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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

金蔵寺-(2) (横浜)

2018年01月07日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】江戸時代、徳川将軍家の庇護を受け、徳川幕府から寺領10石7斗の御朱印を拝領し、多くの末寺を擁する本寺格の寺院に。 三代将軍徳川家光が開基した寛永寺(関東天台宗の中心・徳川家の菩提寺)の末寺となり、関東の檀林寺に指定され、末寺五十二ヶ寺を統轄する中本山として栄えた。 慶長八年(1603)に徳川家康・秀忠父子により寄進された梵鐘を有している。

本堂左手の地蔵堂の前を通って本堂左後方に建つ辯天堂に....。 辯天堂は上下屋根に唐破風を設けた重層で、下層は極彩色の彫刻や絵などでけばけばしく装飾されている。 下層の階を上ると、狭い平地に丹塗の明神鳥居を従えた稲荷社と石祠が鎮座。 そこから四段ほどの階段を上り、辯天堂上層の回廊を進んで正面に....堂内を拝観すると本尊の弁財天が安置され、弁財天に寄り添うように打出小槌を持つ大黒天と天邪鬼を踏みつける毘沙門天が鎮座している。
辯天堂から裏山の中腹にある奥之院不動堂に向かう....参道には朱塗りの社に青面金剛庚申塔と日吉山王権現が鎮座、また山裾の岩窟内に奥之院弁財天、更にその先の岩窟内に不動明王像を中心に左右に千手観音像と聖観音像が並んで山麓の本堂を見守るように鎮座している。 奥之院不動堂に安置されている石造不動明王像に合掌して堂宇境内に戻る。
墓所側に建つ観音堂の周りにたくさんの石造物や石仏が佇んでいるが、中でも特に、鎌倉時代と室町時代に造立された古い3基の板碑、そして初めて見る珍しい四方仏型飾手水鉢と読誦塔に興味を引かれた。

本堂左奥に建つ重層の辯天堂..上下層に獅子口を乗せた軒唐破風を設けている

虹梁上下に彩色された龍、鳳凰、飛天などの装飾彫刻が施されているが、白っぽい彫刻は鏝絵のようにみえるが..
 
下層内の壁面と天井に装飾画や装飾彫刻が施されている/辯天堂の上層に擬宝珠高欄を巡らし、開閉式の脇障子が設けられている
 
.露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の辯天堂の上層/上層に祀られている本尊の弁財天、左に大きな袋を背負い打出小槌を持つ大黒天、右に邪鬼(天邪鬼)を踏みつける毘沙門

辯天堂の下層の階を上った狭い平地に鎮座する丹塗の明神鳥居を従えた稲荷社と石祠

奥之院不動堂への参道入り口に鎮座する青面金剛庚申塔と日吉山王権現
  
天保八年(1837)造立の奥之院弁財天/岩窟内に鎮座する弁財天の石祠/岩窟に鎮座する不動堂

左から寛永十九年(1642)造立の舟後光型千手観音像、火焔光背の不動明王像、寛文元年(1661)造立の舟後光型聖観音像
 
本堂裏手の山腹に建つ入母屋造桟瓦葺の奥之院不動堂/磐石座に鎮座する舟後光型不動明王像

本堂前の左手に建つ入母屋造桟瓦葺の観音堂
 
入母屋造桟瓦葺の観音堂/四方仏形の飾手水鉢..挙身光に彫り窪めた中に如来坐像が浮き彫り

観音堂脇の塀際に佇む石造物群

5基の石塔..右端は安永三年(1774)造立の尖頭角柱形「敷石供養塔」
  
2基の大乗妙典六十六部供養塔..右の笠付角柱形は安永九年(1780)、左の平頭角柱形は文化十四年(1817)造立でいずれも日本廻國と刻む/造立年不詳の異形の笠を乗せた宝篋印塔型読誦塔/享保七年(1722)造立の石塔..「法界一切含識」の刻..上に如意宝珠を持つ地蔵尊像が鎮座

阿弥陀の梵字キリークが薬研彫りされた3基の板碑..右は室町時代嘉吉四年(1444)造立、中央は鎌倉時代建武元年(1336)造立、左は鎌倉時代嘉暦元年(1326)造立で三尊阿弥陀仏

墓所への門前にある三界萬霊塔..多くの墓碑が積み上げられている

観音堂の後方に鎮座する7基の宝篋印塔等の石造物群

宝篋印塔の右手に4基の供養塔が立つ..右から2基目は角柱型供養塔で上の蓮華座に与願印と施無畏印の如来立像(多分釈迦像)が鎮座、右の燈籠型供養塔は笠部に梵字、竿部に「地蔵尊」の刻
 
文政五年(1822)造立で唐破風形笠付の「百番供養塔」..西国、秩父、坂東を刻む..右側面に天保十一年(1840)の刻/文化七年(1810)造立で唐破風形笠付の「百番供養塔」..出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を刻む..右側面に文政七年(1824)の刻

入母屋造銅板葺の客殿の玄関か..照り起り屋根のように見える
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金蔵寺-(1) (横浜)

2018年01月04日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】平安時代の貞観年間(859~877)、第56代清和天皇の勅願により、比叡山延暦寺第5世座主で天台宗寺門派の祖・円珍(智証大師)が東国教化の際に創建したと伝える。 母が空海の姪である円珍は、弘仁五年(814)に讃岐国の金蔵郷で生まれた。 円珍は自ら本尊の大聖不動明王像を刻んで御堂に安置し、また比叡山の地主神の日吉社(山王権現)を勧請して守護神とし、寺院を開基した。
創建当時は頭塔23ヶ寺を擁する大寺院で、鎮護国家祈願の勅願寺であり、また修験者の一大安居道場でもあった。 宗旨は天台宗、本尊は智証大師作の大聖不動明王像。 関東三十六不動尊5番札所、武相二十八不動尊8番札所、関東百八地蔵尊霊場85番札所、准秩父三十四観音霊場3番札所そして横浜七福神の寿老人を祀る。

門前に重厚な石燈籠と3基の石碑が立ち、「鎮護国家道場 金蔵寺」と刻まれた寺号標石と「比叡山根本中堂不滅之法燈御分燈奉安」と刻まれた霊場標石が歴史を刻んできた古刹を感じさせてくれる。
山門を通して極彩色に彩られた燈籠が見える。 山門をくぐると境内は厳かな空気に包まれ、正面に本堂、右手に唐破風を設けた屋根の手水舎、左手に観音堂が建つ。
本堂前には、山門から眺めた木造の燈籠が礼盤座のような台座の上に立っているが、極彩色の装飾彫刻が施されていてまるで芸術作品のようだ。 また、「水天堂」と呼ばれる手水舎も同じように、彩色された装飾彫刻がこれでもかと言わんばかりに施されているが、静かに身を清める所にしてはあまりにも絢爛では....と、つい感じてしまった。
山門の右手に鐘楼があるが、防犯の為か、鉄柵でがっちりと囲まれていて近づけない....徳川家康・秀忠父子寄進の貴重な梵鐘が釣り下げられているからだろうが、梵鐘に刻まれた銘文を拝観したかった。

