何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

根来寺-(3) (岩出)

2019年02月21日 | 寺社巡り-和歌山

【和歌山・岩出市】頼瑜僧正の学風は聖憲尊師に受け継がれ「新義教学」として大成し、中世の根来寺は多くの学僧を抱える「学山根来」であった。
最盛期となった室町時代後期(戦国時代)、根来衆とよばれる僧衆(僧兵)1万余を擁する強大な勢力を備えたが、これを危惧した豊臣秀吉が天正十三年(1585)に紀州根来に攻め入り、大塔・大師堂など2~3の堂塔を残して全山を焼き払った。 その後、暫くの間、復興が許されなかったが、江戸時代に入って紀州徳川家の庇護のもと大門・伝法堂・不動堂など主要な伽藍が復興された。 江戸初期、東山天皇(第113代)から、新義真言宗の開祖である覚鑁上人に対して「興教大師」の師号が下賜された。

九社明神から戻り、屋根上に大塔の屋根が見える庫裡の前の棟門をくぐって大塔や大師堂などが建つ境内に向かう。 白壁の築地塀で囲まれた境内の前に無縁墓群があり、五輪塔・板碑型・舟形石仏型などのおびただしい数の古い墓碑が窮屈そうに鎮座している。
境内に入ると直ぐ左手に境内最古で空海を祀る大師堂、ほぼ正面に聳える大塔と呼ばれる大きな多宝塔、そして右奥には身舎に大きな裳腰を設けた大伝法堂が建つ。 大師堂と大塔は室町時代の建立で、豊臣秀吉の焼き討ちを免れた貴重な遺構。
大塔は日本最大の木造多宝塔で、高さ約36メートル、下層は五間四方で一方約15メートルの豪壮な構えだ。 下層内部は古式の造りで円筒状の内陣になっており、内陣の周囲を回りながら秀吉の根来攻めに激しく応戦する僧兵たちの姿に思いを馳せた。 大塔には秀吉軍が放った火縄銃の弾痕がいくつか残っているようだが、失念した。
大伝法堂は根来寺の本堂で、どっしりとした重量感と荘厳さが漂っている。
大塔境内を出て、左手の切石敷の参道を進んで樹林の中に鎮座する奥ノ院に向かう。 静謐な空気が満ちた奥ノ院は興教大師の廟所で、立派な向唐門と格子状の透塀に囲まれ、お椀状に土を盛った覚鑁上人が眠る墳墓が....合掌。
 
大塔・大師堂・大伝法堂が建つ境内への参道入口に建つ切妻造桟瓦葺の棟門....四脚の控柱で支えられ、白壁の袖塀を設けている/大塔へ参道の前半は四半敷のような敷石
 
縁石を設けた参道の奥に大塔と大師堂の屋根が見える/参道脇に立つ文化六年(1809)造立の石燈籠越しに眺めた根本無縁墓群....大塔境内の白壁塀と水子堂との間に鎮座する石造物群

多宝塔に見守られて、五輪塔・板碑型・舟形石仏型などのおびただしい数の古い墓碑が窮屈そうに鎮座

境内入り口から眺めた左から大師堂、大塔(多宝塔)そして大伝法堂

露盤宝珠を乗せた宝形造本瓦葺で三間四方の大師堂(重文)....室町時代明徳二年(1391)建立で弘法大師空海を祀る

大師堂の軒周りは一軒繁垂木,組物は舟肘木で中備無し....周囲に切目縁を巡らし,正面三間はいずれも桟唐戸,側面は二間桟唐戸で一軒は小脇羽目の小壁

大塔の廻縁から眺めた大師堂....豊臣秀吉の紀州征伐の焼き討ちを逃れた境内最古の建造物

日本最大の大塔(木造多宝塔)と右は根来寺の本堂である大伝法堂

本瓦葺の大塔(国宝)....室町時代(戦国時代)天文十六年(1547)の建立....大師堂とともに豊臣秀吉の紀州征伐の焼き討ちを逃れた

高さ約36メートル」、一方は約15メートルの大塔の正式な塔形式は「大毘廬遮那法界体性塔」という
 
初層内部は古式の造りで円筒状の内陣になっている/降棟先に鳥衾を乗せた鬼瓦と四隅軒下に下がる風鐸

下層は五間四方で、正面は中央三間が板唐戸で内側に腰高格子戸と連子欄間、両脇間に連子窓

上層は大きな漆喰亀腹の上に廻縁付き円形塔身....軒廻りは二軒繁垂木、組物は四手先、蛇腹支輪と軒天井がある

下層の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備は間斗束、蛇腹支輪がある

根来寺大塔は日本最大の木造多宝塔で、唯一無二の国宝

入母屋造本瓦葺で六間四間の身舎に八間六間の裳腰を付けた大伝法堂(本堂)....文政十年(1827)の再建

大伝法堂の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手目が尾垂木の二手先で中備は間斗束
 
大棟端に鳥衾を乗せた鬼瓦、拝に蕪懸魚、妻飾は虹梁蟇股敷/裳腰の軒廻りは二軒繁垂木、組物は二手先で中備は間斗、軒支輪と軒天井を設けている

大伝法堂は真言宗の教義と法儀を習得する修行道場で、高さ3メートルを超える本尊金剛界大日如来像、脇侍として金剛薩埵・尊勝仏頂を安置
 
正面は中央二間が引戸の桟唐戸で両脇間三間は舞良戸/周囲に擬宝珠高欄付き切目縁を巡らす

大伝法堂前に回向柱が立ち、手前に大きな石灯籠が佇む....石灯籠は安政二年(1855)の造立
 
奥ノ院への切石敷参道脇に立つ「興教大師 御廟所」の標石/石造り擬宝珠欄干付き反橋越しに眺めた奥ノ院....江戸時代の造営

奥の院...新義真言宗の宗祖で根來寺の開祖の興教大師覚鑁上人の廟所

向唐門と格子状の透かし塀に囲まれた廟所の中に土を盛ったお椀状の墳墓がある
 
立派な向唐門/修理で外された透かし格子からみえる墳墓....覚鑁上人は平安時代康治二年(1143)に山内の円明寺で入滅
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