サーカスな日々

サーカスが好きだ。舞台もそうだが、楽屋裏の真剣な喧騒が好きだ。日常もまたサーカスでありその楽屋裏もまことに興味深い。

mini review 10428「ベルサイユの子」★★★★★★☆☆☆☆

2010年01月06日 | 座布団シネマ:は行

社会からはみ出て独り暮らす男と、母親に置き去りにされた見ず知らずの子どもとの交流を描いた人間ドラマ。社会に適応できず、ホームレス仲間とベルサイユ宮殿はずれの森に暮らす主人公を2008年に37歳の若さで他界したギョーム・ドパルデューが演じる。監督は、これが長編デビュー作となるピエール・ショレール。失業問題やホームレス、社会への不適応など現代社会の光と闇を切り取った物語は、第61回カンヌ国際映画祭で高い評価を受けた。[もっと詳しく]

ギョーム・ドパルデューの遺作ともなった作品の「愛」のかたち

ギョーム・ドパルデューのちょっとした表情、たたずまいに、オヤジさんであるジェラール・デパルデューを彷彿とさせるところがある。
ジェラールはもちろん、ジャン・ギャバンの後継者とも呼ばれたフランス最高の役者だといっていい。
偉大なる父親の前で、息子は人に言えぬプレッシャーを持つだろう。
ジェラールも昔は非行少年で刑務所に入ったこともあるらしい。
十代ですでにその演技力は絶賛された父と女優であった母との間に生まれたギョームは、妹であるジェリーも役者であるが、20歳の時に父と共演の形で『めぐり逢う朝』(91年)で、映画デヴューをしている。
95年にバイク事故で入院したのが運のつき、院内感染に見舞われ、手術とリハビリを繰り返したが、03年にはついに片足を切断している。アルコール中毒の時期もあったようだ。
『ベルサイユの子』という作品でも、当然、義足で演技している。



08年制作の『ベルサイユの子』は、そのギョームの遺作のひとつとなった。
その年、急性肺炎で、突然の死となったのだ。享年37歳であった。
ジェラールとギョームはほとんど絶縁関係にあったらしい。
そのあたりの内幕は、ゴシップ雀たちの得意とすることだろうが。
ジェラールは、別にフランスの役者では珍しいことでもなかろうが、3人の女優と結婚、離婚を繰り返し、最近ではあらたにカンボジア系フランス人との間に、子どもをもうけたらしい。
推測だが、そういう行状も、ギョームの反発を招き寄せたのかもしれない。
ギョームの葬儀に駆けつけたジェラールは「星の王子様」の次の一節を、読み上げたということだ。



その夜、私は彼が出発したことに気がつかなかった。
彼は物音ひとつたてずに去っていった。
私がようやく追いついた時、
彼は毅然とした表情で足早に歩いていた。
彼は、私にこう言っただけだった。
”ああ!来てくれたんだ・・・”
彼は私の手を取った。だが、それでもまだ不安げだった。
わかってくれるよね。遠すぎるんだ。
ぼく、とてもこのからだを持っていけないよ。
重すぎるんだもの。

「星の王子様」より

世界遺産にも指定されているパリのベルサイユ宮殿の近くにある森には、ホームレスたちが住み着いている。
5歳の幼いこどもエンゾ(マックス・バセット・ド・マルグレーグ)の手を引いて、夜の街をうろつくニーナ(ジュディッド・シュムラ)は途方に暮れている。
ある夜、森に迷い込んだニーナ母子は、森の中で小屋をつくり、焚き火にあたっているダミアン(ギョーム・ドパルデュー)と出会う。
ダミアンは森に隠棲するナチュラリストのようにもみえるし、疲れ果てたホームレスのようにも見える。
ダミアンとニーナは一夜の愛を交わすが、エンゾを置いてニーナは消える。
ダミアンはエンゾに困惑するが、一心に自分を見つめるエンゾを放り出すことが出来ない。
森の住民たち(ホームレス)もエンゾに癒されている面もあるようだ。
咳がとまらず意識が朦朧とするダミアンのためにエンゾはベルサイユ宮殿に走り、助けを求める。
ダミアンは長年不仲であった父を尋ね、自分の子でもないエンゾを認知し、働き出すのであるが・・・。



