山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

聖護院から真如堂へ 2(金戒光明寺)

2021年12月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
聖護院の次は法然ゆかりの寺・金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)です。

 金戒光明寺(歴史、山門)  



聖護院の前の道を東へ10分ほど歩けば、道を塞ぐように正面に頑丈な門が見えてくる。これが金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)の入口にあたる高麗門(こうらいもん)だ。江戸時代末の1860年の建立だが、2015年に修復再建された。お寺の山門とは思えない頑丈そうな構えの門です。市中の治安維持、警護のために京都守護職の本陣が置かれたからでしょうか。
地元では「黒谷(くろだに)さん」の愛称で親しまれている浄土宗の七大本山の一つです。正式名称は「紫雲山金戒光明寺」、承安5年(1175)「円光大師」こと法然による創建。

■★~~ 歴史 ~~★■
美作国(岡山県)に生まれた法然(幼名・勢至丸、1133-1212)は9歳の時、夜討ちで父を亡くし、15歳で比叡山に登り天台宗を学ぶ。18歳(1150年)で遁世し、西塔黒谷別所の慈眼坊叡空の庵室に入り、「法然房源空」と名乗った。
承安5年(1175)43歳の時、唐の浄土宗の祖・善導の「観無量寿経疏」の称名念仏を知り回心する。称名念仏とは、ひたすら念仏を唱えれば、善人悪人を問わず、阿弥陀仏の力により必ず阿弥陀仏の浄土である極楽に生まれ変わることができる、と教える。法然はこの念仏の教えを広めるため比叡山を下りた。「承安5年(1175年)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで法然はうたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。こうして法然はこの地に草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。」(Wikipediaより)
法然が初めて開いた浄土宗の寺で、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える専修念仏の道場となった。ここは法然が、師匠の叡空から譲り受けた「白河禅房」の地で、「新黒谷」と呼び、比叡山の黒谷を「元黒谷」と呼んだ。

その後、仏殿、御影堂などの堂宇が整えられ、法然が山上で見た紫雲光明の縁起にちなみ「紫雲山光明寺」と称したが、単に「黒谷(くろだに)」とも呼ばれるようになる。南北朝時代、北朝第4代・後光厳天皇がここで戒(金剛宝戒、仏教の誓いの儀式)を授かった。この時、天皇より「金戒」の二字を賜り、「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」と呼ぶようになる。また法然が最初に浄土宗の布教を行った地であることから、後小松天皇により「浄土真宗最初門」の勅願を賜った(1428年)。

応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により、ほとんどの堂舎を焼失し衰微していく。天正13年(1585)、豊臣秀吉による寺領130万石の朱印状を得て寺運を開き、文禄2年(1593)淀君により御影堂が、慶長10年(1612)には豊臣秀頼によって阿弥陀堂が再建されるなど再興されていく。
江戸時代初期、江戸幕府によって知恩院と共に城郭風構造に改修され、浄土宗四箇本山(他に知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院)の一つとして知恩院に次いで栄える。江戸時代末期の文久2年(1862)には、京都守護職となった会津藩の本陣となっている。
明治4年(1871)、上知令により寺領2994坪が没収された。昭和に入り御影堂、勅使門、大方丈などを焼失するが、その後再建されている。

高麗門を入ると、左手に山門が見えてくる。城壁の上に建つお城のように見えます。幕府が京の都を守る拠点にしたのもうなずける。
「徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる」(公式サイトより)。

”山門”といえば、もう少し華奢で簡素なイメージがあるのだが、これは堂々たる楼門です。15世紀初頭に建立されたが、応仁の乱の兵火により焼失。幕末の万延元年(1860)に再建され、幕府が京都ににらみをきかせるため城郭構造にした、というのがみてとれる。
間口は約15m、高さは約23m、重層の豪華な門です。禅宗寺院にみられる三門(三解脱門)の様式であり、禅宗以外で用いられているのは、浄土宗の当寺と知恩院にしかないという。京都府指定有形文化財

楼上正面に後小松天皇宸筆の扁額「浄土真宗最初門」が掛けられている。

山門内部は通常非公開だが、秋の特別期間だけ公開される(春も?)。今年は(2021年)11月12日(金)~12月5日(日)、拝観時間 10:00~16:30(最終入場 16:00)、山門の拝観料は1000円(御影堂などとのセット券1600円もあり)
山門の両サイドには階上に登る階段が付属している。正面から見て、右階段から登って左階段を降りる。履物は脱がなければならないので、手で持つか袋に入れて持ち歩く。この階段が急勾で、45度以上ありそう。高齢者や気の弱い人は登れないのでは。階段両側には、安全用にロープが備えられていた。

すこぶる絶景というわけではないが、京都市内を一望できるので写真をパチリ、パチリしていると、女性係員がやってきて「写真は撮らないでください」とおっしゃる。「風景なのに何故ですか?」と聞くと、「プライバシーの・・・・」なんとかかんとか、とおっしゃる。風景撮ってプライバシー侵害なら、カメラは全て御法度になってしまう。こんな経験は初めてだ。撮った写真を超厳密に精査した結果、プライバシーを侵害していないと判定したので、ここに公開しました。
天気の良い日は大阪の『あべのハルカス』まで見渡せるそうだが、今日はやや曇りか・・・

今度は反対側に回り、御影堂や三重塔など境内を撮っていると、また係員が制止しにやってきた。境内写真もダメだそうだ。理由を尋ねると、「そのように指導されていますので・・・」と。若い女性係員を問い詰めても始まらないので、階段を降りました。
山門上での風景写真撮影禁止について、事前の説明も、ポスターや公式サイトにも載っていなかった。これで1000円の拝観料です。なにか、サギにあったような後味悪さが残る。納得できないので、ここに公開しました。

廊下から楼内をパチリ。正面中央に釈迦三尊像が、その両側に十六羅漢像が並んでいる。
これは心痛むが(((+_+))!!)・・・公開します。

山門を入って、すぐ左に「勢至丸像」がある。傍の説明版をそのまま紹介すると
「勢至丸(せいしまる)さま
勢至丸は、法然上人の幼名です。法然上人は、父は押領使(武士)の漆間時国、母は秦氏(はたうじ)で美作国(岡山県)久米南条稲岡の庄で長承2年(1133)4月7日に生まれました。幼名は、阿弥陀仏の右脇侍で、仏の智門をつかさどり衆生に菩提心を起こさせ、智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う勢至菩薩にあやかって名付けられました。勢至丸は幼い頃から、よく西の壁に向かって端座合掌していたといわれています」


 金戒光明寺(納骨堂、阿弥陀堂、御影堂、大方丈)  



吉田山の丘陵地帯なので起伏があるため階段がある。といってもそれほどきつい起伏ではないので階段も緩やか。お寺の階段はどこも格式を感じさせてくれるが、ここもその例にもれない。山門、広い階段、御影堂へと真っすぐ連なり、ここが金戒光明寺のメインストリート。よくあるパターンは階段の両側をカエデの樹で囲い、紅葉のトンネルに演出するのだが、ここはそんな細工をしていない。それがシンプルで良い。
階段を登りきると、左に鐘楼が建つ。大晦日の除夜の鐘も有名だそうです。高台に位置するので、京都中に鐘の音が鳴り響くことでしょう。

