人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

つらいことは神からのメッセージ

2013年04月11日 | お気に入りの言葉

 つらいこと、嫌なことは、私たちの生き方への神の「促し」です。
そこには、「少し方向を変えなさい」「本質からずれていますよ」などといったメッセージが含まれているのです。
そして、自分の行為が他人に影響を与え、自分も他者から影響を受けているのです。
それに気づいた時、私たちはいつも自分の生きる意味を自覚し、問い直す必要があるのではないでしょうか。
 
シスター鈴木秀子の愛と癒しの366日より

 


わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値ゆえに、いっさいのものを損と思っている。

2013年04月10日 | お気に入りの言葉

わたしは、・・・・・わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値ゆえに、
いっさいのものを損と思っている。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、・・・・それは、わたしがキリストを得るためである。
(ピリピ三・八)
私の知っている最も愛する偶像、
それがなんであっても、
あなたのすわるべき御座から
引き裂くことができるように、
主よ、私を助けて下さい。
そして拝することを得さして下さい、
ただあなたのみを。
ウィリアム・クーパー
山頂めざして カウマン夫人著より

 


信仰にいたるまで、今までをふりかえると。

2013年04月09日 | 教会

これまで、色々なことがあったが、信仰のある私は、これは神の計画、摂理であると思う。
信仰のない人は、色々な出来事をすべて偶然と思うだろうか。
ローマ書8:29「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
この言葉を信じる私の心の平安は、大きい。


信仰にいたるまで、壮年時代⑦

2013年04月07日 | 教会

葬式に対する反発
葬式に対する親戚の反発は、相当なものであった。
父は仏教で母はなぜキリスト教なのか?とか。
墓に納骨はさせないとか。
檀家から外すとか。
「檀家から外す」と言われたのには、こちらも望むところで、寺には、一筆書いて縁を切ってしまった。
元来、檀家制度は、キリスト教を禁止する為に行われた制度であり、時代の遍歴を感じる。
母の葬式から、19年も経ち、その当時は色々とあったが今は、なにも問題が無い。

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代⑧

2013年04月07日 | 教会

教会生活
キリスト教会の中でも、色々と問題は起きる。
誰でも欠点があり、その点では世間一般の人と同じである。
ただ「キリストの十字架の贖い」を信じているかどうかだけの違いである。
赤碕キリスト教会は、わけあって約20年前から牧師がいない。
そして次第に信徒の数が減ってきて、現在は5人程度で礼拝をおこなっている。
しかし信徒の数が多ければ良いというものでもない。

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代⑥

2013年04月06日 | 教会

母は、昭和4年(1929年)生まれ、64歳の生涯であった。
看護学校を出て、看護婦をしていた。
結婚して、私が生まれてからも、看護婦をしていた。
従って夫婦共働きで、子供は、知り合いに頼んで面倒を見て貰っていた。
子供が3人(私と弟2人)になってからは、さすがに止めてたようだ。
子供に手が離れてからも、臨時の養護教諭(保健室の先生)や姉の店の手伝い(飲食業)等をして働いていた。
どうも働くことが、好きだったようで、あまり家庭的ではなかったと思う。
それが夫婦喧嘩のひとつの原因であったと思う。
父58歳、母64歳と二人とも早くなくなりあまり親孝行はできなかったが、
孫の顔を見せることができたことが、せめてもの孝行であったと思う。


信仰にいたるまで、壮年時代⑤

2013年04月05日 | 教会

  信仰を告白する時は、突然やって来た。
1994年に母が、突然心筋梗塞で亡くなる。
以前から、もし母の葬式を行うようになった時は、キリスト教式でやろうと考えていた。
母が元気な時に、万一の時は、キリスト教式でやるからと了解をとっていた。
父の葬式は、仏教で行っていたが、その時は、任せると、こころよく了解してくれた。
母は信仰がなかったが、キリスト教には好意を持っていた様である。
葬式で世間の人に信仰を告白し、今まで胸につかえていたものが取れたような気がした。そして洗礼を受ける。

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代④

2013年04月04日 | 教会

壮年時代④
礼拝、祈祷会、その他の集会にも熱心に通うようになりました。
しかし、洗礼は受けなかった。
元来、形式的なものが嫌いだった。
また教会員となると色々と束縛されるような気がしていた。
(洗礼を受けると教会員となり、それまでは求道者となっている、教会生活はどちらも大差がなく、また自由も尊重されている)
世間的にも信仰を持ったことを話していませんでした。
信仰していることが、恥ずかしいような気がしていました。
"宗教には弱い者が入る"とか"宗教は暗い"という世間的な観念を心配し、
信仰を表明すると弱さをさらけだすような思いがあった。


信仰にいたるまで、壮年時代③

2013年04月03日 | 教会

壮年時代③
その後も結婚生活、仕事に夢中であった。
子供も成長し、子守がてら、教会の日曜学校に連れて行くようになる。
そこで聖書の話しを聞き、興味を持つようになる。
そして自分で聖書を読み、イエスの人格に触れ、
ヨハネによる福音書1章18節にある「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」
という言葉は本当でで、イエスこそ神であると信じるようになる。
そして礼拝、祈祷会等に出席するようになる。1987年(36歳)頃のことである。

 

 

 


信仰にいたるまで、壮年時代②

2013年04月02日 | 教会

壮年時代②
結婚して家庭を持ち、ここで仕事がうまくいかなければ、もうあとがない。
背水の陣と言えば少しオーバーか、しかしその当時はそのような気持ちで頑張った。
ようやく仕事も軌道に乗り、家庭生活でも二人の娘にも恵まれた。その頃1984年に、父が亡くなる。
肺がんにかかり、4ヶ月程度の入院の末、逝ってしまった。58歳であった。
父は大正15年生まれで、19歳で終戦を迎える。父から戦争の話は、ほとんど聞いたことがないが、
予科練で鍛えられている写真が多く残っおり、当時の父の様子が窺われる。
当時、出撃の際は、本人に一応意思確認があったようで、その時にはいつでも「○」と書いていたと言っていた。
「○」とはOK、「×」とはNOである。
いつでも死ぬる覚悟はできていたようだ。
この時代生きていた多くの人がそうであったように、この戦争体験がその後の父の生き方に大きな影響を与えたようだ。
役場に勤めていて、世話好き、政治家タイプと性格的には私と正反対。
世間的には人望もあったようだが、家庭的には、夫婦喧嘩が多く、良い父と思ったことはなかった。
父の死んだ年齢を越えた今、ようやく父の良さが分るようになってきた。
考えて見ると、大学を見つけてきたのも、鳥取でのこの職場を見つけてきたのも、父であり、面倒を見てもらった。
今頃になり感謝している。