見に来たんじゃないぞ!)

白書院の縁側から眺めた南庭。砂紋がひかれた白砂が広がり、局所的に松や杉が植えられた簡素な枯山水式庭園。大屋根は仁王門で、中央奥は勅使門です。勅使門は明治20年(1887)御殿焼失で失われたが、大正2年(1913)に再建された。唐破風付き入母屋造、檜皮葺の四脚門で、天皇家ゆかりの訪問者に対してのみ開かれるという。

南庭の北側に建つ宸殿。南庭は宸殿の前庭のように見えます。

白書院の北側から回廊のような渡り廊下がのびている。右へ曲がれば宸殿へ、左へ行けば黒書院です。今にも平安装束のお方が現れそうな雰囲気が漂う。

渡り廊下を右へ曲れば宸殿の南側です。高覧付きの縁があり、その前に南庭の白砂が広がる。宸殿前に「右近の橘」(手前)「左近の桜」(奥)が植えられている。宸殿の南側は蔀戸が閉められ、室内を見ることはできません。

高覧付きの縁が宸殿の周りを廻っている。南から東側へ周ると、池を中心とした池泉式庭園の北庭が見えてきます。北庭は江戸時代中頃に作庭されたとみられるが詳細は不明。明治20年(1887)の御殿焼失からその後の再建時に、庭園も作庭家小川治兵衛(1860-1933) により整備され現在の姿になったようです。京都市名勝に指定されている。

白砂、池、石組、樹木で構成され、手前から茶室「飛濤亭」、中門、五重塔と並ぶ建物を借景としている。枯山水の南庭とは対照的です。
茶室「飛濤亭(ひとうてい))」(重要文化財、非公開)は、江戸時代末に第119代光格天皇(1771-1840)の好みで建てられたという。

宸殿の北側に周ると、戸は開けられ室内を見ることができます。宸殿内部は三部屋からなり、日本画家・原在泉(1849-1916)画伯の筆による四季の風物を描いた襖絵が見られます。
写真は一番西側の上段の間で、床の間、違棚、檜の手彫の欄間、折上格天井(おりあげごうてんじょう)など品格を感じる部屋となっています。門跡のお住まいされる部屋なのでしょうか。左の襖絵は「桜花」、奥の襖には花鳥画「孔雀と牡丹」が描かれている。

黒書院から見た宸殿の北側。宸殿は、江戸初期の寛永年間(1624-1644)に仁和寺が再興された時に京都御所の常御殿を下賜されて移築したもの。しかし明治20年(1887)に焼失したため、大正13年(1914)に亀岡末吉の設計により再建されたものです。

黒書院は「明治20年(1887)御殿の焼失復旧のため、旧安井門跡の寝殿の遺構を移して黒書院としたもので、明治42年(1909)に完成した」と説明書きがある。竹の間、柳の間など6部屋に別れている。「襖絵は、昭和6年(1931)宇多天皇一千年・弘法大師一千百年御忌の記念事業として、堂本印象画伯によって描かれたものである」(説明書き)

黒書院から渡り廊下が奥へ伸び、御殿内で一番奥にある霊明殿へつながっている。

霊明殿は、亀岡末吉の設計によって明治44年(1911)に鎌倉・室町時代の様式を取り入れ建立された仏殿です。檜皮葺の屋根上に露盤宝珠が見られる宝形造り、三間正面の前に階段を設けている。屋根下の白壁の彫刻が印象的でした。正面に掛る扁額「霊明殿」は、太平洋戦争末期に近衛文麿が昭和天皇の出家について相談するために仁和寺を訪れた時に揮毫したもので、彼の絶筆といわれている。

正面障子が少し開けら、室内を見ることができます。ここには本尊・薬師如来坐像(秘仏)と仁和寺歴代門跡の位牌が祀られている。
説明書きに「本尊は薬師如来坐像、秘仏のため実態が不明であったが、昭和63年(1988)の調査で貴重なものであることがわかり、平成元年6月に重要文化財に指定、つづいて翌年6月には国宝に指定された。全高10.7センチ、平安時代後期の円勢・長円の作である」とある。
大きな菊華紋のはいる水引幕の下の須弥壇正面に薬師如来坐像が置かれている。秘仏なので目にすることができるのはお前立の複製像です。本当に小さいので、写真を拡大しないとよく分からない。かって仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊だったもの。香木の白檀を用い檀像で、彩色は少なく大部分は素地仕上げとなっている。頭光に七仏薬師、光背に日光・月光菩薩立像、台座腰部に十二神将立像が浮彫りされているという。

霊明殿から撮った北庭。建物は宸殿。

 仁和寺3(境内)  



御殿を出て境内の伽藍見学に廻ります。中門まで広い参道が続く。いつもはこんなに人出は無くかなり閑散としているのだが、桜のシーズンだけは有料にも関わらずかなりの人です。お寺にとっては御室桜サマサマでしょう。背後の山は大内山。この参道は時代劇のロケ地として使われることも多い。
参道側の右方には、仁和寺所有の宝物数千点を納めた霊宝館があり、毎年、春と秋に一般に公開される。現在、公開中だが鑑賞している時間が無いのでパスします。また右側には一泊100万円で有名となった高級宿坊「松林庵」も・・・夢のまた夢。

参道奥に朱塗りの「中門」が構える。仁王門と比べると単層で小さく簡素な門ですが、それでも重要文化財指定となっている。江戸初期の寛永18年(1641)から正保2年(1645)の建立。ここで「花まつり」の拝観券の提示を求められます。

中門を潜ると、石畳の参道が正面の金堂まで続く。右側に休憩所とトイレがあり、左に御室桜の園が広がっている。

御室桜(おむろざくら)の庭園に入ってみる。通路にはスノコ板が敷かれ歩きやすい。事前のネット情報では「見頃、満開」とあったのだが、来てみると多くはは散った後で、オレンジ色に変色した葉だけが目立っていた。一週間遅かったようです。御室桜は遅咲きの桜として有名で、桜の名所の多い京都で季節の最後を飾るといわれている。例年の見頃は4月中旬となっているのだが、年々桜一般の開花が早くなっているようです。ここ3年ほど桜の満開時期を外しぱなっしだ。

所々に、こんなに綺麗に咲いている桜もみかけます。種類が違うのでしょうか?。約200本あり、「御室有明」「御車車返し」「稚児桜」「妹背」「殿桜」などの種類があるそうです。御室桜は1924年に国の名勝に指定され、「日本さくら名所100選」にも選ばれている。

御室桜の一番の特徴は樹高が低いことです。普通の桜木の半分くらいしか背丈がありません。幹の部分がほとんどなく、枝が地からそのまま伸びている感じだ。よく見ると、根元は盛土されているようです。どうして樹高が低いのか、公式サイトに次のように書かれている。「御室桜は遅咲きで、背丈の低い桜です。近年までは桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解りました。ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようです。あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうです。詳しくは現在も調査中です。新しい発見がありましたら、おってお知らせしたいと思います。」
「花(鼻)が低い」ことから、鼻が低いお多福にかけて「お多福桜」とも呼ばれます。京都では、背が低くて鼻が低い女性のことを「御室の桜のような」と評され、また俗謡に「わたしゃお多福、御室の桜、はなが低うても人が好く」とうたわれてもいます。

御室桜の起源については平安時代とも、鎌倉時代ともいわれ明確でない。応仁・文明の乱(1467-1477)による荒廃を経て、現在の御室桜は江戸時代初期に植樹されたようです。江戸中期には観桜の名所として知られ、「古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております。 また、花見の盛んな様子は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた『京城勝覧』(けいじょうしょうらん)という京都の名所を巡覧できる案内書にも次の様に紹介されています。「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されております。そして近代大正13年に国の名勝に指定されました。」(公式サイトより)

