山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

鳥羽・伏見の旧跡巡り 4

2017年11月29日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ)1  


「大手筋商店街」アーケードを東に抜け、京阪電車・伏見桃山駅、近鉄電車・桃山御陵前駅をやり過ごし150mほど歩けば御香宮神社の紅い大鳥居です。この道を真っ直ぐ進めば、明治天皇伏見桃山御陵へ通じています。
御香宮神社は、地元では「ごこうぐうさん」と呼ばれ、子育て、安産にご利益がある神社として古くから親しまれてきた。これは主祭神・神功皇后が、新羅から筑紫へ凱旋のとき、応神天皇を無事出産したことに由来しています。

御香宮神社の表門(重要文化財)です。元和8年(1622)水戸光圀の父・徳川頼房が伏見城の大手門を拝領して寄進したもの。門柱には堂々と「伏見城大手門」の表札が掲げられている。門の扉も頑丈に防御され、お寺の門とは思えません。

門の表側(道路側)の軒下に、四つの蟇股(かえるまた)が彫られている。これは中国の二十四孝の物語を表してしるそうです。
左から
「孟宗(もうそう)」・・・病弱の母が筍を食べたいというので、孟子は雪の中に探しに出ると、寒中にも拘らず彼の孝養に感じ筍が出てきた話
「唐夫人(とうふじん)」・・・唐夫人の曽祖母は歯が無かったので、自らの乳を飲ませて天寿を全うさせた話。
「郭巨(かっきょ)」・・・郭巨は母に孝行する為に子供を殺して埋めようとした所から黄金の釜が出土、子供を殺さず親孝行が出来た話。
「楊香(ようこう)」・・・楊香と云う名の娘が猛虎より父を救った話。

境内は自由に見学・参拝できます。
御香宮神社の創建については二説あります。社伝によれば、平安時代の貞観4年(862)、境内より香りの良い水が湧き出し、その水を飲むと病は治り、願い事がかなったという。時の第56代・清和天皇は社殿修復の勅を出し、「御香宮」と名のらせたという。この水は、現在でも「御香水(ごこうすい)」として、本殿横から湧き出している。
もう一つの説は、九州筑紫の香椎宮(かしいのみや)の神(神功皇后)を、山城国の御諸(みもろ)神社に勧請したというもの。「御香椎宮」と呼ばれていたが、後に「椎」を略して「御香宮」になったという。

その後、応仁の乱などの兵乱や天災によって荒廃していたが、豊臣秀吉の伏見城築城の際に、鬼門除けの神として城内に勧請した。それが現在、「古御香宮」として伏見丘陵の北側に残っている。
徳川家康が天下を取ると、慶長10年(1605)元の現在地に戻され本殿が造営された。これを機に徳川家とゆかりの深い神社となる。本殿西側には、徳川家康を祀った「東照宮」が建てられている。しかし、皮肉にも幕末の鳥羽・伏見の戦い(1868年)では、会津藩兵や新選組などの幕府軍がこもっていた伏見奉行所に、砲弾を打ち込んだ討幕派・薩摩藩の陣地となる。伏見奉行所から150m程の距離で、砲弾が的確に命中することから選ばれた。この砲撃で伏見奉行所は灰燼に帰したが、幸いにも御香宮神社は鳥羽・伏見の戦いでは戦災に遭わず、現在の姿が残されている。
表門を入り、参道を真っ直ぐ進むと色彩鮮やかな拝殿(重要文化財)です。この拝殿は寛永2年(1625)、紀州徳川家の初代藩主・徳川頼宣によって寄進されたもので、伏見城の車寄(くるまよせ)だったのではないかといわれている。正面中央に通路がある割拝殿で、本瓦葺屋根に、正面軒唐破風を持つ入母屋造り。
この拝殿で、何といっても目に付くのが正面軒唐破風に描かれた極彩色彫刻。平成9年(1997)、半解体修理が終り往年の鮮やかな色彩が復元された。
中央の唐破風には、徳川家の三ツ葉葵の定紋が。上部の棟瓦の真ん中にも見られます。
豊臣家の五七桐紋(現、日本国の紋で500円硬貨)や皇室の菊の御紋を脇に押しのけ、中央に燦然と輝いています。
慶長10年(1605)徳川家康の命により、、京都所司代・板倉勝重が普請奉行となり建立。檜皮葺の屋根を持つ五間社流造り。国の重要文化財です。主祭神は神功皇后で、夫の仲哀天皇、子の応神天皇ほか六神を祀っている。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集めています。

拝殿同様、本殿にも極彩色の彫刻が施されている。金鶏や銀鶏、孔雀、象、虎などの躍動する彫像です。平成2年(1990)からの修理によって極彩色の彫刻が塗り直され、いっそう鮮やかに蘇ってきた。

 御香宮神社 2  



本殿前の左側に、今も湧き出しているという「御香水(ごこうすい)」の水汲み場があり、柄杓が置かれています。ただし「この水は濾過されていませんので飲まないで下さい」と注意書きがぶら下がっているので、手を清めるだけのもののようです。
神社名の由来にもなった「御香水」は、明治時代に一度枯れてしまいましたが、昭和57年(1982)に再掘削し、地下150mからくみ上げ復活した。伏見の七名水に数えられ、昭和60年(1985)環境庁の「名水百選」に認定されました。

参道右側に、北野天満宮・八坂神社の絵馬堂とともに京都三大絵馬堂とされる絵馬堂がある。高床式の建物の側面に、大きな絵馬が掲げられている。絵はかすれ消えかけているので、よく判らない。
「算額」と呼ばれ、数学(和算)の問題を描いた絵馬もあるそうです。八坂神社に答えの算額があるとか。



拝殿前右横に「伏見の戦跡」と刻まれた碑があります。慶応4年(1868)正月に始まった鳥羽伏見の戦いで、この御香宮神社もその舞台となった。官軍の薩摩藩800人が駐屯し、4門の大砲で200mも離れていない新選組の駐屯地・伏見奉行所に砲弾を撃ち込んだ。砲弾は奉行所を炎上させ、激しい市街戦となる。結局、錦の御旗を掲げた官軍が有利になり、幕府軍は敗退し、御香宮神社の社殿は幸い戦火を免れている。

”世界史上まことに重大な意義”も?なのだが、なぜ佐藤栄作なのか?よくわからない。多くの犠牲者をだした世界大戦の遠因となった天皇制国家実現への一戦だった。戦犯の弟・佐藤栄作は悔悟の気持ちをこめてこの碑に対峙したのでしょうか?

