方法的懐疑
デカルトというと、「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉と、真理へと至る方法としての懐疑、本当のことを知るための疑い、という意味での「方法的懐疑」という概念が浮かびます。
さて、私は学校の先生をやっているわけですが、何が大切か、と言われて、授業で最も大切なものは、何をおいても問うことだ、と思っているんです。何をおいても、生徒に
「きいてよ、これ、どういうこと?」
といったときに、生徒が思わず考え込み、なんだなんだ、と言いだす風景ぐらい、目指しているものはないんです。これさえあれば、何もいらないんです。わからないと、かならず、生徒の皆さんはこういいだすんです。
「ねえ、気になって仕方ないから、答え教えてよ?」
実は、倫理の授業の導入で必ずやるのが、
という問いです。これ、そう簡単には分からないんですよ。
急所を疑った時、私たちは、豊穣な稔を手に入れることができるのです。
デカルトは、『方法序説』で、こういいます。
自分は、何が本当にたしかなことかがわからなかった。
で、疑ってみた、疑わしいものはすべてウソだ、と思い、疑っていったんだ。
っていうのです。
たどりついたら、〈確かなことがない〉という確かなこと
みなさんは、こういうことを申し上げたらどう思われますか。これは、サルトルという哲学者が『存在と無』という厖大な哲学書の最初の方で議論していることなんです。
今、みなさんは人を探しているとしますね。で、部屋へ入っているかどうか、探してみた結果、こういいます。
「ここには、斎藤はいない」
つまり、
〈いない〉=〈無〉
ということがある、ということです。
「えっ?」って思いませんか。無いものは、無いはずでしょ?無いものが実は〈ある〉んだ、ってことです。
これを
「バルタン星人はいない」
と比べてみてください。「斎藤がいない」というのは、全く違うでしょ?〈斎藤がいない〉ということが〈ある〉としかいいようがないでしょ?
さて、戻りましょう。デカルトは、こういう結論に達したんです。自分は確かなことがわからないから、方法的懐疑を使って、疑わしいものをすべて捨てて行った、そしたら、何とある事に行きついた、
「確かなことはない!」
これを、デカルトはこういっています。私が疑いに疑ってたどり着いたのは、
「疑っている自分がいることだけは疑えない」
これ、同じことですよ。そうです。デカルトはこういうことに気付いたのです。確かなことは一つも分からない、しかし、疑っている、確かなことはない、と考えている自分は確かに存在する。確かなことがないと考えている自分がいることはまちがいがない!
勝負の局面
私は、囲碁とか将棋をやります。いえ、スポーツでもいいんです。勝負事をしたとき、みなさんは、目をつぶって、決めるよりない、何がたしかなことかわからない、という局面があることは想像できるでしょうか。まさに、そういう局面を想定した時、デカルトのこの議論は、私たちに迫ってくるのです。そのとき、
「わからない、ということだけがたしかなこと」
「分からない、と考えている自分がいることだけがたしかなこと」
という局面があるのです。そうです。無いものがあるのです。無いと考えている自分の存在はたしかだ、確かに存在する。確かなことだ!
ここで、デカルトはこう結論付けたのです。確かなことがないということがどうして確かに存在するのか?確かなことがない、と考えている私がどうして、確かに存在するのか?
それは、私がそう、考えているからだ!
「われ思う、ゆえにわれあり」
ふつう、あるものが確かにある、というのは、自分の外にそのものがたしかに「ある」からある、と考えないでしょうか。ところが、デカルトはそれを否定したのです。むしろ、逆だ!私たちがある、と考えるから、確かなことはあるのだ、と。
「われあり、ゆえにわれ思う」
つまり、考える〈私〉がいるから、考える私の存在はたしかにある、というのではない。逆だ!
確かなことというのは、経験ではない、というのです。われわれが認識すること、正しいと認識するから、それはある、というのが本当の姿だ、というのです。
答えのない問いの答えってなあに?
では、聞きますよ。人生生きていると答えのない問があります。答えのない問いの答えって何なのでしょうか?
学校の先生は、答えのある問しか発しません。私も注意していないとホント、答えのある問しか生徒に投げないのです。しかし、答えのない問、というものがあるのです。答えのない問いってどう考えたらよいのでしょうか?
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