【愛知・岡崎市】後鳥羽上皇が皇権回復を図って鎌倉幕府打倒の兵を挙げた承久三年(1221)の「承久の乱」の後、鎌倉前期の武士で三河国守護の足利義氏が檀那となり、貞応ニ年(1223)に本堂建替えなどを支援。 また、泰氏・頼氏・家時・貞氏(足利尊氏の父)の歴代も領や仏具を寄進、足利氏の準菩提寺として瀧山寺は最盛期を迎えた。
室町時代に入り、三代将軍義満の援助によって本堂が造営されたが、戦乱により次第に衰退した。 江戸時代に入り、徳川家康に重んじられた慈眼大師天海僧正の命で住持となった弟子の亮盛上人が、徳川三代将軍家光に見いだされ、寛永十八年(1641)、家光から朱印地412石を得た。 正保三年(1646)、家康公誕生の地の守護である瀧山寺に隣接して瀧山東照宮が設立された。
江戸時代には青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院の六坊があったが、明治初期の神仏分離によって滝山東照宮が独立し、また、殆どの寺領を失い、現在浄蓮院のみが瀧山寺本坊として残っている。
本堂の裏手に日吉神社が鎮座しているはずだが、改築のため工事用テントにすっぽりと覆われていた。 テント脇を通って山中の水体薬師如来に向かう。 参道脇の3つの覆屋に薬師如来など十数体の石仏が鎮座し、向かい側には白地に「水体薬師如来」と書かれた8本ほどの幟がたなびいている。
その直ぐ傍に、柱頭に台輪が乗る朱塗りの稲荷鳥居が立ち、鳥居の中に中腹に鎮座する流造りの稲荷社が見える。 稲荷社に参拝して山中の水体薬師如来に向かう。 まるで血管のように木の根が這った参道を進むと、樹林の中に「水体薬師如来御霊水」の碑が立ち、傍の石祠の中に霊水が湧き出ている。 万病に効きそうな霊水で、しかも柄杓が置かれているので…と思ったが、遠慮した。
隣接する瀧山東照宮を拝観した後、宝物殿がある参道を下っていくと、大きな自然石に「瀧山寺 宝物殿」と刻まれた標石があり、石垣の上の白壁の築地塀に囲まれて宝物殿が建つ。 さらに下ると、本坊への石段の上に山門があり、門前に錫杖と宝珠を持った小坊主のような地蔵尊像が迎えてくれる。
本坊前の参道を挟んで駐車場があり、その先に観音堂が見える。 観音堂は大沼街道に面した高台に建ち、境内には塔身に梵字が刻まれた宝篋印塔や馬頭観音とみられる石仏が佇む。 一段低い所に地蔵堂が建ち、堂内に白い帽子を被り赤い前垂れをした子安地蔵尊がひっそりと鎮座している。
△小棟造檜皮葺の本堂の後方に日吉神社が鎮座
△工事用テントにすっぽり覆われた改築中の日吉神社(日吉山王社)....徳川家康による再建とされる
△日吉神社後方の稲荷社と水体薬師如来への参道に立つ「水体薬師如来」の幟
△水体薬師如来への参道脇の覆屋に鎮座する薬師如来などの石仏群
△円光を配した古舟形光の挙身光を背負った薬師如来立像/二重円光を配した挙身光を背負った薬師如来坐像/双体道祖神か?
△朱塗りの稲荷鳥居の奥に鎮座する稲荷社
△明神鳥居が原型の稲荷鳥居....柱頭に台輪が乗るので台輪鳥居ともいう
△流造銅板葺の稲荷社....祭壇に鎮座する神使の白い狐と社殿との間に小さな明神鳥居がある
△木の根が這った水体薬師如来への狭い参道/山中の樹林の中に湧き出る清水が水体薬師如来
△「水体薬師如来御霊水」の碑が立ち、石祠の中に霊水が湧き出ている
△本坊近くの石垣と白壁の築地塀に囲まれて建つ宝物殿
△入母屋造桟瓦葺の宝物殿....殿前に五重石塔と小坊主像が鎮座/五重石塔の軸部に笹竜胆の紋
△本坊への石段の上に建つ山門
△切妻造桟瓦葺の山門....案内板には簡素で小さく描かれているが意外に立派
△寄棟造桟瓦葺の本坊....唐破風の玄関、前庭には祠が鎮座
△本坊の唐破風玄関.....上の梁上に波の彫刻を配した大瓶束、下の梁上に牡丹と獅子の彫刻/流造風銅板葺の祠
△大沼街道に面した高台に建つ観音堂と左奥に地蔵堂
△石垣の上の高台に鎮座する観音堂(右)と少し低い所に地蔵堂
△露盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺の観音堂....中央間は腰高格子戸、脇間は吊り上げ式の舞良戸のようだ
△観音堂向拝の水引虹梁の上に龍の彫刻
△軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先、中備は脚間に彫刻を施した本蟇股
△観音堂境内に佇む塔身に梵字が刻まれた宝篋印塔/弘化三年(1846)造立の石燈籠/舟形光背石仏は合掌する馬頭観音のように見える
△観音堂境内に建つ切妻造桟瓦葺の地蔵堂/地蔵堂に鎮座する石造りの子安地蔵菩薩立像....赤い鍔付の帽子を被り赤い前掛けをしている
△大沼街道に沿って流れる青木川
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