門前に立つ3基の石碑..寺号標石に「鎮護国家道場金蔵寺」の刻、霊場標石に四霊場と「比叡山根本中堂不滅之法燈御分燈奉安」の刻

門前に立つ大きく重厚な石燈籠と七福神の霊場標石
  
天保十二年(1841)造立の重厚な石燈籠/「港北七福神 寿老神」の霊場標石/山門に掲げられた「清林山」の扁額

切妻造桟瓦葺の山門..棟門の内側に瓦屋根を乗せた梁を伸ばして控柱を設けた高麗門形式

山門から眺めた境内..正面に本堂、右手に水天堂、左手に観音堂が建つ

入母屋造桟瓦葺の本堂..正面に1基の木造燈籠が立つ

向拝前に回向柱、常香炉そして両側に石燈籠が立つ
 
紙垂が付いた注連縄が下がる三間の向拝..鰐口と2つの大念珠が下がる..虹梁上の3頭の龍と木鼻の獅子と獏の精緻な彫刻
 
本堂前に回向柱、常香炉、1基の木造燈籠、2基の石燈籠、九重層塔/本堂前左手で瞑想する釈迦如来像..法界定印を結び結跏趺坐で鎮座
 
礼盤座のような台座上に立つ木造燈籠..極彩色の装飾彫刻が施された珍しい形/九重層塔は昭和五十一年(1976)造立、石灯籠は昭和五十四年(1979)造立

本堂前の右手に建つ、前後に唐破風を設けた切妻造銅板葺の「水天堂」

豪華絢爛な水天堂..右手に「水天堂」の石碑
 
極彩色で美しい装飾彫刻が施された「水天堂」..正面の柱の昇降龍など多くの彫刻が施されている
  
手水鉢の龍の水口/左右の高欄柄の台を支える邪鬼/昭和四十四年(1969)造立の「水天堂」の石碑..線刻された水天像は磐座に立ち、右手に剣、左手に羂索を持つ
 
「本堂改修記念碑」と手前に力石                    四拾五貫目(約170kg)の重さの力石
 
切妻造桟瓦葺の鐘楼..梵鐘は徳川家康&秀忠父子の寄進/懸魚は蕪懸魚、虹梁に本蟇股と大瓶束

本堂前左手にある切妻造銅板葺の地蔵堂..「古材使用 駒林の大谷戸の長者柱の一部分」とある
 
絢爛な装飾彫刻などが施された地蔵堂に鎮座する六地蔵尊像
 
貞享五年(1688)造立の六層石塔..台座に五重層石塔と刻まれているので初層は後補..後方に地蔵像が浮き彫り/造立年不明の織部型石燈籠..竿上部にアルファベットを組合せた記号が陰刻、下部に浮き彫り像(地蔵尊か)

地蔵堂前から眺めた本堂左奥に建つ辯天堂       
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心光寺 (三浦)

2017年12月10日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】創建年は不詳だが、江戸時代宝永年間(1704~1711)には白蓮山真光寺と称し、白石町にある一向山長善寺の末寺(飛地境内)となり、その後寺号を廃して長善寺の境外御堂になった。 白蓮山観音堂といわれる。 宗旨は浄土真宗本願寺派で、本尊は平安時代(藤原時代)作とされる聖観世音菩薩立像。 三浦三十三観音霊場の第三十三番札所。

狭い坂道を下っていくと、山門前の石段脇に鎮座する庚申塔などの石仏や石塔が迎えてくれる。
十数段の石の階を上がると、正面の少し奥に民家風の本堂が建つ。 参道の両側に墓所が広がり、枝を張るサルスベリの古木の下を進んで本堂へ。 本堂向拝に半鐘と鰐口が下がるが、これらがないと普通の民家の玄関だ。 鰐口を鳴らして参拝。
墓所の奥に石造りの簡素な地蔵堂があり、ピンクの前垂をした地蔵石仏が鎮座している。
三浦三十三観音霊場で願いが満たされる結願のお寺だが、無住でひっそりとしていてチト寂しい。

門前の石段の両側に庚申塔など十数基の石仏・石塔が鎮座している

石段を上り詰めて眺めた境内..直ぐ両側に墓所が広がり、歴代住持の墓碑と見られる無縫塔数基が迫ってくる
  
正面に民家風の寄棟造桟瓦葺の本堂が建つ/参道脇にサルスベリの古木が枝を延ばしている

切妻屋根の簡素な向拝..鰐口が下がる
 
向拝に下がる鰐口と半鐘..これらがないと民家の玄関のようだ/昼間で雨戸が入り、人気がないので無住の寺のようだ
 
石造り地蔵堂に鎮座する赤い前垂をした舟形光背地蔵尊像
 
昭和二十六年(1951)建立の慰霊碑..諸磯地区の太平洋戦争の戦没者9柱の慰霊のため遺族により建立された

境内に佇む舟後光形石仏の墓碑..享保や元禄などの元号が刻まれた地蔵菩薩と観音菩薩
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光照寺 (三浦)

2017年12月07日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦市】室町時代の永享二年(1430)、修行中に三崎を訪ねた空念和尚を開山として建立。
空念和尚は村民が毒蛇のため苦しんでいるのをを見て、村民と共に草庵を結び、念仏を唱えて厄を払ったのが光照寺の前身とされる。 大本山鎌倉光明寺の末寺で、宗旨は浄土宗、本尊は阿弥陀如来像。 三浦三十三観音霊場の番外。

門前から境内を眺めるとスダジイの巨木に目を奪われる。 幹周りが5メートルほどある樹齢500年以上とされるスダジイだが、まるで本堂を覆い隠すがごとく枝を張り、参道にせりだしている。 スダジイの太い幹の傍に多くの石仏が鎮座し、白い六地蔵尊像が迎えてくれた。
数段の階を上がるとスダジイの幹傍に大きな板碑型庚申塔が立つが、摩滅が激しく、輪郭を巻いた中に刻まれた銘文は全く分からず、下部に浮き彫りされた三猿から庚申塔だと分かる。
本堂の大棟に三つ葉葵の紋があり、また、前庭に置かれた旧本堂の獅子口の傍に三つ葉葵が彫られた瓦が置かれていることから、徳川家との関わりがあったようだ。
門の直ぐ傍の民家の脇の路傍に、庚申塔や六十六部供養塔など17基の石仏が整然と並んでいるが、別途投稿する。

門前から眺めた境内..樹齢500年以上とされる大きなスダジイの老木が参道にせり出している

参道正面に本堂が建ち、左右に墓所が広がっている

参道に鎮座して参詣者を迎える六地蔵尊像
 
六地蔵尊像の後方に鎮座する舟形光背石仏群..宝永二年(1705)、正徳六年(1716)等の元号が刻まれている/六地蔵尊像の真ん中に立つ「満霊塔」
  
スダジイの根元に鎮座する石仏は半跏趺坐の地蔵尊像..光背に宝珠を彫り窪め、上部の地蔵菩薩の種子、頭光を背負う/スダジイは樹齢500年以上といわれ、樹高8m、幹周り約5m..石が根に飲み込まれている/右手の墓所の前にある六字名号塔
 
本堂前の参道脇に佇む地蔵菩薩石像と庚申塔..丸彫りの頭光地蔵尊像、大きな板碑型文字庚申塔(3猿)は風化で刻字などは不明

入母屋造桟瓦葺の本堂..前庭には本堂を引き立てるように白い石燈籠が佇む

本堂の大棟の中央に三つ葉葵とその左右に抱茗荷の紋がある
 
朱塗りの向拝の虹梁上の龍や木鼻の装飾彫刻が素晴らしい/入口に「龍徳山」の扁額が掲げられている
  
抱茗荷紋がついた天水桶越しに眺めた本堂/正面左手の脇間の花頭窓と窓前の縁に下がる半鐘/本堂前庭に置かれた旧本堂の獅子口..胴部に抱茗荷紋付き、台座に三つ葉葵と抱茗荷の紋がある瓦が置かれている
 
墓所内の江戸時代中期(正徳・享保・宝暦など)造立の石仏群

逞しいスダジイの古木は三浦市保護樹木(No.14)に指定されている

門前の直ぐ近くに鎮座する庚申塔などの石仏群
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薬王寺 (鎌倉)

2017年09月12日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】薬王寺はもともとは梅嶺山夜光寺という真言宗の寺院だったが、鎌倉時代の永仁元年(1293)、荒行を終えて療養場所としてこの寺に滞在した日蓮上人の弟子・日像が時の住持と数日間宗教論議・論争を行った末、日蓮宗に改宗した。
寛永年間(1624~1644)、駿河大納言徳川忠長公の妻・松壽院殿の援助で僧日達上人が中興開山し、大乗山薬王寺と改称した。 駿河大納言徳川忠長公は徳川三大将軍家光の弟で、幕命により配流地の高崎で自刃した。
松壽院殿はこの寺に忠長公の供養塔(五重塔)を建て、永久追善菩提のために多額の金子と広大な土地を寄進した。 享保五年(1720)の火災により、三千坪の広大な境内に建つ五重塔や諸堂を焼失した。 その後再興されたが、明治維新の神仏分離令による廃仏稀釈の嵐に遭って荒廃し、無住持時代が50年以上続いた。 大正三年(1914)から第50世と第51世の二代の住持による70年の尽力で復興した。 日蓮宗で、本尊は久遠本師釈迦牟尼仏。

