山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

古市古墳群みてやろう 4

2018年10月19日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
最後は、辛國神社・葛井寺から河内大塚山古墳まで。

 辛國神社(からくにじんじゃ)  



辛國神社(からくにじんじゃ)は、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)と近鉄・藤井寺駅とのちょうど中間にあります。神社は東向きに建つので、当然入口も東側となる。両側の大きな灯籠の間に鳥居が見えてくる。いかにも格式ありそうな雰囲気を漂わせています。
入口の由緒書きには「当社は、五世紀後期 第二十一代雄略天皇の御代に創建された式内社であります。(一部略)藤井寺の地に物部目大連が、その祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)を奉斎したのが当社の始まりです。この後、六世紀後半物部氏宗家の守屋大連の没後、一族の物部辛國連(もののべのからくにのむらじ)が、氏神として祭祀したことにより、辛國神社と称するようになりました」とあります。

室町時代、河内の守護職だった畠山基国は社領200石を寄進し社頭を整備し、奈良・春日大社より春日の神(天児屋根命)を勧請し合祀した。そこから江戸時代後期まで「春日大明神」「春日社」と称せられていたという。明治にはいり復古主義の影響を受け、元の「辛國神社」に戻したそうです。
開門:6時、閉門:午後5時

入口から西に向って真っ直ぐな参道が伸び、正面突き当たりに拝殿、本殿が鎮座する。参道入口には木造の鳥居が立つ。鳥居の両足に奇妙な下駄がはかされている。こうした様式を「両部鳥居(りょうぶとりい)」というようです。Wikipediaは「両部鳥居(りょうぶとりい)は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある。派生したものとしては伊香式鳥居がある。」と説明してくれる。 宮島の厳島神社が代表例。

社殿まで続く参道は青深く森厳な雰囲気を漂わしています。この参道は1989年に「大阪みどりの百選」に選ばれている。

境内正面に拝殿(入母屋造・千鳥破風唐破風向拝付・銅板葺)が、その奥、白壁に囲まれた神域内に本殿(三間社流造・銅板葺)が建つ。
祭神は
   饒速日命(ニギハヤヒノミコト)・・・物部氏の祖神
   天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・・・奈良・春日大社の祭神、藤原氏の祖神
   素盞鳴命(スサノオノミコト)・・・天照大神の弟神、合祀した長野神社の祭神

 葛井寺(ふじいでら)  



葛井寺(ふじいでら)は辛國神社前から東へ細路に入ればすぐだ。すぐ赤色の南大門が現れる。葛井寺は南向きに建ち、この楼門造りの南大門が参拝の入口になる。南大門は江戸後期の再建だが国の重要文化財に指定されています。真言宗御室派に属し、藤井寺、剛琳寺とも呼ばれる。
西国三十三所巡礼の第五番札所だけあって参拝者は多く、境内は賑わっています。参拝時間:08:00 ~ 17:00

境内に「沿革」板が掲げられているので要約します。

6,7世紀、百済王族王仁一族の子孫である渡来人・葛井氏(ふじいし)の氏寺として建立された。神亀2年(725年)、聖武天皇が十一面千手千眼観世音菩薩を奉納され、行基が導師となって開眼法要が行われた。
平安時代に入り、平城天皇の皇子・阿保親王が寺を再興し、また阿保親王の皇子である在原業平が奥の院諸堂を造営したと伝わる。
永長元年(1096)、大和国軽里の住人・藤井安基が葛井寺の伽藍の荒廃を嘆き復興に尽力したことから、「藤井寺」ともいわれ、また地名に「藤井寺」が残る。当寺の境内は金堂、講堂、東西両塔を備えた薬師寺式伽藍配置で、大いに栄えたといわれる。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場の第五番札所として、多くの庶民の信仰を集めるようになった。
しかし室町時代には戦火や地震による焼失、倒壊で全ての諸堂を失う。その後、多くの信者の復興勧進や、豊臣秀頼および徳川家代々の外護を受け再建復興され、現在に至るという。そのため現存する建物は近世以降の再建です。

南大門を入るとすぐ右手に「ヴィクリディタサマデ・キリク」と銘うった休憩処兼お茶屋さんがあります。全面ガラス張りで、弁天池、その奥にお手洗いが見える。お手洗いは「烏枢沙摩閣(うすさまかく)」となっている。梵語なのでしょうか。葛井寺公式サイトには「葛井寺のお手洗いは仏さまがいらっしゃる一つのお堂です。不浄を清す烏枢沙摩明王は炎の功徳により身も心も清浄にします。 手を合わせてお入りください。」とあります。


テレビで知ったのだが、現在、草創1300年記念として西国三十三所観音霊場の各寺は「スイーツ巡礼」と銘うってご当地お勧めのお菓子を販売している。ここ葛井寺は本吉野の葛を使った「葛井もち(くずもち)」です。きな粉をまぶし、ほどよい甘さで疲れが癒される。それ以上にお茶が美味しかった。



境内正面に佇むのが、安永5年(1776)に再建された本堂。大きな瓦屋根が目を引く。国の重要文化財に指定されています。
本堂前の右手に見える松は「旗掛の松(三鈷の松)」と呼ばれている。その由来は説明板にまかすとして、三葉というのが、落ち葉をみたり、写真を拡大したりしたが確認できなかった。京都東山の紅葉の名所・永観堂にも
「三鈷の松」があり、その時も3本だというのがもうひとつハッキリしなかった。

(写真はヴィクリディタサマデ・キリクのポスターより)
本堂には本尊の十一面千手千眼観世音菩薩坐像(じゅういちめんせんじゅせんがんかんぜおんぼさつ)が祀られている。国宝です。
この観音さまが特筆なのは、実際に千本の手を持っていること。千手観音像は40本の手で「千手」を代表させるのが通例だが、実際に千手もつのはきわめて珍しいという。
葛井寺公式サイトより紹介します。
「葛井寺の千手観音像は、文字通り゛千の手”と”千の目”を持つ千手観音像である。頭上に十一面をいただき、そして正面で手を合わせる合掌手、宝鉢や宝輪、数珠などをもつ40本の大手に、クジャクのようにひらく1001本の小手、合わせて1043本の手を持つ。 さらに、掌にはそれぞれ眼が描かれており、まさに千手千眼である。
日本では、千手観音は四十二手とされるのが一般的で、実際に千手をあらわすのは我国では唯一と言える遺例のひとつである。 端正な顔つきに、のびやかな肢体、そして千手という超人的な姿を自然な調和をもってあらわした像容は天平彫刻の粋を集めた観音像である。」

脱活乾漆(だっかつかんしつ、麻布を漆で貼り重ねて像の形をつくる)造りで像高は130cm。8世紀半ばごろの作で、日本に現存する千手観音像としては最古のものの一つ。平常は秘仏のため厨子の扉は閉められているが、縁日の毎月18日観音会と8月9日の千日まいりの日にだけ特別に開帳される。

この寺に津堂城山古墳で見つかった石室の天井石が忠魂碑として使われ残っている。境内を探すが見つからない。掃き掃除をされていた方に尋ねると案内してくださった。弘法大師堂の裏手で、隠れるように置かれていた。碑の左下には「陸軍大将一戸兵衛書」の添え字が、側面には「昭和三年十一月 帝國在郷軍人会藤井寺町分会」と刻まれている。天皇陵の石室天井石と知ってか、知らずか・・・。

 津堂城山古墳(つどうしろやま)  



近鉄・藤井寺駅を北に越え、さらに1キロほど北進すると津堂城山古墳(つどうしろやま)が見えてくる。大和川はすぐ近くだ。着いた所は後円部の西角だった。これから右方向回りに、南西側面→前方部→北東側面→後円部→墳丘内部へと周ってみます。
ここは中世に城郭が築かれた「城山」だった。地区名の「津堂」を付け「津堂城山古墳」と呼ばれる。

後円部のここに説明板が設置されています。古市古墳群の中では最も北側に位置する古墳で、墳丘長210m、後円部(直径128m、高さ16.9m)、前方部(幅122m、高さ12.6m)の前方後円墳。埋葬施設や埴輪などから4世紀後半の築造と推定され、古市古墳群の中でも初期の古墳と考えられている。
空中写真で判るように、墳丘部は大きく削り取られ変形している。これは中世に城郭として利用されたため。南北朝時代は楠方の指揮所、室町から戦国時代にかけ畠山一族の安見氏、その後三好氏の小山城が墳丘上に造られ、墳丘の一部が掘削され崩された。また周濠部分の多くは農地や溜池として利用され周辺住民の生活の場となっていた。
こうした事情から明治末まで、ただの小山と見られ古墳であることを認識されていなかった。当然、明治初めの天皇陵の治定でも候補にさえ入らず、注目されなかった。ところが後述するように、明治45年(1912)の発見で大きく変わる。