御室桜の北側に建つのが観音堂(重要文化財)です。平安時代の928年に建立されたが、その後焼失。寛永18年(1641年)から正保2年(1645年)にかけて再建された。入母屋造、本瓦葺、5間正面に1間の向拝が付く。本尊の千手観音菩薩像、脇侍として不動明王・降三世明王、その周りに二十八部衆が安置されている。また須弥壇の背後や壁画、柱などに極彩色で仏・高僧が描かれているという。内部は非公開。

参道正面の階段を上がった先に金堂が建つ。金堂は仁和4年(888)の仁和寺創建時に建てられたが、その後焼失している。現在の金堂は、寛永年間(1624-1644)の仁和寺再建時に京都御所の紫宸殿(1613年の建立)を移築したもの。屋根を檜皮から寺院風の瓦に変えたり、内部に須弥壇を設けるなどの一部改造が行われているが、宮殿建築の様式を残す貴重な建造物として国宝指定されています。




入母屋造、本瓦葺、正面7間、側面5間、周囲に高欄付き縁が設けられている。南面する正面には向拝と階段が付く。建物の各所に菊の御紋が残っています。紫宸殿は、天皇の元服や立太子、節会などの儀式が行なわれた御所の正殿で、この金堂は現存する最古の紫宸殿の遺構とされる。





金堂西側に、金堂内部と五重塔の拝観特設受付所が設けられている。ここでも終了日の日付が変更され明日が最終日です。めったに見れないので拝観することにした。金堂西側から内部に入ります。

金堂内部は撮影禁止です。内部から外の様子を撮ってみました。
内部は板の間、赤毛氈が敷かれた外陣、一番奥に板敷の内陣がある。内陣の上には天井板がなく船底天井になっている。常駐されているガイドさんの説明では、天皇の声がよく響くように、そしてクセ者が忍び込まないように天井板をつけていない、ということだそうです。

(写真はココからお借りしました)薄暗い内陣には須弥壇が設けられ、阿弥陀如来座像を真ん中に、向かって右側の左脇侍に勢至菩薩像、右脇侍に観音菩薩像からなる「阿弥陀三尊像」(国宝) 、周辺に四天王などが安置されている。
現在の阿弥陀三尊像は徳川家光の時に運節が寛永21年(1644年)に造ったといわれている二代目です。現物である創建当時の「阿弥陀三尊像」(国宝)は霊宝館に所蔵され、現在公開展示中。ガイドさんによれば、現物はお堂に比べ小さく感じられるので、二代目は倍の大きさにされたそうです。
宇多天皇が作らせたという先帝・光孝天皇の等身大像も堂内の東隅にあったが、暗すぎてよく見えなかった。

次は内部をみることができる五重塔へ。江戸時代の寛永21年(1644)徳川三代将軍家光の寄進によって建立されたとされる。重要文化財指定で、地元では「御室の塔」と呼ばれ親しまれている。

塔身32.7m、相輪・宝珠を含めた総高は36.2m。特徴として、各層の屋根の張り出しは一般的には上に行くほど小さくなるのだが、仁和寺の五重塔は各層がそれほど差がない。これは江戸時代の五重塔の特徴だそうです。
通常は非公開だが、五重塔内部が特別公開されていました(有料)。内部公開といっても内部に入れる訳ではなく、外から覗き見るだけです。

(この五重塔内部写真もココからお借りしました)中央の心柱の周りに須弥壇が設けられ、大日如来、無量寿如来などの四方仏が安置されている。4本柱や戸壁には、極彩色の仏画や菊花文様が描かれています。
心柱の真下が見えるように1ケ所開けられ、心柱が礎石に乗っている様子が見られました。木製の柱だけで、これだけ高い搭が支えられているというのは驚きだ。

五重塔の東側に、仁和寺の伽藍を守る鎮守として九所明神(重要文化財)の社がある。現在の社殿は寛永年間(1624-1644)に再建されたもの。本殿・左殿・右殿の三棟が並び、守護神として石清水八幡宮の神などそうそうたる神々が祀られている。

金堂の西側に経典などを収蔵する経蔵(重要文化財)が建つ。本瓦葺、宝形造りで、緑色の花頭窓が印象的な禅宗様建築。

金堂の西側に廻ると鐘楼(重要文化財)がある。寛永21年(1644)の建立。真っ黒な裾袴の上に、お堂のように立派な造りの鐘楼がのる。黒と赤色の対比が鮮やかです。白壁で塞がれ梵鐘は外から見えない。鐘の音はどうやって響き渡るのだろう?。

鐘楼から奥へ進むと「不動明王」が祀られている。この石造りの不動明王は「水掛不動尊」「一願不動尊」とも呼ばれています。説明書きに「この不動明王は、以前堀川まで流れてしまいましたが、不動明王の「仁和寺に帰りたい」というお告げを聞いた人により無事に仁和寺に戻る事が出来ました。この伝承から水を掛ければ一願だけ叶うという、一願不動の信仰があります」とある。この不動明王は特に諸願成就、幼児の難病平癒に霊験あらたかであるという。
また、石不動明王が置かれている岩は「菅公腰掛石」だそうです。。平安時代の901年、菅原道真は太宰府左遷に際して、宇多法皇に最後の別れを告げに仁和寺を訪れたが、法皇は御影堂で勤行中であったため道真はこの石に腰掛けて法皇を待ったことに由来するそうです。宇多天皇は道真を引き立て重用し、二人は親密な関係にあったのです。

不動明王の西側に建つのが御影堂(重要文化財)。鎌倉時代の1211年に創建されたが、その後焼失。現在の建物は、江戸時代の寛永年間(1624-1644) に再建されたもの。公式サイトに「鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置します。御影堂は、慶長年間造営の内裏 清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用しています。約10m四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえます。」とある。

 宇多天皇大内山陵  



仁和寺の次は、仁和寺を創建した宇多天皇の陵墓へ向かいます。陵墓は仁和寺背後の大内山にあるのは分かっているのだが、そこへの道順がネットを調べてもよく分からない。宮内庁のページには「仁和寺西門から北へ0.1kmの参道入口を住吉山,東谷へ1km」と書かれている。
ここは仁和寺西門です。西門脇に「宇多天皇陵参道」の標識が立つ。西門にはこの桜の季節だけ特設受付所が設けられ拝観料をとっている。この受付のおばさん(失礼!)に「宇多天皇のお墓へはこの西門から行けますね?」と尋ねてみた。すると「そりやぁ、ケモノミチだからおすすめしないですね」と返ってきた。不安がよぎる。ケモノミチとは、狭い山道を登るかっての参道のことらしい。近年、大内山背後の原谷方面へつながる市道(千束御室線)が開通し、この市道を利用すればケモノミチを避けられるようだ。地図を頼りに市道へ出ることにする。

仁和寺の塀にそって100mほど行くと写真のような分かれ道になる。ここが宮内庁ページにある「西門から北へ0.1kmの参道入口」らしい。入口らしい左側の暗い道に入る。地図では、右に曲がっても市道に出れるが、遠回りだ。分かれ道の間に聾学校がある。

すぐ右側に階段が現れ、これを上ると聾学校の塀で、塀に沿って進む。階段でなく、左の道へ入って行くのが旧参道のケモノミチなのだろうか?。

聾学校の敷地が切れる辺りで右側を見れば、陵墓構えのような一角が見える。正面に廻ると「御室陵墓参考地」という宮内庁の立札が立つ。後で調べると、光孝天皇が候補者となっているようです。