「薬王寺」と刻まれた門柱から境内を眺めるが、徳川家ゆかりの格式高い寺だったというイメージは懐けない。 正面奥に白壁の本堂が建ち、引き戸の脇間の白壁に設けた花頭窓がいい。 本堂前の左右に2基の層塔が立つが、左側の緑色で円形の笠を積み上げた九重層塔はまるで相輪を表すような珍しい形をしている。
境内に入って直ぐ右手に低い石柵で囲まれた駿河大納言徳川忠長公の供養塔が立つが、笠上の露盤部に三葉葵の紋が彫られていて徳川家ゆかりのお寺であることが分かる。
本堂左手の石段脇から上が墓所になっていて、石段を上りつめた正面に岩崖を背にして観音堂が建つ。 観音堂の右手に墓所が広がり、多くの石仏・石造物が鎮座する台座を敷き詰めた大きな「やぐら」、崖の岩壁にくっつくように建てられた熱田稲荷社、徳川家康の孫である蒲生忠知公の妻と娘の墓碑の大きな宝篋印塔がある。 石柵に囲まれた宝篋印塔は二重塔式で高さ約3メートル、相輪をなす請花・反花から笠にかけて題目が、また塔身にはそれぞれ院号と造立年号が刻まれている。 ちなみに、娘の梅嶺院はわずか12歳で他界したとのこと....合掌。
 
門柱から眺めた境内..薬王寺は岩崖と樹林を背にしてひっそりとある

入母屋造桟瓦葺の本堂..享保十二年(1727)建立で近年の再建か

向拝の屋根に獅子と花の留蓋瓦が乗っている..本堂中央に鎮座する日蓮聖人座像は徳川第11代将軍家斎の命により造立
  
本堂前の左に立つ緑色の九重層塔..9つの円形の笠なので相輪のようだ/正面扉は寺紋が入ったガラスの引き戸..「大乗山」の扁額が掲げられている/本堂前の右に立つ十三重層塔..初層軸部に「宗祖日蓮大聖人 七百遠忌報恩」の刻

入母屋造桟瓦葺の鐘楼
 
鐘楼に下がる梵鐘
 
山門を入った直ぐ右手にある徳川三代将軍家光公の弟駿河大納言徳川忠長公の供養塔..笠上の露盤部に三葉葵の紋..右の板碑は不詳/供養塔には、建立した松孝院殿自身の法号の他、夫忠長公・両親・兄弟の法号などが刻まれている

墓所の岩崖を背にして建つ露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の観音堂..元は釈迦堂だったが観音菩薩像を安置してから観音堂に改称
 
周囲に切目縁を巡らし、正面脇間に長めの花頭窓/向拝の虹梁に大きな蟇股を乗せ、鰐口が下がる
 
観音堂には観音菩薩像が祀られている..以前の釈迦如来像も安置されていると思うが/観音堂の右後方の岩崖にある大きな「やぐら」

「久遠廟」の石柱が立つ「やぐら」..台座の上に釈迦如来坐像を中心に多くの墓碑(石仏・石造物など)が整然と並ぶ
  
合掌する釈迦如来坐像/舟型観音石仏、板碑型、箱型、宝篋印塔などの墓碑群/「やぐら」入口左右に合掌する舟形光背四菩薩像が鎮座..摩滅が激しいが十一面観音像とみられる

観音堂の右手の墓所の崖裾に、笠を乗せた歴代住持の墓碑が並ぶ

四国松山城主蒲生忠知公(徳川家康の孫)の妻松壽院(左)と娘梅嶺院の墓碑..見事な相輪を乗せた高さ約3mの多層式宝篋印塔で、相輪(請花反花)から笠にかけて題目が刻
 
左は元禄十三年(1700)造立で塔身に「松壽院殿」、右は正保二年(1645)造立で塔身に「梅嶺院殿」と刻/一段下の乳母の宝篋印塔越しに眺めた妻と娘の宝篋印塔..松壽院は899歳、梅嶺院は僅か12歳で他界
 
墓碑の宝篋印塔..搭身側面に髭題目が刻まれている/崖の岩壁に建てられ前垂注連が掲げられた熱田大明神を祀る熱田稲荷社
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海蔵寺 (鎌倉)

2017年09月08日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長五年(1253)、鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって藤原仲能(道知禅師)が七堂伽藍の真言宗の寺を創建したが、鎌倉幕府滅亡時に焼失した。
室町時代の応永元年(1394)、第2代鎌倉公方(関東管領)足利氏満の命で、執事(鎌倉公方補佐)の上杉氏定が寺跡地に再興。 心昭空外(源翁禅師)を開山に迎えて菩提寺とした。 臨済宗建長寺派で、本尊は胎内仏を納めた薬師如来坐像。 薬師如来坐像は、啼薬師あるいは児護薬師と呼ばれ、胸のあたりに扉があり、胎内仏は60年に一度だけ開扉される。

閑静な住宅地を進むと、つきあたりの石段の上に山門がある。 門前の道脇に鎌倉十井のひとつ「底脱ノ井」があり、傍に井の由来を示す千代能の歌碑が立つ。
「扇谷山」の扁額が掲げられた山門をくぐると、手入れが行き届いた境内が広がり、直ぐ右に鐘楼、正面奥に本堂、右手に身舎に裳腰を設けた茅葺の庫裡、左手に胎内仏を納めた薬師如来坐像を祀る仏殿(薬師堂)が建つ。 紅葉に飾られた鐘楼の傍にはカメラや携帯を持った多くの方がいて、鮮やかな紅色に染まった紅葉を撮っていた。
約370年前に建てられた小棟造りの仏殿に....脇間に花頭窓がある禅宗様式のお堂で、簡素だが趣がある。 仏殿の桟唐戸が大きく開けられ、外気が直接仏像に触れる状態になっていて、しかも撮影が自由なのには驚いた。 貴重な薬師如来坐像等を撮らせて頂いたが、開放的な拝観に驚くと同時に、仏像を身近に感じさせてくれるお寺の配慮に感謝した。
本堂左脇に多くの石塔が安置された4つのやぐらがあり、さらに本堂背後の緩い傾斜地には、山肌から湧き出る清水が流れ込む池を中心とした庭園が広がっている。 庭園は非公開のため本堂脇のやぐら前から拝観。
境内左手奥にあるやぐらの中に、鎌倉時代に掘られた「十六ノ井」と呼ばれる井戸があり、今でも清水が湧いている。 「十六ノ井」にある縦横4つ計16の穴は納骨のためのものとの説もあり、やぐらの岩壁の仏龕に鎮座する聖観音菩薩像がひっそりと見守っている。

落ち着いた雰囲気が漂い、趣きがある門前
  
門前に石塔が立ち鎌倉十井のひとつ「底脱ノ井」がある/「底脱ノ井」の由来を示す中世の武将安達泰盛の娘・千代能の歌碑が立つ/2段の石垣に挟まれたような石段の上に飾り気のない山門が建つ

切妻造銅板葺の山門は四脚門..「扇谷山」の額が掲げられている

山門から眺めた境内..正面奥に本堂、左に仏殿(薬師堂)、右に庫裡が建つ
  
境内の右手に鐘楼が建つ/紅葉に飾られた鐘楼..多くの参詣者が紅葉を撮っていた

入母屋造銅板葺の鐘楼..方柱傍に頭貫を支える支柱を設けている
 
鐘楼に下がる梵鐘

小棟造りの寄棟造銅板葺の本堂..本堂は「龍護殿」と呼ばれる
 
本堂正面や向拝は古民家風で質素な造りだ/開山・心昭空外坐像を祀る内陣が衾で仕切られ、欄間に「龍護殿」の額が掲げられている
 
本堂内の衝立越しに背後の庭園と茶室とみられる建物を眺める/仏殿前から眺めた本堂と庫裡

仏殿(薬師堂)..安永六年(1777)に浄智寺の仏殿が移築されたもの

小棟造りの寄棟造桟瓦葺の仏殿..慶安二年(1649)建立と推定されている

一軒で三間四方の仏殿..正面は桟唐戸と脇間に花頭窓、詰組(平三斗)など禅宗様式

仏殿(薬師堂)の中央に鎮座する薬師三尊像..左右に6体の十二神将像、前で椅子に座るのは閻魔王像と奪衣婆像(と思う)
 