前方部の南西角です。現在、古墳全体が国の史跡に指定され、「史跡城山古墳」の石柱が建てられている。古墳の周囲は柵で囲まれている。しかし天皇陵のような高くて頑丈な鉄柵でなく、市民に優しそうな柵だ。柵の外側には、よく整備された遊歩道が設けられ、古墳を一周できます。そして陵墓と違い、自由に出入りできる入口も何箇所も開いています。
調査の結果、津堂城山古墳は二重の周濠が墳丘を囲んでいたことが分かりました。二重の周濠を具えた古墳としては最古のものだそうです。外側の周濠部分まで含めると、全長は400m以上になり古市古墳群のなかでは三番目の大きさとなる。
現在、外側の周濠は埋められ宅地化されて見る影もありません(これも”埋没保存”?)。内濠は埋められた状態で残されているが、わずかに湿地が見られる他は濠の痕跡はない。桜の木が植えられ、シーズンには賑わうそうですが。

前方部の東側角から撮ったもの。放置されたままの西側と違い、東側の内濠跡は市によって整備され花園となっている。手前は「花しょうぶ園」で、墳丘近くには梅林もみられます。
花しょうぶ園の先に、少し高まった緑の草地が見えます。ここが3体の水鳥形埴輪が見つかった島状遺構と思われる。昭和58年(1983)の調査で濠の一部から17m四方の島状の施設が見つかり、そこから1mを越える大きな水鳥形埴輪が3点出土した。国の重要文化財に指定され、実物は現在アイセルシュラホール(藤寺市立生涯学習センター)二階に展示されている。複製ですが「まほらしろやま」にも展示されています。島状の施設は、目立つように盛り土により一段高くされ、ユキヤナギが植えられている。

北東側面です。こちら側には何箇所も入口がある。いろいろ草花が植えられ市民の憩いの場となっているようです。

後円部の北東角が周濠跡地を利用した草花園です。オレンジ色の綺麗な花が群生していました。よく見かける花だが、何の花?。花名を知らせてくれたら、もっと親しめるのに。

後円部の北東角には、史跡城山古墳ガイダンス棟「まほらしろやま」があり、展示や写真などによって津堂城山古墳についていろいろと知ることができるようになっている。午前10時~午後5時まで、入館無料ですが、残念ながら今日は火曜日の休館日でした・・・アホラシやら。でもトイレは休み無く使えるそうで、施設の柵扉は開けられたままになっていた。屋根の両端には金のシャチホコならぬ水鳥埴輪が。

施設の前庭に注目です。大きなベタ石が並べられ、「津堂城山古墳後円部竪穴式石槨の天井石(竜山石)」と説明されている。明治末、古墳の墳頂から石室を覆う7枚の天井石が偶然に見つかったが、その後2枚は津堂八幡神社の記念碑とその基礎石に使われ、1枚は民家の庭石にされていた。その3枚が回収され、保存処理された上でここに展示されている。
残り4枚は、2枚が埋め戻された他、葛井寺の忠魂碑、小山善光寺の敷石、専念寺の庭石に現在でも使われている(計8枚?)。


こちらは天井石の下からでてきた長持型石棺の実物大のレプリカです。長さ348cm、幅168cm、高さ188cmの大きさで、わが国で出土した最大級の石棺だそうです。実物と同じ竜山石(たつやまいし、兵庫県高砂市産出)を使い、平成29年(2017)に作製された。なお実物は調査後に元に位置に埋め戻されています。

後円部にはこの地域の氏神・津堂八幡神社が鎮座している。ところが先日の台風21号のせいで無惨な姿に成り果てています。神社境内から古墳内部へ入る予定だったが、倒木のため中へは入れません。

草花園の横から墳丘内部に入り、まず後円部に登ってみた。そこは柵で囲われ宮内庁の「立ち入り禁止」の札がかかっている。明治末、ここから石室が見つかり、津堂城山古墳として一躍注目を集めた場所です。石室発見の様子が藤井寺市公式サイトに「城山古墳物語」としてドキュメント風に判りやすい表現で再現されている。かなり長いので要約してみます。

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津堂八幡神社は、亨保5年(1720年)に津堂村の氏神として創られた。ところが明治政府の方針で神社合祀の勅令が出され、八幡神社も明治42年(1909年)に近くの産土神社に合祀され廃社されることになった。地元の津堂村は、城山(津堂城山古墳のこと)のふもとに村社があったという証を、記念碑という形で残そうと村役総会で一致したのです。その記念碑に使う石を、以前から知られていた城山のてっぺんに一部顔を出している石を使おうということになった。
明治45年(1912)、城山のてっぺんで村人によって大石の掘り上げ作業が行われた。その2日目、長さ3メートル、幅1メートル、厚さ30センチの大石を滑車でつり上げると、村人たちは驚きの声をあげた。大石の下は空間になっていて、暗やみの中から鮮やかな朱色が目に飛び込んできたのです。空間は扁平な石を積み重ねて壁を作った部屋のようになっていた。部屋の中央には、かまぼこのような形をした大石があり、その表面は何やら奇怪な紋様が彫り込まれてた。そして壁石も中の大石もすべて赤く塗られており、一種異様な雰囲気を醸し出していたのです。この城山での出来事の一部始終はすぐ村役に報告され、内部を調べることになった。
翌日、再び作業にかかる。まず赤い部屋の天井になっている7枚の大石を動かす。平均的に長辺3メートル、短辺1.8メートル、厚み30センチ程度と推測される7枚の大石は、長辺を接して一列に並べられ、すき間なくぴったり引っつくように丁寧に加工されていました。
天井石を移動さすと部屋の内部がより明らかになってきた。部屋は、少なくとも幅2.5メートル、長さ6メートル以上の大きさがありそうです。しかし内部はかなりの土砂が流れ込んでおり、それを取り除く作業が必要です。土砂を取り除いていくと、部屋の中央に置かれている大きなかまぼこ石がしだいにはっきりしてきた。長さ3.5メートル弱、幅1.5メートル強の大きさで、ふっくらした上面には亀の甲羅を連想させるような彫り込み細工が施されていました。また各辺に2つずつ、合計8つの作りつけの突起までついていた。どうもこれは板石を6枚組み合わせた、巨大な石の棺に違いないと思うようになった。
河内における大石棺発見のニュースは、新聞社を通じて考古学者の耳に入りました。当時、学界の第一線で活躍していた多くの研究者が、城山古墳を次々と訪れました。
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こうして後円部の墳丘から石板を掘り出したことがきっかけで竪穴式石室と巨大で精巧な長持形石棺が発見され、勾玉・鏡・刀剣など多くの副葬品が多数出土した。単なる城山でなく、大王クラスの人物が眠る巨大な前方後円墳とみなされるようになったのです。
その後宮内庁は、後円部の一部を允恭天皇を被葬候補者に想定した「藤井寺陵墓参考地」に指定している。宮内庁管理地と国史跡がダブル珍しい例となっています。

後円部から前方部を撮る

墳丘の西側に下りてみました。ここは内濠だったように見えるが、そうではない。墳丘が削り取られ平地になってしまっている。空中写真を見ればそれがよくわかる。北端には津堂八幡神社の石柵が見えます。ここにも倒木が・・・。

前方部方向を撮ったもの。内濠は、右端に見える樹木のさらに右側なのです。

 小山善光寺(ぜんこうじ)  



津堂城山古墳近くの「小山善光寺」(ぜんこうじ)を訪ねる。この寺に興味を抱いたのは、信濃善光寺との関係、津堂城山古墳の石室天井石が残されていること、という二つの理由からです。密集する民家の中を探し回るが見つからないので、あるお家で訪ねたら「隣です」と。それほど小さなお寺でした。

御本尊は信濃善光寺と同じ一光三尊仏阿弥陀如来。これについて「本田善光の伝説」がある。
推古天皇の御代、信濃の国の本田善光という人が難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」という声がし、池の中から尊像が現れた。驚いた善光は歓喜し拾い上げ、その仏像を背負って信濃に持って帰る途中に藤井寺の隆聖法師の庵に宿泊した。法師はその仏像を祀りたいので譲ってほしいと所望した。しかし一体しかないので、二人で三日三晩にわたり念仏を唱えたところ仏像が二体になった。隆聖法師が一体を本尊として藤井寺に善光寺を建立した。もう1体は本田善行が信濃に持って帰り信濃善光寺を建立した。

本田善光が「難波の堀江」から拾ったという仏像とは。これは日本に伝来した最初の仏像だったのです。
欽明天皇13年(552)、百済の聖明王が使者を通して金銅の釈迦仏一体(日本初渡来の仏像)を朝廷に献上し、仏教を崇拝するように薦めた。この教えを信じてよいか決めかねた欽明天皇は臣下に一人づつ意見を求めた。蘇我稲目は賛成したが、物部尾輿と中臣鎌子は「日本古来の天つ神・国つ神があるのに、異国の神を礼拝すると国の神の怒りをかうでしょう」と反対。そこで天皇は蘇我稲目に仏像を預け、試しに礼拝するようにと仰せられた。蘇我稲目は小墾田(おわりだ)の向原(むくはら)にあった自宅を清め寺に改造して仏像を祀ったという。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺です。
ところが、その後疫病が流行して沢山の死者が出た。排仏派の物部尾輿は、外来の蕃神である仏を信奉したため災いを招いた、として訴え天皇の許しを得て向原寺を襲う。仏像を難波の堀江に投げ捨て、寺に火を放ち焼き払ってしまった。
その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ篤く仏法を信仰し、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼす。そして日本初の女帝・推古天皇が向原寺のあった地を豊浦宮として即位します。初めて飛鳥の地に宮が造られ、飛鳥時代の幕開けとなった場所です。

