わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。ヨハネによる福音書一七章一四節
キリストと弟子たちの関係、それは御言葉を介してのものであります。
御言葉が語られ、それが聞かれている、その一点にキリストと弟子たちの結びつきあるのです。その品性や性格によって弟子は弟子であるのではありません。
主が語り、弟子たちが聞いている、そこに新しい世界が現出しているのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。ヨハネによる福音書一七章一四節
キリストと弟子たちの関係、それは御言葉を介してのものであります。
御言葉が語られ、それが聞かれている、その一点にキリストと弟子たちの結びつきあるのです。その品性や性格によって弟子は弟子であるのではありません。
主が語り、弟子たちが聞いている、そこに新しい世界が現出しているのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
労苦する者を労苦させるのは欲望だ。箴言一六章二六節
生きることに労苦が多いのは確かです。しかし労苦のすべては外から来るとは限りません。
いや人を打ちひしがせる労苦は、しばしば自分の中から発しているのです。欲望から。
その一事に気づかせてくれるもの、それが信仰です。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。詩篇八六篇一一節
ここで「心を悩ます」というのは、うらやんだり、怒ったりすることであります。
「一筋の心」とは、神に向かう心です。
試練の時も、悩みの日も、神に向かうのです。
誘惑にさらされた時も、罪に落ちた日も、逃げないで、神に向かうのです。
厚い雲のはざまから、光はやがて射し初めます。
苦難のヨブは嘆きましたが、神に向かって嘆きました。
怒りましたが神に向かって怒りました。涙は神の前で流しました。
気がつくと神の大きな手の中に、彼はいました。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。詩篇三七篇一節(口語訳)
ここで「心を悩ます」というのは、うらやんだり、怒ったりすることであります。
人は悪を行う者に対し、怒りすぎて足をすくわれるのであります。
こだわり続けるより、自分のなすべき善を行うこと。
悪にいらだって悪を克服することはできません。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
昨日は、赤碕中学校の運動会。
孫の100メートル競走を観戦。
力強くなった走り姿に感謝。
最近の中学校の運動会では、学生も家族と一緒に昼食とるらしい。
小学校の運動会なら当たり前だが、我々の時代には考えられなかったこと。
退職してから五年が過ぎた。
あっという間の五年間で、実感としては二年間位の感覚。
とにかく時間が経つのが早い。すぐに人生が終わってしまいそう。
最近は、ソフトバレーに熱中、楽しんでいる。一応健康で、感謝感謝の日々。
わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになるヨハネによる福音書一三章七節
愛は、それが深いものであるほど、「後で」わかるようになるのであります。後になればなるほど、それはわかってきます。
十字架の恵みは、生涯にわたってしだいに弟子たちの身にしみるものになりました。
すぐにわかつてもらえない働きに失望してはなりません。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。ヨエル書三章五節
「主の御名を呼ぶ」というのは、となえるということではありません。
助けを求めて声を上げるのであります。赤ん坊が泣いて母親を呼ぶように。
御名を呼び続けることによって人は救われるのであります。
呼ばないでもやっていけると思うこと、それが人間の最大の誘惑です。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
善を求めよ、悪を求めるな・・・・。アモス書五章一四節
何を求めて生きるかが大切なことであります。
つまずいたっていいのです。
失敗したっていいのです。
求めるものの高さによって、
その人間の人格は形成されるのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
無知の言葉をもって、 神の計りごとを暗くするこの者はだれか。ヨブ記三八章二節(口語訳)
人の知恵は、小さな軌道を回っている惑星に似ています。
神のはかりごとは、計り知れない大きな軌道を描いて、思いがけない視野をわたしたちに与えてくれます。
性急な、小賢しい結論をしばらく措いて、神にゆだねてみることが必要です。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の 姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。ローマ信徒への手紙六章五節
「あやかる」というのは、自分のしたことのないのにその成果をいただいく、という意味であります。
キリストの死に「あやかって」わたしたちは罪と死の問題を克服しました。キリストの復活に「あやかって」わたしたちも新しい命に復活しました。
わたしたちが死を賭して罪と闘ったわけではありません。自力で死の縄目から脱出したわけではありません。キリストの御わざに「あやかって」いるのです。「あやかって」、救いをいただいているのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、・・・・・。伝道の書三章四節(口語訳)
生きていれば泣くしかない時があります。しかし、また笑う時もあります。
悲しみに閉ざされる日がありますが、踊りたくなる日もあります。
悲しみがどんなに深くても、それを絶対化してはならないというのです。
喜びも悲しみも共に生き抜いて、初めて、より深い人生の、神の真実を知ることになるのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より