階段上から振り返ると、山門の威容が際立って見える。

階段を挟み鐘楼の反対側に建つのが宝形造りの納骨堂(旧経蔵)。元は黄檗版一切経を納めた経蔵として元禄2年(1689)に建立されたお堂だが、平成23年(2011)法然上人八百年遠忌の記念事業で大修理され納骨堂となった。
「堂内には法然上人二十五霊場のお砂を集めた霊場めぐり「お砂踏み」を安置し、堂内を右回りに一巡すると二十五霊場を巡拝したのと同じ功徳を得ることができる」(説明版より)

広場の東側に阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)が建つ。豊臣秀頼が、父・秀吉が手がけた方広寺大仏殿が焼失しその再建時の余材をもって建てたという。「慶長十年(一六〇五年)豊臣秀頼により再建。当山諸堂宇中最も古い建物である。 恵心僧都最終の作、本尊阿弥陀如来が納められている。如来の腹中に恵心僧都が彫刻でお使いになられたノミが納められていることから「お止めの如来」「ノミおさめ如来」と称されている。」(公式サイトより)
この阿弥陀如来像が金戒光明寺のご本尊です。平安時代の恵心僧都源信(942-1017)の最後の作で、像内にはゆかりとされる道具が納められている。

本堂にあたる御影堂です。お寺は「大殿(だいでん)」とも呼んでいる。御影堂の前にテントが張られ、特別拝観<2021年11月12日(金)~12月5日(日)>の拝観受付所が設けられている。
  拝観時間 10:00~16:30(最終入場 16:00)
  拝観料:大人1000円(御影堂・大方丈・庭園)、大人1000円(山門)、両方のセット券1600円
公式サイトに「靴袋もご持参ください(当日販売もあり)」とあったので、ビニール袋を持ってきた。ちなみに値段を聞いたら「寸志です」と、これが一番困るんです。
御影堂右前が「直実鎧掛けの松」。寿永3年(1184)源平合戦・一の谷の戦いで、源氏の武将・熊谷次郎直実は我が子と同じような年端(16歳)の敵将平敦盛(平清盛の甥)の首を討ち取った。このことで世の無常を感じ黒谷の法然上人を尋ね、仏門に入ることを決心した。鎧を脱ぎ捨てこの地の松に打ち掛け、出家し法名を「蓮生(れんしょう)」とした、と伝わる。先代は枯れたので、現在の松は平成26年(2014)に植えられた三代目。法然上人御廟所 の前には、直実と敦盛の供養塔が向かい合っている。

(仏像写真は受付で頂いたパンフより)
以前の御影堂は昭和9年(1934)に全焼、昭和19年(1944)に現在の本堂が再建された。室町時代の様式で設計されているが、鉄筋コンクリート壁、鉄製ボルト、鉄製扉などの防火対策が採られている。入母屋造り・本瓦葺き、正面に三間向拝が張り出している。
内部は、横長の外陣と縦長の内陣及び両脇陣からなり、内陣中央に須弥壇がある。須弥壇中央に宗祖法然上人75歳の御影(座像)を安置し、左脇壇には運慶作と伝わる渡海形式の文珠菩薩像が祀られています。公式サイトには「往古、当山北西の中山宝幢寺の本尊でしたが、応仁の乱の兵火により廃寺となり近くに小堂を造って祀られていました。その後、当山の方丈に遷座され寛永十年(一六三三)豊永堅齋が二代将軍徳川秀忠公菩提のために三重塔を建立した時に本尊として奉遷されました。貞享三年(一六八六)刊の『雍州府誌』には「本朝三文殊の一つなり」とあり、古来より奈良の「安倍の文殊」天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていました」とある。平成20年(2008)、法然上人八百年遠忌を記念して御影堂に遷座された。中山宝幢寺由来から「中山文殊」とも呼ばれる。

右脇壇には、奈良時代の学者吉備真備(695-775)ゆかりの千手観音(重要文化財)が祀られている。公式サイトに「当寺の千手観音は、奈良時代の学者吉備真備が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができました。真備はその時、唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩に頼み観音さまを刻んでもらいました。この縁起によりこの観音さまを吉備真備に因み『吉備観音』と呼んでいます。元は吉田中山の吉田寺に奉安されましたが、江戸時代の寛文八年(一六六八)に吉田寺が廃寺となったため徳川幕府の命により、金戒光明寺へ移されました」とあります。
洛陽三十三所観音霊場の第六番札所で、道中守護・交通安全・諸願成就の御利益があると信仰を集めている。

御影堂の東側から短い廊下で大方丈(おおほうじょう、国登録有形文化財)につながる。大方丈は昭和9年(1934)の火災で焼失したが、昭和19年(1944)に御影堂とともに再建された。4つの部屋に区切られ、赤じゅうたんの廊下から内部を見学できます。部屋内に入ったり、撮影は禁止です。
一番手前の部屋が「謁見の間」で、奥が一段高くなって金屏風が置かれていた。近藤勇や芹沢鴨など多くの歴史的人物がこの部屋で松平容保に謁見したという。部屋に置かれた説明文は「歴史的にいえば、この部屋が新選組発祥の部屋と言っても過言ではない」と結んでいました。次が「中の間」で、今回特別展示の伊藤若冲筆「群鶏図押絵貼屏風」が見られます。右端の部屋は二つに区切られ、前が「虎の間」、奥が今尾景祥(1903-1993)筆の襖絵「松の図」がある「松の間」。「虎の間」の久保田金僊(1875-1954)筆の「虎の襖絵」が有名で、襖の開け閉めで4匹が2匹に早変わりする仕掛けがあるそうだが、実演してもらはなければよく分からない。

枯山水の方丈前庭(南庭)です。昭和19年の大方丈再建時に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作によるもの。中央に唐門(国登録有形文化財)を配置し、5筋入りの築地塀で囲っている。

 金戒光明寺(紫雲の庭、ご縁の庭)  




大方丈の廊下を奥へ進み、東側へ周ると「紫雲の庭(しうんのにわ)」が広がる。こちらも枯山水式だが、緑と紅葉が美しい。平成18年(2006)法然上人800年大御遠忌記念として作庭された。法然上人の生涯が、白砂を敷き詰めた上に杉苔と大小の庭石で表現されているという。右側が美作(岡山県)での幼少時代、左側が比叡山延暦寺での修業時代を、真ん中が浄土宗開宗・金戒光明寺の興隆を表している。作庭には何か意味付けが必要なんですね。

散策路が設けられた回遊式庭園になっている。持ってきた履物を履き庭に降ります。後で気づいたが、左側の階段の下にスリッパが置かれていました。見えている大方丈の部屋は「松の間」です。

紫雲の庭から池に架かる石橋を渡って奥へ行けば「ご縁の庭」へつながる。

紫雲の庭からご縁の庭へと、南北に細長い池は「鎧池」と呼ばれる。出家を決意した熊谷次郎直実は、鎧を脱ぎこの池で洗い清め、御影堂前の松に打ち掛けたという。池はその後「鎧池」と呼ばれるようになった。

御詠歌「池の水ひとの心に似たりけり 濁り澄むこと定めなければ」。鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。今日は澄んでいるのだ。

奥から見た鎧池で、建物は大方丈。ここ鎧池周辺が金戒光明寺で一番の紅葉スポットです。血染めの鎧ではないが、池にかぶさる紅葉がなんともいえない情景をつくりだす。

散策路は池の北端で二手に分かれ、奥の休憩所の前で一つにつながっている。これが、二つの道がご縁の出会いによって一つに結びついていくという深い意味をもった「ご縁の道」なのか?。と思ったらら間違いでした。