陵墓参考地を過ぎると市道が現れる。この市道を10分ほど歩くと曲がり角に階段が見えている。標識などありません、何の階段?。地図をよく見ると、市道はこの先つづら折れの急旋回を繰り返しながら登っている。この階段はつづら折れの坂道を避ける近道に違いないと、直感した。傾斜度45度以上ある急階段で、恐怖を覚えました。


急階段を登りきると市道が現れ、私のカンはピッタリでした。そして目の前に、ネットでよく紹介されていた登り口が見えているのです。この登り口には「宇多天皇大内山陵参道」の標識が置かれています。標識の文字は天皇への敬意が足りないように感じるが・・・。



登り口から入ると、そこは赤茶けた土がむき出しのデコボコ坂道だ。これは道ではない、まるで溶岩流の痕のようです。これがいやしくも天皇陵への参道といえるのでしょうか。天皇陵の参道といえば、石畳、砂利道などお金をかけよく手入れされているものです。さっきの標識名といい、この溶岩道といい、宮内庁は宇多天皇へ何か含意をもっているのでしょうか。天皇への崇拝の念を抱かない私さえ、憤慨を覚えます。

こうし赤土の坂道が200mほど続き、そこからは平坦な普通の山道がさらに400mほど続く。平坦な道から少し下ると、薄暗い山中に突然陵墓が現れた。素晴らしく見晴らしの良い山上に築かれた一條天皇・堀河天皇の陵墓を見てきた後だけに、寂寥感漂う山中に墓が造られた宇多天皇に同情します。
仁和寺西門から25分で到着した。想定の半分で済んだのは、あの急階段のおかげです。

陵墓はさらに一段低くなった場所に造られている。
第59代宇多天皇(うだてんのう、867-931、在位:887-897)は第58代光孝天皇の第七皇子。臣籍降下(皇室から離れ臣民になること。天皇は子供を生みすぎて子孫が多い。養うのが大変になってくるので野に放ち自立さす。源氏や平氏の起こりとなる)し源姓を得て「源定省(みなもとのさだみ)」と称した。仁和3年(887)、父・光孝天皇が病に倒れる。周囲からの推挙を受け、定省は皇族に復帰して親王宣下を受け立太子した。すぐ父が崩御したので21歳で即位する(第59代宇多天皇)。仁和4年(888)には、父・光孝天皇の意を引き継ぎ仁和寺を創建する。
即位後は、実権を関白・藤原基経が握っていたので天皇は思うように政務を実行できなかった。しかし寛平3年(891)に基経が死ぬと、天皇は讃岐守として赴任中だった菅原道真を呼び戻し抜擢重用し天皇親政を始めた。藤原氏の勢力を抑えて摂関政治の弊害を改め、綱紀を粛正し、民政に努め、文運を興し、後世に「寛平(かんぴょう)の治」と称賛される。

寛平9年(897)7月に突然、13歳の皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位(第60代・醍醐天皇)し、太上天皇となる。31歳の時です。
昌泰2年(899)、宇多上皇は仁和寺で落髪し出家し、日本で初の法皇となった。
昌泰4年(901)正月、時平の讒言で道真は失脚し太宰府へ左遷される。宇多法皇は内裏宮門に座り込み抗議したという。
延喜4年(904)、宇多法皇は仁和寺境内の南西に「御室(おむろ)」と呼ばれる僧坊を建て、移り住んだ。そして高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、仏道修行に明け暮れたという。
承平元年(931)7月に仁和寺御室で崩御。65歳。仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、拾骨されないまま土を覆って陵とされた、と記録されている。その後、陵の所在地は不明になっていたが、幕末の「文久の修陵」で現在の場所を定め、陵墓が造営された。
御陵名は「宇多天皇大内山陵」(おおうちやまのみささぎ)、宮内庁の公式陵形は「方丘」。

陵の周りを細道が廻っており、一周できます。どこから眺めてもただの平坦な雑木林にしか見えない。ただ雑木林の一部を掘り込み窪地が造られている。陵形の「方丘」らしく見せるためだろうか?。







 福王子神社  



光孝天皇陵から「きぬかけの路」に戻る。といっても「きぬかけの路」の名称は仁和寺までなので、本来の車道「衣笠宇多野線」です。この車道を西へ300mほど行くと宇多野の交差点にでる。交差点の北東隅にあるのが福王子神社(ふくおうじじんじゃ)。福王子神社は仁和寺と深いつながりがある。つまりこの神社にお祭りされているのは、第58代光孝天皇の班子(はんし、833-900)皇后で、仁和寺を創建された宇多天皇の母親になる方です。
見えている石鳥居は江戸初期の1644年建立で、国の重要文化財。

狭い境内に四方吹き放し舞殿風の大きな拝殿が建つ。正面三間、奥行き二間の長方形になっているのが特徴。寛永年間(1624-1644)の建立で国の重要文化財となっている。
福王子神社の由緒書きに「この御神殿は寛永二十一年今から三百三十年前三代 将軍徳川家光公と仁和寺法王覚深親王が仁和寺 大伽藍と共に新たに御造営された社殿で、それ以前は 深川神社(本社末社共)と申上げ平安朝時代からあつた 神社で延喜式の社号がございました、が、應仁の戦乱で惜くも すっかり焼失してしまいました。現在の福王子神社はこの深川 神社の後身であり、御再建以来、仁和寺歴代親王の崇敬あつく 今日も尚お祭には奉幣の儀が行はれて居ます。」とあります。つまり、江戸時代の初期、寛永年間(1624-1644)の仁和寺再興時に一緒に造営されたようです。

中門の後ろに見えているのが一間社春日造りの本殿。寛永21年(1644)の建立で国の重要文化財です。
御祭神は「福王子大明神班子皇后」。通称”ふこっさん”と呼ばれ近隣旧六ヶ村の氏神であるとともに、仁和寺の守護神とされる。班子皇后の陵墓がこの近辺にあったことから御祭神としたようです。また「福王子」の名は、班子皇后が多くの皇子皇女を生んだ事に由来する。

本殿左側は境内社の「夫荒社(ぶこうしゃ)」。平安時代に毎夏洛北の氷室より御所宮中へ氷を献上する習わしがあり、氷を運ぶ役夫がこの辺で疲労により力つき息絶えた。その霊をまつり、人々の安全を祈願するための社、と説明されている。

 円融天皇後村上陵  




福王寺交差点で北方向への道に入る。ちょうど福王子神社と交番とに挟まれた道です。200mほど行くと、左側に陵墓が見えてくる。

第64代円融天皇(えんゆうてんのう、959-991、在位:969-984)は第62代村上天皇の第5皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。諱は守平(もりひら)康保4年(967)、9歳で皇太子となり、安和2年(969)、兄の冷泉天皇の譲位をうけて円融天皇として即位する。天皇はまだ11歳と若かったので大伯父にあたる太政大臣藤原実頼、師尹の藤原摂関家が政治を主導した。二人が死去した後、伊尹の弟である兼通と兼家の兄弟間で摂関職を巡る内紛が起こる。これにより摂関家は次々と自分の娘を女御として入内させたが、結局皇子を生んだのは兼家の娘詮子のみであった(生まれた皇子は懐仁親王、後の第66代一条天皇)。

藤原氏の勢力争いに翻弄された円融天皇は、永観2年(984)に息子の懐仁親王の立太子を条件、兄・冷泉帝の皇子師貞親王(第65代花山天皇)に譲位し、太上天皇となる。上皇となってからは詩歌管絃の遊楽や石清水八幡宮・石山寺・南都(奈良)の諸寺への御幸を行っている。和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わる。
寛和元年(985)8月、出家し法名を金剛法と称し、以後勅願寺である円融寺に住む。死後「円融院」と追号される。
正暦2年(991)2月12日、仁和寺の一院である御願寺の円融寺にて崩御、宝算33歳の若さだった。

