人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

奇跡とイエス

2011年10月16日 | お気に入りの言葉

 そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。
 人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。
 イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。マタイの福音書6:13-15

イエスが五千人以上の人にパンを与えられた奇跡、その奇跡を見て彼を王にしようとする群衆。その群衆の心理を知り、ただひとりで山に退かれたイエス。奇跡(しるし)を見て歓呼する群衆、それから逃げられるイエス。イエスがたえずひとりで祈られ、何(十字架)を見ておられたかが良く分かる記述であると思う。


口にしてはならないこと

2011年10月15日 | 聖書

パウロの言葉あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。 すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません」エフェソの信徒への手紙5:3-5

ここでパウロが口にしてはならないと言っていることを守りたい。みだらなことやいろいろの汚れたこと、卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談、貪欲なこと(拝金主義等など)。


聖書と酒

2011年10月14日 | 聖書

パウロの言葉 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい 」エフェソの信徒への手紙5:18-20

信者、キリスト者、クリスチャン等など呼び名は色々あるが、これらの人と飲酒とは関係がない。飲酒と救いとは関係がない。イエスも酒飲みと噂されたように、けっこう飲んでおられた様だ。あるクリスチャン(酒好き?)が聖書全体をくまなく調べたが飲酒を禁止しているところはなかったと書かれていた。

ただパウロが言っているように「酒に酔いしれるな」(身を持ち崩すまで飲むな)が、良い酒とのつきあい方であると思う。酒でこころを満たすより、キリストの霊に満たされ、喜び、感謝して歩めとパウロは言っている。


キリストに倣い、愛によって歩めるように

2011年10月13日 | 聖書

パウロの言葉「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」エフェソの信徒への手紙5:1-2

「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」これは十字架の贖いの事である。

神(キリスト)に倣う者として、愛によって歩みたいが、いくら自分で努力してもそう簡単にはならない。しかし神に祈り、神によって変えて頂ければ少しづつでも近ずけれるような気がする。

 


見ないで信じる人の幸い

2011年10月12日 | 聖書

十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしはその手に釘のあとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。
 八日の後、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、幸いである」ヨハネ福音書20:24-29
十字架刑で死なれて三日目に復活され、その後弟子たちに姿を現わされたがその時、トマスはいなかった。その後トマスに姿を現わされた時のことが書かれている。

我々はイエスの復活された姿、イエスの行われた数々の奇跡等など今では見ることはできない。しかしイエスは言われました「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」

「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、幸いである」。

私はこのイエスを信じました。あなたもぜひ信じて頂きたい。

日記:今日は園児の合同演奏会に孫が出演するので家内と一緒にカウベルホールまで見に行ってきた。元気に楽しそうに歌っていた。後で声をかけたら、うれしそうにしていた。孫のこういう姿を見るとつくづくと幸せを感じる。神様に感謝。


我々の悩み苦しみに同情し、助けることのできる方

2011年10月11日 | 聖書

「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」ヘブル人への手紙2:17-18

他人の悩み、苦しみは経験した人でないと分かり難い。イエスは最大の苦しみ(十字架刑)を受けられたからこそ、すべての人の悩み、苦しみがわかると書いてある。このイエスに信頼して助けて頂こう。


あなたの富(宝)はどこにあるか

2011年10月10日 | 聖書

 イエスの言葉「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」マタイ福音書6:19-21

地上の富(宝)は、お金、家族、名誉、興味の対照、収集品、嗜好品等など目に見えるものであると思うが、天に積む宝とは何か良くわからない。勉強中である。

しかしその後の「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」という言葉はよくわかる。ようするに、その人の心を占めているものが、その人の宝(富)であるということだ。あなたの宝はどこにありますか。私は時々、自分の心の中を覗いてその宝を見て、反省している。


復活を信じること

2011年10月09日 | 聖書

パウロの言葉「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」1コリント15:17-20

「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」イエスは死んでから三日目に復活された、そして我々の初穂となられた。我々もキリストにならって復活する事ができる。