休憩所の前から、小石を敷き詰めた道が鎧池に向かって設けられている。説明版を読むと、これが「ご縁の道」のようです。
右の道が「青の道」、左の道が「赤の道」、二つの道が丸い「出会いの石」で結ばれ一本の道「紫雲 共に歩む道」となり、法然上人のいる御影堂へ向かって歩む、というストーリーのようです。「出会いの石」の左右に小岩が置かれている。それぞれの道、石、岩には深~い意味付けがなされている。詳しく知りたい人は、現地へ来て説明版を読んでください。NHKも作庭に関わっているようです。だから意味が深~い・・・(^^♪
ご縁よりは休憩所が有難い。ここに座って、紅葉で飾られた池を眺めるのがなによりだ。


出会いもご縁も、エンが無いので紅葉を楽しもう。鎧池を一周するように散策路が設けられ、この辺りは「ご縁の庭」(平成24年(2012)作庭)と呼ばれています。
突然一匹の鳩が目の前に現れた。あったぞご縁が・・・。

大方丈に戻り、「玄関」(国登録有形文化財)の唐破風造り銅板葺の車寄から出る。
円く剪定されている樹木は「区民の誇りの木 シマモクセイ」とあり、左端の石柱には「山崎闇斎先生菩提所」と刻まれています。

 金戒光明寺(極楽橋から三重搭、会津墓地へ)  



玄関から、右手に阿弥陀堂を見ながら真っすぐ坂道を下る。こちらは階段ではなく普通のスロープです。

坂道を下ると、左手に池に架かる極楽橋(太鼓橋)がある。この池は蓮の名所だったことから「蓮池」と名付けられたが、別名「兜之池」とも呼ばれる。その由来は「平安末期の源平の戦いで有名な武将熊谷直実が、この地に庵を結んでいた法然上人を尋ね、出家を決意し兜を置き、弓の弦を切り弓を池に架けた形が起源といわれる」(現地説明版より)。そして熊谷直実はすぐ傍に庵(塔頭・蓮池院)を結んで住んだという。

寛永5年(1628)、三代将軍家光の乳母・春日局は二代秀忠正妻で家光の母だった崇源院(お江与)の墓を建立し、参詣するために蓮池に木造の橋を寄進した。その後、秀忠供養のため山上に三重塔を建立する際、寛永18年(1641)により参詣しやすくするため石橋に造り替えられた。平成16年(2004)に改修され、擬宝珠、欄干が付けられた。

極楽橋の近くに「堀川」「四条橋」と刻まれた石柱が置かれている。これは四条堀川に架けられていた橋の親柱。
明治35年に開通したチンチン電車が、その後市電に統合され、昭和36年に廃止された。その時、軌道敷石と橋の親柱が寺に払い下げられという。さっき降りてきた坂道の石畳はその敷石のようです。

階段登り口の左手に、本尊の阿弥陀如来より有名になったアフロヘア姿の石仏「アフロ仏像」が鎮座されています。正しくは「五劫思唯阿弥陀仏(ごこうしゆいあみだぶつ)」。ここは公式サイトに説明してもらおう。
「五劫思惟の阿弥陀仏は、通常の阿弥陀仏と違い頭髪(螺髪らほつ)がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴です。「無量寿経」によりますと、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたものです。五劫とは時の長さで一劫が五つということです。一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年(百年という説もある)に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということになります。そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏で、全国でも16体ほどしかみられないという珍しいお姿です。落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきています。金戒光明寺の五劫思惟阿弥陀仏は、特にめずらしく石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われます」

アフロ仏像のさらに左手の小高くなった場所に小さな墓地がある。この墓地の中に、徳川秀忠夫人崇源院(お江)と春日局の供養塔があります。
数奇な運命を重ねた二代将軍徳川秀忠正妻で三代将軍家光の母・お江は寛永3年(1626)、54歳で没し法名「崇源院(すうげんいん)」となる。江戸城で亡くなり、墓は芝増上寺にあります。寛永5年(1628)、三代将軍家光の乳母・春日局は崇源院の遺髪を納め追善菩提の供養塔をここに建てたのです。


崇源院供養塔の左前方に、その供養塔を見つめるように春日局の供養塔が建つ。生前は将軍跡取りをめぐって争った仲だが、こうして仲良く供養塔が並んでいます。

階段の右側にあるお堂が法然の分骨が祀られている「法然上人御廟所」。
説明版(?は判読不明)
「この廟には法然上人(円光大師)の遺骨が祀られています。法然上人(1133-1212)は、建暦2年(1212)正月25日、東山大谷禅房にて遷化され大谷の地に埋葬されました。御年80歳でした。しかし15年後の嘉禄3年(1227)6月に山徒により大谷廟堂破却の迫害が起き、難を免れた法然上人の遺骸は翌年に西山の粟生野で当山二世信空上人等によって荼毘に付されました。信空上人は法然上人の遺骨(分骨)を生涯身につけて離されなかったが、信空上人の没後に弟子たちによってこの地に葬られました。応仁の乱で廟は荒廃しましたが、天正元年(1573)に当山二十一世法山上人と??法師により五輪の塔が建立されその後、延宝4年(1676)に金屋??等によって堂宇が再建されました。内部は中央厨子の下層が五輪塔を包み、上層には勢至菩薩を安置しています」

御廟前には、熊谷直実の供養塔(中央)と平敦盛の供養塔(左手前)が対面して建てられている。説明版は無く、搭前に置かれた小さな札を見なければ確認できない。高野山の奥の院でも二人の墓が並んでいるそうです。

これから三重塔へ登り、会津藩士の墓所へ向かいます。かなりの階段が待ち構えている。時々一服し、後ろを振り返るとまた元気が出てきます。周りはお墓だらけですが、明るいので不気味さはない。お墓はみな西(西方浄土)を向いているそうです。

上は階段中ほどからの眺め。下は階段を登り切った三重塔前からの眺め。この写真もプライバシーに引っかかるのかな?・・・。千円だして山門に登る必要はありません。

階段を登りきると三重塔(国の重要文化財)が迎えてくれる。三重塔のために設けられた階段のようです。

2代将軍徳川秀忠の菩提を弔うため元家臣・伊丹重好(豊永宗如堅斉)が寛永10年(1633)に建てたもの。高さ22メートル。
現在御影堂に安置されている文殊菩薩(中山文殊)を祀っていたが、平成20年(2008)、法然上人八百年遠忌を記念して御影堂に遷座された。「現在は本尊として文殊菩薩のご分身(浄鏡)をお祀りし左右の脇壇には、重好公とその両親、当山二十八世潮呑上人の木像が安置されている」(説明版)

三重塔の右側から裏に回ると清和天皇火葬塚が現れる。第56代清和天皇(850-880)は崩御後はここで火葬され、遺言により洛西の嵯峨野の奥にある水尾の山中に埋葬されました。金戒光明寺の創建より300年ほど前の出来事です。

