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本田由紀を読む 3 学校経由の就職 その2 90年代以降の揺らぎ

2008-08-26 06:53:51 | ブックレビュー
フリーター・派遣労働の増加

 本田由紀は、若者の労働事情を研究しているのですが、彼女の主張の基本に、「学校経由の就職」の揺らぎという認識があります。非常に単純化していってしまえば、この「学校経由の就職」の揺らぎが、フリーターや派遣労働の増加の大きな原因になっている。そして、その揺らぎはまさに、90年以降のバブル崩壊と失われた十年と呼ばれる日本経済全般の不況期が原因として考えられる、というものです。それをさらに短く要約すると経済のグローバル化が、「学校経由の就職」という制度を崩壊させてきたのだ、ということになります。

岩井克人の見解とあわせて

会社はこれからどうなるのか
岩井 克人
平凡社

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 経済学者の岩井克人の『会社はこれからどうなるのか』の見解をこれに重ねてみましょう。
 日本経済は、1950年代半ばから高度成長を続けていきます。それは、農村の安価な労働を都市へと吸収することから、そして、旺盛な欧米からの技術の習得を源泉としていました。技術を欧米から学びながら、しかも労働力の価格の差異を使って、成長をつづけてきたのです。
 ところが、この二つがちょうど欧米並みとなって、経済の成長が止まった。労働者の賃金も欧米並みになり、技術もマネるべきものは全部マネてしまった。つまり、製品の品質は同じ、価格も同じとなったところで、日本経済は一気に停滞を始めてしまった。もちろん、一部の先端企業はさらに、付加価値を生み出しながら世界経済の中で高い利潤を上げ続けます。ところが、多くの、とくに、サービス産業は、まったく付加価値のない産業として取り残されていったのです。
 バブル崩壊はきっかけでしかありませんでした。儲けたカネの使い道を間違い、大損をこいた。そして、同時に、日本経済は付加価値の産めない非効率な産業だらけであるという実態が浮かび上がってきた。ものづくりは、すべて安価な労働力を求めてアジアへと逃げて行った。こうして、新しい雇用を産めなくなっていった。これが「学校経由の就職」という制度が機能しなくなっていった理由でした。いわゆる重厚著大産業や銀行の非効率な経営が明るみに出てきたのです。
 これに拍車をかけたのが、今も書きましたが、背景としての経済のグローバル化でした。企業の新陳代謝もその期間を一層短縮化しました。早い話がいつ倒産するかわからない、という事態が出来したのです。



 学校に生活をしていると、この「学校経由の就職」が揺らいでいるという実感がまるでありません。教育内容を変えなければいけない、つまり、物作りが要請する「集団の和」や「コツコツ努力する」という倫理を、疑うことはまったくありません。さらに、消費社会への移行を念頭に置いた多様をいかに学校の教育やシステムに入れるか、などという発想はまったく現場には存在しません。相変わらず、