991年2月に円融寺(現在の龍安寺付近)で亡くなると、円融寺の北原で火葬されたという。現在でも、龍安寺裏の朱山に円融院火葬塚が残っている。その後、遺骨は父の眠る宇多野の村上天皇陵の麓に葬られたとされる。その後、陵の所在地は不明となり、幕末の文久の修陵でも決められなかった。明治22年(1889)、現在地に決定され、父の村上天皇陵とともに陵墓が造営された。陵名は「円融天皇後村上陵(のちのむらかみのみささぎ)」、陵形は「円丘」、所在地「京都市右京区宇多野福王子町」

 村上天皇村上陵  



次は円融天皇の父親・村上天皇のお墓です。円融天皇後村上陵からさらに山側に上って行きます。一本道なので迷うことはない。やがて右手に妙光寺が見え、そこから山中に入っていく。入口に天皇陵への案内標識が建つ。村上天皇に対してもう少し敬意を表する文字であってほしいナ。

入口からは長い石段の参道が続く。九十九折の石段で、朝から歩き続けている身にはかなりこたえます。ただよく整備された石畳の石段で、さすが金をかけた天皇陵への参道だと、感心させられました。それに対してあの宇多天皇のお墓への道は・・・。

15分ほど登るとようやく山中を抜け、南面する陵墓が現れた。山上のようだが、樹木にさえぎられ見晴らしは良くない。
第62代村上天皇(926-967、在位:946-967)は第60代醍醐天皇の第14皇子。諱は成明(なりあきら)。第61代朱雀天皇の同母弟。村上源氏の祖。 母が太政大臣藤原基経の娘だったことから重んじられ、14番目の皇子ながら誕生した年に親王宣下され、天慶7年(944)に19歳で皇太子となる。天慶9年(946)4月、継嗣がいなかった兄・朱雀天皇の譲位により即位した(21歳)。
先帝に続いて天皇の外叔父藤原忠平が関白を務めたが、天暦3年(949)に忠平が死去するとそれ以後は摂政関白を置かず、みずから政務をとって天皇親政を目指した。財政状況は悪化していたので徴税の徹底や歳出の削減に努め国家財政の健全化をめざし、天災、悪疫の流行などで乱れた社会の治安維持に務めた。この治世は後に「天暦の治」と讃えられた。しかし実際には、摂関家である藤原実頼・師輔兄弟が実権を握っており、天皇の親政は形だけのものであったとも言われている。

村上天皇は歌と女性を愛し、多くの女御(側室)を持ち、たくさんの子供をもうけた。その子供たちは皇室を離れ、武将「村上源氏」として活躍する。また詩歌、書、琵琶、笛にも精通した文化人天皇だったようです。「文治面では、天暦5年(951年)に『後撰和歌集』の編纂を下命したり、天徳4年(960年)3月に内裏歌合を催行し、歌人としても歌壇の庇護者としても後世に評価される。また『清涼記』の著者と伝えられ、琴や琵琶などの楽器にも精通し、平安文化を開花させた天皇といえる。天皇の治績は「天暦の治」として後世景仰された。しかしその反面、この時代に外戚政治の土台が一段と固められ、吏治にも公正さが失われた。また天徳4年の内裏焼亡をはじめとする数々の災難もあった。」(Wikipediaより)
康保4年(967)5月25日、譲位を行うことなく在位のまま崩御、宝算42歳でした。

967年5月25日、村上天皇は亡くなる。6月4日、山城国葛野郡田邑郷(たむらのごう)北長尾に土葬され、陵戸5烟が充てられた。陵上には樹木が植えられた、という記録が残る(『日本紀略』)。その後、中世、江戸時代には陵の所在地は不明になっていた。幕末の文久の修陵でも確定せず、明治22年(1889)6月、陵は現在地に決定された。万世一系の天皇主権を唱える大日本帝国憲法(明治憲法)が公布された年です。
所在地は「京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷」、陵名は「村上天皇村上陵(むらかみのみささぎ)」、陵形は「円丘」。「村上」はこの場所の古い在所名で、天皇名の追号にも使われた。


「京都・きぬかけの路」完

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京都・きぬかけの路 2(等持院・竜安寺)

2021年05月07日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年4月10日(土曜日)
金閣寺の次は等持院から竜安寺へと訪ねます。また朱山七陵と呼ばれるいくつかの天皇陵があるので寄ってみる。

 等持院(とうじいん)  



二条天皇香隆寺陵から西へ300mほど行けば、室町幕府を開いた足利氏ゆかりの等持院がある。

等持院は足利幕府を築いた足利尊氏が、暦応四年(1341)に天龍寺の夢窓国師を開山に迎えて建立した等持寺が始まりです。延文3年(1358)に尊氏が亡くなり等持寺に葬られると、尊氏の法名をとって名称を「等持院」と改称し、足利将軍家歴代の菩提寺となった。その後、応仁の乱(1467-1477)の戦乱や室町幕府の衰退に伴って次第に衰微していった。
慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって復興された。その後、文化5年(1808)の火災によって多くの建物を焼失したが、文政年間(1818 - 1831年)に復興する。明治時代になると廃仏毀釈により境内地と塔頭の多くを失い現在の規模になった。山号を「萬年山」と称し、臨済宗天龍寺派に属する。

南に面する山門から入り、参道を進むと墓地が見える。その墓地の隅に立派な銅像が建っている。足利尊氏やと思いきや、「マキノ省三先生像」と刻まれていました。
牧野省三(1878-1929)は大正10年(1921)、日活から独立し等持院境内の塔頭跡に撮影所を開設し、多くの時代劇を制作し「日本映画の父」といわれました。撮影所は昭和8年(1933)まで存続し、尾上松之助、阪東妻三郎、嵐寛寿郎などを輩出した。この銅像は1970年に太秦から移設されたもの。

総門を潜ると、禅寺に見られる庫裏が建つ。屋根の丸瓦には足利家紋の「丸に二つ引き両紋」が。
庫裏が内部への入り口で、履物を脱ぎ上がると拝観受付がある。
拝観時間:9:00~16:30(16:00受付終了)年中無休 ※12月30日~1月3日は9:00~15:00(14:30受付終了)
参拝料:大人 500円、小人 300円

出たァ、達磨大師。嵐山・天龍寺で初めて見たときはびっくりしたが、二度目なので驚きはしなかった。天龍寺の元管長で等持院の住職でもあった関牧翁(せき・ぼくおう)老師が中国禅宗の開祖である達磨大師を描いたものです。

庫裏と棟続きで本堂にあたる「方丈」がある。この建物は、もともと福島正則が元和2年(1616)に妙心寺塔頭海福院に客殿(方丈)として建立したもの。文化5年(1808)の火災で等持院の建物が焼失した後、文政元年(1818)に等持院に移築された。
襖絵は江戸時代初期の狩野興以(かのうこうい、?-1636)の作で、海福院より建物とともに移された。マキノ省三が方丈を映画ロケに使用した際にかなり破損したが、今日修復され、年一回の寺宝展で公開されている。

方丈の北側に周ると夢窓疎石(1275-1351)の作庭と伝わる池泉回遊式庭園が広がる。庭園は尊氏の墓を境にして、東庭と西庭に分かれています。正面に見える建物は書院で、書院の縁側には履物が用意され、庭へ降り庭内を回遊できるようになっています。

