高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

履修不足問題のモンタージュ 4 公共空間

2006-11-19 16:03:32 | 教育時事

交差点という公共空間

私は公共空間を考えるのに交差点ぐらい究極はないと思っています。交差点を、それも、東京のド真ん中の交差点を、考えてみてください。もし、そこに信号が不在だとしたら、一体どうなるでしょうか?いえ、いままで稼働していた信号がいきなりシステムダウンしたとしたら?
実は、信号という記号は、きわめて〈公共〉というものの存在の意味をその重要性と共に私たちに告げ知らせるのです。みな、信号を見ます。信号によって統制されるのです。なぜなら、信号なしではスムーズな運行がひとつとしてできないからです。私たちは、信号がない交差点を、点滅信号の交差点として知ることになります。点滅信号の交差点くらい神経を使うものもありません。あっちみて、こっちみて、
「ああ、また来た、行きそびれてしまった・・・」
こうした後悔と共に点滅から出ていけずに、後ろからクラクションを鳴らされたなんて言う経験はみなさんおありでしょうか?
 ここに、私たちが信号という公共権力を設立し、しかもその権力の存在を進んで受容する構造が明らかに浮かび上がるのです。

町内会の運動会

 私は町内会を脱会しています。一軒家を建て、町内会に入り、入るとまもなく脱会してしまいました。いきなり、体育委員長をやってくれというのです。町内の運動会の仕切屋をやるということでした。私は、こう切り出しました。
「私が運動会についての全権をもっているのですね?」
そうだ、といいます。そこで、私はこういいました。
「では、私が責任者である限り、運動会への参加はしません」
運動会はイヤだと多くの人が思っています。それは、会がはじまる前のみなさんの会話の中にも伺えたのです。しかし、やめられないのです。
「それは、困る」というのです。
「じゃあ、やりたいという方が運動会の責任者をやってください。」
それも困るというのです。
要するに、私もやったのだから、あなたもやれ、なんです。
 最後にこういう要求をする人が出てきました。
「体育委員長がイヤなら町内会長を二年やってください」
私は問いました。
「その法的根拠は?」
結局、私は脱会することになってしまったのです。
それにしても、ここを貫く論理は

「私もやったからあんたも」

という互酬制の論理です。

履修不足は不公平という苦情

  世界史の未履修問題でまたまた奇妙な論理がでてきました。もちろん、本当を言うと奇妙でも何でもありません。この業界では当たり前の事実なのですが、よく考えてみれば奇妙なのです。それは、まじめに世界史を履修した人間に不公平感が出てしまうというものです。これは何だと思いますか?

「俺がやったのに、何でお前はやらなくていいんだ!」

大事なことはこれを文部科学省がいっていると言うことです。そういう不公平感を出してはいけない(笑)と。
 こういう問いを発してみようではありませんか。

「『君たちだけ世界史を履修したことが受けなかった人たちの不公平感をもたらすから、未履修者にもやってもらう』と何でいえないのか?」

そこに貫かれているのも

「俺たちもやったんだ。お前もやれ」

という共同体の互酬制の論理なのです。そして、世界史を履修するということ(全人教育!)は何の意味もない苦役だということなのです。そこに不公平感の根拠が存在しているのです。
 この意味をよく考えなければいけません。必履修科目とは、しょせん無意味な苦役だということです。国家の構成員である教員を食べさせるための苦役でしかないということです。国家が教育資格の付与権を独占している、その彼らには教育の内容にかんする意味や、実際の使用価値にかんする興味も関心も存在しない、だが、受益者にとっては資格を獲得する手段である。

「授業料払ったら単位をやるといったら授業に出ない人?」

と聞いてみてください。何と「出ない!」という生徒の多いことか!