表門を入った直ぐ右横に菅原道真を祀った桃山天満宮がある。その境内には、石垣だったのでしょうか、旧伏見城の残石が無造作に積み上げられている。明治天皇陵墓を築くのに邪魔だったので、近くの神社内に移し(捨てる)たのでしょう。
参道脇にも、石垣と思われる大石が転がっています。穴があいていたり、線条が見えたりと、歴史を感じさせてくるゴロ石です。

御香宮神社を出て、駅方向に歩いていると、歩道上に奇妙な建物がある。それも歩道を半分以上占拠してだ。交番?、休憩所?、観光案内所?・・・トイレでした。伏見は、おじさん、おばさんに優しい町です。





 伏見奉行所跡  



近鉄電車「桃山御陵前2」駅南側の筋を200mほど行くと、京都市営桃陵団地が建つ。その西入口の一角に伏見奉行所跡の碑が建っている。昭和43年(1968)に、京都市によって建立された碑です。現在、伏見奉行所としての遺構はほとんど残っておらず、この高さ1mほどの石碑が伏見奉行所跡を示す唯一のものです。なお、小堀遠州が手がけた奉行所の庭園の一部が、昭和32年御香宮神社に移され再現されている。

伏見城廃城後に、代わって伏見を統治する拠点になったのが伏見奉行所です。寛文6(1666)年水野石見守忠貞(1597~1670)が初代奉行となる。伏見市街と周辺8カ村を支配すると同時に、京都への入口にあたることから西国大名の監視や港の監視などの役割を持っていた。慶応3(1867)年、王政復古後に伏見奉行所は廃止され、京都町奉行所に吸収される。

慶応4(1868)年正月3日の鳥羽伏見戦では,幕府直属武士、会津藩や新選組など旧幕府軍1500人がここ伏見奉行所に立てこもって、向かいの御香宮に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙した。しかし新式の洋式銃と大砲を持つ薩摩藩には勝てず、砲火を浴び奉行所は焼け落ちた。翌日、旧幕府軍は伏見から撤退している。


明治期から終戦まで、跡地は陸軍伏見工兵16大隊の兵営となり、戦後は進駐軍が接収し駐屯地とした。1958年に敷地は日本に返還され、大規模団地・桃陵団地が建てられた。
伏見奉行所跡の碑の反対側には「伏見工兵第十六大隊跡」と刻まれた石碑が置かれていました。












 墨染寺(ぼくぜんじ)  


墨染寺(ぼくぜんじ)は、京阪電車・墨染駅を降り西に歩き、琵琶湖疏水に架かる橋を渡ると見えてくる。狭い車道の直ぐ脇で、住宅街の狭い場所なので見逃しやすい。
入口には「墨染桜寺」の石柱も建つ。山号は深草山という日蓮宗の寺。本尊は十界大曼荼羅。
拝観時間:午前8時~17時、境内無料

このお寺が有名なのは、地名でもあり寺名でもある「墨染桜(すみぞめざくら)」に因む。それは次のような伝説からきている。
平安時代の891年、時の太政大臣・藤原基経が亡くなり、野辺だったこの地に葬られた。それを悲しんだ平安歌人・上野岑雄(かみつけのみねお)は友の死を悼み、桜に向かい次の歌を詠んだ。
「深草の野辺の桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」(『古今和歌集』)
すると、桜の花が墨染色に染まったという。秀吉もこの話に感銘し、度々訪れ寺の復興に力添えしている。

墨染桜は狭い境内の一箇所に、柵で囲われ数本あるだけです。「三代目」とある。辞書によると「里桜の一品種。花は小さく単弁で細く白色。茎・葉ともに青く、薄墨のようである」。「墨染衣」といわれる僧の鼠色の衣の色をイメージすればよいとか。実際に見てみたいですね。

「墨染井」と刻まれた小さな手洗鉢が置かれている。「願主 中村歌右衛門」とあります。江戸時代の歌舞伎役者・二代目中村歌右衛門が、1768年に寄進したものだそうです。墨染桜のエピソードや深草少将の悲恋話が歌舞伎芝居で大当たりしたことによるものとか。







 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)1  



京阪電車・墨染駅から北東へ10分位歩けば藤森神社です。神社の歴史についてWikipediaには
「創建年代や祭神には諸説ある。社伝では、神功皇后摂政3年(203年)、三韓征伐から凱旋した神功皇后が、山城国・深草の里の藤森に纛旗(とうき、いくさ旗)を立て、兵具を納め、塚を作り、祭祀を行ったのが当社の発祥であるとしている。当初の祭神は、現在本殿に祀られる7座であった。藤森の地は現在の伏見稲荷大社の社地であったが、その地に稲荷神が祀られることになったため当社は現在地に遷座したと言われている。そのため、伏見稲荷大社周辺の住民は現在でも当社の氏子である。なお、現在地は元は真幡寸神社(現・城南宮)の社地であり、この際に真幡寸神社も現在地に遷座した。」とある。
本殿に三つの座(中座、東座、西座)が設けられているように、周辺にあった三つの神社が統合されてできた神社。そのため多くの神が祀られている。

神社入口にある「勝運 馬の社」の朱文字がひと際目に付く。武神が多く祀られ、駆馬神事も有名なことから、馬と勝負事の神社として知られており、競馬関係者や競馬ファンの信仰を集めているそうです。

石鳥居をくぐると、幅広の砂道が150mほど本殿に向って真っ直ぐ伸びている。「人・馬」が通れる参道です。
藤森神社で名高いのは、端午の節句(菖蒲の節句)である毎年5月5日に行われる「藤森祭」(別名「深草祭」)。その藤森祭のハイライトが、この参道を駆け抜ける駆馬神事(かけうましんじ)。7種類の馬上妙技が披露されます。騎乗で伝達する「一字書き」、矢の中を駆ける「手綱潜り」、逆さになり落馬に見せかける「藤下がり」、逆立ちにより敵を嘲る「逆立ち」、前後逆に跨り敵の動静を見る「逆乗り」、矢を払い駆ける「矢払い」、馬に姿を隠す「横乗り」など曲馬(くせうま)の技が披露されるという。下賀茂神社(京都)、春日神社(奈良)の流鏑馬神事は見たことあるが、ここの駆馬神事も是非見てみたいものです。昭和58年(1983)に京都市の無形民俗文化財に指定されるた。