二重円光の古舟形光背を背負う薬師如来像..胸のあたりに扉があり中に胎内仏を安置..60年に1度だけ開扉される/仏殿前の植木の中に佇む石造十一面観音菩薩像

堂内右手に安置されている仏像は、像容から伽藍神、十王像などとみられる

寄棟造茅葺で妻入の庫裏..天明五年(1785)建立で、東南面の銅板葺屋根の裳腰は後補で増築されたもの

鎌倉の寺院の庫裏建築を代表するもので歴史的価値が高い
 
本堂左手に4つのやぐらあり、宝篋印塔、五輪塔、無縫塔などの墓碑が安置されている/蓮華座に鎮座する宝髻を結んだ聖観音菩薩坐像
 
明神鳥居が立つやぐらは「雨宝殿」と呼ばれ、体に蛇が巻き付いた姿の宇賀神像を安置/やぐら内の墓碑群(宝篋印塔、五輪塔など)

本堂の背後に広がる手入れが行き届いた池泉庭園

心字池には山肌から湧き出る清水が注ぎ込んでいる..庭を見守るように五重層塔が立つ
 
鎌倉時代に掘られた「十六ノ井」..今も清水が湧く井戸だが、本来は納骨のための穴との説がある/「納骨穴位」の穴が縦横四つ、計十六規則正しく並ぶ..正面岩壁の仏龕に鎮座する聖観音菩薩像そして弘法大師像

庫裏側入口に建つ切妻造桟瓦葺の簡素な通用門..門から鐘楼と庫裡が見える

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浄光明寺 (鎌倉)

2017年09月04日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の建長三年(1251)、鎌倉幕府六代執権の北条長時が真阿(真聖国師)を開山として迎えて創建した。
元弘三年(1333)に後醍醐天皇(第96代)の勅願所となる一方、浄土(諸行本願義)・真言・天台・禅の四宗兼学の学問道場としての基礎を築いた。 後醍醐天皇の朝廷軍に勝利し、建武三年(1336)に京都に武家政権の室町幕府を築いた足利尊氏と弟直義の帰依が厚く、尊氏が寺領を直義が仏舎利をそれぞれ寄進した。 真言宗泉涌寺派で、本尊の阿弥陀三尊像は鎌倉後期正安元年(1299)の作。 鎌倉三十三観音霊場第25番札所、鎌倉地蔵尊霊場 第16番・第17番札所等。

住宅街の道角に寺号標石が立ち、その先の参道の奥に紅葉が引き立てているような山門がある。 参道手前の築地塀は5本の筋が入った筋塀だ。
山門をくぐると深緑を背にして静寂な境内が広がり、正面には本堂と間違えそうな大きな客殿、右手の手入れされた庭の中に鐘楼と不動堂、そして左手奥に庫裡がある。
真っ赤な紅葉に飾られた客殿右脇の参道を進み、客殿裏手の階を上って一段高くなった阿弥陀堂と収蔵庫がある境内に....しかし、2本の槇の巨木が聳える境内は通行止めだ。 中世寺院の景観がよく保存されている境内には、大きく広げた槇の枝に隠れるように本堂の阿弥陀堂がひっそりと建っている。 阿弥陀堂は三間四方の禅宗様建築で、正面は連子付き桟唐戸で脇間に花頭窓がある。
客殿右手の庭園内に切目縁を巡らせた宝形造りの不動堂と鐘楼があるが、訪問時、ちょうど二人の庭師の方が鐘楼前の見事な枝振りの松の手入れをされていた。
 
門前参道の角に立つ寺号標石/築地塀は5本の筋が入った筋塀..山門はもと英勝寺の惣門を移築したもの

切妻造本瓦葺の山門(四脚門だったか)..英勝寺創建の寛永年間の作と推定されている

山門から眺めた境内..正面に客殿、左手に庫裡、右手に不動堂と鐘楼が建つ..敷石参道奥の一段高い境内に阿弥陀堂と収蔵庫がある

周囲に切目縁を巡らした本堂のような大きな唐様建築の客殿

入母屋造桟瓦葺の客殿
 
向拝の軒先からが鎖樋が下がるが天水桶はない
 
客殿前の覆屋に鎮座する楊貴妃観音像/客殿左手に建つ庫裡は切妻造桟瓦葺で妻入り

不動堂の庭に立つ十三重層塔..左の石段の上の境内に阿弥陀堂と収蔵庫が建つ

不動堂がある庭の美しい紅葉

光を透かした鮮やかな紅葉越しに眺めた客殿

石の基壇の上に建つ寄棟造銅板葺の本堂の阿弥陀堂..寛文八年(1669)建立の唐様建築で、源頼朝創建の永福寺からの移設とされる
 
阿弥陀堂前に聳える創建時に植えられたものとされる槇の巨木(推定樹齢約750年)/中世の古材を用いた唐様建築で三間四方の阿弥陀堂..正面に上部に連子がある桟唐戸、脇間に花頭窓を配す

阿弥陀堂の左手の収蔵庫に本尊阿弥陀三尊像を安置..堂内の須弥壇は応仁二年(1468)作

阿弥陀堂境内から眺めた客殿

庭園内から眺めた不動堂と奥に客殿..不動堂には不動明王坐像が鎮座

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の不動堂..延享二年 (1745)建立(推)で、天明三年(1783)再建

客殿境内の右手の庭園内に建つ不動堂..正面は桟唐戸と脇間は引き戸式の舞良戸

昭和六十一年(1986)建立の切妻造本瓦葺の鐘楼
 
鐘楼と梵鐘はいずれも近年のもの
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英勝寺 (鎌倉)

2017年08月30日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】江戸時代初期の寛永十三年(1636)、英勝院が徳川三大将軍家光から祖先太田道灌の屋敷跡をうけ、水戸家初代の息女・玉峯清因を開山に迎えて創建した。
英勝院は太田道灌から数えて四代目の康資の娘お勝の方で、徳川家康に仕え(側室)、家康の死後出家し英勝院と号した。 創建以来一度も火災などに遭っていないので、堂宇(仏殿・祠堂・唐門・鐘楼など)は創建当時のままの姿を今に伝えている。 現在鎌倉に残されているただひとつの尼寺。 宗派は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。

訪問した約9年前はちょうど山門が復興工事中だった。
筋塀の築地塀に設けられた通用口から境内に入り、入山受付を済ませた後、仏殿に向かう。 仏殿は江戸初期の建立で、中備は詰組、身舎に裳腰を設けた五間四方に桟唐戸と花頭窓を配した禅宗様建築で、風格があり荘厳さが漂う。
仏殿前庭の直ぐ左に祠堂への唐門があり、軒下の牡丹の透かし彫りが見事だ。 唐門をくぐると覆屋が建ち、ガラス越しに中を覗くと、その中に極彩色に彩られた祠堂が鎮座している。 英勝院を祀るこの祠堂は、かの有名な水戸黄門が寄進したものとのことで感慨深いものを感じた。
仏殿前庭の先に山門の礎盤が残る基壇があり、ちょうど復興工事が始まって間もなくだった。 道路に面した惣門の傍に組高欄を巡らせた袴腰付き鐘楼があるが、この袴腰付き鐘楼は鎌倉で唯一のものだそうで意外だった。
境内に幾つかある石造物の中に葵巴の紋が刻まれた手水鉢があり、徳川家とゆかりのある寺であることを主張しているかのようだった。