授業料とは対価としての貨幣価値ではない、そこに露骨に露呈するのは〈年貢〉という収奪なのです。

独立した個人の無政府的な交通空間

  なぜ、先ほどの交差点の信号が公共性を体現しているのでしょうか?信号は交差点では不可欠な公共機関です。交差点では、各人は独立した他者としてある意味自分勝手に交通しています。どこへ行くかと言うことについてはある程度明確な意志をもってそれぞれが無政府的に交通する場所こそ交差点なのです。個人が個人として独立し、自立的に交通するという場において、実は公共空間が成立するのです。個人の個人としての〈独立=自立〉こそ公共空間が成立するための根底を占める条件なのです。そうした独立した私性が無限に交通する空間において不可避的に公共が求められるようになるのです。
  現在、学校はそういう意味で、私性を受益者からとことん奪ってしまっています。学校を自由に選択するという契機、教員を自由に選択するというシステム、それを公教育、とりわけ義務教育の世界では奪ってしまっています。それは封建制的地方自治としかいいようがありません。交差点の人たちは自分の意志で交通しています。目的をもって交通しています。そのときに、事故を避けたいという共通の要求が交差点を存立させるのです。交通整理としての公共機関は身体の安全という利益のためには不可欠です。同様にして、もっと、もっと学校へ個人が来る明確な理由が個人が考えざるを得ない状況、つまり、意味がなければ、選択しないという状況をつくることです。実は、その選択の中から、最低限度国家がなさねばならない国民に通底する制度は何かがでてくるのです。国家が教育内容の決定権を独占し、国家が教育の資格付与権を独占している、その限りではまじめな必履修はでてこないでしょう。
国家が最低限度、これだけの到達度を示したら高校卒業という基準を明示し、あとはできるかぎり規制を緩和する、義務教育も、学校選択や教員選択の自由を拡大させる。こうした方向性のなかで最低限度をいかに公共的に担保していくか、これが真の地方自治なのです。現在は、教員というお侍さん、県教育委員会=教育長以下の役人のためのたんなる収奪機関という封建制が機能しているにすぎません。私の目には組合的な左翼も教育長をトップにした地方の教育行政の権力者も封建制的自治という点以上を出ているようには見えません。ここが変わらない限り、この履修問題は解決しません。意味のない教養科目の必履修と、受験以外に全く使用価値のない教科の存在は消えることがありません。


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大学受験がなくなると、どうなるんでしょうね (ハラナ・タカマサ)
2006-11-19 22:07:02
■トラックバック、ありがとうございます。
■しかし、当方も何度もくりかえしとなえてきたことではありますが、大学受験というタガがハズれたら、どうなるんでしょうかね?■公教育の科目群の大半は、大学の共通教育同様、必要不可欠の市民的素養なんてものではありません。しかも、名人芸による授業以外は、ツマラナイしろもの(笑)。■大学受験予備校の有名講師だって、大学受験科目って権威をハズして、その人気が維持できるとは到底おもえません。■いわば、「人間大学」みたいにNHKって権威背おうとか、有名人のブランドでひっぱるとか、そういった権威ぬきには、カルチャーセンター程度の規模のマーケットしかのこらないはず。
■したがって、木村先生の、受験校ならではの、教養教育としての「倫理」って、逆説的なありようは、リッパだとおもいますけど、それはあくまで「名人芸」だし、ご本人がおみとめのとおり、受験校以外で成立するとはおもえない(笑)。■もちろん、受験につかいものにならないは、ツマラナイはの、どこぞの年配教員さまの必修世界史などは、最悪のメニューでしょうが。
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今思えば、学生時代の無駄なものは無い。 (大田 仁)
2006-11-20 15:03:49
将来どんな職業に進もうが、知識として無駄なものは何もないと思う。
必修の課目にしろ、教師や、友人との雑談にしろ無駄なものは一つもない。
私も学生時代は理科系が得意で将来は、技術系の仕事に
進もうと思っていたから、地理、歴史なんかは無駄と思っていた。
しかし、知っているのと、知っていないのでは、当然知ってるほうが有利である。
特に、現在のようにネットによる情報過多の時代になると、検索と選別判断する
能力を発揮するには、知識が重要な働きをすると思ってます。
どなたでも、必要な情報を検索する場合、検索のアプローチの仕方で、
得られる情報に随分違いが有るって経験をされてると思います。
更に、得られた情報が本当に、適切かを判断するのにも、知識と想像力が
必要です。暗記する知識と、考える想像力を切り離して考えてはいけません。
知識が少ないと、想像力も判断力も、かなり狭い範囲での思考になります。
知識、想像には、重要な相互関係があると思います。
若いうちは何でも吸収するとこです。
そこらへんの重要性をもっと生徒に解ってもらったほうがいいと思う。