数年前、豊浦宮となった向原寺のあった場所を訪れたことがあります(ここを参照)。明日香の甘樫丘の北側、山田道から豊浦集落の路地を南へ少し入った所で、現在も浄土真宗本願寺派「向原寺」という小さなお寺が建っていました。飛鳥時代の幕開けとなった場所とは想像もできない小さなひっそりとしたお寺です。その入口に、豊浦寺跡(豊浦宮跡)として案内板が掲示されていた。
「603年推古天皇が豊浦宮から小墾田宮に移った後に、豊浦寺を建立したとされている。近年の発掘調査で、寺院の遺構に先行する建物跡がみつかり、これを裏付けている。552年(欽明天皇13年)百済の聖明王が朝廷に献上した金銅の釈迦佛(日本初渡来の仏像)を蘇我稲目がたまわり、向原の家を浄めて寺としたのが始まりで日本初の寺とされている。しかし、その後疫病が流行した時、災害は仏教崇拝によるという理由で、物部氏により仏像は難波の堀江に捨てられ、寺は焼却されたという。」と。
本田善光が拾ったという「難波の堀江」はどこか?。現在の向原寺のすぐ傍に、中央に祠を安置しただけの小さな池がある。それがこの池だそうです。ただし、現在の大阪市西区の堀江だという異説もあります。

藤井寺の善光寺は、最初は津堂城山古墳の後円部外側に位置していたが、天正年間織田信長の河内攻めにより焼失し廃寺となる。その後、江戸時代初めの慶長年間に現在地に移転再建されたという。地名を付け「小山善光寺」といい、「元善光寺」「日本最初の善光寺」「信濃善光寺の元祖」と主張されている。本尊の一光三尊仏阿弥陀如来は秘仏で、毎年4月24日にご開帳されるそうです。一方、信濃善光寺のほうは日本最古の仏像として国宝に指定されているのですが・・・。

津堂城山古墳から発掘された石室の7枚の天井石のうち、1枚がここ小山善光寺の敷石に使われているという。山門から本堂前まで真っ直ぐな石畳が敷かれています。よく観察したが判らなかった。大きさが均一なので、裁断されて使われているからでしょうか?。

 雄略天皇陵(島泉丸山古墳・島泉平塚古墳) 



津堂城山古墳から南西500mほどの所に雄略天皇陵とされる古墳があります。田畑が広がる北側から回り込み、住宅を抜けると広い濠が見えてきた。この位置は島泉丸山古墳という円墳の北側にあたる。この広い濠は「御陵池」と呼ばれている。御陵池と呼ばれるように皇室財産で魚釣りできません。

島泉丸山古墳(しまいずみまるやま、高鷲丸山古墳)は直径75m、高さ8mの二段筑成の円墳。古市古墳群では最大の円墳です。幅20mの周濠をめぐらすが、北側だけ幅広に拡張されている。埋葬施設および副葬品は明らかでないが、出土埴輪より古墳時代中期の5世紀後半頃の築造と推定されている。
以前は円墳のこの島泉丸山古墳だけが雄略天皇陵とみなされていた。
北側だけ車道が傍を通り、島泉丸山古墳の墳丘と濠を近くに見ることができます。ここ以外の場所では見ることができない。車道を少し東側へ周ると、島泉丸山古墳の濠を挟んで左側(東側)になだらかな小山が見えてくる。これが島泉平塚古墳(しまいずみひらづか、高鷲平塚古墳)といわれている。現在宮内庁は、両古墳を合わせて雄略天皇陵に治定しています。拝所は島泉平塚古墳の東側、上の写真では左端になる。

江戸時代には島泉丸山古墳だけが雄略天皇陵とされていた。雄略天皇陵について、古事記には「御陵は河内の多冶比高鷲に在る」、日本書紀には「丹比高鷲原陵に葬る」と書かれているので、高鷲に在った島泉丸山古墳を当てたのです。それ以外に大きな古墳が存在しなかった。
ところが幕末になり尊王思想が高まると、各地の天皇陵を荘厳化する試みが行われていった。雄略天皇陵については、その当時の天皇陵に共通する前方後円墳でなく、タダの円墳にすぎない島泉丸山古墳を御陵とすることに忍びなかったと思われる。そこで隣にある小高い田畑だった場所を買収し形を整え雄略天皇陵の前陵としたのです。明治18年(1885)には平塚古墳の西側を盛土して拡張整形し、丸山古墳と合わせて全体を前方後円墳らしくしたのです。同年、宮内省は島泉丸山古墳と島泉平塚古墳を合わせて「雄略天皇陵」として治定する。明治23年(1890)には丸山古墳付近にあった拝所を平塚古墳側に移動する。
現在も、宮内庁は2基の古墳を合わせて雄略天皇の「丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)」に治定している。宮内庁は公式HPで陵形を「円丘」としているのだが・・・。
しかし空中写真を見れば分かるように、おかしな前方後円墳です。後円部(島泉丸山古墳)と前方部(島泉平塚古墳)とが切り離され、その間は水を漂わす濠となっているのです。

現在、前方部は一辺50m、高さ8mの方墳「島泉平塚古墳(しまいずみひらづか、高鷲平塚古墳)」とされているが、これまでに古墳であることを示す遺構・出土品は確認されておらず古墳とすること自体に疑いをもたれている。ともかく可笑しな、不可思議な雄略天皇陵です。

車道を島泉平塚古墳の東側に周ると拝所が現れる。ここは島泉平塚古墳の東側に当たる場所。いわゆる前方後円墳の前方部ということなのでしょう。どこの天皇陵を訪ねても同じような拝所構えで、感動がない。コンクリ製の鳥居でした。

第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は19代允恭天皇の第5皇子として生まれる。20代安康天皇は同母兄。諱は「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」(日本書紀)。
日本書紀などに、気性の激しい残虐非道な暴君として記されている。天皇に就くため兄や従兄弟など親族を容赦なく殺害し天皇に即位する。天皇になってからも敵対者を悉く誅伐し殺害していった。その独断専行の残虐ぶりは「大悪天皇(はなはだ悪しくまします天皇なり)」と誹謗されたという。
そうした強権ぶりは、各地の豪族を鎮圧するなどしてヤマト王権の力を拡大させ、その支配権を日本各地にまで広めた。稲荷山古墳(埼玉県行田市)や江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)から出土した鉄剣の銘文「獲加多支鹵大王」は「ワカタケル大王」だと解され、その支配権が北から南に及んでいたことが示される。
中国の歴史書「宋書」「梁書」に記される「倭の五王」の中の「武」も雄略天皇だとされている。在位23年、62歳で崩御する。
ここを雄略天皇陵とするのには無理があるようです。河内大塚古墳または岡ミサンザイ古墳(現・仲哀陵)を当てる考え方が有力になってきている。宮内庁も河内大塚古墳を雄略天皇の陵墓かもしれないとして、「大塚陵墓参考地」として押さえています。


島泉平塚古墳がよく見える場所が見つからない。南側に回り、グランドの金網越しにやっと眺めることができました。







南側に回ると大きな施設があります。「羽曳野市立陵南の森」です。公民館、老人福祉センター、図書館を含む。
市民の、特に高齢者の憩いの場所となっているようです。








一階の一部が「歴史資料館」で、羽曳野市で発掘されたものが展示されている。ただあまりスペースは広くない。
次は、最後の河内大塚山古墳を目指します。




 河内大塚山古墳(かわちおおつかやま)  



「陵南の森」の前の府道12号線を西へ西へと進む。雄略天皇陵から約1キロほどあります。近鉄南大阪線を越えるとすぐ見えてくる。
古墳は東西を二分するように、松原市西大塚と羽曳野市恵我ノ荘にまたがる。大塚山古墳は全国に同じような名の古墳がいくつもあるので地名をつけて「河内大塚山古墳」と呼ばれてる。
着いた場所は北東隅、つまり北向きの前方部東側。柵越しに広い々濠が見える。

これは前方部を東側から見たもの。北側と西側、つまり前方部と西側面には濠に沿って半周する道があり、墳丘や濠を近くでよく見ることができます。逆に東側、南側は建物に遮られ見れません。

