【神奈川・横須賀市】浦賀湊の入口にあって江戸湾に突き出た燈明崎は、風光に恵まれ、岩場がある美しい白浜がひろがっている。 この地は古くは処刑場であり、また、江戸湾を行き来する船の安全を見守った日本式灯台の「燈明堂」があった。 燈明崎の先端に立つと、眼前に浦賀水道が広がり、大小様々な船がゆっくりと航行している。 霞んでいる対岸は房総丘陵だ。
◆燈明崎に江戸後期造立の3基の石碑がひっそりと佇む。 弘治二年(1556)三月に房州から攻め入った里見氏と小田原北条氏との合戦の戦死者や沖行く船の水難者、そして処刑された罪人らの供養塔。 ちなみに、当時、処刑は海浜で行われたようで、寄せる波が穢れを洗い流してくれるからだとか....合掌。
◆「燈明堂」は、江戸湾を往来する船の増加に伴い、慶安元年(1648)、江戸幕府勘定奉行の命により江戸城築城の残石で構築された。 「燈明堂」の所管は勘定奉行⇒浦賀奉行⇒神奈川府(明治期)と変遷した。 経費は元禄三年(1690)まで江戸幕府が賄っていたが、翌四年からは浦賀の千鰯問屋が負担し、明治二年(1869)に観音崎灯台に任務を譲るまでの約220年間灯し続けた。 鰯を搾った油や菜種油で灯した明かりは房総まで届いたという。 旧「燈明堂」は明治二十年代に焼失したが、平成元年(1989)三月、当時の石垣を活かして江戸末期の姿で復元された。
江戸湾に突き出た岩場がある美しい白浜の風景..対岸は房総丘陵
白帆のヨットが浮かぶ江戸湾(浦賀水道)を見下ろすように建つ「燈明堂」
平成元年(1989)三月に燈明堂跡地に復元された「燈明堂」
この地にあったた日本式灯台の「燈明堂」は慶安元年(1648)に江戸幕府勘定奉行命で構築された
美しい白浜の海浜でひっそりと処刑が行われたようだ..合掌!
地蔵菩薩供養碑..天保十一年(1840)造立で死者を供養する石碑/天保十一年(1840)造立の題目塔..「南無妙宝蓮華経の髭題目が刻
代岬瘞骨志碑..嘉永二年(1849)浦賀奉行浅野長祚の建立..弘治二年(1556)に房州から攻め入った里見氏と小田原北条氏の合戦での戦死者や処刑された罪人等を供養した石碑/燈明崎に佇む石燈籠
燈明堂跡及び周辺地域」の案内板/西浦賀消防署(横須賀市消防団第15分団)のシャッターに描かれた燈明堂