羽生善治7冠制覇
羽生善治は、将棋界の7つのタイトルをすべて獲得したのです。誰もがなしえなかった偉業です。そして、その羽生が、永世名人となった第6局の模様を、Youtubeでご覧になってください。
羽生のふるえ
羽生のふるえ、というのは、将棋界では有名です。下のYoutubeの画面は、羽生が勝ちがみえたときに、激しく震えてしまっている姿を映し出しています。
勝ちがみえ、終局が間近というとき、羽生はふるえるのです。
ちなみに、彼らが読む手数というのは、私たちの比較ではもちろんありません。その彼らが、当然、終わりが見えた数手前、ふるえるのです。これが何を意味するのか?
考えてみてはいかがでしょうか?
紙一重の終局
よくいうのは、プロの終局図からアマチュアが勝者をもって敗れたプロと対局すれば、かんたんにひっくり返ることさえありえる、ということです。プロの負けを認めるという局面は、彼らの美学を前提にしています。美しく負ける、という、芸術としての側面を彼らは重要視します。したがって、敗れるときも「形づくり」といって、それなりの形をつくって負けるのです。
さて、では、このことをふまえてなぜ、羽生が激しく震えるのか、を考えてみたいと思います。羽生ほどの天才棋士です。おそらく、読み切っているのです。こちらが勝っている、と。しかし、
一手先は不確定
なのです。一手先は、一手先なのです。つまり、勝ちの手前は、勝ちではないということなのです。それは、そこに、途方もない断絶がある、ということなのです。彼らをもってしても、勝ちだとは思うが、しかし、勝ちがみえた片方で、〈負け〉という絶壁を見ながら、つまり、ちょっとした見落としによるわずかな差としての〈勝ち〉しか見ることができないということなのです。これが、彼らの世界なのです。ギリギリのどちらともつかない、そして、一手先の間違いという地雷をたえず、足元に感じながら、彼らは対局しているのです。
佐藤康光
羽生のライバルに佐藤康光九段(上、写真)がいます。彼は「緻密流」と呼ばれ、その読みの正確さでは定評があります。羽生とは幾度となく修羅場を演じてきたライバルです。その佐藤と羽生の対戦成績は、佐藤の49勝90敗です。
何とダブルスコアです。普通なら、お話にならない、と言ってもいいかもしれません。ところが、この対戦成績を、森下卓九段はこう評しました。
「彼らの実力差ですか?ありません」
ここに、羽生のふるえの全てがあるのです。
たまたま羽生が勝った結果が、なんと49対90なんだな!
羽生は何でふるえるのか、羽生は、たまたま勝っているのです。つまり、彼は、絶えず、敗北ラインを踏むか踏まないか、というスレスレを生きているのです。
勝つということを、ただ勝つでは羽生善治を見誤ります。羽生は、勝つと同時に、負けを絶えず、感ずる感性をもっているのです。敗者に対する共感などときれいに言うつもりはありません。勝つということは、負けということとは、まったく異なるからです。
いい将棋を指す
彼らは、タイトル戦を前に決まったようにこの言葉を吐きます。
いい将棋というのは、勝ちと負けを超えた表現なのです。一見綺麗事のように見えます。ただ勝つだけでは、将棋指しとしてはやっていけない、と彼らは考えているのです。もちろん、負けることは即生活を奪われるのです。しかし、それでも、負けても、負けても、それを支える思考のなかに、いい将棋を指すということがあるのです。ただ、勝っては、いけないのです。ただ勝てばよい、では、次がないのです。それは、自分の勝った将棋の中にも負けをみいだす、ということです。その向こうをみる、ということなのです。
私たちは、そうした多様な意味を果たして勝負の世界に見出しているのでしょうか。私は、月並みですが、愛情だ、と思っているのです。私は、たまたま教育という世界に身をおいています。そのときに、生徒のみなさんが、自分の興味や関心の場を学校で見出すことができない、ということほど、むごいことは無い、と思ってきました。負けたっていいんです。むしろ、負けるということを通して、神様は、私たちに愛情の深さを試します。そのときに、心からそのことを愛しているのか、ということ、その美しさや、その興味深さや、自分の手ごたえを感ずることができるのか、ここだ、と思ってきました。しかし、なかなかそれが、教育の現場ではなしえないのです。
負けは個人としての私を襲います。その孤独に耐え、その孤独の意味を、哲学する、ということが大切なことなのです。実は、羽生善治も、勝てなくなったのです。そのときに、本当の意味で、将棋を考えたようです。その中身は、私がこれまで書いてきたこととそれほどことなっていない、と思いましたね。
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