(左下にオレンジ色のスリッパが置かれている)書院前の西庭。蓮の花の形(芙蓉とも)をした芙蓉池(ふようち)を中心に、中島、石橋、石組、植栽が配された鑑賞用の庭園。「書院に坐して茶の香りを愛でながら眺めるこの庭を引き立てるのは、寒の頃から春先にかけ咲きはじめる有楽椿(侘助)、初夏のさつき、七月頃からのくちなしの花、初秋の芙蓉の花などで、それらが清漣亭の前庭の景色に彩りを添えている。」(パンフより)
書院は開け広げられ、敷かれた赤毛氈に座り庭園を眺めることができる。申し込めばお茶菓子もいただけます。

西庭奥の高所に建つ茶室「清漣亭(せいれんてい)」。尊氏公百年忌の長禄元年(1457年)に足利義政が建てたもの。文化5年(1805年)の火災で荒廃していたが、その後再建された。足利義政好みの茶室で、芙蓉池を中心とした庭を眺めながら茶を嗜んだという。

この清漣亭は水上勉原作による映画「雁の寺」(若尾文子)の舞台になっている。福井県生まれの水上勉は、少年期に等持院に預けられ小僧となり、寺の蔵書の小説本を無断で貪り読み文学への関心を持ったという。マキノ省三の映画撮影の手伝いもさせられている。その後、等持院から脱走、還俗し、立命館大学に入学している。

庭に降り、園内をを歩いてみます。これは西側から見た東庭で、白壁の建物は霊光殿。鑑賞用の西庭と違い、「心字池(しんじいけ)」を中心に草木が生い茂り閑静な中を散策するのに適した庭になっています。
心字池とは草書体の「心」の字をかたどって作られた池をさし、鎌倉、室町時代の庭によく見られ、西芳寺(こけ寺)、桂離宮のものが有名。実際に心字形でなくとも、池の中に中島を置き、岸辺のどこから眺めても全形が見えないような複雑な形の池をいうこともあるそうです。この東庭もいくつか中島が配され、庭の全体像がつかみにくくなっている。

東庭を南側から北方向を眺めると、樹木の間から建物が少し見えます。かって衣笠山を借景とした美しい庭園だったが、立命館大学衣笠キャンパスの学舎建設により失われてしまった。写真のように樹木を高く伸ばし校舎を隠している。また衣笠山から池に引いていた水路も絶たれ、現在は井戸水をくみ上げて循環させているそうです。
東庭には特に楓の木が多く見られ、秋の紅葉時期には池の周りが真っ赤に染まる風景が思い浮かんでくる。



東庭の北側に、高さ5mの十三重塔が建つ。室町幕府将軍十五代の供養塔で、足利歴代将軍の遺髪を納めている。
南側に周ると、東庭と西庭の境目に足利尊氏の墓が建つ。四重の基壇の上に蓮華の紋様が彫られた宝瓶がのる宝筐印塔。一番上の台座には「延文三年(1358年)四月等持院殿贈太相国一品仁山大居士」とある。江戸時代の勤王志士・高山彦九郎(1747-1793)は、尊氏の罪状を数えながらこの墓を鞭で打ったという。

方丈の東側に建つのが霊光殿。「足利尊氏公が日頃念持仏として信仰された利運地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊として、達磨大師と夢窓国師とを左右に、足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が、徳川家康の像と共に両側に安置されている。」(パンフより)
42才の厄除けとして造らせた家康の像は、自らの祈祷所である石清水八幡宮豊蔵坊に置かれていたが、明治の廃仏毀釈によって豊蔵坊が廃止されたためにここにに移されたもの。

幕末の文久3年(1863)2月23日未明、足利三代木像梟首事件が起こる。武士の時代を築いた鎌倉幕府、室町幕府を朝敵とみなし、尊皇派の志士が霊光殿に侵入し、足利尊氏・義詮・義満三代の木像の首を引き抜き、位牌ととも持ち去った。そして目は刳りぬかれ、首には位牌が掛けられて鴨川の三条河原にさらされ、「逆賊」の宣告文の立札が添えられていた。木像の首はすぐに寺に戻され、犯人は逮捕されたが朝廷、長州藩の介入により軽い処分で済んだという。

 竜安寺 1(石庭)  



等持院西側の住宅路を北へ上り「きぬかけの路」へ戻る。数分歩けば竜安寺の入り口が見えてくる。竜安寺は、禅宗の臨済宗妙心寺の境外塔頭寺院。

もともとこの辺りは徳大寺家の山荘だった。この山荘を足利将軍の菅領職にあった細川勝元(1438-73)が譲り受け、宝徳2年(1450)敷地内に龍安寺を建立したのが始まり。開山(初代住職)には妙心寺第5世の義天玄承を迎えた。応仁の乱(1467-77)が起こると、勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を受け、応仁2年(1468)に龍安寺は焼失。勝元の死後、その子・細川政元(1466-1507)によって再興され、明応8年(1499)に方丈を建立、石庭もこの時に築造されたと伝えられる。その後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家らが寺領を寄進するなどし、最盛期には23の塔頭をもつほどに寺運は栄えたという。。しかし、寛政9年(1797)に起こった火災で方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。
明治になり廃仏毀釈によって境内地は縮小し衰退したが、その後、庫裡や仏殿が再建された。昭和50年(1975)、イギリスのエリザベス女王夫妻が龍安寺を訪れ石庭を鑑賞になり大絶賛された。それを英国BBC放送が大々的に取り上げたことで、名園として世界中に知れ渡り、海外からの観光客が多数訪れるようになる。平成6年(1994)にはユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。

入り口を入っていくと山門が現れ、この山門脇に拝観受付がある。
拝観時間: 3月1日~11月30日  8:00a.m - 5:00p.m.
      12月1日~2月末日  8:30a.m - 4:30p.m.
拝観料: 大人・高校生 500円  小・中学生 300円

(境内図は公式サイトより)山門からは緑に覆われた参道がのびる。楓のようなので、秋には燃えるような参道になるに違いない。木立が低いので紅葉のトンネルですね。

参道の奥に階段が現れ、その上に禅宗寺院特有の三角形の屋根と白壁が印象的な庫裏が建っている。「寛政九年(1797)の火災で焼失後に再建される。本来は「寺の台所」という意味を持つ「庫裡」だが、禅宗寺院では「玄関」としている所が多い。禅宗寺院建築の特徴を捉えた木組と白壁からなる構成は簡素かつ重厚であり寺院全体と見事に調和している。紅葉時は鮮やかな色彩に映えてさらに美しさを際立たせている。」(公式サイトより)

庫裏が、伽藍・石庭拝観の玄関です。
通常非公開の茶室「蔵六庵」と、方丈の襖絵が特別公開されている。特別公開は知らなかったのだが、明日が最終日なので運がよかった。

履き物を脱いで上がった庫裏の広間。燭台の薄明りで浮かび上がる文字屏風、白壁とうっすら黒光している床板、”幽玄”の言葉が想起されるような情緒ある間となっている。竜安寺で一番印象に残った場所でした(石庭よりも)。
禅寺だが、達磨大師でなく「雲関」の衝立も良い。説明文は判読しにくいのだが、大雲山(竜安寺の山号)の玄関、という意味らしい。