火葬塚からさらに奥へ行くと八橋検校(やつはしけんぎょう、1614-1685)の墓がある。江戸時代初期、琴の名曲を多く残した近世筝曲の祖。彼の死後の元禄年間、墓参に来る弟子のために、沿道にあった茶店が琴を形どった堅焼きせんべいを売り出したところ大流行したという。これが京の名菓「八ツ橋」の語源とか。
傍に大日本筝曲会連盟による顕彰碑があるが文字が擦れて読めない。




三重塔からお墓に囲まれた細路を北へ歩くと塔頭:西雲院、会津藩士墓所があり、さらに行くと紅葉のの名所・真如堂です。



道の正面に塔頭:西雲院が見えてくる。江戸時代初期の創建で、法然が座って紫色の雲を見たという紫雲石(しうんせき)が祀られているそうです。幕末の戦乱で亡くなった会津藩士の菩提寺です。



門を潜ると、庭の片隅に侠客・会津小鉄の墓が。会津小鉄(1844?-1885)は幕末・維新期の侠客で、本名は上坂仙吉。京都守護職として会津藩主の松平容保がやって来た時、その中間部屋に出入りし口入れ稼業を行い会津藩と関係をもつ。また幼名が鉄五郎で小柄な体形だった。そこから「会津小鉄」と呼ばれ、維新後も子分数千人を抱き活動した。侠客といえば聞こえがよいが、要はヤクザの親分。現在まで会津小鉄会という組織は京都に残っている。
ところで墓石をよく見ると「二代目会津小鉄 上坂卯之松」となっている。上坂卯之松は仙吉の実子で、二代目を継いだ。すると初代の墓は・・・?。

西雲院の東隣が「会津藩殉難者墓地」。ここに会津藩士352名が静かに眠っています。
会津小鉄は、鳥羽・伏見の戦いで負け賊軍の汚名を着せられ路上に放置されていた会津藩士の遺体を、子分二百余名を動員しこの墓地に手厚く葬り、供養したという。そんな縁で西雲院と関係するのでしょう。

「会津墓地の由来」という顕彰碑があるが、長いので要約します。
幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し治安が乱れていた。治安維持のため幕府は京都守護職を設け、会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)を任命。松平容保は文久2年(1862)、家臣一千名を率いて京都に到着し、黒谷の金戒光明寺に入陣した。金戒光明寺は自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地です。また大きな寺域により一千名の軍隊が駐屯することができた。
会津藩士の活躍で治安は回復されてきたが、犠牲も大きく、藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出した。そこで金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られた。その数は文化2年から慶応3年までの6ヵ年に237霊を、後に鳥羽伏見の戦いの115霊を合祀した。

金戒光明寺が新選組発祥の地、といわれている。文久2年将軍上洛警備のため江戸で浪士組が結成され京都に来る。近藤勇や芹沢鴨らはそのまま京都に残り、松平容保に拝謁し「新選組」を結成し、京都の治安維持の一翼を担ったのです。

墓地の片隅に令和元年(2019)、松平容保公の石像が建てられ、静かに眠る殉死者たちを見守っている。
鳥羽・伏見の戦い(1868年)で新政府軍に敗けると、会津藩は朝敵の汚名を着せられることになる。同年京都守護職は廃止となり、松平容保は会津に帰国し、明治新政府によって蟄居を命じられた。後に許され、日光東照宮や上野東照宮の宮司となって明治26年(1893)東京小石川の自宅で亡くなった。

西雲院から200mほど行けば錦秋の真如堂だ。



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聖護院から真如堂へ 1(聖護院)

2021年12月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2021年11月24日(水曜日)
メディアによれば京都も少しは人出が戻ってきているようです。紅葉シーズンになったので、私も京都へ行きたくなった。そこで今回は、京都で未踏の地((^^♪)、平安神宮の裏を歩くことにしました。ここには山伏の元締め・聖護院、新選組発祥の地・金戒光明寺、そして紅葉の美しさで知られる真如堂が並びます。一日のんびり歩くのに丁度良い範囲だが、それでも時間が余ったので、近くの天皇陵と吉田神社まで足をのばしました。

 聖護院(しょうごいん)  



京阪丸太町駅から地上に出ると、鴨川に架かる丸太町橋がある。この橋の上から東方向を眺めた写真。現在は京都大学医学部となっているが、かっては紅葉が錦の織物のように美しいとして有名だった「聖護院の森」でした。森の中にあった聖護院は「森御殿」と呼ばれていたという。大阪の天神の森が「曽根崎心中」の舞台だったように、この聖護院の森は人形浄瑠璃「近頃河原達引」のお俊・伝兵衛の心中事件の舞台です。

橋から東へ丸太町通りを500mほど歩き、熊野神社のある角を北へ折れる。最初の筋を東へ進むとすぐ聖護院が見えてくる。

聖護院の手前に、京都を代表する銘菓「八ツ橋」の老舗店舗が道を挟んで両側にある。
左が「本家 八ツ橋 西尾老舗」、右が「創業元禄二年 聖護院八ツ橋 総本店」
この「「創業元禄二年(1689年)」について、ライバルの老舗「井筒八ッ橋本舗」が根拠のない創業年だと訴えた。一審京都地裁は「聖護院の唱える説が全て誤りだという確実な証拠はない」と井筒屋の訴えを退けた。争いは高裁、最高裁とすすんだが、2021年9月に井筒側の上告を受理しない決定を下し、聖護院八ツ橋の勝訴が確定したのです。ちなみに井筒屋は文化二年(1805年)年創業だという。
銘菓八ツ橋だけでなく、京野菜の代表格で千枚漬けに使われることで有名な聖護院かぶらや聖護院大根もこの辺りが発祥の地と言われています。

■★~・~ 聖護院の歴史 ~・~★■
「当寺の開山は園城寺の僧・増誉である。増誉は師である円珍(814~91)の後を継いで、師が行っていた熊野での大峰修行を行うなど修験僧として名をはせ、寛治4年(1090年)、白河上皇の熊野詣の先達(案内役)を務めた。この功により増誉は初代の熊野三山検校(熊野三山霊場の統括責任者)に任じられた他、更に都の熊野神社の近くにあり、役行者(修験道の開祖とされる伝説的人物)が創建したとされる常光寺を上皇より下賜された。
増誉は、熊野三山検校として、また、本山派修験道の管領として、全国の修験者を統括した。増誉の後も、聖護院の歴代門跡が上皇の熊野御幸の先達を務めた。この間、熊野詣は徐々に隆盛となり、「伊勢へ七たび 熊野へ三たび 愛宕まいりは月まいり」といわれ、愛宕山も修験道の修行場として活況を呈した。」(Wikipediaより)
当初は「白河房」と呼ばれたが、後に天皇を護るという意味の「聖体護持」から2文字を採って「聖護院」と改名され、熊野神社を鎮守社とした。聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。

建仁2年(1202)、後白河上皇の第8皇子・静恵法親王が宮門跡として聖護院に入寺、第4代門主となった。これが聖護院門跡の始まりで、聖護院は明治維新までの37代門主のうち、25代は皇室より、そして12代は摂関家より門跡となられるという皇室と関係の深い門跡寺院となっていった。

聖護院は室町時代から江戸時代にかけてたびたび火災にあっている。応仁の乱(1467-1477)の兵火で焼失後、洛北・岩倉の長谷(現・京都市左京区岩倉長谷町)に移転して再興を図った。しかし、文明19年(1487年)に盗賊の放火によって焼失した。豊臣秀吉の命により洛中の烏丸今出川に移転再建するが、ここも延宝3年(1675)の大火で延焼してしまう。そして延宝4年(1676)に聖護院村に替地が与えられ旧地の現在地に戻り再興された。現在の建物はこの時のもの。

