マルクスの『資本論』がブームだという。『資本論』と30年の余関係してきたものとしては、複雑な思いがある。『資本論』はしかし、面白い本である。私の言い方でいう10世紀に一人出るかどうかという天才マルクスが心血を注ぎ、その晩年を捧げた大作である。マルクスは完結した本をほとんど書きあげていない。未完のまま閉じたものばかりである。『資本論』にいたっては、他人が完成させている。しかし、彼の書きあげた第一巻はやはり一度はお読みになられてよいのではないだろうか。
ただし、この本最初が難しい。私はヘーゲルの『精神現象学』という本を三度目にようやくその3分の2を読み終えた。3回目に、最初がわかったのである。わかってみると、ヘーゲルは驚くべき様々なメッセージを送ってくる。そのヘーゲルに媚びるようにして書き上げたというのが、最初のいわゆる「価値論」である。むずかしいのは、ヘーゲルを前提にした議論をマルクスが展開しているからだ。ヘーゲルの「意識」から「理性」へかけての議論をマルクスは下敷きにしている。それは、ヘーゲルを読むとわかるのだ。
ま、しかし、これをお読みになっているみなさんにそんな時間も余裕もないだろうし、大体、ヘーゲルは何を書いているのか、わからないという文章が連綿と続く。そこで、私を信用してもらって以下マルクスの価値論を紹介したい。
交換に価値は宿る
価値論はきわめて重要だ。
だって、評価とは何か、という問いは、価値とは何かという問いと同じだからだ。
その人間の、労働の成果を評価する、ということは、その労働の価値を評価するということと同じだ。
マルクスは、単純な物々交換から始めるのだ。
1エレのリンネルと1枚の上着の交換
『資本論』ではおなじみの風景だ。
これは、こう言いかえることができる。
「1エレのリンネルは、1枚の上着と交換が可能だ」
見ず知らずの二人が出会う。リンネルの持ち主が、上着の持ち主のところへきて、交換してくれと頼むのだ。そのときに、上の条件を提示する。さらに書き換えると、
「1エレのリンネルは、1枚の上着と同じ価値だ」
ここに、はじめて「同じ価値」というものが出現する。値打ち、価値の出現だ。
そうだ。マルクスはこういうのだ。
価値は「交換」という行為をとおして出現する。
「交換」というのは、この場合各商品の「持ち手交換」だね。自分にとって不要な商品を他人の商品と持ち手交換する、このシチュエーションに価値は発生するのだ。マルクスがこだわるのは、この状況だ。この状況を執念を持って見つめる目をマルクスはずっと『資本論』全編で持ち続けるのだ。これが私の読後感である。
相対的価値形態と等価形態
しかし、とマルクスはここでこのような説明を挿入する。
1エレのリンネルと1枚の上着の交換
と単純に書いたのでは見失われてしまう風景だ。
実は、この二つの商品はまったく意味が異なる、というのだ。
そうだ。リンネルの持ち手は、上着と同じ価値だ、と思っている。あくまで主観的にだ。上着は、まあ、「同じだと思われている」わけだ。
でも、立場を変えて、上着の持ち主になってみよう。上着の持ち主は持ち主で、リンネルとの交換はこれだけならば成立する、いや、全くしない、と思っているわけだ。こちらもあくまで主観的に。
マルクスはこういうのだ。物々交換の場所では、「主観的に価値を思うことができる」。これをマルクスは「相対的価値形態」と呼んでいる。それに対して、同じ価値だと「思われている」側が必ずあるはずだ。この愛されている側を「等価形態」とマルクスは呼ぶのだ。
さて、ここから何と恋愛論になってしまうのだ(笑)。
等価形態の謎
マルクスは、価値の謎は「等価形態」にある、と書いている。マルクスは、この謎の発見を有史以来自分がはじめてやってのけた、と自慢している(笑)。
私たちは、主観的に、自分の商品は相手の商品と交換可能だ、と思うことはできる。それは、お互い様だ。それは、デカルトのいう疑いえないコギト(考える私)だ。しかし、相対的価値の対極に絶対あるに違いない、等価形態は、現実にはいずこにも存在しない。売れるかな、と思うことはできる。絶対売れると思うこともできる。しかし、その時点では、価値は不明だ。本当の等価はわからない。
相対的価値形態には等価形態がかならず対応する。しかし、等価形態は、あるはずの等価形態はどこにも存在しない。君が予言者でない限り。あるいは、こうも言える。等価形態は、
