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森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

アンニャロメ

2013-10-11 00:58:24 | 梢は歌う(日記)

―昨日、指を切りました。

急いでカレーを作ったんです。野菜の皮をシンクに落として後で一気にかき集めて捨てたんです。その時、野菜くずの下に猫の缶詰の蓋がこっそり隠れていたのです。そのフタの端で切りました。

「指切った。」と夫に言ったら

「あらら、気を付けなきゃね。」と彼。

思わず心の中で

「オメーだろ。」って言ってた私。

 

―おととい始まった「リーガル・ハイ」、すこぶる面白かったです。大笑いしながら見てました。

だけど、その時、ヤバイなあと思いました。

中学生は昨日から中間テストです。

「『リーガル・ハイ』は今日からですね。」と、勉強していた中学生が言ったので、録画に撮って見るんじゃないと言っておいたのです。テストの前ぐらいは我慢したっていいのです。人が時間を延長して少しでも点数を取ってもらいたいとヨロヨロやってるってのに、寸暇惜しんで勉学に励んでもらいたいものです。

しかしこんなに面白いんじゃあ、元々そんなに勉強時間を作らない子供たちなのに誘惑に負けてしまいそうです。

で、昨日来た時にさり気なく言ったんです。

「昨日の『リーガル・ハイ』は時間が延長だったわねえ。」

釣り糸垂らすと、直ぐに引っかかるさかなちゃん・・・。

「そうそう。延長なんだあって、俺もびっくりした~。」

「ッて言うことはさ、見たな~~。」

「いやいや、録画に取っただけですよ。」としれっと言う。

「ふーん。」

だけどイケシャアシャアと嘘をつけるほど、心は歪んでないんです。

「まあ、アレは面白かったわ。」と私。

「『やられたらやり返せ、バッ!』ってとこ?」と中学生。

ヤッパシ・・・・。

 

―真夜中にキッチンの床を掃いて掃除をしました。ついでに言うと、足の裏をちょっと切りました。

ラッタ青年が「おやつの時間だ。」と言いながらカレーを温めにきました。一人でキッチンに立つのも寂しかろうと、彼と軽いおしゃべりをしながら明日の朝の為にポットでお湯を沸かそうと水差しに手を伸ばしたら、シンクの縁に置いてあったコップに肘が触れて床に落ちたのです。

ガラスの破片は思いがけない広さに飛びます。

驚いて一歩後ろに下がったら、小さな欠片が足に突き刺さりました。

「誰よ、全く。こんな縁にコップを置くの。」と私がぼやくと

「それ、僕です。今置いた所。」

ムカムカと言うよりは、思わずシクシク。・゜・(ノД`)・゜・。と思った私。

 

ちょっとだけ忙しかった毎日も、ようやく一息つける感じです。

でも今年の残りの日々はやることが山積み。

やりたい事も少々あるし。

ひとつづつ山を切り崩すように片付けて行きたいと思っている、10月11日真夜中1時ののおしゃべりでした。

 

 

 

 

 

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次の準備、その後

2013-10-10 13:13:05 | 思いつくまま

ずっと昔、って言っても、このブログを始めた頃「次の準備」という記事を書きました。

リンクしましたが、わざわざ飛んで読んでもらえるようなものではありません。ただ、そこにおまけのように書いた

前にある友達に
「ブログ始めたんだ。」と言うと、
「何のために・・」と言われました。私は迷わず
「次の準備」と答えました。
「次って、次は何をするつもりなの。」
「サア、『次』はこれからやってくるものだから、何が来るかはわからないでしょ。」

ある時は、人は風に流される雲のように、形を変えながら過ぎていくものかもしれませんね。でも、いつも流される雲の上は真っ青な空がある・・・・

その言葉を、私はずっと自分で気にしていました。

ブログを開いたけれど、思うところの「次」は一体いつやってくるんだ―?