江戸時代後期の天明8年(1788)、「天明の大火」が発生し御所も延焼した。この時、光格天皇は御所再建までの約3年間聖護院を仮御所とされ、宸殿・上段の間で公務をなされた。安政元年(1854)4月の内裏炎上の時には、孝明天皇と皇子祐宮(明治天皇)が聖護院に逃れられ、一時期仮御所として使用された。国の史跡指定をうけ入口正面に「史蹟聖護院旧仮皇居」の石標が建てられています。
明治元年(1868)の神仏分離令、明治4年(1871)門跡号の廃止、明治5年(1872)修験道廃止令と続き、聖護院は天台宗寺門派へ所属させられ、多くの末寺が廃寺となった。しかし第二次世界大戦後に信教の自由が認められ、昭和21年(1946)、独立し修験宗を起こし、さらに昭和36年(1961)に本山修験宗と改め総本山となり、現在に至る。役行者1300年御遠忌を記念し、 数年かけて行われていた寺院の修理が平成12年(2000)に完成し、新しい聖護院に蘇った。

現在特別公開期間(10/1~12/5)で、宸殿と本堂が公開されています。書院は修理中のため公開されていない。

入口の山門は延宝の大火(1675)で焼失後、延宝4年(1676)に再建された。平成12年に修理を受け、しっかりした堂々たる門に新装されている。門の中央と軒瓦に菊の御紋が使われ、門跡寺院だということを印象付けています。

山門をくぐると、左にしだれ桜、正面に松があり、松の後ろに寝殿の入口となる大玄関が見える。白壁の建物が長屋門で、その先に庫裏や、宿泊・お食事ができる御殿荘があります。

山門を入ったすぐ右側に塀重門があり、9時半になると開けられ、中の庭園を無料で見学できます。特別公開の宸殿は10時受付開始なので、それまでの時間、庭園内を見学することに。
すぐ近くの金戒光明寺に、江戸末期に会津藩の京都守護職が駐屯していたので、ここ聖護院はその練兵場として使われていたのでしょうか。

塀重門を入った右脇に「日吉桜」が、左脇に「令和の梅(鹿児島紅梅)」が植えられている。日吉桜は日吉大社(滋賀県)より平成28年に寄贈された固有種だそうです。令和の梅の横には「拝観者の皆様へ」として「どうか境内では堂塔、伽藍、庭苑、環境全てが宗教的空間であることを認識頂き、清心にて御参拝頂き、よい仏縁を結んで頂くことを心から願っております」と結ばれている。不届き者でもいたのでしょうか。

左が寝殿、正面が本堂(護摩堂)です。庭園は寝殿の南庭で、白砂が敷き詰められている。庭の中央に、シートが敷かれベニヤ板が二列に敷かれています。現在、奥の書院が修理中なので、そのための通路のようです。参拝の方は左側を歩いてください、とありました。

広い白砂の庭には、奥に十三重搭、塀際に数本の松と小岩しかありません。というのも、ここは庭園ではなく護摩行などを行う修行の場とされているからです。2月3日節分会と、役行者が昇天された6月7日に、ここで採燈大護摩が行われる。庭の中央に小石を固めた一辺二尺位の方形の基壇が見えます。「この石組みは護摩壇を作る大切な場所です。上に乗らないようにお気をつけてください」と注意書きされていた。
護摩修行とは「仏の智慧を火とし、私達の中にある悪業煩悩を薪と考え、その煩悩を焼き尽くす」ことだそうです(聖護院発行小冊子より)。

よく観察すると、白砂の上に、幾つかの小動物の置物が置かれている。護摩厳修に参加するんでしょうか?。私と違い、この子たちには悪業煩悩があるようにはみえないのですが・・・。

10時になりました。宸殿入口となる大玄関での受付が始まった。といっても私一人だけなんですが。
秋の特別公開(2021年10月1日~12月5日)で、宸殿(狩野派による金碧障壁画100余面)、本堂(本尊不動明王像)が拝観できる。
公開時間:10時~16時受付終了(休止日:10月7~10日、11月29日)
拝観料は大人:800円 、中高大学生:600円、小学生以下:無料

履物を脱ぎ、下駄箱に納めて上がります。

大玄関から上がると、いきなり等身大の山伏が「ようお参り!」と迎えてくれます。門跡寺院と山伏、なんとも不思議な組み合わせだ。

聖護院は修験道(しゅげんどう))の寺として始まった。開祖・増誉やその師・円珍は熊野での大峰修行を行う修験僧だった。天皇の熊野詣を先導し認められ聖護院を賜り、日本最初の修験の本山となった。その後聖護院は熊野の修験組織を束ねて、最盛期に修験道の山は120余り。全国に2万5千ヵ寺の末寺を持ったという。現在、本山修験宗の総本山、即ち山伏の総元締めなのです。役行者(役小角)を開祖とする修験道は、「山岳崇拝の精神を基とし、厳しい山々で修行し、困苦を忍び、心身を修練し、悟りを開いて仏果を得る、という出家・在家を問わない菩薩道、即身即仏を実修する日本古来の宗教です。」(公式サイトより)
修験とは「修行得験」または「実修実験」の略語で、「修行して迷妄を払い験徳を得る 修行して その徳を驗(あら)わす」こと、これを実践する人を修験者、または山に伏して修行する姿から「山伏」と呼ばれる。鈴懸といわれる法衣をまとった山伏姿はこの時のユニフォームです。「この鈴掛は、カッパの無い時代に、少々の雨では体まで濡れない、乾くときの気化熱で体が冷えない等結構山歩きに適した服装なんですよ」(公式サイト)

これから宸殿内部に入ります。宸殿は法親王が居住する門跡寺院の正殿で、現在の建物は延宝4年(1676)に再建されたもの。京都御所の紫宸殿を模した造りなので「宸殿」と呼ばれるようです。

宸殿は五つの間からなっている。大玄関側から「孔雀の間」「太公望の間」「波の間」で廊下はなく、上の写真では左側の建物内部になります。「波の間」を出ると板廊下となり、「鶴の間」(写真中央の板戸の開いている部屋)「謁見の間」(写真右側の板戸の開いている部屋)と続く。各部屋には、狩野山雪の子・狩野永納(1631-1697)と、狩野探幽の養子・狩野益信(1625-1694)による絢爛豪華たる金碧障壁画100余面が描かれている。残念ながら、「謁見の間」以外は写真撮影禁止です。


(襖絵は聖護院発行の小冊子より)
「孔雀の間」は控えの間の一つで、狩野永納により孔雀、牡丹、松、蘇鉄が描かれている。部屋の南側には、皇族や門主が使用した輿(こし)が展示されていた。



(襖絵は聖護院発行の小冊子より)
「太公望(たいこうぼう)の間」も控えの間の一つで、狩野永納により西、北、東の襖三面に別々の中国の物語が描かれています。東面に描かれた「太公望」が部屋名になっている。写真は北面の襖で、陶淵明(東晋・宋の詩人)と彼の好む柳、菊を門前に描き、家人が出迎えている場面。