庫裏の西側はすぐ方丈です。方丈の広い縁で皆一方向を見つめている。石庭です。コロナ禍以前では、廊下に人があふれ、座ることもできなかったそうです。

方丈の内部。元々の方丈は寛政9年(1797)の火災で焼失したため、塔頭の西源院の方丈(慶長11年<1606>、織田信包による建立)を移築したもの。重要文化財となっている。
この方丈には狩野派の筆による襖絵があったが、明治初期の廃仏毀釈の際に売られて外部に流出してしまった。現在目にする襖絵は、昭和28年(1953)に故皐月鶴翁(さつきかくおう)が5年かけて描いた「臥龍梅(がりゅうばい)」。龍と北朝鮮の金剛山を描いたもの。

枯山水庭園の代表格ともいえる方丈庭園「龍安寺の石庭」。国の史跡及び特別名勝になっている。幅25メートル、奥行10メートル余り、広さ約75坪の長方形の三方を塀で囲み、石傍のコケ以外一木一草も置かず、白砂と石組みだけで構成されている非常にシンプルな庭です。
庭全体に白砂を敷き詰め砂紋を描き、その上に東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15個の大小の石が配置されている。この石組みから(5個+2個)=7、(3個+2個)=5、3とみて「七五三の庭」とも呼ばれます。

公式サイトに石庭にまつわる「四つの謎」がのっている。
★その1)「刻印の謎」・・・石庭の作庭者は誰か?。塀ぎわの細長い石の裏に「小太郎・□二郎」の刻印が残っているが、これを作者と判定できず、作者は依然として謎のまま、だそうです。受付で頂いたパンフには「室町末期(1500年ごろ)、特芳禅傑などの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられています」とあるのだが。
★その2)「作庭の謎」・・・「一般には「虎の子渡しの庭」「七五三の庭」と呼ばれる。あるいは、大海や雲海に浮かぶ島々や高峰、「心」の字の配石、また中国の五岳や禅の五山の象徴とも。もとより作者の意図は今や不明。禅の公案にも見えるが、ただ鑑賞者の自由な解釈と連想にゆだねるしかない。」
「虎の子渡しの庭」は、あたかも渓流を虎が子を連れて渡っているように見えることからくるという。
特に意味は無いのではないか。意味のないところに意味を見出そうとするのが人間の性なのです。ただジィーと見つめているだけでいいのです。心に響くなら見とれればよい、眠たくなったら眠ればいい、退屈ならば去ればいい。

★その3)「遠近の謎」・・・「一見水平に見える石庭だが、東南角(方丈から見て左奥)に向かって低くすることで、排水を考慮した工夫が施されている。また、西側(方丈から見て右)にある塀は、手前から奥に向かって低くなるように作られている。ここにもまた、鑑賞者の錯覚を利用した心憎いばかりの演出が見られる。視覚的に奥行きを感じさせるために土塀の高さを計算し、遠近法を利用した高度な設計手法といえる」

★その4)「土塀の謎」・・・「高さ1メートル80センチの土塀。油土塀と称するこれもまた、石庭を傑作とならしめる重要な構成要素である。この油土塀とは、菜種油を混ぜ入れ練り合わせた土で作られており、白砂からの照り返し防止や、長い風雪、環境変化に耐えぬく、非常に堅牢な作りに仕上がっている。ちなみに石庭面は、外側の地面から80センチほど高い場所に位置する。これも強固さを保つための工法上の工夫によるという。」

これは謎ではないのだが、どの場所から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないという。意図的なものなのか、偶然なのか。
東洋では「15夜満月」と言われるように、「15」は完全を表す数。完全な神や仏は全て見えるが、不完全な人間には全ては見えない、心の目で見よ、という教えだそうです。

「石庭」といえば龍安寺が想起されるように有名で、写真が教科書にも載っていた記憶がある。しかしこれほど注目されるようになったのは戦後で、かっては鏡容池を中心とした庭園のほうが注目されていたという。
昭和50年(1975)5月10日、イギリスのエリザベス二世女王とフィリップ殿下が龍安寺を訪れ石庭を鑑賞になり大絶賛された。それを英国放送協会(BBC)が大々的に取り上げたことで、名園として世界中に知れ渡り、海外からの観光客が多数訪れるようになる。バッキンガム宮殿の壮大で豪華な庭園のもとでお暮しになっている女王夫妻は、白砂と石だけのこうした簡素な庭に心打たれたのでしょう。私は逆に、欧州の宮殿庭園のすごさに心打たれるのですが・・・。

 竜安寺 2(茶室と鏡容池)  



方丈の縁側は、石庭のある南側から西側、北側へと続いており周ることができる。これは方丈北側の廊下。「知足の蹲踞(つくばい)」が置かれている。ただしこれは実物大の複製だ。本物は茶室脇にあり通常非公開なのだが、今回は特別公開されています。

方丈の裏側で、竜安寺垣と秀吉が称賛したと伝えられる佗助椿(わびすけつばき)を見ることができる。
「竜安寺垣(りゅうあんじがき)」は、背の低い透かし垣で、透かしの部分に割竹を菱形に張り、化粧縄で結んでいる。こうした路地と庭の境に用いられることの多い竹垣には、「金閣寺垣」同様に寺院名をつけて呼ばれることが多い。
千利休と同時代の茶人・佗助が文禄(1592)・慶長の役(1597)の時に朝鮮から持ち帰ったことから「佗助椿」と呼ばれ、茶道の挿し花として用いられてきた。立札には「日本最古」とあります。

次は、今回特別公開された茶室「蔵六庵」と「芭蕉図」を見に行きます。庫裏と方丈の間に設けられた拝観受付で400円支払うと、そのまま庫裏の裏(北側)の広間に案内される。そこに襖絵「芭蕉図」が展示されている。頂いた紙片には「「芭蕉図」は、桃山時代の狩野派か海北派の筆によるものとされ、かって竜安寺方丈(本堂)の内部を飾っていた襖絵。明治期の廃仏毀釈の影響により手放されて以来、123年ぶりとなる2018年に、竜安寺に帰還した。緑の芭蕉のみを単独で描いた襖絵は珍しく、金地に柴垣を背にした雄大な芭蕉という、斬新な構図が見所である」と書かれています。

広間の廊下から竜安寺の名物「知足の蹲踞」の実物を見ることができる。そもそも「蹲踞(つくばい)」って何でしょう?。辞書を引くと「
茶庭の手水鉢のこと。石の手水鉢を低く据えてあって、手を洗うのに茶客がつくばう(うずくまる、しゃがむ)ことからくる」とある。それでは竜安寺のものを「知足の蹲踞」と呼ぶのは?。公式サイトに「中央の水穴を「口」の字に見立て、周りの四文字と共用し「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)と読む。これは釈迦が説いた「知足のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧し」という「知足(ちそく)」の心を図案化した仏教の真髄であり、また茶道の精神にも通じる。また、徳川光圀の寄進とされる。」と説明されている。なるほど、中央の水溜口を漢字部首の「口」と見たてるのですね。

廊下の先に、通常は非公開の茶室「蔵六庵(ぞうろくあん)」がある。もとは塔頭・西源院にあったが明治中頃に移築された。四畳一間で、中板が敷かれ炉が切られている。「蔵六とは亀の別名であり、頭・尾・四肢を甲羅に隠すことからこのように言われているが、仏教的には蔵六は「六根を清浄におさめる」の意となる。」(公式サイト)

次は鏡容池の周りを歩いてみます。庫裏を出て階段を降り西へ進むと池の回遊路は南へ曲がるのだが、その角に階段が見える。階段の上に見えるのが涅槃堂(納骨堂)で、その脇にパゴダ(ビルマ方面軍自動車廠戦没者の慰霊塔、1970年(昭和45年)8月建立)が建つ。