参道の左脇に紫陽花苑(あじさいえん)があります。今は鮮やかさは無いですが、6月の開花期には約40種類・3500株が咲き、多くの人出で賑わうという。「紫陽花苑」の公開は6月10日~7月上旬。開苑時間は9時~17時。入苑料は一般300円ほか(第1・第2紫陽花苑共通券)。期間中の土日には蹴鞠や太鼓、雅楽などの奉納行事があり、6月15日の「紫陽花祭」には、アジサイの献花、献茶、神楽・豊栄の舞の奉納などの神事が行われるそうです。本殿裏には、規模は小さいですが第2紫陽花苑がある。

馬と勝負の藤森神社だけあって絵馬舎もあります。かっては拝殿だった建物だそうです。古い絵馬もあるが、多くは現代の競走馬。内部はベンチが置かれ休憩所になっている。おじさん達が集まり競馬談義に興じていました。

左:トウカイテイオー、右:ナリタブライアン とある。





鎧兜や刀剣・鉄砲・弓矢・馬具など、多くの武具類が展示されている。鳥羽伏見の戦いで使われた薩摩藩の「先込式大砲」もあった(大砲にしては小さかったが)。また「馬の博物館」といわれるだけあって、日本、外国の馬の玩具、多数の小さな馬のミニチュア、武豊などの乗馬写真など多数展示している。
午前9時~午後5時まで、入館無料。

 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)2  



落ち着いた割拝殿。拝殿と奥にある本殿は、正徳2(1712)年に後水尾天皇の遺勅によって宮中にあった建物を移したものです。
ちなみに、それ以前に使われていた拝殿は今は絵馬舎になっています。

本殿は外見では判らないが、東・中・西殿の三つに分かれている。

中央部の中殿には、素盞鳴命(スサノヲノミコト)を主祭神に、別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の7柱が祀られています。社伝によれば「神功皇后が摂政3年(203)・三韓征伐を終え新羅から凱旋した際に、纛旗(とうき/軍で用いる大旗)を山城国深草の里・藤森の地に立て、兵具を納めて塚を作り、祭祀を行って神々をお祀りした」とし、これが藤森神社の発祥だそうです。

東殿には舎人親王が祀られている。元々は藤尾の地(現在の伏見稲荷大社がある場所)の藤尾社に祀られていた。室町時代の永享10年(1438)、将軍・足利義教は稲荷山の山頂にあった祠を、山麓の藤尾に移動させ稲荷社とした。そのため藤尾社は藤森神社へ遷されることにる。今でも、5月に行われる「藤森祭」の時には、氏子さんが神輿を担いで伏見稲荷大社の境内にある藤尾社の祠まで出向くという。

西殿には、崇道天皇(早良親王)と伊予親王、井上内親王が祀られている。いずれの方も冤罪・謀略などによって非業の死を遂げた人達です。その怨霊を鎮めるために御霊社が建てられた。元は、東山の塚本の地にあったが文明2年(1470)に藤森神社に合祀されたもの。

本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より下賜された宮中内侍所(賢所、かしこどころ)の建物。屋根には皇室を示す菊の御紋が輝いている。国の重要文化財です。

本殿の東脇に、小さな社があり、注連縄の張られた「いちいの木」の古株が据えられている。「御旗塚」と呼ばれ、ここに神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納たと伝わる。
傍の説明板には
「神功皇后が、軍中の大旗をたてた所で、当社発祥の場所である。このいちいの木は”いちのきさん”として親しまれ、ここに参拝すると腰痛が治るといわれ、幕末の近藤勇も参拝し治したと伝えられている」とある。

「伏見 名水10ケ所」の一つ「不二の水(ふじのみず)」が、苔むした岩から湧き出している。「二つとないおいしい水」という意味から「不二の水」と呼ばれる。戦国時代から勝ち運を授ける水として名高い。地元の方でしょうか、ペットボトルを持って汲みに来られている人も。


詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 3

2017年11月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 竜馬通り商店街  


寺田屋から一本東側の通り、蓬莱橋からは前に真っ直ぐな通りです。その名も「竜馬通り商店街」。他の通りとちょっと違った雰囲気をもった通りで、小ぎれいな土産物屋、お食事処が並ぶ。アーケードのある大手前筋商店街までつながっています。
この通りには、龍馬に関連するグッズ類や絵写真などの小物を置いている「龍馬館」や、黄桜の酒場や展示場、工房からなる「黄桜カッパカントリー」がある。ここの展示場には伏見十名水の一つ「伏水(ふしみず)」が湧いていた。

 西岸寺(さいがんじ)・電気鉄道発祥地  



竜馬通り商店街の中ほどで、西側の路地に入る。すぐ油懸地蔵尊で名高い西岸寺に出会う。「油懸地蔵尊」と書かれた真っ赤な幟がはためいているのですぐ分かります。町名も下油掛町。

天正18年(1590)僧・雲海(うんかい)による創建。 油の行商人が、ここの地蔵尊に油を懸け大金持ちになったということから大いに信仰を集め、油懸けして祈願する人が増えたという。
現在でも、毎週金曜日の13時から15時の間だけ油懸祈願する事が出来るそうです。通常は扉が閉められ、お地蔵さんを拝見できません。
案内板からの紹介です。油懸地蔵は高さ1.7m、幅80cmの花崗岩の表面に彫られた像高約1.27mの石仏で、お地蔵さんの立ち姿が浮き出るように彫刻され、右手に錫枝、左手に宝珠を持っている。なで肩、大きく胸の開いた彫法で縁の部分の大きな像ということから鎌倉時代の石仏と考えられています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、今では油が2cmも厚く積り黒光りしているので調べようがない、ということです。