今度は、前方部西角から前方部を撮ったもの。墳丘長335m、後円部(直径185m、高さ20m)、前方部(幅230m、高さ4.5m)の前方後円墳で、全国でも5番目の大きさを誇る。満々と水をたたえた広い濠は、この古墳をより一層雄大に見せてくれます。
造出しや葺石は見つからず、埴輪も見つかっていない。宮内庁管理の聖域なので学術的発掘調査が行われず、被葬者も不明のまま。総合的な判断から、6世紀中頃以降、古市古墳群では最後に造られた前方後円墳と推定されている。この築造時期からすると雄略天皇とは合致しないのだが。
古市古墳群から少し離れており、百舌鳥古墳群と古市古墳群との間に位置する。そのため日本でも有数の前方後円墳ながら、世界文化遺産候補のリストには含まれておらず「謎の」「悲しい」前方後円墳です。

前方部の近くの濠の中に、一本の細い土手が墳丘までつながっている。墳丘内へ渡るためのものでしょうか。反対側にもあります。南北朝時代に、北朝方の丹下氏がこの古墳内に丹下城を築いていた。天正3年(1575)の織田信長による河内国城郭破却令によって城郭は壊され廃城となる。その後、墳丘内の前方部に大塚村という集落が形成され、後円部には氏神の天満宮が祀られていたという。前方部の東西に残る渡り堤は、その当時に墳丘に渡るために造られたものなのでしょうか。

幕末から明治にかけて、各地の天皇陵は聖域化され荘厳なものに改修されてきた。そうした中で、雄略天皇陵とされていた円墳の島泉丸山古墳に、隣の小山をくっつけ前方後円墳らしく造り直した。それでも天皇陵としては貧弱さは免れられない。そこで近くに存在し、今だ陵墓指定されていない巨大な前方後円墳である河内大塚山古墳に目をつけた。大正10年(1921)に史跡指定され、大正14年(1925)には雄略天皇を被葬候補者に想定して「大塚陵墓参考地」に指定したのです。その結果、それまで墳丘内で暮らしていた数十戸の民家は濠外に強制立ち退きさせられ、大塚村の土地収用が進められた。こうして現在まで宮内庁管理の聖域となっています。

渡り堤の入口は頑丈な鉄柵で閉じられている。門の脇に「大塚陵墓参考地 宮内省」の石柱が建ち、側面には「堤ニ入ルベカラズ」と、ベカラズなのは人間様だけのようで、土手上に白鳥らしき鳥が佇んでいました。動かないのでモニュメントかと思ったが、飛んでいっちゃいました。
ブクぶク奇妙な音がするので下を見ると亀さんが寄ってきた。人の気配を感じるとエサをもらえると、お腹空いているんですね。人を寄せ付けない聖域ですが、鳥さんや亀さんには住みやすそうな環境です。

ここは後円部です。濠には水は無く、雑草地となっている。この古墳は「大阪みどりの100選」に選ばれているそうですが、大阪には素敵な緑が少ないのでしょうか。遠くから眺めるだけの緑なんて・・・。謎の広大なこの土地を、古代の歴史遺跡として前方後円墳の形状保存したまま、市民公園とし市民に開放すれば、文化遺産としてより人々に親しまれるのではないでしょうか。

古墳の東側面は住宅が建て込み見ることができない。ただし住宅間の庭、ガレージなどに強引に入り込み覗き見ることはできます。

ここにも白鳥がいたぞ。羽を曳きながら濠を越え東の方へ飛んで行った。行く先は日本武尊白鳥陵だろうか・・・。





詳しくはホームページ

古市古墳群みてやろう 3

2018年10月11日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
今回は、前の山古墳(日本武尊白鳥陵)から岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)まで。

 前の山古墳(日本武尊白鳥陵)  



高屋八幡山古墳から国道170号線を古市駅ほ方向へ進む。すぐ左手に前の山古墳が見えているのだが、間に近鉄長野線の軌道が縦断しており横へ渡ることができない。
駅手前100mほどの所に左手にカラー舗装の遊歩道が見える。入口に「日本武尊御陵表参道」の石柱が建てられています。このよく整備された遊歩道も竹内街道の一部になっているので、すでに歩いた道です。路面には「ウォーキング・トレイル」と彫り込まれています。

やがて鉄柵と満々と水を貯えた濠が現れ,陵墓の厳かな森が姿を見せました。墳丘の形といい濠の美しさといい、そしてカラー舗装の遊歩道といい、ここまで見てきた古市古墳群の中では最も感動的な古墳です。別名「白鳥陵古墳」ともいわれ、名称まで美しく響きます。鉄柵にまで白鳥が羽ばたいている。

美しいカラー舗装の道を前方部の北角まで行く。右岸の住宅の中ほどに拝所の鳥居が見えます。竹内街道となっているこの北側だけが前の山古墳(日本武尊白鳥陵)を鑑賞できる場所です。前方部だけでなく、南側の側面から後円部にかけても建物に占められ近づくことはできません。

前方部の北角から撮った側面。真ん中あたりに造出しのふくらみが見られる。
前の山古墳は「軽里大塚古墳(かるさとおおつかこふん)」、「日本武尊白鳥陵古墳(やまとたけるのみことはくちょうりょうこふん)」などと呼ばれている。墳丘長190m、後円部の径106m、前方部の幅165mの前方後円墳で、幅40~80mの周濠に囲まれている。古市古墳群では7番目の大きさ。古墳時代の後期にあたる5世紀末から6世紀初頭に築造されたものと推測されてる。

拝所のある前方部は西側ですが、前方部には濠に沿ったような道はない。濠傍まで住宅が密集しているのです。しかしどこかに拝所への入口があるはず。住宅街の中の車道を進むと、空き地に「←白鳥陵 20m」の小さな目印がありました。矢印に従い入っていくとすぐ拝所です。

住宅に囲まれ窮屈そうな拝所となっている。宮内庁は、記紀に記された日本武尊白鳥伝説にもとづき第12代景行天皇皇子の陵墓に治定し、「日本武尊白鳥陵(やまとたけるのしらとりのみささぎ)」として管理している。
よく知られているように日本武尊の陵墓は三ケ所あります。伊勢の国の能褒野(のぼの、亀山市)で病に倒れその地に埋葬された。そこから一羽の白鳥が空へ舞い上がり大和の琴弾原(ことひきのはら,御所市)に舞い降りた。ここが二つ目の陵墓です。さらにそこから舞い上がり河内の旧市邑(ふるいちのむら)に飛来したといわれています。それがこの前の山古墳(日本武尊白鳥陵)です。さらに羽を曳きながら野を越え西の方へ飛んで行ったという。「羽曳野市」の名称の由来です。日本武尊の三つの墓は「白鳥三陵」と呼ばれ、宮内庁が厳重に管理している。「白鳥伝説」と云われているのですが・・・(実際には、能褒野墓が日本武尊の墓で、琴弾原とここの白鳥陵はそれの付属物というのが宮内庁の見解のようだ)。この伝説の陵墓も世界遺産を目指しています。この墳丘と濠を「白鳥公園」として市民に開放したらどんなに素晴らしいことか。

琴弾原の陵墓は訪ねたことがある(ここを参照

 白髪山古墳(しらがやま、清寧天皇陵)  



前の山古墳から住宅の中を西側に出ると、外環状線の広い車道越しに白髪山古墳(しらがやま、清寧天皇陵)が現れる。こちらは後円部で、前方部は西側を向く。二段築成の前方後円墳で、墳丘長115m、後円部(直径63m、高さ10.5m)、前方部(幅128m、高さ11m)。前方部の幅が後円部の2倍あるのが特徴。埋葬施設や副葬品は不明だが、埴輪の年代から6世紀前半の築造と推定されている。

横断歩道を渡ると後円部で、ここからは古墳の全景がよく見える。広い濠をもち、水を貯めています。

西側の車道に出て南へ進むと、車道脇に拝所が現れる。第22代・清寧(せいねい)天皇「河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)」に治定されている。雄略天皇の皇子だった清寧天皇は生まれつき白毛だったことから「白髪皇子」とも呼ばれた。古墳名もこれからくる。


白髪山古墳(清寧天皇陵)には傍を歩けるような道は設けられていない。建物と建物の間に入り込み覗き見するしかない。今度は、前方部の南角から覗いて見る。前方部の脇に渡り土堤が見られる。これは江戸時代に墳丘を田畑などに使うため渡した堤と思われる。
おお、白鳥がいてるゾ!