素直、素直、素直!!!
受験、受験、受験、

なのです。
 今、私には不明なのは、本田が書いている、90年代以降の「学校経由の就職」の揺らぎが、ここ数年の経済の回復で、どのような帰結をもたらしているのか、ということです。私が狭い知見で聞き知る限りでは、こと私の県の職業高校の求人状況は改善されています。つまり、いっけん、「学校経由の就職」は、復活しているように見えます。この事態をどう考えたらよいのでしょうか? 
 背景としてのグローバル化の波は、深く、深く浸透しています。経済のグローバル化、つまり、資本主義化のなかで、すべては「貨幣と商品」の関係、つまり「需要と供給」の関係へと置き換えられていきます。すると、この市場の論理にとって桎梏となる市場外の制度は基本的には淘汰されていくのです。
 私は、以前からこの動きを不可避なものとして論じてきました。学校にも商品の論理が入るであろう。すると、恐ろしいことになる。付加価値を産めない単なる単純繰り返し労働は、労働単価の切り下げ競争のなかで、どんどんその単価を切り下げられてゆくことになるだろう。大体、多様なニーズに対応した、細やかな需要を刺激する商品を産み出せない商品は在庫となっていく、売れないのだ。モノがあふれている現代社会は、単なる使用価値の生産では売れないのだ。
 ところが、「学校経由の就職」が前提とするのは、この商品の論理の無視です。大量生産、大量消費の時代の倫理を背景としてもった制度なのです。「学校経由の就職」という制度を、私は何度も「家」制度として論じてきました。受験勉強の最大の問題は、最終的に問題を自分で設定しないということです。問題を設定してもらうということです。そして、解法も、正解も、与えられることを前提にしているのです。家に所属し、あることが大切だ。そして、そこで与えられたことを反復し、繰り返すのだ。こうした規格大量生産方式のエトスこそ学校教育の核心として存在してきたのです。
 もちろん、学校は、近代以前の制度ですから、無意識的に、本能的にこの制度を守ろうとしています。だから、教育の中身に対しての関心はなく、ただ恭順関係の維持だけを考えて学校は運営しているのです。いかに、家に所属するか、そして、いかに、維持するか、これが現状のグローバル化とどのようなせめぎあいをしており、現状では、どういうバランスにあるのか、私にはわかりません。学校の中で生活する限りはまさに長嶋茂雄の名言どおりなのです。

「巨人軍は永遠に不滅です!」

 さて、私たちは、こう考えることができます。経済のグローバル化はますます、この前近代的な制度を侵食していく。いわゆるじり貧ですね。じり貧となっていくだろう。現在は、その本能的なまさに共同体的な自衛をしている過程である。それは、やがて、ダーウィンのいうように、このシステムを変換できず淘汰されていくだろう。その過程で、また戦争が起きるかもしれない。
 それとも、こうした独自の共同体を維持しながら適応するシステムへと変換していく、今は過渡期であるのでしょうか。
 しかし、この「共同体を維持しながら適応するシステムへと変換していく」という道は現在の私には到底考えられないのです。無理、無理、無理!!!
 だって本気で

 「巨人軍は永遠に不滅です!」

だって考えているのだから。無意識裏に。
 アカウントさんからの先の質問


木村先生はこのような〔大分県の人事採用における汚職事件〕事態を受けて、どのような職業観をお持ちですか?どのような職業観をもって教職に携わっているのかお聞きしたいです。よろしくお願いします。


にここでまた答えるとこうなるのでしょうか。
 日本の企業は移動ができません。学校はまさにそうです。移動可能な能力をどんどん削ぎ落としていくのです。なんでもやります。年上の言うことは絶対です。個人的なつきあいのなかでの恭順関係こそが命です。こういう関係を好む人はこの業界に向いています。
 しかし、天井が落ちてきても、心中という選択肢しかありません。外堀を埋められ、内堀をうずめられて、水位が首まで来ても、でていけません。そういうシステムで生きていくことを覚悟するのです。この業界には、能力査定などという「下品」は存在しません。そんなことをいっていたら、年長者の立場がなくなるじゃないですか?
 つまり、戦前となんら変わっていないのです。
 私の職業観は、まずこの現状から、現状の認識からはじまる、ということです。
 現状では、まず、家への所属競争に勝つしか、生活を立てることはできない。そして、いざ、就職したら、そのままゆでガエルとなるだろう。ゆでガエルとしての生き方以外を選択するとき、今のシステムでは異端者となるよりない。そして、どのような異端者が次代を担うのか、ということについては、一切の市場が不明な現在、たえず、はてなマークがつき、かんたんにナルシスに酔える仕組みでもある。こういう職場でいかに生きていくか、ということだと思いますね。


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1 コメント

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後半部分を書き改めました (Kimura Masaji)
2008-08-28 12:37:32
本文後半部分を少し補正しました。補正になっているかどうかわかりませんが。
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