西岸寺を西に行った通りの角に「我国に於ける 電気鉄道事業発祥の地」という石碑が建つ。竹田街道と油掛通の交差点北東角です。側面には「明治廿八年二月一日京都電気鉄道株式会社は京都市下京区東洞院通東塩小路踏切(旧東海道線) 南側から伏見町油掛通まで電気鉄道を我国において初めて開業した」と書かれている。昭和45年2月1日に鉄道友の会京都支部が建立、とある。

蒸気機関車の東海道線はすでにあったが、電気で走る鉄道はここが最初です。
琵琶湖疎水を利用した水力発電所が明治23年に完成。その電力を利用した電車を走らす京都電気鉄道が3年後に設立される。明治28年(1895)4月京都岡崎公園一帯で開かれる第四回内国勧業博覧会への客輸送のため、約6キロの伏見線(下京区東洞院通東塩小路~伏見町油掛通)が明治28年(1895)2月1日に開通。日本最初のチンチン電車です。その後は、京都市電に買収され、長らく京都市民に親しまれてきたが、昭和45年(1970)に廃線となりました。

石碑の建つ角は、和菓子の老舗「駿河屋」。天明元年(1781)創業のお店。電車のイラスト入りの「電車みち」というセンベイも並んでいる。

 鳥羽伏見の戦いの跡  



寺田屋に近い京橋の傍に石碑「伏見口の戦い激戦地」が建つ。江戸時代には三十石船、十石舟、高瀬舟などが行き交い、多くの船宿、旅籠で賑わっていたここ南浜周辺は、新政府軍と幕府軍が激突した幕末の鳥羽・伏見の戦い(慶応4年(1868)1月)の市街戦により街中の多くの家屋が大きな被害を受けた。寺田屋も例外ではありませんでした。

京橋から100mほど南へ歩くと、右側の車道脇に「伏見長州藩邸跡」石碑が建つ。

鳥せい本店のある通りから一筋西に入った路地の空き地に「伏見土佐藩邸跡」の石碑が建っていました。横は「月桂冠情報センター」の建物です。この筋を南へ進むとすぐ月桂冠の大倉家本宅や伏見夢百衆です。

なお、伏見薩摩藩邸は大黒寺の西側で、濠川の傍にあった。寺田屋で負傷した坂本龍馬もこの伏見薩摩藩邸に救出され保護された。その後の鳥羽・伏見の戦いで、京橋から伏見へ入った会津藩の砲撃により焼失してしまう。現在何も残っておらず、跡地は月桂冠関連会社の松山酒造となっているという。碑も置かれていないようです。

鳥せい本店から北の方向(大手筋商店街のアーケードの方向)を見ると、突き当たりに寺門が見えます。ここがかっての東本願寺伏見別院で、「伏見御堂」と呼ばれた。
幕末の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍に組する会津藩の駐屯地となった場所です。この戦いで損傷を受けたらしく山門だけが見えます。現在は伏見幼児園となっている。

 鳥せい本店  



月桂冠本社ビルの前を北へ(大手筋商店街アーケードの方向)歩く。突き当たりが伏見御堂になるのですが、その手前に伏見の観光案内に必ずでてくるお店「鳥せい本店」があります(上油掛町186)。お食事処なのですが、お店の角の湧き水で有名。「白菊水(しらぎくすい)」と呼ばれ、日本名水百選に選ばれ、そして伏見十名水の一つでもある。創業延宝5年(1677)の伏見の清酒「神聖」の酒造りに使われてきた。
「白菊水」の名前の由来は、当地・久米の里の仙人・天太玉命(あめのふとたまのみこと)翁の伝説から。白菊を育てていた翁は、日照りが続き困っていた村人に対して「この地に日照りが続き、稲が枯れるようなとき、私の愛でた白菊の露の一雫より清水が湧き出す」と言って、手に持っていた白菊を振って清水を湧き出させたといわれている。

白菊水の水汲み場には、地元の方でしょうか数人が容器をもって並んでいました。道路脇にあるので、誰でも気軽に利用できるようです。車を駐車して・・・、ということも。伏見十名水の中では一番の人気だそうです。

延宝5年(1677)創業の伏見の清酒「神聖」の酒蔵の一棟を改造したお店。手ごろなお値段の鶏料理のお食事処。お味のほうも”おてごろ”でした。また伏見の蔵元のお酒も楽しめる。まだお昼なので嗜みませんでしたが。
営業時間は、平日(11:30~23:00)、日曜・祝日(11:00~23:00)
定休日:月曜日(祝日除く)





 伏見大手筋商店街  



伏見の生活の中心、「大手筋商店街」アーケードを歩きます。名前のとおりかっての伏見城大手門に通ずる道です。現在は、アーケードの東出口に京阪電車・伏見桃山駅、近鉄電車・桃山御陵前駅があり、そこから東へ行くと明治天皇伏見桃山陵です。
約400m続くアーケードは生活感に溢れ、寺田屋周辺の雰囲気とは一変します。

大手筋商店街の中ほど、みずほ銀行の角の路地を少し北に行くと源空寺という小さなお寺がある。
目に付くのは、入って直ぐの二層からなる立派な山門。二階に紅い欄干をもつこの門は、お寺の門というイメージはありません。
この山門は伏見城廃城のときに移築されたもの。貴重な旧伏見城の遺構です。山門の階下には、寺宝の「朝日大黒天」が祀られている。この大黒天像は、元伏見城巽櫓にあった豊臣秀吉の持念仏だったそうです。

アーケードの東の出口手前に、名物のからくり時計があります。近畿労働金庫・伏見支店の二階です。通常は扉が閉まっているのですが、正午、1時、2時・・・と1時間ごとに扉が開き、からくり人形が登場します。上段から伏見にゆかりの深い人物が次々と姿を見せる。
まずゼンジー北京と?。
二番目は、森の石松と五条橋の牛若丸、伏見とどう関るのでしょうか?
三番目は、秀吉、伏見城と、淀殿(北政所?、篤姫?)
四段目は、坂本龍馬、近藤勇と酒造り職人
全員登場し、少しだけ演技し閉じられていきます。全上演時間は4分くらいです。

