高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

マルクスの驚き

2022-03-22 20:31:09 | 社会科学・哲学

ナルチシズムとしての値札

 スーパーの値引きタイムというものがある。ある時間帯になると売れない物が値引きされていく。つまり、値段というものは変動するのである。定価というものが習慣となっている私たちはともすると値段が変動するという事実にあまり真剣に向き合うことがない。定価の世界というのはいわば、閉ざされた世界にのみ通用する一つの呪術である。もう少しマルクスのこだわりに即して考えるならば、値段というのは札びらと物が交換されるまさにその瞬間にはじめてその正体をみせるのであって、それまでの値札の値段は本当の値段ではないのである。それは売り手のナルチシズムといっていい性質のものである。マルクスは『資本論』の冒頭の商品の説明でこの事実を不思議なくらいこだわって記述している。実はマルクスはこんな当たり前の事実に驚きかえっていたのである。

さらにオークションから株価へ

 今度はさらにオークションを考えてみよう。値段はさらに激しく動いていく。それも、鮮明に動いていく。競りの声がけたたましく連呼される。その連呼の声は実質買い手の言い値が繰り返される。くどいが、値段は鮮明にここでは意識される。さらに、鮮明なのが株価である。株価では売買する人はひたすら数字だけをじっと見ている。こんなに値段がはっきりする世界もなく、また、変動する世界もない。

バイト代と教員の給料/隣組の買い物、窓口、ネットトレーディング

 バイトのにいちゃん、ねえちゃん達でさえ、時給を気にする。時給とは何か。つまり、一時間の労働の値段である。また、彼らは自分たちの職務が何であるのか、何時からなのか、明確である。それにひきかえわれわれ教員の給料はどうだろうか。給料が何に支払われているのか、何の労働のどこから何時間、何日について支払われているのか、全く不明である。給料の明細を大体まじめにはみない。つまり、値段というものについての意識はバイトのにんちゃんたちよりかなりひどい。大体こんな人間に経済も労働もかたれるわけがないのだ。
 さて、もう一つ比較の対象をあげよう。保険の勧誘のおばちゃんたちの会話をよくきこう。「元気でしたか」「奥さんは元気」「子供は大変よねえ」こういった立ち入った会話を立ち入っているという意識を持たせず行うのがあの人たちのコツである。これをもっと地でいっているのが、地元の商店街とか、隣組の義理の買い物である。いずれにせよ、この世界では値段の意識は薄れる。隣組で値切れますか?もっと言うと、商品の中身についてもわれわれはこの世界ではよく考えず買わされる。「気の毒」だの「世話になった」のという世界である。
 ところが、これが窓口になると事態はやや変わる。値段は見えやすくなる。大体窓口の人との関係は顔見知りになるかもしれないが、しかし、共同体ではない。われわれは品物をじっと見る。値段をじっと見る。少なくともいやなら、いやと言えば終わる。だから、彼らも日本人を研究し、いやといわせないあらゆる方法を使う。すると、値段を見る目も、商品を見る目も不真面目になっていく。「おとうさん」とか「先生」とか、人の関係を親密に錯覚できる関係をどうにか見いだそうとする。
 これがインターネット取引となったとき、いっさいの人間関係が消える。申し込みもネットである。声もしない。誰かも尋ねられない。しかし、ここで驚くのである。何と気楽に、しかも何と物本位、値段本位に対しているか。売買をまじめに行う、ということを商品の品質や値段をよりじっくりと研究した上で行うとしたら、ネットはもっともまじめに行うことができるだろう。

オークションの意識

 この真面目さがどれだけすごいか、そのすごさを保障するものがなんなのかを考えるためにオークションを例にとってみてみよう。
 今パソコンが競りにかかっている。28万円のノートPCが12万円である。みんな見ている。どこのメーカーだろうか、CPUはどのくらいだろうか、インストールされているソフトは、ちょっとキイボードを打たせて下さい。画面の液晶は・・・・その上で、値段を見る。
 その際に、いうまでもないが、競りに参加する人たちはパソコンだけを己の体験と比較して見ている。競りの仲介者がだれかとか、だれが売っているのかとか、だれが買っているのか、いっさい興味はない。ただ、いいパソコンなのか、値段はいくらなのか、それだけである。
 オークションは終わった。それぞれ帰路についた。もちろん、そのそれぞれがどこから来てどこへかえっていくのか知りもしない。いや正確には知る気などかけらもない。帰る道すがらの中心の話題はやはり、「あのパソコンさあ、・・・」である。
 さて、この意識を保障するのは〈赤の他人度〉とでも呼んだらいいものである。共同関係では呼び合えない関係、それと裏腹な言い方では、物だけに興味があるという構造、お互いの人間関係には全く興味がないという関係である。このとき、私たちは物自体にも値段にも真剣な眼差しを送ることができるのである。