フランスには私生児は多く、社会福祉的には、日本などよりずっと進んでいる面が多いようだ。
出生率が先進国では珍しく高いのも、そうした社会インフラに負うところも多いだろう。
けれど、青年の失業率が(移民問題ともからむのだろうが)社会問題になっていることも確かだ。
ダミアンはどちらかといえばドロップアウト組みであり、親への反発、社会システムへの非調和から、労働を拒否しているようなところがある。
一方ニーナは若くして子どもを持ってしまい、どこかで子どもを(児童福祉局)に渡したくないという思いから、あてのない生活を続けているように見える。
ダミアンもニーナも社会の不適合者であり、たぶんこの世の中を呪詛しながら生きている。
けれどエンゾはたぶん生まれてこの方、温かい家庭というものをもったことがなかっただろう。
逆に言えば、羨むべき普通の生活などない。
ただただ、肌寒く不安な夜に、「手を握って・・・」と囁いて、ちゃんと握り返してくれる存在があれば、それでよかった。



前半の映像は、町の中であろうが森の中であろうが、ほとんどが夜、闇の中を彷徨したり、不安な寝床に横たわったりというシーンが続く。
だから、いくら身なりは貧しく、体は汚れていようが、エンゾの笑顔を見ると、観客はほっとする。
結局のところ、ニーナもダミアンも、ただただフラジャイルなエンゾの存在と出会って、自分をこの世界と和解させる、立て直す、自立するという契機を与えられることになる。
本来なら、エンゾを見守る立場でありながら、実はエンゾに見守られているような・・・。
けれど、「自立」するためには、決意や意識の持ちようだけではだめだ。
長い「ひきこもり」の中から、もう一度自分を再構築しなければならない。
エンゾはニーナやダミアンの人間性回復の契機にはなるが、更正そのものは本人の問題である。
ニーナやダミアンは、強制ではなく自らの意思でひきこもりから脱して、そして社会に対する新しい関係を取り結ばなければならない。
そのために、エンゾは、また置いてけぼりをくうことになる。



あんなに人間嫌いのペシミストであったダミアンが、エンゾと戯れながら、「いつか、ママに、冒険したって話してやれ!」と励ます。
エンゾは手離したが、高齢者コミュニティのようなところでケアの技術を身につけ「自立」したニーナは、少年になったエンゾに手紙を出し、ついに再会する事になる。
エンゾは不安で寂しい幼年期を過ごしたかもしれない。
けれど、もしかしたら、ニーナやダミアンのそれよりも、強烈な愛に触れていたかもしれない。
大丈夫、そんな愛を記憶にとどめる子は、ちゃんと育っていくよ。
僕たちは、そんな声を、そっとエンゾにかけてあげたくもなる。




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2 コメント

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弊記事までTB&コメント有難うございました。 (オカピー)
2010-05-25 01:29:33
フランスでは半数くらいが結婚していないので、必然的に私生児が多くなりますが、いくらバックアップ体制が日本と比べ物にならないとは言っても、こうした不幸な子供が多いのでしょうね。
その一方で、

>羨むべき普通の生活などない

というのも事実でしょう。

目の付けどころは良かったですが、作品としては「些か説明不足で観客を置いていく難あり」です。
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オカピーさん (kimion20002000)
2010-05-25 07:28:27
こんにちは。

日本も少子化対策で、モデルとしているのは、ベルギーやフランスの社会保障政策ですけどね。
オアゾを連れたニーナの場合は、国家の制度に組み込まれることに対して、(幼さもありますが)逃避しているところもありますからね。
難しい問題です。
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