物々交換の成立のあとに、自分こそ等価形態だったということに「事後的に」気づくのだ、
と。そうなのだ。当初の相対的価値形態における
「1エレのリンネルは、1枚の上着の交換が可能だ」
「1エレのリンネルは、1枚の上着と同じ価値だ」
は、いってみればナルシズムなのだ。それをカントのように先験的・超越論的存在、といってもいい。仮説といってもいい。
価値は、実は、あくまで仮説のものとしてしか付与できない。それも、交換が成立したという事後的につけられるものだ、というのが、二つ目のマルクスの発見だ。
せっかくだから、これを恋愛論にしてみる。私たちはお互いを主観的に愛すること(相対的価値形態)が可能だ。愛する、ということは愛される人間が当然いることになる(等価形態)。ここで、奇妙なことが起る。私たちは、愛することができるが、愛されることを確認することはむずかしい。私たちが確かに愛されている、という保証は主観的に確かには確認できない。社会学者の大澤真幸はこの事情を本にしている。暇な人は読んでみればいい(私は暇でもないが読んだ(笑))。私たちはそこで、愛の証をモノにすることになる。
映画を一緒に見に行く、
喫茶店へといってコーヒーを飲む
ディズニーランドへ行く
夕食を共にする、
ホテルへ・・・
結婚
ま、いいや、ともあれその一つ一つを愛の証と考える。
しかし、愛は確かめることはできない。
だって、結婚は愛の証ではかならずしもないでしょ?おい、そこのあなた(笑)!
愛されることという幽霊を私たちは追い求める。
学校の教師の価値
ここまできて、考えてみるといい。教師についてこの価値の不安があるか、と。採用試験に採用されるともう、この価値への揺らぎはほとんど存在しないということは容易に理解できるだろう。
もう一度整理しよう。
価値は、交換の場所で幽霊のように私たちの前に現れる。正確には、存在しないのに存在するようになる。
価値は、しょせん「主観」でしかない、ということがこの交換の場所では、私たちに「不安」としてたえずつきまとうことになる。ちなみに、近代のプロテスタンティズムは、この幽霊を現実化させるものとして「神」をみたのだった。彼らは祈るしかないのだ。
神は交換の場所に宿る
のだ。
自分の労働を商品として提供し、それが、愛されるかどうかという篩にかけられる場所、ここに価値は宿るのだ。
連鎖で書いてみよう。
私たち高等学校の教育公務員は県に労働を買ってもらうことになる。当然、そこで買ってもらえるかどうか、という篩が存在する。採用試験だ。しかし、採用する側が、また、篩にかけられる。交換という篩にかけられる。それは、県民のニーズ、県民が自らの労働の対価として支払ってくれるかどうか、という対価ということになる。そこで、買ってもらえない、という事態が、愛されていない、という事態が不安として存在すること、ここに、価値の出現がかかっている。
そうだ。現在のシステムはここをすべて根こそぎにしてしまっている。
税金という強制徴収によって「等価形態」を無理やり現実のものとしている。現在学校が胡坐をかける根拠はここにあるのだ。みずからが「神」となってしまえる構造があるのだ。義務教育に至っては、金を払え、ここへいけ、と交換にまつわる不安をすべて奪取し、完全なる神となり果てた似非神がここに存在するのだ。どこそこの新興宗教があやしいなどと言っている私たちが公務員教師の信者となっている現実をなぜかみない。
カトリックとプロテスタントという近代の対立をここに重ねて読んでもよい。マックス・ウェーバーが大著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で書いたのもこのプロセスである。
【参考】
・マルクスの驚き
・鏡の場所
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ってのはできるのでしょうか?
実際軽音部や、麻雀部など生徒が欲しいと思ってるけど諦めよう。と思ってるのではないでしょうか?
実際麻雀部なんて、全国にあるんだか、、?
大学みたいな学校にサークルみたいなものは、あったら入りたい。って思う新入生も増えるのではないでしょうか?また、友達が欲しいけどできない。っていう生徒も少なくはないはずです。また、休めるって思って休む人が多くいます。それをなくすきっかけにもなるのでは?今まで誰もやってこなかったことをやりたいのですよ!
殿は、どう思いますか?