 

ところで私、昨年の8月からピアノを習い始めたんです。このブログ内ではちょっと恥ずかしいので「習い事」と謙虚に言っていたかも知れませんが、もう一つの「果樹園のティータイム」では、はっきりと書き、また当分は下手の横好きのようなものですが止めないと思うので、このブログ内でも堂々と言うことにしました。って、既にもう書いたっけ・・・。最近ちょっと、いろいろ記憶回路が怪しい・・・・。

 

それはともかく、普通はこんな大人になってからピアノを習いますというと、さながら「子供の時に憧れていた」とかの言葉が続きそうなものですが、実は子供の頃、そんな気持ちはまっったーく(強調)ありませんでした。

だいたいですね、右手と左手が別々に動くなんて、その頃の私の理解の範疇を超えていたのです。それでも友達の家でちょっとだけ触らせてもらったことがありますが、まるでロボットのようにガチガチにあらゆる筋肉を使っちゃったという感じに、「無理無理無理」と思ってしまったのでした。

でもそれは指導者について順を追ってやっていけば問題はなかったのだと思います。

ただ興味がなかったのでスタート地点にも立てなかったのです。

それなのにそうとう大人になったある時から、ピアノの「音」に興味を持つようになったのでした。素敵ですものね、ピアノの音。

 

それから数年は、本当に憧れていました。どこかでこんなに何にもできない人だけれど、幼稚園児に教えるように教えてくれるところはないかしらと思うようになっていたのです。

ところが昨年、ふとしたことからそのような先生に恵まれて習い始めることが出来ました。

片手オンリーで半年なーんてことはなくて、最初からそれなりに両手で弾きます。

えええ~、弾けるの私、って思いましたが、それが・・・弾けたんです。(もちろん上手にというわけではありません。)

その時、先生が手首をもっと鍵盤から離して。」と注意されました。

それで気がついたのですが、

右手と左手を別々に動かす練習、散々やってきたでしょう、私。

ブログを開いて、この数年、どれだけやってきたことか。

キーボードを打つのも、私なりですが早くなりましたが、こんなところで役に立つとは。

思わず、この時
「『次』、来たよ~。」と思ったのでした。

 

「次の準備」という記事は2006年に書いたものなのですが、繋がる「次」というものはいつ、いかなる形で来るのか分からないことなのだと、私は思うのです。

 

この記事は、実は前の記事「生きるとは、死んでいくまでの壮大なる暇つぶし」の続きです。

とあるイベントの進行役は、私には「出来ることをやっただけ」という、いっけん傲慢トーク。でも実はそうじゃないというお話です。

 

高校時代、私はフォークソング部なる所に数ヶ月だけ所属していました。

実は私、手が小さくてFコードがまともに押さえられず、ゆえにギターもダメで、しかも歌が音程の不安定な人で声量もない人だったのです。

なんでそれなのにそのような部に入ってしまったのかというと、それなりに理由があって決して「結婚しようよ」で一般少女たちにもブレイクしてしまった吉田拓郎氏に憧れて、迷い込んでしまったわけではありません。

じゃあなんでと思われる方は、こちらなどをお読みください。→「☓☓の詩」

 

歌もギターもダメだったら、そりゃMCをやるしかナイわけで、ここはちょっと自慢ですが、それはまあまあ上手かったのです。

でもそれにも理由があるのです。

その頃私は、姉や親がスポンサーになってまたは無料のライブなどに誘われることも多く、他の同級生よりプロのもしくはセミプロ(ブレイク待)の本当の舞台に触れる機会が多かったのです。やっぱりそういう本物に触れた回数はモノを言うのです。

歌がメインであっても、ステージに人の心を惹きつける一つの要因のひとつに、彼らのおしゃべりが欠かせないと思いました。もちろん演奏のみ歌のみというステージがほとんどだと思うのですが、フォークなどのライブなどは、歌のメッセージ性が高いために、やはりその人の声を期待するところだと思うのです。

魅力的に感じた話し方を、私は真似をしていたと思うのです。語尾とか間とか。話す内容もこっそりメモ書きの原稿書いていました。丸めて捨てて他の人には見せなかったと思いますが。その内容も、普段から心に引っかかったことや話したいことを心に留めるようにしていたり。

「どうして、あんなふうに出来るの。」と友人に褒めてもらえた時、
「そんな事ナイよ~。」と言っていたと思うのですが、今思うとそれなりにこそこそと努力をしていたのです。