からくり時計のある近畿労働金庫・伏見支店の東角に「此付近伏見銀座跡」の石碑が建てられている。昭和45年石碑建立。地名も「伏見区両替町三丁目」。

関ケ原戦に勝利した徳川家康は、慶長6(1601)年5月通用銀の全国統一を図るため、伏見のこの地に初めて銀座を設け、四町にわたって会所や座人屋敷が置かれた。その後、伏見銀座は廃止となり京都へ移され、さらに江戸や大阪へと広がる。ここが全国各地の「銀座」の発祥地なのです。


詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 2

2017年11月13日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。

 寺田屋 1 (薩摩藩の寺田屋騒動)  



寺田屋は伏見の船宿。龍馬とお龍との出会いの場所としても有名で、伏見の観光名所の中心となっている。
寺田村の百姓・伊助が伏見京橋近くに出て、慶長2年(1597)に創業の船宿で、「寺田屋」の名は出身地の寺田村に由来する。幕末の二つの出来事で歴史に名を残しています。

寺田屋は鳥羽伏見の戦(慶応4年、1868年)で、この一帯は激戦地となり罹災し、焼失した。現在庭園になっている場所が、かつての建物があった所。現在の寺田屋の建物は旧家屋を模して昭和30年代に再建されたもの。一階、二階で坂本龍馬に関する多くの遺物・資料が展示されている。、現在は旅館と史跡博物館になっています。備考 宿泊6,500円(要予約)現在でも旅館として営業しています。現在でも旅館として営業しています。要予約ですが、一泊6,500円(【電話番号】075-622-0243)。
開館時間 10:00~15:40まで受付 16:00営業終了、大人400円、月曜不定休あり

入口に建つ「史蹟 寺田屋」の石柱。西面には「坂本龍馬先生遭難の趾」が、東面には「薩藩九烈士殉難の趾」が、北面には「昭和三十六年百年祭記念 第十四代当主安達清之建」と刻まれています。
Wikipediaには「大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。」とある。

左は立て札「寺田屋騒動址」、右は庭園にある「倒幕派薩摩藩士の石碑」
寺田屋は、薩摩藩の内紛騒動と坂本龍馬襲撃の場所として歴史に名を残す。現在の観光地化された「寺田屋」は坂本龍馬襲撃一色で、薩摩藩の内紛騒動を示すものは、入口の立て札「寺田屋騒動址」と庭にある「寺田屋騒動記念碑」しか見当たりませんでした。しかし歴史的には、はるかに薩摩藩の内紛騒動の方が大きな事件です。有名な坂本龍馬を売りにして観光客を集めています。薩摩藩の内紛騒動では人が集まらないのでしょう・・・。

幕末の船宿・寺田屋は、薩摩藩の定宿でもあり、密かに倒幕の熱い談義が繰り広げられていた。そこに薩摩藩の内紛による薩摩藩志士粛正事件が起きたのです。
立て札「寺田屋騒動址」は、文字がかすれ読みにくいので内容を紹介します。
「文久2年(1862)4月、尊皇攘夷派の先峰であった薩摩藩士9名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。  当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光(ひさみつ)を中心とする公武合体を奉ずる温和派と、勤王討幕を主張する急進派との二派があったが、久光は急進派の動きを押えようとして、兵千余名を率い京都へ入洛せんとした。これを知った有馬新七ら30余名の急進派同志は、文久2年(1862)4月23日、関白九条尚忠(なおただ)、所司代酒井忠義を殺害すべく、薩摩藩の船宿であった寺田屋伊助方に集まった。これを知った久光は藩士奈良原ら8名を派遣し、新七らの計画を断念さすべく説得に努めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら7名が斬られ、2人は重傷を負い、翌日切腹した。 後の広場にある殉難碑は明治27年(1894)の建立で、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の筆になる篆額(てんがく)を掲げる。伏見区南浜町」
wikipediaは斬り合いの生々しい様子を記述している。
「奈良原は説得を続けたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、こうして“同志討ち”の激しい斬り合いが始まった。
斬られた田中謙助は眼球が飛び出たまま昏倒。山口も抜刀して背後から柴山愛次郎を斬り捨て、これらを見た有馬新七は激高して道島に、橋口壮介は奈良橋に斬りかかった。有馬は剣の達人であるのだが、渡り合っていて刀が折れたので、道島に掴みかかって組み合い壁に押さえつけた。近くにいた橋口吉之丞は狼狽してか加勢できずにいたので、有馬が「我がごと刺せ[1]」と命じ、橋口吉之丞はその言葉に従って有馬の背中から道島と共々貫いて両名を絶命させた。他方、橋口壮介は奮戦していたが、奈良橋に肩から胸まで斬られて倒れ、最期に水を所望して飲んだ後で息絶えた。森山新五左衛門はちょうど厠に降りてきたところにこのような斬り合いが始まり、斬られて重傷を負った。大山格之助は梯子下で待っていて、騒動を聞いて降りてきた弟子丸龍助を刺殺し、さらに降りてきた橋口伝蔵の足を払った。橋口伝蔵は立ち上がって刀を振るい、鈴木勇右衛門の耳を切り落としたが、鈴木昌之助に刺されて絶命した。そこにまた降りてきた西田直五郎を森岡が槍で突き、西田は転がり落ちたが、刀を振るって森岡と相打ちのような形で息絶えた。」

事件後薩摩藩は迷惑をかけたとして寺田屋に、家屋や家財の修復費や、藩内部の斬り合いの口止め料として多額のお金を支払ったという。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かった。

騒動の後、伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛とその手代数名が駆けつけ、遺体を白木綿で包み700~800m北にある薩摩藩の菩提寺・大黒寺に葬ったとされています。大手筋商店街を抜け400mほど北にある大黒寺を訪ねてみました。訪れると人が集まっているので何事か、と思ったがTVロケだったようです。丁度終わった後だったので墓地に入れました。拝観時間:6時~18時 境内自由

本堂には、秘仏大黒天が金張りのお厨子の中に安置されている。江戸時代の初め、近くに薩摩藩邸が置かれた。元は「円通山長福寺」という寺名だったが、薩摩藩の守り本尊「出生大黒天」と同じ大黒天だったので、この寺を薩摩藩の祈願所とし「大黒寺」と改められた。 ”薩摩寺”とも呼ばれている。


本堂の脇を奥へ入ると墓地です。墓地に入るとすぐ寺田屋騒動で犠牲となった薩摩九烈士の墓が並んでいる。一番右端が有馬新七の墓。手前の墓碑銘(復元)は、西郷隆盛が泣きながら亡き同士たちの為に書いたものとか。