納骨堂の南側一帯が桜苑、梅林となっている。桜の最盛期は過ぎているので、散り残りの桜が彩をそえ、迎えてくれました。



境内の南側には大きな鏡容池があり、その周りを一周できる散策路が設けられている。楓の木が多く見られるので、紅葉の秋には多くの観光客で賑わうのではないでしょうか。

公式サイトには「平安時代、竜安寺一円が徳大寺家の別荘であった頃、お公卿さんがこの池に竜頭の船を浮かべて歌舞音曲を楽しんでいたことが文献に残っている。また、昔時は石庭よりも有名で、おしどりの名所であった。今は、カモやサギが池のほとりで羽根を休める姿が見られ、年間を通して四季それぞれの美しい草花が楽しめる」とあります。

鏡容池一周散策路は、拝観受付のあった山門脇に出る。以上で竜安寺は終わり、次に竜安寺の裏山にある天皇陵へ向かいます。

 朱山七陵(しゅやましちりょう)1  



龍安寺の裏山には幾人かの天皇墓があります。山門から100mほど参道を進むと写真のような三叉路に出会う。石庭へは左へ、車椅子やベビーカーは右へ、との案内標識だある。庫裏前には大きな階段があるので、それを避けれるのが右への道です。
天皇陵へ行くにもこの右の道に入る。天皇陵への案内標識などありません。

50mほど入ると、写真のような警告表示が現れる。山登り、ハイキング、ウォーキング、散歩などであっても「入るな!」という宮内庁の厳しい警告だ。私は「御陵関係者」ではないが「皇陵墳墓の参拝」として入ることにした。
一つ疑問がある。山門を通るので、陵墓参拝だけであっても龍安寺の拝観料を払わなければならないのか?。受付で”石庭は見ないよ”と言えばスルーできるのでしょうか。しかし地図を見て気づいた。東側の竜安寺駐車場からこの道につながっているので、山門を通らなくてもよい(これが宮内庁の案内する陵墓参道となっている)。ということは鏡容池を中心とし庭園だけなら無料で見学できる。庫裏に入るには拝観券を提示しなければならないのですが。

龍安寺の真裏なので、すぐ陵墓が見えてきました。
龍安寺背後の山は「朱山」(標高248m)で、後朱雀天皇・後冷泉天皇・後三条天皇・一条天皇・堀河天皇・後朱雀天皇皇后禎子内親王の6陵墓と、円融天皇火葬塚がある。これらを総称して「朱山七陵(しゅやましちりょう)」または「龍安寺七陵」と呼ばれています。

まず最初に見えてくるのが「後朱雀天皇皇后禎子内親王圓成寺東陵」(えんじょうじのひがしのみささぎ)
「内親王」とは、天皇の皇女という高貴な身分をさします。禎子内親王(ていしないしんのう)は、第67代三条天皇の第三皇女として生まれ、第69代後朱雀天皇の皇后となり、第71代後三条天皇の母となった方です。寛治8年(1094)1月疱瘡(ほうそう)を患い崩御、82歳でした。陵形は円丘という。

禎子内親王圓成寺東陵とは道を挟んで反対側の、少し小高くなった山裾に三天皇の陵墓が並んで造営されている。禎子内親王にとって後朱雀天皇は夫で、後三条天皇は息子です。最愛の二人を見守るように西面して、即ち天皇陵のほうを見守りながら禎子内親王の墓が建っている。

同域に三天皇陵が並ぶ。右が父親の後朱雀天皇圓成寺陵、中央に長男の後冷泉天皇圓教寺陵、左に次男の後三條天皇圓宗寺陵の順に並んでいます。陵名にそれぞれ天皇に縁の深い寺名が付いています。

円融寺と、陵名となっている円乗寺、円教寺、円宗寺をあわせて「四円寺(しえんじ)」と総称されています。平安時代中期に各天皇の発願により仁和寺の子院として造営され、近くに陵を造築、墓守としての性格をもつ寺でもあった。しかし、応安2年(1369)、大風で円宗寺が全壊したのを最後に、四円寺は再建されることもなくいずれの寺院も廃絶となって正確な所在地が不明となっている。また、四円寺のそれぞれの寺域を確定する絵図などは残っておらず、わずかに文献史料に散見できるだけです。推定地についても、現在は多くの家が建ち並ぶ住宅地になっているところがほとんどです。

右の地図は(財)京都市埋蔵文化財研究所の作成(1995年10月)による(ココを参照)。1980年代の調査と文献史料から作成、推定されたものだそうです。

円乗寺・円教寺・円宗寺は、現在の仁和寺の南側に有ったと推定されている。だから竜安寺裏の現在の三陵墓の場所は全く根拠がありません。天皇陵を確定さす必要に迫られた幕末に便宜的に決めたものと思われます。円融天皇が築いた円融寺だけは竜安寺の場所に当てはまる。平安時代の終わりに、衰退していた円融寺の土地を藤原氏が手に入れ徳大寺を創建した。それを室町時代の細川勝元が龍安寺として再建したのです。

■第69代後朱雀天皇(ごすざくてんのう、1009-1045、在位:1036-1045)
第66代一条天皇の第三皇子で、母は藤原道長の娘・上東門院彰子。名は敦良(あつなが)。9歳で同母兄・第68代後一条天皇の皇太弟になる。寛仁5年(1021)道長の六女で叔母にあたる嬉子を妻とし、第一皇子親仁(第70代後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は出産後に急逝した。その後道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内し第二皇子尊仁(第71代後三条天皇)を生む。長元9年(1036)、同母兄・後一条天皇の死により28歳で即位。当時は藤原氏の摂関政治の最盛期にあたり在位中は藤原頼通が関白として威勢を振るい、天皇の意のままにはならなかった。
寛徳2年(1045)、病に伏した天皇は、藤原家の意向どおり道長の孫にあたる第一皇子の親仁親王(第70代後冷泉天皇)に譲位、同時に皇后禎子内親王との間に生まれた尊仁親王(第71代後三条天皇)を新帝の皇太子と定めた。その2日後に剃髪し出家したが同日崩御。享年37歳だった。火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に納められた。10年後(1055年)、円教寺内に新堂として円乗寺が創建され陵とされた。円乗寺はその後焼失し、再興されることなく「焼堂」と呼ばれ、所在不明となっていた。
幕末の文久の修陵で現在地が陵墓とされ、元治元年(1864)三陵合わせて修陵された。陵名は「後朱雀天皇圓乘寺陵(えんじょうじのみささぎ)」、宮内庁の公式陵形は「円丘」となっている。

■第70代後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう、1025-1068、在位: 1045-1068)
後朱雀天皇の第一皇子、母は藤原道長の長女・藤原嬉子で、名は親仁(ちかひと)。乳母は紫式部の娘大弐三位。長暦元年(1037)皇太子となる。寛徳2年(1045)父の死に伴い21歳で即位した。末法思想が広がり、各地で寺院が建立された時代です。母の兄・藤原頼通が関白をつとめ威勢を振るった。頼通は一人娘・寛子を天皇の皇后とし、皇子誕生の望みをかけたが、遂に皇子は生まれなかった。天皇には他に、章子内親王(後一条天皇第一皇女)、藤原歓子(関白藤原教通三女)の妃がおり、同時に三人の后妃が並立した史上唯一の例となっている。しかしいずれも後継ぎとなる皇子にはめぐまれなかった。
治暦4年(1068)4月19日、在位のまま崩御。在位24年、宝算44歳だった。藤原氏を直接の外戚としない異母弟の後三条天皇が即位することになる。宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が出現し、栄華を極めた藤原氏の没落がはじまり、摂関政治は弱体していった。
船岡の西野で火葬され、遺骨は仁和寺内の円教寺に納骨された。その後、仁和寺山(朱山)に葬られた、との記録が残る。しかし、中世(鎌倉時代-室町時代)には陵地は不明になる。幕末の文久の修陵で現陵が造営された。陵名は「後冷泉天皇圓教寺陵(えんきょうじのみささぎ)」、宮内庁公式陵形は「円丘」。