とは言ってもですね、上記に書いたように、その部にいたのは数ヶ月。そりゃ、歌もギターもモノニナラない人が居続けるのはキツイってなもんでしょう。(しかも目的は達成しちゃったし。)
コンサートだってそんなにあるわけじゃなかったから、数回しかやっていないわけなんですよね。

 

今なんかは前もってやると緊張しちゃうからという理由で、数時間前に頭の中に原稿を書く始末。そんなところは反省点ではあるけれど、遠い昔にこっそりやっていた努力がここに繋がっていると思うのでした。

 

未来は見えない。

だけど今やっている新しいこと・密かな努力・地道な積み重ねは必ず次に繋がっていくのだと、私は思います。

 

※トップ画像は、「そんなあなたを誰かがじっと見ています。」と言う図。

本当は→「果樹園のティータイム/ハイテンション・カフェ

 

 

 

 

 

 

 

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生きるとは、死んでいくまでの壮大なる暇つぶし

2013-10-06 11:44:49 | 思いつくまま

先日の姉との電話での話題は、タイトルの「生きるとは、死んでいくまでの壮大なる暇つぶし」は誰の言葉なのかでした。電話をかけながら検索したのですが、結論的に言うと、分からなかったというのが正直な解答です。

有力候補は、みうらじゅん氏でウキペディアにも「人生は死ぬまでの暇つぶし」は彼の言葉であると載っているのです。

でもそれは、内容は同じでも私の知っている言葉と違うし、その言葉を引用してる人も漫画からとか歌からとか知った経由が違うようです。

この言葉はもしかしたらあまたの言葉がそうであるように、歌などの詠み人知らずと同じようなものなのかもしれません。

そして私自身も、いつなんでこの言葉を知ったのか、全く記憶が無いのです。

ある時からこの言葉を知っていて、そして時々思い出し、また時々助けられているのです。

 

時々思い出す・・・・

例えば父の部屋の遺品整理などをしている時・・・・・・。
あまりにもやってきた事が多様過ぎて、それにともなって山のように捨てるものが多かった父の部屋。

「壮大なる暇つぶしだったなあ。」ってひとり呟いてしまいます。 

じゃあどんな時に助けられているのかというと・・・・。

 

この記事は一つ前の「ABC、時々M」の続きです。
脳内刺激が多かった10月2日の水曜日に思ったことを綴っています。 

あっ、そうそう。この「M」は無理の「M」です。決して、SとMのMではありません。えっ、サイズの話ですが、何か?

 

 

その日はとあるイベントの進行のお手伝いをしました。そのお手伝いが殊の外うまくいったんです。これ以上書きますと、単なる自慢になってしまうので書きませんが、「ももちゃんも」の明日の月曜日以降の「なうおまとめ日記」を読むともう少し雰囲気が分かるかもしれません。

終わった後にメインで企画進行を進めている方が、
「今日は気持ちが高ぶって寝られないのでは?」と気遣ってくれました。

それはわかります。いわゆる「祭りの後症状」。

ところがまったくもってその心配がなかったのでした。近頃体の故障にともなって1時間半立ちっぱなしなんてことはほとんどありませんでしたし、声を出し続けるということは日常のお仕事でしていることですが、声の出し方が違います。 私はしっかり疲れて、夕寝も夜寝もぐっすりと眠ることが出来たのでした。

それは、ひとつにはメインで企画進行を進めてる方と違って、あくまでもお手伝いという立場だったからということも言えると思います。それからやった内容が、みんなの前で踊れとか100メートルをリレーで走るとか、そのような絶対に無理なことでは無くて、元々出来ることやったから。

これは私には「当たり前のこと馬鹿にせず(侮らずに)ちゃんとやる」というABCの出来事だったように思うのです。

だけど「元々出来ることをやった」と言うと、こんなの私にはお茶の子さいさいだったのさと傲慢なように聞こえたかもしれませんが、そうではありません。この事はまた果てしなく横道に逸れるので、次回に書きます。

それで話を元に戻して、ABCの出来事とか書きましたが、それはお手伝いの内容がであって、そのお手伝い自体は実はちょっとMの部分だったようにも思うのです。なぜなら、今の私の生活は、毎日が土曜日という感じで、家でのちょっとのお仕事&主婦です。な~んにも自分で求めなかったら、な~んにもないのが現状です。

