人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

高くする者は低くされ、低くする者は高くされる。

2016年09月17日 | お気に入りの言葉

   おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 ルカ一四・一一
 ある日イエスは宴会に招かれたまいました。そして、すすめられた席におつきになりました。・・・
 イエスはこの宴会の席で、人々が上座につきたがっていることに気づかれたのです。
彼らは注目の的になろうという欲望にかられていました。
イエスがこの世界を見渡された時、その目の注がれる所には、どこにでもこのような人を見いだされたのです。
 イエスを信じる者たちの間にさえも。
 それは、いろいろな異なった形であらわされています。彼らがねらうのは上座だけではありません。
なみいる人々の注意を集め、賞賛をあびるとあれば、下座にもつきたいのです。
 他人の注意を引きたいという欲望が、多くの人の行動を支配するものだということを、人がみな認めていることです。
そして又いっぽう、人にみとめてもらえそうにもない、と思った時には、有益でたいせつな行いさえも、遂行する事を私たちに思いとどまらせるのも、
この他人の注目を一身に受けたいという欲望のゆえにほかなりません。
 熱心な信仰者の中にも、多くの人々の注目の的になり、賞賛の言葉をあびる快さを夢見て、これに刺激されて、
上座をねらう欲望を宿した結果、少しずつ知らぬ間に信仰がうすれ、冷たくなって来た人も少なくはありません。・・・・
 私たちは、へりくだることによって、このあやまちからのがれる事ができるとイエスは教えておられます。
高慢な考えかたをしていた私たちの罪をゆるしていただける場所、キリストの十字架の下まで、私たちは降りて行かねばならないのです。
毎日、主の十字架のもとにぬかずく人は、同僚の間にあって、重要な地位を自分から要求するようなことは、決してしません。
彼にとって、世の中でいちばん不思議なことは、神が自分のような者を見捨てたまわないということであります。
そして、今一つ不思議でたまらないことは、彼の友だちが、彼を尊敬し、彼のもとに意見を求めにくるということであります。
O・ハレスビー著 「みことばの糧・365日の黙想」より