 峯ケ塚古墳(みねがづか)  



白髪山古墳(清寧天皇陵)の拝所前の車道を北上します。400mほどで府道31号線に突き当たるので左折するとすぐ峰塚公園。公園前の道は「白鳥通り」となっている。峰塚公園も竹内街道を歩いた時に立ち寄っているので二度目です。竹内街道は公園前を北へ進み、野中寺前から左へ歩くコースとなっている。
公園入口に綺麗なトイレがあります。

公園に入ると目の前に峯ケ塚古墳(みねがづか)が横たわっている。写真の左(東方向)が後円部、右(西方向)が前方部。二段築成の前方後円墳で、墳丘長96m、後円部(直径56m、高さ8m)、前方部(幅75m、高さ10.5m)。西向きの前方部のほうが高い。

前方部の写真。墳丘には埴輪列と葺石が見つかり、5世紀末から6世紀初頭の築造と推定されている。昭和62年からの復元整備に伴う発掘調査により、二重の濠をもっていることが分かりました。前方部と南側の側面だけ濠が残され水が溜まっている。

説明板によれば、平成3年の発掘調査で、後円部中央に石室が見つかった。その中に、1.2mの大刀が15本も入っていた。さらに三千点を超える副葬品(武器、武具、馬具、金銀ガラス玉などの装飾品)が見つかり、大王クラスの古墳であったことが想定されている。国の史跡に指定され、世界文化遺産候補に含まれています。

峯ケ塚古墳を含む峰塚公園はかなり広く、よく整備されている。公園の西に小高い丘が見える。この上に小口山古墳があります。
階段があるので登ってみました。休息所、展望所となっており、古墳らしさはない。説明板が置かれているので小口山古墳のものか、と思ったら峯ケ塚古墳のものでした。小口山古墳については痕跡も説明もありません。

ここからの眺望はすばらしい。白鳥陵古墳、二上山が一望できる。丘上の展望所から眺めた峰塚公園と峯ケ塚古墳。右遠方には前の山古墳(日本武尊白鳥陵)が見え、その遠方に二上山が。左端は誉田山古墳(応神天皇陵)と思われます。

 塚穴古墳(来目皇子墓)  



次は塚穴古墳(来目皇子墓)です。小口山古墳のある丘から西側に降り、住宅街を抜ければすぐなのですが、自転車を置いたままなので公園入口に引き返す。そこから「白鳥通り」を西へ行き、最初の信号を左折し200mほど行った所にある。「縄文の杜 ふれあい館」が目印です。
塚穴古墳(つかあな)は一辺48mの方墳で、空堀が周っている。7世紀前半の築造と推定されている。

細路を入るとすぐ南向きの拝所だ。塚穴古墳は宮内庁により「「来目皇子埴生崗上墓」(くるめみこはにゅうのおかのうえのはか)」に治定されている。皇子なので「陵」でなく「墓」です。日本武尊は皇子だったが「白鳥陵」とされたのは異例です。
来目皇子は第31代用明天皇の第二皇子で、聖徳太子の弟にあたる。日本書紀によれば、新羅攻め将軍に任命されたが、推古11年(603)筑紫で病のため死去する。周芳(すおう、山口県)でモガリをし、その後河内埴生(はにゅう)山岡上に葬られたとされる。埴生とはこの辺りをさす。
明治に入って陵墓指定をうけ修陵が行われ、現在の形になったが、それまでは横穴式石室と思われる穴が開いていた小山だった。そこから「塚穴」という名称が。

 ボケ山古墳(仁賢天皇陵)(にんけん)  



[A]は野々上埴輪窯跡、[B]は野々上古墳

峰塚公園から北へ300mほどでボケ山古墳(仁賢天皇陵)が見えてきます。見えているのは南西向きの前方部。地名をつけて「野中ボケ山古墳」と呼ばれことも多い。拝所が見えているので行ってみます。


車道右側に拝所への入口が見え、「仁賢天皇埴生坂本陵」の石柱が建っています。ゆるい坂道の参道を下ればすぐだ。第24代・仁賢天皇「埴生坂本陵」(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されている。鳥居はコンクリ製。

どのような理由でこの古墳が仁賢天皇陵とされたのだろうか?。ネットで調べたがよく判らない。江戸時代中頃の河内の学僧・覚峰が、ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の訛ったものと考証し、仁賢天皇陵だとした。仁賢天皇は「億計王」と呼ばれていたのです。それが幕末の天皇陵治定作業で採用され、樹木を植え替え、周濠を整え、拝所構えが造られた。ということくらいしか載っていない。
「ボケ山」と呼ばれる山があった。訛りを理由に「ボケ」を「オケ」に読み替え、「オケ」王の墓だ、なんて牽強付会もいいところではないでしょうか。考古学的な検証など何一つ行われていないのです。そして現在においても科学的な考証を行おうとしない、それどころか拒否しているのです。
近づくと大きな池に遮られる。上田池(かみのたいけ)だ。池の北側の道から土手に上るとまた大きな池がある。下田池(しものたいけ)だ。これらの池は、昔よりため池として水田の灌漑用水として利用されてきた。また池の一部は、古代に造られていた運河の「古市大溝」の一部分でもあった。
二つの大きな池の周囲は整備された遊歩道が設けられている。この遊歩道からは、少し遠くにボケ山古墳を眺めることができます。

後円部から南側の側面を撮る。中ほどに造出しと思われるふくらみが見られます。それほど幅広ではないが周濠がめぐり水を貯えている。
二段築成の前方後円墳で、墳丘長122m、後円部(直径65m、高さ11.5m)、前方部(幅107m、高さ13m)。前方部が後円部と比べて高く、かなり広いのが特徴。埋葬施設や副葬品は不明だが、出土した円筒埴輪などの特徴から6世紀前半の築造と推定されています。

おお、ここにも白鳥がいるゾ!。

こちらは後円部から北側の側面を撮ったもの。南側に比べ濠は少し狭まっている。
なお、近づいて濠を見れる場所はこの後円部の所しかありません。なお、説明板がどこかに立てられているはずだが、見つけられなかった。

 野々上埴輪窯跡・野々上古墳・青山古墳  



ボケ山古墳の前方部北西角の石垣の前に「野々上埴輪窯跡」(ののうえはにわかまあと)の説明板が設置されている。この辺りから埴輪を焼いた窯跡が見つかっている。説明板のみで跡地は残されていない。埋没保存されたのでしょう。

埴輪窯跡の説明板から北西50m位の所に野々上古墳(ののうえ)がある。小さなハゲ盛りで、宮内庁により仁賢天皇陵の陪塚に指定されているのでフェンスで防御されています。
一辺20m、高さ2mの方墳で、付近から採集された埴輪によると4世紀後半の築造と推定される。ならば6世紀前半の築造とされる仁賢天皇陵の陪塚というのは不合理なのだが・・・。



ボケ山古墳(仁賢天皇陵)の東に外環状線を挟んで青山古墳(あおやまこふん)がある。青山病院の裏手だ。ただし病院側からは入れないのでスーパー・イズミヤの方から大回りして行く。
南側に藤井寺市立青山児童公園があり、そこに案内板が置かれていた。南側の濠は埋められた状態に。




濠をめぐらしているが、写真の西側だけに水が溜まっていました。二段築成の円墳で、墳丘長72m、直径62m、高さ10m。墳丘の南西部分には、低く短い方形の造出しと呼ばれる、幅25m、長さ17mの方形の突出をもっています。濠の調査で円筒埴輪のほか、家・きぬがさ・盾・ゆぎ・馬・人物形などの形象埴輪が出土。埴輪から5世紀中頃の築造と推定されている。
国の史跡であり、世界文化遺産候補に入っている古墳でもあります。

 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)  



ここからは二日目(9月11日火曜日)です。
ボケ山古墳(仁賢天皇陵)から北へ700mほどの位置に岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)があります。古墳名の「岡」は地名で、「ミサンザイ」は「ミササギ(陵)」の転訛したもの。
南側の東角に到着する。古墳の前方部東角にあたり、ここは古墳周回路の東の入口で、案内板が設置されています。写真で、右の細路に入れば墳丘東側を望め、左の道を進めば前方部の拝所に行ける。

まず、右側の道に入ってみる。高く、ぶ厚いコンクリの柵に阻まれ写真撮るのも容易でない。狭い隙間にレンズを差込み撮るしかない。
これは前方部で、対岸に拝所が見えます。濠水の水面は穏やかで、墳丘を美しく写している。
墳丘の東側面を撮りたかったのだが、頑丈な柵が高く、カメラを掲げ上げても撮れない。道がぬかるみ歩きにくいので引き返す。

入口に戻り、前方部の道に入る。前方部は東側と違い非常に防御が甘い。一応ロープが張られているが、低く簡単に跨げる。どこの天皇陵にも掲げられている「釣りをするな!、魚を獲るな!」などの高圧的な警告も見られない。宮内庁は、ここ仲哀天皇陵に限ってはたいへん国民に寛容で優しいようです。世界遺産を目指すならこれくらいでなくてはならないと思う。堤上の植松も美しく、天皇陵らしい景観を見せてくれている。

失礼ながら堤に入らせていただきました。宮内庁様、ゴメンナサイ。ここからは墳丘の東側面が撮れます。濠が広く、美しい。
(案内板より)三段築成の前方後円墳で、墳丘長245m、後円部(直径150m、高さ20m)、前方部(幅180m、高さ16m)、古市古墳群では3番目、全国では16番目の規模をもつ古墳。周囲に最長幅50mの広い盾形の濠をもつ。堤の盛り土が高いのは昔、城として利用された際に盛り土されたからだという。東側に造出しがある。埋葬施設・副葬品は不明だが、円筒埴輪、形象埴輪が出土しており、それから5世紀後半の築造と推定される。

