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森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

甲斐の旅《その3》

2014-04-18 14:12:46 | お出掛け日記

 「甲斐の旅《その1》」 「甲斐の旅《その2》」の続きです。

 

「変わってしまった。」「変わってしまった」と甲府の街を訪れて、事あるごとに母が言いました。

だんだん私はイライラしてきて、

「むしろ変わらないほうが可笑しいってもんでしょ。なんにも変わらないで昔のままだったら、気持ちが悪いわよ。」と言い放つ・・・

娘というものは、親の、特に母親の老いには鈍感でいたいものなのです。

だけど老いた母にとっても娘はいつまでも子供で、そのように冷たい言葉をうっかり吐いてしまっても子供の戯言にしか感じずに動じないのでした。

 

自分の思い出を形成する街は、既に記憶の中にしかないのです。

子供の時「田舎に行く。」と言うのは「親の故郷に行く。」というのと同意語でした。今でもその名残があるかもしれません。いやそれとも、もう

「今度の夏休みは、お父さんの方の田舎に行くんだ。」なんて言葉は使わないのでしょうか。

確かに我が家でも私の実家に子供たちを連れて行く時には、どう考えても横浜のほうが都会に思っていたので、「田舎に行く。」などと言ったことがなかったと思います。

だけれど私が子供の時には山梨は、ズバリ父の故郷=イナカでした。

しかし訪ねた回数も少なくて、思い出が多いというわけではありません。

そんな私でも、退屈だった夜の時間潰しに父に連れて行ってもらった街中の映画館の思い出、突然の雷雨に鋪装されていなかった道路はあっという間にぬかるみになり、人々が三々五々と家の軒下や店の中に吸い込めれていったという思い出、そんな思い出の背景にあった街などを、今訪れている甲府に見出すことなどは皆無です。

母などはなおさらなのだと思います。

 

変わってしまっても父の故郷であることに変わりはありません。

 

坐忘庵からの送迎バスでは駅まで行かず途中の武田神社で降りました。

その途中で信玄公が誕生した場所というのを運転手さんがガイドしてくださって車窓観光しました。今、そこは積翠寺と呼ばれる所になっています。その後ろに見えた山は要害山です。

ああ、画像がなくて残念と思ってリサーチしたら山梨紹介に良いところを見つけました。そちらに積翠寺も要害山の画像と説明もあるので、興味のある方はどうぞ。→「山梨のなう」

 

武田神社は武田信玄のお館後が神社になったものです。

「人は石垣人は城」という武田節の歌詞そのものに信玄は城を持たなかったのですね。でも宝物殿にあるそのお館の見取り図などを見ると、その中心に攻めこむには、城の天守に向かうのと同様にかなり難しい作りになっていると思いました。上に行くか平屋で行くかということですよね。

そして守るのは、石垣ではなく外側に配置された人々だったのです。

私は神社とかお寺とか、あまり写真を取るのが好きではないので、画像が乏しいです。トップ画像は宝物殿前にあったものです。

時代だなぁ・・・。

 

 宝物殿の中は撮影禁止です。でも唯一撮っていいのは、左横の所。で、その横の旗は良いのか悪いのか知りませんが、「入っちゃうよ、普通」と撮ってしまいました。これがダメなら、アバウトな展示の仕方を反省していただきたいところですが、私も小心者なので画像は小さく載せました。

 

宝物殿の展示の中には、結構オカルトっぽいのがあって気になるところでした。武田はその滅亡後信玄公の骨とかまたこのお館後とか、今のような扱いではなかったようです。不敗の信玄公なんかは、私的にはかなりのヒーローなのですが、敢えて封印の時代が戦国時代直後にはあったかもですね。

でもやっぱり山梨の人々にとっては永遠のヒーローだと思います。

4月4日5日6日にあった信玄公祭りの頃に来ることが出来たらもっと楽しかったと思います。

ちなみに今年はマツケン・・・って松山ケンイチではなくて、松平健さんが信玄公に扮したのだそうです。

 甲陽武能殿。

訪れた3月16日はお宮参りの人たちでかなり賑わっていました。

 

甲府市内観光を軽くして帰路につこうと思っていた私達は、観光案内で最初、次の朝ドラのゆかりの場所はないかと聞いたのですが、まだ始まる前で地元でも盛り上がっていなかったのか期待した返事を聞くことが出来ませんでした。

よくよく調べると村岡花子さんの生涯はドラマの「花子とアン」とではちょっとした違いがあるようで、そうそうゆかりの地はないようです。

彼女が教鞭をとった山梨英和の場所は教えていただきました。ただそちらは今も普通の学校です。なんとなく前を通るだけの観光になると思います。

それだったら、私には行きたい所があったのでした。

同じく車窓の旅。

でも

父の出身校です。

―お父さん、私達はもっとあなたのことを知りたかったわ。

 

そしてそのまま宝泉寺に行きました。

 

 経蔵です。

ここには

 勝頼のお墓があるのです。

看板を撮っても墓撮らず。

だって、怖いじゃん。絶対に無念だったと思うからさ。

そして次はラーンチ。

メニューは決まってました。

 ほうとうです。ほうとうってかぼちゃとか入れて甘めになるから男の人には人気がないのですよね。でもみんな女なので、ほうとうは大好きです。美味しかったです。

 

その後、駅から見て気になっていた場所に行きました。

 

ここは元学校です。二階はこんな風になっていました。

 

 

 

上のようなところでお買い物をしながら、そして最後は甲府城・・・・

えっーッて思いませんでしたか。

だって信玄公は城を持たなかったんでしょう。

なんで~城があるんだって。

って、よくよく考えて見ればそう思うほうがオカシイのでした。

この甲府城は、武田氏滅亡後豊臣秀吉の命によって築城されました。対徳川家康として大事な拠点になったようです。

 

城跡の一部が「舞鶴城公園」「甲府市歴史公園」として開放されています。

しかし・・・

お父さん!!

ちょっとさあ、私思うよ。

もうちょっと自分の故郷、ちゃんと紹介してよ~。

 

あっ、だけど。

そうか、きっとここにいたら父は言ったかも。

「ここ初めて来たな。」って。

 

だって京都出身の姑はこの前言ってたもの。

「金閣寺、初めて行ったわ。」って。

 

 

  

この鐘は下でボタンを押すと鳴ります。募金箱付きで東北に支援をすることが出来ます。姉妹で鐘をついてきました。

 

 

 

天守あと(たぶん)から見下ろした甲府市内・駅周辺・遠い山々

 

 

 

 

 

 

展示のコーナーではボランティアの方が説明してくださります。

そこには馬の骨格標本が飾られていて印象的でした。

 

そこに入った時に、ボランティアの方が

「6名様ですね。」と言いました。

私達はみんなで顔を見回し、ほんの一瞬だけ間が空きました。

私達はその前から言っていたのです。

「きっとどこかで『6名様ですか』って言われるんじゃない?」と。

 

「はい。」と言いたかったです、私。だから返事ができませんでした。

すると妹がはっきりとした声で言いました。

「いいえ。5人です、私達。」

「えっ、えっと、ああ。」とボランティアの方が目で確認しなおしました。

私達はふふふと笑いあい、そして笑いあいながら、ほんのちょっとだけ悲しくなったのでした。

 

 

 

コメント
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