森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

言葉を紡いで その2

2015-11-29 14:14:56 | メモリーズ

「歌は世につれ、世は歌につれ」ー。

言葉を紡いで その1」の続きです。

 

ブログを開いた2006年、子供たちの自殺が相次ぎました。

思わず作った詩が「命が千あるならば・・」であり 「ねぇ、君さ。。」でした。

その頃、私の子供たちはまだ二人とも学生。

彼らにも面と向かって言った事などなかった言葉を一気に語りつくしたような詩だったと思います。

推敲ナシのいっき書き。

私の詩はほとんどがそれなので、いつもどおりだったのですが、今思うと良く書いたなあと思うのです。

 

ただそれは2006年の子供たちへ語り掛けた詩だったと思います。

時は流れて、今またテレビを点けると、再び子供たちの自死のニュースがたびたび流されてきます。

今も死の誘惑に駆られている子供たちに、この詩で針の一本分でさえ死までの猶予が与えられるかは疑問です。

テレビから聞こえてくる彼らの叫びは、死をもって復讐とすると言うものでもなければ、死にたいは逃げ出したいの同義語でもない場合もあるような気がするからです。言うなれば、自身の抹殺願望のような・・・・・。

もっと言葉に力があったならばー。生きるヒントは野に咲く花からも飛ぶ鳥からも受け取れるー。

だけど彼らは心を閉ざした彼らは目も閉じて耳もふさいでいるのでしょうか。

 

たとえ力のない言葉でも、波のように繰り返す、そんな事が大切な事なのかも知れませんね。

 

時は

貪欲な略奪者だから

いつか君の耐えられない苦しさも奪っていってしまう

それは本当だよ本当だよ本当なんだよ

命が千あるならば・・」より。

 

 

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言葉を紡いで その1

2015-11-29 02:40:48 | メモリーズ

遠くに見えるのは

想い焦がれていた夢の国だろうか

それとも

・・・・・・・・・・・・・

 

 

あとわずかで11月も終わり12月がやって来ると、あっという間に新しい年を迎える事になるのではないでしょうか。

その新年と同時にこのブログもとうとう10年の節目を迎えます。それに向けていろいろとまとめ記事を書いています。

 

この記事を書こうと思った時に、ふと

「歌は世につれ、世は歌につれ」と言う言葉を思い出しました。

余談ですがこの言葉は、なんとことわざだったのですね。私はこれをある名司会者の方のオリジナルだったのかと、勝手に思い込んでいました。

「世は歌につれ」と言うのは、かなり稀なる例になるのではないかと思うのですが、「歌は世につれ」はまさしくその通りだと思います。

 

言葉を綴る「詩(うた)」でも、同じことが言えるのではないでしょうか。

 

この10年で53の詩をアップしてきました。

平均すると5作品と数は少なく、また拙い出来であったとしても、私にとっては大切な自己表現の手段だったのだと思います。

このブログは「A TREE IN THE FOREST 」と言う詩から始まりました。言うなればブログタイトルの「森の中の一本の木」の核のようなものを書いたのですね。

ずっと以前にも書いたことなのですが、この詩だけ読むと、「誰にも気づかれない世界の片隅に生きているけれど、私はちゃんとここにいるんだよ~」と自己主張をしているかのようにも取る事も出来てしまうのですが、実はそう言うニュアンスではなかったのです。

今思うと、自己発信のブログなのでそう言う意味であってもまったく問題がなかったなとは思うのですが。

A TREE IN THE FOREST」は20代前半に書いた「TREES」と対になっているのです。

 

それに対しての記事は別の所に書いたのですが、こちらに手直しして再掲させていただきます。

「まだ学生の頃、用があって日帰りで軽井沢に行かなければならないことが在りました。遊びで行く軽井沢ではなかったの で、心弾むという事もなかったのですが、それでも、家の周りには森も林も縁がなく、木々は公園にしかないようなところで育っていましたので、車窓に広がる森等をぼんやりと見て楽しんでいま した。

その時一瞬ですが、遠くの方に滝が見えたのです。その一瞬、私は思いこんでしまったのですね。誰も行かない、誰の手にも届かない所にその滝があると。でも滝好きの日本人のことですから、その遠くに見えた滝も何か名前のある滝だったのかも知れません。

 ですがそれが合図になったかのように、何かが胸に突き刺さってきました。それは凛としてたたずむ木々の姿でした。森の奥深い所で誰にも見られることもないのに、変わらずに立っている木々たち。

 その後幸せそのものだった学生時代を終えて社会に放り出されると、様々なちょっと辛い事を経験するようになりました。

 そんな時私は、ともすれば流されやすい自分の気持ちと対比して、遠くにあるその変わらずにそこにあるものを見つめていたのです。

この詩の中の「君」と言うのは、私自身の事です。変わらずにそこにある木々たちは、いつも、ただ「いる」というだけで私にエールを送り続けてくれたのでした。

  ところが時は流れて、ある時私はふと自分がいつの間にか、その森の中の一本の木であるような気がしてきたのです。またはそうでありたいと言う願望でしょうか。」

上記の元になった文は2006年の12月に書いたものなのです。この文章の後には、別の場所に違う意味も込めて書かれたこともあって、少々子供たちに対しての熱い思いが語られています。

元記事はここにあります。→「いつのまにか

 

仕事に関してはピークの頃で、熱い気持ちであふれていたのですね。今も冷めてしまったと言うわけではありませんが、緩やかに流れる場所に流れていったと言えばいいのでしょうか。

変わらずにと言う事は、あり得ない事なのです。遠い森の中の木々たちも、いつかは朽ちて倒れていくのです。

それでもやっぱり私はここにいます。

ただここにいます。

 

 

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