総門が開くのは英勝院の命日のみで、通常は5本の筋が入った白い築地塀がある通用門を使う

小棟造りの寄棟造本瓦葺風銅板葺で裳腰を設けた本堂の仏殿..寛永十三年(1636)建立

屋根よりも傾斜が緩い裳腰部は五間四方で禅宗様式が見られる仏殿..側面と後面は一間の桟唐戸と脇間四間にそれぞれに花頭窓

仏殿の正面は三間が桟唐戸、脇間に花頭窓..中備は詰組で、組物傍に「寶珠殿」の扁額が掲げられられている
 
簡素な美しさを見せる仏殿の正面と側面..殿内に徳川家寄進の運慶作の阿弥陀如来三尊立像と法然大師像を安置

仏殿前の寛永二十一年(1644)造立の2基の石燈籠が立つ
  
鬼板と鳥衾、軒丸瓦に葵の紋が入っている/唐門側の石燈籠/仏殿前庭から眺めた唐門..側面に唐破風がある平唐門様式

切妻造本瓦葺の唐門(重文)..寛永二十年(1643)頃の建立..奥の覆屋に祠堂(御霊夜)がある
 
仏殿左手に立つ祠堂の唐門の両面に見事な牡丹の花の透かし彫りがある/祠堂境内の唐門傍に佇む石燈籠と球状の手水鉢
  
覆屋の中の祠堂に寛永十九年(1642)に没した英勝院を祀る/極彩色に彩られた祠堂は水戸黄門こと徳川光圀の寄進
 
祠堂裏に2基の笠付墓碑があり、岩壁のやぐらに2基の小さな墓碑と3体の石仏が鎮座
 
祠堂前から眺めた仏殿/12個の礎盤が残る山門の跡地(2008年当時は復興計画中)..徳川光圀の兄(讃岐高松藩主・松平頼重)による建立
 
切妻造本瓦葺風堂板葺の総門..英勝院の命日以外は閉門だが、山門復興作業中のため開けられている..中の建物に山門の古材が保管されている/総門の傍に建つ鐘楼
 
入母屋造本瓦風銅板葺の袴腰付鐘楼..袴腰付鐘楼は鎌倉で唯一のもの/和様の組高欄を巡らしている
 
境内奥にある竹林の入口の門..竹林は代々の姫君の姫御殿跡らしい/竹林には遊歩道が整備

入母屋造桟瓦葺の書院..左側に白藤の藤棚がある
 
境内に幾つかの石造物が点在..楕円の手水鉢に葵巴の紋が刻まれている/初層軸部の正面に仏像が掘られている五重層塔
  
側面を2区に分けて格狭間を設けた手水鉢/笠石(火輪)の四方に種子が刻まれた五輪塔/後補とみられる地輪以外に種子が刻まれた五輪塔

英勝寺前の道路脇に立てかけられた「山門復興事業」の看板..復元される山門は三間一戸の入母屋造本瓦風銅板葺の二重屋根門だと分かる
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壽福寺 (鎌倉)

2017年08月27日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・鎌倉市】鎌倉時代の正治二年(1200)、源頼朝が没した翌年に妻の北条政子が明庵栄西禅師を開山に招いて創建した。 正式には亀谷山壽福金剛禅寺という。
寺がある一帯は源頼朝の父・義朝の屋敷跡とされる。 頼朝は鎌倉入りしたさいこの地に館(幕府)を建てようとしたが、亡き父の御堂があったことや間の用地としては狭すぎるため断念し、大蔵に幕府を開いたとされる。 壽福寺は当初、天台・真言・禅の三宗兼学で、禅宗の専門道場ではなかった。
比叡山で天台密教を学んだ栄西は、二度入宋して禅を学び、帰国後、博多に聖福寺、京都に建仁寺そして鎌倉に壽福寺を建立して禅をひろげた。 臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山の第三位、本尊は宝冠釈迦如来像。

落ち着いた雰囲気が漂う丹塗の総門の前に立つと、門を通して樹木に覆われた参道の奥に中門が見える。 総門から真っ直ぐに続く石畳の参道は、静謐な空気が満ちている。
堂宇境内の中門に着く....仏殿のある境内は非公開なので、中門から風格が漂う禅宗様式の仏殿を拝観する。 仏殿前に聳える柏槇の古木が仏殿を隠すかのように枝を広げている。
仏殿裏の墓域に北条実朝と政子のものといわれる五輪塔を安置したやぐらがあるとのことで向かった。 正規の参道は落石の危険があるとのことで迂回して探したが、北条実朝の五輪塔は分からずだった。 政子の五輪塔は方形に削り掘られたやぐらの中にひっそりと立っている。

落ち着いた雰囲気の総門(外門)の前に立つ「壽福金剛禅寺」の寺号標石と珍しい形の石塔

切妻造銅板葺の総門は袖塀のある四脚門..「亀谷山」の扁額が掲げられている
 
五輪塔等のパーツを積み重ねたとものとみられる石塔/総門から中門に至る参道の敷石は美しく鎌倉随一といわれる

樹林に覆われた鬱蒼とした参道は幽玄な雰囲気が漂う

切妻造桟瓦葺の中門(四脚門)

小さな袖塀がある中門に「寿福金剛禅寺」の扁額が掲げられている
 
塀は苔生した石垣の上に竹を立て並べた竹塀

中門を通して眺めた境内..正面は本堂の仏殿で、柏槇の古木が聳える前庭(境内)は非公開

小棟造りの寄棟造桟瓦葺の仏殿..本尊の宝冠釈迦如来像を安置する
 
質素な禅宗様建築の本堂..正面は三間の桟唐戸と脇間に花頭窓

本堂右手に建つ庫裡

竹塀傍の乱石積の上に立つ切妻造桟瓦葺の鐘楼
 
頭貫を支える補強として四隅の主柱に各2本の支柱がある
 
墓域にある高貴な方か住持の墓碑とみられる五輪塔/塔身(水輪)に戒名が刻まれた珍しい五輪塔

本堂裏の墓域にある「実朝・政子之墓」の案内板

やぐらの中に北条政子(源頼朝の妻)の墓の五輪塔
 
北条政子の五輪塔             幾つかのやぐらには数基の小さな五輪塔が安置されている
 
やぐらに様々な形の墓石や石仏が安置されている

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遊行寺-(3) (藤沢)

2017年08月25日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】安土桃山時代の天正十九年(1591)、32代遊行上人他阿普光が常陸国の佐竹義宣に招かれ、水戸に水戸藤沢道場を建立して時宗の本拠とした。 普光は一蓮寺の天順を清浄光寺貫首とし、天順は江戸時代慶長十二年(1607)に藤沢に清浄光寺を再興した。
寛永八年(1631)、江戸幕府寺社奉行から諸宗本山へ出された命により、清浄光寺から「時宗藤沢遊行寺末寺帳」が提出され、幕府から時宗274寺の総本山と認められた。 現在、東海道随一と謳われる木造本堂をはじめとした伽藍や樹齢700年と推定される大銀杏などを有する修行道場となっている。

本堂左の万葉園との間の参道を進み、裏山に鎮座する宇賀神社に着く。 宇賀弁財天を祀る社殿は小ぶりながら優美な建築で、軒唐破風の向拝天井に荒々しい豪快な龍、そして踏ん張って唐破風の桁を支える邪鬼の姿があり、興味を引いた。 宇賀神社から参道を戻ると右手に緑に覆われた万葉園があり、園内に太鼓堂、石燈籠、五重層塔、歌碑、墓碑などがひっそりと点在している。
壁に花頭窓をあしらった銅板葺塀を巡らせた中に、御番方境内への中雀門と黒門とが並んでいる。 獅子口と破風板の金色の菊の御紋がやけに目立つ中雀門は、荘厳で風格があり、鳳凰などの精緻な装飾彫刻群が素晴らしい。 また、大瓶束の下端で虹梁を噛む鬼面の結綿が面白い。 黒門をくぐって御番方の境内へ....石燈籠1基が立つ庭園の奥に、小さな軒唐破風の向拝がある御番方が建ち、その左に社務所、右手には大きな放生池がある。
御番方右の渡り廊下に「菖蒲園入口」の立札がある入口から、菖蒲園に向かう。 案内表記に従って御番方後方にある大書院と小書院とを結ぶ渡り廊下に....廊下に置かれた腰掛に座って菖蒲園を眺めると、こじんまりした菖蒲園に黄と紫の菖蒲が咲き誇っていた。