返信する
思考の場 (川嶋)
2006-11-24 13:44:23
本記事冒頭
「私は公共空間を考えるのに交差点ぐらい究極はないと思っています。」

とありますが、これは、私も同感です。

つまり、「社会でのありよう」を考えるひとつの思考実験として、

「では、交差点ではどうなのか?」と問うてみる、ということです。

「今、私が考えて(述べて)いることは、スクランブル交差点の真ん中に立ってt考えて(述べて)も、通用することなのか、」

ということです。

私たちは、どうしても、自分を取り巻く身近な社会・文化に思考傾向を引きずられがちです。

しかし、そこからは、所詮、その限定的な社会・文化圏でしか通用しないことを考え(述べ)てしまいがちです。

したがって、常に、もっと広い「他者」「外部」までを視野に入れた思考・感覚に「出て行く」努力が、どうしても必要なのです。

その意味で「交差点に立った思考」は、具体的なイメージとして有効です。

返信する
ハラナ、大田、川嶋各氏に応えたい (Kimura Masaji)
2006-11-26 18:23:25
■まず、ハラナさんの仮定は現実的ではないですよね。いま受験生とかかわっているので、その方向でのデータを添えると、いま地歴公民のなかでもっとも受験生が多いのは「現代社会」です。そして、地歴科目は低迷しているのです。その背景の中から読み替え問題は発生しています。私は別のところ(http://blog.goo.ne.jp/kmasaji/e/b505cd91fd2f475b75c63a0114f7f4ba)で書きましたが、早慶上智、立教が法経系の学部で政治経済あるいは現代社会を受験科目として設置していません。それがなされれば、いっきに歴史科目は受験から消えます。意味がないからです。現代社会にせよ政治経済にせよ、ある意味で現実を考えることになります。まだ、マシなんです。くわえてボクは受験をやっているうちはいじめはないっておもっています。受験はある種の公共空間の必要を個人に強いるのです。別段ボクは受験を礼賛するのではありません。個人が、個人として、自らの利害に沿って、勝手に学校という空間に参入する。すると、絶対交通整理として、あるいはyahooのような入り口としてのプラットホームが公共空間として求められるのです。■すると、そのほかの教養科目はどうなるのか、ということなのです。ボクはもちろん大した答えをもちませんが、ハラナさんがよくおっしゃるように学校がたんにプラグマティズムの利便と、資格で埋め尽くされるのか、というと、ハラナさんのような人間は進学校にはかなりいると思っているのです。現状を前提していてはそれはない。しかし、そこに公共空間が存在したとき、つまり、社会というものともっと循環する中で教員が存在していったならば、私は今とはことなるフェイズが現れるように思っているのです。■おそらく、そうなったとき、専門学校というより職業斡旋所まがいの学校が半数以上になることはまちがいがないとは思います。そうです。いまの進学しない生徒が集まる学校は理想を「自動車学校」におくべきだと思いますね。自動車学校に服装検査はないですよ。まず、自動車学校レベルの個人の功利的動機を満足させる学校が必要だとボクは思っています。そこにボクのような教養が食い込む隙などこれっぱかもないと思います。でも、それは極端にいうとリクルート高校のようなものですから、その限りにおいて公共空間を成立させる可能性がいまより高まると思いますね。そのなかから最低限度の高校卒業の本当の教養がでてくればと思いますね。あ、やっぱり書いていて、空虚だなあ。

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