マルクスの驚き

 マルクスが驚いたのは値段が変動するということではない。それが受給関係で決まるなどと言うことでもない。彼が驚いたのは値段というものが見える場所=関係性があり、見えなくさせる場所=関係性があるということなのである。あるいは値段というのはある関係性のもとでしか意識されないということに驚いたのである。
 マルクスはその関係を
《相互に独立して営まれる》とか
《独立した、たがいに依存しあっていない》
《個人と個人の直接的な社会関係としてではなく、・・・物と物との社会関係として》といった表現で現している。
 要するにお互いの自立性が弱くなり、共同体でもたれ合う関係性が値段を意識から消すのである。私たち教員には異動の自由がまったくない。私立高校に至ってはその高校から放り出されたら終わりである。こうした依存関係、いわば職場が田圃となっていくとき、値段が意識から消える。同時に自分の商品に対する真剣な眼差しもことごとく消えていく。そこに残るのはたんなる意味のない〈ナルチシズム〉と〈上下の恭順関係〉である。だから水くさく割り勘する関係こそ、自由な関係、独立した関係とこうなるのである。

生徒の異動の自由、教員の異動の自由

 私はながらく教員の教育活動にたいする不真面目という問題を苦々しい思いで見つめてきた。新年の新聞で静岡高校の蔭山昌弘氏(52歳)がカウンセリングのベテラン(約25年の経験)というような紹介で対談をしていた。この人、何の教科の人なんだろうか、まさか養護の先生じゃないよなあ、と思ったのである。調べたら国語の先生なのである。ここまで書いても何の事やらという方のために書く。私たちは教員を毎日やっている。その大半の時間は授業である。学校という世界でそれも国語という教科が専門で、どういう時間空間でカウンセリングをするのか、じっくり考えてみてほしい。多分この方の専門としてカウンセリングを学校が職務としては位置づけてはいないはずである。つまり、厳密には限りなく趣味に近いのが職務としての位置づけなのである。
「大体この人は国語はどうなってんのよ」
「国語を勉強するのは、あるいは国語の授業で生徒と真剣に対するのはカウンセリングをプロとしてやれることとどうやって両立するのよ」
 こうした疑問をまじめに考えてみればいい。専門がほとんど何もない人間が多いなかであるだけまあ、ましなこった、と私も思う。しかし、教育の専門などというのはたかだかこの程度のものなのである。野球部やって、担任もって、生徒課で生徒会やって、こういう人を尻目にみて、「どれもこれもいい加減」とは見ずに「頑張っている」という評価をする職場なのである。
 マルクスの驚きはここに定位してこそ理解しうる。マルクスは物それ自体にも、値段にもまじめなまなざしを送らない世界を見てきたのである。そして、真剣な眼差しを送る世界に驚きかえり、構造を突き詰めていったのである。
 マルクスの驚きを応用させるとこうなうる。生徒と教員がともに《自由で独立した関係》にたったとき、値段と教育活動そのものに真剣なまなざしを送る関係は私たちに可視的になるのである。その関係は具体的にはどういうものか?それは生徒も異動の自由をもつ、教員も学校との関係で異動の自由をもつ関係である、ということになる。ここに彼は双方が物自体にも値段にも真剣な眼差しを送る関係を見たのである。
 この関係の磁場に直面したとき、教員は少なくも、国語とカウンセリングを両方真面目になどやっていられないという当たり前の事実を直視することになるだろう。そして、考えるだろう。俺はいくらで売れるだろうか、だれが買ってくれるだろうか、いや買ってもらうにはどう教育活動するのか、そもそも俺の俺としての商品はなんだろうか、と。
 そうである。みなさん、いったんやめてよそへと売ることを考えてみればいい、そのときの恐怖こそ、売買がどこでなされるかを示唆するだろう。


↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑   
よろしかったら、上の二つをクリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。