■第71代後三条天皇(ごさんじょうてんのう、1034-1073、在位:1068-1072)
後朱雀天皇の第二皇子で、母は禎子内親王。名は尊仁(たかひと)。治暦4年(1068)後継がなかった異母兄の後冷泉天皇の死により35歳で即位。
学を好み、才能卓抜、資性剛健で、母が藤原氏の出でなかったため摂関家にはばかることなく、また藤原氏の内紛に乗じて摂関の専権を押さえて、さらに大江匡房らを重用して積極的に親政を行った。延久元年(1069)に延久の荘園整理令を発布し、違法な手続によって立荘された荘園を整理・停止し、新規設置の取り締まりをおこないました。収公された荘園の多くは後三条天皇領となり、皇室経済基盤の強化が図られた。一方で有力貴族の経済基盤には大打撃となりました。こうした後三条天皇の親政は「延久の善政」と称えられたという。延久2年(1070)、御願により円宗寺を創建。延久4年(1072)、即位後4年で第一皇子貞仁親王(白河天皇)に譲位して院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。

延久5年(1073)5月7日に崩御。神楽岡南の原で火葬にされ、遺骨は禅林寺(永観堂)内の旧房に安置された。その後、仁和寺の寺地内にあった円宗寺に移されたという。円宗寺は荒廃し廃絶され、所在も不明になってしまっていた。幕末の文久の修陵で現陵が造営された。陵名は「後三条天皇圓宗寺陵(えんそうじのみささぎ)」、宮内庁公式陵形は「円丘」。

 朱山七陵(しゅやましちりょう)2  



一条天皇と堀河天皇の陵墓は朱山を登った上にあります。禎子内親王墓と三天皇墓の間の道を奥へ進み、山中に入っていく。ここからは緩やかなつづら折れの登り道ですが、天皇墓への参拝道だけあって、よく整備された石畳の階段となっている。

10分ほどで明るくなり、綺麗に手入れされた植え込みが見えてくる。正面に回ると、植栽に挟まれた階段の上に陵墓の鳥居が少しずつ大きく見えてくる。伏見にある明治天皇の陵墓を思い出します。天皇崇拝者にとっては胸キュンとなる瞬間でしょう。

二天皇だが、拝所は一つしかない?。幕末の文久の修陵(1862-1864)で現在地に決められ陵墓が造営された時は、一条天皇、堀河天皇それぞれに拝所が設けられていたという。それが明治45年(1912)に二陵共用の拝所に変えられたようです。何故に?。見えないのだが、もちろん墓とされる円丘は別々です。右側が「一條天皇圓融寺北陵」、左側が「堀河天皇後圓教寺陵」となっているようです。
宮内庁のページには現在地<京都府京都市右京区龍安寺朱山 龍安寺内>となっているのですが、ここまで龍安寺の境内はひろがっているのだろうか?。

■第66代一条天皇(いちじょう てんのう、980-1011、在位:986-1011)
第64代円融天皇の第一皇子、母は藤原詮子(藤原兼家の娘、道長の姉)で、名は懐仁(やすひと)。兄弟姉妹はいない。永観2年(984)、5歳で従兄・第65代花山天皇の皇太子になる。寛和2年(986)6月22日、19歳の花山天皇は内裏を抜け出し剃髪して仏門に入り退位した。この突然の出家は、藤原兼家が孫の懐仁親王(一条天皇)を早期即位させるための陰謀だったと伝わる(寛和の変)。7歳の懐仁親王は第66代一条天皇として即位する。皇太子には冷泉天皇の皇子居貞親王(三条天皇)を立て、摂政に藤原兼家が就任し若い天皇の後見にあたった。兼家はさらに関白、太政大臣となって権力を独占するが、4年後(990年)に病死。兼家死後は長男の道隆が摂関の地位を引き続ぎ、娘・定子(ていし)を一条天皇の中宮に入れる。この定子に仕えた女房のひとりが清少納言です。
道隆の死後、その弟・道兼が継ぐ。道兼が就任数日で亡くなると、末弟・道長が政治の実権をにぎった。道長は娘・彰子(しょうし)を一条天皇の皇后として中宮に入れ、敦成親王(第68代後一条天皇)、敦良親王(第69代後朱雀天皇)をもうけている。彰子の侍女として仕えたのが紫式部、和泉式部でした。宮廷女流文学の最盛期であり、定子に仕えた清少納言、彰子に仕えた紫式部らが互いに競ったという。一条天皇自らも文芸に深い関心を示し、教養に富み温厚であったと伝えられ、権勢を握る道長とときに意見の対立をみながらも、相和して政治をおこなったという。寛弘8年(1011)5月末頃には病が重くなり、皇太子居貞親王(第67代三条天皇)に譲位し出家する。その3日後に崩御、32歳だった。

寛弘8年(1011)6月22日、一条天皇は一条院(上京区)で亡くなる。7月8日夜、火葬の後、遺骨は円城寺(円成寺)に安置された。生前に天皇は、父・円融天皇の陵の傍らに土葬することを遺詔していた。後に道長はそのことを思い出し、没後9年後の寛仁4年(1020)に遺骨は円融寺北方の円融天皇火葬所の傍らに蔵骨されたという。その後、陵所は不明になる。幕末の文久の修陵(1862-1864)で現在地に決められ、堀河天皇陵とともに陵が造営された。陵名は「一條天皇圓融寺北陵(えんゆうじのきたのみささぎ)」、陵形は円丘。火葬塚は(一条天皇・三条天皇火葬場(北区衣笠鏡石町2-14))となっている。

■第73代堀河天皇(ほりかわてんのう、1079-1107、在位:1086-1107)
第72代白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子で、名は善仁(たるひと)。応徳3年(1086)立太子と同日に8歳で父・白河天皇から譲位され即位した。外祖父にあたる関白・藤原師実、次の藤原師通が関白となり実権を握ったが、堀河天皇も提携し親政を行い「末代の賢王」とまで評されたという。しかし承徳3年(1099)に師通が死去すると、天皇はしだいに白河法皇に相談するようになり、白河法皇の院政が強まっていった。その結果、堀河天皇の在位はかたちばかりのものになり、天皇は文芸、和歌、笙笛にいそしむようになり、政治から離れていった。堀河天皇は人望も厚く才知にも長けていたとされるが、生来病弱だったのが災いして、嘉承2年(1107)に在位のまま29歳で崩御した。

嘉承2年(1107)7月19日、堀河院で亡くなり7月24日、香隆寺南西の野の山作所で火葬にされた。遺骨は、香隆寺の僧坊に安置されたが、その6年後に仁和寺の円融院に移されたという。別の記録では「後円教寺」とあるので、これが現在の陵名になっています。いずれの寺も中世(鎌倉時代-室町時代)に廃絶し不明になってしまっている。陵の所在地は不明のままだったが、幕末の文久の修陵で一条天皇陵とともに、現在地が堀河天皇陵として修陵された。陵名は「堀河天皇後圓教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)」、陵形は円丘。

後ろを振り返ると、京の街が一望に見渡せる素晴らしい絶景が広がっています。数多くの天皇陵を見てきたが、眺望の良さではここが一番でしょう。
朱山をさらに登ると山頂に「円融天皇火葬塚」があるのだが、そこまで行っておられないので下山し、次の仁和寺へ向かいます。


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