これはすばらしい希望だと思います。しかし、そう単純、簡単には信ずることはできない。ただ聖書にこう書いてあるから信じるしかない、としか今の私には言えない。


最も大切なこと

2011年10月08日 | 聖書

パウロの言葉「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています」1コリント15:3-6

キリスト教の最も大切なことは、以下の2点であると思います。イエスがわたしたちの罪のために死んだこと(十字架のあがない)、そして葬られ三日目に復活したこと、

十字架のあがないと復活、この2点です。

この2点を信じるか否か、これがすべての様に思います。


60才(還暦)の誕生日を迎えて

2011年10月07日 | 日記

本日60才の誕生日を迎えることができた。まずこのことを、神様に感謝します。また両親、家内、家族、今まで出会ったすべての人に感謝。特に、今も健康でいられるのは、食事の気配り等など、家内の献身(結婚以来31年間の)によるところが大きいと思う...感謝。

60回目の誕生日を迎えたわけだが、これほど誕生日を意識したことはなかった。定年を迎え、仕事から解放された。わずかながらでも年金支給が始まる。特に最近、歳を意識したことがある。それは週に一回程度、倉吉の温水プールに通っているが、60才から料金割引きの特典が受けれることである。ああとうとう年寄りの仲間入りかと思った。

歳をとると良いことも多くあるが、残念ながら確実に残り時間は少なくなっていく。

6人の孫にも恵まれ、今日は、一番上の孫(小学3年生)の学習発表会に家内とともに見学に行ってきた。劇の主役を上手に演じていた。良い誕生日の記念(プレゼント)になった。幸せなことだと思う。

そのあと、さっそくプールで泳いで、割引きの恩恵をうけた。 

 


労苦や仕事の成功の原動力はなにか

2011年10月06日 | 聖書

コヘレトの言葉「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。愚か者は手をつかねてその身を食いつぶす。
片手を満たして、憩いを得るのは両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ。」コヘレト4:4-6

「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。」を新改訳では「あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない」と訳している。

労苦とあらゆる仕事の成功の原動力が、ねたみとは面白い。しかし、かなり真実をついていると思う。原動力がねたみや競争心であるとしたら、むなしい気がする。それならば、着実に働き「手をこまねいてないで」、片手分で満足し、ゆたか(精神的に)に暮らす方が良いということか。

 


記事のタイトルを入力してください(必須)

2011年10月05日 | 聖書

コヘレトの言葉「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。           命あるものよ、心せよ。                                                                  悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。
賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」7:3-5

人の死に出会うと、一時でも自分の死を考える。

それにより生き方をもう一度考えるようになる。

「死を記憶せよ」とは、すばらしい言葉であると思う。

悩みは笑いにまさる。顔が曇るにつれて心は安らぐ。」

又悩ことにより、救いの道を見つけ、それにより心が平安になるということか。


人の口から出てくるものは、どこから来る

2011年10月04日 | 聖書

イエスの言葉「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」マタイ福音書12:33-37

実りの秋で、柿、りんごなど色々食べる事があるが、木(心)がよければ実(言葉)が良い。又「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」と言われる。心にもないことを言う場合もあるが、大抵の場合、心にあることが言葉となって出てくる。心イコール言葉である。この言葉(心)によっても「責任を問われる」。責任重大である。

心が清められるよう祈るばかりである。


弱さを誇る

2011年10月03日 | 聖書

パウロの言葉{そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです}2コリント12:7-10

我々には、色々な弱さ(病、侮辱、窮乏、行き詰まり等など)があります。その為、それが取り除かれるように祈ります。しかし、それは「キリスト(神)の力がわたしの内に宿る為で」あると言われてます。

強い時には、神は必要ありません、弱い時にこそ必要であります。そして必要を満たす力が与えられます。自分の弱さを悲観することではなく、それを誇ることもできると思います。

また、その弱さは「思い上がらぬ為である」とも言われてます。


神の誉れと人の誉れ

2011年10月02日 | 聖書

イエスがユダヤ人に言われた言葉「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちのうちには神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」ヨハネ福音書5:41-44

唯一の神を信じるユダヤ人であるのに、神からの誉れは求めようとしないで、人からの誉れを求めていると言われる。それに比較すれば、我々、異邦人が人からの誉れを第一に求める(名誉欲)のは当然のことか。
いや、誰でも人に認めてもらいたいのは、子供をみてもよくわかる。しかし神への愛があれば(神からの誉れがあれば)満足して人からの誉れは必要なくなると思う。神を愛したいものである。

人の誉れは信じられやすいが、いい加減で一時的なもの、しかし神の誉れは、真実で永遠である。