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森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

功名が辻ー開運の馬

2006-05-28 23:29:54 | ドラマ (大河)
馬を買いに走る一豊。カワイイーとか思ってしまった私でした。

待っていましたよね、皆さんも。今日の馬市の日を。

少し前まで、私はなぜこの「山之内一豊の妻」という人が偉いのか分かりませんでした。持参金で有名なのは知っていましたが、お金を持ってきたから偉いのって変な話だなあと。そして、なぜ、そのお金で馬を買ったから凄いのかも、全然理解できなかったのです。この「功名が辻」でよーくわかりました。子供の時から、放置していた疑問点が解消できてすっきり

黄金10枚で千代は一豊の「男の株」というものを買ったのですね。
ところで、その黄金10枚って今で言うとどのくらいの価値があるのだろう・・

・・・調べてきましたよ、今。100万ぐらいだそうです。でも、今とは物価も違うわけですし、昔の1万円が今よりも重みがあったように、100万といっても普通のサラリーマンの年収ぐらいの重みがあったのではないでしょうか。

今回、我が家では、珍しくだんなの独り言が、うまくストーリーの解説のようにはまり多重放送のようでした。

馬の値段が黄金10両。
「なるほど、この人は、自分の持っているお金と同じだったので、運命みたいなものを感じちゃったんだなあ。」
―なるほど、そういう見方もあるなあ。―と、私。

持参金の事を自分に黙っていたと怒る一豊。
「ちちぇえ男だなあ。」
―だから、妻の力で出世したと後世に名を残せたのでは・・―

千代が泣き出して、結局謝りまくっている一豊。
ここは二人で、「千代の勝ちー」と無邪気に大笑いをしていましたよ。原作では泣いた振り。ドラマでは、解説によると本当に悲しくなって泣いてしまうとあるけれど、どう見ても、あれは嘘泣きですね。

真珠の涙をうか~べ~たあら、男の子なぁんて、いちころよ

と心の中で、歌っていそうな感じでしたよね。

でも、買った馬の嘶きを聞いて嬉しそうな顔をする一豊をみて、
「ああ、しあわせ」という顔をする千代に、なんとなく心が温かくなりました。

ところで、だんなのつぶやき解説の続きですが、
信長が「刺してみろ、私は死なない」と言った時、
「迷わず刺せ」って。
―ちょっと・・、それはダメでしょ。―
「なんでだよ、死なないって言ってるんだから、刺してみたらいいんだよ」
―とんでもないやつダー。せめて、『僕は、死にませしぇ―ん』ぐらいのボケにしといてよ―

だけど、光秀の悪夢の中の信長は怖かったですね。ぞーっとしました。

素性も知らない濃姫を、またも千代が町中で偶然助けます。そして、千代の一豊との会話を聞いて夫婦のあり方を考える濃姫でした。
馬を信長にお見せしてお褒めに預かる二人です。今日は明るい感じでいいですね。
そしてその後、輿に乗って現れる濃姫に驚く千代。
「お気持ちです」となにやらいただけるのですが、あけてビックリ、砂金でした。
そして、だんな
「情けは人のためならず」
―おお、ナイスコメント


だけど、今日の濃姫、化粧が濃いです。それから、あなた、少しお静かにね。
コメント (14)
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夢見る頃を過ぎても

2006-05-28 18:44:05 | 観劇・コンサート日記
これは、↓の記事の続き

「デジタル クォーツ セコンド ハンズ」の感想です。

「夢見る頃を過ぎても」・・・・・やっぱり、この言葉には不思議な魔法の力がある。胸に突き刺す郷愁の思いと、訳の分からない悔恨の思い。

でも、本当は「ても」とあるわけだから「夢見る頃を過ぎても」の言葉の続きには必ずまだ夢見ている自分の姿があるわけで、「胸に突き刺す郷愁の思い」なんていうことを感じる事が間違いなのだ。

だから、そう感じてしまうのは実は
「夢見る頃を過ぎても、まだ夢を見続けていたあの頃」と更に進んだ時の時点から振り返っているからだ。

実は、私は後悔していて言い訳したいわけ。劇の終わりのアンケートに変なこと書いちゃったんだよね。
―夢見る頃を過ぎても、って言うけれど、××××××―
みたいな・・・なんちゃって。
涙が止まらないほど感動した。って書いたのなら、それでいいのに、本当に私って自分に素直ね。
本当は、こういうことが言いたかったの。

ある時 ひとは明日を見つめて夢を見ている
また ある時は 心も閉ざし 深い眠りにつく
だけど また目覚めては 夢をみる
今日と言う日を繰り返すように 
終わりの時まで 何度でも
ひとは目覚めては 夢を見る
 


だから、時計は逆回転はさせないって思ったわけですよ。
だけど、分かるわけがないのです、子供たちにはね。だって、トドのようなお母さん、枯れているようなお父さんの器の中身が、実は20歳前後の君達と大差ないことに気づくわけが無い。
これは、必死で隠している大人たちの秘密ですから。・・・ないしょですよ。

「わたしは ここにいる」
これもいい言葉だと思いませんか。出て行くという息子。出て行くという母さん。
でも、父さんは「わたしは ここに います」と言う。

ちなみに私のブログのテーマと同じです。あ~、でも「ここにいますよー」と言う自己主張ではないですよ。

聞きなれた使い古された言葉なのに、繰り返されるそのセリフは新鮮だ。逆に、斬新な長台詞は、同世代には拍手物だと思うけれど、私には噛ましのはったりに聞こえてくる。舞台劇には必要なはったりなのかなとも思うけれど。
そしてこれは、「父と息子」「「息子と母」「娘と母」「夫と妻」「恋人達」のそれぞれの決別がテーマになっているように思っていいのだろうか。

離れたがっている恋人の青年の気持ちを察して自分から
「私、出て行く。あなたから離れて。」と言う恋人の少女。話が交差しているこの物語で青年は、
「君は、恋人?それとも母さん?」と言う。

もう、涙が止まりません。私は男の子の母なので。

いつか、羽ばたこうとしている我が子の気持ちを察して、自分から決別を言い渡す事が、私にできるのだろうか。



そういえば、背景のないこの劇で、銀のシップ、赤い教団の絨毯、田舎じみたソファとちゃぶ台なんかが、私の中で現れては消えていく。こういうことは得意なの。だけど、ふと頭の中で「最終兵器彼女」なんて漫画が勝手にリンクしちゃった。
だって、「なんじゃあ、この設定と展開は・・」という中に日常の日々と愛があるから。


ちょっと、文章は文末そろえましょうね。なんちゃって。
多くの方にとって、興味の無い内容だったとは思うのですが、もし最後まで読んでくださった方いましたら、本当にありがとうございます。
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