「波の間」は細長い通路のようになっている。長谷川等伯の「波濤図」を模した波の絵が狩野永納によって描かれている。

(写真は聖護院発行の小冊子より)「鶴の間」は、かって聖護院の宮様が祭礼用に使った広間だったが、明治以降に改造され板張りの仏間とされている。廊下側より外陣、内陣、須弥壇からなり、役行者像、蔵王権現像、不動明王像など多くの仏像が安置されています。

一番奥は「謁見の間」で、聖護院の宮が正式な対面所として使った部屋。この「謁見の間」は、さらに手前から三の間、二の間、一段高くなった上段の間に区切られ、狩野益信の筆による華麗な襖絵が描かれている。ここだけはカメラ撮影が許されています。

一番手前の「三の間」は、九人の仙人が描かれていることから「九老の間」とも呼ばれる。対面者はこの部屋の下手に座し、許されれば二の間手前まで進めたそうです。二の間との間の欄間中央に二か所の穴が開けられている。これは「ネズミ通し」の穴だそうです。襖をかじられたら大変だ。

次が「二の間」です。畳の目が、中央は通路として南北に、左右は侍者の席として東西に向いている。

奥の一段高くなっているのが「上段の間」。天明8年(1788)の天明大火で京都御所も延焼の被害を受けた。御所再建までの3年間、光格天皇が聖護院を仮御所として住まわれ、この上段の間で公務にあたられたという。
床の間には雄大な滝と松が、上段の間から二の間にかけて狩野益信による四季花鳥図が描かれている。正面に後水尾天皇(1596-1680)の筆による「研覃(けんたん)」の額が掲げられている。「覃」とは、鋤や鍬などの農耕機具のこと。人においては己自身のことで、自己をよく磨く(研磨)ことで豊かな人間になれ、ということです。また四隅が丸くなった額装は、他者を傷つける「角」を持たない、ということを表しているそうです。

宸殿から眺めた庭。市松模様の砂紋が美しい。山伏姿の僧侶が竹串で砂紋を描く、宸殿の廊下で皇室ゆかりの宮さまが微笑みながら眺めている・・・絵になるシーンだな。

(不動明王像は受付で頂いたパンフより)宸殿の奥から短い渡り廊下で本堂へ。江戸時代中期に建てられた本堂だが、昭和43年(1968)に、位置、規模、外観を同じままに建替えられた。
本尊の不動明王像(重要文化財)が祀られており、「不動堂」とも呼ばれる。不動明王像は、平安時代後期の作で、智証大師円珍御作と伝わる。檜の寄木造りで、聖護院創建当初から数度の火災を免れ本尊として守られてきた。役行者像、智証大師円珍像(重要文化財)も安置されています。

中庭を挟んで本堂の北側に書院がある。後水尾天皇が側室・逢春門院隆子のために御所に建てた「女院御殿」を、延宝4(1676)年に聖護院が現在地に移転した際に拝領して移築したもの。建築当初の女院御殿の有様をよく伝える事から、昭和31年に建物全体が重要文化財に指定された。

写真のとおり、書院全体が工事用シートに覆われ見学できません。平成30年(2018)9月4日に近畿地方を直撃した台風21号で大被害にあったようです。




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二つの継体天皇陵 2

2021年12月01日 | 古墳を訪ねて

★2021年10月24日(日曜日)二つの継体天皇陵(太田茶臼山古墳、今城塚古墳)を見た後は、その二つの古墳に埴輪を供出していた新池埴輪製作遺跡を訪ねます。さらに中臣(藤原)鎌足の墓とされる阿武山古墳、卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡が出土した安満宮山(あまみややま)古墳を訪ねる。

 新池(しんいけ)埴輪製作遺跡  


太田茶臼山古墳と今城塚古墳の埴輪を製造していた埴輪遺跡を訪れました。場所は名神高速道路を越えた北側で、太田茶臼山古墳と今城塚古墳を底辺にした三角形の頂点にあたる所で、三島野古墳群の中心部に位置します。
現在、国指定の史跡(1991年)となり高槻市によって「史跡新池ハニワ工場公園」として整備され、公開されています。今城塚古代歴史館が運営・管理している。

古代の埴輪遺跡とタワーマンションの奇妙な組み合わせです。昭和63年(1988)ごろ、この一帯を阪急不動産が買取り開発することのなったので、高槻市立埋蔵文化財調査センターにより発掘調査が行われた。その結果、新池の東斜面から十数基の埴輪窯、工房跡、井戸などが見つかったのです。日本で見つかったなかでは最古で最大級の埴輪製作跡で、しかも天皇陵の埴輪を焼いていたことが分かっているのはここだけ。

右から復元された1号窯(よう)、2号窯と3号窯。この1~3号窯は、斜面を溝状に掘り込み、ワラを混ぜた土で天井をかけた半地下式の構造をしている。
ここでの埴輪造りは、5世紀中頃に太田茶臼山古墳の埴輪を製造するために始まり、約百年間続けられた。最盛期は6世紀初めごろで、今城塚古墳のために多くの窯が造成され、数万本の埴輪が今城塚古墳に供出されたという。6世紀後半ごろから大きな古墳が築造されなくなったため、埴輪造りも終息します。

(今城塚古代歴史館掲示の図より)半地下式の1~3号窯の仕組み。「埴輪の窯詰めや窯出し、燃料の薪の投入は全て焚口からおこなわれました。煙突効果で燃料の薪を勢いよく燃やし、高温でムラなく、しかも計画的に埴輪を焼くことができました」と説明されている。

埴輪窯は全部で18基が確認されており、4~17号窯は同じ場所にサツキやツツジの植え込みで表現されています。これらは半地下式でなく、斜面をトンネル状に掘り抜いた地下式となっていたそうです。上方に見える土管のようなものは18号窯が展示されているハニワ工場館。

18号窯の場所は「ハニワ工場館」という展示館になっている。
開館時間:午前10時~午後5時、入館無料、休館日<12/29~1/3>

ハニワ工場館内部には、発掘されたままの状態で18号窯の実物が保存展示されている。実際は穴を掘り抜いたトンネル式だが、床面だけが見やすいように展示されている。館内では解説ビデオも上映されていた。

窯が築かれていた斜面を上がった平地には、埴輪の成形が行われていた三基の工房(作業場)跡があり、近くには14棟の工人の竪穴住居も見つかっている。
右から1号工房、2号工房は復元され、左端の窪地は3号工房の跡地。地面を掘り下げた土間で、工人たちが粘土をこねている姿が浮かんできます。土間では粘土入れも見つかっている。

奥に見えるマンションの屋根は、復元された工房の屋根に似せてデザインされたそうです。少しでも古代にマッチさせ、違和感をなくそうとする努力がうかがえますが・・・それでも違和感が。

斜面下に遊歩道が設けられ、左側に新池が広がる。遊歩道脇には埴輪のレプリカが並び、マンガで埴輪やその作り方が楽しく紹介されています。ちなみに高槻市のマスコットキャラクターは「はにたん」といい、武人の埴輪からきている。
ここは粘土の臭いも、薪焚きの煙も浮かんでこない。埴輪をモチーフにした現代風の公園となっています。埴輪遺跡ほうが、周辺のマンション群にマッチさせようと努力しているようにみえます。

