キリスト教を信ずるとは、キリストによって神に帰ることである。そうして神に帰ることができて、われらが初めて自由に善をなすことができるようになるのである。神、キリスト、善行、これに達するものがキリスト教の目的である。その他はすべて余計である。洗礼!受けてもよし、受けずともよし。教会!入ってもよし、入らずともよし。法王、監督、牧師、執事…彼らもしキリスト教を説き、その栄光を現す者ならば、彼らに聞け。されども、もし、しからずんば、かれらに聞かざれ。彼らも同じ人である。彼らは罪をゆるすの力を持たない。彼らがその専有権として手に触れる儀式は、そのものそれ自身において何の効力をも持たないものである。われらは彼らに欺かれざるべし。わららはキリストに行きて、かれらにゆかじ。内村鑑三著 続一日一生
教会!入ってもよし、入らずともよし。教会に行ってるから救われるわけではない。反対に教会に行かなく救われる人はあると思う。イエスを救い主と信ずるだけで救われる。