宇賀神社..明治十三年(1880)の類焼後に再建された

神明鳥居を従え宇賀弁財天を祀る宇賀神社..宇賀弁財天は徳川氏の祖とされる有親の守り本尊の伝

入母屋造銅板葺で妻入りの宇賀神社..向拝に軒唐破風を設けている
 
向拝の装飾彫刻群..向拝天井に荒々しい豪快な龍の彫刻/唐破風の棟木を支える力神

宇賀神社の背後に涌く清水、その前に琵琶を弾く弁才天坐像が鎮座..上に名号(と思う)が陰刻された石柱が立つ

放生池越しに眺めた緑に覆われた万葉園..太鼓堂、石燈籠、五重層塔、歌碑、墓碑などが点在する
  
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の太鼓堂/2基の石燈籠/四脚の基礎の上に立つ五重層塔
 
放生池に架かる反った石橋      万葉園にある南部右馬茂時之墓

御番方境内への中雀門と黒門..左右には連子の花頭窓をあしらった壁の銅板葺透かし塀を巡らす
 
冠木門式の黒門/境内最古の木造建築の中雀門の前に蘇鉄と右手に「三宝の松」が聳える

妻入りで正面と背面に唐破風がある向唐門の中雀門

安政六年(1859)建立で風格のある中雀門(重文)..獅子口と破風板に菊の御紋がある

中雀門の精緻で素晴らしい鳳凰など鳥の彫刻群..大瓶束の下端に虹梁を噛む鬼面の結綿

中雀門側から眺めた御番方境内..正面が御番方、左に社務所そして僧堂が続く

寛政元年(1793)造立の石燈籠越しに眺めた御番方

入母屋造本瓦風銅板葺の御番方..大きな向拝は獅子口を乗せた入母屋造妻入りで、小さな軒唐破風を設けている
 
向拝の虹梁上に見事な装飾彫刻群がある/渡り廊下にある菖蒲園への入り口

御番方後方の渡り廊下..右手に菖蒲園、左奥に小さな枯山水の庭がある

こじんまりとした菖蒲園に咲き誇る黄と紫の菖蒲..左の建物は小書院
 
小書院前の池泉庭園..青もみじが美しい

渡り廊下の左手にある小さな枯山水の庭..傍に立つ五重層塔と石燈籠

大書院..入口廊下に「御行在所 明治天皇、皇后陛下、東宮殿下」の表示

入母屋造本瓦葺の遊行寺宝物館
  
遊行寺宝物館               明治天皇御膳水の井戸
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遊行寺-(2) (藤沢)

2017年08月22日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】室町時代の応永年間(1394~1428)の2度の火災に遭って堂宇が焼失したが、その都度再興された。 戦国時代の永正十年(1513)の兵火(伊勢宗瑞(北条早雲)と三浦道寸・太田資康との戦い)で全山を焼失。 その際、本尊阿弥陀如来坐像は、遊行21代他阿知蓮上人が滞在していた駿河長善寺に移されて難を逃れ、七年後の永正十七年(1520)、24代遊行上人他阿不外によって甲斐一蓮寺に移された。 その後、25代遊行上人他阿仏天が本尊を一蓮寺から敦賀井川の新善光寺に移した。

「藤沢敵御方供養塔」から小栗判官の墓がある遊行寺塔頭の長生院への参道を進む。 参道の脇に、江戸初期から中期にかけて造立された六字名号やや三界萬霊塔などの石柱群、逆修六地蔵供養塔、五輪塔、阿弥陀如来坐像等の石仏そして輪郭を巻き家紋付の大きな3基の駒型墓碑など様々な石造物があり、石造物好きにはたまらない参道だ。
小高い山の中腹に建つ遊行寺塔頭の長生院に着くと、門前脇で合掌する智恵地蔵菩薩像に迎えられる。 本堂の直ぐ脇を通って背後に進むと木々に覆われた庭園があり、その中に木柵で囲まれて11基の小さな五輪塔が一列に並んでいる....小栗城落城後に毒殺された14代城主の小栗孫五郎平密重と家臣十勇士の墓だ。 近くには小栗判事の愛人だったとされる照手姫の墓の宝篋印塔や照手姫建立の3躰の厄除地蔵尊像、名馬「鬼鹿毛」の墓などがある。
長生院から参道を一気に下り、遊行寺本堂の前を通って鐘楼に向かう。 室町時代に鋳造された梵鐘がさがる鐘楼....その直ぐ傍に江戸初期造立の4基の墓碑が佇む。
鐘楼から裏山の中腹に鎮座する宇賀神社への参道を進むと、右手の石段の上に本堂と渡り廊下で繋がり大きな裳腰を付けた回向堂があり、墓所を見渡すように建っている。 墓所奥の山裾に歴代上人の墓所があり、簡素な高麗門と石塀に囲まれた樹林の中に多くの無縫塔が本堂を向いて立ち並んでいる....合掌。
 
小栗判官墓所がある遊行寺塔頭の長生院への参道/参道脇に本堂を向いて立つ六字名号や三界萬霊塔等の8基の石柱..江戸時代寛永十九年(1642)~寛政九年(1797)の造立

酒井忠重逆修六地蔵供養塔..酒井長門守忠重が万治三年(1660)に逆修のため建立
 
安政三年(1856)造立の供養塔..上に円光を背負う地蔵菩薩坐像が鎮座/寛文六年(1666)造立の重厚な酒井忠重五輪塔..各輪に種子が刻まれている

五輪塔越しにながめた壮大な本堂
 
地蔵堂の背後に鎮座する石仏群/慈悲深く穏やかなお顔の阿弥陀如来坐像

地蔵堂の後方の参道に佇む大きな3基の墓碑

輪郭を巻き、家紋らしきものが彫られた立派な駒型墓碑..左は2名の墓で寛永元年(1624)造立で寛文九年(1669)を追刻、中央は万治三年(1660)、右は延宝八年(1680)造立
 
遊行寺塔頭の長生院の遠景..本堂の屋根は入母屋造りと宝形造りを合体した造り/門柱脇で合掌する智恵地蔵菩薩坐像

「小栗堂」の扁額が掲げられた入母屋造(後方は宝形造)銅板葺で妻入りの本堂

本堂の背後にある小栗14代城主小栗判事公(小栗孫五郎平密重)と家臣十勇士の墓碑

小栗判事公と十勇士の墓の宝篋印塔が整然と鎮座
  
中央が小栗判事公、左右各5基が十勇士の宝篋印塔..小栗判事公の墓碑は基礎と塔身に輪郭を巻き、基礎を二区としているのは室町時代の形式、また相輪ではなく請花と宝珠を乗せている..十勇士のは大きさが異なり塔身が球形、基礎を二区に分けて輪郭を巻く

照手姫之墓の宝篋印塔..球状の塔身は五輪塔の水輪か?両側に舟形光背観音菩薩像(左は貞享五年(1688)造立)
  
照手姫建立の3躰の厄除地蔵尊像/名馬「鬼鹿毛」之墓..種子の下に馬頭観世音菩薩と刻まれている/万治三年(1660)造立の石燈籠..中台とか火袋が欠落したものか

鐘楼傍の参道から眺めた本堂

切妻造銅板葺の鐘楼..右上の建物は本堂
  
鐘楼に下がる室町時代延文元年(1356)鋳造の清浄光寺銅鐘/梵鐘は総高167cm、口径92cm/鐘楼傍に佇む墓碑

鐘楼基壇の傍に佇む江戸時代初期造立の4基の墓碑
  
「圓意居士之墓」と刻まれ、自然石で造られた墓碑..造立年号不明だが江戸期のものと推/寛文三年(1663)造立の尖頭角柱形墓碑..中央に六字名号が刻/相輪を失った2基の宝篋印塔墓碑..右は承応元年(1652)、左は明歴二年(1656)の造立

本堂と回廊で繋がって墓所に建つ回向堂
 
墓所への石段の上に建つ回向堂は露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺で大きな裳腰を設けている
 
銅板葺の高麗門と石塀に囲まれた歴代上人の墓所..蓮華座に立つ無縫塔が立ち並ぶ
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遊行寺-(1) (藤沢)

2017年08月19日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・藤沢市】鎌倉時代の正中二年(1325)、俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭だった俣野氏の一族の俣野五郎景平が開基で、景平の弟の遊行4代他阿呑海上人が開山となって創建された。
呑海上人は、時宗総本山であった当麻道場(無量光寺)の3代智得の入寂後に入山する予定であったが、呑海遊行中に条高時の命で当麻の僧真光が住持に....そのため、廃寺となった藤沢の極楽寺を清浄光院として再興したのが開山とされる。 その後、清浄光院を清浄光寺に改称した。
清浄光寺が正式な寺号だが、遊行上人の寺ということから「遊行寺」と呼ばれている。 時宗総本山で、本尊は木造阿弥陀如来坐像で平安後期作とされる。