新池埴輪製作遺跡の南側、名神高速道路沿いにこんもりと茂った小さな森が見える。「番山古墳」という標識が建っている。南側から東側にかけてかなり大きな溜め池があり、墳丘は深い竹藪でおおわれています。円墳に見えるが実際は帆立貝式前方後円墳だったようです。埴輪など出土品から5世紀中頃の築造とされる。
この周辺は古墳造営や埴輪製作にかかわった人々が居住し、多くの古墳や遺跡が存在していたが、名神高速道の工事や宅地造成、水田などによってほとんどが破壊され消滅してしまった。惨めな姿ながらこうして残された番山古墳は幸せな古墳です。

 阿武山古墳(あぶやまこふん)  


新池ハニワ工場公園から阿武山古墳(あぶやまこふん)をめざします。阿武山は高槻市北方の丘陵地帯にあり、市街地からはかなり離れている。道順をネットで探すがなかなか見つからない。やっと高槻市の「高槻市インターネット歴史館」で見つけました。これはバスを利用することを前提にしているが、山沿いの道が地図で詳しく載っている。これを利用することにし、まず「奈佐原消防署」を探し、そこからは地図に従い山沿いの道を歩きます。


1時間近くかけ新阿武山病院、希望の杜などを左右に見ながら住宅地を抜けると、道は閉ざされた門で行き止まる。「阿武山古墳約900m」の標識が立っているが、今日は何らかの事情で入山できないのでしょうか?。困惑していると、ハイカー姿の3人連れオバサンがやってきた。尋ねると、「門の脇に板が敷いてあるでしょう。そこから入っていけるのよ。私たちも通ります」と教えてくれた。門があり紛らわしいが、この道は地元の人々にとって阿武山へのハイキングコースになっているようです。途中で何人かのハイカーに出会いました。

幅広く、緩やかな坂道なので、オバサン、オジサンには最適な散歩、ハイキングコースとなっている。車道なのだが、車に全く出会わない。しかしよく考えたら今日は日曜日、地震観測所がお休みだからなのかもしれない。だからあの門も閉まっていたのだ。
「京都大学」の標識があるので、大学の所有地なのだろうか?。

休憩所を兼ねた展望所が設けられ、高槻市内が一望できます。観測所の人のためではないし、阿武山古墳を訪ねる人のためだとしたらえらく親切だなア、と思った。しかしこれもよく考えたらそんなことはないし、散歩、ハイキングする高槻市民のためなのだ。

200mほど進むとまた休憩所兼展望所が現れた。今度は茨木市内から大阪方面まで展望できます。中央に見える森は太田茶臼山古墳のようです。そこからここまで歩いてきたのです。今日は、これから同じくらい歩かなければならない。

この展望所から大阪市内が見える。梅田のビル群が、そしてアベノハルカスも見えている。よく晴れている日には大阪城まで見えますよ、とハイカーの人が教えてくれた。



ようやく地震観測所の建物が見えてきた。観測所というからちっぽけな建物を想像していたが、デッカイ建物です。さすが京都大学だ。それにしては地震研究の成果はあまりでてないような気がするが・・・。地震予知ってそれだけ難しいのだナ。
施設入り口の手前に「←阿武山古墳」の標識が立つ。

休憩用の小さな広場があり、阿武山古墳へは右奥の茂みへ入っていく。「阿武山古墳150m」とあり、もうすぐのようだ。

この山道は阿武山山頂へ続くハイキングコースで、時々ハイカーに出会う。右の石畳の先が阿武山古墳です。ここまで新池ハニワ工場公園から1時間半ほどかかりました。

昭和9年(1934)、京都大学阿武山地震観測所の施設拡張工事において、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。京都大学や大阪府により学術調査が始まったが、かなり凝った造りの棺や豪華な副葬品などから、被葬者は皇室に関係する人物かもしれないとし、これ以上の調査は冒涜であるとの意見が出てきた。被葬者の尊厳を守るため内務省によって憲兵隊が動員され、研究者らの立ち入りを禁止し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。
しかし当時から古文所の記録などから藤原鎌足説が有力だった。

上の図(現地説明版より)で判るように、幅2.5mの浅い溝(周溝)を周囲にめぐらせ、直径約82mの範囲を墓域として区切っている。その中央に一辺18mの墓室領域がある。全体として円墳といっていいのではないでしょうか。築造時期は、出土した土器から見て7世紀前半ごろと考えられており、飛鳥時代としては数少ない貴重な墓として国史跡に指定された(昭和58年8月30日指定)。

阿武山(標高281.1m)の中腹に位置しているので、高槻市を見下ろす景観を期待していたが、見えるのは地震観測所の大きな建物と高い搭だけだった。

一辺18mの方形の墓室領域は鎖柵で囲われ、内部は盛土がなく高い樹木が墓室を取り囲むように生えているだけ。一見しただけでは、墓だと認識できません。正面に「墓室」と書かれた標識が置かれ、花が供えられていました。周囲はコンクリート畳の遊歩道が設けられ、ベンチも置かれ散歩がてらに休憩するのに良い環境になっている。




(写真と図は今城塚古代歴史館掲示より)
中央の木立の下約3mに、花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルで墓室を造り、墓室内部は漆喰で厚く塗り固められていた。上を瓦で覆い、地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。墓室は幅1.4m、奥行き2.6m、高さ1.2mで、南側には扉があり、その外に墓道、排水口が設けられていた。
墓室中央には高さ25cmの棺台があり、その上に漆で麻布を何枚も貼り固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていた。日本で初めて発見された夾紵棺です。棺の中には、南枕仰臥伸展葬の状態でミイラ化した男性の人骨が、毛髪、衣装も残存したままほぼ完全に残っていた。60歳代と思われ、身長は推定約164.6cmで、当時としては長身に属する。

玉枕と冠帽の復元品(今城塚古代歴史館より)
鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、錦の衣服をまとい冠帽をかぶり、玉枕をして、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていた。玉枕は、紺色と緑色の大小約600個のガラス玉を1本の銀線で連ね、錦で包んであった。

(現地説明版の写真より)昭和9年の発見時、出土品の一部と遺骨などを京大の研究者たちが密かにエックス線撮影していた。これらは行方不明になっていたが、昭和57年(1982)にエックス線フィルムや写真が地震観測所から見つかった。フィルムを画像解析した結果、昭和9年の発掘当時でははっきりしなかった事実が、次々と明らかになってきた。発見当初から被葬者は藤原鎌足ではないか、という見方もあった。それは「多武峯略記」(1197年、多武峯・談山神社の記録)に、「鎌足は最初は摂津国安威に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」と記されているからです。これを裏付ける事実が出てきたのです。

胸から顔面、頭にかけてたくさん散らばっていた金の糸が冠の刺繍糸だったことが判明し、この冠が当時の最高冠位を示す「大織冠」にあたるとされた。当時は官位によって冠の色や形が決まっており、鎌足は天智天皇から最高冠位「大織冠」を賜っていた。またX線写真などの分析から、被葬者は亡くなる数ヵ月前に腰椎などを骨折する大けがをしていたことも判明。これは鎌足が落馬によって死亡したとされる説と一致するのです。
こうしたことから被葬者は、「大化の改新」(645年)の立役者の一人であり、藤原氏繁栄の基礎を築いた中臣(藤原)鎌足(614~669)だと、断定的に報じられた。ただし鎌足は669年に死亡しているので、現地説明版は「しかし高位の冠はほかに検証例がなく、墓域から出土した土器から古墳の年代は7世紀前半とかんがえられることなど、被葬者の特定はなお今後の研究に委ねられている」と結んでいる。

 昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)  



阿武山古墳の次は、高槻市東方にある高槻市営公園墓地を目指す。かなりの距離です。山を降り、西国街道を東へ東へ歩きJR高槻駅北側に着く。そこから北へ200mほど歩けば上宮天満宮が鎮座する天神山に突き当たる。右の道を見ればトンネルが見えます。このトンネルの上にあるのが「昼神車塚古墳(ひるがみくるまづかこふん)」。



トンネル上です。右側に墳丘が見え、厳重な柵で囲まれている。現地説明版を要約すると、天神山は「ひるがみ山」ともいい、車塚は前方後円墳の俗称です。この古墳は天神山丘陵の南端にあり、この一帯の豊かな平野を支配した首長の墓です。現在も上宮天満宮の神域としてまもられている。1958年府道建設により削減されそうになったが、住民の要望によって下をトンネルが通ることになった。

6世紀中頃築造と推定され、全長60m、前方部の幅40m、後円部の径35mの北向きの前方後円墳。前方部は後円部よりやや高くつくられ、新しい特徴をそなえている。古墳は天神山の裾部分に盛り土して造られ、三段のテラスから成り立っている。

「上段のテラスには人頭大の河原石を敷き、中断のテラスには埴輪を2列にならべていた。それらはあたかも古墳を守るかのように巫女が立ち、また牙をむき出したイヌたちが、たてがみをふりたてるイノシシを追いつめ、そして、角笛を吹いている猟師の姿などに古代の狩りの情景をうかがうことができる」(現地説明版より)
現在、前方部は復元・整備され、テラスになっている場所に埴輪の複製品が置かれています。

(今城塚古代歴史館掲示の写真より)北側の前方部むき出しになっている。トンネルを造る前の写真だと思われます。
古墳時代後期、この昼神車塚を最後に、三島から前方後円墳は姿を消し、ほどなく大王墓も方墳や八角形墳に移行していく。

 安満宮山(あまみややま)古墳  



昼神車塚古墳から東へ東へと歩き、高槻市北東の安満山山麓にある高槻市営墓地を目指します。1時間近くかけやっと市営墓地の入り口に着きました。この辺りは名神高速道路と一般車道が複雑に入り組み、大変ややこしい場所です。
この安満山山麓は、高槻市公園墓地の造成に先立ち昭和44年(1969)に行われた古墳群の調査により、4世紀後半から7世紀にかけての古墳が40基余り確認され「安満山古墳群」と呼ばれている。ただ多くは公園墓地の造成によって破壊、埋没されてしまったようです。道路や住宅にされるよりマシかな。被葬者はこの地の有力者と考えられている。

入り口付近に安満宮山古墳の説明版があり、1.0kmの標識が立つ。写真の赤●を歩く。空中写真を見れば近道があるように見えるが、間違った所に入り込むと、真っ暗な墓場の中を朝までさ迷い歩くことになるので、それは避けたい。

ここは高槻市の広大な公園墓地です。広すぎるので、歩いて墓参する人はいないでしょう。車道が整備されているのだが、この車道が曲がりくねって登ったり下ったりの坂道となっています。
4時をまわり、そろそろ暮れてくる時刻です。車も通らなければ、誰一人見かけない。薄暗くなった墓地内を一人で歩くのは気持ち良いものではありません。今日は朝から歩きとおしで疲れていることもあり、途中で何度か断念し引き返そうかと思いました。

墓地公園入口から30分かけ、ようやく安満宮山(あまみややま)古墳が見えてきた。入口によく目立つ赤柱が立ち、一見、展望台のようです。
ここは安満山の南西斜面の中腹、標高125mの場所です。平成9年(1997)、墓地の造成工事に先立って事前調査をしたところ、長大な木棺を納めた古墳が発見され、「安満宮山(あまみややま)古墳」と命名された。卑弥呼の鏡・三角縁神獣鏡が出てきたので大騒ぎになったそうです。

発掘調査終了後に、復元整備の工事が行われ、平成10年(1998)12月に一般公開された。入口を入ると円筒形の解説板が設置され、出土した五枚の鏡のレプリカが配置されている。背後には「青龍三年の丘」と刻まれています。
高槻市を一望できる丘でビニールハウス栽培?、なんとも異様な光景です。


墓坑は全体がカマボコ形のガラスで覆われ保護されている。墓坑内部はガラス越しに、あるいは端から直接覗いて見ることができる。銅鏡など出土品のレプリカが発掘時と同じ状態に置かれています。

古墳は全体として東西18m、南北21mの長方形墳で、260年頃(古墳時代前期初頭)の築造とされる。

(写真は円筒形解説板より)墓坑は長さ7.5m、幅3.5m、深さ0.4m。その中央に木棺埋納坑(長さ5.5m、幅1.3m、深さ1.2m)が掘られ、その周囲に排水溝をめぐらしている。木棺埋納坑の底は、水銀朱で一面あかく染まっており、そこにコウヤマキの割竹形木棺が置かれていた。
遺体は東枕に葬られており、副葬品として頭側に銅鏡5枚とガラス小玉(直径3~4mm)1000個以上が、足元側に鉄刀(全長68cm)1点、ヤリガンナ・刀子各1点、板状鉄斧・ノミ・鎌各1点などの鉄製品がひとまとめにして置かれていた。これらの副葬品は一括して国の重要文化財に指定されている(平成12年(2000)6月)。
1号鏡が三角縁神獣鏡
2号鏡が「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡
3号鏡が三角縁(点・王・日・月・・吉)獣文帯四神四獣鏡神獣鏡

(ケース入り鏡は今城塚古代歴史館展示、「青龍三年」は円筒形解説板より)青龍三年(235年)は中国・魏の年号であり、「青龍三年」銘の「方格規矩四神鏡」や三角縁神獣鏡(さんかくぶち-しんじゅうきょう)が注目された。
今城塚古代歴史館にあったパンフには「魏志倭人伝には、景初三年(239)6月倭国の外交使節団が邪馬台国を出発、12月に魏の都・洛陽に到着。魏は倭国女王・卑弥呼に対し「親魏倭王」の印綬とともに銅鏡百枚などを与えたと記されています。1,2,5号鏡の3面はその一部と考えられている。ここに眠る人物は、眼下に広がる安満遺跡を拠点とするこの地方の王で、使節団の有力な一員として活躍し、これらの貴重な鏡を女王・卑弥呼から直接、授けられたのでしょう」と書かれています。
厳重にケースで保護されているのでこれは本物でしょうネ。

ふもとには弥生時代の環濠集落として知られる史跡安満遺跡(写真左端の空地)、その南側には淀川と大阪平野が広がっています。中央のビル群にJR高槻駅、阪急高槻駅がある。ここは古墳という古臭い臭いもなく、休息するのに良い所だ。ただし散歩やジョギング、ハイキングで来る所ではない。車で墓参のおりにチョッと休憩という場所です。

今日は、3世紀卑弥呼の時代の安満宮山古墳、5世紀の太田茶臼山古墳、6世紀の今城塚古墳・昼神車塚古墳、7世紀の阿武山古墳と見てきました。薄暗くなってきたので速足で墓場を脱出します。帰りは市バスで阪急高槻駅へ


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