おお、ここにも白鳥が飛んでいるゾ!。

松並木の参道を西に進めば拝所です。拝所前は住宅が迫り、非常に窮屈そうだ。拝所の鳥居はコンクリ製のようです。

第14代・仲哀天皇(ちゅうあい)「惠我長野西陵」(えがのながののにしのみささぎ)に治定されている。仲哀天皇は、父が日本武尊で神功皇后を妻とする。そして応神天皇は子にあたる。この三人の名はよく知られているが、仲哀天皇は影が薄い。
知名度は低いながらこれだけ立派な前方後円墳が割り当てられているのは、知名度の高い父・皇后・子のおかげだろうか。しかし岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵とするのに疑問が多い。考古学的に岡ミサンザイ古墳は5世紀後半の築造とされ、子の応神天皇陵(誉田山古墳)が5世紀前半の築造と推定されている。子の墓より新しいとは・・・。そこから489年に亡くなった第21代雄略天皇とする説が有力。

拝所からさらに西側に、前方部西角まで道は続いている。ここが前方部西角で西からの入口になる。この角からさらに墳丘の西側面に回る道が設けられ、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)は濠に沿ってほぼ一周できるようだ。他の天皇陵と違い、下々に優しいようで、”仲哀”でなく”仲愛”と変えてやりたいくらいです。

平成8年の宮内庁による発掘調査で、墳丘は戦国期に三好方が織田信長に対抗する城郭として利用され、後円部に本丸、前方部に櫓台、裾部から墳丘部に向けて竪堀等が掘り込まれ、古墳全域が城郭化されていた。そのため大規模な改変を受けており、古墳本来の姿を大きく失っているそうです。

 鉢塚古墳・アイセルシュラホール(藤井寺市立生涯学習センター)  



鉢塚古墳(はちづか)は岡ミサンザイ古墳後円部の北100m位にある。やや見つけにくいが、市立藤井寺西幼稚園の裏なので、幼稚園を目印に探せばよい。古墳へ入れる入口は南側で、ここだけが古墳の全景を見通せます。西に前方部を向けた前方後円墳です。柵で囲まれているが宮内庁管理でありません。柵の一部が開けられ入れる。説明板が立っている。
墳丘上まで土嚢が並べられている。遠くから見ると古墳の葺石のように見えます。二列に並べられ階段の役目をしているのです。これが踏み心地が良く大変登りやすい。費用がかからず、土砂流出も防げる。良いアイデアなので他の古墳でも取り入れてもらいたい。
墳丘周囲には周濠が認められたが、住宅や幼稚園などが建ち埋没してしまっている。いや”埋没保存”です。



墳丘上の前方部から後円部を撮る。墳丘長60m、後円部(直径38m、高さ6.5m)、前方部(幅40m、高さ4m)の前方後円墳。築造年代は5世紀後半と推定されている。






古墳の北側に回ると市立藤井寺西幼稚園だ。このご時世、頑丈な柵扉が閉じられ、「警察官パトロール拠点」「防犯カメラ設置園」「知らない人に声をかけられたら?、ワァ~ 大きな声を」のプレートが。おじさんがウロウロするのも気がひけるので、写真を撮って素早く立ち去る。この古墳も世界遺産登録候補の一つです。

ボケ山古墳(仁賢天皇陵)の後円部の東側に「アイセルシュラホール」という奇妙で巨大な建物がある。正式名は「藤井寺市立生涯学習センター」。周辺は住宅、学校が建ち、田圃が広がる地帯。周辺環境に不似合いな建造物だ。あの広い峰塚公園のほうが似合いそうだが。

4階まであるが、この最上階がすごい。一面に人工芝を敷きつめたゲートボール場となっており、雨天でも利用できるよう電動開閉式ドームになっているそうです。
この奇妙な外観は、近くの岡古墳(消滅)から見つかった巨大な船形埴輪と、三ツ塚古墳で出土した修羅(巨石運搬用ソリ)をモチーフに設計されているという。「アイセルシュラ」の「シュラ」は修羅だが、「アイセル」とは?。和英辞典などみるが???。パンフに「愛せる」の文字が・・・これかな?。

二階が歴史展示ゾーンで、藤井寺市内の遺跡で見つかった旧石器時代から奈良時代までの遺物を展示している。感心したのは、映像鑑賞できる個室が4つも設置されていたことです。


津堂城山古墳から出土した水鳥形埴輪三体、実物で、重要文化財となっています。




詳しくはホームページ

古市古墳群みてやろう 2

2018年10月02日 | 寺院・旧跡を訪ねて

2018年9月6日(水曜日)、藤井寺市から羽曳野市にわたる古市古墳群を巡りました。古市古墳群は堺市の百舌鳥古墳群とともに世界遺産への登録を目指しています。永年の夢かなって、昨年7月国の文化審議会で世界文化遺産登録への国内推薦が決まり、今年1月の閣議により正式に決定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦書を提出しました。そして今月、ユネスコ職員による現地調査が入る予定になっている。
そこでユネスコの調査に先立ち、私も現地を査察することに致しました・・・(*^_^*)。
巡回コースは近鉄南大阪線・土師ノ里駅を出発点に、市野山古墳(允恭天皇陵)→仲津山古墳(仲姫命陵)→誉田山古墳(応神天皇陵)→高屋築山古墳(安閑天皇陵)と南下し、今度は逆に前の山古墳(日本武尊白鳥陵古墳)→ボケ山古墳(仁賢天皇陵)→岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)→津堂城山古墳→雄略天皇陵へと北上します。

 誉田山古墳(こんだやま、応神天皇陵)  


ここは大鳥塚古墳から道路を挟んだ南側で、すぐ前に誉田山古墳(こんだやま、応神天皇陵)の正面拝所への入口がある。入口左に見えている小山は応神天皇陵の陪塚に指定されている「丸山古墳」(丸山古墳の名称は各地に多く存在するので、地名を付けて「誉田丸山古墳」と呼ばれることも)。直径50m、高さ10mの円墳で、濠を回らせていた。丸山古墳から、嘉永元年(1848)にきらびやかな馬具(金銅製透彫鞍金具)が出土した。日本でも最古級、最優秀の鞍で、馬具は一括して国宝指定されている。現在、誉田八幡宮の宝物館に保存されている。
参道脇の建物は宮内庁書陵部「古市陵墓監区事務所」。
参道は100mくらい。仁徳天皇陵ほどの壮大さはない。「応神天皇惠我藻伏崗陵」(えがのもふしのおかのみささぎ)に治定されている。「恵我」というのは、現在の藤井寺市、羽曳野市から西の松原市東部辺りまでを指す古代の地名のようです。
第15代・応神天皇(おうじんてんのう)は仲哀天皇と神功皇后との間に生まれ、仁徳天皇の父。身籠った神功皇后は出産を遅らせながら三韓征伐にいき、その帰途に筑紫で生まれたとされる。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので、「胎中天皇」とも称された。71歳で即位し、111歳で崩御(古事記では130歳)。河内王朝の創始者だとの説も。実在を否定される学者もおられるのだが・・・。なお、堺市の百舌鳥古墳群内の御廟山古墳も、宮内庁は応神天皇を被葬者に想定して墳丘部分を「百舌鳥陵墓参考地」に指定し管理している。
天皇陵の鳥居は石(コンクリ)製と思っていたが、拡大してみると木製のようです。何故、腐食に強い石の鳥居にしないのでしょうか?

拝所から誉田山古墳の東側を周るが、密集する住宅に阻まれ古墳の傍まで近寄れない。家屋の屋根上にかすかにのぞく森の一部を垣間見るだけです。
グランドが現れ、この位置からが一番よく見えた。手前の森が位置的に応神天皇陵の陪塚に指定されている二ツ塚古墳なのだろうか。住宅の間の道を誉田山古墳に少しでも近づこうとするが、どうしても住宅に阻まれ行き止まりです。

右往左往しているうちにいつの間にか誉田八幡宮の境内に入っていた。古墳の後円部にあたります。ここから古墳の濠に沿って歩道が設けられているという西側に周ります。進むと広い空き地が見えてきた。説明板によれば、古墳の外濠跡のようです。外濠と外堤が築造されたのは西側だけのようで、天皇陵にしてはいびつな造りになっている。東側には造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるため歪んでいるそうだ。この西側の外濠と外堤は宮内庁の天皇陵指定から外れているようで、昭和53年(1978)に「応神天皇陵古墳外濠外堤」として国の史跡に指定された。ただ整備半ばといった状態に見えます。

国の史跡となっている西側の外濠と外堤です。すぐ横は国道170号線だ。誉田山古墳(応神天皇陵)を鑑賞(感傷)できるのはこの場所しかない。といっても、見えているのは内堤の樹木だけ。墳丘や内濠は樹木に遮られ見えません。
ここに案内板が設置されている。三段築成の前方後円墳で墳丘長425m、後円部(直径250m、高さ35m)、前方部(幅300m、高さ36m)、全国第二位の規模、容積では大仙陵古墳(仁徳天皇陵)をしのぐという。埋葬施設などは、発掘調査できないため詳しいことは不明という。出土した円筒埴輪、形象埴輪などから5世紀前半の築造と推定されている。
古墳名は「誉田山古墳(こんだやま)」、または「誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま)」と呼ばれている。応神天皇は、日本書記では「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」、古事記では「品陀和氣」となっている。そこから地名や神社名に「誉田」が使われた。「ほむた」と読むべきだが、なまって「こんだ」となったようです。

説明板の写真や、GoogleEarthでしか広い内濠を見ることができない。それを見ると、前方部と東側面しか水を貯えていないようで、それ以外は草の生えた湿地帯となっているようだ。

平成23年(2011)2月、応神天皇陵に初めて学術調査が入るということで注目を集め、上空には何機ものヘリコプターまで飛来したという。どこを調査したか?。内濠の外の堤だという。幅50m、総延長2.2kmを各学会の選抜され先生方が3時間ほど歩き回っただけだそうです。これだけでメディアが取り上げ、世間が注目する。神聖化された天皇陵は、今なお深い々深淵の中におわします。これで世界文化遺産に相応しいといえるのでしょうか?