そのようなお手伝いの機会は昨今なかったからです。

元々心臓はアリレベル。

イベントが始まる直前には、気持ちがジリジリと追い込まれるような気分になってきました。

その時

「大丈夫よ。」とメイン進行の方から小声でエールを頂きました。

すると、その言葉が何の引き金になったのか、このタイトルの言葉がパッと頭に浮かんできたのです。

「そうよね~。考えてみたらあがる理由なんか何一つないわ。」と。それは目の前にいる方々はかぼちゃではなく人間。この先どのような縁などがあってお友達にもなるかもしれない人たちなのでした。未来のお友達相手にどこにあがる理由なんかあるわけも無いでしょう。

自分にとってちょっと無理を強いいるMな出来事も、壮大なる暇つぶしのひとつ。ならば愉しむのが筋というものですね。もちろん何もかもがそう思えるわけではありませんし、そう思えるまでには長い年月単位のものもあると思います。

だけど、その日のちょっと私的Mな出来事を助けたのは、タイトルの言葉だったのでした。

とっても楽しいイベントでした。

だからその日私はぐっすり眠ることが出来たのだと思います。

 

※ トップ画像はこの記事には関係はありませんが、ある人の「ABC」の結果です。その記事は→「果樹園のティータイム/秋だから

 

 

 

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ABC、時々、M

2013-10-04 13:02:18 | 思いつくまま

なんだか10月に入ると、ああ、今年も残りは三ヶ月と、焦るような気持ちになりませんか。

やり残したことがいっぱいあるような気にもなるものの、じゃあ一体何をすれば良いのか、それさえもよく分からなかったりもすることがあるような気もします。去年のブログなどを読みますと、毎年同じようなことを思っているようで、今年もまずは計画を立てようと思うのです。

ただ昨年の場合はブログには真実は書きませんでしたが、「立てる」「立てよう」「立てねば」と言ってるうちに12月まで一気に行ってしまったような気がしました。

今年はちゃんとやろうと思います。まずは遊びの予定からかな~。

と例年なら、ここからさきはそんな遊びの予定などが並ぶと思うのですが、今日はその前に、最近あった出来事と心に留まった会話などから書き留めておきたいと思います。

先日、10月2日水曜日の日は、私的には脳内刺激の多い一日でした。

それを全部書き出すと、いつもどおりの長文になってしまうので細切れ作戦で行こうと思います。

 

一気にも書いてもいいのですが、それをやってるとまたも予定を立てる立てる詐欺になりそうなのです。やっぱり文章中心のブログは、私には少々時間がかかります。横道の話ですが、こういうのも訓練ですよね。毎日やれば上達し、間をあければやはり後退するのだと思います。

 このタイトルの「ABC」のお話はそのことにも通じるかも知れません。

 

水曜日の日は、ちょっとしたイベントに参加して、その後最近親しくさせていただいている方々とお茶の時間を持ちました。

その中の一人の方から、この「ABC方式」をお聞きしたのです。

その意味は「当たり前のことを、バカにせず、ちゃんとやる」なのだそうです。

私はこの時、前の時間に参加したイベントの疲れがふつふつ出てきて、目がしょぼしょぼしていたのですが、その言葉にいたく感心しました。ポケポケとした頭で「やるべき事をしのごの言わずにちゃんとやれ。」というふうに脳内変化してしまったのですが、「普通のことを愚直にやり続けろ」ということなのだと思います。

これが仕事の大事。

なるほどと思いませんか。

こういう積み重ねが、その人の実力をつけていくのだと思います。仕事のみではなく勉学の力も主婦力も。

 

ところがこの方は次に、ある人達を饗すのにものすごい努力をした話をしたのです。

お仕事のことも絡んでいたので、もう一人の方がすかさず
「それ、当たり前の事じゃないね。かなり無理してるじゃない~。」 とツッコミを入れました。

 

「そうだね~。結構無理しちゃった。」とその方も言われて、

タイトルの

「ABC、時々、M」という言葉が生まれたのです。

 

だけど、私思うのです。ついた実力のタネを花開かせる魔法の水は、この「M」なんじゃないかと。

 

というわけで、また明日~。

 

 

 

 

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