大黒寺境内には、伏見10名水の一つがある。平成13年に井戸を掘ったところ湧き出たという。酒処の伏見の伏流水と同じ水系なので、清らかな水。そこで財福の神・大黒天にちなんで「金運清水(きんうんしみず)」と命名された。

大黒寺とは道を挟んだ真向かいに、なんとも有りがたい「金札宮」という名前の神社がある。金運清水といい金札宮といい、この近辺にお住まいの人は、さぞかしお金に不自由しておられないことでしょう。説明板を読むと、金札とはお金のことでなく、「~の神を祀るように」と金文字で書かれた紙のようでした。


 寺田屋 2(坂本龍馬襲撃)  



寺田屋の1階は坂本龍馬関連の展示が中心。坂本龍馬に関係する小説や書籍が並び、写真・メモ・手紙などが展示されている。
船宿・寺田屋は坂本龍馬(1835~67)が定宿していたところでもある。慶応2年(1866)1月24日、当時32歳であった土佐藩の下級武士・坂本龍馬は、行動を共にしていた長州藩士・三吉慎蔵とのちに妻となるおりょうを待たせている寺田屋に真夜中に入った。龍馬と三吉慎蔵は飲み始め、おりゅうは1階の風呂に入ります。

坂本龍馬の動きに目を付けていた京都所司代・伏見奉行の林肥後守忠交と幕吏約30人は、午前2時頃寺田屋とその周囲を包囲します。入浴中のおりょうは物々しい足音に気づいて、窓から外を見てびっくり、裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬に危急を知らせた。

捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作から上海みやげに貰った拳銃で応戦
、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。龍馬は手の指を負傷し装弾ができなくなる。三吉が必死に槍で応戦しながら追っ手をかわし、隣家から裏通りに逃れた。路地を500mほど走って濠川に達し、水門を経て入り込んだ屋敷裏手の材木納屋に隠れた。(おりゅうはどうなったのでしょうか?)

寺田屋の2階には、坂本龍馬が愛用していたと云われる「梅の間」を再現され、龍馬ゆかりの品々が展示されている。騒動が起こった当日の「刀傷」や龍馬が放ったとされるピストルの弾のメリ込んだ「弾痕」が残されています。刀傷は柱に残っており、弾痕も室内に数箇所あります。


寺田屋は、現在でも旅館として営業しており、龍馬愛用の「梅の間」以外の「松・竹・月・花・雲」各部屋に素泊まりできるようです。料金は6500円(朝食付きは別途500円)で、予約が必要。詳細は、TEL:(075)622-0252へ。

この庭に、焼失前の建物があった。現在、「薩摩九烈士碑」や龍馬像が建っている。何故か「坂本龍馬の碑」が寝転がっている。
寺田屋の女将・お登瀬さんは神様になられたようです。お登瀬は18歳の時に、寺田屋6代目伊助に嫁ぐ。放蕩者の夫に代わり、寺田屋を取り仕切っていた。放蕩すぎて夫・伊助は早死にしてしまう。その後は寺田屋の女将として船宿を守り、幕府から目をつけられていた尊王派の志士達を匿ったり陰から支えました。坂本龍馬もその中の一人だった。

ところで、寺田屋の建物は鳥羽伏見の戦(慶応4年、1868年)で焼失してしまい、刀痕、弾痕、お風呂など残っているはずがないのだが・・・?。
(wikipedia)「現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した」ようです。
龍馬と三吉が遁れた材木小屋は、寺田屋の北西300mほどの位置で、濠川に架かる大手橋の脇です。現在、大手橋の西詰めに石碑が建てられています。

材木小屋に遁れた二人は、その後どうなったのでしょうか?。
Wikipedia「三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。
翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けたが、拒否した。
龍馬はその後、伏見の藩邸から京の藩邸(二本松)に移ったが、また伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出した。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏する。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされている。」
翌年、京都に戻った龍馬は河原町の近江屋で密談中に京都見廻組に急襲され、33歳の人生を終えた。「近江屋事件」です。

なお、伏見の薩摩藩邸は大黒寺の西側で、濠川の傍にあった。現在は月桂冠関連会社の松山酒造となっている。

 寺田屋浜  



寺田屋の南側の川沿いには、かって三十石船などの船着き場があった。当時は川幅も広く、多くの船が往来し、たくさんの船宿が軒を連ねて賑わっていたそうです。大倉酒造の旧本社から西側にあたる南浜の一帯は旅客でにぎわい、船宿が軒を連ねていた。旅客だけでなく米や酒、薪などの物資も往来し、浜辺では運送業者の馬借が積荷を取り扱っていた。

現在、その場所は「寺田屋浜」として復原され、小さな公園となっている。西側の京橋から眺めた寺田屋浜で、向こうの橋は蓬莱橋。川幅も小さく、浜のイメージは全くありません。観光客を乗せ十石舟が行き来しているのどかな川となっています。数人の釣り人がいるだけで、観光客はここまで降りてきません。春と秋の特定日だけ運航される観光遊覧船・三十石船の発着場所でもある。
ここ寺田屋浜が一番盛り上がるのは、毎年夏に夕方から夜にかけて行われる行事「伏見万灯流し」の時です。鳥羽伏見に戦いで亡くなった方を慰霊するために2004年から始められました。この浜から数百の灯ろうが流され、京都でも名高い夏の風物詩となっている。

この公園に「竜馬と龍、愛の旅路」と名付けられた銅像が置かれています。ご両人のこの浜からの旅立ちは「日本初の新婚旅行」とされていますが、翌年、龍馬は京都・近江屋で33年の生涯を終えます。お龍さんはその後どうなったのでしょう・・・?。



詳しくはホームページ

鳥羽・伏見の旧跡巡り 1

2017年11月07日 | 名所巡り

2017年10月18日(水) 京都市南部の鳥羽・伏見の名所、旧跡を巡りました。
鳥羽・伏見の地は京都の南にあり、水路,陸路ともに交通の要所を占め、大阪・奈良からの「京都への玄関口」にあたる。そのため歴史的な名所、旧跡が沢山残されています。前回、伏見城と明治天皇陵を訪れたのを機に、ちょっと興味が湧いてきたので、改めて訪れました。