古刹を感じさせる雰囲気が漂う門前に着く....立派な青銅製燈籠を従えた黒い惣門に「清浄光寺」の札が掛かり、大きな台座に「時宗総本山 遊行寺」の寺号標石が立つ。 惣門をくぐると、緑のトンネルの中央が石畳になっている緩い「いろは坂」が延び、石畳の参道を進むと左右に塔頭がある。
「いろは坂」を上り詰めると急に視界が開け、緑に囲まれた堂宇境内が広がっている。 直ぐ正面には約700年前からお寺を見守ってきた銀杏の巨木が聳え、大きく枝を広げている。 銀杏の幹の周りに置かれたベンチで一息ついているとリスが現れ、直ぐ傍まで近づいてきて出迎えてくれた。
手水舎から本堂へ向かう途中のこんもりした植木の中に遊行するお姿の一遍上人銅像が佇むが、壮大な本堂に目を奪われていると見過ごしてしまいそうだ。 本堂は昭和の再建で古くないが、周囲に丹色の擬宝珠高欄を巡らした堂々たる構えの建物だ。
一遍上人像の右奥の木立の中に、創建時に敷地と大殿堂を寄進した地頭・俣野五郎景平公を大権現として祀る社殿が鎮座。 また、境内隅の駐車場傍の木立の下には、上杉禅秀の乱で戦死した敵と味方とを供養した「藤沢敵御方供養塔」など3基の供養塔がひっそりと立っている。

惣門前に立つ大きな寺号標石と2基の青銅製燈籠..門左右に小さな袖塀と石垣上に築地塀が伸びる

笠木に寺紋が入った冠木門の黒い惣門は「黒門」と呼ばれる..門柱に「清浄光寺」の木札が下がる
 
青銅製燈籠..銘文から天保十三年(1842)造立..高さ約1.8m(石製台座含む総高3.9m)/惣門から眺めた四十八の大石段の「いろは坂」..「四十八段」とも呼ばれる(48は阿弥陀如来の本願の数)

「いろは坂」を上り詰めた所に立つ寺紋入りの太い門柱

広大な境内の中央に聳える銀杏の巨木..推定樹齢は約650~700年
 
注連縄が張られた大銀杏の垂乳根越しに眺めた本堂/大銀杏の幹の根元で遊んでいたリス..耳が短く丸いので台湾リスかな

正面の門柱から眺めた本堂..右手の木立の中に手水舎がある
 
切妻造桟瓦葺の手水舎と蓮華形の手水鉢/龍の水口で腹から水が出ている..手水鉢の台部に「明治百年記念 遊行七十一世他4阿隆宝上人御代」の銘

昭和十二年(1937)再建の入母屋造銅板葺の本堂

本堂には本尊木造阿弥陀如来坐像を祀る..像高52.5cmで平安時代後期作とされる市内屈指の古仏
 
本堂前の庭の木立の中に立つ板碑形六字名号塔/時宗の開祖・一遍上人が遊行する姿の銅像
 
三間の広い向拝..扉は桟唐戸、周囲に朱塗りの擬宝珠高欄を設けた切目縁を巡らす

向拝の虹梁や木鼻そして欄間の装飾彫刻が素晴らしい..扁額の「登霊臺」は徳川治寶筆
 
装飾彫刻が施された海老虹梁..連子付きの桟唐戸/本堂須弥壇に鎮座する阿弥陀如来坐像..平安時代後期作と伝える

本堂の妻飾りは複雑な造りだが二重虹梁大瓶束式(だと思う)
 
露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の御堂に置かれた常香炉/常香炉に寺紋が入っている

本柱と向拝柱とを繋ぐ見事な海老虹梁の本堂の縁から眺めた地蔵堂

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の地蔵堂..日限地蔵尊像を安置..大正十二年(1923)の関東大震災で倒壊後、平成二十六年に再建

俣野大権現..遊行寺創建の呑海上人の実兄で、広大な敷地と大殿堂を寄進した地頭俣野五郎景平公を大権現として祀っている
 
切妻造銅板葺の俣野大権現の社殿          俣野大権現境内に立つ石燈籠

木立の下に佇む左から「藤沢敵御方供養塔」(角柱型石塔)、「戦没者供養塔」、「畜霊供養塔」の各搭
 
室町時代応永二十五年(1418)造立の「藤沢敵御方供養塔」..上杉禅秀の乱で戦死した敵と味方を供養..総高約150cm/同時期に死んだ家畜(軍馬など)の供養塔の「畜霊供養塔」
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専念寺 (横浜)

2017年08月15日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】江戸初期の慶長六年(1601)、新羽村の村民良太郎の先祖清太郎を開基、耕公(慶長十七年寂)を開山として創建されたとされるが、開基・開山の人物像については不詳。 宗派は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。 旧小机領三十三所子歳観音霊場16番札所。

百番供養塔と六字名号塔が立つ入口から真っ直ぐに延びる参道を進むと、門前に佇む数体の石仏に迎らえれる。 山門をくぐると正面に客殿(と思う)、右手に庫裡、客殿左奥の階の上に本堂がある。 階の下に地蔵堂があり、赤い前垂をした六地蔵尊像が鎮座している。
本堂への石の階には踊り場が設けられ、階の左右は背の低い木々が植えられた庭で、その中にひっそりと咲いている紫陽花は段上の本堂を引き立てているかのようだ。 白い石燈籠が佇む本堂は質素な造りで、正面のほぼ全面がガラス張りの引き戸になっている。 向拝の虹梁に透かし彫りの龍の彫刻があり、優しい目をしているが迫力のある龍が御堂を守護している。
本堂左手の境内に約35年前建立の観音堂が本堂を向いて建つ。 正面に擬宝珠高欄付きの切目縁を設け、向拝に静かに鰐口が下がる。
 
参道と入り口に立つ2基の石塔..左は文政六年(1823)造立の六字名号塔/右は安永四年(1775)造立とみられる百番供養塔..正面上に名号、下に坂東三十三所、西國三十三所、秩父三十四所の観世音霊場が刻まれている

寺号標石が立つ門前に寺を守るように石造物が佇む

切妻造本瓦風銅板葺の山門
 
山門は四脚門で銅板葺袖塀を設けている/合掌する石仏越しに眺めた山門

門前に鎮座する5基の石造物....右端は明治十六年(1883)造立で円光を背負う駒形地蔵石仏、左端は文化十四年(1817)造立で山伏角柱型の百番供養塔
  
享保十五年(1730)造立の供養塔..上部には蓮華座に鎮座する半肉彫りの観世音菩薩像、「小机領三十三所観世音第十六番」と刻まれている/天保十一年(1840)造立の「馬頭観世音」/元文五年(1740)造立の駒形青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)
 
山門から眺めた手水舎、奥の石段上に本堂、正面の建物は客殿(と思う)/切妻造銅板葺の手水舎

入母屋造桟瓦葺の客殿(と思う)..大きな玄関には裳腰が設けられている

正面の石段の上に本堂が、左手の参道の上に観音堂が建つ
 
切妻造銅板葺の地蔵堂に赤い前掛けをして鎮座する六地蔵尊像/地蔵堂の基台に「昭和五十三年(1978)堂宇建立寄進」の表記

踊り場を設けた階の上に建つ本堂..踊り場の左右と傾斜地は緑の庭になっている

踊り場から見上げた簡素な本堂..紫陽花が本堂を引き立てているようだ

入母屋造桟瓦葺の本堂..正面と側面の一部に擬宝珠高欄付きの縁を設けている
 
向拝前にある蓮形の天水桶に軒から鎖樋が下がる/本堂の扉の上に掲げられた「専念寺」の扁額..龍や木鼻の宮彫り

本堂前から眺めた観音堂

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の観音堂..昭和五十八年(1983)建立
 
鰐口が下がる向拝..正面だけに擬宝珠高欄付き切目縁を設けている/観音堂の前に観音堂建立記念碑が立つ
 
客殿(と思う)の右手に建つ庫裡                      境内に立つ「忠魂碑」
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西方寺 (横浜)

2017年08月11日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】平安末期の建久五年(1190)、醍醐三宝院座主・奈良東大寺の別当の勝賢僧正を開山として鎌倉の笹目ヶ谷に「補陀洛山安養院西方寺」として創建された。 その後、武将北条重時が真言律宗の僧忍性(嘉暦三年(1328)忍性菩薩の号を勅許)を鎌倉に招き、鎌倉時代文永四年(1267)に極楽寺を創建するにあたり、極楽寺の一山の中に移された。
極楽寺は広大な大伽藍の寺院だったが戦禍や天災で多くの堂宇を失い、室町時代に入ると大きく縮小され、明応四年(1495)、西方寺はこの新羽の地に移転された。 西方寺がこの地に移って来る前、この地には観音菩薩像が祀られ観音信仰として衆生の崇敬を受けていた。 真言宗で、本尊は阿弥陀如来坐像で平安初期作とされる。