江戸時代の図絵です。誉田八幡宮から後円部墳頂まで続く階段が目を引く。明治以前は自由に墳丘内に出入りできていたようです。後円部の頂上には誉田八幡宮の奧の院(六角形の仏堂)があり、一般の人も濠を渡り石段を登って参拝していたという。即ち、こちら側が応神天皇陵の拝所だったのです。
ところが他の陵墓と同じように、幕末の文久(1861年~1863年)の修陵によって一変する。尊皇思想の高まりの影響を受け天皇陵の治定作業が行われ、陵墓とされた古墳を聖域化・神域化していった。全ての人の立ち入りを禁止し、拝所を前方部中央の濠外に造る。砂利敷きの広場を設け、石造の玉垣で囲い、鳥居、灯籠などが新たに造営された。鳥居が建ったので、古墳の内部は神の領域となり、人々の世界と隔絶されたのです。こうした陵墓の神聖化は明治に入っても引き継がれ、天皇中心の皇国日本のシンボルとなる。拝所だけでなく、陵墓墳丘の景観も大きく変わる。それまで雑草、雑木が茂っていた墳丘は松や檜などの常緑樹に植え替えられ、現在目にするような青々とし荘厳な陵墓景観となっていった。

ここ誉田山古墳でも、墳頂の仏堂や石段は撤去され、入ることを禁止され、拝所は神社とは反対側の前方部に新たに造られたのです。

 誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)  



誉田山古墳(応神天皇陵)の南、即ち後円部の真後ろに古墳に接するように誉田八幡宮が鎮座する。石の鳥居から真っ直ぐ伸びた参道の奥に拝殿が見える。拝殿は割拝殿形式で、奥に主祭神の応神天皇が祀られている本殿が見える。隅々までよく手入れされ、神社らしい雰囲気が漂います。
石鳥居、社殿は東を向き、すぐ東側には東高野街道が南北に走っています。

境内の案内板に「欽明天皇(第14代)の勅定によって応神天皇の陵の前に営まれた社殿を、後冷泉天皇(第70代)の頃(1045-68)になって、南へ1町(約109メートル)離れた現在の場所に造り替えたことが伝えられています」とある。ということは、元は応神天皇陵の後円部内にあったということなのだろうか。応神天皇を御祀りし祭祀を行う神社として始まったようです。
八幡神(はちまんしん)は応神天皇(誉田別命)の神霊とみなされ、八幡神を守護神としていた武家の尊崇をあつめた。特に源氏は、近くの河内国壷井(大阪府羽曳野市壷井)が発祥の地で、壺井八幡宮を河内源氏の氏神としていた。源頼朝は建久7年社殿、伽藍を修復し、国宝の神輿や、神馬、重要文化財の鳶松皮菱螺鈿鞍・同鉄蛭巻薙刀などを寄進し、室町幕府六代将軍足利義教は、重要文化財「誉田宗廟縁起」、同「神功皇后縁起」を奉納した。
南北朝時代から戦国時代にかけては、戦乱により再三再四その激戦場となり、そのために社殿および伽藍が戦災を受けて荒廃した。その後、織田信長が河内を支配すると誉田八幡宮の寺領を没収してしまう。
信長の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉により社領二百石を寄進され復興するかに見えましたが、天正14年(1586)に社殿、伽藍が焼失した。豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。徳川幕府は、誉田八幡宮に引き続き社領二百石を扶持し、また数次にわたって社殿の造営、修復を行っています。今の社殿は江戸時代のはじめに建てられたもの。
明治に入ると天皇陵の聖域化が進められ、墳頂の仏堂や階段は撤去され、陵内に入ることも禁止され、拝所は神社とは反対側の前方部に新たに造られたのです。また神社内に神宮寺として存在していた長野山護国寺は廃仏毀釈の影響を受け破壊されてしまう。

参道中ほどの左手に四脚門の南大門(なんだいもん)が名前の通り南向きに建つ。神社に寺門とは??ですね。
奈良時代、境内に神宮寺として長野山護国寺が行基により建立され、多くの伽藍が並んだという。しかし明治初年の神仏分離令により寺は取り壊され、唯一この南大門が残された。神仏習合の名残です。
拝殿と同じく豊臣秀頼による再建だが、豊臣家滅亡後に徳川家に引き継がれ完成したもの。

拝殿前を右に折れて進むと石造の放生橋(ほうじょうばし)に突き当たる。橋の先はすぐ誉田山古墳(応神天皇陵)の後円部です。年に一度、9月15日の秋季大祭りの夜、応神天皇の神霊を乗せた神輿を担ぎ、この橋を渡って御陵へ入る「神輿渡御神事」が行われる。といっても古くからある太鼓橋のほうでなく、隣の平らな仮設橋を使ってです。放生橋の太鼓状はかなりの急で、多人数で神輿を担いで渡るのは無理なように見えます。
宮内庁は永年の慣例から年に一度だけ、特別に陵内に神輿が入ることを許可している。「永く応神陵を守護してきた歴史的経緯もあり、堤の上までの渡御を認めている」というのが宮内庁陵墓課の説明です。といっても後円部の墳丘に入れるわけはない。見えているのは内濠の外堤で、そこまでのようです。
源頼朝が寄進した神輿(国宝)。幕末までは、周濠を渡り後円部の上に建つ誉田八幡宮の奧の院(六角形の仏堂)まで階段を登り参拝していた。源頼朝寄進の神輿は近年まで使われていた、と書かれているが、神輿を担いで仏堂まで登ったのでしょうか?。しかし幕末から明治にかけて尊皇思想が高まるとともに、仏堂、階段は取り壊され陵内への立ち入りも禁止されてしまう。

参道の右手に「誉田林古戦場址(こんだばやしこせんじょうあと)」の碑が建つ。
誉田八幡宮周辺は、東高野街道、竹内街道、奈良街道など通り交通の要衝にあたる。京都、大和方面から敵を防御する戦略上の拠点でもあった。そのため南北朝期から戦国期にかけて多くの戦が繰り広げられ古戦場の舞台となったという。

 狭山古墳・宮山古墳・野中古墳  



誉田山古墳(応神天皇陵)傍の東山古墳から西へ200mほどの位置に狭山古墳(はさみやま)がある。前方部が東向きとなっている。車道から少し入ると前方部の南角にでる。古墳の大きさに似合わず広い濠が特色で、緑色に染まった水が美しい、というか異様です。空中写真で見ると、後円部の濠には水が無い。そこは埋め立てられ水田に利用され、そのため濠の形が和鋏に似ていることから古くから「はさみ山」と呼ばれていたそうです。
三段築成の前方後円墳で墳丘長103m、後円部(直径60m、高さ9.5m)、前方部(幅66m、高さ9.1m)。5世紀前半の築造と推定。


狭山古墳から車道を挟んで南側に位置するのが野中宮山古墳。前方部を西方向に向けた前方後円墳です。北側に濠水が見られたが、それ以外は埋め立てられている。前方部の濠は埋め立てられ、前方部の一部を削って藤井寺市立の幼稚園となっています。




墳丘上には自由に登れる。階段やスロープも設けられています。前方部から東方向の後円部を見れば、石の鳥居と階段が見えます。4mほど高い後円部の上に野中神社が鎮座しているからだ。ここは桜の名所で「藤井寺八景」の一つとなっているそうです。

古墳の南側は濠が埋め立てられ「野中宮山児童分園」となっている。
児童分園に設置されていた案内板から紹介します。三段築成の前方後円墳で墳丘長154m、後円部(直径100m、高さ14.1m)、前方部(幅90m、高さ10.1m)。5世紀前半の築造と推定されている。

羽曳野警察署と市役所の間を西へ入っていくとすぐ左手の駐車場の奥に野中古墳が見えている。国史跡に指定され、この古墳も世界文化遺産候補に含まれています。
奥へ入っていくと入口と説明板があります。こちらから見ると丸裸の墳丘で、形状がよくわかる。一辺37m、高さ5m、二段築成の方墳で幅2mの濠がめぐらされていた。5世紀中頃から後半の築造と推定されている。
昭和39年(1964)、墳頂から5列の木箱が見つかり、その中に甲冑11組、鉄製刀剣170が入っていた。1古墳で出土した甲冑の数としては黒姫山古墳(堺市)に次ぐもので注目された。