 京阪電車・中書島駅から伏見入り  



今回の街歩きは、京阪電車・中書島駅から始まり、北上して鳥羽離宮跡まで往きます。中書島駅を降りまず目につくのが、改札口を出て直ぐの所に置かれている酒樽と坂本龍馬の立姿。伏見の町を象徴した観光案内です。

かって、この地は南は宇治川、西は濠川、北と東は宇治川支流に囲まれた島だった。川幅も現在と違って広かったようです。「中書島(ちゅうしょじま)」の名称について、Wikipediaは「文禄年間、中務少輔の職にあった脇坂安治が宇治川の分流に囲まれた島に屋敷を建て住んだことから「中書島」の名前が生まれたとされる。中務少輔の唐名が「中書」であったことから、脇坂は「中書(ちゅうじょう)さま」と呼ばれていた。その「中書さま」の住む屋敷の島という理由で「中書島」と呼ばれるようになった」と記しています。
中書島駅近くには、「南新町」「東柳町」「西柳町」といった色町を想像させる町名が残っているように、元禄の頃より京都でも代表的な中書島遊郭があった。京と大阪を結ぶ地点にあり、十石舟や三十石舟が往来する港町として交通の便が良く人々の往来が多くなると、そこに色町ができる。酒と女の街だった。川一つ隔てて寺田屋がある。龍馬も遊んだのでしょうか?。

 長建寺(ちょうけんじ)  



東柳町の川沿いに長建寺(ちょうけんじ)がある。朱塗りの土塀に竜宮造りの山門が鮮やかで、色町のお寺らしい。長建寺の由緒について、案内板によれば。
「元禄12年(1699)、伏見奉行であった建部政宇(たけべまさのき)が、中書島を開拓するに当り、深草大亀谷即成就院の塔頭多聞院を当地に移し、弁才天を祀ったのが当寺の起りで、寺名は、建部氏の長寿を願ってこのように名付けられた」という。現在は、東光山と号し真言宗醍醐派に属する。本尊は「八臂弁財天(はぴべんざいてん)」。京都では、ご本尊として弁財天を祀る寺はここしかなく、一般に「島の弁天さん」の名で親しまれている。

伏見十名水の一つ「閼伽水(あかすい)」。「閼伽」とは貴賓または仏に御供えするもので、特に水をさす。
大きな手洗石は元のお寺、平安時代中期の即成院の多聞院にあったものを移したもの。

 月桂冠大倉記念舘  



長建寺の前はすぐ濠川が流れ、対岸には酒蔵が並ぶ。月桂冠大倉記念舘の裏側で、ここの川と柳と酒蔵の風景は、伏見を代表する写真スポットとなっている。弁天橋を渡り月桂冠大倉記念舘へ向う。

(図は月桂冠サイトより借用)月桂冠は日本を代表する酒造メーカー。辛口として知られ、私も愛用している(時々ですが)。その起源は、寛永14年(1637)、初代大倉治右衛門が京都南部の笠置からここ伏見に出て酒屋「笠置屋(かさぎや)」を開業したのに始まる。最初の酒銘は「玉の泉」だったという。勝利と栄光のシンボル「月桂冠」の銘柄が出るのは明治38年(1905)。

月桂冠本社ビル(左)と月桂冠大倉記念館(右)
同じ白壁だが、対照的な建物が道を挟んで並ぶ。左は現在の月桂冠本社ビルです。平成5年(1993)に建てられたビルだが、本瓦葺の大屋根、酒蔵風の窓など、一帯の景観との調和がはかられている。
この一帯は、1997年に京都市の「重要界わい景観整備地域」に指定され、電柱など見当たらず、建物、街路など景観を考慮したものになっている。間の道を進めば記念館の入口へ、右へ行けば大倉家本宅です。

月桂冠大倉記念館の入口です。月桂冠大倉記念館は、明治42年(1909)建造の酒蔵を改装し、昭和57年(1982)に伝統的な酒造工程やその用具・資料などを展示する博物館として開設されたもの。京都市有形民族文化財に指定されている。
家屋の壁脇の竹細工は「犬矢来(いぬやらい)」と呼ばれ、「やらい」は追い払うという意味をあらわし、犬や馬が家の壁を傷めないようにするため取り付けたものだそうです。

【開館時間】9:30~16:30
【休日】盆・年末年始(8/13~8/16、12/28~1/5)
【料金】大人300円
受付で入場料300円支払うと、お土産として清酒超特選180mlの小瓶をくれます。ついヤボったいことに「月桂冠ですね?」と聞いてしまった。ここで大関をくれるかってよ・・・。

入ると、まず中庭へ案内される。その中庭の入口にあるのが、名水「さかみず」の井戸。”さかみず”とは「栄え水」のことのようで、現在でも湧き続け酒造りに使用されているそうです。
樽に入った水はお酒のようにみえました。皆さん”美味しい”といって飲んでおられたので、私も飲んでみました。大阪の水道水と同じくらいに美味しかった。

中庭は、展示室と酒造場との間の空間。煙突が立ち大きな酒桶が置かれ、酒造場には神木である杉の葉を束ねて球状にした大きな「酒林(さかばやし)」が吊るされている。酒屋の軒先でよく見かけるものです。

酒の発酵に木桶が使われていたので、雑菌を防ぐため何度も熱湯で洗い日干しにして乾燥さていたという。そのため蔵の前にこうした広いスペースが必要だったようです。

中庭の隣に展示室が2棟あります。室内は「酒造り唄」が流れ、酒造りの用具類が並び、古き良き時代の酒造りの雰囲気を体感できます。これらの酒造用具類6120点が、1985年に京都市有形民俗文化財の指定を受けている。また創業からの歴史や、歴史を物語る書画・ポスター・写真などを展示。酒の器や酒まわりの用具類も陳列されている。