参道入口に3基の石柱が立ち、その先には中央に石畳を敷いた芝生の参道が山門へと伸びている。
奥の石の階の上に茅葺の山門が建ち、深緑を背に本堂の茅葺屋根と重なって見える様は趣があり、古刹を強く感じさせる。 手入れが行き届いた石畳と芝生の参道を歩くのは実に心地よい。
精緻な装飾彫刻が施されている山門....見事な宮彫りに感服しながら山門をくぐると、眼前に緑の絨毯を敷き詰めたような鮮やかな芝生が広がり、静謐な空気が満ちている。 正面には小棟造りの茅葺屋根の本堂が鎮座しているが、均整がとれた格調高い雅びな姿の御堂だ。 前面が全て舞良戸で一見古民家風だが、堂前に立つ回向柱と1基の石燈籠が御堂であることを教えてくれる。
境内右手の一段高い平地に、「大悲閣」の扁額が掲げられた観音堂、石造りの経蔵、朱塗りの鳥居と稲荷大明神の幟が立つ稲荷社、そして茅葺の鐘楼があるが、鐘楼は江戸初期建立でどっしりとした重量感を漂わせている。 深い樹林を背にした茅葺の堂宇がある境内は長閑な佇まいで、山寺の風情を感じさせる。

参道入口に勾欄付石橋らしきものがあり、3基の石柱が立つ
  
「恵比寿大神鎮座」(港北七福人第1番)の標石/天明三年(1783)造立の百番供養塔..阿弥陀三尊の梵字の下に「西國・秩父・坂東為二世安楽也」の刻/文化七年(1810)造立の「秩父・坂東・西國・四国巡拝供養塔」

古色蒼然たる佇まいの参道..芝生の中央に石畳、門近くに石の階が続く
 
茅葺屋根の山門と本堂の茅葺屋根とが重なり、古刹の趣を漂わせている

切妻造茅葺の山門..江戸末期の弘化年間(1844~1848)建立
 
山門の精緻な装飾彫刻に目を奪われる..虹梁上に龍や鳳凰、木鼻の像と獅子、懸魚そして絵様の宮彫り

どっしりした量感を感じさせる山門..本瓦で葺いた木造の袖塀に小さな通用口が設けられている

山門から眺めた本堂は趣があり格調高い..堂前に回向柱と1基の石燈籠が立つ

小棟造りで寄棟造茅葺の本堂..享保六年(1721)建立
 
石燈籠越しに眺めた本堂..簡素な向拝、周囲に切目縁を巡らし、正面八間は全て舞良戸

本堂には平安後期作とされる本尊阿弥陀如来坐像を祀る

本堂後方の庭園..庭園の奥に七重石塔が立つ

本堂前は一面、鮮やかな緑の絨毯を敷いたような美しい芝生だ!
 
境内右手の一段高い平地に観音堂、鐘楼、経蔵そして稲荷神社が鎮座/切妻造銅板葺の手水舎
 
狭い石段の上の境内に建つ観音堂/露盤宝珠を乗せた三間四方で宝形造銅板葺の観音堂..江戸時代に境内の竹藪から現在地に移転され、昭和に再建

観音堂に安置されている十一面観音像は平安末期作で、西方寺が移転してくる前からこの地に祀られていた
  
観音堂に観世音菩薩を安置した仏堂を示す「大悲閣」の扁額が掲げられている/観音堂境内に建つ経蔵(と思う)と稲荷大明神を祀る稲荷神社

入母屋造茅葺の鐘楼..宝永五年(1708)建立とされる
 
昭和五十五年(1975)鋳造の梵鐘..当時の梵鐘は戦争中に供出

入母屋造銅板葺で妻入りの客殿
 
本堂左奥に建つ庫裡..入母屋造桟瓦葺の屋根が縦に連なったような造り/本堂前庭の木立の中に佇む十三重石塔..初層軸部に四方仏が半肉彫り

墓所への参道から眺めた本堂..左の山門横の庭に石造物、右に俳壇の記念碑が立つ
 
「みすま俳壇十周年記念碑」..奥の建物は茅葺の鐘楼/山門横の庭に鎮座する五輪塔と宝篋印塔群..極楽寺時代のものだろうか
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本法寺 (横浜)

2017年08月07日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】戦国時代の天文八年(1539)、池上本門寺九世東眼院日純聖人が開山となって綱島に建てられたのが始まり。 安土桃山時代の天正年間(1573~1592)、小机城家老の一人鈴木丹後守が、綱島から小机村字堂之脇へ移転させて長秀山本法寺と改称した。
江戸初期の慶安元年(1648)、江戸幕府から寺領5石の御朱印状を拝領したとされる。 度重なる鶴見川の氾濫を避けるため、文政二年(1819)に現在地に移転した。 日蓮宗で、本尊は一塔両尊。

雲松院の左手にある急峻な狭い階を息を切らして上ると小机小学校の裏手に出る。 小学校脇の道を進み、さらに住宅地の急な坂道を下っていくと門前に着く。 大きいが簡素な山門だと思ったらそれは通用門で、少し北側の木立の中に正門の鐘楼門が建つ。 境内の周りは、切り出した巨石を無造作に乱積みして石垣風にしたような造りになっている。 鬱蒼と繁る木々の中に建つ鐘楼門をくぐると、深い樹林に囲まれて堂宇が建ち、明るい境内は静寂につつまれている。
本堂前の参道の右手に「石造龍吐手水鉢」と称される珍しい手水鉢が置かれている。 実は、この寺を参拝しようと思ったのはこの手水鉢の存在だった。 「石造龍吐手水鉢」は鉢に2頭の龍を絡ませた彫刻が施されたもので、水面から顔を出した龍と鉢の縁で頭をもたげた龍とが睨み合っている。 そして最も驚きと感銘を受けたのは、この手水撥がなんと一石から彫り出されているということだ。 まさに一木造りの仏像のようで、彫り出されたその見事な石彫技術にしばし見惚れてしまった。

巨石が乱積みされた門前の石垣(と思う)..木々に覆われた石段参道の奥に鐘楼門が建つ

入母屋造銅板葺の鐘楼門
  
擬宝珠高欄を設けた上層に元文二年(1737)鋳造の梵鐘が下がる/鐘楼門前に佇む2基の髭題目塔(造立年を失念)

鐘楼門から眺めた境内..正面に本堂、左手に祖師堂が建つ

深緑の木々に囲まれ、明るいが静寂に包まれている境内

小棟造りの寄棟造銅板葺の本堂
 
本堂の近景..向拝には龍など精緻な宮彫り装飾彫刻が施されている/本堂に擬宝珠高欄を巡らす
 
本堂前の新しい石燈籠は昭和六十三年(1988)造立/本堂と祖師堂が渡り廊下で結ばれている

渡り廊下をくぐった先の木立の中にある歴代住持墓所
 
本堂前に佇む石造物..右は万延元年(1860)造立で題目が刻まれた「無縁尊霊供養塔」、法界塔の背後に三界萬霊塔、子供を抱く水子地蔵尊像は平成作/元禄十年(1697)造立で題目が刻まれた「法界塔」

前庭に佇む異形の九重石塔..球状の初層軸部に仏像が半肉彫りされている

露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の祖師堂

祖師堂には宗祖日蓮聖人坐像を安置
 
切目縁を巡らした祖師堂..側面に裳腰を設けている/祖師堂前にある切妻造銅板葺の手水舎

明治三十五年(1902)造立の石造龍吐手水鉢..一つの石から龍と鉢とを彫り出した見事な一石彫成だ!
 
2頭の龍を鉢に絡ませた彫刻が施された手水鉢..水面から顔を出した龍とへりで頭をもたげた龍とが睨み合っている

意匠性にすぐれ伝統的石彫技術を誇る近代石造物の優作とされる
 
本堂右手の現代的な建物は客殿か                   前庭に佇む石燈籠

前庭にひっそりと立つ四基の石碑..句碑、詩碑そして2つの石塚

庫裏の奥は斜面状の庭になっていて、一面にツツジが植えられている

庫裏側の境内入り口に建つ大きな門は通用門とのこと

切妻造銅板葺の重厚な通用門は四脚門
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