何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

世田谷代官屋敷-(3) (東京)

2024年03月11日 | 史跡探訪-日本編

【東京・世田谷区】寛政六年(1794)に代官に就任した十代目当主の大場弥十郎が書いた「世田谷勤事録」には、世田谷代官の職務が詳細に記されていて、年貢の収納が最重要の職務だが、領内の治安維持も大きな仕事だった。 代官屋敷には罪人捕縛のための「三ツ道具」や被疑者の取調べに使われた「白州」の一部が残っている。白洲の玉砂利は当時のもの。

★園路からは見え難くて気づく人は少ないと思うが、庭園の植栽の中に大きな雪見燈籠が佇んでいる。 主屋に繋がって西側に蔵前と内蔵が建つ。 内蔵は江戸後期の建立で、置屋根の造りで眩しいほどに白い漆喰壁だ。 主屋の西側の園路脇に四基の石碑が建ち並んでいて、造立年が分る二基のうちの一基は大山道と登戸通と彫られた江戸中期の道標、もう一基は明治末期の「山吉講冨士登拝記念碑」。 他の二基はキリーク(阿弥陀如来)の梵字が刻まれた板碑と銘文不明の石碑だ。

△前庭にひっそりと佇む大きな雪見燈籠越しに眺めた主屋

△前庭の植栽を通して眺めた主屋の右から「代官居間」、「切腹の間」、「蔵前」

△主屋に繋がっている蔵前そして置屋根で漆喰壁の内蔵

△蔵前....蔵前出入口傍の外縁脇に蹲踞が置かれている

△文化十二年(1815)に建てられた内蔵/南面の壁の上下にそれぞれ窓があるので二階建て構造だと思う

△内蔵の西面と右側は南面

△屋敷地の一角に佇む道標、記念碑、板碑

△延享三年(1746)造立の道標....正面(左側面)に梵字と大山道、右側面に登戸通....梵字はカーン(不動明王)とみられる/明治三十二年(1899)造立の「山吉講冨士登拝記念碑」....三軒茶屋の冨士講(=山吉講)先達の堀江兼吉が講中の三十三回冨士登拝を記念して建てられた

△案内では板碑とあるので左の石造物も板碑か?....いずれも造立年不明

△頭部が破損し、摩耗が激しく銘文などは不明/板碑の梵字はキリーク(阿弥陀如来)と思う

★主屋の北西側に進むと、中庭に菱型竹垣で囲まれた「白洲跡」があり、木立の中に多くの被疑者や罪人がくぐったとみられる薬医門風の白洲通用門が建つ。 白洲跡に敷かれている玉砂利は当時のものだが、TVドラマ”名奉行 遠山の金さん”にでてくる白洲とは大違いで、敷かれているのはごつごつした少し大きめの砂利なので、筵を敷いてもとても座れるものではないと思うが....。 庭園の東側に井戸と土蔵が建つが、いずれも立ち入り禁止だ。

△内縁がある主屋の西側....左半分は「役所の間」で右半分は「役所次の間」

△中庭に残る「白洲跡」....玉砂利は当時のものとのこと

△切妻造板葺の「白洲通用門」

△白洲通用門は薬医門風の造り....扉は桟唐戸風の造り

△白洲通用門の一軒疎垂木の天井

△庭園の東側に建つ井戸の覆屋

△切妻造鋼板葺(と思う)の井戸の覆屋

△敷地の南東に位置する井戸と土蔵

△切妻造板葺(と思う)の土蔵



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