通りを挟んで月桂冠本社の西側に大倉家本宅があります。その落ち着いた佇まいは歴史を感じさせてくれます。初代大倉治右衛門が酒業を創業した土地に、文政11年(1828)第8代目当主が建てた酒蔵兼居宅。幕末の争乱時には、周辺の多くの家屋が戦災に遭ったが、幸いこの本宅は免れ現在までその姿を残している。
内部は非公開なので、月桂冠のサイトを引用すれば
「内部には米の洗い場、吹き抜け天井の小屋組み、商いに使われた座敷など、昔ながらの酒屋の佇まいを残しています。表構えには、虫籠窓(むしこまど)、太めの木材を組み合わせた酒屋格子(さかやごうし)が見られます。屋根には瓦と漆喰、下地となる土をあわせ35トンが乗っており、その重みで構造の強度が維持されています。」

本宅前の道はL字形に曲げられている。これは東方にある伏見奉行所を敵軍から見通せないようにした遠見遮断の道だそうです。

大倉家本宅とL字形に並ぶ家屋が、大正8年(1919)に建てられた月桂冠旧本社。平成5年(1993)まで月桂冠・本店として使用されていたという。床面は道路より1mほど高く、正面には階段が設けられている。これは宇治川氾濫による水害に備えたもの。ここにも壁の足元を守る犬矢来がみられます。
現在は、NPO法人・伏見観光協会の「伏見夢百衆(ふしみゆめひゃくしゅう)」として、お酒を中心とした伏見土産販売・観光案内所となっている。お茶、お酒を飲食できるコーナーもあります。

 十石舟遊覧  



月桂冠大倉記念舘の裏、弁天橋の近くに十石舟乗り場がある。この川は、豊臣秀吉が伏見城を築城した際、宇治川の水を引き込み城の外濠として築いたもの。宇治川派流だが「濠川(ほりかわ)」と呼ばれている。かつて大坂から京に入る玄関口として三十石船が発着、船宿が軒を並べ、旅客でにぎわっていた。また酒蔵の多くは、この濠川沿いに建てられ、明治の終わり頃まで、伏見の名酒や米・薪炭・樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石舟で運ばれていたという。現在、その十石舟が再現され観光用に運行されています。

運航期間/3月25日~11月26日(16便)、11月27日~12月3日(14便) 
※運休日は6月~9月の毎週月曜(祝日は運航)、8月は11日~16日のみ運航
出航時間:
 10:00~11:20・・・20分間隔で5便
 13:00~16:20・・・20分間隔で11便
料金:大人1200円、小人(学生)600円、幼児300円
往復約1時間弱の船旅。ただし三栖閘門の見学をしなければ約40分。
 定員20名。予約が入っているため乗れないこともあるので、事前に(075-623-1030)で確認したほうがよい。

月桂冠の酒蔵を見上げ、蓬莱橋を通過すると直ぐ、寺田屋の二階と屋根が一瞬だけ見えます。舟頭さんが案内してくれるが、一瞬なので見逃しやすい。

京橋から濠川本流に合流するまでが、柳など緑が多く一番舟旅を堪能できます。桜や紅葉の季節はどうなんでしょうか?。でも、舟と青い水面には緑が最も合いそうです。

突き当たりです。ここで濠川本流と合流し、左側へ舵をきる。ここの橋は「であい橋」と呼ばれている。濠川本流と出会うからか、それとも人の出会いがあるからか・・・。

突き当たり地点に「角倉了以水利紀功碑」が置かれている。京都の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい、1554~1614)は京都の河川開拓工事に着手、とりわけ京と伏見を結ぶ全長約11キロの高瀬川の開削に功績を残す。この高瀬川によって、伏見は京都へ通じる港町としていっそう賑わったという。開削費用は全て私財を投じたが、運河航行の使用料を徴収することで莫大な利益を得たといわれます。

肥後橋、京阪本線の鉄橋を潜ると、左手に「伏見港公園」が見えてくる。この辺りに河川港として伏見港があった。秀吉の時代から昭和の初め頃まで「伏見の浜」と呼ばれ淀川舟運の拠点となり、大変な賑わいだったようです。その後、東海道本線や京阪電車が走り、陸上輸送の発展による水運の衰退とともに港も衰退し、1960年代に埋め立て現在の公園になったようです。体育館・テニスコート・相撲場・プールなど備え、市民の憩いの場となっている。

三栖閘門(みすこうもん)の赤い2つのゲートが見えてきました。このゲート内に終点の舟着場があり、約20分間の往き舟旅は終わります。ここで2つの選択がある。1つは、今来た舟でそのまま出発地点まで引き返す。これなら往復40分間ですむ。もう一つは、三栖閘門資料館(無料)を見学し周辺を散策して、20分後にやって来た次の舟便で帰る、という方法です。これだと約1時間かかる。

舟着場の直ぐ上に三栖閘門資料館はある。係員が、舟から降りた観光客をまとめて資料館に案内し、模型を使って三栖閘門(みすこうもん)の仕組みを丁寧に解説してくれます。

三栖閘門は、水位の違う宇治川と濠川の間を船を通させるため昭和4年(1929)に建造された施設。仕組みはいたって簡単。船をゲート(門)の中に入れ両方の門を閉めます。門内の水位を、増水(濠川に入る)又は減水(宇治川に出る)し、向う側の水位に合わせてから出口側の門を開ける、というもの。”閘”の字は、門を開けたり閉めたりすると云う意味だそうです。規模こそ違いますが、原理はパナマ運河と同じです。

道路や鉄道の発達で船運の利用は減ったため、昭和43年で閘門の機能は終了し、現在は「昭和初期の土木遺産」として観光名所化されている。

宇治川側の門のある堤に上がってみると、雄大な宇治川の流れが展望できる。門から宇治川へ繋がる部分は、水が流れないので底石がむき出しの状態になっていました。係員の説明によると、宇治川の川ざらえや上流にできた天ヶ瀬ダムのために宇治川の水位が下がり、濠川との段差は年々大きくなっているそうです。確かに、濠川の水面よりかなり下に宇治川の流れがあります。

やって来た次の便で引き返す。月桂冠の酒蔵の裏辺りに三十石船が停留されている。十石舟より少し大きいくらいでしょうか。この三十石船も観光客を乗せ遊覧している。ただし、運航は春と秋の特定日だけなので(075-623-1030)で確認すること。定員30名、料金は1200円。コースは十石舟と同じで、往復40分。乗り場は、寺田屋の前にある寺田屋浜。

お疲れ様、約1時間の観光でした。次は坂本龍馬で有名な寺田屋です。


詳しくはホームページ