墳丘に登ってみました。南の方向に、民家越しに見えるのは墓山古墳。







 墓山古墳とその周辺  



羽曳野市役所裏の墓山古墳(はかやま)へ向う。市役所南側の車道を入るとすぐ墓山古墳の後円部に突き当たる。突き当たりの左側手前にある小山が向墓山古墳(むこうはかやまこふん)。東辺68m、西辺62m、南北62m、高さ10mのややいびつな形の二段築成の方墳。応神天皇陵の陪塚として宮内庁が管理し、フェンスで囲まれている。墓山古墳の陪塚なら考えられるのだが・・・。向墓山古墳も世界文化遺産候補に含まれる。

墓山古墳の後円部には濠に沿って歩道があり、墳丘と濠を眺められます。説明板も設置されている。

後円部の歩道を北周りに歩いてみます。後円部北角から北側の側面を撮ったもの。緑色の濠水が印象的です。ただし濠水が見られるのは、南側面の一部とこの後円部だけのようです。
墓山古墳は三段築成の前方後円墳で、墳丘長225m、後円部(直径135m、高さ20.7m)、前方部(幅153m、高さ19.3m)。古市古墳群では5番目の大きさ。葺石と埴輪が確認され、5世紀前半の築造と推定される。応神天皇陵の陪塚に指定され、墳丘のみ宮内庁が管理している。周濠をもち、これだけ大きな前方後円墳が陪塚とは考えられないのだが。ただし古墳全体が昭和50年(1975)に国の史跡となっており、重複指定されている珍しい例です。

今度は南回りに歩いてみる。すぐ墓場です。古墳に沿った細長い墓場で、奥は通り抜けできず、引き返さなければなりません。古墳の堤や周濠の一部を、地元の人々は墓地として利用し続けてきた。墓山古墳と呼ばれるのもうなずけます。






墓山古墳の前方部に周るため、墓場を出て住宅街に入る。これがまた迷路のような住宅街で、どこを通っているのか分からなくなってきた。ようやく迷路を脱し、前方部に達する。前方部の一部も墓地に利用され「野中共同墓地」とある。

墓山古墳の前方部です。濠には水は無く雑草が生えている。先日の台風によるものか倒木も見られ、濠内で数人が雑草刈りや倒木整理にあたられていた。

墓場への入口手前左手の盛り上がりが浄元寺山古墳(じょうがんじやま)。一辺67m、高さ7mで、二段築成の方墳。円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土し、5世紀中頃の築造と推定される。
浄元寺山古墳も国史跡で、世界文化遺産候補に含まれる。




 誉田白鳥埴輪製作遺跡・翠鳥園遺跡公園  



地図によれば、羽曳野市役所の近くに「誉田白鳥埴輪製作遺跡(こんだはくちょうはにわせいさくいせき)」がある。探し回ったが見つからない。市役所に入って尋ねても要領を得ない。たまたま年配の市民の方が居合わせ、俺が詳しいと案内してくださいました。
市役所から100mほど南の路地横に駐車場があり、おじさんはそこを指し「ここら辺りが埴輪製作の跡地だったが、幹線道路が造られるなどしてほとんどなくなってしまった」と教えてくれました。それとなく案内板が置かれている。

案内板の赤枠線内が跡地です。現在地の右横が駐車場で、幹線道路を越えた先にも跡地がある。写真では、駐車場から真っ直ぐ右奥の樹のの茂っているところ。現在そこだけが跡地として整備され残されている。

信号を渡った先の道路脇にある小さな小さな埴輪製作の跡地で、「誉田白鳥埴輪製作遺跡公園」となっている。小さすぎてすぐ近くの市役所の職員も気づかなかったのでしょう。国の史跡に指定されているのですが。


墓山古墳南方にスーパーのイズミヤがある。前の道路を東へ400mほど行けば近鉄・古市駅だ。このイズミヤの裏が広い駐車場になっている。駐車場の先に、卵を輪切りにしたような奇妙なモニュメントが見える。そこが
翠鳥園遺跡公園(すいちょうえんいせき)です。

翠鳥園遺跡公園のシンボルがこの大きな卵型モニュメントです。
休憩所に置かれていたパンフレットには「石器を作るために打ち割ったサヌカイトを表した大きなモニュメント。中に入ればサヌカイトの不思議なサウンドが響き、足元には鋭くとがった石器が浮かび上がってきます。」とあったが、音も聴こえず足元にも気づかなかった。
右は休憩所を兼ねた学習解説施設。遺跡の発掘調査の模様、石器の作り方、旧石器時代の人々のくらしなどを解説したビデオが設置されています。

平成4年(1992)春、発掘調査で二万年前の石の破片が約2万点見つかった。二上山で産出されるサヌカイト石を細工した石器やその破片で、粘土層に覆われ保護されていたのです。また30か所以上の石器づくりの跡も見つかっている。旧石器時代の石器造りの様子がうかがえる貴重な遺跡です。この遺跡は平成10年(1998)に遺跡公園として整備された。



公園にはベンチが置かれ、トイレもあり休憩にお勧め。また公園内の芝生の広場には、旧石器時代の石器作りの跡がアトリエ(作業場)として写真で再現されています。








 白鳥神社古墳  



近鉄・古市駅へ行き、駅横の踏切を渡り駅裏へ回る。駅裏の森の中に白鳥神社があります。最近できた観光案内所の前には「竹内街道」のプレートがかかっている。竹内街道は数年前に歩き、この場所も通り、白鳥神社にも寄りました(ここを参照)。

神社は駅とは反対側の東方向を向いている。この丘は、全長120m、後円部径65m、前方部幅70mの前方後円墳で、「白鳥神社古墳」と呼ばれている。現在はその面影は全くありません。前方部は近鉄によって削り取られてしまっているようです。
鳥居を潜り階段を登れば正面に拝殿が見える。元々は、現在の前の山古墳(日本武尊白鳥陵)の上にあり「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていたようです。戦火、地震などのいくつかの転変を経て寛永年間(1624~43)末期に古市の氏神として現在地に移されたという(Wikipediaには天明4年(1784)となっている・・・)。

 高屋城山古墳(安閑天皇陵)・高屋八幡山古墳  



天皇陵のちょうど東側、後円部の中央に出る。高い鉄柵で防御されています。濠を覗くと、後円部の真ん中を境に向こう側は水が溜まり、手前は草地となっていた。
後円部に案内板が設置されている。墳丘長122m、後円部(直径78m、高さ13m)、前方部(幅100m、高さ12.5m)の前方後円墳。埋葬施設や副葬品は不明だが、各種埴輪や須恵器が出土し、それから6世紀前半の築造と推定されている。

高屋城山古墳の南側は東高野街道となっている。その東高野街道を南西に進むと国道170線に突き当たる。そこを100mほど北へ行くと西を向いた拝所があります。第27代「安閑天皇古市高屋丘陵」(あんかんてんのうふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。
「安閑天皇古市高屋丘陵 継体天皇皇女神前皇女墓」と掲げられている。安閑天皇と継体天皇皇女が合葬されているようだ。第27代安閑天皇(あんかんてんのう)は継体天皇の長子で、66 歳で即位したが、わずか 4 年で崩御した。合葬されている神前(かんさき)皇女は継体天皇の娘で、安閑天皇の異母妹にあたる。

前方部の北角から拝所を撮る。
城山古墳と呼ばれるように、中世には守護大名の畠山氏の居城・高屋城の本丸として利用されていた。当時の平山城としては全国最大規模だったという。そのためか墳丘はかなり改変されているそうです。高屋城は天正3年(1575)、織田信長に攻められ焼き討ちされて滅亡する。この本丸の南に高屋丘陵を利用した二の丸、三の丸があったが、現在は宅地開発で破壊され痕跡は無い。

高屋城山古墳から国道170線を200mほど南下すると左手に「安閑天皇皇后春日山田皇女御陵」の石柱が建っている。目立たないので見逃しやすい。細い路地を入っていく。貧弱な参道なのは皇女なのだからでしょうか。

古墳名は「高屋八幡山古墳」(たかやはちまんやま)。現状は一辺40m位の方墳に見えるが、住宅建設などの事前発掘調査で、墳丘長85m、幅10mの盾形の周掘をもつ前方後円墳であることがわかった。北側の後円部は住宅になってしまって残っていない。残された前方部の一部だけが宮内庁によって仁賢天皇皇女の「春日山田皇女古市高屋陵」(かすがのやまだのひめみこのふるちのたかやのみささぎ)に治定されている。日本書紀には、春日山田皇女は安閑天皇の御陵に合葬されたとなっているのだが・・・?。
ここの鳥居はコンクリのようです。


詳しくはホームページ